もうすぐ北風が強くなる

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百人百話:齊藤英子さん

 百人百話:齊藤英子さん  書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

 齋藤英子、1960年生まれです。
 今、幼稚園の園長をいわき市内郷地区というところでやっています。
 二児の母でもあります。
 子供は震災当時小学校6年生と高校2年生。あと夫。
 夫の両親が近くに。同じ内郷地区なんですけど、住んでおりまして、ただ、母はちょっと震災後、身体を壊しまして、4月15日に義理の母親は亡くなりました。
 やはり断水状態続いたりして、震災後、夫の方も母を亡くしたりして、いろいろ落ち込んでる。今になって落ち込んでるというような様子が見受けられます。
 私自身は、結婚をした仙台に行って、ここにきて19年。いわき市に来て19年になります。もともと兵庫県の姫路市に生まれ育って、社会人になって神戸とかにも住んでおりまして・・・

Q.いわきへは何歳の時に?

 30越えてからですね。31、2歳でいわきに参りました。

Q.お子さんは男の子?女の子?

 今高校3年生になったんですが、男の子。中学校1年生が女の子です。

Q.ご主人はどういったお仕事を?

 保険会社関係なんですが。

Q.亡くなられたお母さんの死因は何だったのでしょう?

 死因は最終的には肺炎なんですけど、ガンも認知症も併発してましたので、でも今年いっぱいは大丈夫だろうということだったんですが、震災後入院してる病院が断水だったり、看護師の方が不足していたり、周りがバタバタ悪くなられていって、本当に突然という感じでしたね。
 この地区の浜通り、原発の近い小高町出身だったもので、兄弟もみんな浪江だとか原町だとか南相馬市、あの辺りの兄弟が多いので、危篤になったときも皆避難しててなかなか連絡がつかなかったり、葬儀も、母が亡くなるより皆さんのそういった心配があったりとか、そういうのがありました・・・

Q.3.11前のご自身あるいは周囲の方の原発に対する知識について、お聞かせください。

 チェルノブイリが起こった時が、私が26歳だったんですね。
 その頃、神戸の方に居まして、周りにもチェルノブイリに関して非常に関心が高かったので、あの当時に一度、肥田舜太郎先生とか、そう言った方のお話とか聞きにいったり、あと美浜の会のものを読んだりとか、関西に居た時点ではあったんですね。
 それからしばらく、結婚をしていわきに31歳で来て、当時、私、英会話学校のイーオンっていうとこに勤めてたんですが、マネージャーをやっていた際に、東電の方が習いに来られて、大熊町、今の第一原発ですね。
「あれ?」
って。原発はもう知っていて、関西の友達なんかは、結婚してすぐ仙台で、1年経っていわきに越した際に、
「え?いわきに引っ越すの?原発近いんじゃないの?」
って言われて、
「そうなのよね」
っていうくらいの範囲ではあったんですよね。ちょっと心配。地震でもあったらって。
 その後、阪神淡路大震災があった時に
「もしここであったら大変だな」
という。ここ、いわきで。第一原発の近くで、福島でこれが起こっていたら、あれどころじゃ済まないなっていう思いがありました。
 でも、地元のこの福島のその頃の周りの人は、そういう話題は出なかったんですね。福島で、職場でイーオンで、
「これ、もし福島だったら大変だよね?」
って言っても、あんまり皆さん反応が無くて、そのイーオンのいわき校ってとこに勤めた際に、東電の方・・・。私最初東北電力の方だと思ってたんです。
「東京電力なんですね?」
って。周りのスタッフの人はもともといわきの人たちで、何人かに聞いても、
「あ、そうなんですか?」
「あ、そうなんですよ」
っていう。
「でも、それはなんで?」
土地代の関係、バブル、バブルも引いてあれだったけど、
「土地が高い東京に作るとなったら、土地が高いからなの?人件費のせいなの?いや、それともやっぱり危ないからっていうのもあるんじゃないの?」
っていうふうにほとんどの職員っていうか、先生たち、習いに来てる人たちと話した時に、あまり皆さんそういうこと、何も考えていないっていうか。
 広野とかあっちはすごく、公園も立派だし、皆でバーベキューするときには、皆であっちに行ったりするんですよ。
 その範囲だったんですけど、なんかしっくり来なかったんですね。
 ただ、だんだん私もいわきに住み続けてるうちに、そういう話題が全くないので、いつの間にか忘れていたというところはあって、家を建てる、7年前家を建てたんですが、オール電化にする際に、
「東北電力だよな、なんかヘンだよな。」
勧められたのも東北電力、うちに来るのも東北電力のがくるので、
「ここいわきで、なんでここよりまだ北が東京電力なのに、東北電力なんだろう?」
って思いつつ、突然10月ごろに原発給付金っていうのが振り込まれるんですけど、4000円だか5000円だか。これも、
「なんかちょっと嫌な気分だから、これ、拒否したら返せるの?」
って主人に聞いたことがあるんですよね。なんかそれでもらっていて、
「文句を言わせないためのものなの?これ何なの?」
っていうのがあって、
「でもそれって原発給付金の手続きってとったっけ?東京電力に何かしたっけ?」
とか。うちは東北電力としか契約してないのに、未だにちょっとそれはきちっと調べてないんですけど。

Q.なぜ知ってるんだ?と?

 そうですね。どうして東京電力、振り込まれてるのは原発給付金だったら、東京電力ですよね。あれ?っていう思いがあって、なんか10月になるたびに思い出すんですけど、ここは勝手な自分のあれですけど、引かれてたら問いあわせ言ったかもしれないけど、足されてる分なので何も言わなかったんだろうか?って今になって思いますね。

Q.阪神大震災は、おいくつの時でしたか?

 阪神大震災の時は35歳でした。
 もういわきに来ておりまして、上の子供が2歳で、2歳の子供と一緒にテレビ見ながら泣いて・・・、もう本当に嘘だろう?って。こんなことがあるの?っていう。それも全部自分の青春時代に住んでいた町だったので、その町が!っていうことで、実際自分が知ってる街だから余計だと思うんですけど、非常に悲しくて涙をボロボロ流しながら、ずっと画像を見ていた覚えがあります。

Q.ここで震災が起きるという危惧は、以前からお持ちでしたか?

 その映像を見て、その後宮城県沖で震災があったというのを聞きましたので、
「もしもここ福島で起きていれば、原発があるわけだから、どうなるんだろう?」
っていうのは、私は思いました。
 ただ、そういう話題をふっても、あまり周りは反応がないっていうか・・・。いわきはあまり地震もないし、台風に直撃されることもないし、非常に気候的に住みやすい街だっていうのは、皆さんありますね。
 そういう話題をなんとなくしにくいっていうのもありましたけど、周りではそういう話題が出ないので、少し、イーオンの外国人の先生とはそういう話をしたことがあって、むしろアメリカ人の先生とかと
「もしここで・・・」
「そんな怖いことを言ってくれるな」
ということを言ってましたね。

Q.3.11以降のご自身の状況をお話しください。

 3月11日の2時46分ですね、あの時は、私が勤めてる幼稚園でちょうど一般の幼稚園が終わって、預かり保育の子供たちがお昼寝をしていた時間なんです。
 最初職員室におりまして、で、ちょ・・・っとすごい揺れだということで、すぐお昼寝してる保育室に駆けつけて、普通のこれは揺れじゃないなって。
 最初「止まるだろう」とまずは思ったんですが、いつまでたっても揺れ続けるし、普通の大きさではないっていうので、すぐ隣に付帯事業でやってる保育室があって、そこには赤ちゃんから2歳児くらいまでが居るんですが、そちらのほうでも泣き叫ぶ声が聞こえてきて、私の方は、そこの建物が崩れるほどではないだろうということで、子供たちも起きだしたところをトントンしながら、
「ここは来ないからね。大丈夫だよ」
って言って、「収まるのをとにかくまとう。それから外に出よう」と思ったんですが、なかなか収まらなくて、どうしましょう?って。
 すると赤ちゃんのほうの先生たちは外に出始めていて、揺れが非常にあって、今まで経験したことがなくて、私そこの責任者でありますので、
「責任者としてどうしたらいいんだろう?」
っていうことで頭がいっぱいで、
「この子たち守るのに、これからどうしよう?」
 ある程度収まった時点で、子供たちに起きなさいと起こして、外に上履きはかせて全員園庭に出して。
 保育園の先生たちも、おぶったりベビーカーに乗せたりして皆で集まって、30名近く、20数名ですね、居まして。
 その後、すぐ近くの、うちの幼稚園の園庭が第一避難所になってるんですが、二次避難所のもうすこし大きな方の公園に移動して、その4時になるとみぞれが降ってきて、
「ここには居られないよね。寒いよね」
ってなって、ご近所の方がすぐ近くにあるコミュニティセンターに掛け合ってもらって、そこをあけていただいて、皆子供たちを連れて、そこで避難し始めて・・・。
 その間も余震がとにかくすごかったですから、みんな子供たちも震えてるし、怖がって、それを「とにかく怖がらせないように、トラウマになって怖い思いさせたくないな」って、守るというところと、命の安全と心の・・・、心を守るって、両方どうしたらいいだろう?って、お友達を落ち着かせたりしてましたね。

Q.津波をどうやって知り、どのように受け止められましたか?

 津波が起きたっていうのを知ったのは、かなり後・・・、その所には何の情報も入ってこないんですね。
 津波がっていうのは、その後・・・、そこのコミュニティセンターってとこで、誰かがテレビをつけて、津波だっていうところ・・・。
 もうとにかく目の前の子供たちを守って抱き上げているので精一杯だったので、テレビの近くに行くこともできないし、お母さんたち、特殊な事情というか、ほとんどが看護師のお子さんたちをお預かりしてるのが多いので、お母さんたちも普通の園のように「お迎えに行きます」にはならないので、皆さん、患者さんの対応に追われていて、小さなお子さんがいる方だけは優先的に少し、顔を見に来て、
「無事だったね」
って言って、また職場に戻られていく。じゃあ今度何時ころ、早く先生たちはお母さんたちに引き渡したいんだけれども、ずっとそうしていて、何か津波が起きたらしいっていうのは、外の廊下にあるいろんな方がそれぞれちょっとずつ避難されてきた、お言葉の端々に聞こえてきて、
「いわき市にある四倉っていう海沿いの方面が津波来たらしいよ」
とか、そういうお話を聞いて、実際に子供たちを全員に引き渡しできたのが8時ころだったので、それ以降になってようやくいろんな情報が入ってきて、
「私の家、もしかしたら・・・」
っていう先生とか、
「この子の家、大丈夫だったんだろうか?」
っていうのが8時9時になってからですね。
 で、片づけて解散したのが、夜の10時・・・

Q.ご自身の家の被災状況はいかがでしたか?

 私も子供がいるので、小学校6年生で、どうしてるんだろう?って。
 ただ、偶然うちのバスの運転手さんが気を効かせて、家の近所をぐるっと。幼稚園の近くなので回った際に、
「お子さん無事でしたよ。お父さんと一緒に外に出てましたよ」
っていうのを聞いて、
「娘は大丈夫なんだ」
って。すぐそばにいって抱きしめてあげたいなと、怖がってるだろうなと思ったんですけれども、園の方を守るのが先だということで、無事であれば大丈夫だということで、ハラハラしながらも。
 夜10時ころ戻ると、もう・・・、すぐに子供は抱きついてきて、家のピアノも動いているし、本棚も全て落ちてるし・・・ですね。
 クリスタルガラスの家の守り神の天使が落ちて割れてしまっていたっていう・・・形で、家の中はぐちゃぐちゃでした。
 ただ、家が損壊してどうっていうのはなくて、すぐ近くに住んでいる義理の両親、主人のほうの両親は古い日本家屋なので、屋根瓦がかなり落ちていたんだというのを主人から聞いて、全員家族が無事だったということで、まずホッとしたというところでした。

Q.津波の被害はなかったですか?
 内郷地区は、海からどれくらい離れてるんでしょう?
 15㎞とか、かなり離れてますので大丈夫ですね。
 夜10時ころに、一旦家に戻って、関連機関っていうかうちのときわ会グループっていうのがあるんですが、医療機関の主に私の川向い、歩いていけるところだったので、そこの総務本部機構のほうにすぐ出向きました。
 すると、その時点で「大変だろう、今後の医療を続けていくのが大変だ」っていうような形だったので、
「近くにいてお手伝いできることがあったら、また呼んでください」
っていうことで、その日は戻りました。

Q.ときわ会グループというのは?

 財団法人ときわ会というのと、医療法人ときわ会というのがあって、いわき市の民間の医療関係の一番大きなところだと思うんですが、ときわ病院とか一応ホームページで、もともといわき市の病院だったのを2年前に委託委譲されて、ときわ会でやっている病院です。
 あとときわ園っていう、老健施設だったり、そういったのがグループ内にありまして、3年前に会長の常盤が、近くの園が閉園するという話を聞いて、お子さんたちはそこの園の卒園生だったので、
「子供の教育機関が無くなるのは寂しいことだということで、なんとか立て直しできないのか?」
っていうので、3年前に園児を2,3人だったんですが、そこを3年前に引き継いだ幼稚園なんです。
 最初はグループ内の保育士さんたち、医療スタッフのお子さんたちを見ている範囲だったんですが、今はもう割合としては3分の1が常磐会グループのお子さんで、あとは一般のお子さんです。
 ただ、土地柄、社会保険福祉センターとかもある地方一体というのは、医療福祉ゾーンということになってますので、医療機関に勤めるスタッフの方が非常に多いんですね。
 ですから、幼稚園なんですけど預かり保育とかもやって、皆さん、医療関係勤めてる方が非常に多いんです。
 震災があった際にも、なかなか皆さん迎えに来れないというところのジレンマと、子供のことは心配だけど避難できないのと、両方の葛藤が非常にあったと思います。

Q.原発が大変なことになっていると気が付いたのはいつ頃ですか?

 12日、翌日です。翌日、まず幼稚園に行ったら、私は寝る前に「あ、原発どうなんだろう?」っていうのがあったんですが、テレビで何もやってなかった。津波くらいですね。朝やってたの。
 それで、でも原発、どうなんだろう?っていう、すごく思いがあって、幼稚園に行っても、先生たちは、本当に真面目に次の日もちゃんと出てきて、片づけ仕事をやったり、卒園式の準備をやったりしてくれてるんですけど、
「先生たち、それよりも、もう帰っていいから。なんか危ない、もっと危ないことが起きそうな気もするし」
って言って、その日は午前中で先生たちを帰して、常磐会の方の総務に行くとテレビがついていて、その時点で確か原発の映像を事務局長とか若手のドクターも時々見に来ていて、1号機、最初は2号機が危ないとか言い出してるっていうのを聞いて、
「あぁ、やっぱり」
っていうのをすごく思いまして。しばらくはそちらのほうにくぎ付けになってました。
「これは、どう・・・、ここで爆発したら、どうなるのか?」
 逃げるっていうか避難しなきゃいけないんだけど、その時点で私は、もし幼稚園に居たらもっと発想が違っていたかもしれないんですが、そこは上の階では透析の患者さんたちは透析をしているところなので、
「これ、もしも、何かあったら、どうなるのか?」
っていうことと、断水ですね。水が夜は出てたんですけど、朝起きたら断水していたので、これ、透析医療どうなるんだろう?っていうことと、ひかり電話は通じなかったので、家のネットも幼稚園のネットもひかりだったんで通じないし、
「ハイテクはとても脆いな」
ととても思って。
 とにかく情報をっていうことで、保育士のほうが唯一アナログ回線ということで、ネットがあって、そこからいろいろ調べたり、あと、常磐会の総務のほうでテレビを持ってきて見ていたので。
「ここで爆発があったら・・・」
っていうのを、
「もしも・・・」
って思っていて、2号機ですね・・・。

Q.爆発が起こる可能性があるということは、予見されていたのですか?

 あれだけの、本当今まで経験したことない揺れだったし、海で津波があったって聞いているので、何かしらあるんじゃないか?っていうのは。
 若手の先生の中に、
「これ絶対なんかあるんじゃない?」
って言ってた先生もいて、画像を見ていくうちに、「何か絶対ある」っていうことは・・・。うーん・・・。

Q.放射能漏れか、事故か?

 事故かどちらかということは思いましたね。
 何か放射能が漏れていく、放射能漏れ事故があるのか、プールされているって、そういう使用済燃料が行き場が無くて、そういうところにあるんだっていう知識はあったので、津波でどこまでかぶって中に入って、そういったものが海に漏れていってるのではないか?とか、そういうのは思いましたね。
 最初は「2号機が危ない」とかって言ってたような記憶があるんですけど、それが1号機が12時の何時でしたっけ?爆発したの。

Q.15時くらいですね。

 見てて、その時に居たドクターも、しょっちゅう見に来ていて、その東京から来てくれていた先生なんですけど、非常に心配されていまして、何かあったら・・・。
 水が止まってるっていうことだけでも、病院としては危機感があったので、ここでもしっていうことがあったら、患者さん、ここに居られないし、同じグループ内で原発の、今立ち入り禁止区域になってる富岡に富岡クリニックっていうのと、楢葉ときわ苑っていう楢葉町に老健施設があったので、その二つの施設の心配をみんなで幹部の人たちは、心配を始めてました。

Q.14日までの様子を教えてください。

 12時に爆発があって、『これはただことではないんで、皆さん避難しましょう。避難してください』っていうのを、安否確認をしながら
「できるだけお子さんたち、避難させてください」
っていうのを、幼稚園の園児のお母さんたちに連絡がつく範囲だったんですが、みなさんに避難を呼びかけました。
 全員、あの時点で無事だというのを確認して、プラス「できるだけ遠くに避難された方がいいと思います」ということを、月曜日なので14日にお伝えしました。
13,14にかけてお伝えしました。
 あとは自分の子供も居ますので、私は関西出身、姫路に実家がありますから、これはもう、被曝者にはさせたくないという思いがあって、爆発による危険と、やっと電話が通じた際に、こちらいわきに居る人たちよりも、関西にいる友達たちのほうがメールとか送ってきて、すごく心配をしてくれていて、13日に関西の大学でお世話になっていた方から、
「昆布か何か食べてるか?」
っていわれたんです。
「昆布あるか?とろろ昆布でもなんでもいいから、食べたほうがいいよ」
って言われて、
「はい?」
って私はそういう感じだったんです。聞くと、
「爆発してるんだから、ヨウ素が飛んでいて、あぶない。え?そういうの、何もないの?ヨウ素剤とか配られてないの?」
とか、そういうのを関西の友達から矢継ぎ早にいろいろな情報が入ってきて、
「これは本当にただことではないんだ」
ということで、子供たちを避難させようと思ってましたね。

Q.福島県内と県外との情報の温度差についてと、ヨウ素剤が配布されなかったことについて教えてください。

 切実に『危ないんだ、これはもう取り返しがつかない大事故なんだよ』っていうことは、神戸や奈良とか大阪、関西の友人たちから次々入ってきて、
「早く戻っておいで」
「でも、仕事が・・・」
「仕事って、一旦避難して、職場はもう無いかもしれないよ?」
っていうくらい、関西の友達たちはそういう声をかけてくれてきたんですね。でも、地元の人たちっていうのは、停電の地区もありましたから、とにかく情報はそんんなに入ってこないし、枝野さんの声しか入ってこないわけですね。
『大丈夫です。』
っていうところなので、皆さんはそれを信じている。
「国の発表だから、大丈夫だろう」
っていうのが、なんだか周りの方の反応ですね。
「えー?でもそんな大丈夫?原発に何かがあって、大丈夫なわけないじゃない?」
って、その違いが今までやっぱり安心なんだっていうことで、ずーっと教育があったのかどうかわからないので、思ってきた人と、やはりこれまで私なんかは関西人で、広島とかの被曝の差別も見聞きしてきて、
「あ、子供を被曝させたくない」
『被曝』という言葉を出した時に、皆さん、まぁまぁ、同じ職場内の人たちが、
「何を大げさなことを?」
という感じのことを言われて、
「そんなびっくりするようなこと、言わないでよ」
っていう…職員も居たんですね。
「でもこれって、だってこれから被曝していくんじゃないの?」
って、被曝させたくないっていう思いがあって、
「やはりここは、広島・長崎から遠い東北だから10基もできてたんだな」
とか、
「なんかこういうふうに皆さん、信じていてあまり危機感持たないとか危ないと思わないので、いつの間にか54基あるうち10基も福島にいて、まだ7号機8号機建てようとしてるんだな」
という気持ちがありましたね。
 何も本当に情報が入ってこなかったんですね。
 だから、危ない、どういう危険性があって、どうしなきゃいけないのかとか、とにかくそういうことが入ってこないんですね。
 お店が出ないから皆ライフラインも、その心配ばっかりなんですね。一般のいわきに居る方たちも。お水が出ないから、お水どうしよう。じゃあ並んでどこかで水がもらえるらしい。そこに出ていくわけですね。
 後になって、お母さんたち、とっても悔やんでますね。あの中、並ばせてしまったということ。
 なので、本当に情報が、どうしたら今危ないことが起こるかもしれない、万が一の時はこうしてくださいとか、こうなんだっていうのも全く入ってこないし、ヨウ素剤が配られたっていうのも、いつどういう経路で配られてどうなったのかとか、よくわからないままなんですね。
 口づてに「もらってきたよ」とか、そういう感じだったんです。
 私は、自分の子供に関しては避難させようと思いましたので。

Q.いわき市では、ヨウ素剤の配布はされて、内服の指示はなかったようですが?

 保健センターとかいろんな支所に行けば、ヨウ素剤がもらえるっていうことは、皆口伝いであって、何歳?40歳以下でしたでしょうか、だったらもらえるということで、比較的そういった詳しいことがなくてももらえるということを聞いていまして、医療施設のほうでも医師会の常任理事、県の理事とかやってるので、ヨウ素剤の話は出ていましたので、配られるっていうのは聞いて。
 子供たち、私は避難させてアレだったんですが、その頃に「役には立たないけど、とりあえずもしもの時に飲んでおこう」って言って。
 でも、テレビではずっと『指示があるまで内服させないでください』って、そういうあれはずっと流れてましたので、それを完全に皆さん守っていたというところで、私なんかは、全部が信じられないっていうところもあったので、ネットで調べたら、内服させたらどういうデメリットがあるんだろう?被曝させることとさせないことと、爆発があって・・・。っていうと、
「飲んでも副作用はあるかもしれないけど、どっちがどうなんだろう?これ、大熊のあたりの人たちはどうしてるんだろう?近くの人は飲んでるよね?」
くらいに思っていたんですが、実際、何の指示も出てなくて、本当にすぐ近くの方々も、皆国の指示待ちだったと聞いて、あとで驚きました。
 せっかく配られていたのに、本当に誰も飲まないでいて、冷蔵庫にしまっておいてくださいと言われたら、皆冷蔵庫にしまったままで終わってしまったというのが、ヨウ素剤です・・・。

Q.続けて、その後の様子を教えてください。

 子供たちの危険を感じて、長男が高校2年生。長男は、私はもう自分の職場のことで手一杯だったんですが、
「長男と長女は避難させよう。万が一何かがあったときに、私はこの子たちを守れないから、まずこの子たちを避難させなければ」
と思ったので、やっぱりもともと二人でけっこう姫路の実家に行ったりしていたので、息子はちゃんと自分で調べて、
「茨城空港が明日の朝から開くよ。今は天井落ちて、飛べないらしいけど」
って、夜の9時になったらネットで予約ができるらしいってことで、夜の8時50分ころから、息子はネットの前に、パソコンの前でずっと待って、自分と妹の分を。
「ママどうする?パパどうする?」
っていうのを聞かれたんですけど、
「二人でまず行ってきて。まず二人だね。」
っていうことで、二人分、自分で予約をとって、念のために福島空港もとっておこうって言って、午後便空いてるかどうかっていうので、ほぼ満席だったんですけど、何回も更新したら取れたよっていうので、その前日に、これはなぜかちょっとわからないですけど、福島空港があって、大阪から来る便は来れるのに、福島から出ていく便が無かったんですね。あれは、私もまだその後追及して調べてないんですけど、その時にとっても怖かったのは、
「被曝した人たちをここの外に出さない気なのかな?ここに閉じ込めるのかしら?」
そこまで私はとても思ってしまって、茨城空港は外に出られるんだと聞いて、すぐ茨城空港から、今までいったことはないんだけど、神戸空港の便がスカイマークで臨時便が1便飛ぶと聞いて、予約が二人取れたんですね。
 『一刻も早く少しでも南に』と思ったので、高速道路もないので、夜中の3時ころですかね。夫の方が子供二人連れて、茨城空港、水戸の先なんですけども、に、向かいましたね。
 本当に危険な危ない道で、ガードレールに津波の跡が、ガードレールに車が突き刺さっているような、子供は「未だにちょっとフラッシュバックして思い出す」って言うんですが、見ながらガタガタ道を、普段だったら高速で時間弱のところなんですけど、3,4時間かけて到着したそうです。
 夫が子供たちも乗せて茨城空港に到着したのは、朝まだ開門前くらいだったんで、開門と同時に入って、空港に入れるのは8時半だったらしいんですね。その間に駐車場で待ってる時に会った方は、東電の家族連れの方で要職関係、現場の技術職というかそういった第一原発に直接関係のない方達だったそうなんですが、
「僕たちは『避難しろ』『かなり危ない状態だ』っていうことで、本当は東電自体が撤退したいくらいなんだ」
っていうことだったそうなので、それで、
「3日間そういう特別休暇がでたんだ」
という話を主人は聞いてきたということで、その後主人は戻るんだって、子供たちだけ送って戻るんだっていうことを言うと、非常にその東電の方たちが心配してというか、
「いや、そんな危ない。まだ空席あるんだから絶対乗ったほうがいいよ」
って非常に引き留められたと帰ってきてから言ってました。
 ずっと私も子供たちを送った後心配していたら、10時20分発だったんですけど、余震があったので、離陸したのは11時ちょっと前だったんですけれども、その後、11時5分に3号機が爆発、水素爆発しましたよね。その時に機上の人になっていたということで、本当にホッとしました・・・。

Q.東電は情報開示をせず、一方で事故後には撤退しようとしていた、そのことについてどう思われますか?

 夫が帰ってきて、東電の方は『危険を判ってるんだ。その方たちは割と役職が無いような方だった』ということなんだけど、もう末端までじゃないですけど、危ないっていうことが、東電の中では知れ渡っている、なのに、テレビに出てくる東電の方、国、枝野さんにしろ、西山さんにしろ、皆さん、
「今のところどうもない」
「直ちにどうもない」
とか、そういうことばっかりだったので、
「これはもう、全く今伝わっているメディアのことと、現実は乖離してるんだな」
というか、
「完全に隠ぺいされて、国策として何かが動いてるんだな」
ということをすごく感じましたね。
 第一、何かを信じられないんだっていう、その国策だったり政治力であったり、何かの力がっていうのは、一度12日に1号機が爆発した後、第2原発も危ないって話になったときに、10㎞圏内にするのか20㎞圏内っていうのが、揺れ動いた時があるんですね。第2原発から20㎞圏内とかっていう話になってくると、いわき市もかなりの範囲がかかってしまう。しかも、共立病院っていういわきの基幹病院なんですが、いわき市立共立総合病院までかかってしまう。そこの患者さんたち何百人、どうするんだ?ということになりますね。
「どうするんだ?」
って先生たち、ドクターがテレビを見てる時に言っていたら、それからほんのしばらくして、20㎞圏内から10㎞圏内にまた戻したんですね。避難地域が。
 その時に
「あぁ、何か政治力なのか、何かそういった本当に市民の安全どうのこうのではない、物理的に国が対応できないから、できることしかしないんだな。避難しろって言われてできないんだ」
っていうことをとても感じて。とにかくあの時点では、福島から逃げるすべがほとんどないような形で、高速道路も本当にどこまで安全で、どこまで壊れているのかわからないけれども、封鎖されてますし、下の普通の道を通って、東京に行くのにしても、どこまでがどういうところが危ないのかとか、そういう情報もないし、飛行機も大阪から飛んできてるのに、どうして福島から離陸できないんだ?とか、私はそれを聞いた時、
「本当にもしかしたら、福島は見捨てられるんじゃないかな?」
って、とってもいい人が多いので、逆にここを一つ封じ込められてしまって、チェルノブイリのこともよぎりましたし、ここから人が出ないように何か作用しちゃってるのか?っていうくらい、思った覚えがあって、それくらいのことなのに、何も報道されないし、『大丈夫だ』っていう、これからは何か信じるのはテレビだけでは絶対十分ではないし、逆に関西のほうからいろんな情報を得たり、
「もう今、関西のほうだと、いろんな集会が始まってるよ?」
って聞いたんですけど。、3月15,16,17,18日、そのあたりになってくると、
「今集会あるけど、そっちでもいろんな何かあるの?」
「全く無い」

 ライフラインが通ってないこと、皆パニックになってしまって、目先の生活のライフラインだけに困ってるような状況で、『水が無い』それだけ、先の原発が危ない。
 皆いったんそれで、高速道路がとおって避難していくんですけど、そこで福島県の人たちが恐れていたのは、爆発が起きた時の外部被曝っていうか、そこだけがほとんどの気持ちだったと思うんです。なので、皆さん避難期間も比較的短くて、水が無いしライフラインがないことと、大きな爆発があって、イメージとしては原発なイメージ、外部被曝が起きることを避けるために避難したっていう形がほとんどだと思うんですね。
 でも実際は、そこからまたこれで終わるわけじゃないし、これからいくらでも内部被曝であってり、どれくらいの線量が残っているんだろうっていうようなことを、ずーっと原発がある町で生まれ育った人たちの方が、却って今まで考えたことがない。安全だと信じ切っていたので、どういった放射性物質があるのかとか、何十年残るんだよとか、そういうこともあまり周りの人たちは気にしなかった・・・。

Q.東電という会社に対しては、どのように思われますか?

 東電の社員の方々?ある程度末端の方々まで「爆発がありそうだ」って皆さん逃げていて、私の夫なんかには、もう本当に
「午前中に爆発があるかもしれないことだから、飛行機が飛ぶまで爆発が無かったらいいんだけど」
って言いながら車の外に降りてて、
「爆発があってもここから見えないけどね」
くらいのことだったらしいんですけど。
 本当に離陸して、午前中に1号機よりも大きな爆発があって、それを東電の社員たちは知っていて、そういうふうに避難させていて、何もアナウンスは東電側から県民にないっていうか、特に地域ですよね。近くの地域の人たちに触れて回らなければいけないはずだし、その時東電は何をしていたのか?って。
 普通本当に他の企業だったら、自分のところで爆発か何かあったら、みんなで謝っていくはずですし、何かをしてしまったわけで。そういったことに関して、未だ嘗て東電の社員の方々は、やはり一つの会社に勤めたらそれなりの責任はあると思うんですね。個々のいろんな方々に罪は無い。でも、勤めてる会社がやったことであるから、そこで今までお給料もらっていたわけなので、これまでの除染活動とかもそうですけど、除染活動手伝いにくるわけでもないし、それは前の幼稚園協会で東電の方が謝罪に来た時にもお話しましたし、今、14日の日にお話を東電の方にするべきだったなって、私は今でも思うんですけど、夏休みだって1か月とって、タイに行ってきたというようなことを言っていて、今有給も、もう関東地区に居る東電の職員は「別に普通に取れるよ?」っていう話を聞くんです。
 となると、本当に会社の体質が一体どういう体質なんだろう?普通の会社だったら、何か自分の会社がそういうことをやってしまったら、例え・・・、直接の責任が無い部署であっても、皆さん謝ったり、何かできることっていうのをやるはずなんですけど、それが全くなされてなくて、逆に自分たちだけが逃げて、これはテレビでもやってましたけど、避難所に居る場合も、東電の職員が一緒だと、職員は周りから冷たい目で見られたりストレスが大きいから、大きな体育館とか何かでも、ちょっといい場所っていうと変ですけど、違うところに移していただいたりとか、そういう配慮があったということも聞いていますので、なんだかそこの辺り、本当の会社は国民を幸せにする義務があるはずだったのに、それでもって始めた原子力の企業理念だったはずなんですけど、全然そういうのと乖離してしまって、
「お国と一緒になって隠ぺい工作をして、なんていう会社なんだろう!」
っていう、今もですけどね。今もずっと解せないっていうか、JALより酷いって言ったらあれですけど、JALの人はまだ年金をカットしたりいろんなことをして再建していってるという形なんですけど、東電のなんだか沁みついた、何かがあるんだなって、今までも東電が原発の反対した人たちとかはテレビにもあんまり出られないとか、いろんなことを聞いてもいましたけど、改めてそのあたり、なんか私たち一般市民・・・が、知らない世界・・・が、『原子力村』とかではあって、特にこういう純朴な県民性というか、地域性のところにうまく持ってこられて、うーん、背負ってるんだなと思います。

Q.14日はどのように動かれていたのですか?

 14日の方の爆発の方が大きいっていうことですね。
 それで、みんなうちの保育室も閉鎖するということにしまして、当面水が出ないということもありましたけど、それによる被害があることを想定できたので、保育士の方は、しばらく休みますということにしました。
 保育室が休みになると、医療スタッフのお子さんたちを預かってるわけで、それは困るという面との兼ね合いが非常に難しくて、ただ、ここは本当に医療の中で透析という特化したところもあったので、80歳、90歳代のおじいちゃん、おばあちゃんたちの命ももちろん大事だけど、目の前にいる自分の子供の命を守れないというのは、本当につらい看護師さんたちも居るわけで。
 閉鎖というか、一旦休むということにしたのは、一つは子供たちだけでも避難させてほしいということ。子供たちでも避難すれば、避難を受け入れるっていう支援団体も関西の方でも見つけていたので、そういった張り紙をしたりやって、避難したいという人を受け入れるような準備は進めていました。

Q.ご自身の避難は?

 14日の爆発を受けて「小さなお子さんが居る方を避難させていいですか?」と、理事長にも確認をして、それで避難誘導しました。
 皆さんがある程度、会津とか県外とかに避難しましたということを理事長にもご報告したら、
「じゃああなたも齋藤君も避難したらいいっぺ」
って言われまして、その後、また16日の夜中に車を走らせて茨城空港から、今度は夫と二人で姫路の実家のほうに行きまして、でも21日くらいに病院がまた再開・・・、病院の患者さん一旦東京とか新潟に移動をさせてたんですね。これもときわ会グループの中で700人規模で患者さんの東京とか新潟に大移動させて、そこに残ってた人たちは本当に大変だったと思うですけど、移動して。
 今度水が出るようになったので、それでまた患者さんを呼び戻すということをやったわけです。
 また、そうなってくると医療スタッフが必要なので。
 それ以降爆発はなかったから、病院はもう一度再開するということになって、そうなればスタッフが必要になるので、保育室をあけてほしいと言われまして、とにかく私はそういうとこの責任者なら戻ってこいということで戻って、戻った段階でもう皆さん???の方から
「保育室は空いてるので、お子さん預けて仕事してください」
ということで、徐々にお子さんを連れて看護師の方々も戻ってきて、お子さんはできるだけ安全にお預かりするということが始まったのが、3月23日です。

Q.ご自身はいつから姫路に?

 17日から18、19。6日間ですね。

Q.避難していた6日間に入ってきた情報と職責との間で、どのような思いでしたか?

 自分の子供たちはここにいられる、避難できるなということで、まずはホっとしました。
 ただ、他のお子さんたち、医療職だからこそ残らざるを得ないということで戻ってくるんだということに関しては、非常に複雑で、自分自身も関西の親戚から、友人から皆、私が
「またいわきに戻るんだ」
って言ったら、
「あんた、おかしいんちゃうの?」
そういう反応だったんですね。
「なんでもどんの?命あってのものやんか?」
っていう、そういう関西人のあれで言われて、
「命・・・、うーん。」
10歳のときに、父親から身体髪膚、厳しく育てられた方だったので、自分から自ら自分の健康を害するようなことをしにいくことにもなるわけで、だけれども、立場上というか、本当に医療にも支えられてきた私も両親ともに透析患者だったというものあって、そういったことで医療に支えられて生きてきていたわけなので、これは、私がすぐにそこで大きな爆発があって命を失うことは無いだろうっていうこともあったので、戻る決心はしました。
 でも、その前に夫は姫路に着いたんですが、着いて直ぐ戻ってしまったんです。おじいちゃんが残っていたから。自分の父親は行かないと言って残っていたので、
「やっぱり帰る」
って言って。
 おじいちゃんも喜多方の親戚のほうに送り届けて、その後ずっといわきに居ましたね。
 そこでもやはり、
「あー、この人と私とは県民性が違う」
っていうか、「違うんだな」っていうのはありました。

Q.ご主人のお仕事は何ですか?

 保険会社なので、そういった事故処理もいろいろあるでしょうしってこともあったんですけど。

Q.お仕事で戻らなければいけなかった?

 外資系なので、比較的早くに『バスを出すから、東京に避難しろ』とか、残った人たちには、トラックが来て救援物資も潤沢に配られたりとかはしてました。
 なので、必ずしも彼は戻らなくても良かったんだけれども、やはり・・・、自分の父親、母親、その時は母親は入院はしていたんですけど、を残して姫路に自分は・・・っていう思いがあったんですね。
 だから、そういう方が福島には、いっぱい居ると思うんです。
『本当は避難すべきかもしれないけれども』
っていうことで。 
 たまたま私たちの実家が関西にあって、すぐに避難できるし、子供たちもある程度の年齢であって、比較的今まで人間力というか、私も生きる力というか、そういうのを自立させるのが親の役目だというのが、とても思っていたので、何かあった時にはそうして、自分たちで行動ができるっていう、その年齢にやや早いけれどもなっていたので。
 滞在してる6日、7日間の間に、私は子供たちの転校手続きをとったんですね。22日、もう帰る前の日に近くの民生委員を訪ねていって、
「こうこうこうで、こちらに残って転校できるように」
っていうことで、民生委員の方に一筆書いてもらったら、住民票とか移動しなくても大丈夫だということを聞いていたので、一応こちらだと息子はこちらの進学校に行っていて、本当に楽しい楽しい高校生活を送ってたんですね。文武両道のところでおじいちゃんも「おめでとう」って言ってもらえて、ずっと楽しい、本当に高校生活だったと見受けていたので、それを切り離すというのは断腸の思いだったけど、でも、あちらに戻って、この子の将来に厳しいぞって。自立して、子供と一緒に居なきゃいけない年代でもないということと、そうして自立していくのも、一つ試練だけど、そのほうが大事だと思って。

Q.お子さんは高校生と中学生?

 そうです。そのとき小学校6年生で、今度中1になるときだったんです。

Q.友達と離れることについて、何か言われませんでしたか?

 ありました。
 ええ。
 部活にしろ、高校生活ですね、非常に楽しい高校生活を送っていたわけですから、一旦そういった民生委員の手続きをして、姫路のほうに高校に電話を入れて戻ってきたんですね。子供たちにはまだ転校の話はしていなかったんですが、
「どうする?」
「え?戻る!」
っていう子供たちの、もちろん思いなんですけど、
「ママはこうこうこうで危ないので、こうしてほしいんだけれども。」
 子供たち、最後は子供に決めさせようと思ってました。
 逆に言えば、それだけ自立している段階なんで。
 ただ、子供は・・・、まぁむしろ私より一足先に関西に居て、姫路のほうのテレビを見てると、こちらのテレビとの情報もまた違うようだし、非常に危ないんだということを、段々日増しに子供たちはわかってきた。最終的には、私の古くからの友人たちが子供たちを説得してくれたりもして・・・。

Q.どのようなやりとりがあったのですか?

 子供は、
「じゃあどう言うの?友達に?僕は、避難する。」
「『どうして?』って。今はもうほとんどの子が戻ってきてるのに、『どうして?』って言われる。『危ないからだ』って言えないだろう?」
ということをいうわけですね。今までの仲良かった親友に。
 ソフトテニスをやっていたので、相方も居る。なのに、こっちに行って。
 でも、もう私は逆に、私が友達に言われたように、
「命があって、大事なんだから」
って。もう本当に、
「身体髪膚、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなりって、前言ったでしょう?」
という話をして、
「身体がまず大事だと思う。これから被曝をしていくことになる。なので、ママの判断はこうなんだけれども」
って。子供たちは兄の方が先に納得をしてくれて、一旦短い期間かもしれないけど転校っていう気持ちだったんですけど、高校の転校の制度っていうのは、
『卒業までか1次的なものなのか、どちらかを選んでください』
というのを入学式の突然になって言われて、その際に受験もあったから、悪いけれども1年早く留学でもしたと思って、飛び級でいったと思ってということだって言って、息子の方は納得して・・・

Q.抵抗しませんでしたか?息子さんは。

 うーん、確か息子は転校するっていうことに関しては、今までの友達から離れることの辛さと、説明のしようがないっていう辛さがあって、私はその転校する、じゃあ、どこかで娘のほうも卒業式もしてないわけですね。娘なんかは卒業式もなくて、そのまま来てしまっていて、息子もかなり「絶対ヤダ!戻る」って最初は言ってましたけど、むしろ娘のほうが、非常に今もなんですけど、娘は
「私の原点はいわきなんだからね」
って、今も言いますね。
「おばあちゃんにも私の故郷はいわきなんだから」
って言いますね。それ聞くのがとても・・・なんですが、娘は、
「私の原点はいわきだから、だからママも帰っていわき守って」
って、今は言います。
 だから、その胸の内というか、
「原点で今何かしら役に立つんだったら、ママは今役に立つことをやって。」
今、娘はちょうど中1で切り替えの時だったのに中学校に入って、兄と同じようにソフトテニスをやって、テニス部に入ってやっているので、要するに、娘は来年どうするんだ?子供も葛藤しています。
 ただ、ハーフなので、東北人と関西人の。
 そこでの子供たちが今後あちらにいた情報とかを見ながら、どう捉えていくのかな?って。

Q.娘さんは、友達との別れをきちんんとできたのですか?

 えー、夏休みに帰ってきたときに、もう一度お友達に会ったというのはあります。お互い。夏休みに二人ともこちらに今回戻ってきて、戻って改めて、
「何の気兼ねもなく話ができる」
って。息子の緊張感は、今いる高校の先生からもお手紙とか抱いて、やはり緊張してるんですって。皆から、娘なんかも、皆に同じ説明しなきゃいけない。
「なんで福島から来たの?津波で家流された?」
向こうの子は、
「どうしたん?流されたん?被曝してきたん?」
そういうことを平気でみなさん聞いてくるので、それに答えるのが一番嫌だったしばらく言ってましたね。
 息子も検査しようかなって一時期自分で言って・・・。

Q.PTSDで?

 PTSDで検査しようかなって。
 なんか時々ふっとガードレールに突き刺さった映像が浮かんで来たり、あと、
『直ちに健康に被害はありません』
って言葉がふっと浮かんで来たりする話はしていまして。
 ただ、5月に1度私もあちらに行った際に、新日鉄広畑製作所っていうのが姫路にあるんですけど、そこにテニスの試合があって、息子が行ったんですね。あそこも原発村ならぬ製鉄村みたいな形で、周りが製鉄所が公害をいっぱい出していた高度成長期に、一杯製鉄所が出来たまわりで、テニスコートとかいろんな運動の競技場とかがあるんですね。
 そこで大会があって、息子はすぐ試合にも出て、一応居場所がテニス部であって、向こうでも本当に暖かく迎えてくださったこと、本当に感謝してるんですけど、姫路の高校の先生方が迎えてくださって、テニスもすぐ試合に出て、その時に・・・、半日もテニスしてると、真っ白な新しいボールが真っ黒になっていくんですね。鼻を拭くと鼻が黒くなる。これは煙の中から鉄粉が落ちてきてる。
 その時に、息子はふっと
「これ、でも見えるからこうなんだよね。」
っで、二人で、それで二人は吹っ切れたような気がします。
「放射能、放射性物質は見えないからね。あー、こういうことが起きてるのかな?」
って。そこで、一回、子供は諦めがついたような・・・。

Q.家族が離れ離れになって、それぞれの胸の内をどのように感じていらっしゃいますか?

 いろんなところで、この事故というか、動きにそれぞれの価値観によって今まで仲良かったご夫婦だったり友人同士が、考え方によって、特に放射能に関する危機意識の違いによって、仲悪くなったり疎遠になったって聞きますけど、うちもやっぱりそういう部分はありますね。
 主人にとっては、やっぱり福島が。いわき市にはそんなにあれなんですけど、福島県人で、子供の頃居た伊達とか、いろんなところが本当に避難区域になってたりとか、それを見るともう・・・、ため息ついて
「嫌になる。自分の育ってきたところが、もう住めないようなところになってるのは辛い」
っていうのは、主人からも聞きますので、そこは私には判ってるつもりでも、そこまで理解してるつもりでも同じ気持ちにはなれないし、主人なんかもやっぱり寂しいし、子供と離れて揺れ動いてると思います。いろんな気持ちが。
 今も、ついここ1週間ほども、その件でやはり、ちょっと主人と話が合わないっていうか、ポロッと主人は
「結局あなたはあっちに帰りたいんじゃないの?」
って言われてですね、
「来年度以降、どうしよう」
とかって話。娘一人に今度なったら、お兄ちゃんが大学に行って、もし東京に行くんであれば、娘一人でおばあちゃんはもう透析していて、人口??もやって入院したりとかもしていて、本当に今二人でお弁当も作って、選択してアイロンかけしたり、二人でやってるんですね。
 だから、今度妹1人、中2で一人でいられるのかなって、しかも、まだまだ思春期で母親が必要な時期なのに、どうしよう?戻すべきなのか?って。
 完全にあちらだけに避難で心の問題もあるしって。
 娘にはこないだも聞いてみたけれども、娘は
「今決めることじゃない。」
って。そうやって子供はだんだん成長していってるんですね。避難してる間に。
「だって、まだ何があるかわかんないじゃん?もう一回爆発するとか漏れるとか、なんかあるかもしんないから、ギリギリになったら考えるから。今から悩んでたって」
「万が一帰るんだったら、仕事のこともあるし早めに言っとかなきゃいけないし」
とか言うんだけど、
「それは望んでないから、ママが来るってことは望んでない。故郷が無くなっちゃうから、原点が、私の原点はいわきだ。」
って言います。
 夏休みに帰った時に、ちょっといろんな活動してるのを見てるので、ただ単に働いてるプラスアルファそういう今残ってる子供たち、お子さんたちに何ができるのか?っていうのを、自分の子だけが避難して、どっかに私も後ろめたさがあるんですね。
 自分の子供だけ避難させて、お預かりしてるお子さんたちをどう守れるのか?
 でも、果たして今の状況で、今いろんな活動をしてます。
 土の入れ替えを幼稚園5月31日、補助金とか全く関係なしに理事長が、
「あっちゃいけないもんがあるんだから、取り去るべ」
って言って、土の入れ替えをしたり、今やさいなんかも奈良の方から、それも関西の友達が非常に心配してくれて、奈良の方からお野菜をPTAで取り寄せて、内部被曝を防ぐとかそういったことであるとか、姫路・東北人会っていうのがあるんですが、3月11日を機会に姫路にいる東北の方が集まって募金活動してくれたりして、姫路のお祭りの日に、風船を同じ2時46分に、姫路城のお城広場で一緒にあげましょうということで、幼稚園で風船をあげたんですけど、その時娘がちょうどいわきに来ていたので、そういう活動をしているとか、いろんなことは子供も
「ママだけど園長先生だから、園長先生も頑張って」
って、健気に言ってくれるんです。余計にあれなんですけど・・・

Q.半年ですごい成長するんですね。

 だと思います。子供は子供で、
「置かれてる環境は、ママのほうが大変なんだからね。」
ってそう言うんですね。そういうふうにまだ中学校1年生の子供に言われて、今それを励みにしながら、「こういったインタビューを受けるんだけど」ってお兄ちゃんに相談したりして、
「こんなの受けていいんだろうか?もしも、逆にママのしてる活動って、お野菜を売ったりとかしてて、そんなことしたら、また風評被害が広がるだろうっていう電話があったりして、なのにこういうことしてて、うーん、前にちょっといろんな正義感からやったことが、車がパンクしてたりっていうことが、前に一度あったので、また車パンクしたりしちゃったりして」
とかって、昨日冗談で半分相談を息子にもしたりとかしたんですけど、
「いや、そういうのは思うことをちゃんと言ったらいいんだよ。こうして避難してて、大変なんだっていうのも言ってくれ」
って言ってまして、そういうのを子供たちは子供たちで揺れ動いてるとは思います。
 ただ、関西にいるから余計に危ないということが判るんだというところは、多々あるのかもしれないですね。
 こっちだともう、普通に生活してますから、ちょっと引けばよく判るので、引いた方が福島県全体、私たちは「もしかして大熊の土地って、もうどうなんだろう?住めないかもしれないのに。」って思ったりします。いわきにいるいわき市民は。
 それ引いたら、離れていったらだんだん、それが『福島県は』になるでしょうし、もっと引いたら『日本は』ってなるのと一緒なのかもしれないですけど、ただ、自分の故郷をそういうふうな形でしか思えないっていうのは、なんだか私も阪神大震災の時に、自分の青春の地が崩れていくのを見て、涙して、あれはまだ人災じゃなくて、災害、天災だっていう部分が大きいので、あきらめもつくっていうと変ですけど・・・

Q.原発事故と天災は、全く違いますよね。

 宮城県と岩手県、宮城も一部あれですけど、あとこの震災後の原発に関しての被害を受けた地域というのは、全く違うと思うんですね。

Q.パッと見には何も変わらないから、余計にですよね。

 何も本当に変わらなくなってきて、段々、一部瓦屋根にブルーシートがかかってるとかそんな程度であって、それもだんだん直っていくと、もう普通のようなので、「どうして?」って。
 逆に「不安を煽るようなこと言うんじゃないよ」っていう空気もありますんで、9月4日に高田淳先生の講演があって、いわき市長さんがご挨拶されたり、いわき市医師会長さんがご挨拶されたり、私、最初はいわき市医師会主催ということもあって、一つは、あまりにも皆、医療放射能、医療による放射能を恐れすぎてて、歯医者さんに行っても、今は放射能浴びたくないから、歯のレントゲン取らないでくれっていう人がいわきに現れていたり、骨が折れててもレントゲン取らないでくれっていう人もいるとか、そういうのもあったので、そういうことも払しょくするような意図があってなのかな?って、一部は思って参加したんですけど、全くそんな範囲のお話ではなくて、
『福島県はニコニコ元気でいれば、心配ない。交通事故で年間5000人亡くなってます。今回原発で誰か亡くなりましたか?』
とか、そういうすり替えにお話であったり、
『セシウムとヨウ素だと、セシウムは半減期が長い。それが残ってるのは皆さん恐れてるけど、人だって気の短い人と長い人だったら、気の短い人の方が怖いでしょ?ヨウ素の方が怖くて、セシウムは怖くない』
っておっしゃったんですね。<笑>
 で、これ科学者の言うことかな?と思って、聞いててだんだんダンダンもうドヨーンとして気持ち悪くなってくるような形、気分になってきて、でもあの方は中国の核実験のことに関しては、かなり糾弾されてますよね。19万人だか亡くなったとかいろいろな話をされていたというのもわかっているので、私はだから、逆に一面医療放射能に関しての危険性をあまりにも言いすぎて、いわき市民が受けなきゃいけない検査も受けなくなることを案じて来られたのかな?と思っていたら、全くそういうことよりも、本当に、
『安心だ、安心だ。避難地域は避難する必要がなかった。』
そこまでおっしゃってたので、
「本当にそう思ってらっしゃるのかな?」
って、私、何か力が働いておっしゃってるのか、或いは・・・、いったい何なのかな?
『世界に1台しかない内部被曝の機会を、私高田淳が発明して、それで午前中15名の人を測ったら、皆さん大丈夫だ。ご安心ください』
っておっしゃったんです。
 そんな機械、簡単に携帯して持ち回れるものなのか?本当にそんなに役立つものだったら、量産すればいいわけだし、おかしい・・・っていうのが土曜日に聞いて、日曜日、気持ち悪くなって。
 ネットで調べると、幸福の科学とか幸福実現党とかの呼ばれてらっしゃることが多いので、何かそういった宗教的なものであったり、政治的なものであったり、何かバックにおありなのかな?って。どうしてこういう方を、いわき市長さん、呼ばれてすぐ退席されたんですけど、のかな・・・?って。「もういわきに来たのは三度目だ」っておっしゃってました。
 1300人、この間の肥田舜太郎先生、熊仲ひとみ先生たちは、本会場がまだ空席がまだ若干ある程度でしたけど、本会場外もびっしり一杯、外も二つエキジビション、席がいっぱいで、外の通路までいっぱいいっぱいだたんですね。
 それくらいの、皆さん安心を求めてやってこられた方々が多いのかどうなのか、ちょっと判らなくなって、うーん。未だに思い出して、なんか気持ちが悪いっていう感じですね・・・。
 それをいわき市長さんが呼ばれたということも、いわき市長さんがお話を市民に聞かせて良かったと思ってらっしゃるのかどうか?
 それはちょっと問題だなと思ってます。

Q.戻って来られた後の様子を教えてください。

 戻ってまた仕事につくと、避難してる人たちからも、「今どんな状況ですか?」とか「幼稚園に戻りたいんですけど」って。
 私は「戻っておいで」ということは、まだ一度も行ったことがなくて、ただ、どうしてももどらなきゃいけない、もしくは知らない間に皆さん戻ってこられる。
 じゃあ、受け入れる側なんだから、受け入れる側としては、最大限、安全・安心に健康被害がないように、お子さんたちを受け入れなければいけない。そのために、土の入れ替えをやったりとか、今も水もミネラルウォーターだったりとか、浄水器通したりとか、理事長がそこには
「採算どうのこうのじゃなくて、今やるべきことをやろう」
って。
 あとは、逆に私が関西にいるからこそ、じゃあ、できることもあるだろうというので、奈良のほうからお野菜を取り寄せて・・・

Q.見せていただけますか?

 それは奈良から送っていただいてます。奈良産直センターというところで、私の30年来の友人が奈良県に居て、奈良の奥の自然派というところの理事長をやっていて、そこが仕入れてるとこらしいんですけど、本当に仕入れ価格でそのまま送っていただいて、クール宅急便で送っていただいて。
 お母さんたちも不安。この辺りのスーパーだと、どうしても福島県産のものが非常に多いということで、小さな幼稚園児がいるということは、もっと下にもお子さん居る方も多いので不安だというのを聞いたのと、あと8月20日に地方紙で
『今こそ福島県産を食べようじゃないか』
っていう・・・記事が編集日記の中に、そういうのが・・・。

Q.何というものですか?

 福島民友さんなんですけど。
 普段は本当に地元紙で地元に密着した取材をしていただいていて、役に立っている新聞なんですね。うちも家でとっています。
 地方紙と全国紙、必ず2種類取るようにしてるんですけど・・・。

Q.何と書いてあるんですか?

 最後の方、特に最後の方なんですけど、
『飲食店で聞くと、地元でも福島県産を敬遠する人がいるのは残念だ。それぞれだろうが、まずは県民が率先して食べないと、応援してくれる人に申し訳なかろう。「今こそ福島県産を食べよう」を県民の合言葉にするべきではないか』
って書いてあるんですね。
 これは、私は東電の社員食堂とか、国会の食堂とかに持っていって、食べてくださいっていうんじゃないの?って率直に思ったんですよ。
 これ読んだ時に、ずーっと最初からそういった類のことを、段々鳥肌立ってきて、最後これで締めくくられていたので、「これはいけない」って。この中にせめて『大人は』とかあれば別なんですけど、『子供は避けよう』とかっていう文言が全くなく、
「このまま福島県産を食べよう。でないと応援してくれる人に申し訳ない。」
 応援してくれる人って、そういうことを望んですか?っていったら、決して望んでないと思うんですね。福島県民は、福島産だからこそ、責任とって、責任が・・・、私たち一般市民が責任取る必要はなくて、これはおかしい。
 これをもし新聞やテレビのメディアとして、それが正しいと思って信じている人たちは、
「あぁ、そうだよね」
って。何人かはこの地だと納得されるのかもしれない。

「これはちょっと危険なことではないか」
って思って、8月20日なんですけど、8月26日に「PTAとしてこういう取り組みしませんか?奈良の安全なものを」っていうことで、
「市場の食品については、国の基準に沿って安全が確認されているものの、福島県産を応援して食べるのは、私のような50代を超えているような大人が責任を引き受けてとる行動であり、子供たちにとっては、より安心・安全なものを選択していくべきだと考えております。そこでということで、奈良の産直ルートを確保したので、希望があれば」
っていうことでやりましたので。

Q.幼稚園のお母さん達に呼びかけられたもの?一般への公開は?

 公開はしてないです。そこまでまだキャパがどうかっていうところもあるので、一部の保護者の方々が、ご不安だということも聞いていたところに、こういう新聞記事もあったので。

Q.何月何日の記事ですか?

 これは8月26日です。
 もう6月の時点で、園のほうでは文科省の通達や政府の『ただちに健康に影響はない』というのを鵜呑みにした対応では、大切なお子さんをお預かりしている責任を果たせないと考えておりますというのを、これは保護者向けになんですけど、配信して幼稚園の放射能対策に於ける方針についてということで、お伝えしてるんですね。
 まぁどちらかというと、安全側に振った対応をしていきますっていうことを宣言して、そういった取り組みをやっているわけで、今、逆に園児数は小さな園なんですけど増えていて、そういう気持ちの方もやはりいらっしゃるし、ただ、もう一つの葛藤があって・・・、中にはこのことを知ってお友達に、まだ避難してるお友達に電話されて、
「今そっちと線量そんなに変わらないし、私の行きはじめた園はこういう園だから、戻っておいでよ」
って言って、戻って園に入ってくださる方がいらっしゃるんですね。
 ありがたい一方、非常に私、ここもジレンマを感じてるとこなんですけど・・・、私たちがやれる、私たちの園でやれることってやっぱ限られてます。この中で、じゃあ円の外に土の入れ替えをしたからと言って、園の外に子供たちが出ないわけにはいかない。奈良のお野菜、月2回取り寄せたところで、お肉だって食べるだろうし、いろんなものを食べるだろうし。これで安心だから、じゃあ避難から戻ってこられたとしたら、私って・・・、私って、目の前のことしか見てない活動かもしれない。
 ちょっと偽善者になってしまうんじゃないかとか、そういう葛藤も、今持ってます。
 もっと5年10年後を見据えてやっている行動なのか?って自分に問い返した時に、そこまでなのか?今最近そういう一旦は、こういう活動をやって他の園よりはやってますから、今ここに居る中である程度きちっとした活動をやっていくんだという自負もあるので、5年後10年後、果たして今の私のやってることは正しいのかどうか?っていうところを考えると、悩みますね。
 朝起きるとね、3月11日以降、朝、手がこんなんなってるんです。グーにして。朝その手を、やっぱり何かしら緊張してるのか、いろんなこと考えてるので、手をこう、朝解きほぐすっていうか、そういう感じから1日がスタートしますね。
 やっぱり子供のことも考えると、夜寝る前辛いですし、お兄ちゃんとは、「あともう1年しか居られないね」っていわきでも言ってたのに、うーん、本当にこのまま大学生になったら離れちゃうんだなとか、娘ももっと思春期で、今悩んでることもたくさんあるだろうし、そばに居て抱きしめてあげたいっていうところもあるし、いろいろ複雑な気持ちがあるんですけど、ただ今必要なことというのは、私が今縁があって幼児教育に携わって、今後のことを考えると、やっぱり今後は子供たちに生きる力とか、人間力とかよく言われますけど、言われて久しいんですけど、IQよりEQとかそういったことも言われてあれですけど、なんかそういうもう少し歴史を紐解いていって、子供たちに生きる力とか、特にこの地域の子って外に出ることもなかったっていうこともあるんで、今度遠足で、子供たちの遠足にしてはあれですけど、今度福島空港に連れて行くことにしたんですけど、下手したら今後まだまだ原発もあぶないかもしんない。初めて飛行機に乗るストレスと、うちの子供たちを何回も飛行機に乗ってるから、ああして二人で行けたのであって、ちょっと飛行機に連れて行ってあげようかなて。なにかしらそれがどこかに結びついて、生きる力とか何かになるかもしれないとか、今後はそういうところも普通の保育だけじゃなくて、必要になってくる・・・

Q.いろいろな葛藤があると思います。お子さんの側に居るという選択をなぜ取らないのか、教えてください。

 今、一番、大事なものは何か?って聞かれたら、家族なんですね。家族。
 夫もなんでしょうけど、まず母親はやはり自分の子供ですね。今子供と考えたら人生の中で子供と一緒に居られる期間って、大学とか行っちゃったら18年くらいしかいないわけですから、その中の最後の仕上げの時期っていうか、一番一緒に居たい時期、赤ちゃんの時からもちろんそうですけど、家族は一緒にいるものだって。まさか離れるなんて夢にも思ってなかったわけですし、「あっちに居るとなんか疲れるんだ」って子供はやっぱり言います。「気を張っていて疲れるし」って。
毎日電話もしてますし、毎日兄とも、妹のほうとも。兄には「受験勉強の邪魔になる」って言われるくらい話をしてるんですが、でも、果たして一番大事な家族を今、私は絶対にこっちに居て、残んなきゃいけないっていう、そこまで代々の何かを受け継いでいてというとかでもないし、正直仕事にしても、今まで逆にいろんな仕事についていることもあって、戻れば昔の幼馴染とかが、「何かできることあるでしょ?」って言ってもらったり、英語もずっと続けてるので、少しはできるし、何か活かせるかもしれないし。
 果たして・・・。
 正直なところ、今の職場でここに残ったお子さんたちを、何か??????社会の役に立ちたい、そういう思いももちろんあるんですね。子供が「私の原点守ってくれ」っていうのを家族を守るだけじゃなくて、家族以外プラスアルファ生きてきた中で、何が少し、もう少しプラスアルファ役に立てる自分があって、試練があるんじゃないか?って思う時もあるし、本当に揺れ動きます。
 かといって、子供たちが、娘がちょっと悲しげなメールを送ってきたりすると、やっぱり・・・、物理的にも離れてたらどうしても無理だろうっていう時もあるので・・・。

Q.なぜここに留まっているのですか?

 なんでここに留まってるのか?っていうのは・・・難しい・・・ですよね・・・。なんでここに留まってるのか?って率直に今聞かれると・・・うーん。
 子供たちが「何で僕たちここに居るんだろう?」っていうのと同じ、逆かもしれないんですけど、危険かもしれないし・・・。何なんでしょう?
 一つは、どこかでやはり自分はずっと職業を持ってきた人間だというのがあるかもしれない。
 母親でありながら、ずっと仕事も続けてきた。仕事に関しての考え方もそれぞれだと思うんですけど、例えば今引き受けてる仕事、今やってる仕事っていうのは、年度末ごとに変わる仕事であって、それは3月、一つの区切りです。
 だから、私は一旦上司というか理事にも言ったんですが、来年の3月までは頑張ります。そういういい方で、今います。
 来年度は?って・・・、まぁその先は言わせてくれなかったっていう感じがあるんですけど、なので、何か一つ、それは職業観かもしれないですね。何か一つのことをやるときには、もちろん最後は命が大事だし家族が大事ですけど、今離れていても一応うちの子供たちは、あと半年間だったら、大丈夫だろうって。でも、私が今職場を離れても大丈夫かもしれないし、阪神の球団の社長が亡くなった時阪神優勝したので、それくらいの話かもしれない。
 どこかになんかそういう一度、離れられない何かがあって、今入園の話したり、お母さんたちの悩みを聞いてるうちに、受けきれないですね。今お母さんたちだって皆悩んでるのに、そこで自分は避難する道とか逃げ道あるから、じゃあそちらにって、もし行ったときに、逃げた時にある程度納得のいくとこまではやって去りたいという気持ちがあります。
 どこかで私はもしかして去るのかもしれないけれども、去って行ったときに、そこで私は責任を果たせなかった自分が、その時その時にある、それぞれ責任ってあると思うんですね。家族に対する責任もあるけれども、社会的な責任も大人になったら、少しはそれぞれあるものだっていうのがあるので、もしも、さっとそこで去って行ったとする。子供たちと一緒に去って行ったとしたら、多分それはそれで、一生引きずっていくことが怖かったのかもしれないです。

Q.園長としての社会的責任で残る、というのでは釣り合わないようない思えるのですが?

 なんで、本当に改めて、もう一度改めてなんで?ってなると・・・。
 ただ、私の場合は、ここに居続けるかどうかは別・・・ですね。ある程度、期限付きというか、執行猶予付きみたいなものがあります。

Q.何と結びつけられているんでしょうか?

 今、そうですね。今やってる活動であるとか、仕事?
 ここに故郷ではないにしろ、19年いわきに居て、子供たちの故郷であって、主人の父もこちらに居る。本当にお世話になって、子供の子育ても手伝ってもらったおじいちゃんだけを残しておけないという気持ちもあるし、今、関わってる、縁があって関わってる人たちは、日々やってることが少しでも役に立ってて、逆に警鐘を鳴らしている部分もあって、そういう・・・ところが、どこかで・・・。
 絶対・・・、私もしかしたら通じないのかもしれないし、大学のゼミの先生も心配して電話してくれて、
「自分の無力さを知れ」
って、逆に叱られたんですけど、うん
「自分が頑張ってどうにかなるほど、世の中甘くない。それでそっちに居続けるの?」
って逆にいわれたりしてるんだけど、でもなんかちょっとこう、今去るわけにはいかないっていう何かがあるんですね。
 今去って、何か自分が生きてきた中で、少しなんか偽善みたいなんだけど、できること、ここの今ずっと福島県に住んで、いわき市に住んでいる人ではできない何かがあるんじゃないかなって。それが自分の中の存在価値っていったら変なんですけど、もちろん子供の方にも会いたいですけど、今実際自分の子供をパッと振り返ってみたら、この半年間で、離れてることによって成長もしてくれているし、娘は私が帰ってくることを、「今すぐは望んでない」って言いきるんですね。「それよりも自分の原点でちょっとは頑張っていて。」って。
 多分私はいつか帰ることにはなる。少なくとも私は定年後老後は、やっぱりアイデンティティはあっちかもしれない、老後はあっちかなっていう気もしていたので、それが早まるのかもしれないけど、今なんか、岩上さんに言われて、なんで?って明確な答えがなかなか私、出ないけど、いつかは帰るんだけど、今は帰れないですね。

Q.好きなんですか?この土地が。

 あまりにも自分と違いすぎてて、正直、好きか嫌いかって言われたら、自分に馴染んでるのは、やっぱり関西なんですね。

Q.故郷ではないとおっしゃりながら、合理的な行動を取られていない。それはなぜなのですか?

 故郷ではないけれども、子供たちの故郷なんですよね・・・。
 私は子供たちのこと大好きだし、自分で親ばかだと良く子供にもいわれるけど、イイコに育ってくれたなと思ってるんです。
 すると、ココの地が育ててくれたというところもあるし、子供たちを見てると、私にはない純朴さだったり、やさしさだったり、そういうものがすごく備わってる。
 自分の子供なんだけど、半分はここの故郷の子供なんですね。
 それをとても愛おしく思う時があって、やはり・・・、合理的でないと言われるかもしんないけど、どこかでそういう気持ちを恩返し、自分のやってることがね、そんな大それたことでもないけれど、何かしないとこのまま「もう、はい、さよなら」ってなれない。

Q.恩返しなんですね。

 子供を育ててくれた土地じゃないですか。二人ともいい子になってくれたなって。
 私には持ってない優しさというか、この地だからこそ育めた優しさみたいなものって、あるなって思うんです。
 関西のややガツガツしたところだけじゃなくて<笑>、そういうところはとってもあります。
 もしかしたらそれに関して、本当に、今それで子供たち二人が本当にヘルプミーって私に呼びかけていたら、私はもちろんここをサッと・・・、どうしてもやっぱり子供のことがって言えるんですけど、その二人の子供たちは、まだ本当は心の中はヘルプミーで、私のことを気遣ってるのかもしれないし、何かあるのかもしれないけれども、耐えて頑張って成長していってくれているので、そこは、その子供たちのためにも、何かできること、ちょこっと。
 どこで満足して終えるんだってなってくるかもしれないけれども、少なくとも来年の3月までは・・・

Q.今やっていることは、感謝の表現であると。

 そうですね・・・。

Q.ご主人の気持ちは、どのように理解をされていますか?

 主人は福島県人だけれども、大学時代は東京に居て、あと転勤で秋田の姫路で知り合ったんですけど、ただ・・・、主人の父親は会津出身で、本当に会津魂の人で、福島県警、警察だったので、主人は自分では「故郷が無い」っていうか、2,3年ごとに転勤、転勤で移動してきたので、故郷が無い、私のように幼馴染がずっといてっていうわけではないので、「羨ましいな」とはよく言われてたんですけど、でも福島県内ではずっと18まで居たわけで、最初は、だから「故郷が無い」っていうから、「じゃあ私が故郷になってあげようやないの」とかって冗談で言ったりしてたんですけど、主人はやっぱり18歳まで福島に居て、いろんな地を転々とした、その転々とした地が、今悉く立ち入り禁止区域になっていたり・・・

Q.福島県内で?
 県内で。
 だから、それはそれで辛いみたいですね・・・。
 伊達とか小原とか福島市とか居たって言ってますので。

Q.ご主人はお母さんを亡くされ、お父さんの介護もあり、子供とは離れ離れ、今五重苦ぐらいの感じですよね?

 今は、岩上さんに言われて、もうちょっと優しくしなきゃって思いました<笑>。
 ちょっと今、ふっと、今ちょっと私主人のこと忘れてたかもしれないですね。子供のことと仕事のことで目いっぱいで、若干主人のことは忘れてたかもしれないですね。
 置き去りにされていたかもしれない。

Q.これで奥さんと不仲だったら、死にたくなりますね。

 「あなたは姫路に帰りたいだけじゃないの?」
って言われてから1週間くらい前から、あんまり会話が無くなってしまってるんですけど、会話、今、避けてますね。お互い、かける言葉がないくらいの状態になってきますね。それぞれが。
 でもそういう人が今本当に福島にいっぱい・・・いらっしゃると思うんです。

Q.故郷に対する非合理的な思いというものを旦那さんに伝えれば、納得されるようにも思いますね。

 いやいや、でも、今日来て一番良かったなと想って。
 岩上さんにそういうお話を聞いて、正直1週間ほど、それ以来口きいてない状態だったので、ちょっとだんだんお互いかける言葉が無くなっていくんですよね。
 こういう緊張した生活がずっと続いていた中で、夫の方は仕事を持っているところもあったので。

Q.同じものを大事にする、共有していなければ、孤立感がありますよね。

 私は、そうやって「今なら家が売れる」っていって、ね?
 正直避難の方とかも入ってくるので、この間貯金を全部はたいて、ローンを完済させて、いつでも離れられるようにはしたんですね。本当にまだまだ原発、何が起こるかもわからないわけだし、っていうか、至急離れなきゃいけないっていう緊急性があることだってあるかもしれないし、一応ローンは繰り上げ返済して、あとどうしようもないのはあれですけど。今までずっと働いてきたので、何とか経済的なことはそんなに悩まなくてもまぁ良い範囲にはなってるんですけど、そこもやっぱり夫にすれば、「もう離れていくのか?」って、おじいちゃんにも頭金を出してもらった建てた家でもあるので、お爺ちゃんにとっても寂しいだろうし、主人の父のほうは、
「あと1年経ったら、娘は帰ってくるんだっぺ?」
みたいに最初の頃は簡単に思っていたし、
「1学期終わったら帰ってくんだっぺ?」
とか、そういう感じだったので、やっぱりショックですよね。おじいちゃんも。
 こちらで離れ離れ・・・、かわいがってくれた孫も離れているっていうことは、まだ理解のある、他のご家庭とか聞くと、もともとおじいちゃんたち、縛り付けるような発言が多い中、
「一番大事なのは、二人が元気でいることだかんな」
って。
 主人の弟が白血病で亡くなってるんですね。高校生の時に発病して、22,3で亡くなってるので、おじいちゃんも「もしかして白血病とか何か、原発がらみで受けたことがそうなったら」っていう思いもあって、どうして白血病になったのか、全くわからないままなってる人なんですけど、だからそういうことに関しても、敏感にはなってて、主人もそこは、最初は理解して、一緒に避難させたっていうところはあると思うんですけど。
 本当にそれぞれですね。本当に、なんかこういう決断を下す時って、生まれてからこの人生の中に、どういう経験をしてどう考えてきたか。
 時間は同じように、みんな平等に流れてるんだけど、どう考えてきたかとか。
 だから、今回こうして百人百話ってされるのは、本当に貴重なことだと。
 それぞれの思いっていうか、それぞれの背景があって、それぞれなんで。

Q.心の中の思いというのは、ご自身でも気づいていないことがありますからね。

 最後お話聞いてもらって。
 やっぱり自分でこう話してみて、改めて抜けてる、何か欠けてるとか、こういう場が、こういうのって大事だなって思ったんです。
 ありがとうございます。
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