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百人百話:吉田幸洋さん

  百人百話:吉田幸洋さん     書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

Q.自己紹介をお願いします。

 吉田幸洋といいます。
 私はいわき市の北部なんですけど、いわき市の久ノ浜地区というところで、いわき市の海岸線沿いに地域があるわけなんですけども、ここは3.11のころ地震と津波。
 それで私は無職なんでございますが、私たちが住んでいる部落はいわき市の中の海岸線に位置していまして、今度の3.11では、地震と津波、それと火災によって、旧市街というか、街部分なんですが商店街を含めて壊滅的打撃を受けたわけなんですけども。

Q.震災後の状況を教えてください。

 そうですね。旧市街地というとほとんど7割8割が全部なくなっちゃったわけですね。
 津波で。
 それと合わせまして原子力発電所の爆発事故がありまして、避難所に居た人間が、やはりまた再避難するというような事態がおきまして、私は幸いにもこの地震と津波では高台に家がありましたので、逃れたわけなんですけども、被災した方たちの支援ですね。炊き出しとか、そういったものをやってたわけなんですね。
 ですから、3.11、3.12、この時点で、炊き出しをやってたわけなんですけども、突然警察とか消防のほうから、
「逃げろ」
というような形で、その避難所にきたものですから、どういうことかわかんなかったんですけど、その「逃げろ」という言葉に我々もボランティア的な形で取り組んでたんですけども。

Q.それはいつの話ですか?

 3月13日、私は3月11日ですね。

Q.どのように避難されましたか?

 仕事先に向かってたんですよ。それで、「さて仕事に取りかかろうかな」と。3時からの勤務体制だったものですから、その準備をしてたんですけども、自宅のほうから電話がありまして、
「今久ノ浜地区が地震と津波で大変な状態になってる。仕事やってるような状態じゃないから、すぐ自宅のほうに戻ってほしい。」
と、自分の家内から連絡あったんですけど、それで私はとりあえず、仕事場から自宅に戻ったわけなんですけども、あの当時のパニック、やはり国道なんですけども、まぁ車が走れない、そういうような状態だったわけです。
 道路は崩壊してましてね、なかなか自宅には戻れない。通常ですと25分から30分で自宅に着くんですけれども、やはり2時間、3時間はかかっちゃったわけなんですね。
 その中で自宅に戻って、街の市街地の方を見たら、そこに火災が発生してましてね。空は黒煙っていうんですかね、黒いような煙なんですが、そういう状態で街全体を覆ってまして、私の家の前を被災した方が避難所に向かって、避難してるわけなんですけども、私はその段階で、もう夕暮れになって暗くなってましたので、灯光器を上限に向けてつけて、やはり避難者の方に対して、足元が暗くてご不便だろうという形の中で、灯光器を灯したわけです。
 それと玄関を開けておきまして、トイレ利用の方もおりましたので、トイレの利用等々、そういったものに対しても自宅を開放したわけなんですね。
 それと、テレビ報道、これをやはり玄関を開けておくことによりまして、テレビの画面が表からも見えるような状態でしたので、情報の提供というような対応もしておったわけなんでございます。
 それで、その避難所っていうのは、私の家から200mくらいの高台の久ノ浜中学校というところに設けられたわけなんですけれども、そこに被災された方が全員避難してきたわけです。

Q.津波はご覧になりましたか?

 自分自身は見てなかったんです。職場に居た時には、地震によって駐車場が大きな地割れしまして、割れているのが見えたわけなんですね。

Q.今おいくつですか?

 私は62になるんですけども。はい。

Q.今何かお仕事はされているんですか?

 アルバイトっていう形で、声が掛かればそこに仕事にお手伝いにいくという形なんですけどもね。

Q.前の仕事は何をされていたのですか?

 それはですね、水産業、第一次産業の漁業協同組合というところに奉職してたわけなんですけれども。

Q.現場に戻った時には、既に津波は周囲を囲っていた?

 はい。自宅に戻った時には、もう津波の被害がありまして、もう街全体が瓦礫の山になってました。

Q.炊き出しをはじめられたのは、いつ頃ですか?

 はい。自分はですね、12、13なんですけども、久ノ浜地区は13日でもって、全員また二次避難、三次避難という形になったわけなんですね。
 その当時ですね、いわき市のほうから、
「バスを用意します」
という形のなかで、久ノ浜地区だけじゃなかったんです。その当時は富岡・楢葉・広野の方々も久ノ浜中学校のほうに避難されてた方もおりまして、その方々も一緒に湯本地区の方に避難したわけですね。
 私の場合は、朝の炊き出しのほうをボランティア活動でやってたんですけど、その段階で「避難しろ」という形で、消防団とか警察のほうから、パトカーのほうから連絡がありまして、わけがわかんない状態で、もうそのままの状態で湯本地区のほうに避難していったわけなんですね。
 ですから、私たちも地震・津波の被害は無かったんですけれども、それこそ着の身着のままというような状態で避難していったわけなんですね。

Q.避難をされた初めの頃、原発事故は念頭にあったか否か?またそれを知ってどのように感じたか?

 えーっと、原発事故のことは想定はしておりませんでした。考えては無かったです。
 ですから、私どもが「避難しろ」という指示が出た段階で、
「原子力発電所に事故が起こった、爆発事故だ」
というような形を聞かされた時には、まぁ自分も
「そんなことがあるんだろうか?まさか原発が事故を起こすんだろうか?」
と、そういうな気持ちになりました。

Q.なぜ原発は安全だと思っていたのか?その時点までで、原発に関して知っていた知識は、どのようなものだった
のでしょう?

 やはり、現在まで私の場合はですね、原子力発電所は今まで事故が無かった、事故が無かったと。そういう中でやはりテレビ報道とか、新聞報道の中で度々原子力発電所を記録の隠ぺい、記録隠し、そういったものがあって、やはりプルサーマルがちょっと軌道に乗らなかった。それでも3号機がそういった稼働できるようになったということは、安全審査とかが通ったからだと私なりには思ったわけなんですけど、やはり原子力発電所は、これからのこの日本に対するエネルギーの問題で、必要だということを吹き込まれて、『安全だ。安全だ。今まで大きな事故が無かった』ということで、この放射能、放射線っていう知識自体がなかったわけです。
 今回、この事故がありまして、放射線、放射能のそういったものを身体に本当に嫌というように浸みこみましたですね。

Q.その当時、安全性は疑わなかったということですか?

 原子力の安全性については、いみじくも・・・、安全に対して疑ったことは無かったです。
 私たち福島県民として、それと原子力発電所が立地してる大熊・双葉地区よりいわき市は距離的にも離れてるんで、それほどその事故が起こっても影響は無かったのかなと、そういうふうに思ってましたけれども、あとで報道等によって知ることになるわけなんですが、いわき地区は3月15日から16日にかけて、やはり放射線の相当セシウムとかヨウ素とか、そういったものが飛来してきたんだなというようなことは、あとでやはり新聞等・テレビ等で知ったわけです。
 それは、私たち避難所に居た時のことなんですが、それについても政府なり行政機関は、そういった情報を持っていながら、やはりその地区の住民、それに対しての情報開示が遅れていた。遅れていたっていうより、情報を知っていながら情報操作をしたんじゃないかと、私はそういうふうに捉えております。

Q.原発事故の第一報を聞いた時に感じた率直な思いをお聞かせください。

 そうですね。
 あの、第一原発が爆発事故、水素爆発事故を起こしたというようなのは、第一報は、政府からの警察関係、防災関係の消防団のほうから、耳にしたわけなんですけど、その当時は、
「これはエラいことが起こったな。」
とにかく目に見えるものではありませんので、この状態からとらえようがなかったんですけども、やはり線量なんかを測ったりして、計測器を持ってきて避難所でも私たちが検査を受けたその段階では、
「これはエライことだ。2日や3日、1月2月では、これは解決しないな」
と自分なりに思いましたね。

Q.その後、避難所から戻れるようになるまで、どのくらいかかったのですか?

 それでですね、避難所から戻るような状態になったのはですね、いわき市長さんが、私たちは湯本高校の避難所に居たわけなんですけれども、記憶では4月11日12日ころだったと思うんです。いわき市の警戒解除というものがありまして、それと4月11日ですか、政府の警戒区域、警戒準備区域というような段階を示されまして、その段階でいわき市はそこに含まってなかったわけです。
 私たちは直線距離にして第一原発から私の自宅は30.8kmなんですよね。
 ですからあの当時30㎞圏内という形だったんですけれども、それは大久川があるんですけど、そこを境にして30㎞圏内と。私のとこは、南側だったんですが、そこから800m。直線距離で。そんな関係で、私どもが避難の圏外になるわけなんです。実際はね。ですけれども、そこは久ノ浜っていう町になってるものですから・・・

Q.久ノ浜?

 久ノ浜。
 永久の久です。
 ここは水産業が盛んで、いわき市の大体常磐口の魚なんかはやはり上物として、東京の築地市場では・・・、結構高級な、そういう魚があってるわけなんですけどめ。

Q.現在はどこで生活していますか?

 自分は自宅が地震の被害がそんなになかったんです。壁に亀裂が入ってテレビが倒れたくらいです。
 食器類は全然大丈夫で、2回目の4月11日の地震では、給湯器のオイルタップが倒れたくらいなんで、ですから被害的には、皆さんに申し訳ないんですけど、自分の自宅としてはそんなに被害はなかったんです。
 ただ、原子力の放射線物質の問題が、やはり重くのしかかったわけなんですね。

Q.自宅にお戻りになったのですね?

 はい戻りました。
 4月の後半ですね。

Q.4月の後半まで中学校の体育館で寝起きしていたのですか?

 もう中学校の避難所っていうのは、原発の水素爆発事故によりまして、やはり底も移動になって、その避難所全体が、また湯本地区に避難することになったわけなんですよね。

Q.どのくら離れていたのですか?

 えーっと、うちのほうからですと、20㎞から30kmになりますかね。原発からは40㎞以上は離れてると思います。
 自分たちは安全だと思って、そこに避難したわけです。

Q.今考えても安全なところですか?

 その辺は自分としてもわからないです。
 線量は新聞とかテレビのテロップに流れるんですけど、いわき市の中心部、役所に駐車場で測ってる分には、線量は低いということですので、湯本地区はもっとそれより南側にありますもんで、まぁ安全ではなかろうかと、こういうふうに思ってる次第なんですね。

Q.実際に計測している人は誰もいない?

 そうですね。私の知ってるところでは、各支所においては測ってるようなんですけどね。

Q.行政ではなく、一般市民で計測している人はいないのですか?

 そういう情報は私のほうには入ってきていません。
 自分としては測りましたけどね。

Q.お持ちで?

 いや、線量計を借りてきて、9月2日に測ったんですけども、比較的私の住んでる自宅は、市が発表してるよりは高いです。

Q.数値でいうと?

 そうですね。0.3、今日あたりは0.34っていうんですけど、私の住んでるところは、それ以上もっと高いです。

Q.どのくらいですか?

 それの2倍・・・。数字ですか?0.6。場所によっては1.2とかそういった箇所もあります。自宅なんですけども、特に駐車場の方が高いです。それと垣根が濃いですね。その垣根類は高いです。

Q.いくつですか?

 垣根の場合は、2.0とかそういったものの値を示す時もあります。

Q.行政の発表より実際は高いのですね。

 測ったら高いです。

Q.行政の発表は当てにならないとお考えですか?

 行政の示してる値は、やはり0.18とかそういったものは、いわきの中心部であって、私たちは双葉郡に接してるわけで、そこのいわき市の北部についての線量っていうのは、やはり比較的高いんじゃないかと思ってます。

Q.個々に測らないとダメですね。

 私は個々に測ってもらいたいなと、こう思っております。
 それでですね、この放射線量の件なんですけども、私たちが避難した3月4月には、やはり線量計、測定器具っていうのは無かったわけで、測定機による放射線の計測っていうのは、避難所においても実際には行われなかったんですが。測れなかった。

Q.測れなかった?

 それによって、自分たちは数値っていうものが全然捉えられなくて、これで安全なのか、安全でないのか、その判断っていうのは、全然することができなかった状態ですね。
 ただただ、政府の発表によって、
『影響はない。ただちに影響はない』
というような言葉だけに頼るしかなかったと、すがるしかなかったと、そういうような実態でした。

Q.湯本地区の避難所はどういうところでしたか?

 はい。学校の体育館です。久ノ浜地区、大久地区っていうのがあるんですけど、いわき市の北部に。ここの住民はやはり湯本の小学校、中学校、高校のわたしたちは、高等学校の体育館に避難していたわけなんですけど、湯本の中学校、小学校の体育館、それと内郷地区にあるんですけど、御厩小学校、高坂小学校、内郷一中とそういったところの体育館に分散して避難したわけですね。

Q.避難所での生活はどのようなものでしたか?

 当初ですね、3月っていうとまだいわきも雪がちらついてましてね、いわき市は温暖な地域だということなんですけど、その当時は雪も降ってまして寒かったです。
 体育館で寝起きをするのにも、毛布1枚。毛布1枚で家族身を寄せ合って過ごしたものですから、当時私どもが避難した時には、476名でしたかね、避難した人数が。
 その中で、本当に身を寄せ合ってすし詰め状態で寝起きをしておりました。
 ですから、この思いなんですが、私たちが暮らしが豊かになったわけですけれども、いざこういうふうな事故が起きると、プライベートな面、こういたものがなくなるわけです。ですから、精神的にも、これは言葉に表すっていうのは大変なような状態で、避難生活は送ってたわけなんですね。

Q.いつまでそこにいたのですか?

 自分の場合はですね、4月の後半までいたんですけども、そのほかの方々は仮設住宅、借り上げ住宅が手当てができるまで、避難所にいたわけなんですが、私たちはいわき市長の安全宣言に基づいて、やはり自宅のほうに戻っていったわけなんですけども、私たちが自宅に戻っていった段階では、久ノ浜町という、被災に遭わなかった私たちの部落の中でも、やはり人はまばらで、この部落に戻ってくるのは、5月になってから活気づくようになりましたね。

Q.混乱状態で、どういう情報は得られ、逆に得られなかった情報は何ですか?

 情報源としましては、私どもが避難してた湯本高校の体育館は、ラジオはありました。ラジオによって情報を得てたわけなんですね。それと、新聞は各社の新聞が入ってきました。ですから新聞等によって情報は得てたわけなんですが、テレビは後々になって、テレビが支給されたわけなんですね。
 ですから、当時情報源としましては、ラジオですね。その避難所にNHKさんのほうから、個々に携帯ラジオが支給されまして、個人個人にイヤホンで夜もその情報を聞くことができたわけなんですけども、当初はラジカセが1台か2台があるだけで、全員が情報を持っているという状態ではなかったですね。

Q.インターネットは?

 インターネットは無かったです。
 それと電話なんですが、各々にケータイ電話を持ってたわけなんですけども、充電するのに大変な状態が起きましたね。それぞれの充電が、当初は、もう間に合わないというような状態だったんですけども、後からはKDDIさんのほうで、まNTTさんですかね。そちらのほうでまとめて充電できるような充電器を支給していただきましてね、それによって一度に何台というような充電ができるようになったんですが、当初はコンセントに1台が1台でございまして、みんなの充電ができなかったというような状態です。

Q.原発の推移について、どのように理解していたのですか?

 情報というのは、さきほども申した通り、ラジオと新聞報道しか私たちには入ってこなかったんですが、やはりその中でも政府の情報隠しと、そういようなことが、『東電は嘘をついているんじゃないか』というような会話の中で、私は嘘をついているというようなことは???おりませんでした。
『これは、政府や東京電力による情報操作だ。こういうふうに情報操作なんだ。嘘じゃないんだ。後出しじゃんけん』
という言葉がありますけれども、物事には表と裏があるように、本音と建て前ということがありまして、
『隠してた、操作をしてた、情報の操作をしてた』
と私は思ってました。避難所でね。

Q.実際よりは深刻な事態が発生しているのではないかと疑っていたと?

 自分としては、もう疑ってみてました。

Q.避難所からお戻りになってから、現実を知っていくプロセスを教えてください。

 4月の後半に自宅のほうには戻ったんですが、それ以来、外での活動っていうのは一切しないで、自宅の中に閉じこもりです。洗濯物、こういうのも室内干し、外には干せなかったような状態、というのは、放射性物質の値っていうのを計測するすべがなかったわけで、自分たちの判断の中で、「どのように日常生活を送ればいいのか?」と、自宅に戻っても、ようするに「明日どうなんだろう?あさってどうなんだろう?」と、そういうような胸の内にありましたので、そのことだけで1日が経過していった。
 こういったもどかしさの中で、今日まで過ごしたというのが実情です。

Q.家族構成を教えてください。

 自分のところは、妻と私と二人なんです。
 それと、自宅の下なんですが、娘と孫がおりまして、これらも同じ湯本高校のほうに避難はしてたんですが、自宅に戻ったのは同時期だったんですが、別々に生活してるわけですね。日常生活は、私は妻と二人なんで。

Q.同じ家に二世帯住宅なんですか?

 いや、別なんです。
 近くに住んでるわけなんですが、それは本当の30㎞圏内なんですね。川挟んで北側なんですね。次女なんですけども、私の娘は38になるところなんですね。孫が中学2年生と小学5年生で、最近まで放射線の問題で、子供たちとか乳幼児の問題でいろいろ騒がれてるわけなんですけども、家族の中でもやはり
「地元に残る」
「いや地元より放射線の影響が少ない遠くへ避難する」
これは、若い娘たちの考え。私も子供たちの、孫たちの安全性を考えたらば、やはり自宅より久ノ浜より、外に避難したほうがいいのかというようなことを常日頃考えてまして、「どうしようかな」と思ってるんですけども、やはり避難所生活の思いをしましたら、
「自宅ほどいいものはない」
とこう思って、今も生活を送ってる状態なんですね。

Q.避難所から戻られた後、原発の現実と放射能の状態は、何によって知られたのですか?

 そうです。はい。
 まずは帰ってきてテレビメディアですね。それと新聞。それと書籍等。それと地域におきましては講演会。原子力、原子力災害についての講演会なども、地区におきまして催されたものですから、そういったものには全部出席しましたね。参加しました。

Q.例えばどういったところに?

 ちょっと学者さんのお名前はちょっと私も判らないですけども、やはり線量を測って、線量マップというものを作られている、そういった作業に携わってる先生方がおいでいただいたわけですけれども、やはり線量の発表されてるんだけども、一定ではない。ところどころによってはばらつきがあるんだというようなことで、そういった資料なんかも提示していただきました。
 そういう中で、
「あー、自分の住んでる地区は、発表されてる以上に高いんだな」
と、こう思いながらも、自分でも除染っていうか、そういった形で除草、それと生垣がありますので、それを伐採、垣根の伐採。そういったものを今やってる状態なんです。

Q.それはいつ頃から?

 そうですね、9月2日に線量計で自分で測りましてね、やっぱり報道等による線量の発表より、計測値が若干高かったものですから、
「これはちょっと日常生活に、ちょっと・・・異常をきたすんじゃないか」
という自分の考え方で、
「これは何らかの手を打たなきゃなんない、除染っていうものをしなきゃなんない。」
というようなことで、水道の圧力をあげて、玄関前とかそういったところの水洗いとか、それと今言う、垣根の伐採。それと、駐車場等の除草。そういったものを今現在やってるとこなんですね。

Q.それで線量は下がりましたか?

 それはまだ絶対的に今週あたり、今週の末あたり、今月の末あたりになりますかね。また線量計をお借りして、その後の線量を測りたいなと思っております。

Q.原発事故について、何の影響で考え方が大きく変わったのですか?インターネットは使っていましたか?

 インターネットそのものは、私、やらないんです。できないんです。
 それは千葉県にまだ娘が居るんですけども、三女が千葉県におりまして、インターネットとかの情報を私の方にもらいまして、それで三女のほうが、
「千葉のほうに避難してこい。まだそっち安全でないかもしんない。だから千葉のほうに今でもいいから避難してこい」
というようなことは再三言ってくるんですけど。

Q.いつ頃から言ってきてくれましたか?

 そうですね、3月。湯本高校の避難所に避難した段階から言ってましたね。

Q.なんで行かなかったのですか?

 行かなかった理由はですね、移動手段がマイカーだったものですから、あの当時ガソリンが入らなかったんですね。給油できなかったんです。
 それで私どもは当初、千葉か横浜に避難しようかと思ってたんですけども、そこまで行く燃料がなかった。足りなかった。その後も、燃料が手に入らない中で、とりあえず近かった湯本高校のほうに避難したということなんですね。

Q.3月に電話をもらったとき、自分と娘の情報量の差をどう捉えましたか?

 なぜその当時、知識が薄いとはいえ、パソコンでの情報等に基づいて避難しなかったかということについては、自分の場合はですね、自分の家族だけではなくて、これは都会の方にお話しても分からないのかもしれないんですけども、この『家族』家族っていう構成なんですけども、私の方は本家とか、分家とかそういうものが縦横のつながりがありまして、家族、親族、血縁ですね。そういう形の中で、本家も分家も町が下にあったものですから、地震と津波の災害を受けたわけですね。
 それで、私のところに本家も分家も避難してきてたわけなんですね。
 それで、避難のときは、本当に『一族』っていう言葉があるんですけれども、一族でもって避難行動をとるものですから、4人とか6人の1単位の家族ではなくて、やはり『一族』というような単位で避難ということがあったものですから、やはりそこでそれだけの大人数が、千葉・横浜に避難できるか?というような思いがありましたね。
 ですから、私としては避難所において、「ある落ち着きを取り戻すまでは、避難所で生活していようか」と。
「最終的決断というのは、やはり自分としてはくださなきゃなんないだろうな」
と、常に思ってました。
「その避難所から、また『一族』ごと、何らかの手立てを講じて、避難していかなきゃなんないな」
と、こういうことは、常に思ってましたね。はい。

Q.もう一度家族構成を詳しくお聞かせください。

 私の家族構成なんですけども、私は娘ばっかり4人なんですが、長女は新潟のほうに嫁いでまして、40歳ですね。次女が36歳。これは私の親許のそばにいるわけなんですが、三女が千葉にいるわけです。四女は自衛官で、今度の東日本大震災には、災害派遣で三重県の東松島市のほうに災害派遣で行ってましたね。
 ですから、私どもが避難したときも、自衛官であるがゆえに、やはり
「お父さんお母さんどうですか?」
というようなことはできなかったんですが、連絡がついて
「今、東松島市で頑張ってますよ。みなさんのためになってますよ」
という連絡があった時には、
「ありがとうね」
というようなこと、たった一言ですけど、「ありがとう」というようなことでもって、感謝ですかね。今回のこの自衛隊の皆さまには、本当に頭が下がる思いっていうか、頭を下げても下げても、やはりこれは本当の気持ちの中で感謝しても感謝しきれないという思いがありますね。
 その『一族』という私の言葉の中には、父方・母方があるんですけれども、母方の場合は、今度の震災には影響が無かったわけなんです。住んでる場所は同じいわき市なんですけど、影響がなかったんですね。それで、私が申します『一族』っていうのは、私は吉田なんですけど、父方の親族なんですけど、後世としましては、久ノ浜地区には本家・分家。私も分家なんですけど、三形態がありまして、先祖をたどれば、久ノ浜地区の吉田っていうのは、みんな親戚なんですけれども、やはりここには津波で家屋敷がなくなっちゃった遠い親戚もおりますが、私が申している『一族』っていうのは、本当の父方の兄弟。このことを指してるわけなんですが。

Q.何家族あるのですか?

 三家族ですね。
 それで今度の原子力発電所の水素爆発事故に関する避難に際しましては、一旦小名浜っていう地区があるんですけど、港町なんですけど、ここにおばさまもいるわけなんです。このおばさまのとこに一旦全員集合して、そこから身の振り方、千葉に行くのか横浜に行くのか、そういった物事決めようという話で、一旦私は小名浜に本家もそのほかの分家も行ったんですけども、もう一つの分家が、直接千葉の方に避難しちゃったわけなんですよね。
 それで、私どもも「千葉のほうに行こうか」とそういうふうに思ったわけなんですけれども、ほんと、ガソリン、車の燃料が不足してた。それと、小名浜のおばさまのところも、やはり水道が出ませんでしたので、援助がなかったということで、私たちが携行していた飲料水をおばさまのとこに置いて、
「それでは千葉のほうに行こうか」
と言ったんですけれども、途中、スタンドによったらば、車がずーーーっと並んでましてね。自分の車の番になるまでには、ガソリンがなくなっちゃったと、そういうような段階で、
「それではこれでは関東圏内には避難できないな」
というような思いから、身近な避難所であるいわき市の久ノ浜地区、大久地区の指定避難所である湯本地区に向かったわけなんです。

Q.事態の危険性を認識することはできた。しかし、親族全体を考えるとどうしても移動できなかったということですか。

 それでですね、その避難に際しまして、自分としては避難所に居て、千葉の三女からの情報、インターネットからの情報に基づきまして、これは大変なことが起きてるというような状態だったんですけども、この『一族』を考えた場合、自分だけの家族を守るために千葉・横浜のほうには、自分だけ避難するというような行動はとれなくて、やはり本家、または私以外の分家、これを残して自分だけが避難するというような行動はとれなかった状態なんですね。
 それで、私は忸怩たる思いで避難所で生活を送ってたわけなんですが、その忸怩たる思いというのは、やはり吉田一族、これを本家・分家、私を含めたこの一族の行動なんですが、これを私の家族だけを守るため、本家・分家を見捨てることができない。
 これは、土地柄、県民性、いわきの地域の特性って言いますか、やはりこれは、血縁。これで結ばれて、これが今回テーマになった絆というものだと思うんですね。
 自分としてはこの絆があって、この地域で生活していけると、そういうふうなことだと思うんです。
 これはなぜかというと、『助け合い、互助の精神』、そういったものが私どもの地域には、深く根ざしておりましてね、やはり先祖から受け継がれた血縁関係、そういったものが私たちの枷になってるといえば、枷になってるわけですけれども、いざ???だという状態になると、やはり強い力を発揮するのですね。
 これは、私が言葉で言ってますけども、都会の方にこれを判ってもらおうとしても、なかなか都会の方は理解されないんじゃないかなと、こう思うんですけど、特に私ども、原発被害に遭った地区は、そういったものが強いわけでございますね。

Q.避難所から帰られたとき、他の親戚一族も自宅に帰られたわけなんですか?

 はい。避難所からは、同日に一族揃って自宅に戻ったわけですね。
 それと、津波被害にあった分家なんですけど、これはやはり被害にあったもので、私どもと一緒に自宅に戻るということができなかったんですが、千葉の方には避難はしてたわけですね。
 それで千葉の方に避難しますとね、やはりいわき地区の情報が入っていかないそうです。それで、毎日のように
「そっち今どうなってる?」
と、いわきの情報を、やっぱり千葉のほうに避難してても、いわきの情報を求めて、私どものほうには連絡は入れておりましたね。

Q.帰られたということは、4月末の時点で放射能の問題はどのように考えていたのですか?

 自宅に戻った4月の時点なんですけども、その時点でも行政、特にいわき市長が安全宣言を出した、その段階から私たちは「安全なんだ」と信じきって自宅で生活を送ったわけですね。
 その中でも半信半疑という言葉がありますが、日常生活の中でこの外での作業とかそういったものは、ほとんど手が付けられませんでしたね。気持ちの面でも、この気力の面でも、前向きな形、前向きな行動を起こせなかったのが・・・実際ですね。
 最近、8月の段階になって、月遅れのお盆を迎えるようになって、先祖様を迎えるにあたって、除草といったものを手掛けるようになったんですね。これは一つの除染活動の始まりだと自分では思ってるんですけれども、それまでは、何をやろうにも頭の中では理解はしてるんですけども、身体を伴った行動には出なくて、前に進めなかったっていうのが、自分の思いでしたね。

Q.ご自身や周りの人は体調を崩されたりしませんでしたか?

 自分の妻なんですけども、自分は今自宅に妻と二人で生活してるわけなんですけども、自分の妻は、避難所に避難してから、やはり体調に異変を起こしましてね。正直な話、ちょっと入院もしたんです。
 そういった形で、普通であれば災害がなかったらば、私どもは原子力災害といいますけれども、こういったものがなくて避難してなかったらば、私も妻も、体調を崩すようなことはなかったんじゃないかな。自分なりには考えてます。

Q.30㎞圏内に住む次女の方は、避難などされたんですか?

 現在は戻ってます。今は20㎞圏内というような状態で、現在は久ノ浜地区、大久地区は、全部大体は戻ってますね。
 現在もまだ戻ってない、3.11から避難した状態でいる方もおりますけれども、大体は、大体っていうのは9割方は久ノ浜地区に戻ってますね。

Q.放射性物質の影響は年齢によって出方が違うというのは、ご存知ですよね?

 放射性物質が及ぼす影響というのは、子供が、そういった方には、非常に影響がある、このようなことも、知識としては今回わかったわけなんですが、私の孫も同じ久ノ浜地区にいて、学校はいわきの中心部に通ってきてるわけなんですけれども、やはり祖父の立場として、この孫たちの健康、一番。自分の健康より孫の健康が一番心配で、
「果たしてこのままでいいのか?」
ということは、毎日そういった思いで生活をしております。
 その中で仮設住宅があるわけなんですけども、一部の方は仮設住宅に移りながら、子供さんを守ってるということがあるんですけれども、自分としては、『安全だ』と言われて疑心暗鬼の中にも、この放射性物質、目に見えないもので、直接どのような影響があるのかわかんないんだけれども、やはりその先祖から残されたこの土地。やはり郷土。これから離れたいというような思いが無くて、今日に至ってるわけなんですね。

Q.お孫さんをお母さんと一緒に避難させるという考えはないのですか?また、そういう話は出ませんか?

 そのことなんですけど、本当は若い娘たち、孫たちを中心として考えるべきだと思うんですけど、自分の娘はやっぱり地元っていいますか、久ノ浜地区。ここに残りたいというような考えが強いんですね。
 ですから、私どもは一度は借り上げ住宅、仮設住宅を手配のお願いはしたんですけども、これを断念したということがあります。
 これを断念というのは、やはり孫たちの学校生活、これが借り上げ住宅とか仮設になりますと、通学に不便をきたすものですから、そういった意味合いがありまして、通学に時間を要しない場所として、スクールバスも出るというような形でございましたので、自宅のある久ノ浜地区に戻ったわけなんです。

Q.お嬢さんとお孫さんのいる場所の線量は測られたのですか?

 そこも測りました。
 そこは私の家より線量が高いです。はい。

Q.どのくらいなんですか?

 その時はですね、3.0マイクロシーベルトってそういうとこまで針が上がった状態がありましたね。そこは私の娘のとこはアパートなものですから、大家さんが除染作業をその時してましたね。9月の2日の段階で。

Q.どのへんですか?

 外ですね。外のベランダの隅っていうんですかね。あと雨樋の下。あと、植木鉢なんかもあるんですけども、そういったとこは高かったですね。

Q.どのくらいですか?

 私が測った時は3.0なんかの数字が出ました。
 室内は比較的、ほんとうにゼロに近かったですけどね、部屋の中は。
 ですから、9月2日の段階で大家さんが屋根とかの除染をやってましたね。

Q.かなり高い数値だと思いますが、お嬢さんはどのように受け止めておられますか?

 そうですね・・・。
 大家さんからは「除染もするから」というような話でもって、
「除染するから、安全なのかな」
と、こういうような状況じゃないんでしょうかね。

Q.今海外赴任しているお婿さんの考えはどうですか?

 その辺の考えは私にも伝わってこないんですけども、私も直接電話にかけてるんですけど、なかなかつながらない状態で、夫婦の会話はしてると思うんですけど、旦那は横浜に社宅とかがあるわけですね。ですから、
「そこに行ってろ、避難してろ」
という話は当初からあったので、私たちは千葉か、千葉っていうのは吉田一族の親族ですね。そこか、その旦那の借り上げ社宅ですか、そこってとこを目指してたわけです。

Q.やっぱり行かないのは、お孫さんが学校に行ってるからですか?

 それがいつも変更できない、させらんないっていうのは、やはり孫たちの考えもあるんですけども、娘の考えとしてあると思うんですよね。
 そこから離れられない。
 子供たちのことを考えると、やはり地域の同級生などを考えると、成り立ちから考えると、思いきれないというような状態が続いてるんじゃなかろうかと私は思ってます。

Q.友達と離れるのは良くない、ということですね。

 そうですね。避難所においても、同級生たちが同じく避難してましたんでね。避難所の生活も同級生とのつながりもありましたし、学校が再開されても、その同級生が地元に居るという状態で、それも断ち切れない思いがあるんじゃなかろうかと、こう思いますね。

Q.小さいお子さんに鼻血がでたりといった身体症状が出ていますが、お孫さんや周囲の方からそういった話は?

 現在そういった話は聞いたことはありませんけどね。
 この福島県が、県民全員を健康調査するというような状態で予算化を図っていただいているんですが、この健康調査をやはり早く取り扱ってほしい。対処してほしいと今思ってる状態ですね。

Q.原発とはこの先ずっとつきあっていかなければならず、土地にも離れがたい。それをどのようにお考えになっていますか?

 それでですね。私が思うにはですね、なぜこの土地に縛られるのか?と、これはやっぱり私たちが子供の頃から先祖伝来という言葉があるんですけども、まさしくこの先祖伝来。これを失うというのは、自分たちの生活そのものがなくなっちゃうということなんですね。
 都会に行って、出稼ぎ的に職を得るというようなことは、なかなか自分たちの生活のサイクルの中では考え思いもつかないんですよね。
 その先祖伝来の土地でもって、生業として、そこの土地にしがみついて、がむしゃらに田畑を耕したり、私どもは生鮮業の町で、私の親も漁師だったんですけども、やはり海から切り離せないんですね。生活の場を。
 そんな中で、この『除染』と二文字書くわけですけど、
「海の除染をどうする。山林、それの除染をどうする。田畑の除染をどうする。」
と、口では『除染』というんですけども、私としては、もう言葉なんか、
「言葉じゃないよ。現地視察なんかいいよ。あなたたち、何回現地に入ってるの?もう行動あるのみでしょ?」
やはりこれは私たち国民、県民、市民の代表である議員の方々ですよね。
 ですから、これは党派を超えた、垣根を超えた対処の仕方をしていただかないと、ほんとの復興は前には進まないんじゃないかなと、私は思ってます。
 というのは、この放射性セシウムの問題。
 私は生産業の中で生きてきて、定年退職を迎えて今現在こうしているわけですけれども、福島県の漁業は、この海中にあるセシウムの問題で、常磐モノと言われる高級魚。これを採捕することができないわけですね。採捕することはできるんですけども、市場に出すことはできないわけです。
 漁獲といいますか。
 そういったものを国の基準値を超えた放射性物質を含んだ魚類。これを市場に出すことが出来ない状態です。現在も福島県の漁業は、再開が図れないわけです。
 一部宮城県とか岩手県は、一部施設はまだ完全に復旧されてないとしても、漁業としては取り組んでいられるわけですね。
そんな中から、この福島県、自分なりに思うんですけども、果たしてこの魚類、いつになったら、漁獲して販売できるのか?要するに漁民の方々が生計をいつになったらば、もとのとおりに維持できるのか?これもやはり漁民の方として不安であろうかと、私は思いますね。

Q.どうなると思いますか?或いはどうすべきだと思いますか?

 私はこの問題は、
「1年。1年経ったから魚類に放射性物質が無くなっちゃった」
ということは考えられないですね。
 沈殿したもの、これがどういうふうな状態になるのか私もわかりません。
 ですから、サンプル調査を今やってますけれども、この調査に基づきながら、学会なり業界なりが判断していくことかと思うんですけども、その間、漁業者、漁民の方はどういうような生活をおくればよいのか?と、東電は補償という形の中で、今本保障といいまして分厚い説明書、請求書を送ってきたわけですけども・・・

Q.ご覧になりましたか?

 私も全部は見てません。見てませんけども、これからじっくりと読んでいこうかなと思いますけども、この中で本当に漁業者の方は、この生活を維持するのにはどうすればいいのか?と、これが一番の悩みじゃないかなと。
 生鮮業に携わってきた私は、専門的な中で考えた時に、
「これは只事ではない。1年や2年じゃない。」
 それと田んぼの汚染米の問題ですけれども、田んぼの土壌についても、そう簡単には放射性物質は無くならないだろうと思っています。
 ですから、この件を国の総力を挙げて、どう対処するのか?どう対処すればよいのか?早い結論を見出していただきたいなと思ってます。

Q.同じ一次産業で苦しまれている立場から、汚染された表土をすきこむという自殺行為をどのように思われましたか?

 生産者の立場を考えますとね、政府の情報、この情報源なんですけど、ここに起因するものがあるんじゃないかと。田んぼ作付けする前の土壌づくり、すきこみだったんですけど、あの段階で自分が判る範囲でお答えしますと、あの時に政府が的確な情報を出していれば、生産者としてはあの作業はしなかったと思うんです。すきこみとかそういった作業。苗作りはやんなかったと思います。
 ですから、情報の後出し。
 それとこの『パニック』って言ったんですよね。国民に対して『パニックを起こす』というようなそういう発表もありましたね。あの『パニック』というのは、私どもにとっては理解できないです。『パニック』
 それは今、私が考えるとね、その当初、3月12日の水素爆発を起こした段階で、やはりアメリカなんかは80㎞圏までということを出してたんですが、日本政府は10㎞、20㎞って小出しにやってたわけですよね。あの時に、SPEEDIというものから情報が入ってたわけです。その時に、やはり日本政府は100㎞圏内までの捉え方をある程度してたんじゃないか?と。100㎞圏内というと、今の首都、東京も関東圏含まれるわけ。そうするとそこが避難対応を取ると、まさしくパニックになるわけですね。
 ですけども、最初は10㎞、20㎞って小出しにやってたその段階ならば、やはりあの情報は早めに出すべきだったんじゃないかと私は思ってます。

Q.知り合いの農家の方に、放射性物質は土壌深くにすきこんだ、そういった方はおられますか?

 実は私どもは作付けはやらなかったので、要するに私の親戚とかはやらなかったんですけども、隣町では田植えやってるわけですね。
 ですから、この放射線の問題なんですけども、これが早い段階でまさしく早い段階で線量を発表になってれば、この農作業っていうのは近隣近郊では行われなかったんじゃなかろうかと、私はこの1次産業、生鮮業なんですけど、農業も同じではなかったかなと思ってますね。

Q.農家には、土壌を汚したくない、危険な作物を作りたくないという思いがあるからですか?

 生産者の考えとしては、早い段階での情報があれば、田んぼの土壌、これをわざわざ汚すようなすきこみなどはやらかったと思います。
 それと田植えに向かって苗代づくりなどはやらなかったと思います。
 そのほかの野菜についても、なんらかの考え方は農家の方々は持ったと思います。
 私はそういうふうに感じております。
 それと、これは私だけの考えなのかもわかりませんが、『風評被害』と言われてますけれども、私はこれは
「『風評被害』じゃない。これは実際に実害なんだ」
と私は思っております。
 『風評被害』こういった生易しい問題じゃありません。福島県の野菜、果物、そのほか。それとこの東北被災3県については、全国からの熱い思いもいただいてますけども、半年過ぎた段階で、まだ『風評被害』という言葉を借りれば、花火の問題にしても、宮城県の末の問題にしても、真に私たち被災者を思うのであれば、あのような発言というのは
「松のお炊き上げを止めてほしい」
「花火の打ち上げをやめてほしい」
というような・・・発言は無かったのではないかと。
 これは、「その地域の方々が放射線に対する知識が希薄だった」、そういったものからもたらされたものじゃないかと、私は思っている次第です。

Q.花火をやるなと言った側に知識が足りなかったということですか?

 はい。
「花火をあげるな。放射線を撒くな。」というような話があったのですが、そういったこと、私は思います。

Q.福島をどう立ち直らせるべきか、福島は立ち直るとお考えか、お答えください。

 今までの自分の思いをですね、まとめるようなことになりますと、この割り切るような問題ではないと思うんですが、そうかといって明日っていうのも我々にはあるわけですね。
 それで私が考えますに、この復旧・復興。私どもの住む久ノ浜地区なんですけど、これを含めて東北3県、この方々の思いは、自分の代だけじゃなくて3代にわたって、私・子供・孫と、この3代にわたらないと復興っていう形は成しえないんじゃなかろうかと、私は思っています。
 私ら1代で復興するとは思ってません。
 それと放射能の問題。
 これが私ども、双葉郡いわきにかかる問題なんですけども、これに関しては、孫の健康、これを考えざるを得ません。
 しかし、この地域を復興させていただくのは、自分の息子・娘、また孫。この者たちなわけですね。ですから、私はこの自分の子供、自分の孫に強い期待を掛けているわけなんです。そういった思いの中で、本来であればこの非常に放射線の影響を受けやすい孫、この孫だけでも避難はさせてやりたいなと思う気持ちもありますが、やはりこの土地柄、風土といいますかそういったものが強いところがあるわけです。この土地から離れられない。こういった思いが強いので、やはりこの土地を復興させたいと、そういう思いが強いわけです。
 そういう考えから、私は孫にも避難してほしいし、だけども残って復興のためにこの若い力を十分に発揮していただきたいと、こう思うこの複雑さ。
 それがあるわけですね。
 ですから、はい。悩んでおります。
 ですから、福島県。福島県はFUKUSHIMAと世界の中でもFUKUSHIMAということで名が通ってしまいました。歴史の中でもFUKUSHIMAは消えることが無いと思います。
 私は県民の一人として、明日から生きていくわけですけども、ここで挫けるわけにはいかないので、やはりなんらかの微力ではあるんだけれども、自分が生まれ育った土地に対して、『昨日より明日』というような考えを持って、強く取り組んでいきたいなと。
 やっぱり町民としても、その強い思いが地域としてはありますので、早くこの除染。まずは美しい風土、自然が残るこの福島県。空気がきれい。水が澄んでる。緑も多い。これを放射線で汚した。こういうことをやはり早く取り除いて、一日も早く自力でもって歩みたいなと思っております。

Q.原発の輸出、再稼働については、どのように思われますか?

 私が思うところによれば、やはり原発の再稼働、これは軽急に論ずるべきではないと思います。
 それはどういうことかというと、この福島第一原子力発電所の事故の収束。これの検証がまだ終わってない段階で、やはりストレステストというような言葉が出ましたけど、果たしてその原因究明が出来てない以上、ストレステストの中でOK・GOサインが出せるのであろうか。
 再稼働させるのであれば、この第一原子力発電所の本当の意味での原因究明、事故の収束。これを待ってやるべきだと、私は思います。
 なぜかと言うと、なぜなら、やはり綺麗な美しい郷土、福島県。これが汚された。やはり「もう一度どこかの原子力発電所で事故が起こった、放射線が放出された」、こうなれば、日本っていう国は、その時点で国土はあるけれども、もう人が住めない。そういう国になると思っております。
 ほんっとうに安全なのか?
 ここのところは、検証を待たなければ、私は答えが出ないと思っておりますので、原発の再稼働、すぐ脱原発っていう形にならないにしても、再稼働については、十分な検討を要するのではないかと、私は思ってます。
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