中国の日本兵と銃後の日本人、闇と光
2014-02-16
私が子供のころに、また職場の先輩から直接聞いた話。
「満州に行って先に入っていた友人と同行して人力車に乗った。到着して人力車を降りた。車夫はお金をもらうために手を出した。友人は車夫の顔に往復ビンタを張って、近くの警察に引き渡した(日本の警察は街中にいっぱいいた)。車夫がどうなったかはわからない。」
「どん底の貧しさになった満州の村にチブス、ペストが発見される。石井部隊の指令で村は焼き払われる。住民は寒さのなかで死んでいったと思う(伝染病菌を石井部隊が散布し、その始末として軍警に村を焼き払わせていた)。」
「自分の父が戦争で中国に行った時の話だ。小屋の穴に隠れていた娘さんを、皆で剣付き鉄砲で突いてひきづり出した、そして中尉殿に献上した。と聞いた。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国で見た日本の軍人 2/15 小澤俊夫 リベラル21
ぼくは小学校入学の一年前、1936年(昭和11年)、父の仕事の都合で瀋陽(当時の奉天)から北京に移住し、翌年、北京の日本人小学校に入学した。
その頃、北京在住の日本人は約700人といわれていた。
ところが1937年(昭和12年)7月に、いわゆる盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発して、日本軍が北京周辺を制圧すると、日本の軍人、民間人が瞬く間に増えていった。ぼくが一年生の時には1クラスだったが、二年生の時には2クラスになっていた。
日本軍が制圧した北京市だから、日本人は威張っていた。
あるとき、ぼくの目の前で洋車(ヤンチョウ。人力車)がとまり、日本の兵隊が降りてきた、と思ったらそのまま歩いて行ってしまった。料金を払っていないのである。
あれっ、と思って見ていると、洋車引きが追いかけていって、手を出した。
すると、兵隊は腰のサーベルを半分くらいさっと抜いて洋車引きをにらみつけた。洋車引きはあとずさりして、何か叫びながら逃げてきた。
兵隊はサーベルを鞘に収めると、そのまま行ってしまった。
ぼくは子どもながらに、これはおかしいと思った。
料金を踏み倒して、サーベルを抜いて脅かすとは何事か、とぼくは腹を立てた。日本の兵隊のいやな面を見てしまった思いで、今でも忘れられないでいる。
北京には日本軍の野戦病院が開かれた。それは中国で最も権威有る大学とされていた清華大学だった。
清華大学は現在でも中国の中心的な大学である。それを占領して野戦病院にしたのであった。
日本で言えば、東京大学を占領して野戦病院にしたようなものである。
中国の文化人たちは、「なんと野蛮なことだ」と思ったことだろう。
小学三年と四年の頃、ぼくはよく、クラスの友だちと、あるいは母に連れられて、傷病兵の慰問に行った。
地雷で片脚を失った兵隊、目をつぶされた兵隊、片腕をもぎ取られた兵隊など、胸がふさがるような病室だった。
兵隊たちはぼくら子どもが慰問にいくと、とても喜んで、ぼくらの周りを取り囲んでいろいろな話をしてくれた。
ほとんどは戦場での手柄話だった。
進軍していって、途中の畑で人が働いていると、それが老婆であれ、子どもであれ、必ず射殺したものだ、何故なら、その老婆が、われわれのことを通報する可能性があるからだ、という兵隊もいた。
敵に自分たちの行動を知られたくないためだという。
その兵隊は、手柄話として得意になって話したのだが、ぼくは、子どもながらに、おばあさんや子どもまで射殺するとは、ひどいことだと思った。
でも兵隊にしてみれば、スパイを働く人間としか見えないのだろう。
もっとすごいことを、得意になって話す兵隊がいた。
抵抗分子が潜んでいるとみて、ある村に進軍した。
ところが撃ってこない。どこかに潜んでいるに違いないが、村を捜索してもそれらしき男はいない。
そこで、村人全員に食料を配給するという知らせを回した。
そして、集まってきた村人を一軒の農家に入れて、農家に火をつけた。農民は大混乱におちいったが、外へ脱出した者は機関銃で皆殺しにした。
この話は怖かった。
でも、兵隊は手柄なのだから、得意になって話した。周りの兵隊たちも満足そうに聞いていた。
ぼくはこどもだったけれど、後で思った。これは人殺しじゃないか。
戦争でなかったら明らかに犯罪だ、と戦争への疑問が生まれた経験だった。
南京攻略の時のことを話してくれた兵隊がいた。南京城をめぐる攻防は激しく、なかなか埓があかなかった。そこで最後には毒ガス攻撃をしたと、得意げに話した。
毒ガスは国際的に使用禁止になっていることは知っていたので、ぼくは驚いた。
だが兵隊たちは、当たり前のように話していた。
また、しまいには膨大な数の投降兵がでたので、奴らに溝を掘らせ、その前に一列に並ばせておいて、機関銃で1遍に片付けたもんだ、と言った兵隊もいた。
これは具体的に場面を想像してみると、すさまじい場面である。後に、南京大虐殺として国際的に糾弾された事件だったのだと思う。
こういう話を、みんな手柄話として、得意満面で話して聞かせるのであった。
ぼくらはこわごわ聞いた。
それでも、後から、「これは普通の時ならば犯罪じゃないか。戦争だからいいのかなあ?」という疑問はいつも抱いていた。
(※ もうすぐ北風:当時日本軍の方面軍指令は、南京突入による混戦虐殺などの事態を考慮して、中国軍が城市を離れるまで軍は近郊にとどまれ。と言う指令であった。
ところが皇族の「朝香宮」は「お上(総和天皇)の声だ、生きてるものは皆殺せ!」と南京突入を指令し、大虐殺を実行した。
この「朝香宮」は軍規違反に問われず、国際法違反も問われず、東京裁判にも問われなかった。昭和天皇と同じなことは言うまでもない。)
1941年(昭和16年)5月、ぼくたち家族は日本へ引き揚げ、東京府の立川市にすむことになった。
その頃、戦地に対して国内のことを「銃後」と呼んでいた。明らかに軍国主義国家の生んだ呼び方である。
戦地から銃後に移住してくると、男たちが次々に召集されていく場面をたびたび見ることになった。
父が、夫が、息子が赤紙で召集されていった。
家庭では、赤い召集令状が来ると、涙をこらえて別れをし、国防婦人会のたすきを掛けた婦人たちに見送られて入隊していった。
近所の住民たちは、弾丸除けの千人針を作って召集兵に贈り、武運長久を祈った。立川駅では町会や隣組の人たちが万歳三唱して召集兵を見送った。
「軍国の母は泣かない」と常日頃いいきかせられているので、母や妻たちは涙を見せず、立派に見送っていた。
残された家庭では、慰問袋を作って、戦地にいる父、夫、息子に送った。
そこには心を込めた品々が入れられた。皆、戦場の父は、夫は、息子は皇軍兵士として立派に行動しているものと信じていたのである。
ところがぼくは、戦地での日本兵を知っていたので、そこに大きな差があることに気がついた。
銃後では愛する父であり、夫であり、息子である者が、戦地では老婆でも子どもでも無差別に射殺する鬼のような日本兵になる事実。
村人たちを一軒の農家に閉じ込め、火をつけて皆殺しにする日本兵になる事実。
多数の捕虜を並ばせておいて、機関銃でなぎ倒す日本兵になる事実。
この大いなる乖離は、銃後にいる人は全く知らない。
愛する、優しい父、夫、息子が立派な殊勲を立てて帰国する日を、ひたすら待ちわびているのである。
一人一人の人間の、この大きな分裂を銃後の人は知らない。戦地から来る知らせは、せいぜい父が、夫が、息子が戦死したという悲しい知らせである。
敗戦後の日本人は忘れてしまっている。
無事帰還した兵隊は、家族には何も話さなかった。
そのことは、多くの婦人たちが証言している。
帰還した元日本兵にしてみれば、平和になった故郷で、家族に話せるような体験ではなかったのだ。
逆に、外国、特に直接の被害を受けたアジアの人は、、優しい父、夫、息子という日本人は知らない。
彼らにとって日本人は、残虐行為をした人間そのものなのである。
その認識に基づいて、日本人の犯罪行為の追及が行われる。
ところが、日本人にとっての日本兵は、やさしい父、夫、息子なのである。
われわれ日本人は、あの戦争のことを考えるとき、目線の方向によって日本人像がまったく異なることを忘れてはならない。
つまり、銃後の、そして戦後の日本国内での日本人像を描きながら戦争を論じたら、世界的には全く通じないのである。
あの戦争は、動機はいろいろあったにせよ、アジアへの侵略戦争であった。そしてその中で残虐行為があった。
無関係な女性を引っ張り回して慰安婦とした事実もあった。
銃後の人は知らなくとも、アジアの人は知っていた。そして、日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたのである。
つまり全体主義をやめ、民主主義国家の仲間に入れてもらうことを約束したのである。
だから、全体主義時代に犯した罪を償うのは当然のことである。
それをちゃんとしてこないで、なんとなく賠償して、これですんだ、としてしまっても、外国は了承してくれない。
今日本はそういう状態に陥ってしまっている。
一言で言えば、政治家たちは歴史から学ばず、銃後の目で見ているだけなのである。
そして、敗戦は終戦になっているから、全体主義は継続して生きているのである。
その「日本を取り戻す」ためには官僚機構が強くならなければならない。
そこで「特定秘密保護法」が必要なのである。
戦争中の「銃後」の世界と戦地での日本兵の世界の乖離を、遅まきながら、しっかり把握して政治を行わなければ、日本は国際社会から置いてきぼりにされてしまうのである。(2014/01/28)
「満州に行って先に入っていた友人と同行して人力車に乗った。到着して人力車を降りた。車夫はお金をもらうために手を出した。友人は車夫の顔に往復ビンタを張って、近くの警察に引き渡した(日本の警察は街中にいっぱいいた)。車夫がどうなったかはわからない。」
「どん底の貧しさになった満州の村にチブス、ペストが発見される。石井部隊の指令で村は焼き払われる。住民は寒さのなかで死んでいったと思う(伝染病菌を石井部隊が散布し、その始末として軍警に村を焼き払わせていた)。」
「自分の父が戦争で中国に行った時の話だ。小屋の穴に隠れていた娘さんを、皆で剣付き鉄砲で突いてひきづり出した、そして中尉殿に献上した。と聞いた。」
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中国で見た日本の軍人 2/15 小澤俊夫 リベラル21
ぼくは小学校入学の一年前、1936年(昭和11年)、父の仕事の都合で瀋陽(当時の奉天)から北京に移住し、翌年、北京の日本人小学校に入学した。
その頃、北京在住の日本人は約700人といわれていた。
ところが1937年(昭和12年)7月に、いわゆる盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発して、日本軍が北京周辺を制圧すると、日本の軍人、民間人が瞬く間に増えていった。ぼくが一年生の時には1クラスだったが、二年生の時には2クラスになっていた。
日本軍が制圧した北京市だから、日本人は威張っていた。
あるとき、ぼくの目の前で洋車(ヤンチョウ。人力車)がとまり、日本の兵隊が降りてきた、と思ったらそのまま歩いて行ってしまった。料金を払っていないのである。
あれっ、と思って見ていると、洋車引きが追いかけていって、手を出した。
すると、兵隊は腰のサーベルを半分くらいさっと抜いて洋車引きをにらみつけた。洋車引きはあとずさりして、何か叫びながら逃げてきた。
兵隊はサーベルを鞘に収めると、そのまま行ってしまった。
ぼくは子どもながらに、これはおかしいと思った。
料金を踏み倒して、サーベルを抜いて脅かすとは何事か、とぼくは腹を立てた。日本の兵隊のいやな面を見てしまった思いで、今でも忘れられないでいる。
北京には日本軍の野戦病院が開かれた。それは中国で最も権威有る大学とされていた清華大学だった。
清華大学は現在でも中国の中心的な大学である。それを占領して野戦病院にしたのであった。
日本で言えば、東京大学を占領して野戦病院にしたようなものである。
中国の文化人たちは、「なんと野蛮なことだ」と思ったことだろう。
小学三年と四年の頃、ぼくはよく、クラスの友だちと、あるいは母に連れられて、傷病兵の慰問に行った。
地雷で片脚を失った兵隊、目をつぶされた兵隊、片腕をもぎ取られた兵隊など、胸がふさがるような病室だった。
兵隊たちはぼくら子どもが慰問にいくと、とても喜んで、ぼくらの周りを取り囲んでいろいろな話をしてくれた。
ほとんどは戦場での手柄話だった。
進軍していって、途中の畑で人が働いていると、それが老婆であれ、子どもであれ、必ず射殺したものだ、何故なら、その老婆が、われわれのことを通報する可能性があるからだ、という兵隊もいた。
敵に自分たちの行動を知られたくないためだという。
その兵隊は、手柄話として得意になって話したのだが、ぼくは、子どもながらに、おばあさんや子どもまで射殺するとは、ひどいことだと思った。
でも兵隊にしてみれば、スパイを働く人間としか見えないのだろう。
もっとすごいことを、得意になって話す兵隊がいた。
抵抗分子が潜んでいるとみて、ある村に進軍した。
ところが撃ってこない。どこかに潜んでいるに違いないが、村を捜索してもそれらしき男はいない。
そこで、村人全員に食料を配給するという知らせを回した。
そして、集まってきた村人を一軒の農家に入れて、農家に火をつけた。農民は大混乱におちいったが、外へ脱出した者は機関銃で皆殺しにした。
この話は怖かった。
でも、兵隊は手柄なのだから、得意になって話した。周りの兵隊たちも満足そうに聞いていた。
ぼくはこどもだったけれど、後で思った。これは人殺しじゃないか。
戦争でなかったら明らかに犯罪だ、と戦争への疑問が生まれた経験だった。
南京攻略の時のことを話してくれた兵隊がいた。南京城をめぐる攻防は激しく、なかなか埓があかなかった。そこで最後には毒ガス攻撃をしたと、得意げに話した。
毒ガスは国際的に使用禁止になっていることは知っていたので、ぼくは驚いた。
だが兵隊たちは、当たり前のように話していた。
また、しまいには膨大な数の投降兵がでたので、奴らに溝を掘らせ、その前に一列に並ばせておいて、機関銃で1遍に片付けたもんだ、と言った兵隊もいた。
これは具体的に場面を想像してみると、すさまじい場面である。後に、南京大虐殺として国際的に糾弾された事件だったのだと思う。
こういう話を、みんな手柄話として、得意満面で話して聞かせるのであった。
ぼくらはこわごわ聞いた。
それでも、後から、「これは普通の時ならば犯罪じゃないか。戦争だからいいのかなあ?」という疑問はいつも抱いていた。
(※ もうすぐ北風:当時日本軍の方面軍指令は、南京突入による混戦虐殺などの事態を考慮して、中国軍が城市を離れるまで軍は近郊にとどまれ。と言う指令であった。
ところが皇族の「朝香宮」は「お上(総和天皇)の声だ、生きてるものは皆殺せ!」と南京突入を指令し、大虐殺を実行した。
この「朝香宮」は軍規違反に問われず、国際法違反も問われず、東京裁判にも問われなかった。昭和天皇と同じなことは言うまでもない。)
1941年(昭和16年)5月、ぼくたち家族は日本へ引き揚げ、東京府の立川市にすむことになった。
その頃、戦地に対して国内のことを「銃後」と呼んでいた。明らかに軍国主義国家の生んだ呼び方である。
戦地から銃後に移住してくると、男たちが次々に召集されていく場面をたびたび見ることになった。
父が、夫が、息子が赤紙で召集されていった。
家庭では、赤い召集令状が来ると、涙をこらえて別れをし、国防婦人会のたすきを掛けた婦人たちに見送られて入隊していった。
近所の住民たちは、弾丸除けの千人針を作って召集兵に贈り、武運長久を祈った。立川駅では町会や隣組の人たちが万歳三唱して召集兵を見送った。
「軍国の母は泣かない」と常日頃いいきかせられているので、母や妻たちは涙を見せず、立派に見送っていた。
残された家庭では、慰問袋を作って、戦地にいる父、夫、息子に送った。
そこには心を込めた品々が入れられた。皆、戦場の父は、夫は、息子は皇軍兵士として立派に行動しているものと信じていたのである。
ところがぼくは、戦地での日本兵を知っていたので、そこに大きな差があることに気がついた。
銃後では愛する父であり、夫であり、息子である者が、戦地では老婆でも子どもでも無差別に射殺する鬼のような日本兵になる事実。
村人たちを一軒の農家に閉じ込め、火をつけて皆殺しにする日本兵になる事実。
多数の捕虜を並ばせておいて、機関銃でなぎ倒す日本兵になる事実。
この大いなる乖離は、銃後にいる人は全く知らない。
愛する、優しい父、夫、息子が立派な殊勲を立てて帰国する日を、ひたすら待ちわびているのである。
一人一人の人間の、この大きな分裂を銃後の人は知らない。戦地から来る知らせは、せいぜい父が、夫が、息子が戦死したという悲しい知らせである。
敗戦後の日本人は忘れてしまっている。
無事帰還した兵隊は、家族には何も話さなかった。
そのことは、多くの婦人たちが証言している。
帰還した元日本兵にしてみれば、平和になった故郷で、家族に話せるような体験ではなかったのだ。
逆に、外国、特に直接の被害を受けたアジアの人は、、優しい父、夫、息子という日本人は知らない。
彼らにとって日本人は、残虐行為をした人間そのものなのである。
その認識に基づいて、日本人の犯罪行為の追及が行われる。
ところが、日本人にとっての日本兵は、やさしい父、夫、息子なのである。
われわれ日本人は、あの戦争のことを考えるとき、目線の方向によって日本人像がまったく異なることを忘れてはならない。
つまり、銃後の、そして戦後の日本国内での日本人像を描きながら戦争を論じたら、世界的には全く通じないのである。
あの戦争は、動機はいろいろあったにせよ、アジアへの侵略戦争であった。そしてその中で残虐行為があった。
無関係な女性を引っ張り回して慰安婦とした事実もあった。
銃後の人は知らなくとも、アジアの人は知っていた。そして、日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたのである。
つまり全体主義をやめ、民主主義国家の仲間に入れてもらうことを約束したのである。
だから、全体主義時代に犯した罪を償うのは当然のことである。
それをちゃんとしてこないで、なんとなく賠償して、これですんだ、としてしまっても、外国は了承してくれない。
今日本はそういう状態に陥ってしまっている。
一言で言えば、政治家たちは歴史から学ばず、銃後の目で見ているだけなのである。
そして、敗戦は終戦になっているから、全体主義は継続して生きているのである。
その「日本を取り戻す」ためには官僚機構が強くならなければならない。
そこで「特定秘密保護法」が必要なのである。
戦争中の「銃後」の世界と戦地での日本兵の世界の乖離を、遅まきながら、しっかり把握して政治を行わなければ、日本は国際社会から置いてきぼりにされてしまうのである。(2014/01/28)
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コメント
従軍慰安婦問題
戦地には慰安所があり内地には遊郭がある。誰もが自然に考えることです。昭和30年初頭までの売春禁止法の無い時代はどちらも合法です。河野談話に係わった石原信雄氏の元従軍慰安婦に対するヒヤリングに於いても本人の意に反しているが強制連行が立証出来なかった。内地の慰安婦も現在の売春婦も概ね意に反しているが強制連行でない。日本人も台湾人も南洋現地人も係わっているのに韓国だけ騒いでいる。既に賠償問題で解決済みです。親や祖父の世代の出来事を私達に言われたら困る。
Re: 従軍慰安婦問題
> 戦地には慰安所があり内地には遊郭がある。どちらも合法です。
・ 管理売春(強制奴隷売春)が合法だったという地獄の社会ですよ。逃亡したら警察が捕まえて管理者に引き渡し私的に仕置きされるというものですよ。
タコ部屋と同じで殺されるか、病死、餓死です。
大恐慌と凶作のなかで農家は娘を売り、その悲惨な事態に将校たちが怒り反抗したのです。
半島植民地では、これもタコ部屋と同じで強制徴用です。街角を区切って全員捕まえてから選ぶということもやっています。
軍の慰安婦は最もすさまじい虐待と見せしめの殺戮が加えられました。
> 強制連行が立証出来なかった。
・ 政府、軍、市町村役場に至るまで、全国津々浦々で米軍到着までの1週間から2週間、戦争犯罪に結びつく可能性のある書類という書類を完全に焼きつくしたことは周知のことです。
> 韓国だけ騒いでいる。
・ 戦時中軍事施設のあるところには軍事慰安所があり、強制連行と強制奴隷売春に耐えかねた多くの朝鮮人女子が崖から身を投げ、自殺、自害したこと、各地で目撃されて、多くは郷土史料にも書かれているところです。
「騒いでいる」はないでしょう。
> 既に賠償問題で解決済みです。
「金払ったから罪はない」それはないでしょう。
あなたが他人に半殺しのめにあわされて、医療費慰謝料などの賠償金をもらった。
だからといってその相手があなたに「金で解決済みだ」とでかい態度にでたら、あなたは怒り狂いませんか。
刑事罰を求めるでしょう。
そして、事ある度にでかい態度をとるなら、いつかやっつけたいと思うのでは?
そして、できなければ一切の関係を断つことになるでしょう?
> 親や祖父の世代の出来事を私達に言われたら困る。
。 最後はそこに帰着するのですか。
親や祖父の世代のとんでもない行為を、二度と起こさせないようにしなければ。
となぜ、言えないのです。
もう一度いいますが。なぜ、素直に二度と起こさせないようにしなければ、と言えないのですか。
もう一度あっても良いのですか?
鬼畜のような行為が、もう一度あっても自分には関係ないと言うのでしょう。
それを腐敗といい、それこそ「人間のくず」というのですよ。
・ 管理売春(強制奴隷売春)が合法だったという地獄の社会ですよ。逃亡したら警察が捕まえて管理者に引き渡し私的に仕置きされるというものですよ。
タコ部屋と同じで殺されるか、病死、餓死です。
大恐慌と凶作のなかで農家は娘を売り、その悲惨な事態に将校たちが怒り反抗したのです。
半島植民地では、これもタコ部屋と同じで強制徴用です。街角を区切って全員捕まえてから選ぶということもやっています。
軍の慰安婦は最もすさまじい虐待と見せしめの殺戮が加えられました。
> 強制連行が立証出来なかった。
・ 政府、軍、市町村役場に至るまで、全国津々浦々で米軍到着までの1週間から2週間、戦争犯罪に結びつく可能性のある書類という書類を完全に焼きつくしたことは周知のことです。
> 韓国だけ騒いでいる。
・ 戦時中軍事施設のあるところには軍事慰安所があり、強制連行と強制奴隷売春に耐えかねた多くの朝鮮人女子が崖から身を投げ、自殺、自害したこと、各地で目撃されて、多くは郷土史料にも書かれているところです。
「騒いでいる」はないでしょう。
> 既に賠償問題で解決済みです。
「金払ったから罪はない」それはないでしょう。
あなたが他人に半殺しのめにあわされて、医療費慰謝料などの賠償金をもらった。
だからといってその相手があなたに「金で解決済みだ」とでかい態度にでたら、あなたは怒り狂いませんか。
刑事罰を求めるでしょう。
そして、事ある度にでかい態度をとるなら、いつかやっつけたいと思うのでは?
そして、できなければ一切の関係を断つことになるでしょう?
> 親や祖父の世代の出来事を私達に言われたら困る。
。 最後はそこに帰着するのですか。
親や祖父の世代のとんでもない行為を、二度と起こさせないようにしなければ。
となぜ、言えないのです。
もう一度いいますが。なぜ、素直に二度と起こさせないようにしなければ、と言えないのですか。
もう一度あっても良いのですか?
鬼畜のような行為が、もう一度あっても自分には関係ないと言うのでしょう。
それを腐敗といい、それこそ「人間のくず」というのですよ。
すみませんが、南京戦 明日香宮で検索してみたのですが何も出てこないです。出典やサイト名を出して頂けませんか。今回の記事についてですが、もっとはやいうちに、実際に関わった人物、世代がきっちり落とし前をつけるべきことで、何十年も先送りばかりして問題を放置してきたのはいったい誰ですか。金を払えばそれでいいってわけじゃありませんが、はじめから被害者本人に直接補償金その他が届くようにしとけば良かったじゃないですか!それを今も日本は悪くなかったいや悪かったぐにゃぐにゃぐにゃぐにゃいつまでやれば気が済むんです?このリベラル21のおっさんも含めてね。それとも、もうすぐ北風さんは、自分自身がしてもいないことで謝罪しろ反省しろって言われて永遠にそうするんですか?先送りばかりされて押し付けられる側はいい迷惑ですよ。まぁ年金、財政赤字の問題も同根でしょうが、このままだらだら続けるんでしょう。そういえば祖父から聞きましたが、敗戦時満州から脱出して、朝鮮では死ぬほど現地人に叩かれたそうです。本人は、戦争中自分は一人も人を殺さなかった、と言ってましたが。
侵略戦争は国家が民族の衣で多民族を侵略ードイツと同じ、言い訳はできないこと
明日香の宮は正しくは朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕。
南京大虐殺に詳細な将兵の証言、当事者の日記などは幾多の出版物の他に、無料で公開されているものとしては「南京事件資料集」http://www.geocities.jp/kk_nanking/
がある。その中の「虐殺命令」。
第三者の証言としてはその中の「マッカラムの日記」などがある。
また、デビット・バーガミニが天皇と皇族の戦争責任を考証した「天皇の陰謀」翻訳http://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm
の第一部戦争と報復 第1章「南京強奪」に詳しい。
さらに、平和主義の立場から一般将兵、国民の戦争記録を集めた「戦争を語り継ごうーリンク集」http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
がある。
いずれも大部な資料であり、膨大な証言と記録の量は事実を否定しようとするいい加減な態度を許容するようなレベルのものではない。
> 祖父から聞きましたが、敗戦時満州から脱出して、朝鮮では死ぬほど現地人に叩かれたそうです。本人は、戦争中自分は一人も人を殺さなかった、と言ってましたが。
・ あなたの頭のなかには、戦争が国家間の戦争であったこと。民族の衣をまとって遂行されたことがまるで入っていないようですね。
そりゃあ個人間の恨みなら「一人も殺していない」なら、どの程度被害を与えたかによって量刑と賠償が推定されるでしょう。
例えばドイツ人は中世末期から中欧、東欧に進出していました。
第二次大戦がナチスドイツの殲滅によって終了が進むと同時に、戦後現在の国境線の外側に居住するドイツ人はすべての資産を没収され追放されました。
この帰還ドイツ人を保護する組織などがあるわけもありません。
数百年居住していたナチスでもない古くからのドイツ人居住者には不本意なことだったでしょう。
しかし、占領地でナチスの恐怖支配と絶望からやっと解放された現地国民にとっては、ナチスを熱狂して支えたのはあくまでドイツ人全体だったのです。
この「帰還ドイツ人」は300万人くらいのうち200万人くらいが帰還の途中で死んでいます。
この事実は被害国においてはもちろん、ドイツにおいても公には語られない。歴史研究者の内部だけです。
何故なら、このことを語ることはネオナチを利することであり、各国の民族主義を煽り、再び緊張と対立、戦争の欧州へと導きかねないからです。
最も重要な事は、民族主義の衣をまとった国家主義を二度と再び繰り返させないこと。これを前提にしているからです。
日本とアジアの関係。そんなに変わらないのですよ。
> 悪くなかったいや悪かったぐにゃぐにゃぐにゃぐにゃいつまでやれば気が済むんです?
・ ぐずぐずと無能力者のフリをし靖国参拝を批判されながらしてやり過ごすかー外交も経済も世界から弾かれます。世界の鼻つまみ者。
もいちど世界と戦争。ー正真正銘の狂人民族となります。
日本国民自身の手で過去にさかのぼって本当の責任者の始末をつけるかーイタリア国民は南部に米軍上陸後といえ、レジスタンスがムソリーニを捉えて処刑し、ミラノの街頭に吊るしました。だから、イタリアでは「ファシストは地獄に堕ちた」の常套句があります。
主観的な不満があっても東京裁判の結果を受け入れるかー受け入れるなら、馬鹿な発言と阿呆な行動は一切しないこと。個人賠償はきちんと和解すること。国家として民族の反省は批判されるたびに必要となるのは当然。批判される言動をするのが戦争犯罪否定であるから、これに謝罪しなければドイツがナチス回帰と同じこと。
「A級戦犯の代わりに罪を問われなかった最高責任者」http://bator.blog14.fc2.com/blog-entry-2074.html
すきあらば戦争犯罪否定をぐにゃぐにゃ言い出して、その度に被害国と民族主義、国家主義のマッチポンプ。双方支配者の利益は挙国一致。
一掃するためにはドイツに学ぼう。
南京大虐殺に詳細な将兵の証言、当事者の日記などは幾多の出版物の他に、無料で公開されているものとしては「南京事件資料集」http://www.geocities.jp/kk_nanking/
がある。その中の「虐殺命令」。
第三者の証言としてはその中の「マッカラムの日記」などがある。
また、デビット・バーガミニが天皇と皇族の戦争責任を考証した「天皇の陰謀」翻訳http://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm
の第一部戦争と報復 第1章「南京強奪」に詳しい。
さらに、平和主義の立場から一般将兵、国民の戦争記録を集めた「戦争を語り継ごうーリンク集」http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
がある。
いずれも大部な資料であり、膨大な証言と記録の量は事実を否定しようとするいい加減な態度を許容するようなレベルのものではない。
> 祖父から聞きましたが、敗戦時満州から脱出して、朝鮮では死ぬほど現地人に叩かれたそうです。本人は、戦争中自分は一人も人を殺さなかった、と言ってましたが。
・ あなたの頭のなかには、戦争が国家間の戦争であったこと。民族の衣をまとって遂行されたことがまるで入っていないようですね。
そりゃあ個人間の恨みなら「一人も殺していない」なら、どの程度被害を与えたかによって量刑と賠償が推定されるでしょう。
例えばドイツ人は中世末期から中欧、東欧に進出していました。
第二次大戦がナチスドイツの殲滅によって終了が進むと同時に、戦後現在の国境線の外側に居住するドイツ人はすべての資産を没収され追放されました。
この帰還ドイツ人を保護する組織などがあるわけもありません。
数百年居住していたナチスでもない古くからのドイツ人居住者には不本意なことだったでしょう。
しかし、占領地でナチスの恐怖支配と絶望からやっと解放された現地国民にとっては、ナチスを熱狂して支えたのはあくまでドイツ人全体だったのです。
この「帰還ドイツ人」は300万人くらいのうち200万人くらいが帰還の途中で死んでいます。
この事実は被害国においてはもちろん、ドイツにおいても公には語られない。歴史研究者の内部だけです。
何故なら、このことを語ることはネオナチを利することであり、各国の民族主義を煽り、再び緊張と対立、戦争の欧州へと導きかねないからです。
最も重要な事は、民族主義の衣をまとった国家主義を二度と再び繰り返させないこと。これを前提にしているからです。
日本とアジアの関係。そんなに変わらないのですよ。
> 悪くなかったいや悪かったぐにゃぐにゃぐにゃぐにゃいつまでやれば気が済むんです?
・ ぐずぐずと無能力者のフリをし靖国参拝を批判されながらしてやり過ごすかー外交も経済も世界から弾かれます。世界の鼻つまみ者。
もいちど世界と戦争。ー正真正銘の狂人民族となります。
日本国民自身の手で過去にさかのぼって本当の責任者の始末をつけるかーイタリア国民は南部に米軍上陸後といえ、レジスタンスがムソリーニを捉えて処刑し、ミラノの街頭に吊るしました。だから、イタリアでは「ファシストは地獄に堕ちた」の常套句があります。
主観的な不満があっても東京裁判の結果を受け入れるかー受け入れるなら、馬鹿な発言と阿呆な行動は一切しないこと。個人賠償はきちんと和解すること。国家として民族の反省は批判されるたびに必要となるのは当然。批判される言動をするのが戦争犯罪否定であるから、これに謝罪しなければドイツがナチス回帰と同じこと。
「A級戦犯の代わりに罪を問われなかった最高責任者」http://bator.blog14.fc2.com/blog-entry-2074.html
すきあらば戦争犯罪否定をぐにゃぐにゃ言い出して、その度に被害国と民族主義、国家主義のマッチポンプ。双方支配者の利益は挙国一致。
一掃するためにはドイツに学ぼう。
>いずれも大部な資料であり、膨大な証言と記録の量は事実を否定しようとするいい加減な態度を許容するようなレベルのものではない
リンク先について、残念ながら自分にはすべて事実なのか確かめられませんが、だから、当事者が生きてるうちに70年も経つ前に問題解決しておけばよかったのではと言ってるんじゃないですか。経済が隆盛していた時期もあったのに、毎度経済的に行き詰ってくると、きな臭くなるのだからそうならないようすべきなのに、長年過大な額の年金をもらい続けて、放漫財政を続けて借金の山をこさえて、宗主国のいいなりで、次世代にツケをまわしておいて、国家として民族の反省は批判されるたびに必要となるのは当然、なんですか??とっくに青息吐息になってますよ。
それに、ずいぶん前に本で読みましたが南北朝鮮については既に賠償金を支払っていたんじゃなかったかと思いますが、また中国に対しては日本人の現地財産をすべて賠償金として譲渡することで合意していたのではありませんか。数兆円規模のODAなど、被害者本人に届かなかったとはいえ、これらの点についてはどうお考えなのですか。
リンク先について、残念ながら自分にはすべて事実なのか確かめられませんが、だから、当事者が生きてるうちに70年も経つ前に問題解決しておけばよかったのではと言ってるんじゃないですか。経済が隆盛していた時期もあったのに、毎度経済的に行き詰ってくると、きな臭くなるのだからそうならないようすべきなのに、長年過大な額の年金をもらい続けて、放漫財政を続けて借金の山をこさえて、宗主国のいいなりで、次世代にツケをまわしておいて、国家として民族の反省は批判されるたびに必要となるのは当然、なんですか??とっくに青息吐息になってますよ。
それに、ずいぶん前に本で読みましたが南北朝鮮については既に賠償金を支払っていたんじゃなかったかと思いますが、また中国に対しては日本人の現地財産をすべて賠償金として譲渡することで合意していたのではありませんか。数兆円規模のODAなど、被害者本人に届かなかったとはいえ、これらの点についてはどうお考えなのですか。
Re: タイトルなし
自分自身で確信を持てない話を根拠にしても意味がありません。それはただの無駄話にしかなりませんよ。
> リンク先について、残念ながら自分には事実かそうでないか判別できません
・ それはお困りでしょうね。先ずはしっかり読んで考えてなければ、事実かどうかわかろうはずもないですね。
> 当事者が生きてるうちに70年も経つ前に問題解決しておけばよかった
・ 解決できなかったという事実から出発しないで、どこから出発するのでしょう?
それともただの愚痴ばなし?
> 南北朝鮮については既に賠償金を支払っていたんじゃなかったかと思います
・ あなたは日韓協定のことを言ってるらしいのですが、国家間賠償は韓国は6億ドルで妥結です。
北朝鮮とはいまだ国交がないのに賠償してるわけがないでしょう。
大丈夫ですかと言わなければなりませんね。
「かと思います」という言い方は自分の結論をいう場合ですよ。
事実関係や根拠とする事柄について「かと思います」では、あなたが確信してないことを根拠に話していることになります。嘘かホントかわからないことを根拠にしても、誰も答えようがありません。
仕事の話だってそうですよね。
> 中国に対しては日本人の現地財産をすべて賠償金として譲渡することで合意していたのではありませんか
・ あなたは戦争という言葉が何も解っていない。
どこの戦争でも負けた方は全資産が没収されるのです。現地財産など残っていたと考えるなら、それは妄想ですよ。
日中国交回復において中国は国家賠償を放棄し、日本は代わりにODA供与を続けたのです。
国家間で個人間被害賠償に関与することはありません。当然ですが、そんなことを発言したら主権の侵害です。
中学の歴史教科書から読み直してください。
さようなら。
> リンク先について、残念ながら自分には事実かそうでないか判別できません
・ それはお困りでしょうね。先ずはしっかり読んで考えてなければ、事実かどうかわかろうはずもないですね。
> 当事者が生きてるうちに70年も経つ前に問題解決しておけばよかった
・ 解決できなかったという事実から出発しないで、どこから出発するのでしょう?
それともただの愚痴ばなし?
> 南北朝鮮については既に賠償金を支払っていたんじゃなかったかと思います
・ あなたは日韓協定のことを言ってるらしいのですが、国家間賠償は韓国は6億ドルで妥結です。
北朝鮮とはいまだ国交がないのに賠償してるわけがないでしょう。
大丈夫ですかと言わなければなりませんね。
「かと思います」という言い方は自分の結論をいう場合ですよ。
事実関係や根拠とする事柄について「かと思います」では、あなたが確信してないことを根拠に話していることになります。嘘かホントかわからないことを根拠にしても、誰も答えようがありません。
仕事の話だってそうですよね。
> 中国に対しては日本人の現地財産をすべて賠償金として譲渡することで合意していたのではありませんか
・ あなたは戦争という言葉が何も解っていない。
どこの戦争でも負けた方は全資産が没収されるのです。現地財産など残っていたと考えるなら、それは妄想ですよ。
日中国交回復において中国は国家賠償を放棄し、日本は代わりにODA供与を続けたのです。
国家間で個人間被害賠償に関与することはありません。当然ですが、そんなことを発言したら主権の侵害です。
中学の歴史教科書から読み直してください。
さようなら。
戦争責任
大東亞戦争の責任はA級戦犯にあると思いませんか開戦の判断、作戦は間違いと嘘で国民をどん底に陥れた。終戦のタイミング、占領地での非道な行い。天皇陛下も国民も彼等を信じないまでも騙されていた。靖国神社は一刻も早い時期に彼等を分祀すべきです。
Re: 戦争責任
慰霊碑
インパールの村に日本兵の慰霊碑があり現地人が保守清掃している日本国内の村々にも慰霊碑があるが戦後70年その多くは忘れ去られています。戦争は一部の指導者の失政であります。その他の国民は犠牲者です。英霊を大切にしなくてはなりません。
Re: 慰霊碑
> 戦争は一部の指導者の失政であります。その他の国民は犠牲者です。英霊を大切にしなくてはなりません。
「戦争犠牲者」を、なぜ「英霊」などと美化するのですか?
虐殺の犠牲者も「英霊」にするつもりですか?
そんなことを望む虐殺の犠牲者がいるとは思えないでしょうね。
「慰霊碑」を勝手に「英霊」にしないほうが良いでしょう。
あなたの頭のなかは、自分の勝手な願望と実際の事実を混同しています。
それを「妄想」というのですよ!
「戦争犠牲者」を、なぜ「英霊」などと美化するのですか?
虐殺の犠牲者も「英霊」にするつもりですか?
そんなことを望む虐殺の犠牲者がいるとは思えないでしょうね。
「慰霊碑」を勝手に「英霊」にしないほうが良いでしょう。
あなたの頭のなかは、自分の勝手な願望と実際の事実を混同しています。
それを「妄想」というのですよ!
英霊
戦死者を敬って言う言葉が英霊です。それ以上でもそれ以下でもありません。あなたの説では日本人の殆んどが「妄想」ですね。社会のため、家族のため、命がけで守ろうという気持ちありませんか。
英霊
英霊は赤紙1枚もらった事により戦場に駆り出され国の為、家族の為、友の為と信じて死んでいった。結果が善であれ悪であれこの人達の責任ではない。国を思い法を守り自分と残された家族が犠牲となった。この様な尊い行為は敵、味方を問わず永久に慰霊すべきです。靖国神社も慰霊の一つですがA級戦犯達の合祀は困ります。彼等を分祀し天皇陛下も外国元首も大多数の国民も何のわだかまりなく参拝出来る様にすることです。A級戦犯達のすべての判断は誤っており孤立しています。
Re: 英霊
「英霊」の次は「陛下」ですか。
素性が知れますね。
妄想を根拠とするお話については論評の対象にはなりません。
あちこちに無責任な妄想コメントを書き散らすなら、ご自分のサイトを作って主張すれば?
このブログに落書きはいりません。
さようなら。
素性が知れますね。
妄想を根拠とするお話については論評の対象にはなりません。
あちこちに無責任な妄想コメントを書き散らすなら、ご自分のサイトを作って主張すれば?
このブログに落書きはいりません。
さようなら。
お久しぶりです。
個人としての戦争体験の情報がウェブ上にあげられると、自説と相容れないと考える人達が揚げ足をとろうとするみたいですね。どんな情報でも自分の頭で考えて読み取ることができない人達がたくさんいるようです。体験を直接聴けなくなっている今日この頃、妄想に凝り固まった人に関わるのは無駄なことだと思います。そんな人は何も言わずに立ち去るのが礼儀です。
「うなされることの多い最期は人には言えないことを中国でやってきたからみたいやで。」大叔父の最期のようすを語っていた母とその従妹の会話を聞き、参道や駅構内で物乞いをする傷痍軍人の姿をかさね、戦争とは恐ろしいものだと感じていた小学生の私です。両親の読む雑誌の「戦争中の体験談」を読みふけっていました。なのに、学校ではアメリカと戦って負けた第二次大戦であり、中国との戦争(当時は日華事変といわれていて子どもには事変と戦争との違いがわかりませんでした)とどうつながるのか疑問でした。
個人としての戦争体験の情報がウェブ上にあげられると、自説と相容れないと考える人達が揚げ足をとろうとするみたいですね。どんな情報でも自分の頭で考えて読み取ることができない人達がたくさんいるようです。体験を直接聴けなくなっている今日この頃、妄想に凝り固まった人に関わるのは無駄なことだと思います。そんな人は何も言わずに立ち去るのが礼儀です。
「うなされることの多い最期は人には言えないことを中国でやってきたからみたいやで。」大叔父の最期のようすを語っていた母とその従妹の会話を聞き、参道や駅構内で物乞いをする傷痍軍人の姿をかさね、戦争とは恐ろしいものだと感じていた小学生の私です。両親の読む雑誌の「戦争中の体験談」を読みふけっていました。なのに、学校ではアメリカと戦って負けた第二次大戦であり、中国との戦争(当時は日華事変といわれていて子どもには事変と戦争との違いがわかりませんでした)とどうつながるのか疑問でした。
日華事変と太平洋戦争
コメントをありがとうございます。
日華事変と太平洋戦争。
まったく仰るとおりです。
さり気なく、この2つに分けて片方は中国との「事変」。片方は欧米との「戦争」として「太平洋戦争」に負けたから「終戦」になったのだ。
敗戦の米軍支配下でも、まったく、さもしくも姑息な歴史の捏造。
まかり通っていたのは、もちろん冷戦に向けた米国の占領地国民誘導ですが、国体護持を掲げて米国と「手打ち」をした連中がこうした歴史の捏造をやってきたと思います。
なにも自分の頭で判断せず、そうした教育とマスコミに「頭」を委ねることで、「服従」しか脳のない日本人が形成されてきたんでしょうね。
彼らの話は常に「そんな気がする」とか「そうらしい」「誰それが言ってたように思う」とか、まるで根拠にならないことを根っこにして話を進めるわけで、願望空想と事実の区別がない「妄想」であるのが特徴です。(認知症などの妄想の概念規定そのままです。)
また、彼らは論破されても読まないのか、読んでも解らないのか、また自分の妄想を進めてくるのですから、コメント停止ということにならざるを得ません。
長くなり、すみません。
ありがとうございます。
日華事変と太平洋戦争。
まったく仰るとおりです。
さり気なく、この2つに分けて片方は中国との「事変」。片方は欧米との「戦争」として「太平洋戦争」に負けたから「終戦」になったのだ。
敗戦の米軍支配下でも、まったく、さもしくも姑息な歴史の捏造。
まかり通っていたのは、もちろん冷戦に向けた米国の占領地国民誘導ですが、国体護持を掲げて米国と「手打ち」をした連中がこうした歴史の捏造をやってきたと思います。
なにも自分の頭で判断せず、そうした教育とマスコミに「頭」を委ねることで、「服従」しか脳のない日本人が形成されてきたんでしょうね。
彼らの話は常に「そんな気がする」とか「そうらしい」「誰それが言ってたように思う」とか、まるで根拠にならないことを根っこにして話を進めるわけで、願望空想と事実の区別がない「妄想」であるのが特徴です。(認知症などの妄想の概念規定そのままです。)
また、彼らは論破されても読まないのか、読んでも解らないのか、また自分の妄想を進めてくるのですから、コメント停止ということにならざるを得ません。
長くなり、すみません。
ありがとうございます。
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