チェリノブイリの子ども:ビクトル・ブイソフ
2013-02-21
苔、ああ苔! ビクトル・ブイソフ(15) 「チェリノブイリの子どもたち」から
「ヒロシマ・ナガサキ・チェルノブイリ。それはどんなだったのか」
フセボロド・オフチンニコフ著『熱い灰』より
「1945年8月6日、月曜日。朝、広島の上空に一機のB29が現れた。それはイザリー少佐の操縦する飛行機であった。
それまで雲が空一面にかかっていたが、ちょうどその時、広島上空に直径20キロメートルの晴れ間ができた。8時14分15秒、爆弾収納のハッチが開かれた。その後47秒間は、広島の上には太陽が穏やかに輝いていた。
そして、音のない原爆の光が一瞬にして、広島を『熱い灰』に変えてしまった。
気象偵察機は、小倉も長崎と同じく晴天であることを知らせてきた。爆撃機は小倉にコースをとった。しかし、爆弾投下の直前、日本の南からの風が向きを変え、厚い雲のベールが街を覆った。
スワニー少佐は、原爆投下を予備の目的地であった長崎にかえた。こうして長崎の悲劇的な運命が決められた。1945年8月9日11時2分、長崎のある教会の真上で原爆は爆発した。
日本を占領したアメリカ人は原爆投下とその犠牲について報道することを禁止し、ヒバクシャ問題は日本ではタブーとなった。
しかし、時がたつにつれ事態は明らかになり、今では全世界がこの恐ろしい出来事をよく知っている」
「プラネタ」出版社刊「チェルノブイリ・リポート」(1987年末、5万5千部発行)より。
1986年4月26日朝、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した。
原子炉が破壊された。周囲にはウラン核燃料とコンクリートの破片が飛び散り、原子炉は死の灰を放出した。
事故直後、多くの人が放射能によって、死に、発病した。
その日の天気はすばらしく良かった。風はほとんどなく、凪ぎの状態で、太陽は明るく輝いていた。
これは不幸中の幸いであったかもしれない。もしこの日、風があれば、事故の被害はもっと早い速度で周囲に拡がり、より悲劇的なものになっていたであろうから。
だが、いずれにせよ、平和利用の名のもとに僕たちの国に持ち込まれた原子力が今や牙をむき出して、原爆と同じように放射能によってつぎつぎと人を殺している。
僕は1979年12月16日に生まれた。事故当時は、6歳すぎだった。そのころのことを、断片的に思いだす。
朝。湿ったもやが太陽の光をさえぎっていた。
父と一緒に菜園に行き、種蒔きの準備をした。そのうち太陽が姿を現し、僕は喜んで一日中太陽の光を浴びた。
朝の仕事をすませ、昼食の後、家族全員でモスコビッチに乗って森へでかけた。
翌日、白樺ジュースをとりに出かけた。
ソコロフカのそばの白樺林では白樺ジュースが採取されていた。僕たちはたき火を起こし、サーロ(※)を焼き、ジュースを飲んだ。それは楽しくて、幸せそのものの一時であった。
白樺ジュースを家へ持って帰り、知人や友人に分けた。それを穴蔵に貯蔵し、一夏中、飲んだ。
※サーロ
豚の脂の塩漬け
その年のメーデー、5月1日も良い天気だった。
広場は赤旗でうめつくされ、人々はほほ笑み、喜びにあふれている。僕たちは行進に参加し、演壇のそばでは「ウラー(※)。ソ連共産党に栄光あれ!」とシュプレヒコールをあげた。
※ウラー
万歳
5月9日、僕たちのクリチェフの町に第二次大戦の功労者がやってきた。
彼らに花束やプレゼントを渡した。クルガン・スラーブイには大勢の子どもや大人が集まった。集会の後、コンサートが催され、市もたった。
夏の間、両親と一緒にチェリコフ郊外で過ごした。
サラノエ湖のそばで、コケモモ、イチゴ、キノコを採った。ソシ川では水泳をし、日光浴をした。
その年の秋に、僕は入学した。
戦争や労働の功労者が学校を訪れ、平和授業があった。また、生徒全員で町の建設850年の祝日の準備をした。
祝日の日、町は再び赤旗でうめつくされ、演説、歌でにぎわった。
チェルノブイリについて僕たちが知ったのは3、4年のころだった。
ここから遠く離れたところで、原子炉の爆発があったと聞かされたが、僕たちの地区や町が被害を受けていることは、その時は一言も話されなかった。
けれども、そのことをそのすぐ後に知ることとなった。
当時、僕たちの国では、チェルノブイリの事故は、日本のヒバクシャと同じでタブーであった。
2、3年もの間、誰も森でイチゴやキノコを集めるのが危険だとは言わなかった。
僕たちはチェルノブイリの白樺ジュースを飲んだ。
セシウム、ストロンチウム、プルトニウムの入った、キノコやイチゴを食べ、放射能でよごれた太陽で日光浴をし、放射能で汚染された川や湖で泳いだ。
僕のクラスにアリョーシャ・メリニコバという女の子がいた。
彼女の両親は新しく木の家を建て、その家に3年ほど住んでいた。アリョーシャが発病した。
保健所が放射能測定をした結果、彼女の家の放射能濃度は基準を超えていることがわかった。
その家は、苔の上に建てられており、その苔が放射能に汚染されていたのだった。
国家のチェルノブイリ委員会は、彼らに新しく別の家を建て、アリョーシャはサナトリウムに送られた、だが、病気になっているのはアリョーシャ1人ではない。
ここ数年、僕たち同級生はナリツィクやビチェプスクで休暇を過ごした。
去年は放射能汚染がひどいボトビノフカ、オソベッツ、スルツクの子どもたちと一緒にドイツを訪れた。飛行機は2時間半で北ラインのキュテルスロの町に着いた。
僕たちは、それぞれ子どものいるドイツの家庭に分かれた。ドイツの人々と僕たちはお互いによく理解しあえた。
というのは、そこにはカザフスタンやロシアからの難民が住んでいて、僕たちの通訳をしてくれたから。
僕はグロフェル家の美しい木の家に滞在した。
そこには男の子3人がいた。マークス、ティーロ、ヤンだ。
コンサート、サーカス、軍事科学博物館へ連れていってもらった。公園に行き、メリーゴーラウンドにも乗った。
一番の思い出は、僕の国では見たこともない螺旋状の滑り台のあるプールで泳いだことだ。上から下へ何回も滑り降り、気が済むまで泳いだ。
子どもたちと一緒に一つの部屋に住み、食事をした。自転車を一緒に乗り回した。
彼らのお母さんとは、よく食料品店に行き、夢でしか見たことのないような豊富な食料品に驚いた。
ドイツ人の友人たちは僕たち一人ひとりにプレーヤー、カセット、ジーンズ、ジャンパー、きれいなスポーツバック、チョコレート、キャンディをプレゼントしてくれた。
ドイツはすばらしかったが、少しだけ自分の町や、友だち、故郷の自然が恋しかった。
「ベンツ」社製のバスでドイツ、ポーランドを通って帰国し、帰ってからドイツに手紙を書いた。
秋には小包や手紙が送られてきた。
グロスフェルさんは次のように書いてきた。
「小包と写真を送ります。こちらはすべて順調です。君もそうだと思います。
報道によると、チェルノブイリ原発は完全に活動を停止したわけではなく、今でも放射能を出しているそうですね。
チェルノブイリが再び爆発しないよう、神様にお祈りをしています。君たちも、私たちのために、神様にお祈りして下さいね」
全世界平和委員会は毎年8月、核兵器の禁止と原爆被爆者との連帯のための行動週間を実施することを決めている。
肉親を失った広島・長崎の人々と、僕たちの同胞だけではなく、全人類がこの日、新たな誓いをくりかえす。
広島の平和公園の石碑に刻まれた「安らかにお眠りください。あやまちは二度と繰り返しませんから」という誓いを。
同じように人々はチェルノブイリとその悲劇をも忘れないようにして欲しいものだ。
真実を語ることを禁じられたことを忘れてはならない。
あざむかれて、野外の太陽のもとで祝日の行進に参加させられたことを忘れてはならない。
そして、ベラルーシ人、ロシア人、ウクライナ人に対し、真実を隠した人の名を公表してほしい。
真実は決して隠したり、地中に埋めたりしてはいけないものなのだ。
学校では、何年か前から「チェルノブイリの日」をもうけた。
そうろくに火をともして、事故後になくなった生徒、先生、知人をしのんでいる。
今では、たとえ誰かがいやがっても、人々は公然とチェルノブイリのことについて話しているということを、僕は大人たちから聞いている。
アメリカ人、日本人、ドイツ人、ベラルーシ人、世界中の人にとって、地球はひとつである。
地球を大切にしなければならない。
地球は僕たちの家である。一緒になって地球を守らなければならない。
「ヒロシマ・ナガサキ・チェルノブイリ。それはどんなだったのか」
フセボロド・オフチンニコフ著『熱い灰』より
「1945年8月6日、月曜日。朝、広島の上空に一機のB29が現れた。それはイザリー少佐の操縦する飛行機であった。
それまで雲が空一面にかかっていたが、ちょうどその時、広島上空に直径20キロメートルの晴れ間ができた。8時14分15秒、爆弾収納のハッチが開かれた。その後47秒間は、広島の上には太陽が穏やかに輝いていた。
そして、音のない原爆の光が一瞬にして、広島を『熱い灰』に変えてしまった。
気象偵察機は、小倉も長崎と同じく晴天であることを知らせてきた。爆撃機は小倉にコースをとった。しかし、爆弾投下の直前、日本の南からの風が向きを変え、厚い雲のベールが街を覆った。
スワニー少佐は、原爆投下を予備の目的地であった長崎にかえた。こうして長崎の悲劇的な運命が決められた。1945年8月9日11時2分、長崎のある教会の真上で原爆は爆発した。
日本を占領したアメリカ人は原爆投下とその犠牲について報道することを禁止し、ヒバクシャ問題は日本ではタブーとなった。
しかし、時がたつにつれ事態は明らかになり、今では全世界がこの恐ろしい出来事をよく知っている」
「プラネタ」出版社刊「チェルノブイリ・リポート」(1987年末、5万5千部発行)より。
1986年4月26日朝、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した。
原子炉が破壊された。周囲にはウラン核燃料とコンクリートの破片が飛び散り、原子炉は死の灰を放出した。
事故直後、多くの人が放射能によって、死に、発病した。
その日の天気はすばらしく良かった。風はほとんどなく、凪ぎの状態で、太陽は明るく輝いていた。
これは不幸中の幸いであったかもしれない。もしこの日、風があれば、事故の被害はもっと早い速度で周囲に拡がり、より悲劇的なものになっていたであろうから。
だが、いずれにせよ、平和利用の名のもとに僕たちの国に持ち込まれた原子力が今や牙をむき出して、原爆と同じように放射能によってつぎつぎと人を殺している。
僕は1979年12月16日に生まれた。事故当時は、6歳すぎだった。そのころのことを、断片的に思いだす。
朝。湿ったもやが太陽の光をさえぎっていた。
父と一緒に菜園に行き、種蒔きの準備をした。そのうち太陽が姿を現し、僕は喜んで一日中太陽の光を浴びた。
朝の仕事をすませ、昼食の後、家族全員でモスコビッチに乗って森へでかけた。
翌日、白樺ジュースをとりに出かけた。
ソコロフカのそばの白樺林では白樺ジュースが採取されていた。僕たちはたき火を起こし、サーロ(※)を焼き、ジュースを飲んだ。それは楽しくて、幸せそのものの一時であった。
白樺ジュースを家へ持って帰り、知人や友人に分けた。それを穴蔵に貯蔵し、一夏中、飲んだ。
※サーロ
豚の脂の塩漬け
その年のメーデー、5月1日も良い天気だった。
広場は赤旗でうめつくされ、人々はほほ笑み、喜びにあふれている。僕たちは行進に参加し、演壇のそばでは「ウラー(※)。ソ連共産党に栄光あれ!」とシュプレヒコールをあげた。
※ウラー
万歳
5月9日、僕たちのクリチェフの町に第二次大戦の功労者がやってきた。
彼らに花束やプレゼントを渡した。クルガン・スラーブイには大勢の子どもや大人が集まった。集会の後、コンサートが催され、市もたった。
夏の間、両親と一緒にチェリコフ郊外で過ごした。
サラノエ湖のそばで、コケモモ、イチゴ、キノコを採った。ソシ川では水泳をし、日光浴をした。
その年の秋に、僕は入学した。
戦争や労働の功労者が学校を訪れ、平和授業があった。また、生徒全員で町の建設850年の祝日の準備をした。
祝日の日、町は再び赤旗でうめつくされ、演説、歌でにぎわった。
チェルノブイリについて僕たちが知ったのは3、4年のころだった。
ここから遠く離れたところで、原子炉の爆発があったと聞かされたが、僕たちの地区や町が被害を受けていることは、その時は一言も話されなかった。
けれども、そのことをそのすぐ後に知ることとなった。
当時、僕たちの国では、チェルノブイリの事故は、日本のヒバクシャと同じでタブーであった。
2、3年もの間、誰も森でイチゴやキノコを集めるのが危険だとは言わなかった。
僕たちはチェルノブイリの白樺ジュースを飲んだ。
セシウム、ストロンチウム、プルトニウムの入った、キノコやイチゴを食べ、放射能でよごれた太陽で日光浴をし、放射能で汚染された川や湖で泳いだ。
僕のクラスにアリョーシャ・メリニコバという女の子がいた。
彼女の両親は新しく木の家を建て、その家に3年ほど住んでいた。アリョーシャが発病した。
保健所が放射能測定をした結果、彼女の家の放射能濃度は基準を超えていることがわかった。
その家は、苔の上に建てられており、その苔が放射能に汚染されていたのだった。
国家のチェルノブイリ委員会は、彼らに新しく別の家を建て、アリョーシャはサナトリウムに送られた、だが、病気になっているのはアリョーシャ1人ではない。
ここ数年、僕たち同級生はナリツィクやビチェプスクで休暇を過ごした。
去年は放射能汚染がひどいボトビノフカ、オソベッツ、スルツクの子どもたちと一緒にドイツを訪れた。飛行機は2時間半で北ラインのキュテルスロの町に着いた。
僕たちは、それぞれ子どものいるドイツの家庭に分かれた。ドイツの人々と僕たちはお互いによく理解しあえた。
というのは、そこにはカザフスタンやロシアからの難民が住んでいて、僕たちの通訳をしてくれたから。
僕はグロフェル家の美しい木の家に滞在した。
そこには男の子3人がいた。マークス、ティーロ、ヤンだ。
コンサート、サーカス、軍事科学博物館へ連れていってもらった。公園に行き、メリーゴーラウンドにも乗った。
一番の思い出は、僕の国では見たこともない螺旋状の滑り台のあるプールで泳いだことだ。上から下へ何回も滑り降り、気が済むまで泳いだ。
子どもたちと一緒に一つの部屋に住み、食事をした。自転車を一緒に乗り回した。
彼らのお母さんとは、よく食料品店に行き、夢でしか見たことのないような豊富な食料品に驚いた。
ドイツ人の友人たちは僕たち一人ひとりにプレーヤー、カセット、ジーンズ、ジャンパー、きれいなスポーツバック、チョコレート、キャンディをプレゼントしてくれた。
ドイツはすばらしかったが、少しだけ自分の町や、友だち、故郷の自然が恋しかった。
「ベンツ」社製のバスでドイツ、ポーランドを通って帰国し、帰ってからドイツに手紙を書いた。
秋には小包や手紙が送られてきた。
グロスフェルさんは次のように書いてきた。
「小包と写真を送ります。こちらはすべて順調です。君もそうだと思います。
報道によると、チェルノブイリ原発は完全に活動を停止したわけではなく、今でも放射能を出しているそうですね。
チェルノブイリが再び爆発しないよう、神様にお祈りをしています。君たちも、私たちのために、神様にお祈りして下さいね」
全世界平和委員会は毎年8月、核兵器の禁止と原爆被爆者との連帯のための行動週間を実施することを決めている。
肉親を失った広島・長崎の人々と、僕たちの同胞だけではなく、全人類がこの日、新たな誓いをくりかえす。
広島の平和公園の石碑に刻まれた「安らかにお眠りください。あやまちは二度と繰り返しませんから」という誓いを。
同じように人々はチェルノブイリとその悲劇をも忘れないようにして欲しいものだ。
真実を語ることを禁じられたことを忘れてはならない。
あざむかれて、野外の太陽のもとで祝日の行進に参加させられたことを忘れてはならない。
そして、ベラルーシ人、ロシア人、ウクライナ人に対し、真実を隠した人の名を公表してほしい。
真実は決して隠したり、地中に埋めたりしてはいけないものなのだ。
学校では、何年か前から「チェルノブイリの日」をもうけた。
そうろくに火をともして、事故後になくなった生徒、先生、知人をしのんでいる。
今では、たとえ誰かがいやがっても、人々は公然とチェルノブイリのことについて話しているということを、僕は大人たちから聞いている。
アメリカ人、日本人、ドイツ人、ベラルーシ人、世界中の人にとって、地球はひとつである。
地球を大切にしなければならない。
地球は僕たちの家である。一緒になって地球を守らなければならない。
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