チェリノブイリの子ども:リュドミラ・ラプツェビッチ
2013-02-13
ドミトリーおじさんのゾーンでの話 リュードミラ・ラプツェービッチ(16) 「チェリノブイリの子どもたち」から
ベラルーシの人々と他の国の人々は、重い試練を受けることになった。
それはわたしたちが自らの運命を身をもって知ることになった原子力発電所の事故による、深刻な被害のためです。
チェルノブイリの灼熱に倒れた人々に対して、弔意を表したいと思う。
私たちが生活し、働いているすぐそばにリクビダートル(※)と言われる人々がいる。私はおじさんのドミトリー・ゴロフコフのことについて話をする。
※リクビダートル
事故の後、消火作業やあとかなづけなどに動員された軍人や労働者のこと。60万人を超える人々が動員された。
おじさんは、最初のミンスク警察部隊の一員として、1986年6月に、チェルノブイリ30キロゾーンに入っていった。
部隊は軍曹70人、将校50人で構成されており、事故処理には、ロシア、リトアニア、ラトビア、その他の旧ソ連の共和国の人々が参加していた。彼らの言葉や車のナンバーから、どこから来たか分かったそうだ。
時には救急車や警察、軍隊などの車両2千台が縦隊列を組んで進んだこともあったという。
半径30キロに住む人々は、避難する際に家畜も連れて行ったが、犬や猫は連れていくこともできず、そのまま放置された。
それらはやがて野生化し、危険になったため、駆除のための作業が行われることになった。
人々がいなくなった村には長年にわたって少しずつためられた家財道具がおかれたまま、住む人もなく、ひっそりと家が建っていた。
不幸な運命によって、人々はふるさとから追い出されてしまったのだ。
1986年の夏は、天気がよく、暑く、南風が吹いた。しかし、広大な土地、広大な畑は、もはや誰をも喜ばせなかった。
チェルノブイリの事故のずっと以前、年寄りたちが語ったことがある。
『すべての物が豊富になるときが必ず来る。しかし、そのとき、それを食べることもできないし、使うこともできない』と。
誰もこの予言を信じるものはいなかった。
しかし、今まさにこの恐ろしい予言のときが来た。すばらしい天気と、人々の勤勉な労働によって、畑や菜園には食糧が満ちあふれた。
人々は放射能のことを知りながらも、その危険性については分かっていなかった。汚染は目に見えない敵だったのだ。
新聞、雑誌、本などでは、リクビダートルたちが、災害を克服するために働き闘うのがいかに大変だったか、ということをよく目にする。
しかし彼らの日常生活や食料などの条件がどうだったのか、ということについては紹介されることはない。
最初のミンスクの部隊では、25歳から40歳の男性が働いていた。
昼食には、328グラムの肉の缶詰が二人に1個の配給しかなく、これではとても足りなかった。
そのために、彼らは打ち捨てられた菜園で、汚染された果物をちぎり、それを井戸水で洗い、防護シートでふき、食料にしたのだ。
空腹がそうさせたのだ。危険だ! 恐ろしいことだ! しかしこれは事実なのだ。
ドミトリーおじさんの話では、警察の部隊の服装は、病院の白衣のようなものを着ただけのもので、ほかの作業員との違いといえば制帽だけ。
夜の勤務の時は、ゴム製の軍隊の防寒服が与えられた。
昼間は暖かいが、この勇敢で、忍耐強い、しかし半分飢えていた人々にとって、夕方や夜の勤務の時の寒さは、防寒着を着ていても凍りついてしまいそうだったという。
たき火は禁止されていた。空気中に放射能が舞い上がるからだ。
家を捨てていったある農民が彼らのために、納屋の鍵をあずけていった。
おかげで寒い夜の時など、彼らは干し草やワラの中で暖まることができた。
最初の部隊が撤収する3、4日前に、食料の基準をそれまでより4倍にしなさいという、厳しい命令が出された。この命令により、交替した次の部隊からは最初の部隊のような衣服や食料の困難さはなくなった。
30キロゾーンでの秩序維持と財産の保護のために働いた人々には、警察に限らず、武器が必要だった。
しかし、最初のリクビダートルたちは、任務を遂行する際、それらの武器をもっていなかった。次に交替した部隊からは状況が少し緩和されることになった。
着任後、おじさんが所属していた部隊の仕事は、まず自分たちの基地をつくることだった。
その後、警察部隊は農民の財産を泥棒から守る任務についたが、警備が手薄な家は泥棒に荒らされた。
よそから来た悪者が、何とかゾーンに忍び込み、ベラルーシの町の市場で売りさばこうと、菜園から作物を盗むのだ。
ゾーン内の主要な道路は民間警察によって閉鎖されていたが、小さな田舎道や森の中の小道がたくさんあったため、侵入者が後を絶たなかった。
そのためリクビダートルたちは木を切り倒して杭にし、それでワイヤーを張った防護柵を設けたりもした。
その地区の役所が、住民が中に入り自分の持ち物を持ち出すのを許可することがあった。その際にも、リクビダートルたちはその運搬の手伝いをした。
また、ゾーン内には移住をしたがらない老人が何人か住んでいて、その老人たちにパンを運ぶのも彼らの仕事だった。
それ以外にも、たくさんの苦難が待ち受けていた。
泥炭の火事がたびたび起こったので、消防士は苦しみながらも、手を休めるひまもなく消化に従事した。
また散水車や消防車は、放射能のほこりを固めるための洗浄水溶液を絶えず道に散水し、土地の除染(※)につとめたのだ。
※除染
放射能を取り除く作業。水で洗ったり、砂をまいたり、アスファルトで固めたりした。
このようなつらく危険な条件の中にもかかわらず、リクビダートルたちは週に一回、壁新聞を作っていた。おじさんはこの編集にたずさわっていた。
ちなみに任務解除後の1986年6月22日付警察新聞「10月の警備」紙で、厳しかった任務のことについて書いたおじさんの詩が、コンクールに入選していることが報道された。
リクビダートルたちの日々の疲れをいやしたのはサッカーのワールドカップの試合だった。夕方や夜に働いたリクビダートルたちは、朝、再放送を見ることができた。
これは悲しみを取り除き、力とエネルギーと気分を高揚させるものとなったそうだ。
おじさんは30キロゾーンから移住してきた人々の苦しみについては書いていない。これはまた別の違ったテーマだからだ。
一つだけ紹介しよう。
非常に危険な汚染地区(ホイニキ地区ストレチボ、ベリーキー・ボル)からの移住者のために、争い事もなく、家や学校が建てられた。
しかし、1991年には、そこも居住不可能であると宣告されてしまった。
チェルノブイリの被害を分析するのは困難である。それを計測するのは不可能に近い。
しかし、不幸は現実であり、誰の目にも明らかである。
被っている損害は長い将来にわたって続く。
ベラルーシの人々と他の国の人々は、重い試練を受けることになった。
それはわたしたちが自らの運命を身をもって知ることになった原子力発電所の事故による、深刻な被害のためです。
チェルノブイリの灼熱に倒れた人々に対して、弔意を表したいと思う。
私たちが生活し、働いているすぐそばにリクビダートル(※)と言われる人々がいる。私はおじさんのドミトリー・ゴロフコフのことについて話をする。
※リクビダートル
事故の後、消火作業やあとかなづけなどに動員された軍人や労働者のこと。60万人を超える人々が動員された。
おじさんは、最初のミンスク警察部隊の一員として、1986年6月に、チェルノブイリ30キロゾーンに入っていった。
部隊は軍曹70人、将校50人で構成されており、事故処理には、ロシア、リトアニア、ラトビア、その他の旧ソ連の共和国の人々が参加していた。彼らの言葉や車のナンバーから、どこから来たか分かったそうだ。
時には救急車や警察、軍隊などの車両2千台が縦隊列を組んで進んだこともあったという。
半径30キロに住む人々は、避難する際に家畜も連れて行ったが、犬や猫は連れていくこともできず、そのまま放置された。
それらはやがて野生化し、危険になったため、駆除のための作業が行われることになった。
人々がいなくなった村には長年にわたって少しずつためられた家財道具がおかれたまま、住む人もなく、ひっそりと家が建っていた。
不幸な運命によって、人々はふるさとから追い出されてしまったのだ。
1986年の夏は、天気がよく、暑く、南風が吹いた。しかし、広大な土地、広大な畑は、もはや誰をも喜ばせなかった。
チェルノブイリの事故のずっと以前、年寄りたちが語ったことがある。
『すべての物が豊富になるときが必ず来る。しかし、そのとき、それを食べることもできないし、使うこともできない』と。
誰もこの予言を信じるものはいなかった。
しかし、今まさにこの恐ろしい予言のときが来た。すばらしい天気と、人々の勤勉な労働によって、畑や菜園には食糧が満ちあふれた。
人々は放射能のことを知りながらも、その危険性については分かっていなかった。汚染は目に見えない敵だったのだ。
新聞、雑誌、本などでは、リクビダートルたちが、災害を克服するために働き闘うのがいかに大変だったか、ということをよく目にする。
しかし彼らの日常生活や食料などの条件がどうだったのか、ということについては紹介されることはない。
最初のミンスクの部隊では、25歳から40歳の男性が働いていた。
昼食には、328グラムの肉の缶詰が二人に1個の配給しかなく、これではとても足りなかった。
そのために、彼らは打ち捨てられた菜園で、汚染された果物をちぎり、それを井戸水で洗い、防護シートでふき、食料にしたのだ。
空腹がそうさせたのだ。危険だ! 恐ろしいことだ! しかしこれは事実なのだ。
ドミトリーおじさんの話では、警察の部隊の服装は、病院の白衣のようなものを着ただけのもので、ほかの作業員との違いといえば制帽だけ。
夜の勤務の時は、ゴム製の軍隊の防寒服が与えられた。
昼間は暖かいが、この勇敢で、忍耐強い、しかし半分飢えていた人々にとって、夕方や夜の勤務の時の寒さは、防寒着を着ていても凍りついてしまいそうだったという。
たき火は禁止されていた。空気中に放射能が舞い上がるからだ。
家を捨てていったある農民が彼らのために、納屋の鍵をあずけていった。
おかげで寒い夜の時など、彼らは干し草やワラの中で暖まることができた。
最初の部隊が撤収する3、4日前に、食料の基準をそれまでより4倍にしなさいという、厳しい命令が出された。この命令により、交替した次の部隊からは最初の部隊のような衣服や食料の困難さはなくなった。
30キロゾーンでの秩序維持と財産の保護のために働いた人々には、警察に限らず、武器が必要だった。
しかし、最初のリクビダートルたちは、任務を遂行する際、それらの武器をもっていなかった。次に交替した部隊からは状況が少し緩和されることになった。
着任後、おじさんが所属していた部隊の仕事は、まず自分たちの基地をつくることだった。
その後、警察部隊は農民の財産を泥棒から守る任務についたが、警備が手薄な家は泥棒に荒らされた。
よそから来た悪者が、何とかゾーンに忍び込み、ベラルーシの町の市場で売りさばこうと、菜園から作物を盗むのだ。
ゾーン内の主要な道路は民間警察によって閉鎖されていたが、小さな田舎道や森の中の小道がたくさんあったため、侵入者が後を絶たなかった。
そのためリクビダートルたちは木を切り倒して杭にし、それでワイヤーを張った防護柵を設けたりもした。
その地区の役所が、住民が中に入り自分の持ち物を持ち出すのを許可することがあった。その際にも、リクビダートルたちはその運搬の手伝いをした。
また、ゾーン内には移住をしたがらない老人が何人か住んでいて、その老人たちにパンを運ぶのも彼らの仕事だった。
それ以外にも、たくさんの苦難が待ち受けていた。
泥炭の火事がたびたび起こったので、消防士は苦しみながらも、手を休めるひまもなく消化に従事した。
また散水車や消防車は、放射能のほこりを固めるための洗浄水溶液を絶えず道に散水し、土地の除染(※)につとめたのだ。
※除染
放射能を取り除く作業。水で洗ったり、砂をまいたり、アスファルトで固めたりした。
このようなつらく危険な条件の中にもかかわらず、リクビダートルたちは週に一回、壁新聞を作っていた。おじさんはこの編集にたずさわっていた。
ちなみに任務解除後の1986年6月22日付警察新聞「10月の警備」紙で、厳しかった任務のことについて書いたおじさんの詩が、コンクールに入選していることが報道された。
リクビダートルたちの日々の疲れをいやしたのはサッカーのワールドカップの試合だった。夕方や夜に働いたリクビダートルたちは、朝、再放送を見ることができた。
これは悲しみを取り除き、力とエネルギーと気分を高揚させるものとなったそうだ。
おじさんは30キロゾーンから移住してきた人々の苦しみについては書いていない。これはまた別の違ったテーマだからだ。
一つだけ紹介しよう。
非常に危険な汚染地区(ホイニキ地区ストレチボ、ベリーキー・ボル)からの移住者のために、争い事もなく、家や学校が建てられた。
しかし、1991年には、そこも居住不可能であると宣告されてしまった。
チェルノブイリの被害を分析するのは困難である。それを計測するのは不可能に近い。
しかし、不幸は現実であり、誰の目にも明らかである。
被っている損害は長い将来にわたって続く。
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