研究者の辞表(16~19)
2011-11-12
■研究者の辞表:16
「俺の目の前に保安院のトップがいたんだよ」
10月31日夕、東京・永田町の議員会館。原発事故当時の首相、菅直人(65)は強調した。
菅が憤るのは3月11日夜に官邸中枢が避難区域を決めた際、原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)が「いきなり結論が下りてきた」と受け取ったこと。それはおかしい、官邸中枢に保安院長がいるんだからERCが知らなかったことにはならない、と菅はいうのだ。
浮き彫りになるのは対策本部長の菅と対策本部の事務局長を務める保安院長、寺坂信昭(58)の間で重要な会話が成立していなかったことだ。ERCが避難区域を決めようとしていたのも知らなかった、寺坂は自分にSPEEDIのことも言わなかった、と菅は明かす。
寺坂は私たちの取材に応じていない。保安院は、すでにOBとなっているにもかかわらず、寺坂への取材を強く規制している。
当時、菅の前には原子力安全委員会の委員長、班目(まだらめ)春樹(63)もいた。
3月11日の午後6時以降、内閣府にある安全委員会事務局のSPEEDI端末に文部科学省が1時間ごとに出す予測図が次々と届き始めていた。事務局は同じ予測図が文科省から官邸に送られていると思っていた。それゆえ班目に届ける手だてを取らなかったのだが、実際は文科省から官邸に届くルートはなかった。
結局、文科省は予測を発するだけで終わり、安全委員会も官邸に予測を届けず、保安院が官邸中枢に届けた予測図は0~3枚。保安院はSPEEDIで避難区域案を作ろうとしたものの、それも実らなかった。
SPEEDIは避難区域づくりにも使われず、公開もされず、官邸中枢は3月20日前後まで存在すら知らなかったと主張している。
これにより、最も影響を受けたのは浪江町山間部から飯舘村長泥(ながどろ)周辺にかけての高線量地域にいた人たちだ。最も放射線値が高いとき、長泥地区は懸命に炊き出しをしていた。自分たちのためではない。南相馬市からの避難民を助けるためだ。
浪江町の津島にも大勢が避難していた。避難者が多すぎて炊き出しのお握りは小さくなったが、みんな1日それ1個で我慢した。役場の職員の多くはそれさえ食べなかった。消防団は地面に穴を掘ってトイレをつくった。津波の修羅場を越え、放射能から逃げ、それでも人々は整然と動いていた。(上地兼太郎)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
■研究者の辞表:17
SPEEDI以外にも謎はある。
福島第一原発の近くに現地対策本部が設置されて5時間後の12日午前0時ごろ、本部長を務める経済産業副大臣、池田元久(70)は自衛隊のヘリコプターで現地に入った。
現地本部のメンバーは事前に決まっている。たとえば茨城県ひたちなか市にある原子力緊急時支援・研修センターの7人は、12日午前1時半に現地本部を目指した。センター長の片桐裕実(59)が振り返る。
「ところが国道6号が大渋滞で。本来は1時間の距離なんですが、2時間かかって自衛隊の百里基地に着き、4時半ごろヘリに乗りました」
ヘリは山上の駐屯地に着陸し、自衛隊の車で現地本部へ向かった。
「まだ雪があったので、機材を運ぶのがしんどかったのを記憶しています。現地対策本部に着いたのは午前6時から6時半ごろでした」
現地本部の通信はほぼ全滅していた。使えたのは二つの衛星電話だけで、1本は東京の原子力安全・保安院とつなぎっぱなしになっていた。
片桐がまずやったのは放射線値を測るモニタリングだった。測定すべき高汚染地域を探すにはSPEEDIの予測図が欠かせなかったが、回線の途絶でデータは入らない。やむを得ず隣の建物にあった風向風速計で放射能の行方を推測した。
食べ物はほとんどなく、寝る場所もなかった。多くの者は机の上に突っ伏して寝た。疲労が蓄積した。
片桐らが踏ん張る一方、来るべき省庁関係者が大量に来なかった。
現地本部には13省庁から45人が集まるはずだった。保安院の審議官を事務局長に、次長が内閣参事官ら4人。残り40人が総括、放射線、住民安全など7班に分かれて各班のメンバーを指導する。これが現地本部の中核といえる。参集には国が交通手段を用意することにもなっていた。
だが、集合したのはわずか5省庁26人。なぜこれほど集まりが悪かったのか。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45)は「災害対応が忙しかったと聞いている」と話す。
地震や津波への対応で忙しく、原発事故の現地本部には行けなかったという説明だ。以下、課長補佐の中島義人(39)との会話。
――こっちが忙しいから現地本部に行けないというのはおかしい。
「実態としてはそういう状況だったと聞いている」
――怖くて行かなかったのでは?
「さあ。それは直接聞いてもらわないと……」(依光隆明)
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置き忘れたファイル
■研究者の辞表:18
3月12日早朝、原発から5キロに位置する現地対策本部に入った片桐裕実(59)らは、福島県庁のワゴン車を借りて周辺の放射線値を測定した。
12日午後には1号機の水素爆発に遭遇した。片桐がいう。「測定に出ていた人間は原発に比較的近いところにいて、すぐ戻ってきて。すごい爆発があったと報告を受けました」
14日午前、3号機の爆発音は現地本部にも響いてきた。「これは音が聞こえました。白煙が出て、けっこうびっくりする音でした」
測定に出た者は放射能の恐怖に耐えながら放射線値のデータを取っていた。SPEEDIは予測値だが、これは実測値だ。なにより住民の避難に使う必要があった。放射線量が高くなっている地域を見つけ、そこにいる住民を一刻も早く避難させなければならない。
しかし現地本部は孤立状態にあった。貴重なデータを取ったものの、それを東京の対策本部に送る手だてはない。「やはり通信手段がなかったのが致命的でした」
さらにもう一つ、片桐にとって残念なことがある。
「こういったデータが公表されたのは6月なんですね。3月12日、13日あたりのデータが移転先の県庁にうまく引き継がれなかった」
現地本部は15日に福島県庁まで撤退する。その際、データを入れたファイルを現地に置き忘れていた。回収したのは5月28日になってから。事故直後の放射線値のほとんどは、6月3日まで表には出なかった。
表に出たデータも、極めて分かりにくかった。
3月15日夜、文部科学省茨城原子力安全管理事務所の渡辺眞樹男(57)が測定した浪江町赤宇木(あこうぎ)の毎時330マイクロシーベルトは、翌日同省のホームページ(HP)に載せられた。
ところが肝心の測定地点は、ほとんど地名のない地図上に○で囲んだだけ。町の関係者ですらその地点を認識できなかった。これでは分からないという指摘は多かったが、改善はしなかった。同省科学技術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)(53)は、「電話での問い合わせもあり、そのときはお教えするようにした」。
発表方法がHPだけというのも批判の的になった。浪江町は住民とともに役場も転々と避難を続けていた。インターネットに載せても見ることができない。
まるで情報が出し渋られるかのように、大事なデータは末端まで届かなかった。(依光隆明)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「布団かぶれーっ」
■研究者の辞表:19
SPEEDIの存在を認識したあとも、官邸は予測図を公開しなかった。それに関連し、首相補佐官の細野豪志(40)は、5月2日の記者会見で「国民がパニックになることを懸念した」と説明した。
住民に情報が届きにくかった背景には、おそらくそんな国の思想がある。だが実際には政府自身がパニックに近いような混乱ぶりだった。
避難区域の決定をめぐる原子力安全・保安院と官邸との食い違いもそうだし、現地本部撤退時に起きたデータの置き忘れもそう。そのとき、保安院の検査官全員が一時的に原発から退く事態も起こっていた。
検査官は原発内でその状態を監視する唯一の国の人間。福島第一には5人いて、常に1人は原発に詰めている。ところが現地本部が福島県庁に撤退した3月15日昼、5人全員が県庁に退いた。東京電力が原発から全員を撤退させたいと言った言わないの話が出るのもそのころだ。
現地本部の撤退作業も余裕はなかった。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45)は「20キロ圏に住民が残っていないのを確認して撤退した」と強調する。が、住民はいた。
浪江町役場から4キロ、原発からは10キロ北西に住む原二郎(75)と妻の良子(76)は、17日の午後に偶然訪れた2台のパトカーに救出された。
夫妻はガソリンがないために避難できなかった。草刈り機のガソリンを抜いてみたが、1リットルしかない。仕方なく、自炊しながら家にとどまった。停電だったが、プロパンガスは使えた。水は井戸からくんだ。家の電話も携帯電話も通じなかった。
14日午後2時半には落雷のような破裂音を聞いた。原は「原発爆発したぞ、布団かぶれーっ」と良子にいった。1時間、2人で布団をかぶっていた。布団の中から外を見ると、原発の方向に火花がピカピカ見えた。それが5分間続いた。3号機の爆発は午前11時だが、「自分が見たのは午後2時半だった」という。
救出してくれた警官は防護服にガスマスク姿の4人組だった。「何やってんだ!」と怒鳴られたので「申し訳ないことで」と謝った。「理屈はいいから早く乗れ!」といわれ、1人ずつ別のパトカーに乗った。
避難した翌日、別の町民も助け出されてきた。良子はいう。
「どもこもなんないんだわ、ガソリンないんだから。近所も誰もいないし。軽トラックで行ける所まで行こうとして、おにぎり握ってたらパトカーがきた」(依光隆明)
「俺の目の前に保安院のトップがいたんだよ」
10月31日夕、東京・永田町の議員会館。原発事故当時の首相、菅直人(65)は強調した。
菅が憤るのは3月11日夜に官邸中枢が避難区域を決めた際、原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)が「いきなり結論が下りてきた」と受け取ったこと。それはおかしい、官邸中枢に保安院長がいるんだからERCが知らなかったことにはならない、と菅はいうのだ。
浮き彫りになるのは対策本部長の菅と対策本部の事務局長を務める保安院長、寺坂信昭(58)の間で重要な会話が成立していなかったことだ。ERCが避難区域を決めようとしていたのも知らなかった、寺坂は自分にSPEEDIのことも言わなかった、と菅は明かす。
寺坂は私たちの取材に応じていない。保安院は、すでにOBとなっているにもかかわらず、寺坂への取材を強く規制している。
当時、菅の前には原子力安全委員会の委員長、班目(まだらめ)春樹(63)もいた。
3月11日の午後6時以降、内閣府にある安全委員会事務局のSPEEDI端末に文部科学省が1時間ごとに出す予測図が次々と届き始めていた。事務局は同じ予測図が文科省から官邸に送られていると思っていた。それゆえ班目に届ける手だてを取らなかったのだが、実際は文科省から官邸に届くルートはなかった。
結局、文科省は予測を発するだけで終わり、安全委員会も官邸に予測を届けず、保安院が官邸中枢に届けた予測図は0~3枚。保安院はSPEEDIで避難区域案を作ろうとしたものの、それも実らなかった。
SPEEDIは避難区域づくりにも使われず、公開もされず、官邸中枢は3月20日前後まで存在すら知らなかったと主張している。
これにより、最も影響を受けたのは浪江町山間部から飯舘村長泥(ながどろ)周辺にかけての高線量地域にいた人たちだ。最も放射線値が高いとき、長泥地区は懸命に炊き出しをしていた。自分たちのためではない。南相馬市からの避難民を助けるためだ。
浪江町の津島にも大勢が避難していた。避難者が多すぎて炊き出しのお握りは小さくなったが、みんな1日それ1個で我慢した。役場の職員の多くはそれさえ食べなかった。消防団は地面に穴を掘ってトイレをつくった。津波の修羅場を越え、放射能から逃げ、それでも人々は整然と動いていた。(上地兼太郎)
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■研究者の辞表:17
SPEEDI以外にも謎はある。
福島第一原発の近くに現地対策本部が設置されて5時間後の12日午前0時ごろ、本部長を務める経済産業副大臣、池田元久(70)は自衛隊のヘリコプターで現地に入った。
現地本部のメンバーは事前に決まっている。たとえば茨城県ひたちなか市にある原子力緊急時支援・研修センターの7人は、12日午前1時半に現地本部を目指した。センター長の片桐裕実(59)が振り返る。
「ところが国道6号が大渋滞で。本来は1時間の距離なんですが、2時間かかって自衛隊の百里基地に着き、4時半ごろヘリに乗りました」
ヘリは山上の駐屯地に着陸し、自衛隊の車で現地本部へ向かった。
「まだ雪があったので、機材を運ぶのがしんどかったのを記憶しています。現地対策本部に着いたのは午前6時から6時半ごろでした」
現地本部の通信はほぼ全滅していた。使えたのは二つの衛星電話だけで、1本は東京の原子力安全・保安院とつなぎっぱなしになっていた。
片桐がまずやったのは放射線値を測るモニタリングだった。測定すべき高汚染地域を探すにはSPEEDIの予測図が欠かせなかったが、回線の途絶でデータは入らない。やむを得ず隣の建物にあった風向風速計で放射能の行方を推測した。
食べ物はほとんどなく、寝る場所もなかった。多くの者は机の上に突っ伏して寝た。疲労が蓄積した。
片桐らが踏ん張る一方、来るべき省庁関係者が大量に来なかった。
現地本部には13省庁から45人が集まるはずだった。保安院の審議官を事務局長に、次長が内閣参事官ら4人。残り40人が総括、放射線、住民安全など7班に分かれて各班のメンバーを指導する。これが現地本部の中核といえる。参集には国が交通手段を用意することにもなっていた。
だが、集合したのはわずか5省庁26人。なぜこれほど集まりが悪かったのか。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45)は「災害対応が忙しかったと聞いている」と話す。
地震や津波への対応で忙しく、原発事故の現地本部には行けなかったという説明だ。以下、課長補佐の中島義人(39)との会話。
――こっちが忙しいから現地本部に行けないというのはおかしい。
「実態としてはそういう状況だったと聞いている」
――怖くて行かなかったのでは?
「さあ。それは直接聞いてもらわないと……」(依光隆明)
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置き忘れたファイル
■研究者の辞表:18
3月12日早朝、原発から5キロに位置する現地対策本部に入った片桐裕実(59)らは、福島県庁のワゴン車を借りて周辺の放射線値を測定した。
12日午後には1号機の水素爆発に遭遇した。片桐がいう。「測定に出ていた人間は原発に比較的近いところにいて、すぐ戻ってきて。すごい爆発があったと報告を受けました」
14日午前、3号機の爆発音は現地本部にも響いてきた。「これは音が聞こえました。白煙が出て、けっこうびっくりする音でした」
測定に出た者は放射能の恐怖に耐えながら放射線値のデータを取っていた。SPEEDIは予測値だが、これは実測値だ。なにより住民の避難に使う必要があった。放射線量が高くなっている地域を見つけ、そこにいる住民を一刻も早く避難させなければならない。
しかし現地本部は孤立状態にあった。貴重なデータを取ったものの、それを東京の対策本部に送る手だてはない。「やはり通信手段がなかったのが致命的でした」
さらにもう一つ、片桐にとって残念なことがある。
「こういったデータが公表されたのは6月なんですね。3月12日、13日あたりのデータが移転先の県庁にうまく引き継がれなかった」
現地本部は15日に福島県庁まで撤退する。その際、データを入れたファイルを現地に置き忘れていた。回収したのは5月28日になってから。事故直後の放射線値のほとんどは、6月3日まで表には出なかった。
表に出たデータも、極めて分かりにくかった。
3月15日夜、文部科学省茨城原子力安全管理事務所の渡辺眞樹男(57)が測定した浪江町赤宇木(あこうぎ)の毎時330マイクロシーベルトは、翌日同省のホームページ(HP)に載せられた。
ところが肝心の測定地点は、ほとんど地名のない地図上に○で囲んだだけ。町の関係者ですらその地点を認識できなかった。これでは分からないという指摘は多かったが、改善はしなかった。同省科学技術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)(53)は、「電話での問い合わせもあり、そのときはお教えするようにした」。
発表方法がHPだけというのも批判の的になった。浪江町は住民とともに役場も転々と避難を続けていた。インターネットに載せても見ることができない。
まるで情報が出し渋られるかのように、大事なデータは末端まで届かなかった。(依光隆明)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「布団かぶれーっ」
■研究者の辞表:19
SPEEDIの存在を認識したあとも、官邸は予測図を公開しなかった。それに関連し、首相補佐官の細野豪志(40)は、5月2日の記者会見で「国民がパニックになることを懸念した」と説明した。
住民に情報が届きにくかった背景には、おそらくそんな国の思想がある。だが実際には政府自身がパニックに近いような混乱ぶりだった。
避難区域の決定をめぐる原子力安全・保安院と官邸との食い違いもそうだし、現地本部撤退時に起きたデータの置き忘れもそう。そのとき、保安院の検査官全員が一時的に原発から退く事態も起こっていた。
検査官は原発内でその状態を監視する唯一の国の人間。福島第一には5人いて、常に1人は原発に詰めている。ところが現地本部が福島県庁に撤退した3月15日昼、5人全員が県庁に退いた。東京電力が原発から全員を撤退させたいと言った言わないの話が出るのもそのころだ。
現地本部の撤退作業も余裕はなかった。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45)は「20キロ圏に住民が残っていないのを確認して撤退した」と強調する。が、住民はいた。
浪江町役場から4キロ、原発からは10キロ北西に住む原二郎(75)と妻の良子(76)は、17日の午後に偶然訪れた2台のパトカーに救出された。
夫妻はガソリンがないために避難できなかった。草刈り機のガソリンを抜いてみたが、1リットルしかない。仕方なく、自炊しながら家にとどまった。停電だったが、プロパンガスは使えた。水は井戸からくんだ。家の電話も携帯電話も通じなかった。
14日午後2時半には落雷のような破裂音を聞いた。原は「原発爆発したぞ、布団かぶれーっ」と良子にいった。1時間、2人で布団をかぶっていた。布団の中から外を見ると、原発の方向に火花がピカピカ見えた。それが5分間続いた。3号機の爆発は午前11時だが、「自分が見たのは午後2時半だった」という。
救出してくれた警官は防護服にガスマスク姿の4人組だった。「何やってんだ!」と怒鳴られたので「申し訳ないことで」と謝った。「理屈はいいから早く乗れ!」といわれ、1人ずつ別のパトカーに乗った。
避難した翌日、別の町民も助け出されてきた。良子はいう。
「どもこもなんないんだわ、ガソリンないんだから。近所も誰もいないし。軽トラックで行ける所まで行こうとして、おにぎり握ってたらパトカーがきた」(依光隆明)
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