チェリノブイリの子ども:ビクトリア。ルゴフスカヤ
2013-02-21
鏡さん、話しておくれ ビクトリア・ルゴフスカヤ(16) 「チェリノブイリの子どもたち」から
遮断機のむこうに 雲がたれこめている
二十世紀は人類の行き止まりなのか
イーゴリ・シクリャレフスキー
それは、そうとう前にあったことだが、私はいまでもその日のことを覚えている。
4月の終わり頃で暑かった。草は青く茂り、乾燥した風が吹いていた。
穏やかな春の日、そんな日に誰が死の粒子の事を想像できたろう。すべての生き物を殺し、害をあたえる物質が私たちのすぐそばの空中にただよっていたなんて。
いつものように友だちと一緒に外で遊んでいた私は、家のそばの草原で小さな手鏡をみつけた。8歳の女の子にとって、それは何とうれしかったことか。
その後、おばあちゃんが、焼きたてのキャベツ入りのピロシキを食べるようにと、私を呼んだ。
そのおばあちゃんはもういない。けれどその日見つけた鏡は、いまでもカバンに入れて持ち歩いている。
私はいつもその鏡をのぞき込み髪をなおしている。
太陽、草の鮮やかな緑、ほほ笑むおばあちゃん、キャベツ入りのピロシキ。
これらはすべて過去のものになってしまった。
「チェルノブイリ」という恐ろしい一語がそれを打ち消してしまったのである。
私が、最初にチェルノブイリが本当に恐ろしいものだと理解したのは、隣のおばさんの話からだった。
おばさんは涙ながらに、彼女の姪の葬式に行った話しをした。
彼女の妹の小さな娘は病院で白血病のために死んだそうだ。この小さな女の子にこんなに早く死が訪れることを、誰が知っていただろうか。
この子が知るはずだった初恋の苦しさと喜び、母親になる幸せ、生きる幸せ。何も知らないで死んでいくとは、この子自身も思いもよらなかったろうに。
「ママ。お人形さん、買って。ベーラちゃんと同じもの」
ある日、女の子は母親にこうおねだりしたそうだ。
かわいそうにそのこの母親はこの一人っ子の病気で、すっかりふけ込み、わずかのお金も高価な薬のために使ってしまっていた。
こんなことさえなければ、母親はたぶん娘にこう言っただろう。「でも高いのよ」と。
けれども病床の娘の欲しがるこの人形が、死の淵にいる子どもに希望を与え、元気づけるのであればと母親はいとしい娘に人形を買い与えた。
しかし、そのかいもなく女の子は小さな指で人形を抱きしめたまま死んでいった。
私の母は、隣のおばさんを長い間なぐさめて、薬酒を飲ませた。それから母は私に部屋から出るように言った。
この日、私ははじめてチェルノブイリの意味が分かった。
それは放射能であり、白血病であり、ガンである。子どもたちはそれによって死んでいく。
何の罪でこうなるのか。このような子どもはどれだけいるのか。
私の知り合いが、悲しいことに有名になってしまったミンスクのボロブリャン(腫瘍学研究所があるところ)で実習をしたときのことを話してくれた。
「病院をかけまわっている子どもはまるで宇宙人のようだ。髪はなく、まつげもなく、顔には目だけ。ある男の子は骨に皮がついているだけ。体は灰色だった。最初は避けていたが、あとでは慣れてしまった」
慣れた……。私たち、みんなが慣れてしまったら、この先どうなるのだろう。
誰かの怠慢で原発が爆発し、海や川や空気を汚し、人が死んでいくのに慣れてしまうとしたらどうなるのだろうか。
十七世紀 殺された人
330万人
十八世紀 殺された人
520万人
十九世紀 殺された人
550万人
二十世紀 400万人以上
ヨーロッパだけで
モギョリョフ出身の詩人イーゴリ・シクリャレフスキーがこの詩を書いた(詩集『平和についての言葉』1984年)。
彼は、この恐ろしい数字にどれだけの人命が付け加えられるか知らなかった。4千万人もの尊い生命が。
何人がガンで死んだのだろう。何人が白血病で死んだのだろう。このそっけない統計のうらには何があるのだろうか。
何千、何百万人という人々が不幸でうちひしがれた。
学校の物理の授業で先生がチェルノブイリ原発事故の被害について話してくれたとき、私は先生の話にショックを受けて、ノートに絵を書き残した。
8本足の馬、尾が二つのキツネ、巨大なトマト……。そのころの私にとっては、たぶん、それらはすべて空想によるものでしかなかった。
だが、つい最近、雑誌の『アガニョーク』の古い号をパラパラとめくっていた時、私は突然凍りついてしまった。これは何だ。痩せこけた青白い顔に大きな苦痛の目をした子どもの写真。
日本の九州の、生まれつき手のない盲目の小さな女の子の写真だった。
この子の母親は原爆病で死んだそうだ。
ああ、いつの日か、私の愛するベラルーシの子のこんな風にうつろで懇願する目に、雑誌の中で出合うことになるのだろうか。
もっと恐ろしいことがある。
ある種の人たちは他人の不幸をしりめに金儲けをしている。
ある者は汚染ゾーンから持ってきたトマトを市場で売り、またある者は異常にきれいで熟した、大きいリンゴをバケツごと売りつけている。
家と財産を放り出して逃げた人々がいる一方でトラックでその家に乗りつけ、家具、じゅうたん、クリスタルガラスの花瓶を盗み出しては、町で売りさばいている者がいる。
こんな風にチェルノブイリの闇商売は続いているのだ。このような不道徳な心ないことが起こる原因はどこにあるのだろうか。
飢えや貧困がこの人々を罪の道に走らせるのではあるまいか。
「人の良心は清くあるべきだ」詩人ボズネセンスキーのこの訴えは、今の私たちにこそ必要なものだ。
人々の良心は、恐ろしい戦争中でさえ申し分なく残っていた。
当時は、自己犠牲の崇高な精神や、私心のない禁欲主義が要求され、それが発揮されたものだった。
他人の不幸で金儲けするこの成り金たちはどこから現れてくるのだろう。
この寄生虫どもを人間とよんでもいいのだろうか。
「人であるということは、自分自身の義務を意識することである」とフランスの作家サン・テグジュペリが言った。そのとおりだ。
危険に直面するとき人の無責任と弱点は、全人類に災害や事故や滅亡をもたらす。
まだ遅くない。踏みとどまって、ツルゲーネフの小説にでてくるバザーロフのように行動しよう。
「自然は寺院ではない。作業場である。人はそこの働き手だ」と。何年間、人はこのような「働き手」だったのだろうか。
有名なポーランドの批評家スタニスラフ・エジ・レッツが言ったことを思いだしてみよう。
「人類の手にすべてがある。だからこそよく手を洗うことだ」と。
チェルノブイリ。
現実と、そして私の想像。すべてが混じり合って区別がつかない。
穂がやけ焦がれた畑、鉛色の雨雲でおおわれた重苦しい空、するどい叫びで静寂をやぶって旋回する孤独のカラス。
チェルノブイリ……。
ずいぶん昔だった……。昔だろうか。
残念ながら、チェルノブイリの悲劇は続いている。
それを、いつも思い起こさせるのが、小さく丸い鏡。
それを見つけたのが、あの忌まわしい日、1986年4月26日。
遮断機のむこうに 雲がたれこめている
二十世紀は人類の行き止まりなのか
イーゴリ・シクリャレフスキー
それは、そうとう前にあったことだが、私はいまでもその日のことを覚えている。
4月の終わり頃で暑かった。草は青く茂り、乾燥した風が吹いていた。
穏やかな春の日、そんな日に誰が死の粒子の事を想像できたろう。すべての生き物を殺し、害をあたえる物質が私たちのすぐそばの空中にただよっていたなんて。
いつものように友だちと一緒に外で遊んでいた私は、家のそばの草原で小さな手鏡をみつけた。8歳の女の子にとって、それは何とうれしかったことか。
その後、おばあちゃんが、焼きたてのキャベツ入りのピロシキを食べるようにと、私を呼んだ。
そのおばあちゃんはもういない。けれどその日見つけた鏡は、いまでもカバンに入れて持ち歩いている。
私はいつもその鏡をのぞき込み髪をなおしている。
太陽、草の鮮やかな緑、ほほ笑むおばあちゃん、キャベツ入りのピロシキ。
これらはすべて過去のものになってしまった。
「チェルノブイリ」という恐ろしい一語がそれを打ち消してしまったのである。
私が、最初にチェルノブイリが本当に恐ろしいものだと理解したのは、隣のおばさんの話からだった。
おばさんは涙ながらに、彼女の姪の葬式に行った話しをした。
彼女の妹の小さな娘は病院で白血病のために死んだそうだ。この小さな女の子にこんなに早く死が訪れることを、誰が知っていただろうか。
この子が知るはずだった初恋の苦しさと喜び、母親になる幸せ、生きる幸せ。何も知らないで死んでいくとは、この子自身も思いもよらなかったろうに。
「ママ。お人形さん、買って。ベーラちゃんと同じもの」
ある日、女の子は母親にこうおねだりしたそうだ。
かわいそうにそのこの母親はこの一人っ子の病気で、すっかりふけ込み、わずかのお金も高価な薬のために使ってしまっていた。
こんなことさえなければ、母親はたぶん娘にこう言っただろう。「でも高いのよ」と。
けれども病床の娘の欲しがるこの人形が、死の淵にいる子どもに希望を与え、元気づけるのであればと母親はいとしい娘に人形を買い与えた。
しかし、そのかいもなく女の子は小さな指で人形を抱きしめたまま死んでいった。
私の母は、隣のおばさんを長い間なぐさめて、薬酒を飲ませた。それから母は私に部屋から出るように言った。
この日、私ははじめてチェルノブイリの意味が分かった。
それは放射能であり、白血病であり、ガンである。子どもたちはそれによって死んでいく。
何の罪でこうなるのか。このような子どもはどれだけいるのか。
私の知り合いが、悲しいことに有名になってしまったミンスクのボロブリャン(腫瘍学研究所があるところ)で実習をしたときのことを話してくれた。
「病院をかけまわっている子どもはまるで宇宙人のようだ。髪はなく、まつげもなく、顔には目だけ。ある男の子は骨に皮がついているだけ。体は灰色だった。最初は避けていたが、あとでは慣れてしまった」
慣れた……。私たち、みんなが慣れてしまったら、この先どうなるのだろう。
誰かの怠慢で原発が爆発し、海や川や空気を汚し、人が死んでいくのに慣れてしまうとしたらどうなるのだろうか。
十七世紀 殺された人
330万人
十八世紀 殺された人
520万人
十九世紀 殺された人
550万人
二十世紀 400万人以上
ヨーロッパだけで
モギョリョフ出身の詩人イーゴリ・シクリャレフスキーがこの詩を書いた(詩集『平和についての言葉』1984年)。
彼は、この恐ろしい数字にどれだけの人命が付け加えられるか知らなかった。4千万人もの尊い生命が。
何人がガンで死んだのだろう。何人が白血病で死んだのだろう。このそっけない統計のうらには何があるのだろうか。
何千、何百万人という人々が不幸でうちひしがれた。
学校の物理の授業で先生がチェルノブイリ原発事故の被害について話してくれたとき、私は先生の話にショックを受けて、ノートに絵を書き残した。
8本足の馬、尾が二つのキツネ、巨大なトマト……。そのころの私にとっては、たぶん、それらはすべて空想によるものでしかなかった。
だが、つい最近、雑誌の『アガニョーク』の古い号をパラパラとめくっていた時、私は突然凍りついてしまった。これは何だ。痩せこけた青白い顔に大きな苦痛の目をした子どもの写真。
日本の九州の、生まれつき手のない盲目の小さな女の子の写真だった。
この子の母親は原爆病で死んだそうだ。
ああ、いつの日か、私の愛するベラルーシの子のこんな風にうつろで懇願する目に、雑誌の中で出合うことになるのだろうか。
もっと恐ろしいことがある。
ある種の人たちは他人の不幸をしりめに金儲けをしている。
ある者は汚染ゾーンから持ってきたトマトを市場で売り、またある者は異常にきれいで熟した、大きいリンゴをバケツごと売りつけている。
家と財産を放り出して逃げた人々がいる一方でトラックでその家に乗りつけ、家具、じゅうたん、クリスタルガラスの花瓶を盗み出しては、町で売りさばいている者がいる。
こんな風にチェルノブイリの闇商売は続いているのだ。このような不道徳な心ないことが起こる原因はどこにあるのだろうか。
飢えや貧困がこの人々を罪の道に走らせるのではあるまいか。
「人の良心は清くあるべきだ」詩人ボズネセンスキーのこの訴えは、今の私たちにこそ必要なものだ。
人々の良心は、恐ろしい戦争中でさえ申し分なく残っていた。
当時は、自己犠牲の崇高な精神や、私心のない禁欲主義が要求され、それが発揮されたものだった。
他人の不幸で金儲けするこの成り金たちはどこから現れてくるのだろう。
この寄生虫どもを人間とよんでもいいのだろうか。
「人であるということは、自分自身の義務を意識することである」とフランスの作家サン・テグジュペリが言った。そのとおりだ。
危険に直面するとき人の無責任と弱点は、全人類に災害や事故や滅亡をもたらす。
まだ遅くない。踏みとどまって、ツルゲーネフの小説にでてくるバザーロフのように行動しよう。
「自然は寺院ではない。作業場である。人はそこの働き手だ」と。何年間、人はこのような「働き手」だったのだろうか。
有名なポーランドの批評家スタニスラフ・エジ・レッツが言ったことを思いだしてみよう。
「人類の手にすべてがある。だからこそよく手を洗うことだ」と。
チェルノブイリ。
現実と、そして私の想像。すべてが混じり合って区別がつかない。
穂がやけ焦がれた畑、鉛色の雨雲でおおわれた重苦しい空、するどい叫びで静寂をやぶって旋回する孤独のカラス。
チェルノブイリ……。
ずいぶん昔だった……。昔だろうか。
残念ながら、チェルノブイリの悲劇は続いている。
それを、いつも思い起こさせるのが、小さく丸い鏡。
それを見つけたのが、あの忌まわしい日、1986年4月26日。
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