もうすぐ北風が強くなる

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百人百話:父ちゃん、なんで福島なの

  百人百話:トシユキさん   書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

今年50歳になる、二人の子供を持つ父親で、住まいは福島県のいわき市。
「父ちゃん、なんで福島なの?俺、結婚できるかな?」

 自己紹介をさせていただきます。
 私は、今年50歳になる、二人の子供を持つ父親で、住まいは福島県のいわき市に住んでいます。はい。
 で、家族構成は、私、妻と小学生の女の子の子供と、それとあと、高校生の男の子、二人持ってます。それとおじいちゃんとおばあちゃんと全員で6名で二世帯で住んでいる家族のおとうちゃんっていう形です。
 で、名前なんですけれども、今回ちょっと事情がありまして、大変申し訳ないんですけれども、下の名前だけでお許し願いたいんです。
 下の名前はトシユキと申します。申し訳ございませんけれども、上のほうの名前は控えさせていただければと思います。よろしくお願いします。
 私の話すはなしは、私自身に起こったこと家族に起こったこと、それから周りで起きたようなこと、これ全部真実ですので、嘘とか憶測に基づいたことではないので、見ている皆さん、誤解の無いようによろしくお願いします。

Q.お仕事は?

 仕事は医療関係で、一応自営という形でやらさせていただいております。

Q.3.11はどこで震災に遭遇しましたか?

 3月11日の午後2時46分頃だったと思いますけれども、私は自営業でしたので自宅におりました。
 お昼終わりまして、少し時間が開いていましたので、少し休憩をとって、居間でテレビなどを見て、妻と一緒に歓談していて、もう少しで小学校の娘が帰ってくるので、「もう少しで帰ってくるね」なんて話をしていて、和んでいたところです。
 その時に、地震が起きました。
 最初は、「あ、地震だな」っていう形だったんですけど、徐々に大きくなってきました。
 縦揺れが最初あって、そのあと横揺れがものすごく強烈にありまして、自宅で金魚を飼っているんですけれども、その金魚の入っている水槽が溢れそうになりましたので、その金魚の水槽を両手で持ちまして、「あー、大丈夫かな、これ、落ちないかな?」っていう不安でいっぱいで、それで、ずっと押さえていたんですけど、それでもまだ揺れはおさまらなくて、1分経ってもまだ収まらない。2分経ってもまだ収まらない。
「これはどういうことなんだろう?」
と思って、びっくりしました。
 そうしている間に、地震が徐々に徐々に収まっていったんですが、私の感覚でいうと、その収まってからも、30病に1回くらいの余震が、体に感じていました。
 私ツイッターとかやっているんですけど、見返してみたんですが、やはり「30秒に1回くらい余震が来ている」とツイートしてたのを覚えています。
 その余震がずっと続きまして、続いてる間に娘が学校から帰宅しました。
 娘は、普通「ただいま」というような掛け声をかけて家の中に入ってくるんです。通常は。
 そうではなしに、どどどどっと上がってきて、
「お父さん、お母さん、地震大変だよ!」
「お前はどこに居たんだ?」
集団下校してましたから、集団下校中に地震に遭ったみたいなんですね。
「その集団下校してるとき、どうだった?みんな大丈夫だったの?」
って聞いたら、みんな輪になってうずくまって、一緒になって「大丈夫だ、大丈夫だ」って掛け声をかけながら、自分たちでその場を乗り切ったって言ってました。
 あとから聞きましたら、非常に近いところ、自宅から100mくらいのところで地震にあってて、でもそこから自宅まで地震の最中に帰ることはできなかったようです。
 本当に大きかったので、皆でしゃがんでいるのが精いっぱいの状況でした。
 その後、停電になりまして、これは、ちょっと只事ではない。こんなに大きい地震がきたんだったら、津波も来るかもしれない。津波が来たら大変だ。でもテレビをつけようにも、電気が来てなかったと思いますので、ラジオをつけよう。
 私、ラジオは中学校の時代から、ずっと昔BCLっていう海外の放送なんかも受信できるような少し大きめの高性能のラジオを持ってましたので、大体どこの放送局もとらえられるだろうってことで、まずは地元の放送局を聞こうかと思ったんですが、やはりNHKの方が正確だろうということで、NHKのラジオを聞いていました。
 緊急地震速報を放送していたと思ったんですけれども、でも、その後は、私が効いた段階では、もう津波が来るかもしれませんということを放送していました。
 最初は津波が来るしか言ってなかったと思うんですね。
 その後、少し時間がおいてから、大津波が来るって、大津波警報が出ましたっていうことを気象庁が発表したっていうことを伝えました。
 大津波ってどういう津波なの?
 感覚がちょっとわからない。
 「あっ」と思って、私、ちょっといわきでヨットやなんかのグループサークルに入ってましたので、ヨットが係留してあるのが、いわきのサンマリーナというところに係留してあったんですけど、
「大津波がきたら、大変だ。ヨットもなにも全滅になるであろう、桟橋に係留してあるので、その桟橋ごと上に波が来たら持ち上がってしまって、そのまま引き潮で持っていかれるだろう」
ってことを想像してて、そっちのほうも頭をよぎったんですが、それどころではないし、そんな場所に行く時間も余裕もないし、大津波だったらこれ、大変だということで、私の妻のお母さんが、自宅から10㎞くらい離れたところのいわき市の割と北部のほうに住んでいたので、四倉というところなんですけど、そちらの方に電話したところ、早めに電話したんですけども、不在というか居なかったんですね。
 で、連絡とれない。
 そのおばあちゃんの自宅は、海岸から300mくらいしか離れてない距離だったので、これは大変だということで、すごく心配していたんですけれども、それどころではなしに、これは自分の身がどうなるんだろう?ということを考えて、留守であれば、本当に留守で電話機を取れない状態か、もしくは外出している、どちらかだろうということを考えたんですけれども、横揺れが大きいだけで、さほど古い建物ではなかったので、住んでいたところが。
 「たぶん大丈夫だろう」ということで、後から連絡をとろうということで、電話はその場だけで一旦終了しまして、今度、何をしなければいけないかということを考えましたが、ちょうど残念なことに、お風呂にお水をはっていませんでした。
 『お風呂入った後の水をよく貯めておいたほうがいい、災害時にはそうしたほうがいい』ということを聞いたこともあるし、ずっと続けてはいたんですけれども、災害はそれほど頻発に起きないということで、もう抜いておくような習慣がついてしまっていたんですね。
 あとから考えれば、これはちょっともう一回考え直して、災害のために、今東京やほかの地域に住んでいる方にも、僕からのアドバイスとして、できたらお風呂の水は、そのままお風呂から上がったら、そのまま取っておいた方が便利だよ
 なぜ便利かというと、お風呂の水はいろんなものにつかえて、水道、上水が出ない場合には、まずトイレを流すことができない。そのためにお風呂の水を汲んでおけば、それだけで、汚い話ですけれども、便もおしっこも流れるので、そのためにも取っておかなければ、自分の排泄物も処理できないような環境になってしまう。
 これはすごく、あの僕も後から後悔したんですけれども、そのために水を確保しようというのが一番先によぎりましたが、その前にもっと大事なことがあるだろう、何かないか?ということを考えました。
「あ、ガソリンだ」
車を使うだろう。どこに行くにも、ガソリンを使うだろう。
 例えば、水を大量に運ぶ、どこかから運ぶにしても、ガソリンがなきゃどうしようもないから、地震が起きて多分30分くらいで、ガソリンスタンドに行ったと思います。
 ガソリンスタンドに行ったら、まだ行列はできていなかったんです。
 それで、ガソリンスタンドで、私ハイオクなんですけど、満タンにしました。満タンにすぐできました。
 私の前に一人か二人しか並んでいませんでした。
 夕刻がだんだん迫ってきたので、会社帰りのサラリーマンの車がこれから多分ガソリンスタンドに並ぶだろうということを予想していて、私がガソリンスタンドに並んだのは、今から思い出すと4時半から5時の間でしたね。
 運よく入れられて、それからガソリンのありがたさを判った。

Q.地震が起きた後の様子を教えてください。

 津波が来て、これは大変なことになるだろうということは想像できました。
 で、ラジオのニュースや何かを聞いていると、どうもなんか、福島の原発でただならぬ状態であるというようなことを報道し始めたところですね。
 それは、3月の12日だったと思います。
 その頃には、電気も復旧していましたので、枝野長官の会見とかを見ることができました。
 その時に、「放射能漏れはない」ということを先に言われたので、
「あ、大丈夫だったんだ、今後も大丈夫だろう、放射能漏れはないんだ。だったら安心だ。この地震災害で、復旧すべきことは沿岸部の方たち、被災された方たちを助ければ、それでもとに戻る、ああ、良かったな」
ということを最初安堵していたんです。

Q.原発で事故が起きると大変なことになるという知識はありましたか?

 3月の12日から原発の様子がおかしいということで、電気が通じてからNHKの報道を主にテレビで見ていました。
 原発の様子がおかしいというようなことを報道されてきてから、私は原発についてどれくらいの知識があったのかを振り返りました。
 実際にJヴィレッジで息子がサッカーなどをやっていたので、Jヴィレッジに行く機会は頻繁にありました。
 そのJヴィレッジから少し離れた、北部の確か楢葉町だったか、双葉町だったか忘れたんですけれども、そこに原子力のパークみたいなのがあるんですね。
 今はわからないですけれども、私が行ったときは開館、開いてまして、その中で、
「原子力について、原子力がどういうものか、どういう構造になっていて、ここは安全です。放射能漏れとかは、一切ない。電力を安いコストで東京の人たちに送るために、福島第一原発とか第二原発はあるけれども、絶対に大丈夫だ。安心してください。」
その中で、これはすごく鮮明に記憶してるんですけど、
「もし万が一、原子炉に飛行機が旅客機が墜落したとしても、絶対に大丈夫です」
ということを断言されていました。
 それは、案内された係の女性がお話していたんですけれども、それを聞いていた私は、原子炉は航空機が突っ込むような、あの9.11のようなことがあっても、絶対に大丈夫だろうっていうことを、以前に吹き込まれていたんですが、私自身もツイッターでツイートしたんですけれども、
「旅客機が墜落して当たったとしても、大丈夫だ」
っていうことをツイートした記憶があります。

Q.これまで、放射能漏れはないと信じていた?

 えー、絶対ではないですけども、かなりの確率で大丈夫であろうと。
「周りに囲まれている建屋は、コンクリートの厚みが2mくらいあって、それで全部囲まれている。だから、航空機が墜落しても原子炉はビクともしない」
というような説明を受けていたので、このくらいの揺れだったら、あとで発表を聞いて、M9ですか。でも、「大丈夫だろう」というような思いが、ほぼ9割がたありました。
 しかし、その後、枝野さんがなにかこう、異変があるというようなことを伝え始めてから、
「あれ?僕が聞いていた話と違うでしょ?これ、マズいよね。じゃあどうなるの?」
ということでいろんなことを考え始めました。
 もし、原発が万が一のことがあったら、大変なことになるだろうということは、想像していました。

Q.放射能は、我が身に降り注ぐと思いましたか?

 えーっと、私が原発事故、原発おかしいということを報道を聞いてから、これは大変だと思ったのは、チェルノブイリのことが頭をよぎったからです。
 1986年の4月か5月だったと思いますけど、その時期にちょうど私はカリフォルニア州のサンノゼというところに居ました。
 外国人の方の家にホームステイというか、間借りしてまして、3か月くらい住んでいたんですけど。

Q.お仕事で?

 仕事の関係です。
 仕事の関係で、サンフランシスコから南に100㎞くらい、サンノゼというところにいたんですが、そこでテレビを見ていた家のご主人が、
「大変なことが起こったぞ。Atomic Burnだ。ソ連だ。ソビエトがAtomic Burnやった。だから大変だよ」
っていうことを話した時に、
「あ、原発が爆発したの?」
って頭をよぎって、映像を食い入るように見たんですけども、なかなかその事実が判っても、映像はなかなか公表されなかったと思うんですね。後になってから出てきたと思うんです。
 でも、そのアメリカで報道されたことを知っていたので、これは原発が爆発したら大変なことになるだろうというのは、容易に想像はできましたね。
 距離なんですけど、原発からの距離は、恥ずかしいんですけれども把握していませんでした。
 ただ、50㎞くらい離れているだろうというような認識は持っていました。
 ただ、チェルノブイリの時の報道もそうでしたが、風向きによる。
 もし、万が一、原子炉自体が爆発しても、風向きによって飛んでいく方向が変わるし、地形によっても変わるということを判っていましたので、いわき市に果たして到達するか?ということは、到達することを恐れていました。
 ですので、窓は全部閉めて、子供たちは外出させず、妻も外出させず、おじいちゃんおばあちゃんも家にとどまるように言って、目張りまではしませんでしたけど、うちの家は軽量鉄骨のプレハブ構造でしたので、比較的密閉性が高かったので、鍵を閉めて、カーテンまでは閉めませんでしたけれども、なるべくエアコンとか換気扇、使わないようにして過ごしていました。

Q.14日の爆発は?

 14日の爆発なんですけど、3号機の爆発だと思うんですけど、14日の爆発を見た時には、正直、びっくりしました。
 びっくりしたのは、キノコ雲が出る前に、黄色い光が見えた。
 これは一体なんなんだろう?
 原子炉自身が爆発したんじゃないか?
 ということで、大変危惧しました。
 でも、危惧しても、細かい情報がなかなか出てこない、というかほとんど出てこなかったと思います。映像だけが先行してきて、白い煙が上に上がっている映像が出てきてたのは覚えていますけれども、これは重大なことになるであろうとは、その時にも思っていましたが、ここまで酷くなるとは、正直思っていませんでした。
 私の知人に、いわき市には東電の関係の方ですとか、その周りの周辺のお仕事をされてる方がたくさん住まわれていますので、私の知人にもそういう方が何名かいらして、その方の一番外側にいらっしゃる方、原発で働いてる方とかそうではなしに、関連企業の一番遠い部署に居る方に電話して、
「どういう事態が今起きてるの?」
ということを質問しました。
「原子力発電所が爆発したんだよ。」
その方が言うには。
「これはもうメルトダウンだよ。」
メルトダウンっていう言葉は、その時初めて聞いたんです。
「メルトダウンって何ですか?」
っていう質問をしましたら、
「知らないの?メルトダウンって、中の燃料が溶け落ちちゃうんだよ。」
その話を聞いたのが、3月の15日か6日だったと思います。
 その方は、その話をしてからすぐに、東京のほうに避難されました。
 避難している途中で電話がかかってきて、
「実は高速道路はまだ東京までのぼりもくだりも、両車線ですね、通ってないので、これはした道を行ってるんだけども、東京まで相当の時間がかかるぞ。お前も来るんだったら早めに逃げないと、道が混んでどうしようもない。」
半日くらい過ぎてから、また電話がかかってきて、
「東京の平塚ですか、神奈川の平塚に着いた。東京まで12時間かかった。だから、お前も逃げてくるんだったら、それくらいのことを覚悟しろよ」
っていうふうに言われたんで、
「あ、そんなにかかるのか。」
でも、この原発事故で皆外出してないし、政府からみんな自宅待機の指示も出てるし、出ていこうか、とどまろうか、迷いました。

Q.その方は、メルトダウンを東電内部からの情報で判断されたのですか?

 それはないです。 

Q.その方の情報源は、どういったものですか?

 それは、情報は、その人が考えた推測です。
 その方の推測のもとの話、メルトダウンっていうのを聞いて、
「これは大変なことが起きるよ。もしかしたら、チェルノブイリになるんじゃないの?原子炉自体が爆発したら、もう終わりだよ。だから、お前も早く逃げたほうがいいんじゃないの?」
という指導、指導っていうかアドバイスを受けました。
 私も、
「そうなのか、そんなに大変なことなのか。」
実際今になって思えば、空間線量がどれくらいだったとか、どれくらいのプルームが流れてきてるのかとか、そういうことは、全然わからなかった。知識として無かったですから、チェルノブイリと同等くらいだったら、本当に死者が出るし、周りの人もバタバタ倒れるんだろうなってことを思っていたのですが、どうもそれはないし、死者が出たというような報道もない。
 ですので、「チェルノブイリまではいってないのかな」ということも考えたのですけども、でも、最悪のことも考えておいた方がいいだろうということで、私はそれまでいろいろ熟慮して、おじいちゃん、おばあちゃんを説得して、埼玉県の川口市というところに避難しました。
 おじいちゃんおばあちゃんは、昭和一桁生まれの人間ですから、
「政府の言ってることを信じろ。お前は何を言ってるんだ?どういうことで逃げろって言ってるんだ?大丈夫だよ。ここに居ろよ。」
ってことを言ったんですけど、私は
「そんなことは無い。」
そのころは電力も回復してましたので、インターネットで情報を見ることができました。
 これはまずいということで、いろんな情報を当たって、いろんな人の声を聴くことが出来て、これはもうまずいということで、避難したほうが自分の命にも関わることかもしれないということで、避難したんですけども。
 避難形態は、6人でしたので、普通のセダンの乗用車に6人乗ることが出来ませんでしたので、最大5人なんですが、荷物も積んでいかなければいけませんでしたので、3人はちょうどインターネットで飛行機の臨時便を見ていました。
 福島空港から臨時便が出るらしいという情報をインターネットで情報を得まして、実際に全日空の飛行機で臨時便が出ていたのですが、なんと本当の臨時便で、福島空港から羽田までそんな便ないんです。
 でも、それを座席の予約リストを見ていくと、どんどん埋まっていくんです。
「あ、これは大変だ。席が無くなってしまう。早くクリックしないと、もうここから出られないぞ」
ということで、3名分クリックしまして、座席を確保しました。
 あとは、その3名分、私の母と、妻の方のおばあちゃんを飛行機に乗せて、あとどうしてもおばあちゃんだけですと身動きとれませんから、うちの息子の高校生をつけて、3人で羽田空港まで、いわき市からタクシーで見送るような形で、埼玉県の川口市まで、「ここまで来てください」という指示を書いて、全部旅行のパンフレットのような形でやってました。
 で、私たちは3名で別のルート。3月18日になった段階で、高速道路、被災者無料で通れるっていう情報がありましたから、じゃあ早めに逃げようということで、常磐高速を使いまして逃げました。
 今から思えば、なぜ高速道路を上下線とはいわないですけど、上り方向は開けておいてほしかった。自衛隊や消防なんかが東京から来たんですけど、それは下りだけを緊急車両に使えばいいので、なにも上り車線を緊急車両のために閉鎖するっていうのは、おかしなことだろうって、ずっと思っていました。
「なんで一般に開放しないんだ?どんどんどんどん、逃げたい人は東京方面に逃げられるだろ?それをなぜ阻害するんだ?」
お金払ってでも高速乗りたいですよ。でもその機会さえ奪われてしまいましたから、皆さんしょうがなくて、3月17日までは、国道6号、下の道で行ったというのが正直なところだと思います。

Q.川口で、どのくらい避難生活をしていたのですか?

 埼玉県の川口市に行って、そこは一軒家だったのですが、私の弟夫婦が、私に弟がいまして、結婚してて、今は静岡のほうに居るんですけど、静岡の方に行ってもよかったんですけど、一軒空き家を持ってたんですね。埼玉県の川口市に。
 近くに大きなスーパーもあるし、便利なところだから、一軒あるし、6人で暮らすならちょうどいいだろうなということで、こちらからお願いして、
「申し訳ないけど、一軒貸してもらえないか?」
ということで、一軒を平屋ですけど、借りることが出来て、そこに避難しました。
 期間は3月18日から4月の第一週までだったと思います。
 詳しい日にちは忘れてしまったんですけど。
 東京にきて驚いたのは、モノが豊富にある。
 水も並べば買える。
 ガソリンも並べば買える。
というような状況だったので、いわきの状況とはまるで違うなということがわかりました。
 いわきは、この実害だと思うんですけど、世間は風評だということを言うんですが、トラックや、トラックをはじめとした物資が何も入らない。ガソリンも入らない。水も入らない。食料品も入らない。医薬品も入らない。
 これは大変なことですから、その場を逃げざるを得なかったと思います。
 もどって4月の上旬まで埼玉の川口に居ましたけど、4月の第一週の時点で、埼玉の川口からいわきに戻ってくるときには、ガソリンを東京で埼玉の川口で入れたんですけど、帰ってくるときに。
 待ち時間はゼロ秒でした。
 で、いわきに着いてから、またガソリンを入れようと思ったんですけど、大渋滞、大行列でした。
 その行列もひどくて、開いていないガソリンスタンドに渋滞ができるんですよ。
 夜中から。
「朝多分開くだろう」という推測の元に、皆、並ぶんですね。
 あとから聞いた話ですけれども、並んでる人は毛布を持参して、その頃はまだ寒かったですから、泊まりながら一昼夜そこで過ごして、開くかどうかわからないガソリンスタンドに並んでいたそうです。
 本当に物資もなくて、スーパーもほとんどやってませんでしたし、食料品も豊富にはなかったですし、冷蔵庫の中にあるものを食べつなぐということを皆さん、主にしていたと思います。
 4月の上旬に私がいわきに帰ってきたときに、夜中だったんですけど、午後7時くらいだったんですけど、ほとんどの家庭で明かりがついてなかったです。
 いわきの中心部、たいらというところなんですけど、そこでもやっている食料品店が、午後4時か5時をまわると、一軒もなかったです。
 偶然発見したのは、宅配ピザの店でしたね。そこに偶然あかりが灯っていたので、
「売っていただけますか?」
という話をしたら、
「販売します」
ということで、お土産用のピザを2枚大きいのを買って帰って、皆で食べて、
「あー、良かったね。食べ物があった」
という話をしてました。

Q.4月上旬に戻って来た時には、ご自身の情報はどのように変化していましたか?

 私が4月第一週にいわき市の方に戻ろうと思ったのは、テレビの報道を見ていて、主にNHKだったと思うんですけど、民間の放送を見ていましたら、
『徐々に落ち着いてきている。最悪の原発の爆発は免れた。すごく高い放射能濃度から徐々に下がってきている。』
ということを報道していましたので、それを信じて、いわきは割と山岳地帯ではないし、海に面した地域が多いので、平たい土地が多いので、さほど原子力発電所からの放射能に関しては、影響を受けてないだろうと想像しました。
 で、実際徐々に地元の情報を、その時は情報、4月の上旬で得られてたのは、パソコンは持っていけませんでしたので、iPhoneを持っていって、それで情報を得ていって、徐々に原発が落ち着いてきていると、これ以上拡大するようなことは無いだろうというような情報を自分で・・・・、なんていうんですかね、判断して、で、戻ったというのが、私の判断の根拠です。
 で、戻ってから、今度、インターネットでいろいろ調べ始めました。原発について。
 原発について、何が詳しいんだろう?と。原発って検索をかけて、いろいろニュースサイト、大手の新聞のメディアの報道などを中心に見ていたんですけれども、さほど悪い状況ではないと。今後収束していくだろう。4月上旬の段階で、大丈夫だろうというような報道をされていたので、そんなに危機意識を持っていなかったのが、本当のところです。
 4月の上旬から中旬にかけて、原発情報をインターネットで情報入手しまして、いろいろ自分なりに考えていたんですが、用心に越したことはないということで、窓は閉め切りの状態、エアコンもつけない。換気扇も回さないという状態が、ずっと4月の下旬頃まで続きました。
 でも、これは本当にびっくりしたんですけども、「こんな状態で小学校が始まるのか?」っていうことを危惧したんですけど、なぜならば、4月の第二週に、私の娘が通っている小学校の担任の先生からお電話がありまして、
「どうされますか?
 いわきのほうに戻られているんですか?
 それともいわきから外に出られてて、そちらにずっと避難されてるんですか?
 こちらには戻る予定はないんですか?」
っていうことを聞かれました。その時に、私はもういわきに戻っているので、
「娘はここに居ますし、どういうことですか?」
って聞きましたところ、
「学校始まります。(4月の第二週くらいからだったと思いますけれども)始まるので準備をしてください。最初の授業はありませんけれども、登校していただいて、皆さんがどのくらい出席するかを、実際問題、調べたい」
というような学校側の希望もあったと思うので、私は放射能、家の外の放射能もやっぱり気になっていましたので、マスクをさせて、帽子をさせて、長そで・長ズボン、特に小学生の女の子でしたから、すごく私も含めて、私の住んでいる周りの方も同様にすごく放射能に怯えているような生活が続きました。
 それはすごく長かったですね。
 学校は鉄筋コンクリートでできていて、遮蔽効率も良くて、どのくらいだろう?ということで、私単独で開いている時間に娘の通っている小学校に乗り込んでいきまして、
「校長先生にお話があるんですけど?」
ということで、校長先生が時間がちょうど偶然開いていたので、
「今後どのようにされるんですか?学校の方では。」
ということで、
「いや、私たちは、生徒、特に小さいお子さんに関しては、放射能の影響があるかもしれないので、まず外に出すことはしない。体育もやらない。もし、万が一やったとしても、体育館で少し運動をやったり、教室の中で少し体を動かすようなことをするだけで、外に出すようなことはしません。窓も開けません」
ということをお聞きして、実際にその時にもう既に4月の中旬だったんですけれども、校長先生が空間線量計を持っていました。
「あ、すごいですね。空間線量計を持ってるんですね。今何ミリシーベルトなんですか?」
って聞いた記憶がありますね。
 そうしましたら、えーっと、
「0.5μSv/hが学校の外で、学校の中、鉄筋の中ですと、0.2から0.25くらいのμSv/hの状況だから、さほど心配することはありませんよ」
みたいな形でお話をお聞きできて、
「あー、大丈夫なのかな?」
と一抹の不安もありながらも、他の福島県の地域と比べて低かったので、
「あ、これは大丈夫だろうな」
と自分で判断して、学校へも毎日通わせましたし、外での運動はさせませんでした。
 次第に学校が始まってきて、放射能に関することをインターネットで調べてきたら、今度は内部被曝が危ないということを徐々に言い始めてきました。
 それまでは外部被曝が主だったんですけど、『内部被曝が危ない。飲み物・食べ物に注意しよう』ということだったので、当初一か月くらいは、学校の給食は無かったんですけど、その間お弁当持参だったり、午前中の授業だったりして、早く帰ってきたりですとか、
「お弁当を持っていくから、午後まで今日は授業があるよ」
ってことを娘から聞いていて、
「じゃあ、お弁当作ってあげれば?」
できるだけ、外のものを。北海道産とか九州産とかをスーパーで見つけて、それを主に妻に調理してもらって、お弁当にして子供に持たせるようにしてました。
 で、そうこうしてる間に、給食がはじまりますよというようなお手紙が来ました。
 手紙が来て、「あ、これは給食始まるのかな、どうしようかな」と自分で悩んだんですけれども、当初やっぱり一番インターネット上で危惧されていたのは、牛乳に関してですね。
 牛乳はいわき市の小中学校はどのようにしてるのか、学校に電話して聞いてみましたところ、福島県内の牛乳を使ってることが判りましたので、教えていただいたので、「福島県の牛乳は飲ませるわけにはいかないな」ということで、「牛乳は、まず学校の給食からメニューから外してもらえないかな?」みたいなことを頭で考えていたのですが・・・。
『牛乳だけじゃないだろうと。そのほかの肉・野菜・お米、もしかしたら全部汚染されてるんじゃないか?』
ということで、大変申し訳ないけどということで、学校の校長先生にクラスの担任の先生を通じまして、
「申し訳ないけど、学校の給食はご遠慮させていただきたいんですが、そういうことは可能でしょうか?」
ということをご相談申し上げました。
そうしましたところ、
「個別対応します。お子さんをお持ちのご家庭で、もしそのような給食に対する不安があるんでしたら、個別に対応させていただきますので、ご希望をお話ください」
ということでしたので、
「申し訳ないですけど、給食は遠慮させてもらえないか」
ということをお話したところ、
「じゃあわかりました」
ということで、給食は、学校では食べないようにさせまして、弁当を持っていくようにしました。
 なるべく福島県含めた隣接県ですとか、近い地域のものはなるべく避けるような形の食材を入手して、それを食べるように『しています』。今現在もですね。
 それは、やはりインターネットの情報を見ていますと、外部被曝と内部被曝、だんだんいろんな方の講演会がいわき市で開かれていきまして、一番最初に私の目にしたのは、武田先生ですね。武田先生がある幼稚園のお招きで講演会があるということだったんですけども、
「あー、武田先生っていう人が来るんだ」
くらいで、その時は終わっていたんですが、その次にいらした先生が、琉球大学の矢ケ崎先生だったんですね。
 矢ケ崎先生は内部被曝にすごく詳しくて、いろんな知識も豊富でしたので、
「これは出かけてみよう、講演会に出かけて自分でいろいろな情報を吸収しよう」
ということで、自分でインターネットである程度はわかっていたんですが、その確認する意味でも、矢ケ崎先生のお話を聞いて、自分で知識を深めようということで行って、やっぱり正解でした。
 やっぱり、内部被曝は外部被曝よりも係数があるらしくて、その時の係数は確か、×600だったと思うんですね。
『ICRPの基準ではなしに、ECRRの基準では、内部被曝は外部被曝と同じ量を内部に摂取した場合は、600倍の影響がある』
ということを教えていただいて、そのことをやっぱり頭の中に叩き込んで、今でも北海道の牛乳、じゃがいもは北海道、具体的にはあと、ニンジンも北海道、大根は青森、その他のホウレンソウは冷凍物で九州産のものを主ですね。あと玉ねぎは北海道のものを選んで、スーパーで売ってるものしか買わなくなりました。
 今でも続いています。
 多分何年もそうするんだろうと思います。

Q.土地を離れるという選択もありますが、それについてはどのようにお考えですか?

 えー、4月の上旬に、埼玉のほうからいわきの方に戻ってきて、今後私たちはどうしようか、ずっと避難されている方もいらっしゃいますし、多分もういわきには戻ってこられないだろうなという雰囲気で避難されている方もいらっしゃいます。
 私の知ってる方でも、何名もいわきを離れてずっと戻られないという方が、多分何名もいらっしゃるんです。
 ただその比率としては、すごく少なくて、自分の娘の同級生、同じクラスの人数30人学級なんですけど、1クラス。その中で、
「どのくらいの人が避難したの?」
って娘に聞いたら、
「2,3名」
30人学級で2,3名ですから、10人に1人くらいですかね。
というような情報を得て、
「あ、これは避難してる人もいるけど、残ってる人は9割だよね」
って考えれば、「じゃあ自分はどうしようかな」ということをその時に考え始めたというか、その情報を聞く前に、この空間線量、いわきの空間線量で、食材を地元産のものを食べなければ、ある程度内部被曝も防げるし、外部被曝はいわき市に限定すれば、あまり高くないのだろうという自分の判断のもとに、今後はいわきで生活できるんじゃないか?ということを考えて、今いわき市に住んで、これからもいわき市に住んでいこうと思います。
 ただ、「自分の中で本当はいわきから離れたほうが子供たちの将来のためになるんじゃないか?」ってことも、実際考えました。
 ですが、小学校の娘に話を聞きますと、
「1人で離れるのは、やはり寂しい、怖い、不安がある。」
ということを・・・、娘の口からききまして、
「あ、これは放射能よりも一人になるリスクの方が大きいんじゃないか?」
ってことを考えました。
 クラスで何人か避難されている方がいますが、その今まで小学校、今現在4年生なんですけれども、彼女が築いてきたコミュニティーというものを尊重したい。
「もし万が一、親の都合でほかの地域に避難した場合に、この子供たちが今まで築いてきたものを自分は壊すのではないか?大人の都合だよね。それは。」
というふうに感じました。
 だったら、その大人の都合を優先するのか、子供の言い分を尊重して、ここに留まるべきなのか。
 やはり二者択一に迫られたんだと思います。
 そこでやはり考えました。
 いわきで、この土地で、果たして大丈夫なのか・・・。それとも、逃げなきゃならないのか・・・。県外に。遠く離れたところに。
 いろいろ考えましたあげく、やはりいわきは線量が低い、比較的。ほかの県内の市町村に比べて、比較的線量が低いということもありまして、食物も遠いところからとらせてて、しかも窓はあまり開けたり、外出させたり、外で運動させたりしなければ、これはいけるんじゃないかな?という自分の判断のもとに、せっかく子供たちが今まで築き上げた友達関係も壊したくないし、1人でそこのクラスから、1人だけ、私の娘だけが抜ける、そのリスクと、今留まっていてクラスの皆と仲良くワイワイできるのと、どちらがいいのかな?っていうことを比較検討して、これはいわきだったら滞在することは可能だろうということを自分の中で結論として出して、今に至ります。

Q.ご心配はないですか?

 心配は、正直言ってあります。
 今後の余震です。
 もし、万が一、今原発の状態が、また再度悪いような状況になれば、その時はまた逃げるということをまた考えると思います。
 もうある程度、空間線量の知識ですとか、自分でも空間線量計を買いましたので、実際に計測したりもしていますので、「このくらいの値になったら大丈夫だ、このくらいになったらちょっとまずいんじゃないか」ということを、自分で判定できると言っては語弊がありますけれども、自分の中の判断基準の一つの材料として、そういうことも徐々に情報として取り込んで、判断しました。
 今後もいわきに残りたいんですけども、万が一のことを考えて、いつでも避難できるような体制にはしてあります。

Q.商売上の都合もありますか?

 私は、自営業を営んでいるんですけれども、3月の17日から20日くらいまでの間に、取引先が全て県外に避難しました。
 私の仕事は無くなりました。
 何もない。ゼロの状態です。
 ですので、あの、いわきにとどまる理由が一つ減った。
 仕事がないんだったら、自分は身軽になれますから、変な話。
 「ああ、これでもうどこでも行けるぞ」みたいな、「だったら避難しよう」ということは一つの、避難した要因の一つですね。

Q.今はお仕事はどうなっていますか?

 今は、4月の上旬にこちらに戻りまして、学校が始まるのとほぼ同時だったと思うんですけれども、市内の夜を見渡すと、徐々に明かりが増えてきました。だんだん1日1日、日が経つごとに増えていきました。
 そして小学校が再開される4月の中旬くらいには、私の知人も取引先も、戻ってきました。
 そして、私の仕事上も続いて取引していただけましたし、本当にまずかった一か月の間、仕事もなかったんですけど、それから皆さんが戻ってきたので、仕事を再開することが無事で来ました。

Q.今後についてご自身のお考えを教えてください。

 私の結論としては、一回は県外に避難したんですけれども、この地は私の生まれたところでもありますし、知人や友人もたくさんいます。
 そして子供たちのコミュニティーも存続しています。
 妻の友人・知人もたくさんいます。そしておじいちゃんおばあちゃんの親戚、そしてもうすでに変な話ですけど墓地まで買ってあります。
 私は長男ですけれども、おじいちゃんおばあちゃんの面倒を見なければならない立場ですし、そのお墓に入るおじいちゃん、おばあちゃんも見届けなければいけない。私もそのお墓に入る覚悟でいます。
 で、いわきにこのまま留まろうと決心をしました。
 ただそれは、万が一、今後何か大きな災害が起きた場合は、話は別ですけれども、今のままの状態が続いて、無事に放射能の数値が下がってきた場合の話ですけど。
 これは、私の息子の高校2年生から発せられた言葉で、一生私の記憶に残っている言葉があります。
「とうちゃん、なんで・・・、福島なの?俺、結婚できるかな・・・?もしかしたら、結婚できないよな・・・。」
っていうことを言われて、愕然としました・・・。
 その時に私が返した言葉は、
「大丈夫だよ、福島県人同志で結婚すればいいじゃん!」
っていうふうに、軽く返すしか言葉は見当たりませんでした・・・。
 下の小学生の娘は、
「私大丈夫なの?これから、ずっと生きていけるの?結婚できるの?子供も産めるの?」
っていうような話をやはり子供なりに心配しています。
 そういうことを聞かされると・・・、どうしていいかわからない・・・。
 地震のせいなのか、原発のせいなのか・・・。
 でも、やはり、私は原発のせいだと思っています。
 地震は起こるのはしょうがない。
 でも、地震が起こっても、原発が無ければ・・・、こんなことは無かった。それは唯一原発があったからだというような結論に達しました。

Q.原発は憎いですか?

 原発は・・・、憎いというよりも・・・、
 無ければ良かった。
 なぜあったのか。
 なぜそこに立地したのか。
 誰が決めたのか。
 何故福島なのか。
 何故私たちのところから40㎞くらいのところに原発があるのか。
 福島第一があるのか。
 そして、福島第二はもっと近いとこにあるのか。
 もう原発はごめんだ。
 原発の電気はいらない。
 そういうふうに思うようになりました。
 それから、反原発になりました。
 具体的には、反原発のデモにも参加しています。反原発の集会にも行ってます。いろんな勉強会や講習会などで、推進派、原発推進派の人たちの言うことは、全く信じられない。
 なぜ電気のためにこんなに苦労しなきゃならない?
 火力発電があるでしょ?水力もあるでしょ?
 なぜそっち、使わないの?
 今は石炭だって、排煙なんかもものすごく抑えられてて、クリーンなクリーンコールっていう発電も実際に、いわきから少し離れた勿来火力発電所というところで、石炭をすごくクリーンな形にエネルギーに変えてて、成功してますし、もう原発が無くても大丈夫な社会なんじゃないの?
 っていうふうに思っています。

Q.政府は原発推進と言っています。それについては、どう思いますか?

 脱原発の方向に進むような話を菅総理大臣、前総理大臣ですけれども、言っていましたが、私の受ける印象は、政治家は2枚舌・3枚舌当たり前。
 やめようかなと思ったけれども、実際は再稼働させますよと言ったり。それは年内ですよと言ったり。
 同じ閣内でも考え方が違う人がたくさんいたり。
 新聞に出る記事も、昨日はこういったけど、今日はこう言ってる。
 この人どっちなの?本当は。やめるの?それとも続けたいの?再稼働させたいの?一体どうなってんだ?
 政治家の言うことは信用できない。
 だったら、私たちで原発を止めてしまえ。
 この空気をどんどん広がれば、原発を動かすことはできないだろうということで、いろんな運動に参加してます。

Q.野田政権については。

 えー、菅内閣から引き継いだ野田政権ですけど、私は、野田首相は原発再稼働させるというようなことを国連でもはっきり言ってますし、今後、隙を見せれば、私たち反原発の運動を少しでも途絶えるようなことがあれば、隙があれば、再稼働に向けてどんどん準備を始めるだろうと思います。
 それに対して私たちは、反対の声を挙げていかなければいけない。
 ずっと反対の声をあげていかなければならない・・・、というふうに思っています。
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