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もうすぐ北風が強くなる

イラクの次はリビアを帝国主義軍事侵略

 トリポリ
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 英米中心の多国籍軍が軍事侵略したイラク戦争と、今回のリビアの「革命」には、相違点と共通点がある。

 相違点とは、
 イラクは独、仏が反対したため、米英が脅しすかしで「多国籍軍」をでっち上げて攻撃した。リビアは米英仏の構成で反対派の武装蜂起を支援する形をとった。
 ただそれだけだ。

 共通点とは、
 共に石油の大産出国。
 共にドル決済をやめる方向で、ドルの基軸通貨たる位置を脅かしていた。
 共にアラブ復興社会主義、イスラム復興社会主義といった保守的イスラムとは区別される世俗社会主義体制だった。 
 共に攻撃は国際法違反、国連憲章違反を承知の上での帝国主義侵略となった。
 共に「独裁者」たる大統領と大佐の処刑で終結となった。

 だが、世俗社会主義政権を倒されたイラクは反米と宗派、民族対立により混乱し続けている。米軍が撤退してもまだ混乱は続くと思われ、強力な政府ができないために、欧米は容易に利権を貪ることができる。
 リビア。まったく同様である。加えて米英仏の利権争いが本格化するだろう。

 我々がイラクの中の何派を支持しようが、リビアの何派を支持しようが、共に帝国主義による軍事侵略であることにはなんの変わりもないのである。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
欧米諸国に裏切られ
最後まで戦い続けたカダフィと
リビアの緩慢な死
       10/21  佐々木良昭  ダイヤモンド・オンライン

 リビアのほぼ中間に位置する、地中海沿岸の街シルテから、南の砂漠地帯に10キロほど入ったところであったろうか。カダフィ(ムアンマル・アル=カッザーフィー)はその砂漠の中で、1942年に生を受けた。神童とも呼ばれるこの少年は、のちにシルテの街の学校で学び、ついには軍士官学校を優秀な成績で卒業し、リビア王国軍の軍人となっている。

 成績優秀だったことから、彼は英国への留学を認められ、英国に滞在したことがある。一説によれば、彼はこの留学時代にリビア王国高官たちの、堕落した様子を見て発奮し、後にクーデターを起こすことになったと言われている。彼のクーデターは多分に、隣国エジプトのナセル革命に、触発されたものであったようだ。

 そして1969年遂に、彼は仲間たちとともに、国王イドリス1世の外遊中を狙い、クーデターに成功することとなった。その時、彼はまだ27歳の若さだった。その若者が進めようとする改革路線は、若者に共通した性急で、短絡的なものであったようだ。短期間にリビアを変えたいと思うあまり、ついて行けない国民を締め付けることも重なった。

 そうなると国民の間には反カダフィ感情が高まり、反体制の動きが何度となく起こった。そして、それは容赦なく弾圧されることとなった。その結果としての独裁者カダフィのイメージだった。

   若さ故の性急さで
   インテリに見放された

 カダフィの性急な国家発展の進め方は、その理想とするところは素晴らしいのだが、残念なことに、リビア国民の民度の低さから理解されなかったし、官僚の中にもカダフィの方針をスムーズに進める能力を、持つ者が極めて少なかった。

 数少ないインテリたちの多くは、カダフィの乱暴な進め方に反発し、周辺諸国に亡命して行っている。最近中東などで開催される国際会議では、極めて優秀なリビア人たちに会うことが多い。彼らは60歳台前後の人たちで、カダフィ革命と付き合いきれなくなり、イギリスやアメリカに留学し、その後もその地に住み着いている人たちだ。

 カダフィは数少ないインテリに見放された後、能力の低い官僚たちを鞭打ちながら、国家建設を進めなければならなくなっていたということだ。だからと言ってカダフィの夢が、全くかなえられなかったわけではない。彼が巨費を投じて断行したGMR(グレート・マンメイド・リバー)は、これからもリビア国民にとって、重要な水資源を提供してくれるだろう。

   小国のコンプレックスが
   革命のスポンサーへと走らせた

 カダフィといえば必ず話題に上るのが、外国を訪問した折にテントを張って、そこに寝泊まりすることと、奇異な服装であろう。かつてパパ・ブッシュをして狂犬と言わしめたように、カダフィは普通の人間ではない、あるいは精神異常なのではないか、と思わせる言動をして見せた。

 しかし、それはみな彼の持つコンプレックスの裏返し、だったのではなかろうかと思う。アフリカの北に位置する、人口の少ない(革命当時は200万人足らず、現在は600万人程度といわれている)リビアを代表する立場では、国際社会での印象が、弱すぎると考えたのであろう。だから彼は何とか目立ちたいと思い服装に凝り、世界中の革命組織を援助したのではないか。

 結果的に、カダフィは世界中の革命家たちの、最大のスポンサーとなり、良かれ悪しかれ、国際的な知名度も抜群の人物になった。

 世界中の革命組織のスポンサーとなり、知名度が上がった中で、彼は欧米諸国への挑戦を始めた。各種の彼の言動は欧米諸国を刺激し、彼を本気で敵視する国とリーダーたちが増えていった。そして非難されればされるほど、彼はそこに快感を抱いていたのではないだろうか。「世界は俺を無視できなくなった。」とでも思っていたのであろう。

 問題はカダフィの欧米への批判が、言葉ではなく行動に移されたことだった。パンナム機爆破事件を代表とし、幾つもの対応米テロを敢行するようになった。ドイツのディスコ爆破事件も、その代表的な事件であった。

 その結果、カダフィに対する欧米の批判は、単に批判だけではなく、実質的な行動として、現れるようになっていった。1986年に起こったアメリカ軍によるリビア空爆事件、時期を同じくする経済制裁、リビア人テロ容疑者の裁判と投獄、幾つもの苦渋が、カダフィを待っていたのだ。

   すべては無駄に終わった
   欧米諸国への恭順

 カダフィが欧米諸国によって、苦しいしい立場に追い込まれていくと、その苦しみはリビア国民全体が受けるものとなり、国民の間にも不満が高まっていくこととなった。それは述べるまでもなく、カダフィ体制の不安定化を意味する。

 ついに、カダフィは全面的な降参宣言をせざるを得なくなった。それが2003年に起こった欧米との全面的な和解だった。この中で、カダフィは大量破壊兵器の開発施設を丸ごとアメリカに引き渡し、大量破壊兵器を持つ意思がないことを示した。

 そのことに加え、カダフィは欧米のリビアに対する締め付けを恐れアメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどに、巨額の資金を貯蓄することで、恭順の情を示してもいる。こうした背景があるために、カダフィはイギリス、アメリカ、フランスによる、リビア革命扇動が始まった時「いったい彼らは何が不満なのか?」といぶかったことであろう。

 今年に入りリビアで革命運動が勃発し、カダフィの大幅な譲歩妥協と思惑は、結果的に彼に安心を提供してはくれなかった。革命の炎はリビア東部のベンガジで燃え上がり、たちまちにして全国に広がっていった。

 そのリビアの反体制の動きの裏では、イギリス、フランス、アメリカが、しっかり革命の舵を取っている。軍事顧問が送られ、自国で抱えていた反カダフィの立場を取るリビア人を送り込んで、革命の中枢を形成させられた。

 国連の人道支援、民間人救済の名のもとに、NATO軍のリビア飛行機禁止が決議されると、イギリスとフランスは空軍機を送りリビアの反体制側に武器を供与し始め、次いでカダフィ派拠点への空爆を始めた。これは明らかに国連決議の範囲を超えるものだったが、大声で反対する国も人も皆無に近かった。NATO軍の空爆は8000回を超え、出撃回数は2万回を優に超えるものとなった。

 カダフィ派はNATO軍の強力な攻撃にさらされ、それをバックにして戦う反政府側の攻撃によって、遂には限られた地域に、追い込まれていくこととなった。そして最後に残されたのは、彼の出身地に近いシルテの街だった。10月20日カダフィはこの街で戦い、重傷を負った段階で捕まり、暴力を受けて移送中に死亡した。

   カダフィ後のリビアで始まる勢力争い

 カダフィの死は、これまで続いた42年のリビアの歴史とは、全く異なった形にリビアを、変えていくことになろう。それがリビア国民にとって、カダフィ時代よりもいいものなのか、あるいはその逆なのかについての、判断ができるまでには5~10年の歳月を必要とする。

 最初のリビア新体制の関門は、新政府の結成がスムーズに進むのか否かだが、多分に困難を伴うものと考えられる。リビアの新体制に参入してくるであろう勢力が幾つも存在し、彼らはそれぞれに革命の果実を出来るだけ多く手に入れようと目論んでいるからだ。

 外国帰りのインテリ・グループ、リビア国内に留まったインテリ・グループ、宗教重視グループ、世俗グループ、そして各部族の利害集団が大きく介入して来よう。その第1段階で、これらのグループが衝突するのは、内閣の結成時であろう。大臣ポストを幾つ手に入れることができるかが、今後のグループの力関係を決めるからだ。

 この第1段階を出来るだけスムーズに進めて、リビア復興に着手させたいというのが、イギリスやフランス、アメリカの本音であろう。それは戦争加担の報奨金を、手に入れることに繋がるからだ。

 同時に、自国が抱えていたリビア人を何人閣僚にするかが、イギリス、フランス、アメリカの、これからの腕の見せどころとなる。自国が抱えていたリビア人が多く閣僚入りすれば、それだけ取り引きが有利に進められるからだ。

 つまり、カダフィが殺害された今、リビアでは欧米諸国による閣僚という名の傀儡たちが、用意されつつあるということだ。そして、その先に見えるのは、欧米諸国によるリビアの間接支配であり、形を変えた植民地支配の再開ということであろう。

 以前、ヨーロッパの知識人が書いていた次の一文を思い出させられた。「アラブやアフリカに民主主義や自由をもたらしてやったが、彼らにはそれを実現する能力が無いということがハッキリしたいま、欧米諸国は再度これらの国々を植民地下に置いて、民主化、自由化そして発展を、指導していかなければならない。」

 今回チュニジアで始まり、エジプト、リビア、そしてシリア、イエメン、バハレーンなどで起こっている、一連の「アラブの春」革命は実はそこにこそ、真の目的があるのではないか。

   カダフィとサッダーム、
   強烈な死の一言

 アラブの中でも、際立って独裁者としての名声の高かった、イラクのサッダーム・フセイン大統領が処刑され、次いでリビアのカダフィ大佐が戦死した。そのアラブの独裁者の死に様は、極めて印象的だった。

 日本の武将の辞世の句ではないが、二人とも強烈な一言を語って世を去っている。イラクのサッダムーム・フセイン大統領は処刑台に挙げられるとき、処刑執行人たちが「地獄に堕ちろ!!」と罵声を詫びせたことに対して、「いまのイラクが地獄ではないのか?」と切り返している。事実、彼が言うとおり、イラクではいまだに、毎日のように何十人もの人たちが、テロの犠牲となり死亡している。


 そして、カダフィはこの革命が始まるや、この革命劇の真実を見抜き「これは新たな植民地支配の闘争だ、それに追従する者は虫けらどもだ!!」と叫んだ。これもまたその通りであり、リビアでは当分の間は混乱が続こう。

 混乱の後には南ヨーロッパの地中海の街のようなしゃれた街並みが一部に出来上がり、そこは欧米人が我が者顔で歩き回り、若い欧米の女性がイスラムのルールなど完全に無視してスカートを海風にあおらせながら闊歩する光景が目に浮かぶ。それをリビア人たちは横目で見ては、心の中で怒りと呪いの言葉を吐くのだ。そしてリビアの他の地域は、革命前のような砂漠に、戻っていくのではないのか。
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コメント

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Re: タイトルなし

私もまったくの同感です。
リビア攻撃は珍しくも米英だけでなくフランスが加わっていますが、これは米国の覇権が弱体となった結果か。
我々が思う以上に欧米財政は危機に瀕しているのかも。

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