チェリノブイリの子ども:エフゲーニー・ダビードコ
2013-02-20
森にカッコウが鳴いていた エフゲーニー・ダビードコ(16) 「チェリノブイリの子どもたち」から
今日はわが家のお祝いだ。
母が40歳になった。客が、当時一つの大国だったソ連のあちこちから来た。キエフ、レニングラード、ツェリノグラード、ソリゴルスクから来た。
山のようなプレゼントを母だけでなく、10歳だったぼくにももってきてくれた。
なんてすばらしい時だったろう! 大人も子どもも心から楽しんだ。
だがお祝いはちょっと悲しいものになった。
みんなが中庭でダンスを始めようとするとき、どこからか、突然、嵐がおこり、強い風が吹いてきて、ほこりのかたまりがくるくるまわり始めた。
だが誰もそれが悪い兆候だとは思わなかった。
そのあと、家の屋根の上にヘリコプターが飛んできて、ピンクや青の紙切れを大量にまいたことをおぼえている。
災難を警告したのだと思いますか。ちがうのです。これは、メーデーのお祝いのものだったのです。
ぼくたちは喜んで外に出て、ちらしを拾った。放射能の空気を胸いっぱいに吸いながら。
指導部以外、だれもこのことを知らなかった。しかし指導部は黙りつづけた。
やっと事故のことが話されるようになったのは、5月4日だった。
村からの強制移住が始まった。バプチン、チェルニボ、ピルキの村々は空っぽになった。
移動の車の行列はサピッチ村まで続いた。
おそろしい光景だった。家畜は悲痛なうめき声をあげ、女たちは泣き叫んだ。
サビッチには、祖母と祖父が住んでいた。夏休みになると、ぼくはそこへ行き、湖で魚を釣り、泳ぎ、森ではキノコやイチゴを集めたものだ。
彼らはぼくたちのところに来るのをことわった。彼らはミンスク郊外のソスノビ・ボール村に住居が与えられた。
夏休みがはじまった。生徒にとって最も楽しく、愉快な時期だ。
だが、ぼくはもうサビッチ村には行けない。そこには人もいないし、生命もないからだ。
「ドブルーシで夏休みを過ごすのもわるくない」と思った。
家の近くには森も川もある。
泳ぎに行こうとしたが、父は放射能で汚染されているから行ってはいけないといった。
ぼくには何も分からず、長いこと川面を見つめて、汚染の目にみえる兆候を探したが、疑わしいものは何もみつけることはできなかった。
水は透明できれいで、ぼくに手招きしているようだった。子どもたちは土手に座っていたが、泳ぐものはいなかった。
みんな暗い顔をしていた。ぼくは泳がずに家に帰った。
6月7日、療養のためにキャンプに送られた。チェルノブイリの子どもたちは当時、広大な祖国ソ連の各地に送られた。
ある子どもたちはウラルに、ある子どもたちはイングーシに、ぼくはカザン郊外に送られた。
ぼくたちは、大事な客のように、パンと塩で迎えられた。
キャンプではみんな、すぐ何かの道具で頭から足の先まで測られた。
このあと何人かは、いろんなものをもっていかれた。ある子どもは、シャツを、ある子どもはジャンパーを、ぼくはサンダルをもっていかれた。
後で知ったことだが、それは放射能で汚染されていたのだった。
それらのものは森の中で深い穴の中に埋められ、かわりに新しいものが与えられた。
休暇は楽しかった。
ボルガ川で泳ぎ、カザン市にもいった。
ある日、カザン市でカフェに入り、アイスクリームを買った。
ぼくたちがアイスクリームを食べている間、空いている席はたくさんあったのに、そのカフェには他の客は誰も入れされてもらえなかった。
理由はひとつ「今ここはチェルノブイリの子どもたちがいる」。
人々は当時チェルノブイリについてほんの少ししか知らず、彼らはぼくたちを伝染病患者と思って、こわがっていたのだ。
8月の終わりに、ドブルーシに帰った。
新学年が始まった。授業、ディスコや友だちとの遊びなどで時間は飛ぶように去っていった。悲しむひまなどなかった。
春、ぼくたちのところに祖母がやって来た。ここに来る前に、以前住んでいたサビッチに行って来たそうである。そこに行ったときのことを、おいおいと泣きながら話した。
「私がねえ、家に入ろうとすると、コウノトリの家族が屋根の上から、私を非難しているように、見つめていたよ。
チェルノブイリの災難はコウノトリをこわがらせなかったんだね。なのに人間は家を捨ててしまったの。もう、いいの。
ミンスクでは、どうしても心が休まらないよ。サビッチに帰らなければ」
ぼくは、また祖母のところに遊びにいけると思い、とても喜んだ。
一年がたち、夏休みがやってきた。
ぼくは母といっしょに、サビッチ村の祖母のところにでかけた。
朝、祖母は絞りたての牛乳を壺にいれてもってきた。ぼくが飲もうとして飛びついたが、祖母はくれなかった。
「だめだよ。牛乳には毒が入っているから」といった。ぼくはくやしくてたまらず、外に出た。
そこは静かで、誰もいなかった。子どもの声も聞こえない。
村をでるとき、おもしろいことが起こった。
皆バスから降りるように言われた。バスは長い時間、ホースで洗浄された、内も外も。放射能を洗い落とすためだそうだ。
3年後にようやく、チェルノブイリのことについて、大声で話されるようになった。
遅ればせながら故郷に、真実、警告、苦痛の言葉がとどくようになった。
西側もふくめ多くの国が、ゴメリ州やモキリョフ州の、放射能に汚染された土地の犠牲者たちのたえがたい告白に応えるようになった。
ぼくも療養のために、ドイツに行くことができた。ぼくたちはベルリン郊外のキャンプに入った。
食事もよく、新鮮な空気の中で散歩し、外国の果物も食べた。
生まれて初めて、バナナとパイナップルを見た。そして食べた。
ベルリンに行って、国会議事堂を見学した。この建物をどきどきしながら見た。
1945年にぼくの祖父がここに来たことがある。祖父は勝利者として来たが、ぼくはチェルノブイリの犠牲者としてここに来た。
ぼくはふるさとの大地での生活に対する異常なまでの不安に襲われた。
以前、きれいな空気を吸い、森のなかを歩き、カッコウの鳴き声を聞き、キノコやイチゴをあつめたあの家に帰りたい。
去年、何度も森にいってみた。
一回もカッコウの鳴き声を聞かなかった。
これはいいことかもしれない。でないとカッコウが、ぼくがあとどれくらい生きられるか計算してしまうかもしれない。知らないならその方がいい。
それと、害をおよぼさない、かわいいスズメもいなくなったことに気づいた。
家の窓の下に植えてあったミザクラの木にどんなにたくさんのスズメがせかせか動きまわっていたことか。
ぼくの気分は悪くない。ただ目が悪くなった。
放射能がその原因だろう。
ぼくは楽観主義者だ。
学校を卒業したら、農業大学に入る。農学者になりたいと思っている。
いきあたりばったり 生きることはしまい
生きなければいけないように生きる
いつも愛する
友も、生命も、空も愛し続ける
ふるさとを
それはベラルーシという
今日はわが家のお祝いだ。
母が40歳になった。客が、当時一つの大国だったソ連のあちこちから来た。キエフ、レニングラード、ツェリノグラード、ソリゴルスクから来た。
山のようなプレゼントを母だけでなく、10歳だったぼくにももってきてくれた。
なんてすばらしい時だったろう! 大人も子どもも心から楽しんだ。
だがお祝いはちょっと悲しいものになった。
みんなが中庭でダンスを始めようとするとき、どこからか、突然、嵐がおこり、強い風が吹いてきて、ほこりのかたまりがくるくるまわり始めた。
だが誰もそれが悪い兆候だとは思わなかった。
そのあと、家の屋根の上にヘリコプターが飛んできて、ピンクや青の紙切れを大量にまいたことをおぼえている。
災難を警告したのだと思いますか。ちがうのです。これは、メーデーのお祝いのものだったのです。
ぼくたちは喜んで外に出て、ちらしを拾った。放射能の空気を胸いっぱいに吸いながら。
指導部以外、だれもこのことを知らなかった。しかし指導部は黙りつづけた。
やっと事故のことが話されるようになったのは、5月4日だった。
村からの強制移住が始まった。バプチン、チェルニボ、ピルキの村々は空っぽになった。
移動の車の行列はサピッチ村まで続いた。
おそろしい光景だった。家畜は悲痛なうめき声をあげ、女たちは泣き叫んだ。
サビッチには、祖母と祖父が住んでいた。夏休みになると、ぼくはそこへ行き、湖で魚を釣り、泳ぎ、森ではキノコやイチゴを集めたものだ。
彼らはぼくたちのところに来るのをことわった。彼らはミンスク郊外のソスノビ・ボール村に住居が与えられた。
夏休みがはじまった。生徒にとって最も楽しく、愉快な時期だ。
だが、ぼくはもうサビッチ村には行けない。そこには人もいないし、生命もないからだ。
「ドブルーシで夏休みを過ごすのもわるくない」と思った。
家の近くには森も川もある。
泳ぎに行こうとしたが、父は放射能で汚染されているから行ってはいけないといった。
ぼくには何も分からず、長いこと川面を見つめて、汚染の目にみえる兆候を探したが、疑わしいものは何もみつけることはできなかった。
水は透明できれいで、ぼくに手招きしているようだった。子どもたちは土手に座っていたが、泳ぐものはいなかった。
みんな暗い顔をしていた。ぼくは泳がずに家に帰った。
6月7日、療養のためにキャンプに送られた。チェルノブイリの子どもたちは当時、広大な祖国ソ連の各地に送られた。
ある子どもたちはウラルに、ある子どもたちはイングーシに、ぼくはカザン郊外に送られた。
ぼくたちは、大事な客のように、パンと塩で迎えられた。
キャンプではみんな、すぐ何かの道具で頭から足の先まで測られた。
このあと何人かは、いろんなものをもっていかれた。ある子どもは、シャツを、ある子どもはジャンパーを、ぼくはサンダルをもっていかれた。
後で知ったことだが、それは放射能で汚染されていたのだった。
それらのものは森の中で深い穴の中に埋められ、かわりに新しいものが与えられた。
休暇は楽しかった。
ボルガ川で泳ぎ、カザン市にもいった。
ある日、カザン市でカフェに入り、アイスクリームを買った。
ぼくたちがアイスクリームを食べている間、空いている席はたくさんあったのに、そのカフェには他の客は誰も入れされてもらえなかった。
理由はひとつ「今ここはチェルノブイリの子どもたちがいる」。
人々は当時チェルノブイリについてほんの少ししか知らず、彼らはぼくたちを伝染病患者と思って、こわがっていたのだ。
8月の終わりに、ドブルーシに帰った。
新学年が始まった。授業、ディスコや友だちとの遊びなどで時間は飛ぶように去っていった。悲しむひまなどなかった。
春、ぼくたちのところに祖母がやって来た。ここに来る前に、以前住んでいたサビッチに行って来たそうである。そこに行ったときのことを、おいおいと泣きながら話した。
「私がねえ、家に入ろうとすると、コウノトリの家族が屋根の上から、私を非難しているように、見つめていたよ。
チェルノブイリの災難はコウノトリをこわがらせなかったんだね。なのに人間は家を捨ててしまったの。もう、いいの。
ミンスクでは、どうしても心が休まらないよ。サビッチに帰らなければ」
ぼくは、また祖母のところに遊びにいけると思い、とても喜んだ。
一年がたち、夏休みがやってきた。
ぼくは母といっしょに、サビッチ村の祖母のところにでかけた。
朝、祖母は絞りたての牛乳を壺にいれてもってきた。ぼくが飲もうとして飛びついたが、祖母はくれなかった。
「だめだよ。牛乳には毒が入っているから」といった。ぼくはくやしくてたまらず、外に出た。
そこは静かで、誰もいなかった。子どもの声も聞こえない。
村をでるとき、おもしろいことが起こった。
皆バスから降りるように言われた。バスは長い時間、ホースで洗浄された、内も外も。放射能を洗い落とすためだそうだ。
3年後にようやく、チェルノブイリのことについて、大声で話されるようになった。
遅ればせながら故郷に、真実、警告、苦痛の言葉がとどくようになった。
西側もふくめ多くの国が、ゴメリ州やモキリョフ州の、放射能に汚染された土地の犠牲者たちのたえがたい告白に応えるようになった。
ぼくも療養のために、ドイツに行くことができた。ぼくたちはベルリン郊外のキャンプに入った。
食事もよく、新鮮な空気の中で散歩し、外国の果物も食べた。
生まれて初めて、バナナとパイナップルを見た。そして食べた。
ベルリンに行って、国会議事堂を見学した。この建物をどきどきしながら見た。
1945年にぼくの祖父がここに来たことがある。祖父は勝利者として来たが、ぼくはチェルノブイリの犠牲者としてここに来た。
ぼくはふるさとの大地での生活に対する異常なまでの不安に襲われた。
以前、きれいな空気を吸い、森のなかを歩き、カッコウの鳴き声を聞き、キノコやイチゴをあつめたあの家に帰りたい。
去年、何度も森にいってみた。
一回もカッコウの鳴き声を聞かなかった。
これはいいことかもしれない。でないとカッコウが、ぼくがあとどれくらい生きられるか計算してしまうかもしれない。知らないならその方がいい。
それと、害をおよぼさない、かわいいスズメもいなくなったことに気づいた。
家の窓の下に植えてあったミザクラの木にどんなにたくさんのスズメがせかせか動きまわっていたことか。
ぼくの気分は悪くない。ただ目が悪くなった。
放射能がその原因だろう。
ぼくは楽観主義者だ。
学校を卒業したら、農業大学に入る。農学者になりたいと思っている。
いきあたりばったり 生きることはしまい
生きなければいけないように生きる
いつも愛する
友も、生命も、空も愛し続ける
ふるさとを
それはベラルーシという
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