チェリノブイリの子ども:マクシム・パシコフ
2013-02-16
チェリノブイリ原発事故で被曝被災したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」チェルノブイリ支援運動九州 梓書店 から同名のブログに引用されています。
2/11から、そのうちのいくつかを紹介しています。
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ぼくの町へ帰りたい マクシム・パシコフ(14) 「チェリノブイリの子どもたち」から
ヤッター! 僕の弟が生まれた。
1986年4月26日、よく晴れた明るい日だった。暑かった。そのとき僕は5歳だった。
僕はこの日のくるのを、どんなに待ち望んでいたことか。父と母と僕と三人で、指折り数えた日々、赤ちゃんの名前まで考えたほどだった。なぜか知らないが、みんな男の子が産まれることを知っていた。
この日、僕は初めての体験に興奮しきっていた。喜びのあまり、病院の窓のところで片足でぴょんぴょんはねていた。
みんなは弟がすりかえられないか心配していた。生まれたての赤ちゃんはみんなそっくりだったから。
僕は弟の名前をブドゥライエムにしたかった。というのは、その頃、テレビ劇で「ジプシー」というのをやっていて、僕はこの名前をとても気に入っていたのだ。なのに、どうして父や母はブドゥライにしなかったのだろうか。
まる一週間、母は病院に入院していた。その間、僕は毎日病院に走って通ったものだった。
弟の顔を見たくてたまらなかったのだ。だから母がやっとアルトゥーシャ(こう名づけられた)を家に連れて帰ってきた日、僕はとてもうれしかった。
だが、突然に悲劇は始まった。
その頃の僕はどうしても大人を理解することができなかった。
大人たちは顔つきが暗くなり、みんないつまでも同じことばかり話していた。
僕は、たびたび、美しい、歌うような言葉を耳にするようになった(僕にはそう聞こえた)。「ラジアーツィア(放射能)」である。
みんなそれを恐れた。しかし誰もそれを僕に見せることはできなかった。
のちにもうひとつ記憶に刻みこまれた言葉がある。それは「エバクアーツィア(避難)」である。この言葉は気に入らなかった。
第一にそれはかえるの鳴き声にそっくりだったし、第二に、どこかに行ってしまうことだと聞かされたからだ。
僕はどこにも行ってしまいたくなかった。
しかし、この放射能からの避難は現実になった。友だちはまったくいなくなってしまった。
外には誰もいなくなり、町はすっかり寂しくなってしまった。
母は砂遊びを禁止した。ラジアーツィアだ。
一日に何回も手を洗った。ラジアーツィアだ。花にも草にも触ってはいけない。ここにもラジアーツィア。壁と床からじゅうたんがはぎとられた。
ここにもラジアーツィア。
床は洗浄の水が乾ききることはなかった。知らないおじさんが何か器具をもってよく家に来た。
おじさんは何かを測っているようだったが、僕にはまだその意味が理解できなかった。
僕はおじさんのあとについてまわるのが楽しみだった。
でも、おじさんが帰ったあと、母の顔はとても悲しげになった。
ある日、アルチョムが病気になってしまった。
医者は診察したあと、小さい声で、多分恐怖からだろうが、「ラジアーツィア」と言い、母は母乳をやるのを禁止された。
そのかわり、レニングラードから粉ミルクが送られてきた。
町では牛乳をしぼることが禁止されていた。牛も、人と同じく、呪いのラジアーツィアに苦しんでいたのだ。
太陽は暑く輝いている。木々の葉は風に音を立て、花は咲き乱れている。だが、チェリコフの町の通りには人もなく、静かだった。けれども僕たちはまだそこに住んでいた。
母の具合も悪くなった。
ちょうどその頃、父はゴールキの農業アカデミーの講座に参加することになった。父は行くのを渋ったが、母は送り出してしまった。
僕についていえば僕のきらいな「避難」という言葉に直面しそうな予感がしていた。
町に残っている子ども全員が郊外のレチェツァ村の幼稚園に集められた。採血するためである。
僕は非常にこわかった。子どもたちはみんな泣いていた。
痛さからよりこわさから泣いたのだ。母親たちも泣き叫んだ。
僕は、生まれてからたったの3週間しかたっていないアルトゥーシャに大きい注射器をささないようにたのんだ。今でも、この時の光景が目に焼きついている。
分析の結果がわかると、母はクリモビッチのおばさんの家に行くよう僕を説得した。
放射能はそこまで飛んできてはいないという。僕は絶対に行きたくなかった。母や弟と離れたくなかった。
でも母が泣いて僕に頼むので、僕はとうとういうことをきいた。
何日かして、おばさんが僕を迎えに来た。僕はおばさんのところから幼稚園に通った。
おばさんはいい人だし、大好きだ。でも僕は、家が恋しくてしかたがなかった。
しばらくして、クリモビッチも放射能に汚染されていることがわかった。
瞬く間に時は流れた。母がどこかに出かけて行った。後から知ったことだが、母は移住先を探しに行っていたのだ。
だが、なかなか決まらなかった。
僕たち家族は、3年後に、ようやくオシポビッチに引っ越すことができた。
アパートの部屋も、家具も、そしてもっとも大切な僕の友だちもチェリコフの町に残して。
現在、僕の家族は、アパートに住んでいる。
弟は2年生になった。
新しい友だちもできた。
しかし、僕は幼い頃過ごした僕の大好きな町が恋しくてならない。
夢に友だちがよく出てくる。
イリューシャ、隣のユーラ、リューダ、ワーリャ。
放射能が早く去ってしまい、僕の町、僕が住んでいたロコソフスキー通りに帰りたい。
2/11から、そのうちのいくつかを紹介しています。
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ぼくの町へ帰りたい マクシム・パシコフ(14) 「チェリノブイリの子どもたち」から
ヤッター! 僕の弟が生まれた。
1986年4月26日、よく晴れた明るい日だった。暑かった。そのとき僕は5歳だった。
僕はこの日のくるのを、どんなに待ち望んでいたことか。父と母と僕と三人で、指折り数えた日々、赤ちゃんの名前まで考えたほどだった。なぜか知らないが、みんな男の子が産まれることを知っていた。
この日、僕は初めての体験に興奮しきっていた。喜びのあまり、病院の窓のところで片足でぴょんぴょんはねていた。
みんなは弟がすりかえられないか心配していた。生まれたての赤ちゃんはみんなそっくりだったから。
僕は弟の名前をブドゥライエムにしたかった。というのは、その頃、テレビ劇で「ジプシー」というのをやっていて、僕はこの名前をとても気に入っていたのだ。なのに、どうして父や母はブドゥライにしなかったのだろうか。
まる一週間、母は病院に入院していた。その間、僕は毎日病院に走って通ったものだった。
弟の顔を見たくてたまらなかったのだ。だから母がやっとアルトゥーシャ(こう名づけられた)を家に連れて帰ってきた日、僕はとてもうれしかった。
だが、突然に悲劇は始まった。
その頃の僕はどうしても大人を理解することができなかった。
大人たちは顔つきが暗くなり、みんないつまでも同じことばかり話していた。
僕は、たびたび、美しい、歌うような言葉を耳にするようになった(僕にはそう聞こえた)。「ラジアーツィア(放射能)」である。
みんなそれを恐れた。しかし誰もそれを僕に見せることはできなかった。
のちにもうひとつ記憶に刻みこまれた言葉がある。それは「エバクアーツィア(避難)」である。この言葉は気に入らなかった。
第一にそれはかえるの鳴き声にそっくりだったし、第二に、どこかに行ってしまうことだと聞かされたからだ。
僕はどこにも行ってしまいたくなかった。
しかし、この放射能からの避難は現実になった。友だちはまったくいなくなってしまった。
外には誰もいなくなり、町はすっかり寂しくなってしまった。
母は砂遊びを禁止した。ラジアーツィアだ。
一日に何回も手を洗った。ラジアーツィアだ。花にも草にも触ってはいけない。ここにもラジアーツィア。壁と床からじゅうたんがはぎとられた。
ここにもラジアーツィア。
床は洗浄の水が乾ききることはなかった。知らないおじさんが何か器具をもってよく家に来た。
おじさんは何かを測っているようだったが、僕にはまだその意味が理解できなかった。
僕はおじさんのあとについてまわるのが楽しみだった。
でも、おじさんが帰ったあと、母の顔はとても悲しげになった。
ある日、アルチョムが病気になってしまった。
医者は診察したあと、小さい声で、多分恐怖からだろうが、「ラジアーツィア」と言い、母は母乳をやるのを禁止された。
そのかわり、レニングラードから粉ミルクが送られてきた。
町では牛乳をしぼることが禁止されていた。牛も、人と同じく、呪いのラジアーツィアに苦しんでいたのだ。
太陽は暑く輝いている。木々の葉は風に音を立て、花は咲き乱れている。だが、チェリコフの町の通りには人もなく、静かだった。けれども僕たちはまだそこに住んでいた。
母の具合も悪くなった。
ちょうどその頃、父はゴールキの農業アカデミーの講座に参加することになった。父は行くのを渋ったが、母は送り出してしまった。
僕についていえば僕のきらいな「避難」という言葉に直面しそうな予感がしていた。
町に残っている子ども全員が郊外のレチェツァ村の幼稚園に集められた。採血するためである。
僕は非常にこわかった。子どもたちはみんな泣いていた。
痛さからよりこわさから泣いたのだ。母親たちも泣き叫んだ。
僕は、生まれてからたったの3週間しかたっていないアルトゥーシャに大きい注射器をささないようにたのんだ。今でも、この時の光景が目に焼きついている。
分析の結果がわかると、母はクリモビッチのおばさんの家に行くよう僕を説得した。
放射能はそこまで飛んできてはいないという。僕は絶対に行きたくなかった。母や弟と離れたくなかった。
でも母が泣いて僕に頼むので、僕はとうとういうことをきいた。
何日かして、おばさんが僕を迎えに来た。僕はおばさんのところから幼稚園に通った。
おばさんはいい人だし、大好きだ。でも僕は、家が恋しくてしかたがなかった。
しばらくして、クリモビッチも放射能に汚染されていることがわかった。
瞬く間に時は流れた。母がどこかに出かけて行った。後から知ったことだが、母は移住先を探しに行っていたのだ。
だが、なかなか決まらなかった。
僕たち家族は、3年後に、ようやくオシポビッチに引っ越すことができた。
アパートの部屋も、家具も、そしてもっとも大切な僕の友だちもチェリコフの町に残して。
現在、僕の家族は、アパートに住んでいる。
弟は2年生になった。
新しい友だちもできた。
しかし、僕は幼い頃過ごした僕の大好きな町が恋しくてならない。
夢に友だちがよく出てくる。
イリューシャ、隣のユーラ、リューダ、ワーリャ。
放射能が早く去ってしまい、僕の町、僕が住んでいたロコソフスキー通りに帰りたい。
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