チェリノブイリの子ども:ナタリア・ジャチコーワ
2013-02-15
ジェミヤンキ村との別れ ナターリア・ジャチコーワ(14) 「チェリノブイリの子どもたち」から
私は、それほど長く生きてきたわけではありませんが、その中でも、ジェミヤンキでの生活はすばらしいものでした。
この村はリンゴ、サクランボ、ナシ、スモモの新鮮な緑に埋もれており、今でも夢の中に現れてきます。
村の通りの両側には生け垣がめぐらされていて、その根元にはエゾイチゴが植えてあります。この生け垣の中へと私の足は自然に導かれます。
ここジェミヤンキの人たちはなぜだかイチゴが好きなのです。夏は、生け垣はつくられませんが、代わりにエゾイチゴの茂みが絶え間なく続きます。
そして、その緑の葉のあいだには、真っ赤に熟れたイチゴの実が光っています。誘惑に負けて、大きな実をもぎ取り口の中にほうり込むと、甘いイチゴの味が幼い日の想い出を呼び起こします。
4歳の私は母の言いつけを守らず、こっそり生け垣に入り込み、おなか一杯エゾイチゴを食べて最高の味を満喫していました。
すると突然、「ナターシャ! またイチゴのところね! どうしたらあなたの悪い癖が直るのかしら」母の声です。驚いた私は、急いで生け垣をくぐり抜け、木戸を開けます。
すると目の前には草原が広がり、足元にはまるで夢のようなフカフカのソファーが並べられています。キンポウゲやタンポポの黄色い雲、ナデシコのばら色、矢車草の青、カミツレの白の波。
空色の忘れな草も点々と咲いています。私は思わず花の海に身を投げ出し、その中に顔をうめると、喜びと幸せで口から歌がこぼれます。
すると、草原も歌いだしたのです。キリギリスは高らかな合唱、ミツバチはブーンというすてきなバスの独唱。
草原はちょっとした高台にあり、そこからの眺めはすばらしいものでした。
右手には金色のライ麦畑が広がっています。それはまるで、太陽が地面に降り立って、かろやかな一陣の風にそよいでいるようでした。
そしてその先には、堂々とした森の壁がたっていました。
森は、いつでもライ麦畑や草原や村、それにわがジェミヤンキ村の周りを流れる光の帯イプーチ川を守っていました。
私はよく、おじいちゃんのところの脱穀場へ急いだものでした。
トラックが来て麦の荷降ろしをすると、みるみるうちに黄金色の山ができます。これを見るのが好きでした。 次は、麦を乾燥させている女の人たちのところに全速力。走ってきた勢いで、金色の小麦の山へととび込み、頭が隠れてしまうまでもぐりこみます。
口を開けて小麦の粒をほおばり、それをかみます。うれしくて目がほそくなってしまいます。
列車が急に止まり、私は目が覚めました。
「もうゴメリに着いたの?」ママに聞くと、「ここはまだよ。まだねてなさい。ここはジロービンよ。ゴメリに着くのは朝になってからよ」と、やさしく答え、私に毛布をかけてくれました。
私はまた目を閉じたのですが、いろいろなことが頭にうかんできて、なかなか寝付けませんでした。外は深い夜でした。
私は何回となくジェミヤンキに行きました。
おじいちゃん、おばあちゃん、友だちそれに親戚の人たちにあえると思うと胸がわくわくしました。
ここジェミヤンキで何度も夏を過ごしました。この美しい、幸せの里が私のふるさとになっていました。それなのに今では……。
チェルノブイリでの出来事を聞き、母がどんなに心配して泣いたかを覚えています。
彼女は医者なので、村や住人にどんなことが迫っているのかよくわかったのです。
しかし、その時、私は母の涙や悲しみを理解できませんでした。チェルノブイリの事故は、どこにでもある普通の火事だと思っていたからです。
事故後、はじめて村に行ったときのことを覚えています。
村には人の姿はありませんでした。人々はまるで一番頼りになる避難場所は生まれた家だといわんばかりに家に引きこもり、放射能から身を隠しているかのようでした。
村の農家の多くはすでに窓がクギづけされていました。
歩くごとに私の心臓は恐怖で凍りつきました。
ここは本当にあの村なのだろうか。おじいちゃんの家に着くと、突然、物悲しい犬の遠吠えがしました。
きっとこの犬の飼い主は、放射能を避けるためにここから出て行き、犬だけがここに戻ってきたのでしょう。
その遠吠えと鳴き声は、怒りで死んだ人たちの物悲しい歌のようでした。
母は私のそばに近づき、頭をなで「泣かないでね。大丈夫だから」と言ってくれました。
頭をあげると、母の目にも涙が流れていました。
おばあちゃんとも会いました。
二人とも目に涙をためていました。放射能の断崖の墓穴に落ちぬようにとお互いの身体をきつく抱きしめていました。
私たちがビレイカにもどった時、不幸の知らせが襲いかかりました。
父がチェルノブイリに派遣されたのです。父はまる2か月間、放射能の真っ只中で仕事をしました。
父は母には何も話さないように頼んで行ったのですが、私はうっかり口をすべらせてしまいました。その時の母の涙は忘れられません。
そして、おばあちゃんの涙も絶対に忘れることはできません。父はチェルノブイリへの出張で、甲状腺を被ばくしました。
夜明け。両親も弟も妹もまだ眠っています。
悲劇の事故のあと何度もふるさとの村に行きました。今、また村に向かっています。わが家も家族全員で移住したので、村を訪れるのはこれが最後になります。
おじいちゃんとおばあちゃんは、同じドブルーシ地区内のより安全な場所に部屋を借りました。
私は、ジェミヤンキにおばあちゃんたちが残り、喜びと幸せが戻り、あのいまわしい放射能が永久に消えるのだったら、何を差し出しても惜しくはありません。
空想をしていると、時間はあっという間にたってしまいます。
気がつくとドブルーシに着いていました。
「ナターシャ! ほら、そこに立ってないで。何を考えているの。こちらに急いでおいで、バスが来たわよ」母の声が突然聞こえました。バスに乗ると、私は窓のそばに座りました。
子ども時代を過ごした家に行くのはこれで最後になります。すべてを、どんな小さなことでも永遠に心に刻み付けたいと思いました。
父と運転手さんの会話が耳に入ってきました。
「いや、バスはジェミヤンキには行きませんよ」運転手さんは事務的に言いました。
「どうしてですか。モロゾフカ行きのバスはジェミヤンキをいつも通っていたじゃないですか」
「いつも通っていましたよ、前はね。今はだめ。ゾーンですよ。ゾーン。分かりますか」運転手さんは一語一語に分けてこう言いました。
私の目には涙があふれました。もうそこには誰も住んでいないのです。
父がこちらに来たので、母は「どうしたの」と聞きました。「バスはジェミヤンキ経由では行かないそうだ」父は怒ったように答えました。「5キロは歩くことになるなあ」
ゾーン!何と言うことでしょう。私のふるさとジェミヤンキもそうだなんて。危険地域、禁止区域、居住に不敵な地区。
生きることさえできないところ。
バスの窓の外に灰色の打ち捨てられた農家が見えてきました。
いくつかの農家の木戸の柱にタオルが結び付けてありました。長い手製のタオルに簡単な刺しゅうがほどこされたものです。
昔からタオルは民衆の儀礼や伝統とは切り離せないものでした。
生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせたり、結婚式で新妻に結びつけたり、墓穴の底にそれを敷いて、その上に死者をいれた棺を降ろしたり、または墓の上の十字架にくくりつけたりします。
そのタオルがここでは打ち捨てられた家の木戸に結びつけられています。
家の主人の魂が永遠にここに残るというシンボルとして。
バスが突然停車しました。
ジェミヤンキに行く人はここで降りてください。バスはこれから迂回をします」運転手さんの声を聞いて、私たちは出口に急ぎました。
外はきびしい暑さでしたが、なぜか寒気がしました。「これが最後だわ」心の中でささやきました。「すべて終わりなんだわ」
目の前になにか建物が見えてきました。そばに近づくと、検問所のようでした。遮断機のところで止まると、兵士が近づいてきました。
「どこへ行くんですか」大声で兵士は聞きました。
「ジェミヤンキです。親戚のところへです」
「名前は」
「ダビードフです」
兵士は長いこと名簿を繰ると、
「レオニード・パーブロビッチさんですね?」突然兵士は言いました。
「はい」
「どうぞ、通っていいです」
兵士が遮断機をあげ、私たちはゾーンに入りました。
するとそこにバスが来て止まり、運転手さんが出てきて言いました。「リューダ、ジェミヤンキに行くんだね。乗りなさい。乗せて行こう」母は運転手さんの顔をびっくりしてながめると、母の同級生でした。
間もなくジェミヤンキに着きました。
おじいちゃんとおばあちゃんが首を長くして待っているはずです。
通りを歩くと、50戸ある家屋のうち、人が生活しているのは、たったの3軒でした。一つはおじいちゃんの家。あとの二つはウクライナからの避難民の家だそうです。
故郷の家に入ると、涙がとめどもなく流れ落ちました。以前と同じはずなのに、とても悲しそうに見えるのです。
庭に花はなく、あるのは低い木だけです。手入れがされなくなった芝生の中に生えています。
もう少し庭を歩くと、つい最近まで実がなっていたリンゴも、ナシも、ほかのくだものも、実がついていないのに気がつきました。
ただ、エゾイチゴの黄色くなった葉の陰に、めずらしい野イチゴがぽつんぽつんと赤くさびしそうに見えるだけでした。
菜園のむこうの草原には花がたくさん咲いているのですが、ミツバチも飛んでなければ、キリギリスも鳴いていません。私は悲しみと無力感から泣きたくなってしまいました。
ふと気がつくと、おばあちゃんがそばにいました。「ジェミヤンキ村はただの森になってしまうのよ」と。何ということでしょう。
「これでおしまいね。おばあちゃん、終わりなのね。私たちの家族みんなに幸せを運んできたものはもう絶対にもどってこないのね」
「戻ろうか。ナターリア。おうちにお別れしなくっちゃあ」おばあちゃんは私に言いました。
私はまるで夢の中のように、おばあちゃんのあとについて門の中に入っていきました。顔をあげるとドアや窓はすべて壊され、おじいちゃんは木戸に鍵をおろしていました。私の胸は張り裂け、心臓が外に飛び出しそうになりました。
「ナターリア、お辞儀しなさい」、母の声が静かに聞こえてきました。
見ると、母、おばあちゃん、おばさんは永遠に使われることのなくなった家に向かって、深々とお辞儀をしていました。おじいちゃんと父とおじさんは隣にだまって立ち、帽子をとり、頭を低くさげました。
私は首から白いスカーフをはずし木戸の柱に結びつけると、持ちこたえられずにしゃがみこんでしまいました。ひざは涙でびっしょりになりました。
私はバス停までどうやって行ったか覚えていません。
私の前を小さい妹が走っていたのは覚えています。当時、彼女はまだほんの2歳で大人の心配や不安をまだ理解できませんでした。
神様、妹の幼年期に影を落とさないでください。もうこれ以上、ふるさとや小さなかわいい国から追い出すようなことをしないでください。全能の神様。妹に幸せをお与えください。
P・S親愛なる審査員のみなさん!
ドブルーシ地区のジェミヤンキ村には、私の祖先が住んでいました。
村の約半分は親戚にあたります。ジェミヤンキ村で、私の母、母の姉妹、おばあちゃん、おじいちゃん、ひいおばあちゃんが育ち、わたしの親戚も数多くここに葬られています。
ベラルーシで、最もすばらしいこの土地で、私は幼年期を過ごしました。
私は今、有名なヤンカ・クパーラの言葉を思いだしています。
「神様!あなたはここの何というすばらしい世界を創造されたのでしょう」これはまさに私のふるさとのための文章です。
私はビレイカで生まれ、ビレイカで育ちました。しかし、私のふるさとはジェミヤンキだと思っています。正確に言えば、「幼年期を過ごしたところが、ふるさとになる」のです。
ジェミヤンキで私の人生が始まりました。
初めての言葉を話し、初めて自分で立って歩いたのもここです。
そして記憶の最初にあるおばあちゃんの童話や子守歌。初めての友だち。そして、初めてのけんかも。
チェルノブイリの事故はすべてをひっくりかえしてしまいました。
嵐のような猛烈な勢いで村人の平和な生活に乱入してきました。人々は最も大切なものに別れを告げ、長年住んできたところをあとにしました。
明るく人のよい村人たちのかわりに、兵士が現れました。彼らはなぜか皆、同じ顔に見えます。
そしていつも、人が住むのに適さなくなった場所でわざわざ危険な仕事をしているように思えました。まるでロボットのようでした。
チェルノブイリは私の人生の中で最も苦い1ページです。
だから、コンクールのことを知ると、すぐ応募することを決めました。
ほかの人とも苦しみや痛みを分かち合うことによって、少しでも楽になるのではないかと思っています。
私は、それほど長く生きてきたわけではありませんが、その中でも、ジェミヤンキでの生活はすばらしいものでした。
この村はリンゴ、サクランボ、ナシ、スモモの新鮮な緑に埋もれており、今でも夢の中に現れてきます。
村の通りの両側には生け垣がめぐらされていて、その根元にはエゾイチゴが植えてあります。この生け垣の中へと私の足は自然に導かれます。
ここジェミヤンキの人たちはなぜだかイチゴが好きなのです。夏は、生け垣はつくられませんが、代わりにエゾイチゴの茂みが絶え間なく続きます。
そして、その緑の葉のあいだには、真っ赤に熟れたイチゴの実が光っています。誘惑に負けて、大きな実をもぎ取り口の中にほうり込むと、甘いイチゴの味が幼い日の想い出を呼び起こします。
4歳の私は母の言いつけを守らず、こっそり生け垣に入り込み、おなか一杯エゾイチゴを食べて最高の味を満喫していました。
すると突然、「ナターシャ! またイチゴのところね! どうしたらあなたの悪い癖が直るのかしら」母の声です。驚いた私は、急いで生け垣をくぐり抜け、木戸を開けます。
すると目の前には草原が広がり、足元にはまるで夢のようなフカフカのソファーが並べられています。キンポウゲやタンポポの黄色い雲、ナデシコのばら色、矢車草の青、カミツレの白の波。
空色の忘れな草も点々と咲いています。私は思わず花の海に身を投げ出し、その中に顔をうめると、喜びと幸せで口から歌がこぼれます。
すると、草原も歌いだしたのです。キリギリスは高らかな合唱、ミツバチはブーンというすてきなバスの独唱。
草原はちょっとした高台にあり、そこからの眺めはすばらしいものでした。
右手には金色のライ麦畑が広がっています。それはまるで、太陽が地面に降り立って、かろやかな一陣の風にそよいでいるようでした。
そしてその先には、堂々とした森の壁がたっていました。
森は、いつでもライ麦畑や草原や村、それにわがジェミヤンキ村の周りを流れる光の帯イプーチ川を守っていました。
私はよく、おじいちゃんのところの脱穀場へ急いだものでした。
トラックが来て麦の荷降ろしをすると、みるみるうちに黄金色の山ができます。これを見るのが好きでした。 次は、麦を乾燥させている女の人たちのところに全速力。走ってきた勢いで、金色の小麦の山へととび込み、頭が隠れてしまうまでもぐりこみます。
口を開けて小麦の粒をほおばり、それをかみます。うれしくて目がほそくなってしまいます。
列車が急に止まり、私は目が覚めました。
「もうゴメリに着いたの?」ママに聞くと、「ここはまだよ。まだねてなさい。ここはジロービンよ。ゴメリに着くのは朝になってからよ」と、やさしく答え、私に毛布をかけてくれました。
私はまた目を閉じたのですが、いろいろなことが頭にうかんできて、なかなか寝付けませんでした。外は深い夜でした。
私は何回となくジェミヤンキに行きました。
おじいちゃん、おばあちゃん、友だちそれに親戚の人たちにあえると思うと胸がわくわくしました。
ここジェミヤンキで何度も夏を過ごしました。この美しい、幸せの里が私のふるさとになっていました。それなのに今では……。
チェルノブイリでの出来事を聞き、母がどんなに心配して泣いたかを覚えています。
彼女は医者なので、村や住人にどんなことが迫っているのかよくわかったのです。
しかし、その時、私は母の涙や悲しみを理解できませんでした。チェルノブイリの事故は、どこにでもある普通の火事だと思っていたからです。
事故後、はじめて村に行ったときのことを覚えています。
村には人の姿はありませんでした。人々はまるで一番頼りになる避難場所は生まれた家だといわんばかりに家に引きこもり、放射能から身を隠しているかのようでした。
村の農家の多くはすでに窓がクギづけされていました。
歩くごとに私の心臓は恐怖で凍りつきました。
ここは本当にあの村なのだろうか。おじいちゃんの家に着くと、突然、物悲しい犬の遠吠えがしました。
きっとこの犬の飼い主は、放射能を避けるためにここから出て行き、犬だけがここに戻ってきたのでしょう。
その遠吠えと鳴き声は、怒りで死んだ人たちの物悲しい歌のようでした。
母は私のそばに近づき、頭をなで「泣かないでね。大丈夫だから」と言ってくれました。
頭をあげると、母の目にも涙が流れていました。
おばあちゃんとも会いました。
二人とも目に涙をためていました。放射能の断崖の墓穴に落ちぬようにとお互いの身体をきつく抱きしめていました。
私たちがビレイカにもどった時、不幸の知らせが襲いかかりました。
父がチェルノブイリに派遣されたのです。父はまる2か月間、放射能の真っ只中で仕事をしました。
父は母には何も話さないように頼んで行ったのですが、私はうっかり口をすべらせてしまいました。その時の母の涙は忘れられません。
そして、おばあちゃんの涙も絶対に忘れることはできません。父はチェルノブイリへの出張で、甲状腺を被ばくしました。
夜明け。両親も弟も妹もまだ眠っています。
悲劇の事故のあと何度もふるさとの村に行きました。今、また村に向かっています。わが家も家族全員で移住したので、村を訪れるのはこれが最後になります。
おじいちゃんとおばあちゃんは、同じドブルーシ地区内のより安全な場所に部屋を借りました。
私は、ジェミヤンキにおばあちゃんたちが残り、喜びと幸せが戻り、あのいまわしい放射能が永久に消えるのだったら、何を差し出しても惜しくはありません。
空想をしていると、時間はあっという間にたってしまいます。
気がつくとドブルーシに着いていました。
「ナターシャ! ほら、そこに立ってないで。何を考えているの。こちらに急いでおいで、バスが来たわよ」母の声が突然聞こえました。バスに乗ると、私は窓のそばに座りました。
子ども時代を過ごした家に行くのはこれで最後になります。すべてを、どんな小さなことでも永遠に心に刻み付けたいと思いました。
父と運転手さんの会話が耳に入ってきました。
「いや、バスはジェミヤンキには行きませんよ」運転手さんは事務的に言いました。
「どうしてですか。モロゾフカ行きのバスはジェミヤンキをいつも通っていたじゃないですか」
「いつも通っていましたよ、前はね。今はだめ。ゾーンですよ。ゾーン。分かりますか」運転手さんは一語一語に分けてこう言いました。
私の目には涙があふれました。もうそこには誰も住んでいないのです。
父がこちらに来たので、母は「どうしたの」と聞きました。「バスはジェミヤンキ経由では行かないそうだ」父は怒ったように答えました。「5キロは歩くことになるなあ」
ゾーン!何と言うことでしょう。私のふるさとジェミヤンキもそうだなんて。危険地域、禁止区域、居住に不敵な地区。
生きることさえできないところ。
バスの窓の外に灰色の打ち捨てられた農家が見えてきました。
いくつかの農家の木戸の柱にタオルが結び付けてありました。長い手製のタオルに簡単な刺しゅうがほどこされたものです。
昔からタオルは民衆の儀礼や伝統とは切り離せないものでした。
生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせたり、結婚式で新妻に結びつけたり、墓穴の底にそれを敷いて、その上に死者をいれた棺を降ろしたり、または墓の上の十字架にくくりつけたりします。
そのタオルがここでは打ち捨てられた家の木戸に結びつけられています。
家の主人の魂が永遠にここに残るというシンボルとして。
バスが突然停車しました。
ジェミヤンキに行く人はここで降りてください。バスはこれから迂回をします」運転手さんの声を聞いて、私たちは出口に急ぎました。
外はきびしい暑さでしたが、なぜか寒気がしました。「これが最後だわ」心の中でささやきました。「すべて終わりなんだわ」
目の前になにか建物が見えてきました。そばに近づくと、検問所のようでした。遮断機のところで止まると、兵士が近づいてきました。
「どこへ行くんですか」大声で兵士は聞きました。
「ジェミヤンキです。親戚のところへです」
「名前は」
「ダビードフです」
兵士は長いこと名簿を繰ると、
「レオニード・パーブロビッチさんですね?」突然兵士は言いました。
「はい」
「どうぞ、通っていいです」
兵士が遮断機をあげ、私たちはゾーンに入りました。
するとそこにバスが来て止まり、運転手さんが出てきて言いました。「リューダ、ジェミヤンキに行くんだね。乗りなさい。乗せて行こう」母は運転手さんの顔をびっくりしてながめると、母の同級生でした。
間もなくジェミヤンキに着きました。
おじいちゃんとおばあちゃんが首を長くして待っているはずです。
通りを歩くと、50戸ある家屋のうち、人が生活しているのは、たったの3軒でした。一つはおじいちゃんの家。あとの二つはウクライナからの避難民の家だそうです。
故郷の家に入ると、涙がとめどもなく流れ落ちました。以前と同じはずなのに、とても悲しそうに見えるのです。
庭に花はなく、あるのは低い木だけです。手入れがされなくなった芝生の中に生えています。
もう少し庭を歩くと、つい最近まで実がなっていたリンゴも、ナシも、ほかのくだものも、実がついていないのに気がつきました。
ただ、エゾイチゴの黄色くなった葉の陰に、めずらしい野イチゴがぽつんぽつんと赤くさびしそうに見えるだけでした。
菜園のむこうの草原には花がたくさん咲いているのですが、ミツバチも飛んでなければ、キリギリスも鳴いていません。私は悲しみと無力感から泣きたくなってしまいました。
ふと気がつくと、おばあちゃんがそばにいました。「ジェミヤンキ村はただの森になってしまうのよ」と。何ということでしょう。
「これでおしまいね。おばあちゃん、終わりなのね。私たちの家族みんなに幸せを運んできたものはもう絶対にもどってこないのね」
「戻ろうか。ナターリア。おうちにお別れしなくっちゃあ」おばあちゃんは私に言いました。
私はまるで夢の中のように、おばあちゃんのあとについて門の中に入っていきました。顔をあげるとドアや窓はすべて壊され、おじいちゃんは木戸に鍵をおろしていました。私の胸は張り裂け、心臓が外に飛び出しそうになりました。
「ナターリア、お辞儀しなさい」、母の声が静かに聞こえてきました。
見ると、母、おばあちゃん、おばさんは永遠に使われることのなくなった家に向かって、深々とお辞儀をしていました。おじいちゃんと父とおじさんは隣にだまって立ち、帽子をとり、頭を低くさげました。
私は首から白いスカーフをはずし木戸の柱に結びつけると、持ちこたえられずにしゃがみこんでしまいました。ひざは涙でびっしょりになりました。
私はバス停までどうやって行ったか覚えていません。
私の前を小さい妹が走っていたのは覚えています。当時、彼女はまだほんの2歳で大人の心配や不安をまだ理解できませんでした。
神様、妹の幼年期に影を落とさないでください。もうこれ以上、ふるさとや小さなかわいい国から追い出すようなことをしないでください。全能の神様。妹に幸せをお与えください。
P・S親愛なる審査員のみなさん!
ドブルーシ地区のジェミヤンキ村には、私の祖先が住んでいました。
村の約半分は親戚にあたります。ジェミヤンキ村で、私の母、母の姉妹、おばあちゃん、おじいちゃん、ひいおばあちゃんが育ち、わたしの親戚も数多くここに葬られています。
ベラルーシで、最もすばらしいこの土地で、私は幼年期を過ごしました。
私は今、有名なヤンカ・クパーラの言葉を思いだしています。
「神様!あなたはここの何というすばらしい世界を創造されたのでしょう」これはまさに私のふるさとのための文章です。
私はビレイカで生まれ、ビレイカで育ちました。しかし、私のふるさとはジェミヤンキだと思っています。正確に言えば、「幼年期を過ごしたところが、ふるさとになる」のです。
ジェミヤンキで私の人生が始まりました。
初めての言葉を話し、初めて自分で立って歩いたのもここです。
そして記憶の最初にあるおばあちゃんの童話や子守歌。初めての友だち。そして、初めてのけんかも。
チェルノブイリの事故はすべてをひっくりかえしてしまいました。
嵐のような猛烈な勢いで村人の平和な生活に乱入してきました。人々は最も大切なものに別れを告げ、長年住んできたところをあとにしました。
明るく人のよい村人たちのかわりに、兵士が現れました。彼らはなぜか皆、同じ顔に見えます。
そしていつも、人が住むのに適さなくなった場所でわざわざ危険な仕事をしているように思えました。まるでロボットのようでした。
チェルノブイリは私の人生の中で最も苦い1ページです。
だから、コンクールのことを知ると、すぐ応募することを決めました。
ほかの人とも苦しみや痛みを分かち合うことによって、少しでも楽になるのではないかと思っています。
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