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軍事同盟の危険など、大戦の教訓:田岡

西部戦線

   開戦100年!第1次世界大戦の教訓  8/7 田岡俊次 ダイヤモンド・オンライン

 今年は第1次世界大戦が始まって、ちょうど100年に当たる。8月はまさに戦火が欧州に拡がった月だ。
 大戦の直接の引き金は、1914年6月にボスニアの州都サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたことだが、わずか1週間で世界大戦に発展したのはなぜか。
 その過程と、それ以前の戦争に比べてケタ違いの死傷者を生み出した背景を探ることで、現代への教訓を考えてみる。

  世界史の転換点

 1914年8月は第1次世界大戦の戦火が欧州に拡がった月である。その100周年に当たって欧州各国では記念行事が盛大に行われる一方、甚大な惨禍を招いたこの戦争の原因などについて論議が再燃している
 日本も日英同盟を理由に参戦したが、中国・山東半島のドイツ租借地だった青島の要塞を2週間で攻略し、青島を脱出してインド洋で通商破壊を行っていた軽巡洋艦「エムデン」を追いかけ、地中海での輸送船護衛に巡洋艦2隻、駆逐艦12隻を派遣しただけで、人的損害は死者350人、負傷者900人程度だったから、日本では第1次世界大戦はほぼ忘れられている

 だがこの戦争はドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアの4ヵ国(動員兵力2285万人)に対し、ロシア、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、日本、ルーマニア、セルビア、ベルギー、ギリシャ、ポルトガル、モンテネグロの12ヵ国(動員兵力4219万人)が戦い、軍人の死者853万人、負傷者2119万人、民間人の死者775万人、計3747万人もの死傷者が出た大戦争だった。
 その結果ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国が崩壊し、戦勝国の主役だったイギリス、フランスも大打撃を受け、ヨーロッパの衰退をもたらして世界史の転換点となった。

 1918年11月11日にドイツは力尽きて降伏し、翌1919年6月パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で講和条約が調印されたが、そのとき連合軍総司令官のフランスのフェルナンド・フォッシュ元帥は「これは平和条約ではない。20年間の休戦だ」と予言した。
 その通り1939年に第2次世界大戦が勃発した。
 日本とイタリアがドイツ側に回ったが、他の敵味方の配役は第1次世界大戦とほぼ同じで、休憩時間を挟んだサッカーの前半、後半に似て一連の「世界大戦」だったから、第2次世界大戦で惨敗した日本にも、第1次世界大戦は大きな影響を与えた、と言えよう。

  交差点で急停車したところに刺客

大戦前

 この戦争の直接原因は1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国(以下オーストリアとする)皇太子フランツ・フェルディナンド大公(52)とその妃ゾフィー(43)がボスニアの州都サラエボでボスニア人青年ガブリロ・プリンチップ(19)に拳銃で射殺された事件だ。
 バルカン半島は1520年代から約300年オスマン・トルコ帝国の版図だったが、トルコの衰退に乗じてギリシャが1829年に独立し、セルビアも反乱、内戦ののち1878年に欧州諸国のベルリン会議で独立が認められた。

 だが、バルカン諸国の独立の背後には何度もトルコと戦い、圧迫して南下政策を進めたロシアがいた。
 バルカン半島の民族の多くはスラブ系で、宗教もロシアと同じキリスト正教だから好都合だった。
 もしセルビアがアドリア海の沿岸部も領有すればロシアが地中海に進出する、と案じた欧州諸国は海に面したボスニア、ヘルツゴビナの2州を名目上トルコ領として残し、当時欧州有数の大国で、ボスニアの北のクロアチアを領有していたオーストリアが占領し行政権を握る、と決めた

 ロシアと共にトルコと戦い独立を勝ち取ったセルビア人は同じ民族のボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアが支配し、セルビアは内陸に封じ込まれたことに不満で、ボスニアなどの民衆にも不穏な動きが拡がった。
 オーストリアはそれを抑え込もうとし、1905年に日露戦争でロシアが大敗し弱まったのを機に、1908年ボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合する強硬策に出た。
 このためセルビアとボスニアなどでは反オーストリアの民族主義運動が一層激化し、それに対してオーストリア軍は威嚇のため1914年6月にボスニアで大演習を行い、その視察に皇太子夫妻が出向いたのだから危険極まる無謀な行動だった。

 暗殺の日にはサラエボに7人の刺客が待ち構え、1人が皇太子の車に爆弾を投げ、後続の車の下で爆発、12人が負傷した。
 このためコースを変更したが先導車の運転手に伝わっておらず、元のコースを走ろうとした。
 皇太子の車に同乗していたボスニア総督が「道が違う」と曲がるよう指示したため、交差点で急停車したところ、丁度その街角にプリンチップが立っていて至近距離からブローニング拳銃で2発を発射、2人を殺した。
 当時の情勢から考え、この偶然がなければ第1次世界大戦は起きなかった公算もかなりあったから、これは最悪の結果を招いたテロ事件だった。

  複雑な同盟網を伝わって世界大戦に

 この事件はオーストリア領のボスニアでボスニア人が起こしたものだが、オーストリアはプリンチップらがセルビア民族主義団体「黒手組」の支援を受けていたことから、「セルビアの陰謀」と決めつけた
 「黒手組」が一部のセルビア軍将校の影響下にあったのは確かなようだが、この右翼団体はクーデターを企てたこともあり、セルビア政府はこれを監視対象にしており、事件の調査に当ったオーストリア外交官はセルビア政府の関与を示す証拠はないことを認めていた
 だがオーストリアはセルビアに対して、反オーストリア運動の禁止や、暗殺に関与した者の処罰、裁判にオーストリア政府代表を加えること、など受諾不可能な要求を突き付け、セルビアが「外国政府代表の裁判への参加は法的に無理」と拒否すると7月28日、史上初めて電報で宣戦布告をして侵攻した。

 当時のオーストリア帝国は人口5300万人、東欧南部を支配する大国で、人口450万人の小国セルビアを侮り、懲罰のつもりで攻め込んだが、それ以前のバルカン戦争などで歴戦のセルビア軍は意外に強く、当初攻め込んだオーストリア軍は撃退された
 オーストリアが侵攻すると、セルビアの後ろ盾だったロシアは2日後の7月30日に動員令を出して予備役を招集、オーストリアの背後を突く構えを示して、オーストリアを牽制した。
 これに対しオーストリアと同盟関係にあったドイツは8月2日にロシアに、3日にはロシアの同盟国フランスに宣戦を布告、フランスと協商(やや柔軟な同盟)関係にあったイギリスも、ドイツ軍が中立国ベルギーを通ってフランスに侵攻しようとしたため、4日にドイツに宣戦を布告した。

 日本の新聞は当初「墺塞(オーストリア、セルビア)戦争」と報じたが、戦火は当時の欧州に張り巡らされていた複雑な同盟網を伝わってたちまち延焼し、1週間で「欧州大戦」に発展した。
 イギリスと同盟関係にあった日本も8月23日に宣戦を布告、10月29日にはトルコがロシア領クリミアを砲撃して参戦イタリアは元々は独、墺と3国同盟を結んでいたがオーストリアと領土問題で対立していたから、1915年5月23日に英、仏側に付いて参戦アメリカはドイツの無制限潜水艦戦で商船の被害が続発したため1917年4月6日に参戦し「世界大戦」に拡大した。

  技術進歩に疎かった将軍たち

 欧州ではナポレオン戦争が1815年に終って以後、第1次世界大戦が1914年に始るまで約100年間大戦争は起こらず、大国間では1870~71年のプロシア対フランスの普仏戦争から第1次大戦までの43年は全く戦争が無かったため、軍人も政治家も外交官も戦争の悲惨さや結果の重大性について実感が薄れ「クリスマスまでには勝って帰れる」などと軽々しく考えがちだったことが指摘されている。

 特に1870年から1910年頃までの約40年間は「第二次産業革命」により重化学工業が飛躍的に発達した時期だった。
 世界の鉄鋼生産は1870年の年間100万tから1900年には3300万tに急増し、発電機、電灯、電気モーター、電話、無線通信、内燃機関、自動車、飛行機、化学肥料や合成繊維、合成染料、アルミニウム、鉄筋コンクリート、木材パルプ、輪転式印刷機、写真フィルムなど、今日の我々を取り巻く機械文明の要素の大半はこの時代に誕生した。
 それ以前からあった鉄道、汽船なども工業生産力の拡大で爆発的に普及し、世界の鉄道は1869年の20万kmから1900年には92万kmに増大し、船舶も鋼鉄製が普通となった。
 工場の機械化、自動化が進み、大量生産が可能となったのもこの40年間だった。

 この技術の進歩と工業力の拡大は当然兵器の開発、生産に直結し連発小銃、機関銃、1分間に最大20発を発射できる速射砲、破壊力の大きい重砲などが作られ、軍の火力は飛躍的に増大した。
 見落とされがちだが1886年にフランスで発明され、英、独などで改良された無煙火薬の意味は大きい。
 それ以前の黒色火薬だと白煙が噴出して視界をさえぎるため、風が強くないと連続射撃は困難だったが、無煙火薬が実用化して機関銃や連発小銃、速射砲が真価を発揮するようになった。

 だがヨーロッパの大国間では、丁度その40年間戦争が無かったため、軍人、特に将軍たちは技術の進歩と工業生産力の急増で戦場が「殺人工場」と化したことへの認識が乏しく、ナポレオン戦争時とあまり変わらない戦法と「攻撃精神」に頼っていた。
 開戦後2年経った1916年6月から11月の第1次ソンム会戦でも、なお英軍は観兵式のように各人の間隔1ヤード(約91cm)の横隊で整列し、30kg以上の背のうを背負ってドイツ軍の陣地に向って前進した
 (※ クラウゼヴィッツのいう横隊突撃であるが、これは大革命によるフランス国民軍が王政軍の貴族騎兵と傭兵隊を圧倒したことからの教訓である。時代はそれから100年を経ていた。)
 (ドイツ軍の)機関銃、速射砲の絶好の標的となり、7月1日の総攻撃初日だけで死傷者6万人(うち死者1.9万人)を出し、11月13日の攻撃中止までに英軍に42万人、仏軍に19.5万人、独軍に60万人の死者が出たが、英仏軍は戦線を13km前進させただけにすぎなかった。

 第1次世界大戦の10年前、日露戦争では砲兵火力が戦闘の主体となり、砲弾の消費が途方もなく増えたこと、陣地防御での機関銃の威力が大きいこと、騎兵の乗馬戦闘は不可能に近いこと、などが観戦武官の報告で欧州に伝わっていたが、欧州列強の将軍たちは「アジアでの特異な例」と軽視しがちで、第1次世界大戦が始まって砲弾の欠乏に悩んだ。
 英陸軍大臣のホレイショ・キッチナー元帥は「機関銃は歩兵1個大隊(約1000人)に4丁で十分」と主張し、挙国一致内閣で軍需相となったデビッド・ロイドジョージ(自由党員、左派弁護士出身)が秘書官に「陸軍省に行って議論し、彼らの言う最大の数を聞いてくれ。それを2乗して2倍し、余力があればさらに2倍すれば足りるだろう」と言ったが、それが的中、この戦争末期には1個大隊に43丁が標準となった。

 頭の固さは英海軍も同様で、海上交通路を確保する戦略として大西洋に「航路帯」を設定し、哨戒していたが効果は乏しく、1917年4月にはUボートによる英国商船の喪失が月87.5万tに達し、英国では「あと2ヵ月で食糧が尽き、降伏するしかない」との論が出ていた。
 首相となっていたロイドジョージは海軍首脳部の猛反対を押し切り、商船に船団を組ませ、その周囲を護衛用の艦艇で守る「船団護衛方式」を採用させたところ、防御密度が格段に高まるため損害は劇的に低下し英国は敗戦を免れた。
 この他にも英陸軍は、機関銃火を冒して敵陣地を突破できる「戦車」の提案に対しても「空想科学小説」と冷淡で、海軍大臣だったウインストン・チャーチルが海軍予算で「陸上軍艦」と称して試作させた、など当時の軍人の保守性と無能を示した例は数多い。

 一方、ドイツ軍人はフランス軍、ロシア軍の能力を過小評価し、まずドイツ軍兵力の8分の7を西部戦線に投入し、ベルギー領を突破して西側からフランスを席巻、6週間で降伏させたのち、東に向かってロシア軍を制圧する、という1905年にアルフレッド・フォン・シュリーフェン参謀総長が立てた作戦計画を元に、若干変更した戦略で戦争を始めた。
 だがドイツからベルギーを横切りパリまでは約500kmもある。自動車が少ない時代に徒歩で一気にその距離を突進する計画には元々無理があり、ベルギー軍が鉄道を破壊したこともあって補給が苦しく、パリの北東約50kmでマルヌ川を渡った時にはドイツ将兵の疲労困憊は極に達していた。
 フランス軍はここで反撃に転じたため、ドイツ軍は約50kmも退却、塹壕を掘って陣地を守る態勢になり、短期決戦は幻となった

  新聞の煽情と政治家の迎合

一次大戦

 こうした失策が双方で相次ぎ、毎日数千人の死傷者が出たのだから、フランス首相のジョルジュ・クレマンソーが「戦争は将軍達に任せるにはあまりにも重大な問題だ」と言ったのは無理もない。

 だが公平に考えれば、開戦に至る経緯でも、戦争中でも、戦後処理でも、政治家の判断ミスの例もまた多い。
 戦争が人も財力も工業力も、国力のすべてを注ぎ込む「総力戦」となったため、国民に犠牲を強いる必要上「正義と悪の戦い」として戦意を煽らざるをえず、それ以前の戦争のように巧みなかけ引きで停戦することは困難となった
 明敏なロイドジョージすら「カイザー(ドイツ皇帝)を吊るせ」と叫んでいた。講和条約でも英、仏が「戦争責任は全てドイツ側にあった」として莫大な賠償を課し、ドイツ人の怨恨を残したことは、20年後のヒトラーの台頭を招く一因となった。

 第1次世界大戦前、ドイツ製品の最大の輸出先はイギリスで、イギリスの最大の投資先は工業の拡大で資金需要が多かったドイツだった。
 このため両国間には相互依存関係が確立していたから「英独が戦争をすれば共に大損害を被る。戦争はあるまい」との見方が経済人の間には多かった。
 またイギリスは20世紀初頭まではフランス、ロシアを仮想敵視し、ドイツとは友好関係にあったから、英独の貴族階級は複雑な姻戚関係で結ばれ、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はイギリスの故ヴィクトリア女王の孫だった。
 両国の政体はともに貴族主体の立憲君主制で、白人の優越を信じ植民地支配を是認する価値観も同じだった。

 だがドイツ工業の進展でイギリスは経済的優位を失いつつあり、ドイツが1890年の「艦隊法」、1900年の「第2次艦隊法」で、戦艦38隻、巡洋艦58隻などを建造して大海軍を作ろうとし、英国民に警戒心が拡がっていったことが戦争の遠因だった。
 また木材パルプから紙を大量生産する技術が開発されて紙が安くなり、庶民も新聞を買えるようになり、西欧では義務教育が拡がって新聞を読める程度の人口が急増した。
 だが、大衆は海外情勢をよく知らないから感情的な強硬論に傾きがちで、新聞は発行部数を競って愛国心を煽り、選挙権の拡大で政治家もそれに迎合することになったことが、20世紀を戦争の世紀にした原因の1つ、とも言われる。

  同盟のリスクにも目配りを

 第1次世界大戦が終わって冷静さを取り戻した英国では、軍人の死者90.8万人、負傷者209万人、民間人死者(商船員、爆撃など)3万人を出し、戦時中に乱発した国債の償還に歳入の半分を費やす程の財政危機に陥り、アメリカの台頭で国際的地位も低下したため「バルカン半島でのオーストリアとセルビアの戦争に参戦する必要があったのか」との議論も起こった。
 同盟政策(集団的自衛)は平時には抑止効果がある半面、一部で戦争が始まると同盟網が導火線となり延焼して大火災になる危険性があることを身に沁みて認識した欧州では、戦争を非合法化し、それを破る国には国際的組織で制裁を加えようという「集団的安全保障論」が流行し、米国のウッドロウ・ウィルソン大統領が唱えた国際連盟が1920年1月に生まれた。

 だが米国上院の反対で米国自身が加盟できず、敗戦国ドイツも革命後のソ連も当初入らなかったし、1935年エチオピアを征服したイタリアへの経済制裁は効果が無く、日本、ドイツ、イタリア、ソ連、中南米諸国の脱退が相次ぎ、第2次世界大戦への流れを阻止できなかった。
 第2次世界大戦後に作られた国際連合は戦勝国の米、英、仏、ソ連(現ロシア)、中国に拒否権を与え、各国が同盟を結ぶ「集団的自衛権」を認めているから、第1次世界大戦の反省から生じた国際連盟の理想主義とは全く異なるものと言えよう。

 日本では同盟関係の強化が自国の安全に繋がることを、疑いの余地のない原理のように考えている人が多いが、第1次世界大戦はそれとは逆の例だ
 「かつては日米安保条約で戦争に巻き込まれる、と言う人も少なくなかったが、日本は平和を保ちえたではないか」との説も有力だが、1962年10月の「キューバ・ミサイル危機」で米国はソ連の弾道ミサイルのキューバへの配備を阻止するためキューバに対して海上封鎖を行い、米国は核戦争を覚悟して日本の米軍基地も「「デフコン2」(第2防衛態勢、5段階の上から2番目の臨戦態勢)を取り、水爆を搭載したB52爆撃機が発進、ソ連に近い公空で待機したり、弾道ミサイル「ポラリス」搭載の原潜や、地上発射の弾道ミサイルも発射準備に入った

 ソ連のニキータ・フルシチョフ首相が、米国は再びキューバに侵攻しない(1961年4月に侵攻して失敗、再攻撃を準備していた)ことなどを条件に、キューバに配備していた弾道ミサイルを撤去したため全面核戦争は避けられたが、もし衝突となれば米、ソで各1億人、欧州で数百万人の死者が予測され、多分日本でも米軍基地数ヵ所が核攻撃を受けて10万人以上の死者が出てもおかしくない状況だった。

 また米国は1980年代、NATO正面での数的劣勢を補うため、もし欧州で戦争になれば、米側が優勢な極東で攻撃に出て、ソ連の戦力をできるだけ東に割かせる「水平エスカレーション」を公言していた。
 日本は西欧諸国を救うため、ソ連の戦力を吸収する役回りになる形だった。
 日米共同作戦計画の作成過程でそれを知った自衛隊の将官が「我々は日本が攻撃された際、米軍が来援してくれることばかり考えていたが、実は、米軍はこちらに戦争を波及させようと考えている」と私に話したこともあった。

 こうした状況を思い出せば、「安保条約があったから日本は安全だった」と言うのは「飲酒運転をしても無事に家に着いたではないか」と言うに近いと感じざるをえない。

 第1次世界大戦から100年の今年は、同時にスイス、スウェーデンがナポレオン戦争末期の1814年以後欧州の2度の大戦の中でも、簡単に制圧されない軍事力を備えると同時に、たくみな外交で中立を保って戦火を免れた200周年でもある。
 今日の日本にとって対米関係は大事だから俄かに日米同盟を解消するのは危険だが、第1次世界大戦が示した同盟の危険性にも目配りをする必要があると考える。
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