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広瀬隆12/14郡山講演(2)核実験と人体実験

 広瀬隆12/14郡山講演(1)からの続きです。
 ーーーーーーーーーーーーーーー
この背後に信じられない恐怖の出来事がひそかに進行していた…
ニューメキシコ州で最初の原爆実験を成功させた“原爆の父”ロバート・オッペンハイマーは、
最初の核分裂連鎖反応を成功させたエリンコ・フェルミに対して、
マンハッタン計画中の1943年5月25日付けで、
放射性毒物兵器による「50万人殺戮計画」の書簡を送っていた


この二人は核開発の中では偉大な二人にされていますが、
このオッペンハイマーはエンリコ・フェルミに対してとんでもない計画を戦争中に進めていたんです。
それは、「放射性毒物兵器」というもの。
いいですか、放射能で人間を殺せるんだ。
50万人殺戮計画という、書簡を送っていた。
本当でしょう。
実際に機密に処理されていて暴露された
エリンコ・フェルミ様とオッペンハイマーが書いた文書があります。

ここにSECRETと書いてある上にCANCELEDと、上に押してある。
これがですね、実をいうとアメリカのピューリッツァー賞を受賞したアメリカの

「プルトニウム人体実験」
 プルト実験

これを全部暴露した。
私はこの本の翻訳を頼まれましたので、この事をちょっと引用します。
どういう事を書いてあるのか。

エリンコ・フェルミ様
放射能で食品を汚染させる問題について報告します。
私はすでにいくつかの作業を進めています。
……50万人を殺すのに食べ物を充分に汚染できない場合には、計画を試みるべきではないと考えます。
というのは、均一に分布させる事が出来ないため実際に被害を受ける人間がこれよりはるかに少なくなる事は間違いないからです。……ロバート・オッペンハイマー


50万人を殺すのに食べ物を均等に汚染させられないからどうするかという事をですね、
具体的に考えています。
こういう恐ろしい人間たちが原発開発の裏にいまして、
彼らがいったいどういう世界から出てきたか?というと、
マンハッタン計画の首謀者達がですね、
全米でなんと人間にプルトニウムを注射して人体実験をしようということで、
人体実験をやっていたというのが先程のアメリカの達が考えていた事実で、

これはもう寒気がするようなことですが、
アメリカ人も人体実験をさせられていまして、
それがマンハッタン計画の首謀者たちと、みんな関係がある病院を使って行われました。
で、どういうことか?
マンハッタン計画というのは原爆開発班だけが有名なんですけれども、
その背後に医学班というものも存在しました。

マンハッタン計画には有名な「原爆開発班」だけではなく、
第二の部門として「医学班」が存在していた。
彼らが放射能の危険性を研究した部隊である。
その最高責任者。医療班の主任がスタッフォード・ウォーレンであり、
彼自身がプルトニウム生体実験を認可した当人であった。


医学班、つまり放射能の危険性を研究するという連中がいまして、
さっきは、シールズ・ウォーレンでした。
名前がちょっと違いますが、医療班の方はスタッフォード・ウォーレンで、
もうひとりのウォーレンでして、これがプルトニウム人体実験を認可した当人なんですが、
こうしてですね、スタッフォード・ウォーレンがどこででてきたか?というと、

スタッフォード・ウォーレンはニューメキシコ州での最初の原爆実験で放射性物質の効果を観測し、
多くのものがかなり大量に被曝したことから、
「3.2キロメートル以内の被ばく者には、死亡者または重傷者が出る恐れがある。
放射性降下物によって極めて重大な潜在的危険性が残されている」と報告した。
そのウォーレンが原爆投下後の広島と長崎に姿を現し、後のABCCと共同で被爆者を観察した。


最初の原爆実験をやった時に彼は全部観察をしていてですね、
「・・・・潜在的危険性が残されている」こういう事がすでに分かっていました。
そういう事から、ま、実際にですよ、マンハッタン計画に従事した人間も大量に被ばくをしました。
しかしそれを表にすると大変な事ですから、
全部こういう事は極秘に進めて言ったんですね。
そのスタッフォード・ウォーレンが、さっきのシールズ・ウォーレンの作ったABCCと共同でですね、
被ばく者を観察しています。
つまり、彼の、スタッフォード・ウォーレンの記録を読むと、
彼は、広島、長崎に来ているんです。
原爆が投下されてしばらくしてからですね、来ています。

ということで、今度はソ連がですね、ついに最初の原爆実験を成功させまして、

1949年8月29日
ソ連がシベリアのカザフ共和国セミパラチンスク核実験場に於いて
最初の核実験(アメリカのFat Manのコピーとして製造されたプルトニウム型原子爆弾)に成功。
セミパラチンスクでは、1949年~1989年までに470回の核実験が行われ、
うち100回以上は大気中であった。


アメリカにも負けていないで、こういうですね最初のソ連の原爆です。

1949年、ソ連最初の原爆RDS-1の模型。
写真の人物はイーゴリ・クルチャトフとともに核開発就任となったユーリー・ハリトン。


こうして、東西冷戦というものがいわゆる核兵器の対立になって行ったわけです。

その翌年の1950年
国際X線及びラジウム防護委員会が
名称をICRP(国際放射線防護委員会ーInternational Commission on Radiological Protection )
に変更し、許容線量の値を改定した。
この時…放射線医学、放射線遺伝学の専門家以外に
原子力(核兵器)関係の専門家も委員に加わるようになり、
放射線被ばくを正当化しようとする勢力が介入して、
委員会は「放射能の危険性を隠蔽する組織」へと変質し始めた。
このICRPが、現在の全世界の放射線安全基準の作成者である。


許容線量を改定したんですが、この時に、こういう時代だからなにが必要か、
まず、核兵器をつくることが重要なんです、彼らは。
被ばく者がどんなに出てもしょうがない。
減らせるものなら減らしたい、しかし、その人間たちがどれ位の被ばくをするかは、
調べながら、同時にですね、
彼らは被ばく者をモルモットにしながら、
このICRPが現在の全世界の放射線の安全基準を作成するという事からはじまりました。

この時に核兵器の専門家が専門委員会の中に介入し始めた訳です。
戦争のために介入し始めたんですね。

そしてですね、この時から、

ICRPに改組されてから、核実験や原子力利用を遂行するにあたり、
一般人に対する基準が設けられ、
1954年には暫定線量限度、1958年には線量限度を勧告した。
一般人に対する基準が新たに設定された事に対して、
アルベルト・シュバイツァー博士は、
誰が彼らに許容することを許したのか」と憤った。


一般人に対する基準。
だって大気中核実験をやるんですからね、
世界中の人間が被ばくする訳ですから、
それなら基準を設けなければいけないという事で、
基準を設けてそれから線量限度を勧告するようになって行ったんです。

そしてこの基準というものがどこから出てきたかと言いますと、

そのひとり恐るべき主導者がジョゼフ・ハミルトン。
プルトニウム人体実験で中心的な役割を果たした医師。
カリフォルニア大学の放射線医学の権威として、
1936年おそらく世界で最初に放射性物質を人体に注射した人物として知られる。
マンハッタン計画の研究プロジェクトの主任を務め、
のちに、核実験を主導した原子力委員会と、
国際放射線防護委員会(ICRP)の放射能許容値データの大半を作成して大きな役割を果たした。


ジョゼフ・ハミルトンは人体実験をした中心的な医師。
医者なんですよ。
マンハッタン計画の主任を務め、そしてこの核実験の主導者原子力委員会、
そしてICRPの許容値データの大半を作成している。
こういう事で、我々の被ばく量が決められている、とんでもないですね。


現在チェルノブイリ事故と福島原発事故の被ばく者をはじめ、
国際的に問題となっている原子力発電の放射能被曝量は、
国際法さ線防護委員会(ICRP)が定めた安全基準、
いわゆる閾値と呼ばれるがんなどの発生限界を基に危険性が議論されている。
その基準となったデータは、
広島・長崎で分析された被ばく量が大きな算定基準になったと言われてきたが…


これがいま、ICRPのインチキと言われる安全基準は、
広島・長崎の被爆者のデータを基にしたと言われています。
今でもそれしか語られませんが、そうじゃないんです。

先程のアメリカのハミルトンが、ぞっとするんですが、

実は恐るべきことに、この人体実験医ハミルトンの指導のもとに
カリフォルニア大学バークレー校クロッカ―研究所から大半のデータが供出されていた。
今人類は、その殺人医師のデータに子どもたちの生命を賭けているのである。


この人体実験をやった人間たちがですね、大半のデータを供出して
今それを我々が、安全基準だという事で、
新聞記者たちが「分かりやすい放射能の話し」なんていうのを新聞に書いている。
そういう物の根拠がこういう所にある
わけです。

皆さんそんなもの信じますか?
殺されますよ、本当に。


その連中は殺人鬼ですから、ハッキリ言っておきますけれども。

それからもう少し詳しいお話をしますけれども、
アメリカ人がソ連と対立するためにもっと核実験を大々的にやらなければならない。
核兵器をどんどん大型にして強力にする計画ですね。

1951年1月27日
アメリカネバダ州で最初の原爆実験Ableが実施された。
朝鮮戦争の勃発とともにネバダ州での大気中核実験が大規模に開始され、
ABCC創設者のシールズ・ウォーレンがその・・・・


そしてついには自分の、アメリカ政府があそこは砂漠だから大丈夫だろうというんで、
そこで原爆実験を始めました。
そしてその時にABCCを設立したシールズ・ウォーレンがですね、
その放射能関係の最高責任者を務めて、
そして死の灰について安全量の世界一の権威者になっていきます。

そして、沢山のがん患者が風下地帯に生み出されました。
全世界、5カ国の合計で525回の大気中核実験です。
我々の子どもの時代です。
見て下さい、これアメリカの兵士ですよ。
 広瀬15

この、ドーン!といってキノコ雲が上がっているところへ鉄砲を持って突っ込んでいくんですよ、
信じられますか?
こうやって見ているんですよ、目の前で。
やりたいですか?みなさん。

これは全部当時の記録が残っています。
全部記録映画が残っているんです。
そしてキノコ雲に向かって突っ込んでいく。これでなにも起こらないんですか?
30万人を超えるアトミックスが、いろんな癌やなんかになっていって、
80年代から90年代に掛けて全米で訴訟が起こされているんです。
「我々はアメリカ国民なのに国に騙された」」
と言ってみんなが立ちあがったんですね。

それ以後、
ここのところがネバダ州なんですが、隣のユタ州で風下。
わかるでしょ?これ。
 広瀬16

なんで死の灰がこっちへばっかり流れているか?っていうと、
こっちに流れている時だけ核実験をやったんです。
こっち側のカリフォルニア州は何にも落ちていないでしょ?
だからそっちには行かないようにしたわけです。
という事で全米にこうして大量の放射性物質をばらまいたんですが、
とくにこのユタ州の町等は町中が癌になって倒れていく。

という事で大変な被害を受けました。

しかしですね、
ネバダ州で行われた大気中の原爆実験100発に比べて、
福島第一原発から放出された放射性物質は遥かに多い。


ネバダ州の核実験100発で出た放射能は福島に比べてはるかに少ないです。
福島の方がはるかに多いです。
それから距離から言いまして、この風下になった町は200kmぐらい離れているんですよ、爆心地から。

という事は、福島第一から私の家東京は230kmぐらいですか。
だからそれぐらい離れているんです。

ところがそれぐらい離れたところで、大量の被ばく者が出まして、
そして次々と死んでいく
 広瀬17

当時のアメリカ政府はご存じのように
原爆実験には危険の可能性はある、しかしそれは人間が死ぬという可能性ではない。
医学的に絶対安全とされている量よりも、
わずかに上回る放射線を浴びるかもしれないという危険にすぎない。


ということです。
そしてですね、

被害住民は
汚れた雲が通った後、子どもたちが次々と白血病にかかっている。
目の無い赤ちゃんが生まれた。
流産が増えている。
子どもたちの甲状腺異常が増えている。
癌が増えている。
風下地帯のユタ州では白血病のは成立が370%にも達した。
女性の甲状腺がんが300%近くになった。

アメリカ政府は
あのような微量の放射能で人が死ぬはずありません。


政府は言い続けました。
そしてこの言葉をよーく読んで下さい。

放射線被ばくで大量のがん患者を出した町民に対してアメリカ原子力委員会が語った言葉。
全く危険はありません。
放射能について心配しない事こそ、あなたにとって最善の行動なのです。
一番汚染された町の年間の被ばく量は最高で500ミリレム(5ミリシーベルト)でした。
これらは、私たちが自然界から受ける放射線100ミリレム(1ミリシーベルト)とくらべて、
殆ど変わらない安全な量です。
高い山に登ると240ミリレムの放射線を受ける場所が沢山あります。
人間の体内にも、もともと放射線を出す物質があります


福島県民がどこかで聞いた言葉ではないか?

みなさんもこの事と同じ事を聞いたでしょ?
同じなんです昔から、手法が全く変わっていません。
だから被害が出るんです。
いいですか、
恐ろしい人たちがいう言葉はこの1950年代の原発実験の記録を見ると全部わかります。

山下俊一たちが言っている言葉と一語一句変わりません。
何も変わりませんよ。

私は12年前にこの核実験場へ行きました。
今も立ち入り禁止の立て札があります。
ラスベガスから、ずーーっと砂漠の中を車で行くと、120kmも行くとあります。
 広瀬18

まだ若いでしょ、私。12年前です。
最終処分場の候補地ヤッカ・マウンテンやユッカ・マウンテンといわれるところです。
今最終処分場、福島県内で言えば皆さんは中間貯蔵施設でですね、永久になるかもしれない、
あの貯蔵施設と同じなんです。
あれはね、絶対に中間貯蔵じゃないですから。
福島県内の汚染物質を集めた場所、それは永久貯蔵施設になります。

  戦後7年目 南太平洋の空が燃え上がり

もう一回1950年代の大変な時代に戻りますと、
戦後7年目、新たな時代を迎えます。
南太平洋の空が燃え上がります。それはなにかというと、
これです。
 広瀬19

こんどは桁違いの事を始める。
人類最初の水素爆弾
今までは原爆なんですが、これからは水爆の時代が1952年はじまりました。
だから、1000倍規模の話。100倍~1000倍のものですね。
ところが翌年ソ連がやはり水爆実験に成功します。
そういう状況の中で、アメリカは何とかしなければいけない。ということで、

翌1953年8月12日
ソ連がシベリアで初の水爆実験に成功。
これを受けて1953年12月8日
アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会演説で、原子力の平和利用(Atoms-for-Peace)を宣言し、
国際機関の創設を提唱した。→原子力発電の時代へ


ここから原子力発電の時代に入っていく訳ですが、
要するにこれはどうしてこんなことが行われるのか、今の流れを見ていけば皆様もお分かりのとおり、
原子力の軍事利用を隠すために生まれたのが「原子力の平和利用」演説であった。
これから人類が騙されていく

2発目の水爆
1954年3月1日 
マーシャル諸島ビキニ環礁でBravoの水爆実験


これですね、凄まじいんですけれど、
 広瀬20

これは我々はちょっと想像が出来ない。
これ、キノコ雲が100kmという直径ですからね。
さっきの原爆とはケタが違います。
きのこ雲の直径が100kmですよ、東京駅から富士山ぐらいまで。

その時ですね、ちょうど

現地ロンゲラップ島の住民が大量に被爆・被曝した。
巨大なキノコ雲が空に立ちのぼった時、
静岡県焼津漁港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」が南太平洋に遠洋出漁中で、
マーシャル諸島ビキニ環礁東方130キロメートルの海上の近い距離にあって被爆・被曝。


大量の被ばくです。
広島・長崎と同じように直接の閃光もあったし、それから死の灰も浴びました。
この時に日本人が巻き込まれるという事件が起こった。
マグロ漁船の第五福竜丸がそのすぐ近くで、被ばくをしました。

第五福竜丸の位置を地図で書いて見ますとこういう事になります。
 広瀬21

これぐらいの距離ですからね、
この第五福竜丸の船員たちは、直接の被ばくも受け、そして彼らの言った言葉によりますと、
「太陽が二つあった」というようなそういう閃光を浴びながら、
そして同時に大量の死の灰を浴びたと。

広島原爆1000倍の爆発力ですから、ここで水爆が爆発
これぐらいの範囲ですね、死の灰が。
この範囲が日本列島と比べると、このぐらいの距離です。
 広瀬22 広瀬23

こうしてですね、この大事件が起こったんですが、しばらくして分かったんですね。
それは3月1日に実験が行われましたから、

1954年3月16日
読売新聞が第五福竜丸の水爆放射能被災ニュースをスクープ。
この日、東京築地の魚河岸で、
第五福竜丸から水揚げされたマグロから郷土の放射能を検出し、破棄された。
以後、東京と大阪の中央魚市場で多数の魚から放射能汚染が発見され、水爆マグロの恐怖が広がる。
広大な範囲が「漁業危険海域」に指定され、
そこに出漁した漁船の水揚げ魚が検査され、
実際に汚染が発見された漁船は683隻、廃棄された魚は457トンに達した。


私はこの事件を記憶しているんです。幼いながらもですね、
いわゆる放射能マグロという事件が起こりまして、
そして、水爆マグロの恐怖が日本全土に広がりまして、
当時、この第五福竜丸だけではなく、

水爆実験当時、ビキニ環礁周辺の海域で操業していた船だけで800隻以上あり、
のち、この汚染船の数はさらに増え、900隻前後であるとされる。
魚の小差分析からは、内臓の汚染が顕著であることが判明。
日本人の主なタンパク源である水産物全体に対して恐怖心を呼んだ。
食卓が警戒心と拒否反応を起こし、
魚価が半値以下に暴落して、水産業だけでなく、飲食店に大損害を与えた。
その影響は長期間に及び、マグロ漁業は壊滅的とも言える被害を受けた。


900隻もその時海洋に出ていた訳で、それがどんどん陸揚げされる。
測るとどんどんカウンターがワーッと上がる。
そして日本人全体が魚を買わなくなるというそういう時代でした。
じゃあ、この時日本人全体がどういう状態であったかというと、
日本にも放射線のいろいろな研究組織が誕生してくるんですが、
この頃はまだ日本人の意識はですね「被爆国」
「広島長崎でアメリカにやられた」という意識が非常に強かったものですから、

ICRPと並行して日本にも各種の放射線研究組織が誕生した。
戦後のの本は被爆国であったため、
1951年5月1日、
九電力体制発足と同じ日に、日本放射性同位体元素協会が設立され、
のち“原水爆実験反対運動”の先駆者として活躍し、全世界に先駆けて放射能の危険性を告発した。


この人達は非常に優れていまして、日本人を守ろうという事で放射能の研究に立ちあがるんですね。
で、ちょうど福島と杉並の太郎さん達が連携しているのと同じような形で、

1945年5月9日
東京都杉並区の主婦が中心となって原水爆禁止のための杉並協議会を結成し、
原水爆反対の巨大な署名運動が始める。
特に、福島県原町(現・南相馬市)生まれの亀井文夫監督が、
1957年にドキュメンタリー映画「世界は恐怖する 死の灰の正体」を製作し、
そこに日本の良心的な科学者が続々と登場した。


この映画の中にさきほどの日本放射性同位体元素協会の良心的な科学者が次々と登場して、
我々に教えてくれたんです。
放射能がどんなに怖いものであるか」という事を語ってくれました。

ところがそういう時代の中でですね、ソ連が今度は原子力を発電に使うという事でスタートしまして、

1954年6月27日
ソ連が世界最初の原子力発電をおぷ人すく原子力発電所で開始した(電気出力5000kw)。
東西の軍需産業が冷戦を利用して原子力発電によるウラン・カルテルの世界的な巨大利権が動きだし、
膨大な国家予算を平和利用名目で使って暗躍を始める


この時ですね、表向きは東西は対立しているんですが、
実際はウラン・カルテル、要するに、
「ウランを掘り出して儲けよう」という、利権では同じ目的を持っていまして、
莫大な国家予算を、アメリカはアメリカで、ソ連はソ連で、
それぞれの国で巨大な利権が動きだしまして、
それが平和利用目的でどんどん暗躍をし始める時代に入りました。

そして、そういう中で第五福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなるんですね。

1954年9月23日
被ばくした第五福竜丸無線長の久保山愛吉さんが肝不全により40歳の若さで死亡。
「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」との遺言を残し、
重大事件の波紋が日本全土から世界に広がって、
12月16日には、原水爆禁止署名運動全国協議会が、
「原水爆禁止署名者が2008万1232人に達した」と発表した。
当時の人口は8800万人余りなので驚異的な人数であった。


女優の音羽信子さん達が今いる病床を訪れる中で亡くなっていきまして、
そして「被ばく者は私を最後にして欲しい」と言って、
その言葉が、日本中の人を震え上がらせまして、
たちまちのうちに原水爆禁止署名が当時の人口8800万人のうちのなんと2000万人。
こんなことは日本の歴史の、未曽有の事です。
現在で言えば3000万人規模、それだけの署名が集まって、
驚異的な原水爆禁止の運動が全世界で広まりました。

なぜか?それはですね、言うまでもありません。
我々子どもの世代が、当時癌になる死亡率が…
 広瀬24

だって、大気中の核実験って言ったら、直接の閃光は浴びているわけじゃない。
みんな地球全体が死の灰が包んで、
日本だけで子どもたちが癌で亡くなるのが6倍も増えたんですよ。
500回を数えた原水爆の大気中の核実験で。

こういう事は忘れられていますが、私も20数年前に運動を始めたひとりですから、
昔の資料を頂きましたが、
子どもたちの歯の中のストロンチウム90とかが、ダーッ!とグラフが上がっているんです。
恐ろしい事に。
だから我々の世代はですね、おそらくですね、私たちの親の世代よりも多分早く死ぬ
と思います。
この世代はですね、子ども時代にみんな、大なり小なり被ばくしていますから。
我々の親の世代よりは長い気はしないだろうと私は思っていますけれども、

さて、こういうことでですね、
今 全体的な流れで大事なことは
アメリカは核兵器で世界を制覇したいという野望を抱いていましたし、
実際にそういう軍事力を持っていました。
そういう所でですね、全世界で原水爆禁止運動が広まって行ったわけですね。
当時は全世界は、こんな、今みたいにのんびりしていませんでした。
我々の時代は非常に、今言ったようにひどい時代なんですが、
反骨精神が非常に強かったです。

私は今の日本人を見ていても、
日本人だけじゃなくて全世界を見ても、つまらないんです。
「なにを考えているんだお前たちはいったい!」と言いたくなるんです。
すべての政治家に、全ての国の政治家に。
そういう思いを感じています。

当時は反骨精神を持った政治家が世界中に出てきました、いろいろな形で。
そういう人間がいま全世界を見ても誰もいないです、我々から見てね。
「世界を動かしていく」という人たちが。
だから情熱を感じないんですが、我々はそんな事で黙っちゃいられませんよ、こんな…
こんな時代をね、変えていかないと。

だからみなさんに今歴史をお話ししているんですけど、
アメリカはこういうふうに凄まじい恐ろしい事をはじめ、
ソ連も同じ事をやって、
そしてアメリカにとっては原水爆禁止運動、それからソ連の原子力発電、こういうのを見てですね、
何とか全体的にうまくコントロールしなければいけない。

かくして日本から全世界に広がる原水爆反対運動と、
ソ連の原子力発電スタート、という二つの強敵を前にして、それらを世界的にコントロールするため、
1957年10月26日、アメリカ主導のもと
国際原子力機関(International Atomic Energy Agency IAEA)が国連の自治機関として、
原子力の平和利用を推進し、軍事転用を防止する国際機関」という名目で設立された。


そこで生まれたのが国際原子力機関。
いまこの郡山に乗り込んできたIAEAなんです!


この組織が国連の中にできまして、彼らはもちろんそれをこういういい方をする。
「原子力の平和利用を推進して、軍事転用を防止する」

「軍事転用」とはどういう事か?
これは難しい話しになりますが、要するに、
「核兵器を持っている国が増えないように」という意図です。

IAEAは、国連の軍事的な安全保障理事会に従属する組織であった。
つまり事実上、第二次世界大戦の戦勝国が(東西を問わず)
核兵器開発を独占するための国際シンジケート組織
であった。
対立する米ソにとって共通項となる仮面が「原子力の平和利用」という文言だった。


国連の安全保障理事会というのは
どこかの国を非難するというとすぐに出てくるあの理事会。
これに従属する組織だったんです。
完全に独立したものじゃないんです。
アメリカ、ソ連、中国、イギリス、フランス、
みんなその安全保障理事会の軍事的な組織の従属機関なんです。

つまりこれはどういう事かと、言い換えればすぐにわかると思います。
第二次世界大戦の戦勝国なんですね、国連というのは。そもそもは。
その国連というものが東西を問わずにですね、核兵器開発を独占する。
そういう国際シンジケートとして生まれた。
だからこの世界の中では、アメリカもソビエトも共産主義も資本主義もないんです。
だからそれが一番わかりやすい、人を騙しやすい「原子力の平和利用」という文言になって行ったわけです。

そしてこの組織はね、黙っていません、ただ作ったんじゃない。

そして2年後の1959年、
全世界の健康を守る機関であるWHO(世界保健機関)が、新組織IAEAと協定を結んだ。
この協定によって、IAEAが独占的な権威と位置づけられ、
WHOは原子力の分野で独立して医学調査を実施することが禁じられた。
この時から、放射能の危険性に関して、原子力の推進機関であるIAEAが全ての実権を掌握した。



何の協定か?というとWHOというのは人類の健康を守るための組織なんですが、
そのWHOが、この原子力、「放射能に関しては口を出しちゃいけない
とんでもない事ですけど、そういう事で医学調査を実施することを禁じるという、

それにWHOは乗ったんです!
要するに魂を売ったわけです、WHOは。


そうして原子力の推進機関のIAEAは全ての国連の中での実権を掌握して今日に至っている訳です。

IAEAの創設を主導したルイス・シュトラウスは、
マンハッタン計画の残党が集結した原子力委員会でアイゼンハワー政権時代の委員長として、
ネバダ州の待機中核実験を強行して大量の被爆者・被曝者を生みだしながら、
原子力平和利用の大宣伝に奔走した


で、これを創設主導したルイス・シュトラウスという男は
先ほど大量に被ばく者を生みだしながら、その核実験をやったトップであって、
同時に原子力の平和利用という言葉を、二枚舌を使い分けていた男です。
この有名な男はね。

そうしてですね、今の事を観点に歴史を見ますとこういう事です。
 広瀬25

アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国と。
1960年代までにこの5カ国はですね、現在の核保有国。
公式の、公式のですよ。
他にもありますけれど、公式の保有国として全世界に権勢を誇るという事になった。
今の時代
です。

この年にですね、アメリカで映画が製作されました。

1964年 中国が初の原爆実験に成功した年、
スタンリー・キューブリック監督が
「博士の異常な愛情または私はいかにして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」を公開。


「博士の異常な愛情」のラストシーンだけみなさんに見ていただきます。

わかりました?
これ本当の全部記録ですよ、今出てきたのはね。
原爆の、原水爆の。
この歌詞がね、すばらしい曲でね、私は好きなんです。
このラストシーンね、
要するに全世界のキチガイ集団らが核戦争をやって
「地球が終わる」という、それを暗示している最後のラストシーンなんですが、
あの歌があまりにもきれいでね、「再び会いましょう」というあの歌詞があまりにも素晴らしくてね、
我々の涙が出まして最後のシーンを見たものです。
 広瀬26

こうして、今の時代になるんですが、

もう一回戻りますと、先程の大変恐ろしい恐ろしい人体実験、プルトニウムなんかを注射した連中が、
放射能の安全基準を定めるICRPの幹部になっていくんです、この時代にね。

ハミルトンとともに1936年に白血病患者に放射性物質を静脈注射した医師ロバート・ストーンが、
放射能の安全基準を定めるICRPの幹部となり、
国連の世界保健機関(WHO)で放射能被曝問題の最高顧問となった。
さらにこれらと連動する形で、国際放射線影響委員会(UNSCEAR)が、
チェルノブイリ原発事故から現在まで、世界的な被ばく容認の組織として機能する母体となってきた


それで、WHOでも放射能被曝の最高顧問となって、
どんどん、どんどん全世界を牛耳っていく、他にしゃべらせない。
まともな人間がいるとみんな抹殺していく。

で、国連に放射線影響委員会というのがあります。
これが、現在まで放射線の被ばくを容認する組織として機能する母体となってきました。
いろいろな組織をどんどん彼らは作ってきた。

そうしてですね、IAEAから金が出る
これが非常に重要なんです。
要するに学者を全部買い取っていくんですね、魂を。
これ簡単な事です、学者なんてね、簡単に金で買えますから。

こうしてICRPに対する助成金は国際原子力機関(IAEA)から投入され、
さらに経済協力開発機構(OCDE)原子力機関をはじめ、
世界保健機関WHO、国際放射線防護委員会(IRPA)などの放射線学会、
イギリス、アメリカ、ヨーロッパ共同体、スウェーデン、日本、アルゼンチン、カナダなどの
各国内にある機関が拠出して、主に西側諸国が金銭的に支配し、
被ばくの安全論を普及する広告塔として機能してきた。


そして、OCDEやWHOが全部協力していく。
そしてその中に、日本も当然入ってくる訳ですが、
各国の機関が金を出してですね、そして被ばくの安全論を普及する。
 ーーーーーーーーーーーーーーー
 広瀬隆12/14郡山講演(3)へ続きます。
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