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百人百話:原発マネーで育って....

 
 震災、原発事故の被災者インタビュー 
 書き起こし 2/17 「ぼちぼちいこか。。。」から  
【動画】
2月10日 百人百話 第三十四話 吉田さん(仮名)
http://www.ustream.tv/recorded/20345515  (64:14)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年10月23日収録

 年齢は28です。
 3月 11日以降、仙台に避難してきました。

Q.ご家族の構成を教えてください。

 家族は5人家族で、父が原発の関係の仕事をしていて、母は専業主婦。姉は今東京の方に新しく仕事を初めて、妹は長野に嫁いでます。

Q.お仕事は何をされていましたか?

 飲食店で働いてました。今は無職です。

Q.浪江町は原発関連の仕事をされている方が多いと聞きますが、どのようなところなのでしょうか?

 浪江町自体は、原発からの保証金っていうのが出ない場所でして、にもかかわらず漁業や農業などはそんなに発展してなく、工場自体も少なく、やっぱり相双地区っていう場所に住む人間の半数くらいは、原子力発電所に関わるものだっていうふうになってます。

Q.そうそう地区は、どういった字を書くのですか?

 木に目で相、双葉の双で、『相双』です。相馬地区、双葉地区があわさって、相双地区っていうんですけれども、南相馬市から北側が相馬地区。浪江町から楢葉町くらいまでが双葉地区です。

Q. 原発の保証金が出ないというのは、立地の時の話ですか?それとも今回の事故後の話ですか?

 立地のときのやつです。

Q.他の地区、他の自治体ではどれくらい貰っているのでしょうか?

 正確な金額までは判らないんですけど、大熊町であれば、原発からのお金で1億円くらいの建物を建てたりとか、そういう施設をいろいろ作ってるんですけど、浪江町はそのお金は一銭も入ってこないので、そういった施設を作るためのお金は全然ないにも関わらず、大半の人はそこで働き・・・そういった状況です。

Q.雇用の場は他にどのようなものがあるのでしょうか?

 人口が約2万人くらいです。雇用の場は日本ブレーキという車のブレーキパッドを作る会社の工場があります。それ以外は農業、林業、漁業。それ以外になると、原子力発電所っていうのがメインになります。
 町自体は海もあり山もあり、自然豊かな。食べ物は何でも作れる豊かな土地です。

Q.お父さんの仕事内容と、それについてどのようにお考えか教えてください。

 私の父は、私が生まれる前から原子力発電所で働いていました。10歳くらいのときに会社が変わりまして、会社を立てたんですね。下請けです。
 そういう環境もありまして、家によく原発関係のお客さんが来て一緒に食事することとか、あとは政治家だったりとか、町議会議員とかそういった人と食事する機会が結構あったんですけど、友人の父親が町議会議員に立候補した時に、その父親は原子力発電所反対っていうのを押して立候補したんですけれども、うちの父親は原子力発電所で働いてるってこともあり推進派で、いろいろそういう大人の話を聞くと、やはり反対派に圧力をかけて当選しないようにしたり、そういう大人の裏事情っていう、汚いところを見てきました。

Q.原発推進派の圧力とはどういったものなのでしょうか?

 圧力、圧力の内容までは、どういったことがあるっていうのは判らないんですけれども、子供みたいなものですかね。仲間外れというか、あまりレベルの変わらないようなそういったものが多いですね。
 ちっちゃい町なので誰もが顔見知りで、それぞれコミュニティを持っていて、そこに入ろうとすれば、Noと言ってみたりとか、狭い中で孤立させるようなそういう圧力です。

Q.狭いコミュニティというと、例えばどのようなものですか?

 ご近所付き合いとか、町自体が本当に小さいので、皆が繋がってるような町なんですね。そういうところで・・・そういうことをいろんな人に言って広げないだとか、そういうのが主な圧力になってくると思うんですけれども、やっぱり推進派っていう・・・枠っていうんですかね、そこに入ることで、そこに住む人間は近づいたり、そういう風潮がやっぱりそういうのを感じてました。

Q. 具体的な例として、何か覚えていることはありますか?

 私が小学校2年生くらいだと思うんですけれども、学校の遠足で福島原子力発電所に行きました。その時に資料館を見せられて、帰りにお土産として下敷きやペンを貰いました。小学校2年生からそういった場所に行くっていうことは、自分が無意識の状態でそうやって『絶対安全神話』的なものを刷りこまれてる、そういうことが普通に日常から起こっていた。
 それは浪江町だけでなく、相双地区全体の僕と同じ立場の人間は、必ず経験したであろうことだと思うんですけれども。

Q.原発はどのくらい生活に入り込んでいたのでしょうか?

 私が中学校を卒業するときに、同級生の何人かは東電学園という東京・・・東電にストレートで入れる高校があって、そこの高校に通いながら多少のお金を貰いながら卒業すると、エスカレーター式に東京電力の社員になるという学校なんですけれども、もう中学校卒業してそこに入学が決まると、
「あの子はすごい、できる子なんだ。もう一生安泰だね」
っていう、そういう皆意識でしたね。

Q.その学校はどこにあったのですか?

 東電学園は、東京の八王子にあると聞きました。

Q.東電に入ると安定した給料が得られるということはあるのでしょうか?

 そうですね、東電に入ると相双地区という場所で、やっぱり一番給料がもらえる仕事は原発の仕事で、その原発の仕事の中で一番上っていうのがやはり東電という会社の信頼っていうか、職っていう部分の信頼はあつかったです。

Q.一族の方はみんな東電関係の仕事をしているのですか?

 私の祖父、私の生まれる前から水力発電所で働いていまして、父はそこで育ちました。父のお兄さんは、東京電力で働いてるんですけれども、父は高校を卒業して大学に行ったんですが、その大学で原子力工学を専攻しました。大学を卒業して、そのまま原子力関係の仕事に就き、もう私自身原発マネーでこの年までデカくなって育ててもらったという意識はあります。

Q.生まれ育つ間、東電に対してどのような考えをお持ちでしたか?

 東電は昔からひび割れなど、内部で起こった事故を隠すっていうことは、昔からずっとありました。それがある度にニュースになって、周りの地区の人からは、心配かけてっていうのがあったんですけど、9.11の同時多発テロがあった時に、私は父に、
「福島原子力発電所もテロの標的にされたらどうなるんだ?」
って質問した時に、私の父は、
「ミサイルを直接落されても大丈夫な場所なんだ」
っていうふうに言ってました。
 その同じ質問を何人かの友人にしても、全員同じこと言ってました。
 単純に考えて、そんなわけはないので、その時点でそういうウソというか、そういった教育をされてるんだなと思って。もうその時点で信用は私の中ではなくなりました。

Q.いくつ頃の話ですか?
 18歳です。高校3年の時です。

Q.ウソをつかれているという思いと原発によって育ったという思い、それらの葛藤についてお話ください。
 やはり自分の父親が原発の仕事をしていて、従業員がいて、従業員の方達ともすごく良くしてもらってるので、心境は複雑ですね。やっぱり、今までは地震直後、原発で作業する人は、すごい英雄だと、頑張ってくれっていう意識でいたんですけど、原発で飯を食ってるっていうことは、その責任があるんじゃないかというふうに考えるようになったんですね。

Q.いつ頃からですか?

 それは、4月、5月くらいからです。今まで英雄だと言って、この間も海外に自衛隊だったり警察が英雄っていうことで受賞されてましたけど、私は英雄とは思っていません。やはり責任を果たす、そこで生活をしてたんであれば、若い人たちは別ですけど、自分たちの父親の世代はきちんと責任を果たしてもらわないといけないというふうに考えています。

Q.お父さんと議論になることはありましたか?

 父とは・・・ 7月あたりにこうやって話をしました。
 やはり父はそれで家族を養って、原子力発電所がウソをついたり、避難を遅らせたり、パニックを防ぐために本当のことを言わないっていう、そういった傾向がずっと昔から続いていて、この3.11でそれが爆発したように感じます。
 その話をなぜ東電は真実を隠すのか、あとになって後手後手の動きしかできないっていうことを、父親に質問、7月にしたんですけれども、その時に父親が言ってたのは、
「下請け会社の我々にもその話は全く入ってこない。3.11、3.12に爆発した時も、電話で連絡をとってたけれど、状況が全く判らない。東電側に掛けあっても何も教えてくれない。そういう状況で、自分も全部は把握できていない」
という話をした時に、僕たちはモルモットじゃないし、そこで命を落とす人もいるし、僕たちの世代はこれから子供も作るし、チェルノブイリでは奇形児が生まれたりそういうことが増えていくじゃないですか。
 それが今後自分の身にふりかかるっていうふうなことを考えると、やっぱ黙っておけないですよ。「ふざけんな!」っていう気持ちがいっぱい
になって、その気持ちを父親にぶつけたら、
「わかるけども、今は状況を見守るしかない」
みたいな。やはり父の回答自体も困った状態だったんですね。
 そこでやはり揉めました。

Q.どんな意見だったのですか?

「それはどうにも変わらないのか、そういうのを変えていかなかったら何にもならないし、同じこと繰り返すんじゃないのか」
っていうのを質問したら、
「そうなんだけども、でもな・・・。自分たちも疑問に思ってることたくさんあるけれども、それをぶつけたとしても、きちんとは返ってこない。自分たちもそういうリアクションしかとれないんだ」
っていうことを言っていて。
「なんじゃそら?」
っていう感覚ですよね。

Q.ご自身が原発とは離れた進路を取られた経緯を教えてください。

 私は高校卒業して関西の大学に行きました。関西の大学を卒業するときに、就職をどうする?っていう話になった時、周りから言われるのは
「父の会社を継ぐのか?いつ帰るのか?どうするんだ?」
っていうことばかりで、常にプレッシャーを感じるっていう意識が子供の時にありました。
 やはり昔から自分自身が原発マネーで育ててもらっているのですが、原発自体にやっぱり興味を持てないんですね。その・・・ものを隠したりとか、その体制っていうんですか、それ自体が昔から気に入らなかったし、どうしても、なんかこう・・・ピンとくるものが無かったんですね。
 それで、東京に精密機械のメーカーに就職しまして、そこで3年半働きました。
 その間も、
「今は修行なんだから辞めて、父の会社にはいつ入るんだ?」
 ほかの会社の社長の息子は、みんな跡取りとして入って安泰だなっていうふうに言われてたりとか、そういったプレッシャーは常にずっと受けてきたんですけれども。

Q. 誰からのプレッシャーですか?

 父の周りの人ですね。父の周りの人と食事をした時だったり、話をする機会は、必ず100%その話になるというのがずっと続いていて、私自身はやっぱり原子力発電所の仕事っていうことは、どうもやっぱり興味を持てなかったので、「よし、継ごう。よし、頑張ろう」っていうふうには考えられなかったんですね。
 推進派・反対派のそういう大人の圧力、汚い部分なども見ていたので、あまり正義っていう、人としての正義を考えると、裏の汚い、汚い大人の世界・・・

Q. お父さんの会社について、知っている範囲で教えてください。

 父の会社は従業員は約50名ほどです。やってる仕事というのが、何度も聞いたことがあるんですけれども、詳しい内容を外部に漏らしてはいけないということがあるらしく、僕自身もそこまで詳しく父の内容を知りません。
 外から聞いた話だと、定期検査=定検っていうのがあるんですけど、原子力発電所が停止して、その点検作業ですかね。そういったものをやる会社です。指導です。

Q.秘密であることをどのように思われますか?

 外部に漏らしちゃいけない、もちろん精密機械のメーカーで働いた時もそういう社外秘というものがあったんですけれども、会社の内容、仕事の内容に社外秘は基本的にないじゃないですか。
 その社外秘というものが、会社の内容を全部言えないっていう時点で、
「何やってんだ?」
って思うし、それは原子力発電所のそういうシステム的な体制なのかなっていうことも感じました。

Q.原発の被曝労働者について、何か聞いたことはありますか?

 今年の8月25日に一時帰宅、法人の一時帰宅で自家用車で浪江町に入って荷物を取りに行ったんですけど、その時に感じたのは、まずバリケードのところに立ってる警察は、防護服も着ずにマスクだけ。中に入っていくと、意外に人が居るんですね。同じタイミングで一時帰宅でいた人たちなのかもしれないし、作業でいる人たちなのかもしれないんですけれども、意外に人、車とすれ違ったり工事音がしたり、そういったものがありました。
 浪江町を出て、6号線を通りJヴィレッジで除染作業をしたんですけれども、除染作業に車一台、その時は私たちの車一台だけだったんですけど、入った時に除染作業員が約20人ほど1台の車を取り囲んで。でも、実際に放射線を測定する人は、2人に対して18人はひたすら周りで見てるっていう形。
 もちろん防護服を着てる人も居れば、来てない人も居るし、マスクしてる人もいればしてない人も居る。
 自分たちは、やはり入るのは初めてだったので、すごい緊張感、危機感。もう意識が極限の意識みたいですね。防護服も支給されないので、自分たちで買って作って行ったんですけども、町に入ったら全然緊張感が無くて、除染場も、ほんと皆ヘラヘラしてる状態で、一個も緊張感がない。
 自分たちが思い描いて、現実としてるこの状況が、本当にそういう状況なのか、それとも実際その現場、東京電力だったり原子力発電所で働いてる作業員たちの意識っていうものに、少し疑問を持ちました。

Q.なぜそのような状況になっているのだと思われますか?

 その除染作業場で何人もの人間に囲まれたという話を他の知人にもしたときに、それは原子力作業員ですけれども、
「おかしい」
と私は言ったんですけれども、その時に友人が言ったのは、
「もう実際現場で働いてる人間は、時間が決められていて、その時間の中で常に全力の状態で仕事をその時間はしている。無駄口も一つも聞けないし、もう作業所自体で会話もほとんどない。だから、除染所くらい緊張感がなく、それくらい緩い方がいいんだ」
っていうふうに言ってたんですけれども、でも、恐らくその緩さは、その現場作業員を緩和させるための緩さではなく、単に作業員全体の危険度の意識の低さだと思います。

Q.3.11はどこにいらっしゃいましたか?

 私は3.11の日は、福島県の福島市の免許センターで免許の更新をしてました。あと15分で研修が終わって、「よし、帰れるぞ」というときに地震が来た。みんなで柱に掴まって、地震が止んだ瞬間に、4階だったんですけど、走って外に逃げて。
 余震の中、教官が更新された免許を持って避難してくれたので、それをそこで配布されて解散になりました。
 福島の免許センターから福島市までバスが出てたんですけど、どうにかバスに乗って福島市に行ったんですけれども、その日、私は電車を使って福島市に来たので、車はもってませんでした。
 福島市に着くと、駅前はすごい人だかりで信号は止まって、交通は全部マヒ。みんなパニック状態で、地震が起きて1時間後くらいに、雲が真っ黒になってきて、ひょうが降り、雪が降り、吹雪になって。
 もうこの世の終わりみたいな、映像が本当に映画みたいな映像が目の前で、どんどん空は真っ黒になって吹雪がくるという状態で、一人だったんで怯えてたんですけど、ビジネスホテルに泊まろうと思って、泊まれるところ、帰れないし、ビジネスホテルに行っても、
「予約者以外はお泊めすることはできません」
って断られて、リビングでちょっと休ませてもらったんですけど、復旧のめどが立たないということで、そのホテルの方は「近くの小学校に避難してください」っていうふうに誘導してくれて、そのホテルの人たち、50人くらいで近くの小学校に避難したんですけど、そこに避難して2時間くらいに、また2�くらい離れた高校が電気があるということで、「そちらに移動してもらいます」っていうふうになりました。200人くらいで2�の道のりを避難しました。
 私はもともと福島市には友達が一人だけ、地元が同じ浪江町出身の友達がいるんですけど、携帯がずっとつながらなかったので、なかなか連絡とれなくて、3月11 日の11時くらいですかね、やっと連絡がとれて、近くの高校にいるから、立花高校っていうんですけど、
「立花高校にいるから迎えにきてもらえないか」
って言ったら、快く了解してくれて、12時くらいに迎えに来てくれました。それまではネットも携帯も使えないし、ツイッターだけはチェックできたんですけれども、充電器も何も持ってないし、充電も本当にわずかだったので、情報を見ることはできずに。
 やっと12時頃、友達と再会できて、友達の家にその夜はお世話になったんですけど、そこで初めてニュースを見て、津波が来てるっていうことを知りました。
 私たちの地元の海のほんとに近い町なんで、
「これ、やばいんじゃないか?」
ってそういう話でもちきりだったんですね。

Q.ご家族とは連絡は取れましたか?

 家族とは一切取れなかったです。どうにか姉と連絡がとれて、その時タイミング悪く、姉も郡山で研修を受けてたんです。なので実家には、母と祖父と・・・の状態で、姉ともやっと連絡がとれて、大変なことが起きたっていうことで、次の日友達にお願いして郡山に向かって、姉を乗せてもらって、そこから浪江に4人で戻ったんですけど。
 私が浪江に入った時間は、夕方の17時。もう既に原子力発電所が爆発した後だったんですけど、浪江町から福島市へ向かう山道があるんですけど、そこは既にすごい渋滞で、ところどころに警備員や警察の人が立って指示してたんですけど、その警察が既に白装束の防護服を着ていたので、
「これ、おかしい」
って感じてました。
 そこから家族はまだ中にいるから、助けに来たんだっていうことを説明して、本当に危険なんだけどっていう、それも振り切って、中に入れてもらって、皆でそこから避難生活に吐いたんですけど、爆発したっていう情報も知らなかったっていうのもあって、ちょっと家の周りを、さっとっていうか地震の被害を見るために家の周りをちょっと一周したんですけど、町の匂いが全く違ったんです。もちろん、家が倒壊したり、埃がたって町の匂いが違うっていうのもあるんでしょうけど、それだけじゃなく、何かこう・・・全くうまく言葉で説明できないんですけど、匂いが全く違ったんです。
 変な人もその時は居ましたし、うろうろ人の家を覗き見てるような怪しい人間もたくさんいたんですけど、それよりも先に、やっぱり危ないことが起きてるから、早く避難しなきゃいけないっていうことで、そこで家族を乗せて川俣・・・道の駅に避難して車中泊をしたんですけれども、祖父も一緒だったので、83歳なんですけど膝が悪いところがあったりするので、あまりそういう生活は心身共にキツイだろうということで、次の日は川俣小学校に避難したんですけども、寒かったのもあって日に日に具合が悪くなっていったんですね。
 情報は常にたくさんあるけれども、間違った情報もいっぱいあって、ガソリンもない。でも人はいっぱいいる。道は限られてて常に渋滞してる。やっぱりその状況で一番先にしなきゃいけないのは、正確な情報をつかんで、人よりも早く渋滞を回避したり目的地まで速やかに到達するということが一番、その時気にしてたことだったんですけど。
 次の日になって、避難する人も増えてきて、川俣小学校は避難所はいっぱいで、次に来る人は違うところに避難してくださいっていうふうに、みんな違うところに割り振られていったんですね。
 それだったら会津に知人がいるので、温泉旅館をやってる知人がいまして、そこと連絡がとれまして「おいで」って言ってくれたので、そっちに避難して、10日間ほど会津にいたんですけれども、その後に家族が東京に行って、私はひとり仙台に戻ってきたという形です。

Q.避難しなければならなくなった時のご自身の心理を教えてください。

 私の父はかれこれ 20年ほど単身赴任で仕事をしてるんですけれども、東京に単身赴任してます。もうかれこれ20年くらい経つんですけど、週末2週間に1回くらいは浪江のほうに帰ってきて家族と一緒に過ごすという生活を長いことしていて、なので地震当日も父は東京にいました。
 地震があったときには、祖父と母しか居ない状況で、兄弟自体も男手は私だけなので、やっぱり自分が守んないとっていう意識はすごく強かったですね。

Q.ご家族はどんなご様子でしたか?

 まず一番最初、地震が起きて原発が爆発したっていう時に、母は父と連絡をとってます。その時に
「状況は判らないけども、そんな酷いことにはならないと思うから、落ち着いてくれ」
っていうふうに言われて、
「今復旧作業で頑張ってるから、落ち着いて行動してくれ」
っていうことで、母はその言葉を信用して、全然パニックにはならなかったんです。
 でもやっぱり1週間とか10日で戻れるんじゃないかっていうような、ずっと意識だったので、服とかも全然持っていきませんでしたし、「すぐ戻れるだろう」みたいな軽い気持ちだったんですけど。
 でも、原子力発電所が爆発した時点で、もうアウトって僕は思ったんで、炊飯器とコメだけは持ってきて。それだけ持って避難したんですけど。

Q.原発が爆発した時、ご自身はどのように思われましたか?

 原子力発電所が爆発した時点で、「終わった」と思いました。
 やはりチェルノブイリっていう前例があるので、あの建屋の爆発する映像なんかを見ると、そこまで大きい爆発じゃないとは言うけど、もう少なからずとも自分たちの浪江町っていう場所には住めないって、そこでもう・・・覚悟しました。

Q.浪江町はどのような場所にあるのですか?

 浪江町は福島第一原発から約20�。私の家は直線距離だと10�くらいです。今、半径20�という場所は、立ち入り禁止で・・・そういう場所になってます。

Q.情報はどのような方法で得られたのですか?

 原子力発電所が爆発して、いろんな人と話をしました。その会津の旅館に避難した人の中には、父の会社の従業員も何人かいたので、そういった話をしたんですけれども、従業員の人たちはやはりそこで仕事をしてる人たちなので、知識がきちんとしているので、
「30年、40年、50年は戻れないと思った方が良いよ」
というふうに言われたんですね。
 そこでやっぱりそうなんだなと思ったんですけど、それ以外の原子力発電所で働いていない人、そういう人に話をすると、
「戻れる」
「5年後には戻れる」
「10年後には戻れる」
 その人が戻りたいっていう気持ちが強いから、そういうふうな考えになると思うんですけども、戻れるっていうふうに強く思ってます。「戻れない」って言うと、
ちょっと揉めちゃいます。


Q.どのような言い合いになるのでしょうか?

 それは仙台の友達なんですけど、父の会社に携わってる、関係してる方が仙台にいまして、原子力関係の仕事をしてるんですね。息子さんがその人はいまして、大体私の3つ下、4つ下くらいになるんですけど、その子も原子力推進派で、いろいろ話した時に、
「脱原発、エネルギーシフトチェンジを考えた方が良い」
って話をした時に、その子が言ったのは、
「世界とやっていくには、自国で生産できる電気量が多ければ多いほど、他国に自国の力を見せつけられる」
っていうことを言ってて、
「それには原子力発電所は絶対に必要だ」
って言ってたんです。
 それは見栄じゃないですか。一つもカッコ良くないし。
 それで悲しむ人が一杯いる。
 現に、故郷が無くなって帰るとこが無くなって、友人や家族、その土地にいた人間が全員ばらばらになって、それを実際に感じたらそんなこと口にできないと思うんですよ。
「自国の生産量が見せつけられる」
なんて。

 そういうふうな考えが、やはり・・・この先も残っていくんだなっていうのを、その子としゃべった時に感じました。

Q.それに対してご自身はどのような話をされたのですか?

 その彼と話した時に、
「原発を無くして火力だったり、原子力以外の発電施設で日本の電気は賄える、それで電気は十分じゃないか」
っていうような話をしたときに、その見栄の話。
「自国で生産できる電力量」
っていう話が出たんですけど、そこで
「それは間違ってる。それはただの見栄だし、それによって得する人間なんて、今原発を食い物にしてる人間でしかない。それはおかしい。」
って話をしたんですけど、やはり良いのか悪いのかを論ずるのは簡単なことだと思うんですよ。
 大事なのは、NOならNOで、 NOにした後のフォローの仕方。NoならNoで今までそこでご飯食べてた人の雇用は、そういうふうに補うのかとか、そういったことを話のあとに話したんですけども、やっぱりNoっていうのは簡単だし、Noっていうからにはその後、Noならばそこをどうフォローしていくかっていう、そこをもっとしっかり考えないと答えは出ないっていうふうに、話はまとまったんですけど。

Q. 避難生活はどのような状態でしたか?

 雪もすごい降っていたので、雪の中にも放射性物質が含まれてるっていう意識があったので、外に出ない。雨も降ってたので外には出ない。
 ずっと外に出ない生活です。
 朝起きて、風呂はいって、ご飯食べて、ニュース釘付けになって、それを約10日間くらい。
 ・・・苦痛でした。
 こんなにすごいことが起こってるのに、自分はブラウン管を通してしかちゃんと見られなくて、何もできない。無力さで悲しくなりました。

Q.インターネットを使う人と使わない人とで情報格差が生まれたと思いますが、ご自身の体験はいかがでしたか?

 避難中に情報を見れるっていう手段は、ツイッターかiPhoneを使っていたので検索するか、あとは新聞かテレビだけだったんですけども、テレビは基本的に原子力発電所の爆発したニュースばかりで、その後のことを全然やってなかったんですね。なので、見ても見ても状況が変わらない・・・っていうことは、情報が遅いっていうことなんで信用できないって思ってました。毎日チェックはしてましたけど。
 それと同時にツイッターで信用できる情報をピックアップ。後はインターネットでの信用できる情報をピックアップ。それをまとめて次にどう動くかっていう、そういう調べ方でした。

Q.インターネットやツイッターなどはいつ頃から利用されていたのですか?

 インターネット自体は3月11日前からツイッターもずっとやってました。
 主にその期間中に使ってたサイトは、ソーシャルネットワーク系が多いです。それ以外は Yahooニュースだったりニュース記事。そういった文章を読むことが多かったです。

Q.役には立ちましたか?

 基本的に信頼できる情報はなかったような感じです。やはり自分の眼で直接見て、聞いて、どの辺で見る情報の???、恐らくきちんと行動できないと思うんで、自分の眼で見て、聞いて、きちんと調べて確証を得た情報だけを信じてました。

Q.会津で10日間避難された後は、どうされたのですか?

 車で東京に向かいました。
 父が単身赴任で東京に家があるので、避難所ではなく家族をみんな外に送ってきて、二日後くらいに仙台に帰ってきたんですけど。

Q.仙台にはいつ頃から行くようになったのですか?

 去年の12月くらいから、ちょこちょこ行ったり来たりっていう生活をしてまして、仙台に付き合ってる彼女がいるんですけど、その関係もあってちょこちょこ来ていて・・・。

Q.彼女とご自身とお互い不安ではなかったですか?

 すごい不安でした。
 もう連絡もメール送ったら1日に1通くらいしか送れないし返ってこないっていう状況がずっと続いていて、電話も混線していてほとんどつながらない。連絡はほとんど取れなくて、もうずっと心配でした。
 自分の家族みんな無事だったんで、心配するのもないので、もう安否だけ心配でした。

Q.仙台にはいつ頃行き、どうされていたのですか?

 20の頃からずっと音楽活動してまして、今回『原子力発電所からもっとも近いアーティスト』っていうことで、各方面から??していただきました。
 関西地区、関東地区を中心に、野外フェスなどでこの夏はたくさん出演させていただきました。
 もともと飲食店でアルバイトしていたんですけど、全然音楽活動でお金を得てませんけど、音楽活動をメインにバイトをしながら、地方に遠征に行くときは休みをもらって2週間なら2週間、休みをもらって行って、行った地方で何回か公演を行って帰ってくるという生活をずっとしてました。

Q.3月25日以降は、ずっと仙台にいらっしゃるのですか?

  3月25日から仙台に住んでます。県の借り上げ住宅で7月1日から仙台市内に家を借りるまで、そこに一人暮らしをしています。

Q.ご家族はどちらにいらっしゃるのですか?

 家族はみんな東京にいます。

Q.故郷を離れ、仙台ではどういう思いで暮らしておられるのですか?

 もともと高校を卒業して外に行った人間なので、浪江町への執着心というのは、人よりも多少少ないっていうのはあるんですけど、僕自身仙台に根を下ろそうというふうには今は考えていません。
 『原子力発電所から最も近いアーティスト』っていうことで、今年の 3.11以降は、多方面からいろいろ声をかけていただいて、今の考えとしては、それをやはり使っていかないともったいないんじゃないかという考えでいます。
 ほかに実際に浪江町で起きたことや、その浪江町周辺でずっと・・・私たちが小学校の時に遠足で原子力発電所に見学に行ったりとか、そういうことを話せる人間っていうのも少ないので、今は地方に呼ばれたらそういう話をその地の人にするっていうのが、自分の役目なんじゃないかと思って、そういう話をさせてもらってます。

Q.自分の拠り所というのはどこにあるのでしょうか?
 拠り所は特にないですかね。
 もともと一か所にずっと留まるっていうのをしてこなかったし、自分は一体どこに根を下ろすのかっていうのは、昔からずっと考えていたので、今の心境は、ずっと引きずってるというか、ずっとある感情なので。

Q.故郷に対してどのような思いをお持ちですか?

 自分の父親が原子力発電所関係の仕事をしてるということもあって、すごく原子力発電所が身近でした。その中で、情報漏えいしたりっていうことが昔からずっと続いていたので、昔から不信感は自分の中でありました。
 不信感があっても、自分の父親はその仕事をしていて、自分はそれで食わせてもらってるっていう、直接父親にバッシングというか、そういうことを言うことも少なかったんですけども、やっぱり常に疑問を持っていて、自分はもうもともと浪江に根を張るっていう意識が無かったので、高校を卒業して大学に行き東京で働いて、地元には1年ほど戻ってきたんですけども、それでもずっとそこに住んでるっていう意識は無かったですね。一時的に帰ってまたお金を貯めて、????っていうような意識だったんで、地元に根を張らないっていう意識が昔からあったんで、今仙台でも根を張るっていう意識は無いです。
 一体どこに今後張るのかも、自分の中でも判らないし、今後どうしていったらいいとか、そういうのは全然まだ判らないです。
 自分の中で、この起きたことを整理して・・・それを力にして・・・っていうことを今はやってる段階なので、どこに根を張るとかそういったことはあまり考えてないです。

Q.自分の中でその整理は進んでいますか?

 3月12日以降、原子力発電所が爆発して以降、「地元に帰れない」ともう既に思っていました。
 でも、帰れないけども、うまく言葉に表せないんですけども、すごい複雑なんですね。現実として自分で受け止めてるつもりだけど、夢なんじゃねぇかっていう。そんな夢なんて思ってないんですけども、なんか・・・心へのダメージが自分が思ってるよりも無いんですよね。
 無意識に現実逃避してるのか、すごいことが起きて、すごく悲しいはずなんですけども、どっか割り切って、
「もうダメなんだから次に早くいかないと」
っていうような考えがあって、先日友人とその話をした時に、友人も同じようなことを言っていて、
「現実なのは判ってるんだけど、どこか非現実的で、夢の中」
って。実際に8月25日に浪江に入って、人が全然居ない、もうゴーストタウンと化した町の映像、映像っていうか、町を眼で見ても、なんか感覚が・・・現実っぽくないというか、なんていうか、夢の中というか、そういった段階なので。
 もっときちんと本当に故郷に戻れないんだっていうことと、今後どうしていけばいいのか、そういったことをもうちょっと自分の中で整理、今してる段階です。

Q.自分にとってこれから先も気がかりなこととはどういうことがありますか?

 今後、一番気がかりなことは、3月 12日の17時に私は浪江町に入りました。マスクもせずに家の周りを少し歩いたり、3月13日は川俣の道の駅、3月14日は川俣小学校に避難しました。
 今考えれば、その地区の線量は高いです。
 やはり心配なのは、内部被曝によって僕自身は五体満足で生まれてるので、ガンになるくらいは嫌ですけど仕方ないと思うんですね。
 やはり一番嫌なのは、自分の子供がそういうリスクを負って生まれてきたらどうしようっていう、今それだけが不安です。


Q.彼女とはそういう話をしていますか?

 彼女とは、結婚の話になったりするんですけども、今何分定職についていないので、そこまで込み入った話はしないですけど、やっぱり8月25日の一時帰宅だったり、3月12日、13日、14日そこらへんの話をした時に、
「きちんと検査を受けた方が良いんじゃないか」
ってすごい心配になりました。

Q.彼女自身はどのような状況だったのですか?

 ずっと建物内に居たっていうこともあって、わりかし被曝量は少ないんじゃないかと思います。
 でも、仙台自体もやっぱり福島から90�です、あんまり自分自身は今仙台に住んでるんですけど、きちんと安全な場所っていうふうには言いきれないのがあります。

Q.福島県内と県外で、被曝に対する温度差があると思われますか?

 9月11日に仙台市内でジャスフェスティバルっていう催しがあったんですけども、その日にラブパレードという脱原発のパレードをみんなでしました。その時に約100人程度の人間が集まったんですけども、やはり仙台の人は、震災で意識がそっちに向いてるっていうのもあるかどうか、復興の途中ですし、そっちがメインになってるのかわからないんですけど、人が集まらないし、アクションも少ない。
 原発の話を飲食店とかですると、帰るお客さんとかも多いんですよ。なので、客観的に見てると、近い割に意識は低いのかなっていう気はします。

Q.そのような状況を見て、どのように感じておられますか?
 仙台の人の意識が低い、危機管理が低いっていうところももちろん気にはなるんですけども、それよりもやっぱり同じ浪江出身の人たちが、地震後に中通りだったり会津に避難して、今その人たちがいわきに引っ越すっていう動きがすごく多いんです。
 今は一番そっちのほうが心配ですね。

 仙台は近いけど、いわきのほうが遥かに近いし、風向きも風が吹けばそこを飛ぶ距離なので、すごい心配なんですけど、やっぱりみんな人と違う??するっていうのが多分・・・理解できないくらいの人数がいわきに引っ越してます。

Q.いわきにどのくらいの人数が移動したのですか?

 具体的な数字はないんですけど、知り合いだったら20人くらいは引っ越してます。その約20人に
「なんでいわきなの?」
って必ず聞くんですけど、
「近いじゃない」
 みんな気まずそうにきちんとは答えてくれないですね。
「近いから」
「もともと知ってる場所だ」
とか、理由を言います。
 浜通りの地区から中通りに遊びに行くっていうことはほとんどないです。福島市だったり郡山に遊びに行くっていうことですね。1時間半から2時間くらいかかるんですけど、浪江町から仙台まで国道で2時間。それだったら仙台の方が都会なんですね。なんで、もともと土地勘っていうのがあんまりないんですよ。中通りに。
 なので、やはり皆住みにくいというか知り合いも少ないだろうし、余計にホットスポット言われる場所も多いし、だからいわきに避難するのかっていうとホント疑問なんですけど、みんなその土地柄からどうしても慣れた土地、知ってる土地、知り合いのいる土地っていう理由でいわきに引っ越す人が多いですね。
 宮城県、新潟、茨城県????、わりかし近いです。
 なので、そんなに・・・遠い場所という意識は無いです。中学校、高校のときから仙台にはよく買い物とかに来てたので、知った土地っていう安心感はあります。
 南よりは北に行ったほうがいいんじゃないかっていう意識で仙台に来たんですけど、もちろん新潟は山またげばもっと安心ですし、でも刈羽原子力があったり、まぁ仙台にも女川原子力がありますけど、どこ行ってもそれが付きまとってくるんですけど、隣の県に関しては、やはり宮城県が一番近いものを感じます。昔からよく来てたっていうこともあって、なかなか新潟だったり茨城っていうところは、あまり遊びに行かないので、土地勘がやっぱり宮城のほうがありますね。

Q.中通りよりも仙台のほうが近く感じるのですね。

 中通りに行くには、山道を通んなきゃいけないんですね。
 それを通るんだったら、平地でプラス30分くらいかければ仙台に着くので、仙台の方が・・・なのでやっぱり仙台に遊びにくることが多かったです。
 中通りは電車で行けないので、??のままで電車で来て、そこから乗り換えて福島市に行ったりできるという、ちょっとアクセスが悪い。仙台だと一本で行けたりするので来やすいです。

Q.これだけは言っておきたいということは何かありますか?

 実際に自分が原発マネーで大きくなったっていうものがずっと心の中にあって、でも、原発によって自分の故郷が失われ、たくさんのものが無くなり、みんないろんなものを失ったと思うんですね。
 そのやはり原発マネーで育ったっていうことをどこか後ろめたいっていう気持ちが自分の中に付きまとってきて、自分が正義と思うことは、やはり脱原発っていうものを正義と思っていますけれども、時代や社会はそれに反比例して、自分が正義と思ってないものが・・・悪が普通にまかり通るというか、そういうものも見ていて、本当に心から憎いんですけども、自分はその恩恵で多少育ったっていう、本当に憎いけども、自分も関わってしまったという、その葛藤がやっぱり自分の中で未だにあります。

Q.これからどうしていきたいですか?

 これから先、どうしていっていいか、正直判らないですね。どうなっていくのかもわからないし。
 ただ、良いもの、悪いもの、信用できるもの・できないものっていうのは、自分の中で判ってるつもりでいます。
 なので、そこをもうちょっと様子を見ていきながら、今後の動向も見ながら、自分の中でちょっとゆっくり答えを出していけたらいいのかなと思っています。
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