チェリノブイリの子ども:ナターリア・カシャック
2013-02-20
チェリノブイリ原発事故で被曝被災したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」チェルノブイリ支援運動九州 梓書店 から同名のブログに引用されています。
2/11から、そのうちのいくつかを紹介しています。
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みんな春の雨を喜んだ ナターリア・カシャック 「チェリノブイリの子どもたち」から
そのころはチェルノブイリについて知っている人は少なかった。今では、チェルノブイリは世界的に有名になった。この言葉を聞くと、心が痛む。
それは私たちにとっては、不吉な悪のシンボルなのである。
1986年の4月。ちょうど、この月に私の家族はへんぴなベレジョク村から、カルボビッチに引っ越してきたところだった。
私はこの引っ越しを誰よりも喜んだ。というのは前に住んでいたところには、友だちがいなかったし、引っ越しは多くの楽しいことを約束していたからだ。
私は生活がより楽しく、幸せなものになると夢見、期待した。
だが、母の顔が不安げだったのを私は見た。隣の家の人と、なにか「放射能」といったようなことを、心配そうに話していた。
あとで母は、「ここはチェルノブイリから遠くにあるから心配ない」と、私を安心させた。
そのとき、私はまだやっと1年生を終えるところで、私たち子どもにはまったくわからない、すこしもこわいとは感じなかった。
そして、非常に残念なことではあるが、すべての人々が、チェルノブイリの危険性を充分理解しているというわけではなかったのだ。
私たちは、よい天気を喜び、春の雨を喜んだ。
雨のあと、空気は新鮮な生気に満ちた香りでいっぱいになる。
私たちは水たまりを走り回り、水しぶきがあたたかくやわらかい羽のようにふりかかると陽気に笑いころげた。虹の色を数えるのも好きだった。
遊びに夢中になっていた私たちは「大人の社会」で何が起こっているのか知りようもなかった。
そのすぐあと、放射能測定器をもった人が村にやって来た。(その仕事をみるのが面白かった。)村の道が急きょアスファルト舗装され始め、ごみは土に埋められ、学校の庭の表土ははがされた。
村の店には、今まで聞いたことのない食料品が運ばれてきたので皆喜んだ。
どのような珍味が店の棚に並んでも、放射能は減りはしないことを、今では理解できるのだが……。
その「特別」の食料品ももう長いこと目にしていない。
ここカルボビッチには健康な子どもはほとんどいない。
だが、汚染地図では、この村は「かつては汚染地区に入っていたが、現在では除染され、きれいになった」とされている。
このことで気は休まるどころか、逆に腹立たしくさえなってくる。
子どものほとんどに甲状腺肥大が見られるからだ。
「アンチストルミン」やその他の薬はあまり効かない。
貧血の子どもも多い。私の妹のアリョンカ(エレーナリガの愛称)もよく病気をする。
ソチや、ヤルタや、ベラルーシのラドシュコビッチのちかくのサナトリウム「ソユーズ」への療養はかなり効果があった。
この療養のあとでは、元気になり生気がよみがえる気分になり、体の鈍痛は消え、頭痛はしなくなり、病気をあまりしなくなった。
そこでは、多くの友だちができ、おもしろい出会いがあった。療養地の美しい景色や歴史的な場所は、長く私の心に残るに違いない。
私は外国に行く機会がなかった。
もちろん行ってみたいと思うが、私より重い病気にかかっている子どもがいることを知っている。
あまりに病気の重い子は外国に行けない。この子たちにとってサナトリウムは最後の機会だ。
外国へ行った子どもたちは、学校に大きな問題を持ち込んでくる。この子たちは他の子に対して、同情しないのだ。
またある時、私は子どもにたいする教師の不可解な態度に驚いたことがある。
しかし、すばらしい外国も、南の砂浜浴場も、私の祖国ベラルーシにかわるものはない。
私には林のなかに好きな場所がある。その場所は私の秘密を何でも知っている。悲しいとき苦しいときには、そこへ行く。
白樺が私との出合いを待っていてくれ、私が落ちつくのを助けてくれ、助言を与えてくれる。
私の美しい場所が私の人生からなくなってしまうこと、貪欲なチェルノブイリが子どもの命を奪い、大人の健康を吸い尽くすように、それをも奪ってしまうことを考えると恐ろしい。
ポレーシェの祖父のところへ行くのをやめた。
親は、ここの放射能だけで充分だと言っている。
あそこはよかった。なんとたくさんのイチゴが生えていただろう!
だが今は……これらの地から人々は離れ、思い出のいっぱいつまったわが家を後にしている。
ソチで、ベラルーシの子どもたちが「チェルノブイリのはげ頭」とよばれ、避けられることがあったと聞いたときには、不愉快だった。
私たちはチェルノブイリの罪人なのか。
チェルノブイリは毎日、私の心を痛め付けている。
私たちがカルボビッチに引っ越してきたばかりの4月16日以前の幸せな時に、全世界の時計の針を戻せないだろうか。
どこに優しい魔法使いはいるのだろうか。どうして急いで助けにこないのだろうか。
私たちは希望を捨てない。私たちは生きる。
私たちは、ベラルーシ、そう、ベラルーシ人なのだから。
2/11から、そのうちのいくつかを紹介しています。
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みんな春の雨を喜んだ ナターリア・カシャック 「チェリノブイリの子どもたち」から
そのころはチェルノブイリについて知っている人は少なかった。今では、チェルノブイリは世界的に有名になった。この言葉を聞くと、心が痛む。
それは私たちにとっては、不吉な悪のシンボルなのである。
1986年の4月。ちょうど、この月に私の家族はへんぴなベレジョク村から、カルボビッチに引っ越してきたところだった。
私はこの引っ越しを誰よりも喜んだ。というのは前に住んでいたところには、友だちがいなかったし、引っ越しは多くの楽しいことを約束していたからだ。
私は生活がより楽しく、幸せなものになると夢見、期待した。
だが、母の顔が不安げだったのを私は見た。隣の家の人と、なにか「放射能」といったようなことを、心配そうに話していた。
あとで母は、「ここはチェルノブイリから遠くにあるから心配ない」と、私を安心させた。
そのとき、私はまだやっと1年生を終えるところで、私たち子どもにはまったくわからない、すこしもこわいとは感じなかった。
そして、非常に残念なことではあるが、すべての人々が、チェルノブイリの危険性を充分理解しているというわけではなかったのだ。
私たちは、よい天気を喜び、春の雨を喜んだ。
雨のあと、空気は新鮮な生気に満ちた香りでいっぱいになる。
私たちは水たまりを走り回り、水しぶきがあたたかくやわらかい羽のようにふりかかると陽気に笑いころげた。虹の色を数えるのも好きだった。
遊びに夢中になっていた私たちは「大人の社会」で何が起こっているのか知りようもなかった。
そのすぐあと、放射能測定器をもった人が村にやって来た。(その仕事をみるのが面白かった。)村の道が急きょアスファルト舗装され始め、ごみは土に埋められ、学校の庭の表土ははがされた。
村の店には、今まで聞いたことのない食料品が運ばれてきたので皆喜んだ。
どのような珍味が店の棚に並んでも、放射能は減りはしないことを、今では理解できるのだが……。
その「特別」の食料品ももう長いこと目にしていない。
ここカルボビッチには健康な子どもはほとんどいない。
だが、汚染地図では、この村は「かつては汚染地区に入っていたが、現在では除染され、きれいになった」とされている。
このことで気は休まるどころか、逆に腹立たしくさえなってくる。
子どものほとんどに甲状腺肥大が見られるからだ。
「アンチストルミン」やその他の薬はあまり効かない。
貧血の子どもも多い。私の妹のアリョンカ(エレーナリガの愛称)もよく病気をする。
ソチや、ヤルタや、ベラルーシのラドシュコビッチのちかくのサナトリウム「ソユーズ」への療養はかなり効果があった。
この療養のあとでは、元気になり生気がよみがえる気分になり、体の鈍痛は消え、頭痛はしなくなり、病気をあまりしなくなった。
そこでは、多くの友だちができ、おもしろい出会いがあった。療養地の美しい景色や歴史的な場所は、長く私の心に残るに違いない。
私は外国に行く機会がなかった。
もちろん行ってみたいと思うが、私より重い病気にかかっている子どもがいることを知っている。
あまりに病気の重い子は外国に行けない。この子たちにとってサナトリウムは最後の機会だ。
外国へ行った子どもたちは、学校に大きな問題を持ち込んでくる。この子たちは他の子に対して、同情しないのだ。
またある時、私は子どもにたいする教師の不可解な態度に驚いたことがある。
しかし、すばらしい外国も、南の砂浜浴場も、私の祖国ベラルーシにかわるものはない。
私には林のなかに好きな場所がある。その場所は私の秘密を何でも知っている。悲しいとき苦しいときには、そこへ行く。
白樺が私との出合いを待っていてくれ、私が落ちつくのを助けてくれ、助言を与えてくれる。
私の美しい場所が私の人生からなくなってしまうこと、貪欲なチェルノブイリが子どもの命を奪い、大人の健康を吸い尽くすように、それをも奪ってしまうことを考えると恐ろしい。
ポレーシェの祖父のところへ行くのをやめた。
親は、ここの放射能だけで充分だと言っている。
あそこはよかった。なんとたくさんのイチゴが生えていただろう!
だが今は……これらの地から人々は離れ、思い出のいっぱいつまったわが家を後にしている。
ソチで、ベラルーシの子どもたちが「チェルノブイリのはげ頭」とよばれ、避けられることがあったと聞いたときには、不愉快だった。
私たちはチェルノブイリの罪人なのか。
チェルノブイリは毎日、私の心を痛め付けている。
私たちがカルボビッチに引っ越してきたばかりの4月16日以前の幸せな時に、全世界の時計の針を戻せないだろうか。
どこに優しい魔法使いはいるのだろうか。どうして急いで助けにこないのだろうか。
私たちは希望を捨てない。私たちは生きる。
私たちは、ベラルーシ、そう、ベラルーシ人なのだから。
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