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日本の秘密:鬼塚

 鬼塚

 鬼塚氏は別府の人。竹細工を営む。
 「天皇のロザリオ」、「日本のいちばん醜い日」、「原爆の秘密」、「八百長恐慌!」、「20世紀のファウスト」など多数の著書がある。

 辻褄が合わない物事には、多くの場合隠された原因がある。
 歴史の捏造である。
 簡単な商売や駆け引きでさえ、多少の誇張、見せかけなどはあるのであるから、権力による歴史の歪曲、偽造は常にあって不思議ではない。
 意図的、意識的に隠された原因は直接暴くことは大変難しい。
 その原因を想定してピッタリと辻褄が合う場合には、多くはその原因が正しいと判断できる。
 鬼塚氏の持論について、完璧に同調するものではないが、概ね辻褄があっていることを認めるものです。

 そんな「とんでも論」とかんがえる方は、こういう考えもあるということ、そしてその考えで歴史の辻褄がかなりにわたって「合う」とうことで、参考にしていただければ幸いです。
 ーーーーーーーーーーーーーーーー
DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房より 書き起こし「ペリマリ」氏から (文中◎はペリマリ氏の注釈。なお注釈は一部です。)

以下転載。

今日は日本の歴史について話したいと思います。
それも近代から現代にかけて、明治・大正昭和にかけて、みなさんに語りたいと思います。
なぜその近代というものが大事かというと、近代を知ることは、今、平成の時代に起きていることを知ることができると思っているからです。
で、まず最初にですね、とんでもないって思われる方がいらっしゃるかも知れませんが・・・明治が始まる前、幕末のことを少しだけしゃべりたいと思います。

私がたぶん2006年の10月と思うんですけど、山口県の柳井(やない)市というところに行きました。
そこにもうかなり高齢なんですが、松重楊江(まつしげようこう)さんという方が住んでおります。その人を訪ねて行きました。
で、彼に会い色んなことを聞きました。彼の本もその前に読んでおりました。
どうしても彼に会って本当のことを聞きたいと思って、色々な質問をしました。

柳井市というのは瀬戸内海に面した、山口県の広島寄りのところにある土地なんです。
光町(ひかりまち)というのがあって、柳井市というのがあります。
その光町と柳井の間に、熊毛郡田布施町(くまけぐんたぶせちょう)という町があります。
光町はかなり平野で、商業地帯で工業面も盛んです。柳井市も同じように小都市ではありますが、かなり平野部分があります。
その光町と柳井の間に山が曲りくねるように競って、海に流れ落ちてるような狭い土地があります。

熊毛』というのは、山が曲りくねるとか湾曲しているとか、そういう状態を日本人は昔から『熊毛』と言ったらしいんです。
それで『熊毛』という町が日本にも沢山ありますが、大体そういう所を『熊毛』といっているみたいです。
極端にいうと人が住むのにあまり適さないような所なんです。で、そこに田布施町というのがあります。
海辺の、海に近い所なんですが、熊毛郡田布施町というのは、田畑もあまりなく、ほとんど雑草が生い繁るような所です。
今でもコンビにがある程度ですね。商業地帯はほとんどない寂しい部落なんです。
光市と柳井市にはさまれた寂しい市にですね、日本史の歴史の秘密が隠されています。
田布施町と柳井の間に田布施川という川が流れています。
その川の両岸から、大正から昭和それから戦争の前後にかけて凄い人材が出てきます。

ちょっと例を挙げてみましょう。
明治から大正昭和期にかけて、明治では伊藤博文、ま、ちょっと場所が離れますけど山縣有朋、それから時代が昭和に近づくにつれて、岸信介・佐藤栄作の兄弟、それから田布施川を挟むようにして、代議士では難波作之助、これは難波大助という皇太子を銃でうとうとした男のお父さん、国光五郎これも代議士、で、私が注目するのは岸信介と並び3スケというのがいまして、
鮎川義介(ぎすけ)・日産コンチェルンの総帥、久原房之助(くはらふさのすけ)・日立グループの総帥、松岡洋右・戦前の外務大臣。
まだいくらでもいます。
共産党の書記長であった実力№1の宮本賢治、マルクス主義を世に広めた京大教授の河上肇、法律界の大御所といわれた岩田宙造、戦後最後の内務相の憲兵を組織して『日本のいちばん長い日』を演出した内務相トップの安部源基
こういうのが一度に溢れ出るように、田布施の町の周辺から登場するわけです。

山口県

なぜでしょうか
でね、そこの原因をたどる時に、どうしても一人の男にたどりつきます。
私が田布施に行きまして、松重楊江という人に会って秘密を聞きました。
松重楊江は私にこう言いました。
「ここのそばに田布施川という小さな川がある。そこの田布施川-そのひとは柳井に住んでいます-を渡って、あの山の向こうの方から老人がいつも野菜を売りに来ていた。」

その時に私が色々雑談をしている時に奥さんも傍にいまして、奥さんもそう言いました。
「そういつも野菜を売りにきていた」と。
ところが「時々変なことを言う
何を言ってんだといったら、『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うてるんですよ。」で、松重楊江も笑っていたそうです。
でも彼は宮本賢治の家のそばで宮本賢治の一族ですから、東京で共産党の幹部まで行き、宮本賢治の秘書になるような男です。
故郷に帰ってきてダンボール工場をやったところが成功して、いっぱしの工場の経営者となり、息子に後を譲ってました。優秀な男なんです。
で、どういうことかというと『うちのお爺ちゃんが大室寅之佑(おおむろとらのすけ)といって明治天皇になったんだ』というわけです。

「話を聞いてみると何か辻褄が合うような気がする。それで色々調べているうちに、ひょっとしたらこの大室近佑(おおむろちかすけ)という老人が私に喋っているのは本当のことじゃないかと思い、萩の郷土史家を連れてきて調査した。
萩の郷土史家とともに、山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。」
それを中央の鹿島昇という弁護士が読んで、松重楊江のところに訪ねて来ました。
彼が言うのには「私は大室近佑の言う話を信じるから、近佑に会わせろ」と言った。で、まあ、近佑に会う。

それで鹿島昇と松重さんは-その当時はまったく歴史家じゃないんですけど-触発されて二人で本を出そうじゃないかと言った。
それから松重楊江は近代史にのめり込むわけなんです。
そして独自に調査をやり、大室寅之佑が明治天皇になった過程を、沢山の本に執筆するわけです。
私も彼の本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を中心に引用するわけです。
で、私はそこで止まれば別ですけど、背景を探ろうと思いまして、幕末から明治にかけての色んな文献を当たっていく過程で納得しました。
たぶん間違いなく大室寅之佑が明治天皇になったんだと。

正当な歴史家には非常に申し訳ない話なんです。というのは、ある時私の所に電話がありました。

「もしもし鬼塚さんですか」
「はい」
「私はあのー歴史をやってるもんですが」
「何ですか?誰ですか?」
「秦(はた)といいます」
「秦って、先生あのー、秦郁彦(いくひこ)先生ですか?」
「そうです。あなたは、あなたの書いてる本の中で大室寅之佑を明治天皇と書いていますが証拠はあるんですか?

と言われますから、私は数々の証拠を言いました。すると彼はこう言いました。

大室寅之佑の戸籍を見たことがありますか?」
「いやありません」
戸籍が無い人を、どうして明治天皇だったと言えるんですか?大室寅之佑は本当に存在したんですか?

で、幾度も同じ質問をするので色んな面から説明したけど、彼は納得しませんでした。
で、それで今言ったように、田布施を中心とした付近から出てきた人も喋り、

「先生、宮本賢治も、野坂参三は少し場所が離れますけど、同じ山口出身ですよ」

と言ったら、彼はポッと言いました。

「鬼塚さん、私はそのことは詳しいよ」
「先生、どうして詳しいんですか?」
私もその一族だ。田布施の川の近くで私は生まれ育った」

それで私はぴんと来ました。そうか。
歴史を隠そうとするべく現代史の大家になったのかと。
一時間くらい色々喋りました。結局、彼は最後まで

「大室寅之佑の戸籍が無いのに、どうして存在するのか?


と言って最後は話が別れました。

戸籍が見たことがないから現実とは違うんじゃないか、という話には納得しません
明治天皇になった大室寅之佑を京都の御所に訪ねて、イギリスの外交官たちが謁見します。その時にイギリスの外交官の一人が日記に書いています。
御簾(みす)の中に大男がいた。顔色は真っ黒だった。唇に赤い紅を差していた。とても異様であった』。
これは本当に異様な話なんです。
孝明天皇というのは肖像画も残っていますが、細面の男です。そして睦仁(むつひと)というのがその子どもですけど、中山慶子(よしこ)と孝明天皇の間に生まれたのが明治天皇になる睦仁です。
明治天皇になった大室寅之佑は中山慶子に一回も面接していません
僕はずいぶん調べました。一回も面接しない親子というのがあるでしょうか?
ドナルド・キーンというのが明治天皇について書いてます。
彼は一回だけ面接したというのを創生し親子の情を書いていますが、それとて一回だけしか面接をしたことがない。
親子でありながらしかも一回も会ったことが無いというのは、これはもう正常ではありません。

それで中山忠能(ただやす)は公卿なんですけど日記をつけていて、『睦仁というのは非常に身体が弱くて細くていつも泣いていた』と。
そしてまたある日記に突然彼は『奇兵隊天皇が生まれた』と書いてます。
奇兵隊というのは高杉晋作が創り、大室寅之佑もそれに参加しました。特に身体が大きかったから、『力士隊』というのがありましたがその一員です。
その『力士隊』の一員である大室寅之佑は、伊藤博文が大事に育てました。
伊藤博文の家は大室寅之佑の家から歩いても、昔の人だったら30分ぐらいで行くんじゃないでしょうか、
近いところに住んでいます。
彼は伊藤博文に大事に育てられて、明治天皇に仕立てられたと私は思うんです。
それは『奇兵隊天皇』という言葉を、中山慶子のお父さんがはっきり書いています。

そして朝彦(あさひこ)親王というのがいまして、これはショウレイインという悪名を持つ坊主が、天皇にほとんど関係がないんですけど、明治天皇が出来たときに万が一の場合に皇統が消えたら悪いというので、いくらか孝明天皇につながりのある男を探したらおりました、それを朝彦親王として、そこから日本のあの皇族たちが全部生まれて来ます。
明治の皇族たちはみんなそこから、その家の子どもたちです。
朝彦親王も『明治天皇は毎日将鬼の幽霊を-孝明天皇が亡霊として将鬼の姿として現れ-毎日泣きじゃくっている』という日記を残しています。

もう一つ大事なことがあります。みなさんはご存知かもしれませんが、『徳川家康』を書いた山岡荘八というのがいます。大ベストセラーでした。
この人が『明治天皇』という小説を書いています。不思議なことに明治時代になっての天皇を書かず、孝明天皇とその妃のことを書いています
その中で明治天皇が小さい時のことを書いていまして、近所で豆腐屋が通って笛を吹くと「トーフィ、トーフィ」と言ったそうです。
京都の八瀬童子という所の部落がありまして、天皇の葬式のときは棺を担ぐ役をしてまして、どうも中山慶子はそこの生まれであろうと山岡荘八は書いています。
中山家の兄妹になる息子が中山忠光といいますけど、この人が長州の人によって殺されます。
逆らったんですね。殺されます。
そういう具体的なことを山岡荘八は書いて、『明治天皇』という題をつけています
山岡荘八は見事に明治天皇誕生の裏を描いていますが、ただ孝明天皇も睦仁も殺されたというところには一行も、まあ触れられなかったと思いますね、戦後書いてますから。

去年、東京大学でフランス展がありました。
偶然私は東京にいまして、東大に行ってフランス展を見に行った折に、明治天皇を隠し撮りした写真が東大の資料館で飾ってました。
大男です。今の相撲取りでいったらどうでしょうか、百何十キロの大男です。
これが明治天皇の姿なんです。
泣きべそっていた子どもが突然東京に現れたら、西郷隆盛と相撲を取り江戸城で白馬を乗りまわしたという有名な話があります。
そりゃそうでしょう。大男です。『力士隊』にいた男に間違いありません。
色が真っ黒くて大男でブサイクな男です。キョソーネという人が描いた肖像画による明治天皇とは似ての似つかん姿です。
これはフランスの人が発表し東大が認めて明治天皇の写真として発表してるんだから、これこそ間違いありません。

ということは、私たちは田布施という町の、これははっきり申しますと朝鮮部落です。
なぜ朝鮮部落かと申しますと、そうですね、これはちょっと語りにくい話なんですけど、歴史的にいいますと山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。
守護大名・大内家がずっと支配してました。大内家は完全な、本人たちも言ってますが朝鮮人です。大内家の家臣が毛利が侵入して負けたために散っていくわけです。
彼らが散り散りになって、ほとんどが部落民にされるわけです。この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中にはっきりと書いています。

まだあります。2006年10月6日か8日号の週刊朝日に『家政婦は見た!安倍晋太郎研究』というのが出ました。安倍晋三は岸と佐藤栄作の直系の一族です。
その一族の安部晋三のお父さんの晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をずっとやって晋太郎を子どもの時から育てた久米うめさんという女性が週刊朝日の記者に言ってます。
「死ぬ時初めて分った。日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。棺に入れるとき初めて全体の姿を見た。晋太郎は生前いつも口癖のように私に言ってた、『俺は朝鮮人だ、俺は朝鮮人だ』。私はまさか晋太郎が朝鮮人とは思わなかったけど、死ぬ時に棺に入れる姿を見て、ああこれは日本人ではないということを認識した」。

ということはそういう面から見ても、あの部落は私も行ってみましたけど朝鮮部落です。
そして非常に寂しい所なんです。
そこからあの周辺の人が、日本を支配する人が沢山出て来るということは、大室寅之佑が明治天皇になったということの証しではないでしょうか
例外があるでしょうか。2キ3スケといって、2キは東条英機と星野直樹ですが、3スケといわれるのは先ほどいいました岸信介・松岡洋右・鮎川義介この3人が期せずして一致して満州帝国を創ります。そして膨大な利益を上げます。

「2キ3スケ」とは満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のこと。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。
東條英機(とうじょう ひでキ、関東軍参謀長)星野直樹(ほしの なおキ、国務院総務長官)鮎川義介(あいかわ よしスケ、満業(満州重工業開発株式会社)社長)岸信介(きし のぶスケ、総務庁次長)松岡洋右(まつおか ようスケ、満鉄総裁)。5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。(ウイキペデイアより転載)

細川護貞(もりさだ)『情報天皇に達せず』という本があります。
この本によりますと、東条があの当時数億円単位の金を政界工作に使ったとあります。
岸信介が東条を追い落としたのは、近衛が秘書の細川に言ってます「あれはお前が言うような、世間で言われているような話じゃない。東条が金をバラまきすぎたのを岸信介がみんなに訴えて、東条を失脚させたんだ」ということです。
東条は一族ではないために、金をたくさん貯めて日本の銀行に戦後入れます、そして戦犯で殺されますが、預金封鎖になって全財産を無くします。
岸信介はちゃんと天皇と同じようにスイスの銀行に預けたために、岸信介・佐藤栄作・安部一族は大金持ちです。
今、安部晋三が総理大臣になれたのも、最終的にはそのお金が役に立ってるんです。
ということを持って私は大室寅之佑が明治天皇になったと、まずここから考えますと日本の歴史が見えてきます

コンプライアンスというのは「情け」とか「いい加減」とか「気まぐれ」とか「気休め」、それにドールをつけてコンプラドールという言葉があります。
これは要するに外人がオモチャのように使えるような、気休めの人材を集めて自由自在に操り、その国を支配するということです。
中国にアヘン戦争をしかけて、香港・上海銀行を中心に支配していくユダヤ人たちは、中国人の連中をコンプラドールとして使いました。
同じように日本人をいちばん大事なところで、権力の中枢でコンプラドールにされた可能性、大なんです。
大室寅之佑が明治天皇になり、そして大正・昭和と続く過程で、色んなスキャンダルに巻き込まれていきまして、そのスキャンダルをヨーロッパ、殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。
これが第二次世界大戦の遠因になったと思うんです。

どうでしょうか。
そういう面から歴史を見ると、私に電話をかけてきた秦さんやら、それから半藤一利さんの歴史観とはまるきり異なるわけです。
で、私はみなさんにお願いしたいのは、やはり日本を知るためには日本の暗い部分に目を向けるべきではないか。
それを直視しないから日本人はいつまでたっても、今もそうですけど、アメリカ人に利用されてるじゃないかと。
僕たちはそういうことを全部知ろうじゃないかと。知った上で堂々と外国の勢力に立ち向って行くべき時が来たんじゃないでしょうか。

それでまた、これで続きがいっぱいあります。
日露戦争もぜんぶ同じパターンで仕掛けられたと思うんです。
日露戦争を始めるとき、伊藤博文は反対します。「負ける」って、「するな」と。伊藤博文も孝明天皇や睦仁殺しに一番かんでいる男なんですが、彼でさえ「やったらイケン」と言います。
でも戦争をするように仕掛けられて、高橋是清が「金がないのにやるのか?」「じゃ、お前金策に行ってこい」というので彼が金策に行って、いちばん最初にイギリスのロスチャイルドに会います。

イギリスのロスチャイルド家は自分では直接関与したくないので、クーン・ローヴ商会、イギリスのロスチャイルド家が金を出して全額投資したクーン・ローヴ商会に紹介します。
高橋はイギリスからアメリカに渡ってクーン・ローヴ商会に「国債を買ってくれ」と言います。
ちゃんと話が出来てたんでしょう、クーン・ローヴ商会が買います。シフという男ですけど買います。
それでイギリスから軍艦を買ったりします。
万が一日本が負けて国債がパーでもだいじょうぶ、日本を実質的に支配すればいいんですから。
そして軍艦さえないのに、イギリスから軍艦を買って運良く勝ちます。全部これ仕掛けられたと思うんですよ。

で、日露戦争の後に第一次世界大戦があります。
これも運良く日本がちょうど良いいところで甘い汁を吸わせてくれるように、イギリスを中心とする勢力が最後の段階で日本を迎えいれて、ドイツ敗北のために役立ったと言って、ヴェルサイユ条約で日本に太平洋の島々の委任統治を認めます。
実質的に上げるわけです。日本が太平洋戦争でがんばれたのも、あの小さな島々をもらったからなんです。
それがなかったら、日本はとてもアメリカに対抗できませんでした。

で、太平洋戦争の前に大正天皇のことを少し喋ろうと思います。
東久邇(ひがしくに)というのが、戦後、首相になりますけど、この男のことを少し喋ろうと思います。
もうスキャンダルだらけの日本ですけど、大正天皇は子種がありませんでした。
歴史的にまちがいはありませんが、現代史家は認めません。
でも子種はありませんでした。というのは、2・26事件で弟を亡くした河野司というのがおりまして、この人が2・26事件というのはどうして起きたんだろうと調べて回る時に、東久邇にぐうぜん遭って話を聞いた時に、東久邇がこういうように言いました。「お前の弟が死んだのは、遠因は昭和天皇と秩父宮の争いにある」。

で、それはどういうことかというと、大正天皇に子種が無かった。じゃ、昭和天皇はなぜ生まれたかということを、東久邇が河野司という男に喋ります。
これは映画脚本家・笠原和夫という、東映全盛時代に脚本を書くんですけど、この人ものすごい勉強家でして、2・26やら色んな事件を映画につくるべく脚本を書きます。
この男が河野司と対談をしてます。その中で河野司が笠原に言います。
「私はあの時、『軍艦』というキャバレーでたまたま東久邇と遭った。それで東久邇が私に『河野、お前に今日は本当のことを話してやろうか』と言って話してくれた。」と。

◎河野司と三島由紀夫は親交がある。三島由紀夫がごく親しい人しか招きいれない自室の部屋に入れて語り合うほどの仲である。三島由紀夫はやはり2・26事件の処罰に連座した末松太平とも付き合いがある。

「じゃあ昭和天皇はなぜ生まれたんか」と言ったら「そこまでは言われない。だけど貞明(貞明皇后)はえらく昭和天皇の父親を嫌ってた」ということです。
それで私はハッとしました。私は小学生のころだったと思うんですけど、戦後、カストリ雑誌のようなものを読んだことがあるんです。
その中で西郷八郎という名が出て、これは西園寺八郎のことを書いたらマズイと思って西郷八郎になったと思うんですが、その西郷八郎という男が登場して、大正天皇の傍にいた妃を手に取って、大正天皇が嘆くのにもかかわらず山に連れて行ってチョメチョメした、という三文小説がカストリ雑誌に載ったことがあります。
もうずい分前の戦後のカストリ雑誌です。ひょっとしてあれは本当の話じゃないのか。西郷八郎というのは西園寺八郎のことではないのか。
それで西園寺八郎をいっぱい調べて見ました

木戸日記』というのがあります。木戸幸一が戦後、東京裁判資料として提出した資料です。
都留重人(つるしげと)というのが、木戸の娘を貰ってまして、その関係で都留重人が木戸を説得して、「あんたの日記をもう出せ」というので世に出たものです。
その中で年月不詳というのがあって、島津治子の話があって、この島津治子というのは貞明皇后の女官を長く務めたんですけど、主治医が亡くなった後に、貞明から女官を去るように言われまして、去った後に民間宗教に凝り固まって妙な言動をする女なんです。
そのことを木戸幸一が書いていて、年月不詳という中にこう書いてます。『大正天皇の侍従の指令-貞明皇后のお相手八郎のこと』。
『貞明皇后のお相手八郎のこと』とは西園寺八郎のことです。その西園寺八郎は隠れた重要な人物で、ちょっと余分なことを喋ります。

長州藩に徳山藩というのがあるんですけど、長州は萩が本家で(徳山藩はその)分家なんです。
そこに毛利元徳(もうりもとのり)という分家なんだけれども一応城を構えた殿さまがおりまして、その殿さまの八番目に生まれたから毛利八郎といいます。
その毛利八郎が本家の毛利頼近の養子になります。ま、形でしょう。
で、頼近の息子として、形式なんでしょうけど、西園寺公望の養子として西園寺八郎となる。
西園寺公望は女房がいませんでしたけれど、子どもを儲けていたんです。新子といいます。
その新子と西園寺八郎が結ばれるんです。
ちょうどその頃に、西園寺八郎は子どもの時から大正天皇と同じ学習院の同期で幼友達なんですが、大正天皇は子種がないので結局ある筋から西園寺八郎に「お前が強引にやってこい」と、で、西園寺八郎は命令されるがまま貞明とチョメチョメしまして、まチョメチョメという言葉はどうでしょうか、チョメチョメしまして子どもが生まれます。
それが昭和天皇です。

で、彼(八郎)は西園寺家に新子という女がいながら、まったく寄り付きもしないで天皇家に入りこんでピッタリと自分の息子の昭和天皇の傍にいます。ずーっと侍従をします。
一時、大正天皇の侍従武官長の奈良武次という男とけんかして、けんか両成敗で数年間、昭和天皇の傍を離れますが、死ぬまで傍にいます。
ということは昭和天皇の行動も全部、西園寺八郎が牛耳ったであろうと言われるほど、傍にいます。
その西園寺八郎の子どもが公一(きんかず)といいます。
一番大事なのは、次女が春子といいまして、この春子が住友家の御曹子の住友吉左衛門(第十五代当主・住友友純)の嫁さんになります。ということは、住友と天皇家は血縁もいいとこなんです。そうでしょう?
そこから考えると昭和の闇もまた見えてきます。


◎八郎の岳父・西園寺公望は1919年パリ平和会議全権大使。、シナリオについては知悉していただろう。日米開戦前夜に死んでいるのは、シナリオに反対して消されたと私は思う。公望の私設秘書・原田熊雄は住友に丸抱えされてヤラセの連絡係りとして活躍する。住友は確かに怪しい。

じゃあ秩父宮は二番目に生まれますが、秩父宮はどうなんでしょうか。
秩父宮は東久邇が自分から言えないけど、東久邇の子どもなんです。
「こいつは何を言ってるんだ」と思うでしょうけど、『西園寺候と政局』という原田熊雄という男が書いた本があります、その本を私が言ったようなことを頭に置いて読まれると、東久邇と秩父宮が親子であるということが良く分ります。
いつも行動を共にして、西園寺が東久邇が妙な行動を取ると秩父宮を呼びつけて「東久邇に言え、妙な行動を取るな、と」。
そして又、秩父宮が変な行動を取ると西園寺候が東久邇を呼びつけて「あの子どもをもう少しセーブしろ」と言います。
東久邇は自分を自慢したくて、河野司を呼んで喋ったのかもしれません。(大正天皇に)子種がないことは事実です。で、貞明皇后はいろんな男とデキてます。で、樺山愛輔というのともデキているのはまちがいありません。そういうのから昭和の闇も見えてきます。

◎ぴゅあ☆ぴゅあ1949http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50282676.htmlよりダイジェストさせてもらいます。『白洲次郎の英国人脈にはジャーディン・マセソン商会の創業一族のウィリアム・ケズィック(兄)、ジョン・ケズィック(弟)がいる。ウィリアムは昭和20年代マセソンの最高幹部、ジョンは白洲の友人。
同社はイギリスの極東政策を実質的に支配していた商社であり、阿片戦争(1840-1842)の影の主役
このジャーディン・マセソンに白洲は日鉄・広畑工場(現・新日鉄)を格安の、わずか1億円で売却しようとし、日本の財界に阻止される。
また、白洲がのちに会長となる東北電力にもジャーディン・マセソンは絡もうとしている。
このJM商会はもともと吉田茂の父・吉田健三と深い関係があり、このJM商会が白洲次郎と吉田茂をつなぐきっかけになった思われる。
さらにGHQ民生局(GS)文書より、「多くの人間は、白洲がビジネスで成功したのは、義父・樺山愛輔を通じた三井実力者たちとのコネクションのお陰と考えている」(1947年)。
白洲次郎は徴兵を忌避したが、それが可能であった理由も同じくGHQ民生局(GS)文書より、「白洲は(戦前、戦中は)日本海軍と水産業会の諜報連絡役を務め」(1947年)とある。
戦前/戦中、日本の商社や水産会社が情報機関に協力したのは事実である。仕事で欧米やアジアを回り、帰国後、入手した情報を提供した。必要なら、海外支店駐在員に諜報員を受け入れ、資金調達も支援してきた。』

◎麻薬&奴隷商人たちに繋がるのは、田布施村王朝を樹立した伊藤博文以来の伝統である。
牧野と樺山の娘婿たちも同様である。吉田茂のあらゆる伝記本は、遺産60億円の使途は不明だと書いて済ましている。吉田茂がこの莫大な遺産を受けとったのはわずか11歳の時、平素頑健だった健三が心臓麻痺で急死したためであるが、恐らくザ・オーダーのデス・ノートに心臓麻痺と記載されていたのだろう。
吉田茂は白洲次郎を使って山本五十六、近衛文麿、尾崎秀実を抹殺している。
五十六暗殺のスケジュールは、13日に昭和天皇のお気に入り鮫島元侍従武官が行動予定時刻の詳細を打電、これが死を賜る合図である。
暗殺劇の予定は15日だったが「天候が良くない」という理由で延期された。アメリカ側が傍受できなかったのである。17日旗艦『武蔵』から再度打電され、これが傍受される。そして翌日18日の暗殺が決行される。

◎『この時ブイン上空で待ち伏せしていたジョン・W・ミッチェル少佐率いるP38戦闘機十六機は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場から飛来してきたものであり、地点としても航続距離ぎりぎりのところであり、長時間滞留するわけにはいかなかった。
有り難いことに山本五十六長官機一行が飛んでくる時間、コースは予め判明しており、時間に厳格な長官の性格まで分析した上での迎撃作戦なので、我が方がこの大編隊に気づかない限り、攻撃側の有利さは絶対であり、この勝負の帰趨は火をみるよりも明らかであった。』(衣川宏『ブーゲンビリアの花』より)

◎打電を幇助したのが海軍主計士官・中曽根康弘。陸海軍に秘密ルートを持つ白洲次郎が協力している。
中曽根はこの功績によって吉田コネクションに加わり、戦後若手政治家として頭角を現わす。
原発導入のためハーバード大学のサマースクールに参加、キッシンジャーの知己を得る。
鬼塚さんも中曽根を転がして原発推進を図った黒幕は、吉田茂であると指摘されている。
若手議員の中曽根や讀賣の正力が、『国策』を左右できるとは思えない。
原発推進の『国策』は、国会議員でさえ立ち入れない奥の院で既定事項とされていた
のである。

例えば2・26事件というのがあるんですが、昭和の闇というのは平成の闇もそうですが、ますます深まるのは、明治の時に話がさかのぼる訳ですよ。
幕末に。
その闇を私たちが直視してかからないから、今この福島の原発にも全部つながっていると僕は思うんです。
福島の原発も真実を見るためには、そこから見ようじゃありませんか。
そしてあえて言うなら日本人は、どこかでその巨大な闇に立ち向かうべき時に来ていると思います。  
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ※
 薩長土肥はそんなに生産力と資金があったのか?
 幕末から明治維新にかけて、幕府も政府もどこにそんな財力があったのか?
 フランスが幕府を支援し、英国が薩長土肥を支援したことはよく知られているが、その資金は香港上海銀行-マセソン商会などの国際金融資本が投入したものである。何のために?
 明治政府がただちに朝鮮、台湾、日清、日露と戦争への道を走ったのは何故なのか?

1862フルベッキ
 1862年の長崎。
 暴力団の若衆ではありません。フルベッキの下で倒幕派の記念集合写真。
 中央フルベッキ親子の子の前が大室寅之佑、子の後ろに西郷隆盛、西郷の左に大久保利通、左に二人おいて伊藤博文。最前列右から4人目に坂本龍馬、龍馬の後ろが高杉晋作。
 左端のオデコが大村益次郎、その前に桂小五郎、桂の後ろに中岡慎太郎、その右に大隈重信、大村のの後ろに勝海舟、といった勢揃いである。
 詳しくはNet検索で御覧ください。
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コメント

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面白かったです。
西園寺が昭和天皇の親と言うのは、友人から聞いていました。私が驚くと、そんなことも知らないのかと、蔑みの目で見られました。
知っている人は、知っているのですね。
ところで、三島由紀夫は226事件当時、まだ子供だったのでは?
連座して亡くなった人と知己であったと言うのが、今ひとつよく分かりません。
面白かったけれど、鵜呑みにせず、これは自分でちゃんと調べるべしと言うメッセージとみるべきでしょうか?
坂本竜馬が英雄とされていますが、一介の浪人が何故藩のエライ人にお目通りできるのでしょう?
そこから、隠された真実、壮大な嘘が有るとは感じています。
だから、この文はとても面白く読んだのですが、私の知識で????と言う部分が出てくると、なんだか、どう受け止めて良いのか分からなくなります。

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