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もうすぐ北風が強くなる

ファシズム(4)(5)

ファシズム考4   (日本型)ファシズムではなく、(天皇制)ボナパルティズム

投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:13:09:

 それでは所謂「日本型ファシズム」、30年代に現れたこの現象をどのように観るのか?-ボナパルティズム、若しくは「天皇制ボナパルティズム」というべきだろうと思います。 

 但し、左翼やマルクス主義が規定した「階級均衡論」的な「例外国家」などではなく、西川長夫氏が言う様に、「執行権力の独裁」型のボナパルテイズム権力こそ近代国家の典型である、という意味において。 

 即ち、強大な執行権力の独裁こそが近代中央集権国家のもっとも強化された最終的形態であり、その意味でー元祖は「クロムウェル独裁」としてー「ナポレオン独裁」(仏第一帝政)こそその<原型>、そして非西欧も含めて考えると、西川氏が言う様に、明治の大久保独裁ー「有司専制」こそがその<典型>であるということ。
 
所謂「開発独裁型」と<近代化論>の枠組みで狭く定義されるのは明らかに一面的であり、むしろこの「膨大な官僚,軍事組織をもち,多くの層に分かれた精巧な国家機構をもった執行権力」=ボナパルテイズム型権力こそが近代国家の普遍的形態である、ということです。

 そして、ここからすると、30年代に現れた現象は、危機に臨んで、この権力の原初形態(執行権力の独裁)が露出した、と同時に、ドイツやイタリアと同じ様に、<大衆の時代>に合わせた社会的諸関係の再編成を(上から)推し進めるものであった、と言える。
 ー60年代に現れた大衆社会化は、あくまでその結果である、と。

 これを先の「政党政治」の蹉跌の問題と絡めると、日本においては、政党が下からやろうとしたことを(遅ればせながら)上からやったということ、しかしながらそれ故、その歪みというか皺寄せ(政治的主体の不在)が軍部において集中して現れ出たのではなかったか?

 私が「ボナパルティズム論」を有効と考えるのは、所謂「日本型ファッシズム」とされる「昭和維新」の運動を上手く説明出来ると同時に、この間の政治状況についてもより解り易くなるように思えるからです。
 
即ち、明治維新型の「天皇親政」による<変革>への希求を「有司専制」=軍事官僚専制へと収束させたのが「天皇制ボナパルティズム」である、と。 そして、他方、フランス第一帝政と第二帝政の関係が、(政治的、社会的再編成の違いを除けば)この明治維新と昭和維新との関係にもアナロジーとして成立するようにも思えます。
 
そうして、現在の状況を見るに、ヒトラーやムソリーニ型の「ファシズム」を想定するよりも、今日、軍隊抜きで、このボナパルテイズム型権力がどのように変貌を遂げてきつつあるのか?ーかっての天皇制ボナパルティズム=大政翼賛会に替わる、今日版「大政翼賛会」を想定することーの方が遥かに有意味であると考えますし、その意味で、近年の小泉政権が最もその特徴を示したものと言えるのではないか?

 例の”自民党をぶっ壊す”発言にいみじくも表れてるように、小泉政権下で劇的に進んだものこそ政党(政治)の破壊や議会軽視、又没落する層(B層!)の熱狂的な支持等、ボナパルティズムの際立った特徴を示していたのですから!
従って、小泉政権を支え、或いは強力に推し進めたものが何であるのかを考察することは、今日のボナパルティズムを視ておく上で、欠かせないことと思えます。
 
とすると、”検察ファッショ”と言われた前回同様、小泉政権の「政敵」に対して「国策捜査」を繰り返した検察が先ずは浮かんで来ます。 また、小泉政権以降特に、タバコ(少年非行)、酒(同+車)、暴力団等、様々な口実を設けて国民を更に管理=統制して行こうとする警察や、地方行政の枠を超えて、国政に関与する姿勢を鮮明にしている知事や自治体の首長達の登場など、フランス第1帝政・第2帝政と共通する要素も同時に在ります。
 
しかしながら、それより何より、それらを繋ぐ環ともいうべきものにテレビを中心とするメディア※①が成っているということ。

 テレビがしばしば政治への登竜門となり、又メディアに支持された<権力>は長続きし、批判されたら<権力>を維持することさえ困難になってくる。
  <権力者>とはー少なくともその必要条件※②とはー<メディアの寵児>に他ならないことを示したのが小泉政治と言えるのではないか?
だとすると、メディアが世を蓋い尽くすと共に、そのメディアが権力と一体化しつつある、と言ってもいいのでしょう。
  
そうだとすると、今日のボナパルティズムの様相は、メディアを中心にして考察されなければならない。

※①新聞や雑誌を含む色々な媒体が、テレビを中心にメディアミックスとも言える様に相互交流し、言わば複合的な相乗効果をもたらしてる。
※②十分条件は(アメリカの意思を背景にした)官僚の支持。
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ファシズム考5 今日のボナパルティズムの様相 ー今日版の「大政翼賛会」ーメディアクラシーへ

投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:08:52:

 何より「メディアが権力と一体化しつつある」事をよく示しているのが昨今の「ニュース報道」なるものです。

 検察や警察のOBのコメンテイターが頻繁に登場し、単に社会的な事件のみならず、政治的な事柄にまで堂々とコメントするようになってる! 
 
「OBだから」というのは遁辞に過ぎない、郷原信郎氏の様な少数の例外は除き、その大半がかっての「職場」の、或いはその目線の解説者や代弁者となってるのは明らかなのですから。
  またドラマやドキュメントにおいても、数多くが「警察モノ」「警察目線」で作られております。

 これらのことは、言うならばソフトに、視聴者に対して、「検察目線・警察目線」で物事を見、理解するよう、強いるもので、私には、これらの事はーテレビ治安法とでも言えばいいのかー「治安維持法」がメディアの中に甦って来たものに思えます。
  -もし国民の多くが「検察目線・警察目線」で物事を見、理解するようになったら「治安維持法」なんて要りませんからね!

 また、「オウム事件」の様な大きな事件になるにつれこの傾向は際立ちますが、先ずメディアが当局の意図を体現した「ジャーナリスト」や専門家ー弁護士名目の検察OBや警察OBまでーを動員して、<罪>を告知し、<罰>も宣告する。
 
現実の裁判は、往々にして、その形式的な追認の場にしか過ぎなくなっているのです。

 麻原昭晃は裁判が始まるとっくの昔にメディアで「有罪」を宣告されていたからこそ、事実を争うべき裁判は見向きもされず、弁護団長の渡辺脩氏が慨嘆するデタラメが罷り通り、それに抵抗しようものなら、徒にゴネて、裁判の進行を妨げてるとされるーまさしくアベコベの事態が罷り通っているのです。

 今回の「村木事件」だって、ひょっとしたら村木氏が女性だったから、若しくは悪相面していなかったからーつまりメディア的に「嵌り役」じゃなかったからーかも知れない、とさえ思いたくなる程に。

 つまり、村木裁判が特殊例外と思える程に、政治に関る重要な事件について、多くの裁判が、予定調和的に、メディアを追認する場になっているのです。 ーとすれば、裁判ですらメディア主導の実態が浮かんで来ます。

 そうして、かかるメディアの姿勢が、政治へのスタンスにおいても、次の様な所に明確に現れ出ています。

 「世論調査」の多用。 小沢一郎氏への執拗なバッシング。

 マスコミ各社が1週間に1度「世論調査」を行っているーということは、全体として見れば、日を置かずして、しょっちゅうやっているということです。
 しかもその内容は議会制とか政党政治の根幹に関わって来ること。 例えば「政策課題」毎に「民意」を問い、それを「天の声」として、従うように要求するとなれば、これは議会制ー議会での討議ー自体を無視乃至軽視することでしょう(何の為の議会なのか?)し、今度の民主党代表選挙でも、「民意」を盾に政党の人事にまで介入してくる。
 これが罷り通るということは政党が限りなく形式的なものになっていく、ということです。
 何故ならこれは、政党人や政党支持者よりも「民意」を上に置くということだから(何の為の代表選挙なのか?)。 -もしこれで「民意」に反する結果が出たとしたら、今度は「民意」に背くー「天の声」に反する=民主主義とは相容れないー否定的存在として、民主党を否定する根拠(!)となったことでしょう。

 立法(議員の登竜門、選別機関、議会での議論の不活発の代替効果)・司法(メディア上の擬似裁判が成立している)・行政(宣撫、事実上の治安法的な効果)、「三権分立」がメディアにおいて統合されつつあるという現実が浮かんで来るのです。

 「世論調査」なるものの恣意性・作為性という問題一つ取ってみても、また「民意」=「天の声」の解釈の恣意性という問題を抜きにして自らの論拠とすることの危うさにしても、マスコミのかかる姿勢は、かっての軍部とか青年将校が「天皇の意思」を僭称し、政治家を「国体を歪め、危うくする者」として攻撃した口吻とソックリ※①ですし、こうして見てくれば、かっての軍部に替わって、メディアの専横が際立っていると言えるのではないでしょうか。

 そして、そういう彼等が、かって軍部が政党政治家を蛇蝎の様に嫌ったように、最も政党政治家らしい政党政治家である小沢一郎氏の攻撃に血道を上げるのも分かろうというもの。

 殊にこの4月から5月に掛けて、メディアの異常異様な小沢氏や鳩山氏への攻撃は、戦前の政党政治の末期、5.15事件を始め、軍人や右翼による相次いだ政治家へのテロにも比せられるー言論に名を借りた、政治テロといってもいい態のものでした。
 つまり、かっての軍部さながらに、政治を壟断しているのはメディアなのであり、今日のボナパルティズムはメディアに顕れてる、と見做さなければならない。
 とすると、今日版の「大政翼賛会」※②とは、強大な執行権力(官僚機構)を<幹>にして、メディアを<環>とした集合体と言えるのではないか? 

 そうして、かかる集合体の、佐藤優氏の言葉を借りれば「集合的無意識」こそが、この間、挙って、鳩山政権や小沢氏の抹殺に向かわしたものなのではないか?

 かのロッキード事件の際、田中角栄氏の逮捕を受けて、日経連の桜田武氏は、「田中逮捕は善し」とした上で、歴史的とも言える有名な発言をしました。 
「日本はこれから危機を迎える、しかし検察・警察・裁判所および所要の官僚機構がしっかりしているならば、もう一つは、職場を基礎とする労使関係が安定しているならば、この危機を乗り越えることができる」。  

 勿論、桜田氏の脳裏に在ったのが、政党が機能不全に陥って登場した「大政翼賛会」であったことは疑いない。 しかしながら、それから30年を経て、もう一つ付け加えるべきは「メディアを<環>として」ということではないか?
 そうだとしたら、一方で小沢氏がマスコミは苦手としているのも、彼個人の性格や気質に加えて、デモクラット=政党政治家として、政党(機能)を解体した後この集合体に統合する機能を担っているー今日版の「大政翼賛会」の<環>としてのーメディアの果す役割への本能的な警戒感がもたらしたものではないでしょうか?

 さて、ところで、これまで見て来たような、メディア的経験が実際の経験よりも上位に来る事態は政治にどのような現象を引き起こすことになるのでしょうか?
恐らくは民主主義もメディア上で処理され、メディアに統合され、メディア的に理解されることになっていくでしょうが、果たして、それがどのような社会を創り出して行くのか?
 <身体>という観点から見て行くと、それは極めて憂慮すべきと言わねばなら
ないのですが、それはまた別の機会に論じることにします。
 
 メディアクラシーの孕む問題として。  デモクラシーからメディアクラシーへー大衆社会がどのように最終コースを回って行くのか?という問題として。  

※①「天皇の意思」を「民意」=「天の声」、「国体」を「民主主義」に置き換えてみて下さい。
※②大政翼賛会をコーポラティズムとして捉えるなら、今日型をネオ・コーポラティズムと言うべきでしょう。
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