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日航123便の(御巣鷹山)墜落 今も強まる疑惑

   日本航空123便の墜落事故 29年目の真実  8/12  闇株新聞

 乗員乗客520名が犠牲になられた日本航空123便の墜落事故から、本日(8月12日)でちょうど29年が経過しました。

飛行経路

 1985年8月12日の18時12分に羽田空港を飛び立った日本航空・伊丹空港行きジャンボジェット機は、18時24分に相模湾上空で突然に垂直尾翼が吹き飛び、その衝撃ですべての油圧系統が破損して操縦不可能となりました。機長らの必死の努力も実らず123便は18時54分に群馬県の御巣鷹山に激突し、生存者はわずか4名でした。

 改めて考えても「絶対におかしい」と思うところがいくつかあります。

 まず運輸省航空事故調査委員会は、機体後部にある圧力隔壁が金属疲労による亀裂で強度が低下し、機内の圧力に耐え切れなくなって損壊したため機内の空気が機体後部に急激に流れ、その衝撃で垂直尾翼を損壊させたと結論づけています。

 さらに事故機が1987年に「しりもち事故」を起こした際に、ボーイング社の圧力隔壁の修理が不十分だったとも付け加えています。

 つまり事故機の機内がまるで高圧ボンベのように機体後部を破壊し(つまり穴をあけて)垂直尾翼を吹き飛ばしたことになります。いくら圧力隔壁に亀裂が入っていたとしても「大変に不自然」です。

 だいたいその時点で事故機は24000フィート(7200メートル)まで上昇しており、機体後部に穴があけば機内は急激な減圧と酸素不足に見舞われます。
 しかし生存者(スチュワーデス)の証言では機内で普通に呼吸ができた
そうです。

 つまり垂直尾翼は、機内の圧力ではなく、機外からの何かしらの作用によって吹き飛んだことになります。一般的には「何かがぶつかった」とか「何かに攻撃された」といいます。

 この運輸省事故調査委員会は、2000年8月に一部の(たぶん重要な)調査資料を廃棄していたことが明らかになりますが、同じ頃に事故機のコクピット・ボイスレコーダーがマスコミに流出し、一斉にテレビ放映されました。

 記憶にある方も多いと思いますが、これは事故調査員会が「情報開示」したものではありません。「隠し損なった」ものですが、改竄あるいは重要な部分が抜き取られている可能性もあります。

 このボイスレコーダーを新たに最新技術で分析し、特に(圧力隔壁が機体後部に穴をあけて垂直尾翼を吹き飛ばしたとされる)爆発音の謎に迫る特別番組が、本日(8月12日)18時30分~20時54分にフジテレビでオンエアされます。

 すんなりとオンエアされるようなので「衝撃の事実」は出てこないと思いますが、真剣にみるつもりです。

 さて事故機が墜落したのが8月12日の18時54分ですが、その墜落機体が「発見」されたのは何と翌13日の4時30分、救助隊が事故現場に到着して救助活動が開始されたのが8時半とされています。

 もしそうだとすれば墜落機体の「発見」まで9時間半、救助活動の開始まで13時間半もかかっています。いくら事故現場が険しい山中だったとしても信じられない鷹揚さで、少なくとも「生存者の発見・救出が最優先ではなかった」と考えざるを得ません。

 しかし実際には墜落からわずか20分後の19時15分に、米空軍の輸送機が山中で大きな火災を発見したと航空自衛隊に通報しており、20時42分には航空自衛隊・百里基地から飛び立ったヘリコプターが現場上空に到着していました。

 生存者も、夜間に何機ものヘリコプターが上空を飛びまわっており、墜落直後は「かなりの生存者」が救助を待っていたと証言しています。
 当時の装備でも隊員が夜間に降下することは十分可能だったはずで、じゃあ「人命救助そっちのけで何をしていた?」となります。

 この辺りは情報が錯綜しており数多くの陰謀論が出てくるのですが、そこは控えます。

 しかし考えれば考えるほど「腑に落ちないところ」が出てくるので、改めて記録を丹念に読み返してみようと思います。また書く機会があると思います。

 遅ればせながらですが、犠牲となられた520名の方々のご冥福をお祈りいたします。
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(闇株新聞氏による翌日のコメント。)

 昨日付け「日本航空123便の墜落事故 29年目の真実」でご紹介したフジテレビの特集をみましたが、肝心の最初の爆発音は圧力隔壁・垂直尾翼・機体最後部の順番に損壊した音であると、見事に運輸省事故調査委員会の「結論」を裏付けてしまいました。

 それだったら機内は急激な減圧と酸素不足に襲われるはずですが、全くそのような状況ではなかったことを同時に放映しており、まあ「これがオンエアを認められた理由か」と納得してしまいました。

 それでも収穫が1つだけありました。
 生存された4名の方はすべて機体後部に座っておられたのですが、墜落の衝撃で機体後部が千切れて斜面を300メートルも滑り落ちていたことがわかりました。
 つまり全員が亡くなられた機体の主要部分の墜落現場から「離れていて見えないところ」だったのです。

 なぜこれが重要なのかは、また解説するときが来ると思います。
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到着 直後は生存

   遺族会 8・12連絡会 運輸安全委員会への質問内容   「日本航空123便の墜落事故を検証する」
2010年12月6日

御巣鷹山の事故の疑問

1、急減圧について

否定する部分については「その理由を明らかにできなかった」とある。

急減圧このことに対して、生存していた4人の方たちからの立証は全く得ら れていない

② 逆にスチュワーデスの落合由美さんからは、「ドーンとした後、白い煙が出 たがすぐに消えた」とあり、隔壁破壊による急減圧状態であれば客室内にもの すごい突風が流れ、気温が急激に氷点下何十度と寒くなるが、落合さんは、そ の様な現象はないと証言している。

③ 日航一二三便の操縦室では、当然異常事態であれば酸素マスクをして操縦し ます。そうでなければ体に急減圧による異変が起きて安全な操縦が出来ないか ら。
しかし、酸素マスクを付けていない。事故報告書は「運航乗務員は最後ま で酸素マスクを着用しなかったものと推定されるが、その理由を明らかにでき なかった」としている。

④ 運航乗務員は異常事態発生後緊急降下に入ることなく、20,000 フィート以上 の高度で激しいフゴイド運動、ダッチロール運動を行いながら18 分間飛行した、 この間運航乗務員が緊急降下の意向を示しているのに緊急降下をしなかったが、 その理由を明らかにできなかった。と報告書にある。

⑤ 警報音について
18時24分37秒にCVR に記録されているといわれる「警報音」はDFDR の記 録だけでは離陸警報か客室減圧警報かは判定がつかない。事故調の推定通りに、 この1秒の警報音が客室の減圧のものであったとするとなぜ1秒間だけで停止 したのか
その後約27 秒間停止再び25 分04秒から鳴りだしたのはなぜ?
事 故報告書では、「その理由を明らかにすることはできなかった」としている。
客室減圧警報ではなく、車輪の異常による、離陸警報音ではなかったのか?

⑥ ボーイング社から五名、アメリカの国家安全運輸委員会から二名、連邦航空 局から二名と連邦航空局の日本駐在官一名の計十名の調査団が来日し、八月十 四日に御巣鷹山に入った。
その後、ボーイング社は、墜落から二十六日後の九 月六日にニューヨークタイムズ紙上で、「ボーイング七四七型機の設計自体に は問題はない。事故機は、修理ミスが原因で墜落した」と発表しました。
日本 の事故調査委員会は、このアメリカの主張に大きく引きずられる形で、事故原 因を「修理ミスによる隔壁破壊説」の決着になったといえないか。

2、海底捜索について

海底捜査のプロセスはわかったが、なぜ20日だけだったのか
専門家は少な くとも1年がかりででも見つけないと見つからないといっている。当時の予算 の都合か、見つからなくても、捜査に問題ないという考えか。
最初の事故が起った地点は、相模湾上空
一番大事な相模湾の海底調査をおざ なりにしては本当の事故の原因はわからないのではないでしょうか
その時刻には、相模湾上では、ミサイル自衛艦「まつゆき」が演習していたと いうことも詳しく知りたい
海底捜索をした際のベタスキャンの生画像が運輸安全委員会保存されています か?
保存されているなら一度みせていただきたい。
17箇所特定の妥当性ないしは、今後の再捜査のかぎがあるかもしれません。

3、救難救助の遅れについて

報告書では、捜索・救難活動について、墜落地点は山岳地域であり、夜間の捜 索ということで機体の発見と墜落地点の確認に時間を要したのはやむを得ない と考えられるとしている。

米軍ヘリのパイロットが後で証言していることですが、「十二日の二十時五十 分には、米軍のヘリが墜落現場上空にいた。煙があがるところより少し離れた ところにロープで降下しようとしたが、日本の自衛隊が行くからと横田基地よ り中止命令が出された」と。

しかし、日本の自衛隊の幹部はテレビの取材に対 して、十二日夜に墜落現場に降下するのは自殺行為だと云った。
また、当日の 最初の現場降下は、十三日午前七時四十五分とある。日の出の数時間後です。
何故もっと早く救助できなかったのかと思う。
遺体を検死した医師たちも、もっと救助が迅速ならばもっと助かっていただろ うと語っている。

また、地元の消防隊や猟友会、地元住民は、墜落現場はスゲノ沢だと言っているのに機動隊や自衛隊、警察等は、「現場は御座山だ、小倉山だ」と言って、案内を頼んだ地元の人の言うことを聞かずに、関係のない方向に案内させられたとも聞いた。

また、四人以外にも生存者がいたのなら夜中でも十分救出に行けたという地元の人の談話もある。
墜落地点の確認に時間を要した理由を伺いたい

4、死因の詳細な記述と生存の可能性についての記述がない

墜落の次の日の十三日に四人の生存者が助けられたが、特に生存者の内の川上 慶子さんは、「朝迄お父さんと妹の咲子さんは生きていて言葉を交わしていた」 と証言している。
しかし、その証言は事故報告書にはない

座席前部、中部は全員即死またはほぼ即死に近い状態とある。
また、後部座席 は致命的な傷害を受けたものと考えられると報告書にあるが、その生存の可能 性についての記述がない。
どうしてですか。


5、事故報告書に対し、前橋検察庁の検事正は、日米間の政治的決着を示唆す る発言をしているが、そのことについてどう考えているか教えてください。

6、各方面から疑問とされている事故調が行った急減圧の実験を公開で行って 欲しいと思います

25年たっても、事務局には、原因についての情報提供などが今だにくる。
遺 族も報告書の結論に納得いかず、個々にあげたような疑問点が残る。
更に、疑 問が深まり、広がる可能性もあり、この状態は今後も続くと考える。
そこで、 説明責任を果たすという決意表明もされているこことをうけ、海底捜 索の状況だけでなく、こうした多くの疑問について、

① 当時の状況がわかるなら当時の状況を
② 今後何か出来ることがあるならその可能性について ③ 国が行う再調査の可能性について
ぜひ見解を聞かせてください。

事故原因への疑問・質問にお答えいただくことは遺族支援の中でも最も大きな支援と考えています。なにとぞよろしくお願いいたします。

この質問に対する回答が、2011年7月の事故報告書の解説書です。

日本航空123 便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての 解説
(※ ページ数は多いが、結局納得させるものではなかった。)
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7人発見

   生存者の一人・落合由美さんの証言  JAL123便日航機墜落事故の真相  目次の14

 離陸してすぐ、私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。
 私の席の周囲にも、若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。

 そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。
 「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。
 前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。

 音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。
 私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった

 お客様からは、「うわっ」という声がした。女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。
 耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかし、それもすぐに直りました

 「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。
 ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた「56」の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。
 ひっぱると、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。

 ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。
 ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。
 あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。

 しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。
 急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。
 酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが,実際に経験するのは、もちろんこれがはじめてでした。

 やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。
 私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。
 ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。
 その霧のようなものは、数秒で消えました
。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。

 白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。
 匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした。
 はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。
 そのときは、エキストラ・マスクをひっぱって、口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。
 三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。

 このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。
 あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。
 ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。


 きょろきょろしていたとき、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、はずれていることに気がつきました。
 トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。
 壁はちぎれたとか、破壊された、というふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。
 壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。

 そして、壁のはずれた向こう側に、運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。
 ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうには、そういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、ひらひらしていたのです。

 そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいた、ということはありませんでした。
 もひとつ、私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。
 壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く、何も見えませんでした。
 ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。

 このときにはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなかったのかもしれません。
 でも、とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えていません。
 いつ点灯したのか気付きませんでしたが、「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、記憶にありません。ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが、気がつきませんでした。

 こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
 「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。
 このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。

 ダッチロールという言葉は、知りませんでした。
 飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。
 急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません


 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。
 お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。

 そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。
 全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。

 ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。
 その指示がどこからきたのか、わかりません。
 ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は、乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の場合は、それはありませんでした。
 ライフ・ベストをつけるように、という指示は、機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、スチュワーデスが着用して、このようにつけるんです、と教えながら、座席をまわることになっています。
 今度も、そうしていました。

 前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で、座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,救命胴衣をつけてください、と言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。
 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました

 しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。
 私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性のたちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。
 お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

 私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えて、Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。
 ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。
 私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は、前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。

 しかし、このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。
 激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱって、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。
 まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません

 救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。
 こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。
 ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。
 ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも、「ふくらませないで!」と叫びました

 機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて、固まるようになりました。
 私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されました。
「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」。聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも、男の人がいろいろ質問していました。

 スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。
そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います
 ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。
 子供の声が聞こえました。「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした
 声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした

 全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。
 救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが、「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。
 それと、「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。
 救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
 そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした。

 私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。
 「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。
 全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。
 こういうときは、「・・・してください」とは言いません。

 お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。

 安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して、私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってください」と。
 Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
 このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。
 富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

 頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、ピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
 船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした
 前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。

 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです
 頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。

 怖いです。怖かったです。
 思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った
 まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。
 いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつつ”けるしかけるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。
 「パーン」から墜落まで、32分間だったといいます。
 でも、長い時間でした。何時間にも感じる長さです。
 羽田にもどります、というアナウンスがないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。
 でも、なかった。

 衝撃がありました。
 衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。
 回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。
 衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。
 その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。

 固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。
 衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。
 目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。
 大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした

 すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。

 体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。
 目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。
 失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。
 灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います

 呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。
 死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。

 ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。

 墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。
 ひとりではなく、何人もの息遣いです。
 そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです
 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました

 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました
 どのくらい時間がたったのか、わかりません。
 すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。
 左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。
 すでに息はしていません。冷たくなっていました

 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。
 右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。
 頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。
 それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。
 冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

 どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。
 あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。
まだ何人もの息遣いです


 それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。
 寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。
 私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。
 突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました
 しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。

 私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。
 私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。
吐いたりもしませんでした。

 やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです
 これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。
 「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
 このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。
 しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした


 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。
 私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。
 父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。
 母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。
 それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。
 時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

 涙は出ません。全然流しませんでした。
 墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。

 気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。
 まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました
 でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「
 はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。


 あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います

 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。
 はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。
 でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。

 すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。
 だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。
 私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました
 そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。
 どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。


 体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。
 カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。
 応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

 目を開けたら、病院でした
 お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。
 でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。

 家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。
 現実感がなかなかとりもどせないのです。
 たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。
全部女の人ばかり」
と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。

 天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。
 私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。

 救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。
  (吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)
   落合由美さんは日本航空の客室乗務員。当日は非番で123便に乗り合せていました
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