チェリノブイリの子ども:ミハイル・ピンニック
2013-02-12
死のゾーンはいらない ミハイル・ピンニック(14) 「チェリノブイリの子どもたち」から
僕の両親はベラルーシをあちこち旅行するのが好きだ。僕もついて回って、いろんな所へ行った。僕が旅行で一番印象に残り、感動するものがある。それは戦争の史跡、われわれの未来のために戦った解放軍兵士(※)やパルチザン(※)の記念碑である。
その全ての史跡には、全ての戦争の悲劇がある。そして、今また、新たな悲劇の記念碑が加わった。チェルノブイリの悲劇の史跡である。
※解放軍兵士
ソ連軍のこと。
※パルチザン
ナチスに抵抗して闘った遊撃隊。
ポロシエの大地にミチノ墓地がある。これは、ミチノ村の外側に広がっている大きな死人の町だ。まだ「若い」墓地である。墓地の中央をつらぬく並木通りには、26の同じ形をした白い墓標と、小さな大理石で作られた石碑の墓が並んでいる。
ここにはチェルノブイリ事故処理に参加して死んだ人を葬ってある。彼らの死は人々を動揺させた。
あの森ではカッコウは鳴けない
不毛の森ではないのだが、もっとおそろしいことに
沈黙の森なのだ
おお 人間たちよ
気がついたのが遅かった
チェルノブイリは核戦争なんだよ
僕は、僕の同い年の人たち同様に汚染地区に住んでいなくてよかった。しかし、僕は自分の故郷のことで心が痛む。それぞれが自らの人生の総括をするだけではなく、祖国の運命、国民の歴史について考え、国民全体の問題の中での個人の貢献を、評価するときがくるだろう。
このような考えにおいて、精神的なきっかけを与えるのは、たいていドラマチックな事件である。僕は、国中がその名を知っている人々のことについて書いてみたい。
それは暖かい4月のライラックや桜の香りがする夜だった。突如、チェルノブイリ原発第4号炉が爆発した。23歳のウラジミール・プラビイク中尉は危険な中に突進した。その時点で、40か所以上にものぼっていた火の手との戦いを始めた。どこが一番危険なのか。決定を下すのに猶予はなかった。
消防士は28人で、三つの消防隊から来ていた。火を消せないにしても、拡大するのはくい止めなければならなかった。ワシーリ・イグナチェンコ中尉は70メートルのハシゴをかけ登っていった。ウラジミール・チシチューラは機械棟の屋根に飛び込んでいった。
現場に、消防隊長のウラジミール・チェリャートニコフ少佐が到着した。彼がみたものは恐ろしい光景だった。原子炉は燃えさかり、地獄の炎の光の中、相当な高さのところで人影がゆらめいていた。そこが最も危険な場所だった。チェリャートニコフ少佐は、ビクトル・キベソク、ウラジミール・プラービック、ビターリー・イグナチェンコ、ニコライ・バシチューク、ウラジミール・チシチューラ、ニコライ・チチェノークが絶体絶命の状況におかれていることを理解した。
機械棟は火事から守られた。消防士たちは、十分に職務を果たした。なぜなら彼ら一人ひとりは、逃げてはいけない。自分たちには、子どもや父や母、年寄りがおり、故郷があるのだということを理解していたからだ。彼らは、自らの命をかえりみず、崇高な献身的精神で、炎との戦いでお互いに先を争って挑もうとしていた。
レオニード・チェリャーニコフは380レントゲン(※)の放射線量を受けた。2か月の間、医者は彼の命のために闘った。奇跡が起こった。この勇敢な将校は生き延びたのだ。
※レントゲン
放射線の照射線量の単位。
240人がこのとき25から100レムの放射線を浴びた。大胆さと勇気と自己犠牲の精神である。どうしたらこのような精神が身につけられるのであろう。僕はこの地獄の試練を受けた人々の英雄的行為に頭が下がる思いがする。彼らの功績は、大祖国戦争(※)の時の解放軍兵士たちの功績にひけをとらないものである。
※大祖国戦争
第二次世界大戦の独ソ戦の呼称。
チェルノブイリ。チェルノブイリの悲劇。この苦しい時期、人々はそれぞれ異なった行動をした。ある人たちは、パニックにおちいり、ある人たちは、脱走してしまった。しかし、ほとんどの人々は英雄的にがんばったのである。不幸は、レントゲンのように、一人ひとりの心を透かしてみせる。
時がたっても、多くの人がチェルノブイリの悲劇のなかの勇敢な戦士の名を忘れないだろうと、僕は信じる。チェルノブイリによる苦痛は、子どもたちの夢のような療養のための外国旅行によっても静められないし、政府の住民への追加補償の約束によっても消し去ることはできないし、医者の楽観的な診断によってもやわらげることもできない。
これらには全て嘘の印が押してある。
チェルノブイリ事故は大地を揺り動かし、われわれの生活を変えてしまった。日常会話が「放射能」「レム」「キュリー」などの用語でいっぱいになった。
われわれの全ての生活がチェルノブイリを考慮にいれてつくられている。
有刺鉄線、重苦しい通達、居住禁止区域。これは戦争の記録映画ではないのだ。今、ここベラルーシで起こっていることなのだ。
チェルノブイリゾーンは、穀物を栽培してはいけない、水も飲んではいけない、空気を吸うのも危険で、父祖の家も永久に住めないところなのだ。
チェルノブイリで汚染された土地には、僕たちの子も孫も帰れない。
それでも、セシウムやストロンチウムに冒された畑や森や草原が治った後、いつの日にか、子孫たちが帰れるようになるだろう。大地は、太古から住み続けた主人の子孫をわかるだろう。大地は、必ず誰だかわかり、許すことだろう。僕は心からこのことを信じる。
現在、われわれの生活には多くの困難と問題がある。われわれがどれくらい生存できるか、多くのことを成し遂げることができるかどうかは、誰にもわからない。
われわれが残す足跡は、いいものでなくてはいけない。のちの人たちが思い出してくれるように。
この国でこれ以上、死のゾーンや居住禁止区域ができないようにしたい。そして、チェルノブイリで破壊された地域に早く白樺の林が輝き、豊かな庭が現れ、リンゴの木にはみずみずしいリンゴがなるようにしたい。
空気が自由に吸え、水が飲め、土地には種をまけるようにしたい。
空気はきれいに
空は青く
畑には種がまかれ
黄金色の小麦が
実るように
僕の両親はベラルーシをあちこち旅行するのが好きだ。僕もついて回って、いろんな所へ行った。僕が旅行で一番印象に残り、感動するものがある。それは戦争の史跡、われわれの未来のために戦った解放軍兵士(※)やパルチザン(※)の記念碑である。
その全ての史跡には、全ての戦争の悲劇がある。そして、今また、新たな悲劇の記念碑が加わった。チェルノブイリの悲劇の史跡である。
※解放軍兵士
ソ連軍のこと。
※パルチザン
ナチスに抵抗して闘った遊撃隊。
ポロシエの大地にミチノ墓地がある。これは、ミチノ村の外側に広がっている大きな死人の町だ。まだ「若い」墓地である。墓地の中央をつらぬく並木通りには、26の同じ形をした白い墓標と、小さな大理石で作られた石碑の墓が並んでいる。
ここにはチェルノブイリ事故処理に参加して死んだ人を葬ってある。彼らの死は人々を動揺させた。
あの森ではカッコウは鳴けない
不毛の森ではないのだが、もっとおそろしいことに
沈黙の森なのだ
おお 人間たちよ
気がついたのが遅かった
チェルノブイリは核戦争なんだよ
僕は、僕の同い年の人たち同様に汚染地区に住んでいなくてよかった。しかし、僕は自分の故郷のことで心が痛む。それぞれが自らの人生の総括をするだけではなく、祖国の運命、国民の歴史について考え、国民全体の問題の中での個人の貢献を、評価するときがくるだろう。
このような考えにおいて、精神的なきっかけを与えるのは、たいていドラマチックな事件である。僕は、国中がその名を知っている人々のことについて書いてみたい。
それは暖かい4月のライラックや桜の香りがする夜だった。突如、チェルノブイリ原発第4号炉が爆発した。23歳のウラジミール・プラビイク中尉は危険な中に突進した。その時点で、40か所以上にものぼっていた火の手との戦いを始めた。どこが一番危険なのか。決定を下すのに猶予はなかった。
消防士は28人で、三つの消防隊から来ていた。火を消せないにしても、拡大するのはくい止めなければならなかった。ワシーリ・イグナチェンコ中尉は70メートルのハシゴをかけ登っていった。ウラジミール・チシチューラは機械棟の屋根に飛び込んでいった。
現場に、消防隊長のウラジミール・チェリャートニコフ少佐が到着した。彼がみたものは恐ろしい光景だった。原子炉は燃えさかり、地獄の炎の光の中、相当な高さのところで人影がゆらめいていた。そこが最も危険な場所だった。チェリャートニコフ少佐は、ビクトル・キベソク、ウラジミール・プラービック、ビターリー・イグナチェンコ、ニコライ・バシチューク、ウラジミール・チシチューラ、ニコライ・チチェノークが絶体絶命の状況におかれていることを理解した。
機械棟は火事から守られた。消防士たちは、十分に職務を果たした。なぜなら彼ら一人ひとりは、逃げてはいけない。自分たちには、子どもや父や母、年寄りがおり、故郷があるのだということを理解していたからだ。彼らは、自らの命をかえりみず、崇高な献身的精神で、炎との戦いでお互いに先を争って挑もうとしていた。
レオニード・チェリャーニコフは380レントゲン(※)の放射線量を受けた。2か月の間、医者は彼の命のために闘った。奇跡が起こった。この勇敢な将校は生き延びたのだ。
※レントゲン
放射線の照射線量の単位。
240人がこのとき25から100レムの放射線を浴びた。大胆さと勇気と自己犠牲の精神である。どうしたらこのような精神が身につけられるのであろう。僕はこの地獄の試練を受けた人々の英雄的行為に頭が下がる思いがする。彼らの功績は、大祖国戦争(※)の時の解放軍兵士たちの功績にひけをとらないものである。
※大祖国戦争
第二次世界大戦の独ソ戦の呼称。
チェルノブイリ。チェルノブイリの悲劇。この苦しい時期、人々はそれぞれ異なった行動をした。ある人たちは、パニックにおちいり、ある人たちは、脱走してしまった。しかし、ほとんどの人々は英雄的にがんばったのである。不幸は、レントゲンのように、一人ひとりの心を透かしてみせる。
時がたっても、多くの人がチェルノブイリの悲劇のなかの勇敢な戦士の名を忘れないだろうと、僕は信じる。チェルノブイリによる苦痛は、子どもたちの夢のような療養のための外国旅行によっても静められないし、政府の住民への追加補償の約束によっても消し去ることはできないし、医者の楽観的な診断によってもやわらげることもできない。
これらには全て嘘の印が押してある。
チェルノブイリ事故は大地を揺り動かし、われわれの生活を変えてしまった。日常会話が「放射能」「レム」「キュリー」などの用語でいっぱいになった。
われわれの全ての生活がチェルノブイリを考慮にいれてつくられている。
有刺鉄線、重苦しい通達、居住禁止区域。これは戦争の記録映画ではないのだ。今、ここベラルーシで起こっていることなのだ。
チェルノブイリゾーンは、穀物を栽培してはいけない、水も飲んではいけない、空気を吸うのも危険で、父祖の家も永久に住めないところなのだ。
チェルノブイリで汚染された土地には、僕たちの子も孫も帰れない。
それでも、セシウムやストロンチウムに冒された畑や森や草原が治った後、いつの日にか、子孫たちが帰れるようになるだろう。大地は、太古から住み続けた主人の子孫をわかるだろう。大地は、必ず誰だかわかり、許すことだろう。僕は心からこのことを信じる。
現在、われわれの生活には多くの困難と問題がある。われわれがどれくらい生存できるか、多くのことを成し遂げることができるかどうかは、誰にもわからない。
われわれが残す足跡は、いいものでなくてはいけない。のちの人たちが思い出してくれるように。
この国でこれ以上、死のゾーンや居住禁止区域ができないようにしたい。そして、チェルノブイリで破壊された地域に早く白樺の林が輝き、豊かな庭が現れ、リンゴの木にはみずみずしいリンゴがなるようにしたい。
空気が自由に吸え、水が飲め、土地には種をまけるようにしたい。
空気はきれいに
空は青く
畑には種がまかれ
黄金色の小麦が
実るように
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