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小沢氏2/28「日本国憲法について」

 小沢130228

   日本国憲法について  2/28  生活の党

小沢一郎代表が2月28日、総合政策会議において「日本憲法について」と題し、講演しました。以下講演の要旨です。

小沢一郎代表「日本国憲法について」 (動画)はこちら(外部サイト)

【講演要旨】
 憲法の改正論、憲法審査会でもいろいろと始まるということですが、私がいつも申し上げておりますのは、旧来の護憲、改憲の決まりきった論議というのは全くとは言わなくとも、あまり意味がないと思います。
 これから話しますが、憲法は私たちがより幸せに、より安全に生活するために、共同体のルールをみんなで定めたものでありますので、
 必要ならば変えればいいし、必要でなければそのままでいい、ということだと私は思っています。

 まず憲法9条がどうの、何がどうのという前に、憲法の本質、基本的な理念、今日近代法に至る歴史的な経過、そういうことをわからないで議論していても、議論はいいものにはならないと思います。
 中世・古代に遡る必要はないのですけれども、国家というのが、特にヨーロッパ世界で、現在の国家と似たような形をとってきたのは近世の絶対王政の時代なわけですけれども、
 この時代は国家の、共同体の、統治権と言ってもいいし、支配と言ってもいいのですけれども、その権力の依ってくるところは、王が(権力を)天から、神から授かったものだ、
 という、王権神授説という当時の論理に支えられて、(王は)それ(統治、支配)を正当化していたと言われております。
 神様から与えられた権力ですから、一般国民、人民、庶民は関係ないということになっていたのが近世の絶対王政の時代であったと思います。

 そこから血なまぐさい革命を経たところもあるし、少しずつ少しずつ、市民のあるいは商人であったり地主であったりしますが、力が強くなって、
 民主主義へ向かって既成の事実を積み上げてきて、ほとんど流血の革命なしに民主主義を作り上げてきたのがイギリスの歴史であります。
 典型的なのはフランスのブルボン王朝からフランス革命。
 みなさんご承知のことでありますが、この論理は王権神授説と呼ばれるものから、いわゆる社会契約説という思想に裏付けられたものであって、それが市民革命につながった、ということであります。

 この社会契約説、社会契約論で日本でも知られておりますのは、ジャン・ジャック・ルソー『民約論』。中江兆民が明治時代に『民約論』の解釈論を出しております。
 明治時代は天賦人権論という言葉もありましたが、とにかく社会契約論という中で、新しい近代の市民革命と市民国家になってきたということであります。

 この社会契約論が何かといいますと、社会共同体国家、これはそれを構成する個人個人が、自分たちの自由な意思、自由な議論によって合意を得て共同体国家を作り、
 もちろん国家を作れば憲法等ルールが必要になりますから(憲法が)できたという議論であります。
 個々人が自分たちで話し合って、その結果の結論が国家であり、国家共同体を規制する憲法以下の法律になりますから、
 結局それは個々人が最終的な判断、権限を持つ、いわゆる国民主権の原理になるわけであります。
 そういう意味で国民主権というのは、近代の市民革命の時には、社会契約論的な考え方に裏打ちされて、絶対王政から新しい近代の国家へ移ってきたということです。

 だから今、日本国憲法の理念という時の根本は国民主権ですけれども、
 国民主権とはそういう考え方のもとで、国家というもの、共同体が形成されたのであるからして、その決定権があるのは国民、人民であると。すなわち主権者は国民だ、という考え方になるわけでありまして、
 その共同体、国家と、構成する人民、国民が自分たちの生活を守り、よりよくするために作った最高の法規が憲法ということになります。
 それで憲法のもとでいろいろな原理原則に基づいた法規が作られていく、ということになるわけです。

 さらに社会契約論の個々人、個人個人が、独立した個人個人が意見を交換して合意を得る。
 そして共同体を作り上げる、ということの、その個人に焦点を当てて掘り下げてみますと、それは個人の意思表示の自由という本質の原則に突き当たる。
 自由な意思表示を個人個人が行って、そしてそれをみんなが合意してまとめる。本質の問題は自由な意思表示ということが最前提であり根底にあるわけです。

 それが誰かによって誘導されたり強制されたりしたのであっては、自由な市民、自由な国民の意思の表示とは言えませんから、従ってそれは国民主権というわけにはいかない
 あくまでも人民がそれぞれの意思に、自由な意思に従って自由な議論の結果ルールを作る、ということになるわけであります。
 ですから、そのことを原理的な側面からのみ追求、切り口をそこにあてていますと、鈴木幹事長がいつかの時に、私(小沢代表)の論文の中に憲法無効論の話がある、と言いましたけれども、これは純粋憲法法律的に言うと、という前提での話でございます。
 なぜかと言いますと、これは安倍晋三さんも彼自身論理矛盾だと思うのですが、占領下だから変えなければならないのだ、占領下だからどうだと。
 それでは日本国憲法はどうなのだというと、いや、いいところは残せばいいと。
 では占領下でもいいところはいいと言えばいいではないか、という話になって、ちょっと論理矛盾するのではないかと僕は思いますけれども、それは別問題として、
 自由な意思表示をできる条件、環境の中での意思表示でない限り、それは無効で効力を持たない、というのは当然の帰結になります。

 フランス憲法、ドイツのボン基本法、ここには憲法の明文として、「第3国の占領下において作られた憲法をはじめいろいろな法規制度はすべて効力を有しない」という規定があります。
 これは彼らがしょっちゅうやったりやられたりしていましたから、負けて占領されているときに相手方がやったことは認めない、ということなのですが、
 簡単に言えば。少し難しく理屈を言えば、自由な意思表示が制限されている状況において作られたものは、約束としての効力を持たない、ということなのです。

 だからその意味で日本国憲法を、占領下にあったからという理屈を立てると、
 これはフランス第5共和政憲法、ボン基本法の条文が示す通り、占領下での日本国憲法ですから、無効ということになります
 効力を有しないということになるのですが、もちろん法律論と同時に、実態社会で果たしてそれを理屈で押し通すことがいいかどうかということについては別問題でありますが、法律的にはそういうことになります。
 これはいわゆる契約自由の原則という近代法の根本の前提条件であります。

 それからもう一つあるのは、皆さんも『ヴェニスの商人』というシェークスピアの作品をご存じだと思います。
 若者が貿易をするにおいてお金が足りなかったので、ユダヤの商人からお金を借りて、船が荷物を積んで帰ってきたらそれを売ってお金を払うと。
 もし払えなかった時には、そのユダヤの商人は金よりも、シェークスピアによれば、その本人を何とか痛めつけることが目的だったようで、胸の肉を1ポンドだったか10ポンドだったか忘れたけれども、くれるという契約を結んだわけです。
 しかしこれは脅迫されて結んだわけでも、監禁された状態で結んだわけでもない。
 全くビジネスのものとして結んだ。
 その意味では契約自由の原則に、その点だけは合っているわけです。
 そしてシェークスピアの結末は肉を1ポンドだか10ポンドだか与えると契約書に書いているけれども、血の一滴とも与えるとは書いていない。
 従って血を流さずに胸の肉を切り取れと。こういう名大岡裁きでもって、ユダヤの商人はそれをできなくなったという昔のシェークスピアの話です。

 これは契約自由の原則から言えば、契約としては成り立っているはずだと思うのですが、近代法から言いますと、これは名裁判を待つまでもなく無効なのです。
 なぜですか。お金を借りた方は別に脅かされて借りたわけでも何でもないですよ。貸してくれと。
 そしたら相手がそれではお前の胸の肉をくれと。それならいいでしょうと言って。
 絶対帰ってくるから、積み荷を売って儲かって帰ってくるからいいと言って借りた。契約を書いた。
 大岡裁きの話は別ですよ、血と肉を別々のものとして考えて、どうだ参ったかという話ですから、それは別ですが、
 近代法の思想からいうと最初からこの契約は無効です。
 なぜかと言いますと、契約自由の原則とはいえ、いわゆる公序良俗に反した公共の秩序、善良の風俗に反した契約は無効です。
 効力を持たないということなのですが、人の肉を契約の、権利の、債権の目的にするということはできない
 すなわち人間は権利の主体であって権利の客体にはならない、対象にならないということなのです。
 ですからそういう意味でちょっと話は別ですけれども、補足して言いますと、
 こういうような契約自由の原則も近代法に、脅迫とか監禁とかピストル突きつけられたとかいうのならわかりやすいですけれども、もう一つの側面は、そういう権利の客体、人間を権利の対象にしてはならない、できないということが契約自由の例外というわけではないのだけれども、当然の契約になるわけです。

 ですから余計なことを言いましたけれども、
 いずれにしても憲法の制定、国民の意思であれ、個人の契約であれ、個人と個人の契約であれ、自由な意思表示というものがその根底の一番大事な原則になる、ということであって、
 結果として、それが国家として考えると国民主権ということになるということであります。

 これを頭に入れておいてもらいながら、日本国憲法の制定についてお話します。
 日本国憲法は、大日本帝国憲法の第73条の改正規定によって改正され、国会の議決を経てできあがりました。
 この憲法には、いわゆる俗にいう欽定憲法と言われるものと民定憲法と言われるものがあります。
 欽定憲法というのは、君主から国民に対して与えられた憲法ということになります。
 明治憲法は、その他の君主制のところとも似たり寄ったりですが、ドイツはプロシアで、武力で統一しましたから、より皇帝の権力が強かったと思います。
 イギリスのような立憲君主制、君臨すれども統治せずという歴史的な経過の中で築き上げられた国もあります。
 いずれにしろイギリスでも形の上では女王陛下が元首であって、そして女王陛下のキャビネットであり、女王陛下のネイビーでありアーミーであるということは形式的に今なお続いております。
 ですから、今日は施政方針演説がありましたけれども、英国では施政方針演説は女王陛下が行います。
 私のキャビネットなわけです。
 そういう形はとっておりますけれども、実質的には最も民主的な、慣習法を中心とした国家であることは言うまでもないことであります。

 だから大日本帝国憲法というのは欽定憲法であり、天皇体系が形の上では非常に強大であります。
 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」から始まっております。
 ただあくまでも国務大臣には、内閣総理大臣ももちろんですが、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」という規定があります。
 要するに天皇陛下のやることを助けなければいけない、その責任はあるのだよ、と。
 だから事実上日本国憲法の、助言と承認に基づいて天皇が国事行為を行うということと同じことなのですね。
 その意味では帝国憲法というのは、実質的には運用をうまくやれば非常に開明的な憲法であったことは間違いない。
 ただその憲法の条項、第11条、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文があります。
 ですから軍部が統帥権の独立と、この輔弼の責任に統帥権は対象とならない、天皇陛下が直接陸海軍を統帥すると。
 だからお前たちは文句を言うなと、内閣やその他の政治家が文句を言うなという理屈でもって横車を押したというのが過去の歴史です。

 いずれにしろ帝国憲法の73条の改正規定によって日本国憲法ができたのですが、
 ここで時事問題と関連しますが、帝国憲法はあくまでも天皇主権という建前をとっておりますね。一方日本国憲法は国民主権というのが最大の基本原則になっている。
 そうすると、今(日本国憲法の)96条の要件緩和だとマスコミも一緒になって言っていますけれども、全くもう少し学問的なものを深めてもらいたいと思うのですけれども。

 なぜ日本国憲法が無効であり、一旦帝国憲法に戻って、それから新しい憲法を作れという議論を今言う人はほとんどいないのですが、旧京都帝国大学のころ佐々木惣一さん大石義雄さんという学者はそれに近いことを言っていました。
 なぜかというと、帝国憲法の改正手続きによって、その憲法の定める根本を変えたわけです。
 天皇主権から国民主権と。
 これは学説的には改正ではないということなのです。
 要するに帝国憲法が根幹とする天皇主権を、自らの改正規定によって改正できるとしたら自殺行為である。そんなことは理屈上ありえない、というのが基本的な考え方です。

 ですからこれは形の上では73条の改正規定に則って日本国憲法ができましたけれども、実質的には革命であり、新しい憲法の制定なのです。
 改正ではないのです。
 だからその意味において、日本国憲法をまた国民主権から天皇主権に戻しますとか、基本的人権は認めませんとか制約しますとか、そういう類の新しい憲法を作ろうとしたら、それは日本国憲法の96条ではできない。
 自らを否定するようなことになることを、自らの改正規定でやることはできない、ということになるのです。

 そうしますと、96条で要件の緩和、それで何をするのだかわかりませんけれども、政治家もマスコミも(96条改正を)言う人はいます。
 そうすると、憲法には硬性憲法と軟性憲法と2つあります。
 硬性というのは硬いという意味ですから改正が難しい。
 日本国憲法も両院の3分の2ですから。帝国憲法も天皇の詔勅、発議によって両院の3分の2。これも硬性憲法ですね、ある意味において。天皇の詔勅がなければできないのだからもっと硬いですね。
 そういう意味で、これも1つの、日本国憲法の根本のものではないか、
 硬性憲法にしたということは。というのは、日本国憲法の理念そのものを否定するような憲法改正を形の上で容易にするようなことはできないと。
 ですから96条の要件緩和だけを先にやってみたいという類の話は、非常に学問的、あるいは論理的、理念的な、思想的なことから言いますと、へんちくりんな議論だということになります。

 ですからその意味において、要するに法律の理念、思想、論理と、実態としてできるかできないかを混同したらだめですよ。
 みなさんというよりもマスコミも何もかもが混同した議論をしているからわけがわからなくなってしまう。
 実態としてできるかどうかということと、法理論的におかしいということはちょっと違う。
 例えば選挙法。憲法違反だと最高裁が言っているでしょ。
 だけども憲法違反の選挙法で選挙しているでしょ。それでも無効とはならないでしょ。
 だから実態政治のことと、法的なあるいは本質的な考え方に分けて考えなくてはならないけど、そこをごちゃまぜにして何もかも議論をするから、余計頭がこんがらがってわけがわからなくなる
 だから理論の上ではそういうことになる。

 となると、戻りますけれども、日本国憲法の理念とは何だ、基本の原則とは何か、ということになります。
 これはもう大体みなさんおわかりだと思うけれども、日本国憲法の前文に含まれております。
その1つは国民主権の原則。
それから基本的人権の尊重。
それから平和国家、平和主義
そして国際協調の原則。
普通この4つを日本国憲法の基本の理念、原則と言っております。

 ですから、仮に96条の3分の2ずつができて国民の過半数の賛同を得たとしても、理屈の上では、これを否定するような憲法を96条の改正手続きによってはできない
 要するに自分自身を否定することになる。それはもはや革命だ。
 新しい理念に基づく、新しい思想に基づく憲法を作るということになるわけであります。

 だから96条だけ先行して改正というのは、先ほども言ったように、わからない議論になってしまう、
 理屈から言うと。96条の改正という場合には、どういう憲法を想定し、その憲法はどういう理念で作られるものか、ということを明確にしないといけない。
 ただ単に、何でも変えたいときに変えられるようにしたい、改正規定で何でも変えられる、という類の発想につながってしまう。
 それは非常に、論理的には法の理論から言うとあまりにも乱暴であり、あまりにも跳びはねた議論ということになってしまいます。

 ですから憲法の逐条に入る前に、こういうことをしっかりと頭に入れて議論しなくてはいけないと思います。
 特に、繰り返しますが、法律論というのはまず法解釈論なのです。
 法律論と言ったときには、現行の法律解釈論なのです。
 それで政治的な論議、これは立法論。
 立法論と解釈論をごちゃまぜにしてはいけない
 解釈論は現行法を前提にして、法律の意味するところを導き出す。
 立法論は現行の法律ではなくして、あるいは憲法でなくして、違った規定を作りたいとか、根本から原則を変えたいとか、というのはまさに政治論すなわち立法論であります。
 だからこれもごちゃまぜにして議論すると、非常におかしな議論になってしまう、ということをぜひ頭を整理して、憲法問題の時には考えていただきたいと思います。

 今日は時間がないので、いつでもまたみなさんが必要であれば、この後次は逐条の僕なりの解釈をしたいと思いますが、
 結論だけ先に言うと、日本国憲法はいろいろなところで、昼にはた(ともこ)君からあったけれども、二院制の問題ももちろんありますし、その他のところでも9条だけではなくして、いろいろ現在の実勢には合わなくなってきているところがありますから、みなさんの合意があれば改正することは当然、行われてしかるべきだと思っております。
  ただそれが、最初に言ったように、旧来の護憲・改憲の決まりきった、収まりのない、つまらない議論になってしまうと、こういう冷静な議論ができなくなってしまいますので、
 そこだけは注意をして、みんなで議論し、まとめてもらったらいいのではないかと思います。

 あとは日本国憲法第1章からの問題もあります。
 日本国憲法も帝国憲法も第1章天皇、第1条も天皇なのです。ここもついつい忘れがちなのです。
 帝国憲法も第1章第1条が天皇、万世一系の天皇というのがそれです。
 日本国憲法は表現が変わって、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現に変わっただけで、
 基本的には、これは法律論ではないです、実体論的には運営さえきちんとしていればそれほどの違いはない
 法律的な理屈の上では真反対の話ですけれども。

 こんなことを個別の逐条で、もし興味があったらまたの機会にしたいと思いますが、今日はこの辺で終わります。ありがとうございました。
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