焼き場に立つ少年
2014-08-14
焼き場に立つ少年 8/12 「生き生き箕面通信」氏から
有名な写真だから、すでに多くの方が目にされたことと思います。しかし、敗戦の日を明後日にひかえたいま、もう一度、この写真が伝えるものに思いをいたしたいと思います。
1945年、長崎の爆心地付近の、多くの死体焼却をしていた「焼き場」で、ジョー・オダネルという報道写真家が撮影した「焼き場に立つ少年」です。

インターネットにアップされた写真には、こんな文が添えられていました。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。 しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました」
(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
ーーーーーーーーーーーーーーー
※
既に亡くなっているが、背中におぶった命のために頑張っている少年。
撮影者はその気迫を感じたのでしょう。
この少年が、その後も生き延びていることを願います。
その可能性は少ないでしょうが。
現実を直視しようではありませんか。
今も、パレスチナで、ウクライナ東部で、イラク、シリアで、アフリカの貧困地帯で、この同じ少年が大勢いるということ。
そのことを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。
また、この少年を生み出す戦争が今も次々と作り出されて、その戦争に加担できるようにというのが日米軍事同盟「集団的自衛権」であることも現実である。
戦後69年間、日本は戦争をしない、平和な国だった。
「「平和な日本好きだった」集団自衛権に抗議の焼身自殺未遂男性」。
戦争の現実は人命の生死、子どもや幼子の生死をかけるもの。
軍備、戦力、参戦とはこうした少年を大量に生み出し、命と生活を奪うものです。
決して、この現実を離れた武器オタクとか空論とか、見世物などで話しネタにするものではありません。
「ガザ空爆を見世物として楽しむ人々」
焼き場に立つ少年。
人それぞれが、この少年に思うことは、様々でしょう。
大切なことは人それぞれが、感じて、思い、考えることと思います。
「長崎「平和の誓い」城臺氏」を読み返してほしい。
決して忘れないこと、力の続く限り伝えてゆくことが、戦争反対、原発反対であり、それこそが平和の誓いに他ならない。
有名な写真だから、すでに多くの方が目にされたことと思います。しかし、敗戦の日を明後日にひかえたいま、もう一度、この写真が伝えるものに思いをいたしたいと思います。
1945年、長崎の爆心地付近の、多くの死体焼却をしていた「焼き場」で、ジョー・オダネルという報道写真家が撮影した「焼き場に立つ少年」です。

インターネットにアップされた写真には、こんな文が添えられていました。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。 しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました」
(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
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※
既に亡くなっているが、背中におぶった命のために頑張っている少年。
撮影者はその気迫を感じたのでしょう。
この少年が、その後も生き延びていることを願います。
その可能性は少ないでしょうが。
現実を直視しようではありませんか。
今も、パレスチナで、ウクライナ東部で、イラク、シリアで、アフリカの貧困地帯で、この同じ少年が大勢いるということ。
そのことを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。
また、この少年を生み出す戦争が今も次々と作り出されて、その戦争に加担できるようにというのが日米軍事同盟「集団的自衛権」であることも現実である。
戦後69年間、日本は戦争をしない、平和な国だった。
「「平和な日本好きだった」集団自衛権に抗議の焼身自殺未遂男性」。
戦争の現実は人命の生死、子どもや幼子の生死をかけるもの。
軍備、戦力、参戦とはこうした少年を大量に生み出し、命と生活を奪うものです。
決して、この現実を離れた武器オタクとか空論とか、見世物などで話しネタにするものではありません。
「ガザ空爆を見世物として楽しむ人々」
焼き場に立つ少年。
人それぞれが、この少年に思うことは、様々でしょう。
大切なことは人それぞれが、感じて、思い、考えることと思います。
「長崎「平和の誓い」城臺氏」を読み返してほしい。
決して忘れないこと、力の続く限り伝えてゆくことが、戦争反対、原発反対であり、それこそが平和の誓いに他ならない。
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