沖縄は反対する、無視して差別を続ける政府
2014-11-24
辺野古移設反対派の沖縄県知事が誕生 それでも民意を無視する日本の民主主義とは ――沖縄タイムス記者 福元大輔 11/21 ダイヤモンド・オンライン

11月18日に安倍首相が消費再増税の先送りと衆議院の解散・総選挙を表明してから、世の関心は一気にそちらに移ったようにも見える。
だが、その2日前に行なわれた沖縄知事選では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する新知事が誕生した。
今回の総選挙は、アベノミクスという経済政策ばかりでなく、沖縄の民意にどう応じるのか、安倍政権が考える民主主義もまた問われてしかるべきである。
「イデオロギーよりアイデンティティー」の勝利
11月16日投開票の沖縄県知事選挙で、前那覇市長の翁長雄志(おなが・たけし)氏(64)が36万820票を獲得し、初当選を果たした。
政府の推進する米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設が最大の争点で、移設に反対する翁長氏が政府の全面支援を受けた現職の仲井真弘多(なかいま・ひろかず)氏(75)=自民、次世代推薦=を9万9744票という大差で破った。
4人が立候補する中で、翁長氏の得票率は50%を超えた。
1月の名護市長選挙で移設に断固反対を続ける稲嶺進氏が再選を果たしている。移設先の名護市長と知事の2人が、選挙で鮮明に反対を打ち出し、「辺野古ノー」の民意を得たことになる。
それでも菅義偉(すが・よしひで)官房長官は翌17日の記者会見で「辺野古移設を粛々と進めたい」と意に介さない態度をとった。
なぜだろうか?
選挙を振り返ってみる。
元郵政民営化担当相の下地幹郎氏(53)、元参院議員の喜納昌吉氏(66)と、翁長氏の新人3氏が、現職の仲井真氏に挑んだ。
事実上、翁長氏と仲井真氏の一騎打ちとなった。
仲井真氏の失点が翁長氏の圧勝を生み出したことは間違いない。
民主党政権下で実施された4年前の知事選で、仲井真氏は普天間の「県外移設」を掲げて2期目の当選を果たした。
その後も「辺野古移設は事実上困難」「普天間の危険性除去には県外へ移した方が早い」などと県内移設を「否定」する発言を続けてきた。
ところが昨年3月に沖縄防衛局が公有水面埋立法に基づく辺野古沿岸の埋め立て承認申請書を県に提出した頃から変化が訪れる。
仲井真氏は昨年8月に菅官房長官と名護市内のホテルで密談。その後の展開を、県内では「菅官房長官が描いたシナリオを仲井真氏が演じた」と言われた。
仲井真氏の外堀を埋めたのは自民党の県関係国会議員5人。
昨年11月、党本部で当時の石破茂幹事長と会談、「辺野古を含むあらゆる可能性を排除しない」と確認し、辺野古移設に回帰した。
12月に入って仲井真氏は体調不良を理由に東京の病院に入院。沖縄に戻った直後の昨年12月27日、辺野古移設につながる埋め立てを承認した。
「法の基準に適合した」と、承認せざるを得ない条件が整っていたと強調した。
実はその2日前、都内で安倍晋三首相と会い、沖縄振興予算を確保するという約束を取り付けていた。
記者団に囲まれた仲井真氏は「いい正月を迎えられる」と喜びの表情を浮かべた。
県内では「金と引き換えに基地の受け入れを認める印象を日米両政府や国民に与えてしまった」と批判が飛び交った。
「県民を裏切った」という逆風を仲井真氏はもろに受けた。
そして、1年後の知事選までにはねのけることができなかった。
翁長氏は演説などで、仲井真氏の「いい正月」発言を批判した。
同氏は「辺野古移設反対」の一点で、保革の枠組を超えた結集を呼び掛けた。
「基地関連所得は沖縄経済全体の5%に過ぎない」と具体的なデータを示し、「基地は沖縄経済の阻害要因」と踏み込んだ。
翁長氏は「イデオロギーよりアイデンティティー」を訴えた。「自分は保守だが、保守は保守でも『沖縄の保守』だ」とも。
沖縄の保守勢力の本質
沖縄の全県選挙は、米軍施政権のもとに自分たちの代表を自分たちで選ぶ初めての機会となった1968年の主席公選以来、1972年の沖縄返還以降も、保守と革新の対立が続いてきた。
革新は日米安保体制での基地負担を否定し、即時閉鎖を求めた。
保守はどうか。1970~80年代の保守全盛の沖縄で政治、経済をけん引した元副知事の座喜味彪好(ざきみ・たけよし)さん(88)は「沖縄の保守は自分たちから基地を受け入れたことは一度もない」という。
日米安保に理解を示すが、沖縄の過重負担は認めない。
政府にかみついても「革新よりマシ」という距離感を保ってきた。
座喜味さんが象徴的な出来事を教えてくれた。
沖縄の保守の代表格、西銘順治氏が1962年、40歳で那覇市長になった。
革新の代表格だった2代前の市長、瀬長亀次郎氏が米軍に徹底的に抵抗し、被選挙権を剥奪された時代だ。
西銘氏は市街地にあった米軍住宅の金網をブルドーザーで破った。
金網があることで市民が遠回りしなければならなかったからだ。
米軍に了承どころか、通告さえしなかった。
米軍司令官は西銘氏の考えを理解し、金網を開け、基地内の道路使用を許可した。
座喜味さんは「理不尽なことは許さない。権力とけんかしてでも県民のために働く。それが沖縄の保守だ。辺野古移設も、西銘さんだったら許さない」と語る。
国土面積の0.6%にすぎない沖縄に全国の米軍専用施設面積の74%が集中する現状で、耐用年数200年とされる辺野古の新基地を造らせるわけにはいかない。
戦後70年近く苦しめられ、さらに子や孫、ひ孫にまで基地被害を引き継ぐことはできないからだ。
「法の基準に適合した」と埋め立て承認にハンコを押した仲井真氏。
中央に従順に見える姿勢は、県民の利益のためには時の政権ともぶつかり合う「沖縄の保守」の理想とは、離れていったのではないか。
苦しい決断に変わりないが、座喜味さんを含め、これまでの保守層の一部は翁長氏に流れた。
「イデオロギーよりアイデンティティー」というのは、沖縄の尊厳、誇りを守るために「これ以上は受け入れられない」という県民の“せめてもの願い”に通じる。
翁長氏は、従来の革新のように全基地の即時撤去を求めたわけではない。
沖縄全体の米軍基地面積ではたった2%の普天間飛行場を一日も早く返還するとともに、今後も長く居座る辺野古の新基地を建設するのは止めてほしいと訴えているのだ。
それが選挙での大差につながった。
私は翌朝の沖縄タイムスで、「政府の辺野古移設は完全に行き詰まった」と書いた。それが、民主主義の当然の姿と信じているからだ。
しかし、政府が移設作業を止める気配はない。
県民の“せめてもの願い”さえ、簡単にはかなえられそうにない。
翁長氏当選で問題が解決するわけではない。
そのことは翁長氏自身もよく知っている。19日の当選証書を受け取った後のあいさつでは、支持者を前に喜ぶ姿はなく、「茨の道を歩む」と厳しい表情を浮かべた。
なぜ政府が辺野古を諦められないのか
日米安保条約では、日本が基地を提供し、米国が日本防衛の義務を負うことを定めている。
日本が決めた場所を米国が「そこは嫌」と言えば日米関係は同盟ではなく、軍事植民地になってしまう。
基地の場所を選ぶのは日本政府なのだ。
普天間の移設先を「辺野古が唯一」とする政府の主張は、他の移設先を探し、迷走し、政権を去った鳩山由紀夫元首相のように、政治的リスクを負いたくないからだ。
県外移設を口外すれば、候補地から反対され、再び混乱を招くので、もともとある沖縄に閉じ込めておこうという考えが根底にありそうだ。
海兵隊の役割や任務を分析すれば、沖縄の海兵隊が沖縄以外に駐留しても「抑止力」が低下することはない。
政府が沖縄に海兵隊を置く根拠とする「抑止力」や「地理的優位性」という理論は破綻していると言われ続けてきた。
実際、防衛問題に詳しい森本敏氏が民主党政権の防衛相だった時に、普天間飛行場の移設先は「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と述べたのは有名な話だ。
では、なぜ政府が辺野古を諦められないのか。
普天間飛行場の移設計画は、名護市辺野古に1950年代に建設された「キャンプ・シュワブ」と呼ばれる米軍基地の沿岸160ヘクタールを埋め立て、V字形に2本の滑走路を持つ飛行場を造る内容だ。
そこに普天間の海兵隊ヘリコプター部隊を移駐し、普天間を閉鎖、返還する。

名護市辺野古沿岸の一部を埋め立て、V字形滑走路を建設する政府計画のイメージ図
普天間の滑走路は1本だ。
それなのに、移設先の滑走路は1800mが2本。成田空港のように並行ではなく、V字形に伸びる。そこには、政府の「その場しのぎの策」が凝縮されている。
2005~06年にかけた米軍再編で、移設場所をめぐり、日米で綱引きを展開した。
米国は、埋め立て面積の大きい案を主張。一方の防衛省は環境保全の観点などから埋め立て面積の小さい案を模索した。
当時の島袋吉和名護市長は、集落への影響が少ない米国案に賛同した。そこで出てきたのがV字形滑走路だ。航空機は風向きによって離発着の方向を決める。
角度の違う2本の滑走路があることで、どの風向きでも集落上空を通らずに離発着することが可能になる。防衛省案が採用された。
政府側から見れば「地元の要望に寄り添った形」だ。しかし、滑走路1本に比べ、埋め立て面積は増え、当初の環境保全の観点とは整合性がとれない。
V字形には軍事的合理性もまったく見受けられない。沖縄から見れば、最初から辺野古ありきで議論したため、島袋市長が地元住民に説明できるよう配慮した「苦肉の策」にしか映らなかった。
V字形で基本合意した島袋氏は2010年の市長選で移設反対の稲嶺市長に敗れた。
知事選では仲井真氏が06年に現行案に反対、沖合移動を求めて初当選。10年は「県外移設」を掲げて再選した。
市長選、知事選を通して、現行のV字形滑走路の案を容認して当選した人はいない。
政府は、辺野古移設反対の知事誕生に「何を今さら」と思うだろう。環境影響評価(アセスメント)など移設関連ですでに400億円を支出している。
後に引けない状況で、躍起というより意固地になっている。
今年8月に始まった辺野古の海上作業で、政府は反対運動を遠ざけるため、事前に立ち入り禁止の海域を広げた。
その上、海上保安庁が海を、県警が陸を厳重に警戒する中で、民間業者が守られるように作業に入った。
政府は「県民の頭ごなしに進めない」と繰り返してきたが、反対運動を警察力で排除する現場の風景は「頭ごなし」以外の何物でもない。

辺野古移設に抗議するため、カヌーに乗って抗議する市民とゴムボート上からにらみ合う海保職員、2014年8月18日午前10時ごろ Photo:沖縄タイムス
そこまでしなければ前に進まないのは、「その場しのぎ」を積み重ねたことで、ひずみが大きくなったからではないだろうか。
「その場しのぎ」の対応について、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)などを務めた柳沢協二氏に話を聞いたことがある。「官僚は2~3年で担当が代わる。地元の言っていることが正しくて、自分たちのやっていることがおかしいと感じても、政府方針に従って与えられた仕事をこなすことを考える」。
強まる「差別的感情」
翁長新知事の誕生で、沖縄では保守対革新の構図を塗り替え、沖縄対政府の闘いが始まるとささやかれている。
翁長氏は辺野古移設をストップさせ、さらに普天間飛行場の危険性を除去するという目標の達成を迫られる。米国にワシントン駐在員を配置する方針を示し、日本政府だけではなく、米国政府とも難交渉に臨む構えだ。
知事選翌日の地方紙の社説では、地方の民意を政府は受け止めよ、という主張が目に付いた。
見出しだけでも「辺野古移設は中止を」(信濃毎日)、「辺野古案拒む固い決意」(北海道)、「政府は重く受け止めよ」(中国)、「新基地拒否の重い選択」(東京)、「重い『移設ノー』の民意」(京都)。
しかし、その先の議論がなかなか出てこない。
総論賛成各論反対や「NIMBY」(ノット・イン・マイ・バック・ヤード)では、沖縄への押しつけが続く。
日本の安全保障は日本全体の問題と捉え、全国的な議論を巻き起こす必要がある。
「沖縄対日本」と聞き、思い出した資料がある。
1945年の沖縄戦が始まる前、1944年11月15日に米海軍省が出版した「琉球列島に関する民事ハンドブック」。
軍の指揮官向けに沖縄の歴史や慣習、社会組織などを詳細にひもとく内容だ。米国が沖縄の軍事占領を念頭に置いた基礎的資料として作ったとも言われている。
その中で、日本人と琉球島民との民族的立場に触れた記述がある。
「島民は日本人から民族的に平等だとは見なされていない。
琉球人の粗野な振る舞いから日本人は『田舎から出てきた貧乏な親せき』として扱い、いろいろな方法で差別している。一方で島民は劣等感を持っていない。むしろ島の伝統に誇りを持っている。
琉球人と日本人との関係に固有の性質は潜在的な不和の種であり、政治的に利用出来る要素を作ることができるかもしれない」
要するに、沖縄と日本の立場や考え方の違いは政治的に利用できるというのだ。
沖縄では政府の度重なる理不尽な扱いに対し、「差別的感情」が強まっている。
同じ日本に暮らしながら、なぜ沖縄だけに全国の74%もの米軍基地が集中するのか。
憲法、法律、制度、そのどれにも違反していないというなら、沖縄に対する差別としか言いようがない。
今後、アイデンティティーの発露は、「沖縄と日本」の対立へと向かいかねない。
その中で翁長氏が、初っぱなから悪戦苦闘することは容易に予想できる。
ただ、その様子を上から見て笑うことは、もはや許されない。
沖縄が怒っているからだけではない。
この国の民主主義のあり方と、政府の考える日米安保のありようが問われている。

11月18日に安倍首相が消費再増税の先送りと衆議院の解散・総選挙を表明してから、世の関心は一気にそちらに移ったようにも見える。
だが、その2日前に行なわれた沖縄知事選では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する新知事が誕生した。
今回の総選挙は、アベノミクスという経済政策ばかりでなく、沖縄の民意にどう応じるのか、安倍政権が考える民主主義もまた問われてしかるべきである。
「イデオロギーよりアイデンティティー」の勝利
11月16日投開票の沖縄県知事選挙で、前那覇市長の翁長雄志(おなが・たけし)氏(64)が36万820票を獲得し、初当選を果たした。
政府の推進する米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設が最大の争点で、移設に反対する翁長氏が政府の全面支援を受けた現職の仲井真弘多(なかいま・ひろかず)氏(75)=自民、次世代推薦=を9万9744票という大差で破った。
4人が立候補する中で、翁長氏の得票率は50%を超えた。
1月の名護市長選挙で移設に断固反対を続ける稲嶺進氏が再選を果たしている。移設先の名護市長と知事の2人が、選挙で鮮明に反対を打ち出し、「辺野古ノー」の民意を得たことになる。
それでも菅義偉(すが・よしひで)官房長官は翌17日の記者会見で「辺野古移設を粛々と進めたい」と意に介さない態度をとった。
なぜだろうか?
選挙を振り返ってみる。
元郵政民営化担当相の下地幹郎氏(53)、元参院議員の喜納昌吉氏(66)と、翁長氏の新人3氏が、現職の仲井真氏に挑んだ。
事実上、翁長氏と仲井真氏の一騎打ちとなった。
仲井真氏の失点が翁長氏の圧勝を生み出したことは間違いない。
民主党政権下で実施された4年前の知事選で、仲井真氏は普天間の「県外移設」を掲げて2期目の当選を果たした。
その後も「辺野古移設は事実上困難」「普天間の危険性除去には県外へ移した方が早い」などと県内移設を「否定」する発言を続けてきた。
ところが昨年3月に沖縄防衛局が公有水面埋立法に基づく辺野古沿岸の埋め立て承認申請書を県に提出した頃から変化が訪れる。
仲井真氏は昨年8月に菅官房長官と名護市内のホテルで密談。その後の展開を、県内では「菅官房長官が描いたシナリオを仲井真氏が演じた」と言われた。
仲井真氏の外堀を埋めたのは自民党の県関係国会議員5人。
昨年11月、党本部で当時の石破茂幹事長と会談、「辺野古を含むあらゆる可能性を排除しない」と確認し、辺野古移設に回帰した。
12月に入って仲井真氏は体調不良を理由に東京の病院に入院。沖縄に戻った直後の昨年12月27日、辺野古移設につながる埋め立てを承認した。
「法の基準に適合した」と、承認せざるを得ない条件が整っていたと強調した。
実はその2日前、都内で安倍晋三首相と会い、沖縄振興予算を確保するという約束を取り付けていた。
記者団に囲まれた仲井真氏は「いい正月を迎えられる」と喜びの表情を浮かべた。
県内では「金と引き換えに基地の受け入れを認める印象を日米両政府や国民に与えてしまった」と批判が飛び交った。
「県民を裏切った」という逆風を仲井真氏はもろに受けた。
そして、1年後の知事選までにはねのけることができなかった。
翁長氏は演説などで、仲井真氏の「いい正月」発言を批判した。
同氏は「辺野古移設反対」の一点で、保革の枠組を超えた結集を呼び掛けた。
「基地関連所得は沖縄経済全体の5%に過ぎない」と具体的なデータを示し、「基地は沖縄経済の阻害要因」と踏み込んだ。
翁長氏は「イデオロギーよりアイデンティティー」を訴えた。「自分は保守だが、保守は保守でも『沖縄の保守』だ」とも。
沖縄の保守勢力の本質
沖縄の全県選挙は、米軍施政権のもとに自分たちの代表を自分たちで選ぶ初めての機会となった1968年の主席公選以来、1972年の沖縄返還以降も、保守と革新の対立が続いてきた。
革新は日米安保体制での基地負担を否定し、即時閉鎖を求めた。
保守はどうか。1970~80年代の保守全盛の沖縄で政治、経済をけん引した元副知事の座喜味彪好(ざきみ・たけよし)さん(88)は「沖縄の保守は自分たちから基地を受け入れたことは一度もない」という。
日米安保に理解を示すが、沖縄の過重負担は認めない。
政府にかみついても「革新よりマシ」という距離感を保ってきた。
座喜味さんが象徴的な出来事を教えてくれた。
沖縄の保守の代表格、西銘順治氏が1962年、40歳で那覇市長になった。
革新の代表格だった2代前の市長、瀬長亀次郎氏が米軍に徹底的に抵抗し、被選挙権を剥奪された時代だ。
西銘氏は市街地にあった米軍住宅の金網をブルドーザーで破った。
金網があることで市民が遠回りしなければならなかったからだ。
米軍に了承どころか、通告さえしなかった。
米軍司令官は西銘氏の考えを理解し、金網を開け、基地内の道路使用を許可した。
座喜味さんは「理不尽なことは許さない。権力とけんかしてでも県民のために働く。それが沖縄の保守だ。辺野古移設も、西銘さんだったら許さない」と語る。
国土面積の0.6%にすぎない沖縄に全国の米軍専用施設面積の74%が集中する現状で、耐用年数200年とされる辺野古の新基地を造らせるわけにはいかない。
戦後70年近く苦しめられ、さらに子や孫、ひ孫にまで基地被害を引き継ぐことはできないからだ。
「法の基準に適合した」と埋め立て承認にハンコを押した仲井真氏。
中央に従順に見える姿勢は、県民の利益のためには時の政権ともぶつかり合う「沖縄の保守」の理想とは、離れていったのではないか。
苦しい決断に変わりないが、座喜味さんを含め、これまでの保守層の一部は翁長氏に流れた。
「イデオロギーよりアイデンティティー」というのは、沖縄の尊厳、誇りを守るために「これ以上は受け入れられない」という県民の“せめてもの願い”に通じる。
翁長氏は、従来の革新のように全基地の即時撤去を求めたわけではない。
沖縄全体の米軍基地面積ではたった2%の普天間飛行場を一日も早く返還するとともに、今後も長く居座る辺野古の新基地を建設するのは止めてほしいと訴えているのだ。
それが選挙での大差につながった。
私は翌朝の沖縄タイムスで、「政府の辺野古移設は完全に行き詰まった」と書いた。それが、民主主義の当然の姿と信じているからだ。
しかし、政府が移設作業を止める気配はない。
県民の“せめてもの願い”さえ、簡単にはかなえられそうにない。
翁長氏当選で問題が解決するわけではない。
そのことは翁長氏自身もよく知っている。19日の当選証書を受け取った後のあいさつでは、支持者を前に喜ぶ姿はなく、「茨の道を歩む」と厳しい表情を浮かべた。
なぜ政府が辺野古を諦められないのか
日米安保条約では、日本が基地を提供し、米国が日本防衛の義務を負うことを定めている。
日本が決めた場所を米国が「そこは嫌」と言えば日米関係は同盟ではなく、軍事植民地になってしまう。
基地の場所を選ぶのは日本政府なのだ。
普天間の移設先を「辺野古が唯一」とする政府の主張は、他の移設先を探し、迷走し、政権を去った鳩山由紀夫元首相のように、政治的リスクを負いたくないからだ。
県外移設を口外すれば、候補地から反対され、再び混乱を招くので、もともとある沖縄に閉じ込めておこうという考えが根底にありそうだ。
海兵隊の役割や任務を分析すれば、沖縄の海兵隊が沖縄以外に駐留しても「抑止力」が低下することはない。
政府が沖縄に海兵隊を置く根拠とする「抑止力」や「地理的優位性」という理論は破綻していると言われ続けてきた。
実際、防衛問題に詳しい森本敏氏が民主党政権の防衛相だった時に、普天間飛行場の移設先は「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と述べたのは有名な話だ。
では、なぜ政府が辺野古を諦められないのか。
普天間飛行場の移設計画は、名護市辺野古に1950年代に建設された「キャンプ・シュワブ」と呼ばれる米軍基地の沿岸160ヘクタールを埋め立て、V字形に2本の滑走路を持つ飛行場を造る内容だ。
そこに普天間の海兵隊ヘリコプター部隊を移駐し、普天間を閉鎖、返還する。

名護市辺野古沿岸の一部を埋め立て、V字形滑走路を建設する政府計画のイメージ図
普天間の滑走路は1本だ。
それなのに、移設先の滑走路は1800mが2本。成田空港のように並行ではなく、V字形に伸びる。そこには、政府の「その場しのぎの策」が凝縮されている。
2005~06年にかけた米軍再編で、移設場所をめぐり、日米で綱引きを展開した。
米国は、埋め立て面積の大きい案を主張。一方の防衛省は環境保全の観点などから埋め立て面積の小さい案を模索した。
当時の島袋吉和名護市長は、集落への影響が少ない米国案に賛同した。そこで出てきたのがV字形滑走路だ。航空機は風向きによって離発着の方向を決める。
角度の違う2本の滑走路があることで、どの風向きでも集落上空を通らずに離発着することが可能になる。防衛省案が採用された。
政府側から見れば「地元の要望に寄り添った形」だ。しかし、滑走路1本に比べ、埋め立て面積は増え、当初の環境保全の観点とは整合性がとれない。
V字形には軍事的合理性もまったく見受けられない。沖縄から見れば、最初から辺野古ありきで議論したため、島袋市長が地元住民に説明できるよう配慮した「苦肉の策」にしか映らなかった。
V字形で基本合意した島袋氏は2010年の市長選で移設反対の稲嶺市長に敗れた。
知事選では仲井真氏が06年に現行案に反対、沖合移動を求めて初当選。10年は「県外移設」を掲げて再選した。
市長選、知事選を通して、現行のV字形滑走路の案を容認して当選した人はいない。
政府は、辺野古移設反対の知事誕生に「何を今さら」と思うだろう。環境影響評価(アセスメント)など移設関連ですでに400億円を支出している。
後に引けない状況で、躍起というより意固地になっている。
今年8月に始まった辺野古の海上作業で、政府は反対運動を遠ざけるため、事前に立ち入り禁止の海域を広げた。
その上、海上保安庁が海を、県警が陸を厳重に警戒する中で、民間業者が守られるように作業に入った。
政府は「県民の頭ごなしに進めない」と繰り返してきたが、反対運動を警察力で排除する現場の風景は「頭ごなし」以外の何物でもない。

辺野古移設に抗議するため、カヌーに乗って抗議する市民とゴムボート上からにらみ合う海保職員、2014年8月18日午前10時ごろ Photo:沖縄タイムス
そこまでしなければ前に進まないのは、「その場しのぎ」を積み重ねたことで、ひずみが大きくなったからではないだろうか。
「その場しのぎ」の対応について、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)などを務めた柳沢協二氏に話を聞いたことがある。「官僚は2~3年で担当が代わる。地元の言っていることが正しくて、自分たちのやっていることがおかしいと感じても、政府方針に従って与えられた仕事をこなすことを考える」。
強まる「差別的感情」
翁長新知事の誕生で、沖縄では保守対革新の構図を塗り替え、沖縄対政府の闘いが始まるとささやかれている。
翁長氏は辺野古移設をストップさせ、さらに普天間飛行場の危険性を除去するという目標の達成を迫られる。米国にワシントン駐在員を配置する方針を示し、日本政府だけではなく、米国政府とも難交渉に臨む構えだ。
知事選翌日の地方紙の社説では、地方の民意を政府は受け止めよ、という主張が目に付いた。
見出しだけでも「辺野古移設は中止を」(信濃毎日)、「辺野古案拒む固い決意」(北海道)、「政府は重く受け止めよ」(中国)、「新基地拒否の重い選択」(東京)、「重い『移設ノー』の民意」(京都)。
しかし、その先の議論がなかなか出てこない。
総論賛成各論反対や「NIMBY」(ノット・イン・マイ・バック・ヤード)では、沖縄への押しつけが続く。
日本の安全保障は日本全体の問題と捉え、全国的な議論を巻き起こす必要がある。
「沖縄対日本」と聞き、思い出した資料がある。
1945年の沖縄戦が始まる前、1944年11月15日に米海軍省が出版した「琉球列島に関する民事ハンドブック」。
軍の指揮官向けに沖縄の歴史や慣習、社会組織などを詳細にひもとく内容だ。米国が沖縄の軍事占領を念頭に置いた基礎的資料として作ったとも言われている。
その中で、日本人と琉球島民との民族的立場に触れた記述がある。
「島民は日本人から民族的に平等だとは見なされていない。
琉球人の粗野な振る舞いから日本人は『田舎から出てきた貧乏な親せき』として扱い、いろいろな方法で差別している。一方で島民は劣等感を持っていない。むしろ島の伝統に誇りを持っている。
琉球人と日本人との関係に固有の性質は潜在的な不和の種であり、政治的に利用出来る要素を作ることができるかもしれない」
要するに、沖縄と日本の立場や考え方の違いは政治的に利用できるというのだ。
沖縄では政府の度重なる理不尽な扱いに対し、「差別的感情」が強まっている。
同じ日本に暮らしながら、なぜ沖縄だけに全国の74%もの米軍基地が集中するのか。
憲法、法律、制度、そのどれにも違反していないというなら、沖縄に対する差別としか言いようがない。
今後、アイデンティティーの発露は、「沖縄と日本」の対立へと向かいかねない。
その中で翁長氏が、初っぱなから悪戦苦闘することは容易に予想できる。
ただ、その様子を上から見て笑うことは、もはや許されない。
沖縄が怒っているからだけではない。
この国の民主主義のあり方と、政府の考える日米安保のありようが問われている。
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