日本の社会制度はわけのわからないモンスター
2012-04-08
社会福祉の制度策定に貧困者の声が入っていない。
障害者保護の制度策定に障害者が入っていない。
労働者保護の制度策定にも実際の底辺労働者が入っていない。
介護保険制度も同様で、年金制度も実際の保険料を払う勤労者が入っていない。
そんな制度策定を戦前から続けてきたために、日本の各種社会制度は当事者には非常に使いにくく、わけのわからないモンスターになっている。
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「日本のセーフティーネットはスカスカ」 2/8 BLOGOSから
現代社会の問題点を改めて提示する新感覚のインタビューシリーズ「SYNODOS×BLOGOS 若者のための『現代社会入門』」。第2回は、著書「困ってるひと」がベストセラーとなった作家、大野更紗さんにご登場いただきました。
大野さんは、24歳の時に突然、免疫疾患系の難病にかかりました。しかし、著書の中では難病という生死に関わる事態を、ユーモアを交えて「困る」と表現。その上で、自らの闘病の経験を基に日本の社会保障制度の問題点を指摘し、大きな話題となっています。現在も闘病中でありながら、精力的に障害者運動の当事者や社会保障関連の取材を行っているという大野さんに話を聞きました。(取材・執筆:田野幸伸、永田正行【BLOGOS編集部】)
わけのわからない日本の社会制度は“モンスター”
―ご著書の中では社会保障の手続きの難解さを「モンスター」と表現されていますが、健康な状態で日常生活を送っていると、この表現の実態は理解できないと思います。ですので、具体的に教えていただけますでしょうか?
大野更紗氏(以下、大野氏):「社会保障」と言っても非常に範囲は広いですし、分野も多岐に渡りますので、なかなか全体がこうとは言いにくいです。その前提の上でお話しますが、そもそも日本のいわゆる「健常者」として暮らしていたら、お役所の窓口というのは非常に縁遠い存在だと思います。
わたしは2008年9月に発病したのですが、それまでは大病を患ったことも入院したこともありませんでした。病気や障害とはまったく無縁の生活を送っていたのです。ただ、わたしはそれまでミャンマー難民の研究者を目指して、フィールドワークなどをやっていました。
こうした経験から、移民や難民の方に関わる部分ですけど、ある程度日本社会の矛盾に関して「理解している側」に入っているつもりでした。
ところが、自分が実際に難病という"くじ"をひいて、その当事者になってみたら、じつは今までは、自分は"逃げられる"ところに居たということがはっきりとわかったんです。
「モンスター」と表現しているのは、「何がどうなっているかわからない」からなんです。
制度の構造や仕組みが理解できれば「モンスターだ」なんて誰も思わない。「何がどうなっているのか」が、まったくわからない。だから「モンスター」と表現したのです。
具体例をあげると、原因がわからず治療方法が確立されていない、「難病」と呼ばれる疾患にかかったとします。
「難病」だけでも、複雑ですよ。病院にかかって、診断をつけてもらうまでが、まず大変です。なにせ病名だけでも、厚生労働省の見解では、数百~数千あると言われています。
そのうち、「診断基準が一応確立し、かつ難治度、重症度が高く患者数が比較的少ないため、公費負担の方法をとらないと原因の究明、治療方法の開発等に困難をきたすおそれのある疾患」(ちなみにこのあたりはお役所言葉なのでざっくりわかってもらえばいいです)に指定されている56疾患については、医療費の保険診療ぶんの自己負担額、その一部について助成を受けられる制度があります。
「難病医療費等助成制度」という制度、通称「特定疾患」ですね。
ところが、この制度を利用するためだけでも、毎年更新が必要です。
その度に大量の書類をそろえなければならない。そうした書類の収集、作成も自分でやらなければならない。
自分の体が動かない状態、役所まで出向けない状態で、延々とお役所の窓口ジプシーみたいなことをしなければならない。
この制度をひとつ利用するだけでも、「困ってるひと」には大変なことです。そのほかにもさまざまな制度がありますが、一つひとつ自分が何を使える可能性があるのかを調べるだけでも、書類の山と格闘しなければならない。
自分がそういう状況に陥って、「ここまで大変な状況なのに、どうしてこれまで誰も何も言わなかったのだろう」と非常に不思議に思いました。
そこで、よくよく考えてみると、「ここまで大変」だからこそ、実際に当事者になってしまうと「生きているだけで精一杯」で、物事を整理するとか、発信するとか、助けを求めるといったことができなくなってしまうんです。
それが日本の社会制度の現状がモンスターたる由縁かなと思います。
―社会制度を利用しようという気持ちが萎えてしまうぐらい「わけのわからない」ものだということでしょうか。
大野氏:日本の既存の障害者制度というのは、世界的に見ても非常に特殊な制度で、障害の種別を基本的に身体、精神、知的という3つに分けて手帳を発行するものになっています。
人間の状態を制度に当てはめていくシステムだといってよい。
日本にいると、こうした障害者制度が普通だと思ってしまうのですが、このような手帳制度は先進諸国の中でも非常に稀です。
日本だけだと思います。とにかく枠をつくって、現実をそれに当てはめていこうというイメージです。
難病患者の人たちというのは、わたしを見ていただければわかるとおり、見た目でその辛さや、障害の度合いを判断することはむずかしいですよね。
こうした「見えにくい障害」は、現行制度の中では、判定の過程で障害を軽く見積もられがちなんです。そういうシステムになっている。3つの分類にきちんと収まらないために、いわゆる「制度の谷間」といわれる部分に落ちてしまうのです。
―なぜ利用者目線で制度が構築されていないのでしょうか。
大野氏:日本では、お役所も生活者も、パブリックに社会の問題を解決するという行為に全然慣れていませんね。
社会制度というのは、完璧な、それこそコンビニみたいにバッチリ用意されているもので、「窓口に行けば何でも用意されている」と思い込んでいる部分があるのではないでしょうか。
けれど、実際はそうではありません。お役所も制度を使う人がいなければ、運用する前例がつくれないため、経験やノウハウが蓄積されないですよね。
使う側も電話をかけて「前例がないので」と一旦断られてしまうと、それであきらめてしまう。
お役所が悪い、政府が悪いというのは簡単ですが、お役所が慣れていないということは、市民も慣れていないということです。
役所や制度で問題を解決するということは、理屈で合理的に解決することですが、そういう行為に日本社会は慣れていない。
歴史的な文脈というのは、大事です。現状、結果として誰にとっても使いにくい制度になってしまっているのだけれど、ではどうしてそうなったのか。根源をたどっていかないと、解決策は見えてこない。これは、わたし自身だって、自分が難病患者という立場になってはじめてわかったことですけどね。
それにそもそも、日本の人は、社会保障制度について知る機会も少ない。
いわゆる「標準的な家庭」に生まれ育ったならば、日本の社会保障制度がどのように成り立っているかを学ぶことはほとんどありません。
「生活保護の申請は、どの法律に基づいていて、どのような状況に陥ったら申請する権利が発生するのか」とか「障害者福祉制度は、どのような理念の下に成り立っているのか」、「年金制度はどう設計されているのか」ということを学校で習うことはない。
パブリックな制度によって社会問題を解決するという手段を比較的多用するアメリカや欧州では、中学や高校の段階でそういった基礎的なリテラシーを学びます。
これは難病患者の問題に限りませんよね。誰だって生きていれば、普通にいろんなことが起こる。失業した場合やDV被害を受けた場合に、どのような対応法、法律があるのか。
以前、DV被害者の支援をしている方にインタビューをしながら、はっとしたことがあって。アメリカからDV問題の研究者が、その施設の視察にきたとき、「日本でせっかくDV防止法ができたのに、その周知が低くて機能してないなんて信じられない。アメリカだったら、『DV防止法ができました!DVを受けたときの相談機関はここ!』って電車の中刷りとかバスの広告とか、とにかくそのへんに貼りまくるよ」と言っていたそうです。
アメリカという国も大きくて多様ですから、一般化することはできないんだけれど。でも、印象的でした。
現代日本のセーフティーネットは“スカスカ”
―パブリックに対する意識が、なぜそれほどまでに低いのでしょうか。
大野氏:高度成長期からバブル期の日本というのは、基本的に「なんとなくイケイケドンドン」だったわけです。
いろんな偶然が重なって、お金がたくさんあった。わたしはその頃生まれていませんので(笑)、どういう感覚だったのかは実際はわかりませんけれども。ともかく、パブリックな手段で社会問題を解決しなくても、細かい部分で不備はあったけれど、マクロではおおむね何とかなってしまった。
そうしたなかで、人口変動が進み少子高齢化になると、さまざまな問題が露呈することは識者も指摘していたし、行政も把握してはいたのですが。
これまでの日本は、おもに「家族」と「企業」というインフォーマルな領域に社会問題の解決を委ねてきたわけですね。
「家族」が引き受けてきた福祉の負荷というのは、とても大きい。介護が必要になったらお嫁さんやお母さんがインフォーマルにその負担を引き受ける。子どもが生まれたらお母さんがお世話する。
そこにはひとつの家族モデル、お父さんが「新卒一括用・年功序列・終身雇用・正社員」のサラリーマンとして働きに出て、お母さんが家事や育児をし、子どもがいるというモデルがあったわけですが、この「典型核家族」のモデルが現実で崩壊しつつある。
もうひとつの柱であった「企業」による福祉も瓦解が始まって久しい。
たとえば湯浅誠さんらの「年越し派遣村」のように、リーマンショック後は非正規雇用の問題がマスメディアでも注目されるようになりました。
2010年の非正規労働者の割合は34.3%、働いている人の3人に1人は非正規雇用です。さらに男女別でみると、女性の労働者の53.8%が非正規。
日本型終身雇用のモデルはすでに崩れている。
つまり、日本が社会問題の解決を図る上で前提にしてきたインフォーマルな手段、「家族」と「企業」という2つの柱が崩れてしまった。
社会問題の解決手段イコール福祉だとすると、福祉をインフォーマルにこの2つに預けてきてしまった。そもそもパブリックを利用することに慣れていないし、また意識も低かったわけです。
しかし、インフォーマルな柱が崩れた現在、わたしたちはいよいよ、パブリックな手段で社会問題を解決しなくてはやっていかれない、というフェイズに突入しているのだと思います
―しかし、現在の日本においては、「財政的にお金がない」状態で制度の再設計をやらなければならない。「ゼロサム」的な状況の中でできると思いますか。
大野氏:というかやるしかないでしょう! 可能性は結構感じています。
論壇的な話をすると、いろんな分野、とくに経済論壇の人たちとコミュニケーションを重ねていくことはとても大事なことだと思います。
これまでの「困ってるひと」たちは、経済成長を主張する経済学者を「ネオリベだ」「効率性の悪魔だ」みたいなイメージで論じがちでした。わたしはもともと大学でミクロ経済学入門の授業をちょっとだけかじっていたというのもありますが、いわゆる「経済学的思考」というのが、「ネオリベ」だとか「金の亡者だ」とかいうイメージとはまったく違う思考方法だということはわかる。
飯田先生が以前、言っていたのですが、たとえ低成長だとしても、成長をあきらめてはいけない。かつてのような特殊な高度経済成長は見込めないとしても、とにかく成長をあきらめることをしない。
成長をあきらめるということは、「困ってるひと」をさらに窮地に立たせる要因にもなります。
再分配の制度設計を考えることと、成長をあきらめない方法を考えることは、矛盾はしない。
むしろ、お金を増やす方法を考えてくれる経済学者とは、協力していかなければならないということを強調しておきたいと思います。
「ゼロサム」的な状況と言われましたが、医療や社会福祉・保険について細かい制度設計の勉強をすればするほど、やはりパイの切り分けに終始するとお互い苦しくなってしまうとわかります。
それは当たり前で、自分の取り分を増やそうという心理に社会全体がなってしまうからです。そうなると弱者同士が対立させられる構造にもちこまれやすい。
そういう社会は非常に閉塞感に満ちていると思うし、それこそ心理的にも物理的にも経済的にも選択肢はどんどん狭まってしまう。悪循環ですね。
最近、いわゆる「生きづらさ」ということが叫ばれています。こうした「生きづらさ」というぼんやりとした"あいまいなポエム"なものを細かく合理的に解体していくことが現在の自分のミッションだと思っています。
自殺者が3万人を超えるという状況が何年もつづいていますが、こうした閉塞感を打開するためにも「生きづらさ」の中身を具体的に解体したいという思いがあります。
―「生きづらさ」を実存の問題ではなく、社会制度の問題として捉えていくべきということですか?
大野氏:起き上がるのもしんどい難病患者となっても、フィールドワーカーの癖が抜けないんですよね。今もフィールドワークに行っています。
たとえば先日、婦人保護施設というところにお邪魔させていただきました。婦人保護施設というのは日本社会の傷ついた女性たちが最後に行き着くところ、と言えるかもしれない。
この施設の法的根拠は売春防止法なんですが、DV防止法ができて以来、DVの被害を受けた女性が一時的なシェルターとして利用する機能も担っています。
こうした施設などで、貧困の最底辺に陥ってしまう人たちの話を丹念に聞くと、その要因は非常に複雑でたくさんあるんです。
たとえば軽度の知的障害や精神疾患、あるいは親が貧困・低学歴であるとか、本当にケースによって多様なんです。また、そこに暴力の問題が絡んでくる場合もある。
婦人保護施設に逃げてきた一人の傷ついた女性を「可哀想」だと感じて、「この人を助けたい」と思ったときに、実際には、助けられない自分に直面しました。
つまり、要因があまりに多様すぎて、「貧困」という言葉では片づけられない。その言葉の裏には多くの社会的、経済的要因がある。その一つひとつを、まるでパズルをうめるようにして丁寧に解決していかなければならない。
今の日本社会は、セーフティーネットがスカスカなんです。
いわゆる「普通」の状態から一歩踏み外すと、一気にスコーンと貧困に落ちてしまう。このネットの網の目を細かくより直すためには理屈と理論と細かい分析が必要です。
グルグルポンの一発解決策は、はっきり言ってありません。ですので、時間もかかるし、地道ですし、大変なことです。
しかし、やらなくてはならない。経済成長で全体のパイの大きさを何とかして大きくしようと努力する人たちがいて、かつわたしたち側というか、制度や社会保障とか「困ってるひと」の問題について考える側は緻密なパズルを組み合わせていく。
それぞれ使う知識や"頭の筋肉"は全然違いますが、最終的にアウトカムとして目指しているのは「より生活しやすい」「より生きやすい」社会だと思います。方法は違うけど目指しているものは同じなんです。
誰も生きにくい社会なんて望んでいない。目標を共有することが大事です。そういう意味で、SYNODOSみたいな、異種混合のプラットフォームがあるといいですよね。
エスカレーターもノンステップバスも先人たちの闘いの功績
―財源は無限ではありませんから、社会保障と国の経済のバランスは非常に難しい問題だと思いますが。
大野氏:よく「最大多数の最大幸福!」などと言われますが。こういう論壇でよく使われるような言葉って、ほんとにみんながベンサムとかミルとかの本を読んで使っているのでしょうか(笑)。
ああいう難しい本、ほんとに読んでるんでしょうか。茶化したいわけではありません。
抽象的な一般概念というのは力を持ちますから、安易に使えば、それなりの代償を払わなければならなくなる。
ともかく、この社会で可視化されていない問題は、まだまだたくさんあると思います。
日本社会にとっての「制度」との距離感の問題というのは、介護保険が端的な例になっていると思います。
介護保険は2000年にスタートし、まだ12年しか経っていない非常に若い制度です。これは、いわゆる有識者と呼ばれる人たちが設計をした、上からつくった制度とも言える。しかし、これが今おおいに揺らいでいる。
日本人にとっての社会制度は、介護保険に対する態度、つまり「サービス」という感覚に近い。なんとなくお上が決めてくれるんだ、というものです。
「どこまで助ければいいか」「どういう基準にすればいいか」を遠いところにいるエライ誰かが決めてくれるんだと。
しかし、本来の社会保障というのはおそらくそういうかたちでは成立しない。
当事者意識不在のパブリックな制度というのは、長つづきしないと思います。
介護保険制度については、「目的がなんなのか」を、設計する人、現場の人、利用する人、みんながわけがわからなくなってしまっている。
つまり、耐久性のある制度をつくっていくためには、社会で合意を取るというプロセスは非常に重要になるのです。たとえ手間がかかったとしても、「納得する」「目的を共有する」こと。コミュニケーションが全然足りてない。
今は経済状況が厳しいですから、何ごとも反射のように「財源が!」「予算が!」という話になりがちですが。コミュニケーションのプロセスをすっ飛ばして、短視眼的にその場しのぎばっかりして、また崩壊して、またつくり直す。
それじゃあみんな摩耗して疲れきってしまう。なにより、膨大なコストがかかります。
―多くの人は自分が「困る」という事態を想定していないという問題もあります。
大野氏:人間は親を選べませんから、そもそも生まれた瞬間から不平等とか不均等というのはスタートしている。
それを宿命だとか宿業だとするのは、何もしないことと、ほぼ同意義ではないでしょうか。
社会保障制度とか福祉を考えるということはその宿命、宿業に抗うということでもある。
多くの人は「自分だけは落ちない」とはもう思っていないでしょう。
そうじゃなかったら、わたしがBLOGOSに出てるわけないと思います(笑)。
今は、所得がいくらかとか、どんな社会的立場かに関わらず、多かれ少なかれ不安を抱えている。「困ってないひと」は、いないんじゃないでしょうか。
震災以降、本当に明日自分の身に何が起こるかわからないということが実態として明らかになったと思いますし、そうした意識を社会全体が共有していると思います。
いままで対岸の火事、他人事だったことが、実質的にそうではなくなった。
いつ親の介護が必要になるかわからないし、いつ自分が脳梗塞になるかもわからない。事故に遭うかもしれないし、被災してすべてを失ってしまうかもしれない。
つまり、社会のリスク、”くじ”というのはそこらへんに転がっていて、いつ地面を踏み抜いてセフティーネットの下に落ちてしまうかはわからない。
だから、現在はそういう意識を共有できたという点でスタート地点だと思います。
震災後、よく「当事者」という言葉が使われるようになりましたが、当事者というのは当事者になろうと思ってなるものではない。
実態として本当にそうなる人が増えるから、社会も考えはじめる。
やっぱり社会制度が必要だとみんなが思いはじめているから、今日こうして議論としてあがってくるのです。
対岸の火事だと思って眺めている人が多数派であるかぎり社会は変わらないし、そう思ってない人が増えているからこそ、変化の萌芽が出ていると思うんです。
―たとえば「ユニバーサルデザイン」という言葉はすでに社会に浸透していると思います。制度以外の部分で「困ってるひと」にとっての日本社会の問題点を教えてください。
大野氏:たとえば、新宿駅にエレベーターがありますよね。
わたしも難病になり障害当事者の歴史を勉強するようになって、はじめて知ったことなのですが、そのエレベーターが設置されるまでには、もうすごい延々の闘いの歴史があるんです。
わたしたちは、スロープやエレベーター、ノンステップバス、バリアフリー、ユニバーサルデザインといったものが、当たり前に用意されたサービスだと思っています。
きっとJRや国が用意してくれたのだろうと思いがちですが、実は戦後の高度成長期に一つひとつ闘って勝ち取ってきた人たちがいる。
日本にも公民権運動者みたいな方々がいたんです。わたしは、今そうした活動をたどる取材をしています。
今の日本の社会保障制度はスカスカだという話をしてきましたが、スカスカでもスカスカなりに切り開いてきてくれた人がいました。
SYNODOSの論考にも載せているのですが、それこそ地べたをはって、車椅子で都庁の前に一年半ぐらいテント張ったりですとか、新宿駅に毎年毎年車椅子で乗り込んで「エレベーターをつけろー」と行進して突破してくれたりとか、そうやって現実の矛盾に対して体を張って突破してきてくれてきた人たちがいるんです。
これらは近い同時代史なので、まだ資料としては散在しているしまとまっていないんだけれども。今、この人たちの歩みを少しずつ取材しながら、つくづく感じることは、わたしたちが当たり前だと思っていることも、じつはそうではないのです。
―社会の矛盾や問題点を指摘し、改善するための活動をしてきた人がいるということですね。
大野氏:日本社会はコンシューマリズム(消費者にとっての利益を優先させる理念のこと)にちょっと偏重しすぎかなと思う側面もあります。
「何でも誰かが用意してくれる」と思っている部分がありますよね。
コンシューマリズムを基礎とする社会というのは、ものすごくお金を持っている人には、ものすごく便利かもしれない。つまり、お金を払えばひたすら便利なものが買える。
しかし、中流以下では少し話が違ってくる。コンシューマリズムに支配された社会というのは、「失敗が許されない社会」と言い換えてもいい。相手に100%完璧、エラーなしを求めるということは、自分もエラーを出してはいけないということになります。
こうした社会は、これからの選択肢や方法を考える上で苦しいものがあります。現在から、さらに完璧を求めるとなると、かなり苦しくなる感じがしませんか。現状打開のために出す政策としても、切るカードがなくなっていきます。
自分が楽になるためには、もう少し相手も楽にしてあげなければいけない。
少しだけ消費者の利便性を下げることで、労働者側の余暇の時間を増やすという方法によって、負担を調整することも考えなくてはいけない。
厚労省の官僚の人が悪いというのも簡単ですが、それだけではやっぱり建設的な議論にはならない。
風の噂で聞いた話ですが、ある課の職員の人たちが9時から5時まで何をしているかというと、ずっと「国民のクレーム」を聞いていると。5時でシャッターが閉まると、それから一生懸命書類をつくり出すと。たぶん、官僚の人もわけがわからなくなっていて、守る目的がいつのまにか「同僚の書類」になってくる。
自分の中の持続可能性のリアリティを大事にする
―価値感の転換も必要だということでしょうか
大野氏:欧州も金融危機で悩んでいますし、アメリカだって悩んでいます。
経済成長をあきらめないという前提を置いた上で、かつ持続可能な生きやすい世の中を考える上では、既存の価値観から抜け出して、さまざまな方法を試してみる。
いままで人間の社会が直面したことがない超少子高齢化が直近に迫っている中では、コンシューマリズムではない思考で、社会のシステムを考えることも必要とされてくる。
高度経済成長、バブル期という過去を否定はしません。「本当にありがとうございました」と思います。
しかし、わたしたちはこれから、地に足をつけて、現実を見定めて歩いていかなければならない。今の団塊の世代の人たち、高度経済成長期を経験してきた企業のトップ、あるいは社会のメインストリームにいるような人たちは、「俺たちがこの社会をつくってきたんだ」という自負が、口に出しているか出していないかはともかく、感情のレベルでは結構あると思います。
でも、日本の高度成長期やバブルが、本当に実力だけで勝ち取ったのかということには、検証が必要で、実際は拡張された自己像の側面もあったと思います。「こういうことを言ったら、もしかするとおじさんたちは傷つくかもしれない」と勝手に勘ぐって遠慮したりすること自体が、団塊世代の人たちに失礼だとわたしは思っています。親の世代を、団塊の大人を、信用しています。だから、率直に言います。
わたしは世代間対立論というのは基本的に嫌いです。嫌いなものは少ないんですが、数少ない嫌いなもののひとつです。高齢者をバッシング、批判するのは、若者を一括りにして批判するのと同じです。
細かい分析をしていくとまったく一括りにできない。そもそもこれから高齢者がどんどん増えていくのに、そういう人たちをエンパワーしないで、どうやってこの社会を維持するんだという問題もあります。
ただ、既存のシステムが崩れている状況の中では、物事にやわらかく対応する柔軟性が求められる。
これだけ就活の矛盾が指摘されているのに、一向に新卒一括採用のシステムは変わる気配がない。
その阻害要因は、大人に柔軟性がないことに原因があるかもしれない。
さらに言えば、「すでに問題であると明らかになっていること」について、誰もそれを正面から言い出さないこと、コミュニケーションしないことは、長期的に見ると大いなる社会的コストを生じさせます。怖がらないでください。怖がらずに、どんどん話していきましょう。
―今「困ってないひと」たちは、「困ってるひと」のために何ができるでしょうか。自分がいつか「困る日」に備えて、社会制度の整備に尽力する必要があるかと思うのですが。
大野氏:そこまで構える必要はないと思います。まあ正直なところ、みんな仕事とかで忙しいじゃないですか(笑)。
無理はつづかないですし。あまり気合を入れて、「いつ自分も弱者になるかわからないんだから、弱者のことを考えなければ!」というポエムに走ると長つづきしません。
自分の中の持続可能性のリアリティを大事にすることが重要だと思います。たとえば、子どもが生まれて、パパになったと。それで、「自分でベビーカーを押してみて、はじめて世の中の段差という障壁について考えた」というようなレベルの気づきを、一個一個大事にしていく。
変わろうと呼びかけている人がいて、そのとき、自分に協力できる余力があるのであれば、協力すればいい。
余力がなくて、今自分の生活が精一杯だということであれば、わたしはそれでいいと思います。
自分の生活者としてのリアリティを大事にすること、自分の実感を大事にすること、それこそが今まで日本の論壇に欠けていたことです。
みんな頭でっかちになって空中戦で「べき論」を主張しつづけてきた。それこそ自分の問題じゃなくて、抽象的な対岸の火事として考えてきた。
自分の生活者としての身体感覚で気づいたこと、感じたことからはじめればいい。そのアンテナの感度を高くすれば、十二分にも過ぎるのではないかと思います。
障害者保護の制度策定に障害者が入っていない。
労働者保護の制度策定にも実際の底辺労働者が入っていない。
介護保険制度も同様で、年金制度も実際の保険料を払う勤労者が入っていない。
そんな制度策定を戦前から続けてきたために、日本の各種社会制度は当事者には非常に使いにくく、わけのわからないモンスターになっている。
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「日本のセーフティーネットはスカスカ」 2/8 BLOGOSから
現代社会の問題点を改めて提示する新感覚のインタビューシリーズ「SYNODOS×BLOGOS 若者のための『現代社会入門』」。第2回は、著書「困ってるひと」がベストセラーとなった作家、大野更紗さんにご登場いただきました。
大野さんは、24歳の時に突然、免疫疾患系の難病にかかりました。しかし、著書の中では難病という生死に関わる事態を、ユーモアを交えて「困る」と表現。その上で、自らの闘病の経験を基に日本の社会保障制度の問題点を指摘し、大きな話題となっています。現在も闘病中でありながら、精力的に障害者運動の当事者や社会保障関連の取材を行っているという大野さんに話を聞きました。(取材・執筆:田野幸伸、永田正行【BLOGOS編集部】)
わけのわからない日本の社会制度は“モンスター”
―ご著書の中では社会保障の手続きの難解さを「モンスター」と表現されていますが、健康な状態で日常生活を送っていると、この表現の実態は理解できないと思います。ですので、具体的に教えていただけますでしょうか?
大野更紗氏(以下、大野氏):「社会保障」と言っても非常に範囲は広いですし、分野も多岐に渡りますので、なかなか全体がこうとは言いにくいです。その前提の上でお話しますが、そもそも日本のいわゆる「健常者」として暮らしていたら、お役所の窓口というのは非常に縁遠い存在だと思います。
わたしは2008年9月に発病したのですが、それまでは大病を患ったことも入院したこともありませんでした。病気や障害とはまったく無縁の生活を送っていたのです。ただ、わたしはそれまでミャンマー難民の研究者を目指して、フィールドワークなどをやっていました。
こうした経験から、移民や難民の方に関わる部分ですけど、ある程度日本社会の矛盾に関して「理解している側」に入っているつもりでした。
ところが、自分が実際に難病という"くじ"をひいて、その当事者になってみたら、じつは今までは、自分は"逃げられる"ところに居たということがはっきりとわかったんです。
「モンスター」と表現しているのは、「何がどうなっているかわからない」からなんです。
制度の構造や仕組みが理解できれば「モンスターだ」なんて誰も思わない。「何がどうなっているのか」が、まったくわからない。だから「モンスター」と表現したのです。
具体例をあげると、原因がわからず治療方法が確立されていない、「難病」と呼ばれる疾患にかかったとします。
「難病」だけでも、複雑ですよ。病院にかかって、診断をつけてもらうまでが、まず大変です。なにせ病名だけでも、厚生労働省の見解では、数百~数千あると言われています。
そのうち、「診断基準が一応確立し、かつ難治度、重症度が高く患者数が比較的少ないため、公費負担の方法をとらないと原因の究明、治療方法の開発等に困難をきたすおそれのある疾患」(ちなみにこのあたりはお役所言葉なのでざっくりわかってもらえばいいです)に指定されている56疾患については、医療費の保険診療ぶんの自己負担額、その一部について助成を受けられる制度があります。
「難病医療費等助成制度」という制度、通称「特定疾患」ですね。
ところが、この制度を利用するためだけでも、毎年更新が必要です。
その度に大量の書類をそろえなければならない。そうした書類の収集、作成も自分でやらなければならない。
自分の体が動かない状態、役所まで出向けない状態で、延々とお役所の窓口ジプシーみたいなことをしなければならない。
この制度をひとつ利用するだけでも、「困ってるひと」には大変なことです。そのほかにもさまざまな制度がありますが、一つひとつ自分が何を使える可能性があるのかを調べるだけでも、書類の山と格闘しなければならない。
自分がそういう状況に陥って、「ここまで大変な状況なのに、どうしてこれまで誰も何も言わなかったのだろう」と非常に不思議に思いました。
そこで、よくよく考えてみると、「ここまで大変」だからこそ、実際に当事者になってしまうと「生きているだけで精一杯」で、物事を整理するとか、発信するとか、助けを求めるといったことができなくなってしまうんです。
それが日本の社会制度の現状がモンスターたる由縁かなと思います。
―社会制度を利用しようという気持ちが萎えてしまうぐらい「わけのわからない」ものだということでしょうか。
大野氏:日本の既存の障害者制度というのは、世界的に見ても非常に特殊な制度で、障害の種別を基本的に身体、精神、知的という3つに分けて手帳を発行するものになっています。
人間の状態を制度に当てはめていくシステムだといってよい。
日本にいると、こうした障害者制度が普通だと思ってしまうのですが、このような手帳制度は先進諸国の中でも非常に稀です。
日本だけだと思います。とにかく枠をつくって、現実をそれに当てはめていこうというイメージです。
難病患者の人たちというのは、わたしを見ていただければわかるとおり、見た目でその辛さや、障害の度合いを判断することはむずかしいですよね。
こうした「見えにくい障害」は、現行制度の中では、判定の過程で障害を軽く見積もられがちなんです。そういうシステムになっている。3つの分類にきちんと収まらないために、いわゆる「制度の谷間」といわれる部分に落ちてしまうのです。
―なぜ利用者目線で制度が構築されていないのでしょうか。
大野氏:日本では、お役所も生活者も、パブリックに社会の問題を解決するという行為に全然慣れていませんね。
社会制度というのは、完璧な、それこそコンビニみたいにバッチリ用意されているもので、「窓口に行けば何でも用意されている」と思い込んでいる部分があるのではないでしょうか。
けれど、実際はそうではありません。お役所も制度を使う人がいなければ、運用する前例がつくれないため、経験やノウハウが蓄積されないですよね。
使う側も電話をかけて「前例がないので」と一旦断られてしまうと、それであきらめてしまう。
お役所が悪い、政府が悪いというのは簡単ですが、お役所が慣れていないということは、市民も慣れていないということです。
役所や制度で問題を解決するということは、理屈で合理的に解決することですが、そういう行為に日本社会は慣れていない。
歴史的な文脈というのは、大事です。現状、結果として誰にとっても使いにくい制度になってしまっているのだけれど、ではどうしてそうなったのか。根源をたどっていかないと、解決策は見えてこない。これは、わたし自身だって、自分が難病患者という立場になってはじめてわかったことですけどね。
それにそもそも、日本の人は、社会保障制度について知る機会も少ない。
いわゆる「標準的な家庭」に生まれ育ったならば、日本の社会保障制度がどのように成り立っているかを学ぶことはほとんどありません。
「生活保護の申請は、どの法律に基づいていて、どのような状況に陥ったら申請する権利が発生するのか」とか「障害者福祉制度は、どのような理念の下に成り立っているのか」、「年金制度はどう設計されているのか」ということを学校で習うことはない。
パブリックな制度によって社会問題を解決するという手段を比較的多用するアメリカや欧州では、中学や高校の段階でそういった基礎的なリテラシーを学びます。
これは難病患者の問題に限りませんよね。誰だって生きていれば、普通にいろんなことが起こる。失業した場合やDV被害を受けた場合に、どのような対応法、法律があるのか。
以前、DV被害者の支援をしている方にインタビューをしながら、はっとしたことがあって。アメリカからDV問題の研究者が、その施設の視察にきたとき、「日本でせっかくDV防止法ができたのに、その周知が低くて機能してないなんて信じられない。アメリカだったら、『DV防止法ができました!DVを受けたときの相談機関はここ!』って電車の中刷りとかバスの広告とか、とにかくそのへんに貼りまくるよ」と言っていたそうです。
アメリカという国も大きくて多様ですから、一般化することはできないんだけれど。でも、印象的でした。
現代日本のセーフティーネットは“スカスカ”
―パブリックに対する意識が、なぜそれほどまでに低いのでしょうか。
大野氏:高度成長期からバブル期の日本というのは、基本的に「なんとなくイケイケドンドン」だったわけです。
いろんな偶然が重なって、お金がたくさんあった。わたしはその頃生まれていませんので(笑)、どういう感覚だったのかは実際はわかりませんけれども。ともかく、パブリックな手段で社会問題を解決しなくても、細かい部分で不備はあったけれど、マクロではおおむね何とかなってしまった。
そうしたなかで、人口変動が進み少子高齢化になると、さまざまな問題が露呈することは識者も指摘していたし、行政も把握してはいたのですが。
これまでの日本は、おもに「家族」と「企業」というインフォーマルな領域に社会問題の解決を委ねてきたわけですね。
「家族」が引き受けてきた福祉の負荷というのは、とても大きい。介護が必要になったらお嫁さんやお母さんがインフォーマルにその負担を引き受ける。子どもが生まれたらお母さんがお世話する。
そこにはひとつの家族モデル、お父さんが「新卒一括用・年功序列・終身雇用・正社員」のサラリーマンとして働きに出て、お母さんが家事や育児をし、子どもがいるというモデルがあったわけですが、この「典型核家族」のモデルが現実で崩壊しつつある。
もうひとつの柱であった「企業」による福祉も瓦解が始まって久しい。
たとえば湯浅誠さんらの「年越し派遣村」のように、リーマンショック後は非正規雇用の問題がマスメディアでも注目されるようになりました。
2010年の非正規労働者の割合は34.3%、働いている人の3人に1人は非正規雇用です。さらに男女別でみると、女性の労働者の53.8%が非正規。
日本型終身雇用のモデルはすでに崩れている。
つまり、日本が社会問題の解決を図る上で前提にしてきたインフォーマルな手段、「家族」と「企業」という2つの柱が崩れてしまった。
社会問題の解決手段イコール福祉だとすると、福祉をインフォーマルにこの2つに預けてきてしまった。そもそもパブリックを利用することに慣れていないし、また意識も低かったわけです。
しかし、インフォーマルな柱が崩れた現在、わたしたちはいよいよ、パブリックな手段で社会問題を解決しなくてはやっていかれない、というフェイズに突入しているのだと思います
―しかし、現在の日本においては、「財政的にお金がない」状態で制度の再設計をやらなければならない。「ゼロサム」的な状況の中でできると思いますか。
大野氏:というかやるしかないでしょう! 可能性は結構感じています。
論壇的な話をすると、いろんな分野、とくに経済論壇の人たちとコミュニケーションを重ねていくことはとても大事なことだと思います。
これまでの「困ってるひと」たちは、経済成長を主張する経済学者を「ネオリベだ」「効率性の悪魔だ」みたいなイメージで論じがちでした。わたしはもともと大学でミクロ経済学入門の授業をちょっとだけかじっていたというのもありますが、いわゆる「経済学的思考」というのが、「ネオリベ」だとか「金の亡者だ」とかいうイメージとはまったく違う思考方法だということはわかる。
飯田先生が以前、言っていたのですが、たとえ低成長だとしても、成長をあきらめてはいけない。かつてのような特殊な高度経済成長は見込めないとしても、とにかく成長をあきらめることをしない。
成長をあきらめるということは、「困ってるひと」をさらに窮地に立たせる要因にもなります。
再分配の制度設計を考えることと、成長をあきらめない方法を考えることは、矛盾はしない。
むしろ、お金を増やす方法を考えてくれる経済学者とは、協力していかなければならないということを強調しておきたいと思います。
「ゼロサム」的な状況と言われましたが、医療や社会福祉・保険について細かい制度設計の勉強をすればするほど、やはりパイの切り分けに終始するとお互い苦しくなってしまうとわかります。
それは当たり前で、自分の取り分を増やそうという心理に社会全体がなってしまうからです。そうなると弱者同士が対立させられる構造にもちこまれやすい。
そういう社会は非常に閉塞感に満ちていると思うし、それこそ心理的にも物理的にも経済的にも選択肢はどんどん狭まってしまう。悪循環ですね。
最近、いわゆる「生きづらさ」ということが叫ばれています。こうした「生きづらさ」というぼんやりとした"あいまいなポエム"なものを細かく合理的に解体していくことが現在の自分のミッションだと思っています。
自殺者が3万人を超えるという状況が何年もつづいていますが、こうした閉塞感を打開するためにも「生きづらさ」の中身を具体的に解体したいという思いがあります。
―「生きづらさ」を実存の問題ではなく、社会制度の問題として捉えていくべきということですか?
大野氏:起き上がるのもしんどい難病患者となっても、フィールドワーカーの癖が抜けないんですよね。今もフィールドワークに行っています。
たとえば先日、婦人保護施設というところにお邪魔させていただきました。婦人保護施設というのは日本社会の傷ついた女性たちが最後に行き着くところ、と言えるかもしれない。
この施設の法的根拠は売春防止法なんですが、DV防止法ができて以来、DVの被害を受けた女性が一時的なシェルターとして利用する機能も担っています。
こうした施設などで、貧困の最底辺に陥ってしまう人たちの話を丹念に聞くと、その要因は非常に複雑でたくさんあるんです。
たとえば軽度の知的障害や精神疾患、あるいは親が貧困・低学歴であるとか、本当にケースによって多様なんです。また、そこに暴力の問題が絡んでくる場合もある。
婦人保護施設に逃げてきた一人の傷ついた女性を「可哀想」だと感じて、「この人を助けたい」と思ったときに、実際には、助けられない自分に直面しました。
つまり、要因があまりに多様すぎて、「貧困」という言葉では片づけられない。その言葉の裏には多くの社会的、経済的要因がある。その一つひとつを、まるでパズルをうめるようにして丁寧に解決していかなければならない。
今の日本社会は、セーフティーネットがスカスカなんです。
いわゆる「普通」の状態から一歩踏み外すと、一気にスコーンと貧困に落ちてしまう。このネットの網の目を細かくより直すためには理屈と理論と細かい分析が必要です。
グルグルポンの一発解決策は、はっきり言ってありません。ですので、時間もかかるし、地道ですし、大変なことです。
しかし、やらなくてはならない。経済成長で全体のパイの大きさを何とかして大きくしようと努力する人たちがいて、かつわたしたち側というか、制度や社会保障とか「困ってるひと」の問題について考える側は緻密なパズルを組み合わせていく。
それぞれ使う知識や"頭の筋肉"は全然違いますが、最終的にアウトカムとして目指しているのは「より生活しやすい」「より生きやすい」社会だと思います。方法は違うけど目指しているものは同じなんです。
誰も生きにくい社会なんて望んでいない。目標を共有することが大事です。そういう意味で、SYNODOSみたいな、異種混合のプラットフォームがあるといいですよね。
エスカレーターもノンステップバスも先人たちの闘いの功績
―財源は無限ではありませんから、社会保障と国の経済のバランスは非常に難しい問題だと思いますが。
大野氏:よく「最大多数の最大幸福!」などと言われますが。こういう論壇でよく使われるような言葉って、ほんとにみんながベンサムとかミルとかの本を読んで使っているのでしょうか(笑)。
ああいう難しい本、ほんとに読んでるんでしょうか。茶化したいわけではありません。
抽象的な一般概念というのは力を持ちますから、安易に使えば、それなりの代償を払わなければならなくなる。
ともかく、この社会で可視化されていない問題は、まだまだたくさんあると思います。
日本社会にとっての「制度」との距離感の問題というのは、介護保険が端的な例になっていると思います。
介護保険は2000年にスタートし、まだ12年しか経っていない非常に若い制度です。これは、いわゆる有識者と呼ばれる人たちが設計をした、上からつくった制度とも言える。しかし、これが今おおいに揺らいでいる。
日本人にとっての社会制度は、介護保険に対する態度、つまり「サービス」という感覚に近い。なんとなくお上が決めてくれるんだ、というものです。
「どこまで助ければいいか」「どういう基準にすればいいか」を遠いところにいるエライ誰かが決めてくれるんだと。
しかし、本来の社会保障というのはおそらくそういうかたちでは成立しない。
当事者意識不在のパブリックな制度というのは、長つづきしないと思います。
介護保険制度については、「目的がなんなのか」を、設計する人、現場の人、利用する人、みんながわけがわからなくなってしまっている。
つまり、耐久性のある制度をつくっていくためには、社会で合意を取るというプロセスは非常に重要になるのです。たとえ手間がかかったとしても、「納得する」「目的を共有する」こと。コミュニケーションが全然足りてない。
今は経済状況が厳しいですから、何ごとも反射のように「財源が!」「予算が!」という話になりがちですが。コミュニケーションのプロセスをすっ飛ばして、短視眼的にその場しのぎばっかりして、また崩壊して、またつくり直す。
それじゃあみんな摩耗して疲れきってしまう。なにより、膨大なコストがかかります。
―多くの人は自分が「困る」という事態を想定していないという問題もあります。
大野氏:人間は親を選べませんから、そもそも生まれた瞬間から不平等とか不均等というのはスタートしている。
それを宿命だとか宿業だとするのは、何もしないことと、ほぼ同意義ではないでしょうか。
社会保障制度とか福祉を考えるということはその宿命、宿業に抗うということでもある。
多くの人は「自分だけは落ちない」とはもう思っていないでしょう。
そうじゃなかったら、わたしがBLOGOSに出てるわけないと思います(笑)。
今は、所得がいくらかとか、どんな社会的立場かに関わらず、多かれ少なかれ不安を抱えている。「困ってないひと」は、いないんじゃないでしょうか。
震災以降、本当に明日自分の身に何が起こるかわからないということが実態として明らかになったと思いますし、そうした意識を社会全体が共有していると思います。
いままで対岸の火事、他人事だったことが、実質的にそうではなくなった。
いつ親の介護が必要になるかわからないし、いつ自分が脳梗塞になるかもわからない。事故に遭うかもしれないし、被災してすべてを失ってしまうかもしれない。
つまり、社会のリスク、”くじ”というのはそこらへんに転がっていて、いつ地面を踏み抜いてセフティーネットの下に落ちてしまうかはわからない。
だから、現在はそういう意識を共有できたという点でスタート地点だと思います。
震災後、よく「当事者」という言葉が使われるようになりましたが、当事者というのは当事者になろうと思ってなるものではない。
実態として本当にそうなる人が増えるから、社会も考えはじめる。
やっぱり社会制度が必要だとみんなが思いはじめているから、今日こうして議論としてあがってくるのです。
対岸の火事だと思って眺めている人が多数派であるかぎり社会は変わらないし、そう思ってない人が増えているからこそ、変化の萌芽が出ていると思うんです。
―たとえば「ユニバーサルデザイン」という言葉はすでに社会に浸透していると思います。制度以外の部分で「困ってるひと」にとっての日本社会の問題点を教えてください。
大野氏:たとえば、新宿駅にエレベーターがありますよね。
わたしも難病になり障害当事者の歴史を勉強するようになって、はじめて知ったことなのですが、そのエレベーターが設置されるまでには、もうすごい延々の闘いの歴史があるんです。
わたしたちは、スロープやエレベーター、ノンステップバス、バリアフリー、ユニバーサルデザインといったものが、当たり前に用意されたサービスだと思っています。
きっとJRや国が用意してくれたのだろうと思いがちですが、実は戦後の高度成長期に一つひとつ闘って勝ち取ってきた人たちがいる。
日本にも公民権運動者みたいな方々がいたんです。わたしは、今そうした活動をたどる取材をしています。
今の日本の社会保障制度はスカスカだという話をしてきましたが、スカスカでもスカスカなりに切り開いてきてくれた人がいました。
SYNODOSの論考にも載せているのですが、それこそ地べたをはって、車椅子で都庁の前に一年半ぐらいテント張ったりですとか、新宿駅に毎年毎年車椅子で乗り込んで「エレベーターをつけろー」と行進して突破してくれたりとか、そうやって現実の矛盾に対して体を張って突破してきてくれてきた人たちがいるんです。
これらは近い同時代史なので、まだ資料としては散在しているしまとまっていないんだけれども。今、この人たちの歩みを少しずつ取材しながら、つくづく感じることは、わたしたちが当たり前だと思っていることも、じつはそうではないのです。
―社会の矛盾や問題点を指摘し、改善するための活動をしてきた人がいるということですね。
大野氏:日本社会はコンシューマリズム(消費者にとっての利益を優先させる理念のこと)にちょっと偏重しすぎかなと思う側面もあります。
「何でも誰かが用意してくれる」と思っている部分がありますよね。
コンシューマリズムを基礎とする社会というのは、ものすごくお金を持っている人には、ものすごく便利かもしれない。つまり、お金を払えばひたすら便利なものが買える。
しかし、中流以下では少し話が違ってくる。コンシューマリズムに支配された社会というのは、「失敗が許されない社会」と言い換えてもいい。相手に100%完璧、エラーなしを求めるということは、自分もエラーを出してはいけないということになります。
こうした社会は、これからの選択肢や方法を考える上で苦しいものがあります。現在から、さらに完璧を求めるとなると、かなり苦しくなる感じがしませんか。現状打開のために出す政策としても、切るカードがなくなっていきます。
自分が楽になるためには、もう少し相手も楽にしてあげなければいけない。
少しだけ消費者の利便性を下げることで、労働者側の余暇の時間を増やすという方法によって、負担を調整することも考えなくてはいけない。
厚労省の官僚の人が悪いというのも簡単ですが、それだけではやっぱり建設的な議論にはならない。
風の噂で聞いた話ですが、ある課の職員の人たちが9時から5時まで何をしているかというと、ずっと「国民のクレーム」を聞いていると。5時でシャッターが閉まると、それから一生懸命書類をつくり出すと。たぶん、官僚の人もわけがわからなくなっていて、守る目的がいつのまにか「同僚の書類」になってくる。
自分の中の持続可能性のリアリティを大事にする
―価値感の転換も必要だということでしょうか
大野氏:欧州も金融危機で悩んでいますし、アメリカだって悩んでいます。
経済成長をあきらめないという前提を置いた上で、かつ持続可能な生きやすい世の中を考える上では、既存の価値観から抜け出して、さまざまな方法を試してみる。
いままで人間の社会が直面したことがない超少子高齢化が直近に迫っている中では、コンシューマリズムではない思考で、社会のシステムを考えることも必要とされてくる。
高度経済成長、バブル期という過去を否定はしません。「本当にありがとうございました」と思います。
しかし、わたしたちはこれから、地に足をつけて、現実を見定めて歩いていかなければならない。今の団塊の世代の人たち、高度経済成長期を経験してきた企業のトップ、あるいは社会のメインストリームにいるような人たちは、「俺たちがこの社会をつくってきたんだ」という自負が、口に出しているか出していないかはともかく、感情のレベルでは結構あると思います。
でも、日本の高度成長期やバブルが、本当に実力だけで勝ち取ったのかということには、検証が必要で、実際は拡張された自己像の側面もあったと思います。「こういうことを言ったら、もしかするとおじさんたちは傷つくかもしれない」と勝手に勘ぐって遠慮したりすること自体が、団塊世代の人たちに失礼だとわたしは思っています。親の世代を、団塊の大人を、信用しています。だから、率直に言います。
わたしは世代間対立論というのは基本的に嫌いです。嫌いなものは少ないんですが、数少ない嫌いなもののひとつです。高齢者をバッシング、批判するのは、若者を一括りにして批判するのと同じです。
細かい分析をしていくとまったく一括りにできない。そもそもこれから高齢者がどんどん増えていくのに、そういう人たちをエンパワーしないで、どうやってこの社会を維持するんだという問題もあります。
ただ、既存のシステムが崩れている状況の中では、物事にやわらかく対応する柔軟性が求められる。
これだけ就活の矛盾が指摘されているのに、一向に新卒一括採用のシステムは変わる気配がない。
その阻害要因は、大人に柔軟性がないことに原因があるかもしれない。
さらに言えば、「すでに問題であると明らかになっていること」について、誰もそれを正面から言い出さないこと、コミュニケーションしないことは、長期的に見ると大いなる社会的コストを生じさせます。怖がらないでください。怖がらずに、どんどん話していきましょう。
―今「困ってないひと」たちは、「困ってるひと」のために何ができるでしょうか。自分がいつか「困る日」に備えて、社会制度の整備に尽力する必要があるかと思うのですが。
大野氏:そこまで構える必要はないと思います。まあ正直なところ、みんな仕事とかで忙しいじゃないですか(笑)。
無理はつづかないですし。あまり気合を入れて、「いつ自分も弱者になるかわからないんだから、弱者のことを考えなければ!」というポエムに走ると長つづきしません。
自分の中の持続可能性のリアリティを大事にすることが重要だと思います。たとえば、子どもが生まれて、パパになったと。それで、「自分でベビーカーを押してみて、はじめて世の中の段差という障壁について考えた」というようなレベルの気づきを、一個一個大事にしていく。
変わろうと呼びかけている人がいて、そのとき、自分に協力できる余力があるのであれば、協力すればいい。
余力がなくて、今自分の生活が精一杯だということであれば、わたしはそれでいいと思います。
自分の生活者としてのリアリティを大事にすること、自分の実感を大事にすること、それこそが今まで日本の論壇に欠けていたことです。
みんな頭でっかちになって空中戦で「べき論」を主張しつづけてきた。それこそ自分の問題じゃなくて、抽象的な対岸の火事として考えてきた。
自分の生活者としての身体感覚で気づいたこと、感じたことからはじめればいい。そのアンテナの感度を高くすれば、十二分にも過ぎるのではないかと思います。
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