日本の労働は封建主義の農奴農民か
2012-04-06
日本の労働問題については、経済とりわけデフレの関連であちこちに言及してきましたが、労働問題のみでは初めてです。逆に言えば日本では派遣労働、不安定雇用を除くと、それだけ言及されることのない分野と思います。
「労働分配率の強制修正」、「世界で日本のみデフレ」、「デフレ脱却には賃金上昇が不可欠」、「なぜデフレなのか、なぜ放置するのか」
欧米では特にヨーロッパでは、事実として高給の管理職は労働保護の対象ではなく、末端職制と労働者は労働保護規制と労働組合で守られる。
労働保護規制は日本と大きな違いはないが、その運用は使用者に厳しい。なぜなら労働組合が強力だからであるが、この労働組合が日本とは基本的に異なっている。
日本では戦後の産別会議解体以来、企業別労働組合が基本単位となっており、しかも企業内に組合員と非組合員がいる。この労働形態は欧米では「黄犬契約(イェロードッグ)」と呼ばれ、侮蔑の用語である。
欧米では労働組合は基本的な組織が職能組合、職業組合、産業組合であり、企業別労組は無く、職場単位は文字通りの「分会」である。この分会はその職場の各職業組合と連携する。
企業別労組ではないので、企業倒産などで失業しても組合員資格は有効であり、組合費は減免もしくは免除されるだけである。
逆に企業に雇用される場合は、多くは当該職種の組合員であることが条件となる。
賃金闘争は労働団体と使用者団体の交渉の形をとり、交渉成果は個別企業の賃金ではなく産業、職業の横断賃率として決定される。
こうした労働組合が大きな社会基盤をもっており、労働保護法制の改正、運用に力を発揮し、また政労使交渉を行う。欧州全体とカナダ、豪州、ニュージーランドなどでは、こうした社会基盤が戦前からの労働党、社民党などの左派、中間左派政権を生み出してきた。
社会全体にもストライキに反対する風潮は、日本に比べ極めて弱い。
こうして、高給の管理職は労働保護の対象ではなく、末端職制と労働者は労働保護規制と労働組合で守られる社会ができあがってきたのである。
日本では残念なことに高給の管理職ほど職は安定し、労働者は様々な形態の不安定雇用が蔓延し、正社員ですら賃金が削減されている。
黄犬契約の企業別労組が立ち上がるわけもなく、日本の労働者は、誰も守ってくれないのである。
日本では一見すると経済合理性で人件費コストの削減が進んでいるようにみえるが、作り出している雇用形態は、高給安定雇用の家臣団と、死ぬまで搾り取られ過労死する農奴農民という封建時代ではないのか。
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日本の雇用の敵は「経済合理性」ではなく「封建主義」ではないのか? 4/4 冷泉彰彦 Newsweek日本版
日本の公務員組合は、既得権を守られた集団ということで批判の対象になることが多くなりました。一方で、多くの民間企業にも組合はありますが、業績が不振だとか、国際競争に負けたという経営側の説明に対して戦うことはまずないわけで、こちらの方も存在意義が問われても仕方がないのかもしれません。
また、現在のように消費者に全能の立場が与えられている社会では、交通機関などがストライキを行うことは社会的支持を得るのは難しいとも言えます。国家公務員へのスト権付与が検討されているのも、世論を恐れて行使できないだろうという計算を含めた動きとも言えます。
こうした雰囲気を受けて、労働者の権利というのは幻想だという理解が広がっています。例えば若者が良く「ブラック企業」という言い方をしますが、具体的には労働基準法の違反が行われている場合が多いのだと思います。
ですが、労働基準監督署が摘発したり、被害者が訴訟して勝ったり、あるいは組合が立ち上がったりして是正がされることは「ないだろう」という理解がそこには伴っています。「ブラック」に入ってしまって健康を害しては損だから、できるだけ避けようという自衛を講ずるしかない、この「ブラック」という言い方、そしてほとんどが匿名で行われるコソコソした「悪い噂」にはそうした諦めを伴っているように見えます。
こうした風潮は、何も若者が脆弱化したとか騙されやすくなった、あるいは法律や社会制度への知識が欠けているから起きているのではないようです。長引く不況と、負け続ける国際競争の中で、人件費はコストであり、コストが過大になれば地方自治体も民間企業も破綻して、結局は雇用が失われるわけであり、どこにも打ち出の小槌はないのだという諦めにも似た理解がそこにはあるようです。
例えば、労働者を保護しようという趣旨で法律を「いじって」も、例えば契約社員を5年経ったら正社員にせよという法律は結局は「契約社員は満5年の直前でクビ」という運用を増加させるだけと予想されるわけです。
このように、言葉だけは立派でも現場を知らない人間が設計した制度では、労働者の利益には全くならないわけです。こうした表面的な法改正も、閉塞感を増すだけの結果に終わっています。
では、結局はこの世は弱肉共食であり、運が悪く立ち回りの下手な労働者は過労死に追い込まれても仕方がないのでしょうか? 結果的に戦後日本の輸出立国とか「総中流」というのは、一時的に成功したバブルのようなものであって、競争力が失われ人口減のジェットコースターが内需を引き連れて谷底へ向かう中では、結局は女工哀史的なものが再発する形で貧富の格差が広まるのはどうしようもないのでしょうか?
2つの問題提起をしたいと思います。
1つ目は、アメリカやヨーロッパでは、国内向けの定形仕事で食べてゆく仕組みが守られているという事実です。まず大原則として「高待遇の仕事は実力主義であり一切保護されない」一方で「定型業務は9時5時仕事で家庭生活と両立。身分も組合に守られている」というバランスがあります。更に言えば、定形仕事であっても運輸業など「人の命を預かる仕事」には「ちゃんと生活できる給料を払わないと安全は確保できない」という一種の常識も残っています。
勿論、公務員にしても民間にしても、定形仕事の身分が保証されているというのはコスト高になります。アメリカの場合ですと、自動車産業の組合員などは余りにも高コストだということで、会社の再編と共に既得権も取り上げられることになりました。
地方の財政破綻のために、公務員や教員に対するレイオフは今でも続いています。全体に欧米でも労働者の権利は徐々に削られる方向にあるのは事実です。
ですが、物事の順序として「高給の管理職はいつでもクビになる可能性があるが、非管理職の組合員は身分を保護されている」あるいは「成果主義の管理職は早朝出勤も海外出張もするが、定形仕事の非管理職は家庭との両立が可能」というバランスはまだ残っているのです。日本の場合は、これがまだ逆転しており、高給の終身雇用契約者の身分は保護され、定型業務の方は権利も保護もドンドン切り崩されているというアンバランスがあるわけです。
もう1つは、政治にとって雇用確保ということが最重要課題だという認識です。雇用というのは、その国の、あるいはその地方自治体にとって最優先事項であるわけで、例えばアメリカの場合ですと、失業率が悪ければ大統領でも再選されない、つまりクビになるわけです。各州の知事にしても、市町村長にしても雇用は最優先課題で、80年代から90年代などは各州の知事が日本にこぞって出張して熱心に企業の誘致をしていたものです。
ですが、日本の場合は雇用統計の上がり下がりが重要な政治課題になることは、比較的少ないように思われます。その背景には、現時点で安定的な雇用を確保している人の多くは終身雇用契約であり、多少の情勢変化でその地位が脅かされることはない、つまり「明日は我が身」という当事者意識がないということがあると考えられます。こうした終身雇用契約を得ている人に加えて、年金受給世代を足すと、「失業率は他人ごと」だという巨大な人口があるわけで、結果的に雇用統計が政治家の成果判定などで重視されない、どうもそう考えるしかないようです。
そんなわけで、日本は発展途上国のように「今日より明日は良くなる」ということもなければ、先進国の「管理職はクビになるが、非管理職は比較的安定」というバランス感覚もないし、雇用統計によって厳しく政治家の評価がされることもないわけです。
労働の現場に能力主義を持ち込むなど、経済合理性を導入することを「悪」だという批判があります。ですが、雇用の問題に関して言えば、日本で現在進んでいることは「経済合理性の導入」というよりも「封建主義的な不公正の拡大」に近い、そう考えるべきだと思うのです。
「労働分配率の強制修正」、「世界で日本のみデフレ」、「デフレ脱却には賃金上昇が不可欠」、「なぜデフレなのか、なぜ放置するのか」
欧米では特にヨーロッパでは、事実として高給の管理職は労働保護の対象ではなく、末端職制と労働者は労働保護規制と労働組合で守られる。
労働保護規制は日本と大きな違いはないが、その運用は使用者に厳しい。なぜなら労働組合が強力だからであるが、この労働組合が日本とは基本的に異なっている。
日本では戦後の産別会議解体以来、企業別労働組合が基本単位となっており、しかも企業内に組合員と非組合員がいる。この労働形態は欧米では「黄犬契約(イェロードッグ)」と呼ばれ、侮蔑の用語である。
欧米では労働組合は基本的な組織が職能組合、職業組合、産業組合であり、企業別労組は無く、職場単位は文字通りの「分会」である。この分会はその職場の各職業組合と連携する。
企業別労組ではないので、企業倒産などで失業しても組合員資格は有効であり、組合費は減免もしくは免除されるだけである。
逆に企業に雇用される場合は、多くは当該職種の組合員であることが条件となる。
賃金闘争は労働団体と使用者団体の交渉の形をとり、交渉成果は個別企業の賃金ではなく産業、職業の横断賃率として決定される。
こうした労働組合が大きな社会基盤をもっており、労働保護法制の改正、運用に力を発揮し、また政労使交渉を行う。欧州全体とカナダ、豪州、ニュージーランドなどでは、こうした社会基盤が戦前からの労働党、社民党などの左派、中間左派政権を生み出してきた。
社会全体にもストライキに反対する風潮は、日本に比べ極めて弱い。
こうして、高給の管理職は労働保護の対象ではなく、末端職制と労働者は労働保護規制と労働組合で守られる社会ができあがってきたのである。
日本では残念なことに高給の管理職ほど職は安定し、労働者は様々な形態の不安定雇用が蔓延し、正社員ですら賃金が削減されている。
黄犬契約の企業別労組が立ち上がるわけもなく、日本の労働者は、誰も守ってくれないのである。
日本では一見すると経済合理性で人件費コストの削減が進んでいるようにみえるが、作り出している雇用形態は、高給安定雇用の家臣団と、死ぬまで搾り取られ過労死する農奴農民という封建時代ではないのか。
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日本の雇用の敵は「経済合理性」ではなく「封建主義」ではないのか? 4/4 冷泉彰彦 Newsweek日本版
日本の公務員組合は、既得権を守られた集団ということで批判の対象になることが多くなりました。一方で、多くの民間企業にも組合はありますが、業績が不振だとか、国際競争に負けたという経営側の説明に対して戦うことはまずないわけで、こちらの方も存在意義が問われても仕方がないのかもしれません。
また、現在のように消費者に全能の立場が与えられている社会では、交通機関などがストライキを行うことは社会的支持を得るのは難しいとも言えます。国家公務員へのスト権付与が検討されているのも、世論を恐れて行使できないだろうという計算を含めた動きとも言えます。
こうした雰囲気を受けて、労働者の権利というのは幻想だという理解が広がっています。例えば若者が良く「ブラック企業」という言い方をしますが、具体的には労働基準法の違反が行われている場合が多いのだと思います。
ですが、労働基準監督署が摘発したり、被害者が訴訟して勝ったり、あるいは組合が立ち上がったりして是正がされることは「ないだろう」という理解がそこには伴っています。「ブラック」に入ってしまって健康を害しては損だから、できるだけ避けようという自衛を講ずるしかない、この「ブラック」という言い方、そしてほとんどが匿名で行われるコソコソした「悪い噂」にはそうした諦めを伴っているように見えます。
こうした風潮は、何も若者が脆弱化したとか騙されやすくなった、あるいは法律や社会制度への知識が欠けているから起きているのではないようです。長引く不況と、負け続ける国際競争の中で、人件費はコストであり、コストが過大になれば地方自治体も民間企業も破綻して、結局は雇用が失われるわけであり、どこにも打ち出の小槌はないのだという諦めにも似た理解がそこにはあるようです。
例えば、労働者を保護しようという趣旨で法律を「いじって」も、例えば契約社員を5年経ったら正社員にせよという法律は結局は「契約社員は満5年の直前でクビ」という運用を増加させるだけと予想されるわけです。
このように、言葉だけは立派でも現場を知らない人間が設計した制度では、労働者の利益には全くならないわけです。こうした表面的な法改正も、閉塞感を増すだけの結果に終わっています。
では、結局はこの世は弱肉共食であり、運が悪く立ち回りの下手な労働者は過労死に追い込まれても仕方がないのでしょうか? 結果的に戦後日本の輸出立国とか「総中流」というのは、一時的に成功したバブルのようなものであって、競争力が失われ人口減のジェットコースターが内需を引き連れて谷底へ向かう中では、結局は女工哀史的なものが再発する形で貧富の格差が広まるのはどうしようもないのでしょうか?
2つの問題提起をしたいと思います。
1つ目は、アメリカやヨーロッパでは、国内向けの定形仕事で食べてゆく仕組みが守られているという事実です。まず大原則として「高待遇の仕事は実力主義であり一切保護されない」一方で「定型業務は9時5時仕事で家庭生活と両立。身分も組合に守られている」というバランスがあります。更に言えば、定形仕事であっても運輸業など「人の命を預かる仕事」には「ちゃんと生活できる給料を払わないと安全は確保できない」という一種の常識も残っています。
勿論、公務員にしても民間にしても、定形仕事の身分が保証されているというのはコスト高になります。アメリカの場合ですと、自動車産業の組合員などは余りにも高コストだということで、会社の再編と共に既得権も取り上げられることになりました。
地方の財政破綻のために、公務員や教員に対するレイオフは今でも続いています。全体に欧米でも労働者の権利は徐々に削られる方向にあるのは事実です。
ですが、物事の順序として「高給の管理職はいつでもクビになる可能性があるが、非管理職の組合員は身分を保護されている」あるいは「成果主義の管理職は早朝出勤も海外出張もするが、定形仕事の非管理職は家庭との両立が可能」というバランスはまだ残っているのです。日本の場合は、これがまだ逆転しており、高給の終身雇用契約者の身分は保護され、定型業務の方は権利も保護もドンドン切り崩されているというアンバランスがあるわけです。
もう1つは、政治にとって雇用確保ということが最重要課題だという認識です。雇用というのは、その国の、あるいはその地方自治体にとって最優先事項であるわけで、例えばアメリカの場合ですと、失業率が悪ければ大統領でも再選されない、つまりクビになるわけです。各州の知事にしても、市町村長にしても雇用は最優先課題で、80年代から90年代などは各州の知事が日本にこぞって出張して熱心に企業の誘致をしていたものです。
ですが、日本の場合は雇用統計の上がり下がりが重要な政治課題になることは、比較的少ないように思われます。その背景には、現時点で安定的な雇用を確保している人の多くは終身雇用契約であり、多少の情勢変化でその地位が脅かされることはない、つまり「明日は我が身」という当事者意識がないということがあると考えられます。こうした終身雇用契約を得ている人に加えて、年金受給世代を足すと、「失業率は他人ごと」だという巨大な人口があるわけで、結果的に雇用統計が政治家の成果判定などで重視されない、どうもそう考えるしかないようです。
そんなわけで、日本は発展途上国のように「今日より明日は良くなる」ということもなければ、先進国の「管理職はクビになるが、非管理職は比較的安定」というバランス感覚もないし、雇用統計によって厳しく政治家の評価がされることもないわけです。
労働の現場に能力主義を持ち込むなど、経済合理性を導入することを「悪」だという批判があります。ですが、雇用の問題に関して言えば、日本で現在進んでいることは「経済合理性の導入」というよりも「封建主義的な不公正の拡大」に近い、そう考えるべきだと思うのです。
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