大震災から2か月
2011-05-11
3/11の大震災と大津波。そして原発事故から2か月が経った。
死者・行方不明者はおよそ25,000人。
依然としてまだ80,000戸が水道断水し、6,000戸が停電している。
117,000人が避難所生活を続けている。
仮設住宅の建設は、まだ計画の1割にも満たない6,390棟。
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5/11産報 秋葉原日記
被災地に立つ
昨日岩手県宮古市に来た。
やっとやってきたというのが率直な気持ち。
3.11の後すぐにでも被災地に入りたかったのだが、交通や勤務先など種々の事情があってこれまで自重していた。取材については若手の記者がいち早く現地入りしてレポートしていたし。
それに、野次馬のように興味本位になっては被災者の方々に申し訳ないという懸念もあったし、自分が現地に行こうとするとどうしてもたくさんの人たちのサポートが必要となるし、迷惑をかけるのが嫌でもあった。
しかし、できるだけ早いうちに被災地に自分の足で立たなければいけないという思いも強かった。
被災の状況についてはおびただしいほどの報道があって十分すぎるのだが、それよりも何よりも被災地に立って自分がどう感じるのか、何を思うのか、そのことこそが大事なのだと考えていた。
当地には、盛岡からレンタカーでやってきた。盛岡から約100キロ、1時間30分の道のり。
初めは旧田老町(現宮古市)を訪れた。ここを初めに訪れたについては自分なりの理由がある。
ここは高校時代旅行で立ち寄ったことがあり、その際、まるで要塞かと思われる高い防潮堤が街を取り囲んでいることに感心をしていたのだった。
高さ10メートル、延長2.4キロもの防潮堤が二重に築かれているのだが、それは度重なる津波の被害から街を守ろうと45年の歳月をかけてつくられたもので、田老の街の人たちの自慢だった。
その田老の街が再び津波にやられたという。いったいどういうことなのか。
被災地に立って呆然とした。まるで焦土と化していた。根こそぎ街が飲み込まれてしまったようだ。鉄骨造の建物数軒がわずかに残っているだけだ。それも残っているのは柱だけで、建物としての形をわずかにとどめているだけだ。
被災から2カ月が経ってだいぶ片付けられたようだが、そこここにつぶされた自動車が積み上げられているし、漁船が街の真ん中に横たわっている。高さ10メートルもの防潮堤をどうやって乗り越えてきたというのだろう。
津波のエネルギーとは恐ろしいもので、まず第1波で湾内の防波堤をまるで発泡スチロールの箱でもころがしたみたいにずたずたに破っているし、続いて高さ10メートルの防潮堤すら所々決壊している有様だ。
街は壊滅した。残ったのは惨状である。
がれきの山の中にたたずんでいる地元の人たちにお話を伺った。
「地震は強かったし長かった。縦に揺れたし横にも揺れたし不気味だった。津波が来ると直感はしたが、まさかあの防潮堤を越してくるとは思わなかった。だから油断した。逃げ遅れたが、奇跡的に命だけは助かった。近所の人たちは全員亡くなった。」
「悔しい。この先どうしたらいいのか。家はなくなったが、幸い家族は高台に避難して無事だった。やっぱりまたここに家を建てて住むことになるだろう。また津波は襲ってくるだろうがここがいい。」
「台風の波は白いしぶきを上げて押し寄せてくるが、津波は海の底から巻き上げるように襲ってきた。初めて津波を目の当たりにしたが黒い波で怖かった。」
実は、阪神大震災の折には震災直後から被災地神戸に入って取材していた。仕事なのだがあまりの悲惨さにカメラを向けるのがはばかられるようだった。
今回もカメラを手にうろうろすることには躊躇もあったが、これも仕事だしやむを得ない。それにやはり地震から2カ月が経ったということなのだろう、お話を伺った人たちの情緒は随分と安定してきているように思われた。
それでも、「頑張ってください」とはついに言えなかった。
結局、この現場に立っては頑張ってくださいと安直に言えないというのが被災地で感じた率直なことだったし、被災された方々の悔しさが伝わってきて言葉が続かなかった。そしてその上でこの大震災を前にして自分は何ができるのだろうかと考えたのだった。
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仮設住宅の完成1割未満 震災2カ月の被災3県 5/10共同
大勢の人が避難生活を送る宮城県女川町の総合体育館。阿部政子さんは「毎日続く余震に本当に復興できるのか、避難所にいるときは忘れられるが町に戻ると思い出してしまう。仮設に入れたとしても日常生活の不便さは変わらない」と不安な気持ちを話した=10日午後
東日本大震災から11日で2カ月。被災地ではがれき撤去など復興への歩みが続く一方、なお多くの人が不自由な避難所生活を続ける。被害の大きい岩手、宮城、福島3県で完成した仮設住宅は10日現在、目標の6万8千戸の1割に満たず、原発事故を抱える福島県では再開できない学校も。義援金の支給は一部で始まったばかりで、被災者を取り巻く現実は厳しい。
警察庁の10日のまとめによると、3県の避難者数は岩手3万7482人、宮城3万3671人、福島2万4965人で計9万6118人。原発事故の影響などで避難先は全国に広がっており、18都道県の2412の避難所に11万7085人が身を寄せている。
被災者の生活再建に向けた一歩となる仮設住宅は10日現在、3県で計約3万戸が着工し、このうち6390戸が完成。国土交通省は今月末に3万戸を完成させる目標を達成できるとしているが、沿岸部で高台の用地確保が難航している自治体もあり、目標戸数が完成してもすべての被災者が仮設に入居できるまでにはなお時間がかかる見通しだ。
3県の教育委員会によると、公立の小・中・高校は岩手県の622校と宮城県の733校はすべて再開。ただ福島県では福島第1原発事故の影響で26校が授業を始められていない。始業式が1カ月程度遅れた学校も多く、各校は授業の遅れを取り戻すため、夏休みの短縮などを検討している。
死者・行方不明者1人当たり、国の目安で35万円を支給する義援金は、自治体が被災したり、住民の安否確認が進まなかったりして支給が遅れている。3県が10日現在で支給を把握しているのは19自治体にすぎない。
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震災から2カ月、供給網の回復半ば モノ作りなお苦闘
2011/5/11 1:23
東日本大震災の発生から11日で2カ月がたつ。死者・行方不明者は東北地方を中心に2万5000人弱に上り、日本経済全体が大きな打撃を受けた。電気や水道などライフラインの復旧が徐々に進みつつあるが、寸断された産業のサプライチェーン(供給網)回復は道半ばだ。
東日本大震災の主な被害と復旧状況
被害状況
死者 14,949人
行方不明 9,880人
避難 117,085人
(注)10日午後4時現在,警察庁まとめ
復旧状況
<生活関連>
電気(東北電力管内) 6000戸で停電(6日現在)
水道※※ 7万7500戸で断水(6日現在)
都市ガス※※※ ほぼ復旧
電話 固定・携帯ともほぼ復旧
金融機関※※ 93%が営業。71店閉鎖中
直営郵便局※ 95%が営業
ガソリンスタンド※ 95%が営業
<交通インフラ>
鉄道 新幹線は全線開通。JR東日本の在来線は一部めどたたず
空港 被災地の全13空港での便数は震災前の約75%
港湾 被災した14港の運用再開。使用可能な岸壁は36%
<産業>
自動車 各社の国内工場の稼働率は5割程度
電機 半導体などの工場が被災。「マイコン」大手のルネサスエレクトロニクスは主力工場の6月再稼働を目指す
石油 JX日鉱日石エネルギーは仙台製油所からの製品出荷再開
※東北6県、※※岩手、宮城、福島の3県
※※※青森、岩手、宮城、福島の4県
航空機エンジン部品を手掛けるIHIの相馬工場(福島県)では数日後の全面稼働を目指して、ラインの整備が急ピッチで進む。IHIは米ゼネラル・エレクトリック(GE)など向けに部品を供給する。米ボーイングなど世界の航空機生産への影響を避けようと、懸命の努力が続く。
トヨタ自動車など各社にゴム部品を供給する藤倉ゴム工業。福島第1原子力発電所近くに工場があり、生産再開のめどが立たない。同社はデンソーが福島県に持つ建屋を一定期間借り受け、5月下旬にも操業を始める。
トヨタの現在の国内工場の稼働率は5割程度。4月22日に「生産正常化は11月以降」と発表したが、部品・素材各社の稼働再開で2~3カ月前倒しできる見通しだ。
ただ部品や素材の生産水準はまだ低い。エチレンでは被災した三菱化学のプラントの稼働が5月20日前後となる。電子部品など一部の製品には今後の在庫切れ不安も残る。サプライチェーンの全面復旧にはまだ時間がかかりそうだ。
震災後最大で450万戸前後が同時に停電した東北電力管内では、停電戸数が約6000戸(6日時点、津波で流失した建物などを除く)に減少。それも大半が5月末までに復旧する見通しだ。岩手、宮城、福島3県での断水戸数も発生直後の1割以下に減った。
1995年に起きた阪神大震災では、電気は6日、水道は1カ月半、都市ガスもほぼ3カ月で復旧した。東日本大震災では被災地域が広く、復旧は難しい。さらに火力発電所の被災や原子力発電所の停止で夏の電力供給に不安が残る。
警察庁の10日午後4時現在のまとめによると、死者・行方不明者は2万4829人。避難所で生活を送る人は18都道県で約11万7000人に上る。
身元が特定できていない遺体も多い。同庁によると、同日午前10時現在、岩手、宮城、福島の3県警で取り扱った計1万4873人の遺体のうち、依然として2000人以上の身元が分かっていない。この1カ月間で死者は約1800人増えたが、行方不明者は約4500人減った。発生直後に届け出があったが、確認作業を進めて連絡が取れた人が多かった。
死者・行方不明者はおよそ25,000人。
依然としてまだ80,000戸が水道断水し、6,000戸が停電している。
117,000人が避難所生活を続けている。
仮設住宅の建設は、まだ計画の1割にも満たない6,390棟。
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5/11産報 秋葉原日記
被災地に立つ
昨日岩手県宮古市に来た。
やっとやってきたというのが率直な気持ち。
3.11の後すぐにでも被災地に入りたかったのだが、交通や勤務先など種々の事情があってこれまで自重していた。取材については若手の記者がいち早く現地入りしてレポートしていたし。
それに、野次馬のように興味本位になっては被災者の方々に申し訳ないという懸念もあったし、自分が現地に行こうとするとどうしてもたくさんの人たちのサポートが必要となるし、迷惑をかけるのが嫌でもあった。
しかし、できるだけ早いうちに被災地に自分の足で立たなければいけないという思いも強かった。
被災の状況についてはおびただしいほどの報道があって十分すぎるのだが、それよりも何よりも被災地に立って自分がどう感じるのか、何を思うのか、そのことこそが大事なのだと考えていた。
当地には、盛岡からレンタカーでやってきた。盛岡から約100キロ、1時間30分の道のり。
初めは旧田老町(現宮古市)を訪れた。ここを初めに訪れたについては自分なりの理由がある。
ここは高校時代旅行で立ち寄ったことがあり、その際、まるで要塞かと思われる高い防潮堤が街を取り囲んでいることに感心をしていたのだった。
高さ10メートル、延長2.4キロもの防潮堤が二重に築かれているのだが、それは度重なる津波の被害から街を守ろうと45年の歳月をかけてつくられたもので、田老の街の人たちの自慢だった。
その田老の街が再び津波にやられたという。いったいどういうことなのか。
被災地に立って呆然とした。まるで焦土と化していた。根こそぎ街が飲み込まれてしまったようだ。鉄骨造の建物数軒がわずかに残っているだけだ。それも残っているのは柱だけで、建物としての形をわずかにとどめているだけだ。
被災から2カ月が経ってだいぶ片付けられたようだが、そこここにつぶされた自動車が積み上げられているし、漁船が街の真ん中に横たわっている。高さ10メートルもの防潮堤をどうやって乗り越えてきたというのだろう。
津波のエネルギーとは恐ろしいもので、まず第1波で湾内の防波堤をまるで発泡スチロールの箱でもころがしたみたいにずたずたに破っているし、続いて高さ10メートルの防潮堤すら所々決壊している有様だ。
街は壊滅した。残ったのは惨状である。
がれきの山の中にたたずんでいる地元の人たちにお話を伺った。
「地震は強かったし長かった。縦に揺れたし横にも揺れたし不気味だった。津波が来ると直感はしたが、まさかあの防潮堤を越してくるとは思わなかった。だから油断した。逃げ遅れたが、奇跡的に命だけは助かった。近所の人たちは全員亡くなった。」
「悔しい。この先どうしたらいいのか。家はなくなったが、幸い家族は高台に避難して無事だった。やっぱりまたここに家を建てて住むことになるだろう。また津波は襲ってくるだろうがここがいい。」
「台風の波は白いしぶきを上げて押し寄せてくるが、津波は海の底から巻き上げるように襲ってきた。初めて津波を目の当たりにしたが黒い波で怖かった。」
実は、阪神大震災の折には震災直後から被災地神戸に入って取材していた。仕事なのだがあまりの悲惨さにカメラを向けるのがはばかられるようだった。
今回もカメラを手にうろうろすることには躊躇もあったが、これも仕事だしやむを得ない。それにやはり地震から2カ月が経ったということなのだろう、お話を伺った人たちの情緒は随分と安定してきているように思われた。
それでも、「頑張ってください」とはついに言えなかった。
結局、この現場に立っては頑張ってくださいと安直に言えないというのが被災地で感じた率直なことだったし、被災された方々の悔しさが伝わってきて言葉が続かなかった。そしてその上でこの大震災を前にして自分は何ができるのだろうかと考えたのだった。
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仮設住宅の完成1割未満 震災2カ月の被災3県 5/10共同
大勢の人が避難生活を送る宮城県女川町の総合体育館。阿部政子さんは「毎日続く余震に本当に復興できるのか、避難所にいるときは忘れられるが町に戻ると思い出してしまう。仮設に入れたとしても日常生活の不便さは変わらない」と不安な気持ちを話した=10日午後
東日本大震災から11日で2カ月。被災地ではがれき撤去など復興への歩みが続く一方、なお多くの人が不自由な避難所生活を続ける。被害の大きい岩手、宮城、福島3県で完成した仮設住宅は10日現在、目標の6万8千戸の1割に満たず、原発事故を抱える福島県では再開できない学校も。義援金の支給は一部で始まったばかりで、被災者を取り巻く現実は厳しい。
警察庁の10日のまとめによると、3県の避難者数は岩手3万7482人、宮城3万3671人、福島2万4965人で計9万6118人。原発事故の影響などで避難先は全国に広がっており、18都道県の2412の避難所に11万7085人が身を寄せている。
被災者の生活再建に向けた一歩となる仮設住宅は10日現在、3県で計約3万戸が着工し、このうち6390戸が完成。国土交通省は今月末に3万戸を完成させる目標を達成できるとしているが、沿岸部で高台の用地確保が難航している自治体もあり、目標戸数が完成してもすべての被災者が仮設に入居できるまでにはなお時間がかかる見通しだ。
3県の教育委員会によると、公立の小・中・高校は岩手県の622校と宮城県の733校はすべて再開。ただ福島県では福島第1原発事故の影響で26校が授業を始められていない。始業式が1カ月程度遅れた学校も多く、各校は授業の遅れを取り戻すため、夏休みの短縮などを検討している。
死者・行方不明者1人当たり、国の目安で35万円を支給する義援金は、自治体が被災したり、住民の安否確認が進まなかったりして支給が遅れている。3県が10日現在で支給を把握しているのは19自治体にすぎない。
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震災から2カ月、供給網の回復半ば モノ作りなお苦闘
2011/5/11 1:23
東日本大震災の発生から11日で2カ月がたつ。死者・行方不明者は東北地方を中心に2万5000人弱に上り、日本経済全体が大きな打撃を受けた。電気や水道などライフラインの復旧が徐々に進みつつあるが、寸断された産業のサプライチェーン(供給網)回復は道半ばだ。
東日本大震災の主な被害と復旧状況
被害状況
死者 14,949人
行方不明 9,880人
避難 117,085人
(注)10日午後4時現在,警察庁まとめ
復旧状況
<生活関連>
電気(東北電力管内) 6000戸で停電(6日現在)
水道※※ 7万7500戸で断水(6日現在)
都市ガス※※※ ほぼ復旧
電話 固定・携帯ともほぼ復旧
金融機関※※ 93%が営業。71店閉鎖中
直営郵便局※ 95%が営業
ガソリンスタンド※ 95%が営業
<交通インフラ>
鉄道 新幹線は全線開通。JR東日本の在来線は一部めどたたず
空港 被災地の全13空港での便数は震災前の約75%
港湾 被災した14港の運用再開。使用可能な岸壁は36%
<産業>
自動車 各社の国内工場の稼働率は5割程度
電機 半導体などの工場が被災。「マイコン」大手のルネサスエレクトロニクスは主力工場の6月再稼働を目指す
石油 JX日鉱日石エネルギーは仙台製油所からの製品出荷再開
※東北6県、※※岩手、宮城、福島の3県
※※※青森、岩手、宮城、福島の4県
航空機エンジン部品を手掛けるIHIの相馬工場(福島県)では数日後の全面稼働を目指して、ラインの整備が急ピッチで進む。IHIは米ゼネラル・エレクトリック(GE)など向けに部品を供給する。米ボーイングなど世界の航空機生産への影響を避けようと、懸命の努力が続く。
トヨタ自動車など各社にゴム部品を供給する藤倉ゴム工業。福島第1原子力発電所近くに工場があり、生産再開のめどが立たない。同社はデンソーが福島県に持つ建屋を一定期間借り受け、5月下旬にも操業を始める。
トヨタの現在の国内工場の稼働率は5割程度。4月22日に「生産正常化は11月以降」と発表したが、部品・素材各社の稼働再開で2~3カ月前倒しできる見通しだ。
ただ部品や素材の生産水準はまだ低い。エチレンでは被災した三菱化学のプラントの稼働が5月20日前後となる。電子部品など一部の製品には今後の在庫切れ不安も残る。サプライチェーンの全面復旧にはまだ時間がかかりそうだ。
震災後最大で450万戸前後が同時に停電した東北電力管内では、停電戸数が約6000戸(6日時点、津波で流失した建物などを除く)に減少。それも大半が5月末までに復旧する見通しだ。岩手、宮城、福島3県での断水戸数も発生直後の1割以下に減った。
1995年に起きた阪神大震災では、電気は6日、水道は1カ月半、都市ガスもほぼ3カ月で復旧した。東日本大震災では被災地域が広く、復旧は難しい。さらに火力発電所の被災や原子力発電所の停止で夏の電力供給に不安が残る。
警察庁の10日午後4時現在のまとめによると、死者・行方不明者は2万4829人。避難所で生活を送る人は18都道県で約11万7000人に上る。
身元が特定できていない遺体も多い。同庁によると、同日午前10時現在、岩手、宮城、福島の3県警で取り扱った計1万4873人の遺体のうち、依然として2000人以上の身元が分かっていない。この1カ月間で死者は約1800人増えたが、行方不明者は約4500人減った。発生直後に届け出があったが、確認作業を進めて連絡が取れた人が多かった。
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