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百人百話:大賀あや子さん

  百人百話:大賀あや子さん   書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

Q.自己紹介をお願いします。

 大賀あや子と申します。39歳です。
 大熊町から避難して、夫と二人で借り上げアパートに住んでいます。
 今は会津若松の借り上げアパートです。

Q.ご出身はどちらですか?

 東京の郊外の小金井というところで育ちまして、住宅街の中の小さな自然にすごく魅かれている子供時代で、数年後には無くなってしまった雑木林だったんですけど、そこで遊んだり、公園の中でも気の高いところに登ったり、生垣の中にまで潜り込んだり、そして住宅街の家に帰る途中では、少しは畑があるところのお百姓さんに憧れたり、そんなことを子供時代のことで思いだします。

Q.原発に関心を持ったきっかけ

 13歳のときにチェルノブイリ原発事故のニュースがありまして、両親やその知り合いやいろんな市民活動をしてる人が多かったので、いろいろ関心高くいろんな情報もあって、情報といっても当時は本当にインターネットがないので新聞の小さな記事に、ソ連とかポーランドとかフィンランドとかいろんな情報がちょこちょことあって、
「こんなにひどいのか、こんなにひどいのか」
という感じで、日本でも観測されて。その時に、私の3人姉妹の末の妹がまだ3歳だったんで、みんなでかわいがってる末っ子だったその子がとても心配で、心配とはいっても私がとてもそのチェルノブイリのこと、原発のことに関心を持って学習会なんかあったところにいったり、そういうことを始めた時はもう半年以上すぎていて、そしたらばチェルノブイリの事故のあと、1か月とか日本でも牛乳や葉物から放射性物質が検出されたころに自ら出荷停止した方が居たり、自分の家族に食べさせなかった方もいっぱい居たということも知って、妹も自分もなんだけれども食べちゃったし、妹はどれだけ自分よりも危ないんだろうということをね・・・思いまして、
「この大事な妹を絶対、日本中に原発がある事故で傷つけられてはいけない」
ということが・・・もうはっきり思い定めてしまって、私が何年も継続して参加してたものの一つは、『東京電力とともに脱原発を目指す会』という会でした。
 もうほんと数年のうちに反原発じゃなくて、やっぱり脱原発っていう言葉で、この社会を変えていく、反対してやっつければ済むとかではなくて変えていかなきゃ、変えていきたいんだっていうところに私は共感して参加していました。

Q.主な活動について教えてください。

 東京電力とともに脱原発を目指す会は、定例では月一回くらい東京電力本社に行って、広報部の人たちと消費者住民として話し合うということをずーっと続け、またほかのいろんな活動にも参加してるというようなグループ、緩やかなグループでした。

Q.高校生の間はどのように脱原発活動されていましたか?

 自由な校風の高校に通って入学しまして、のびのびと高校生活も楽しみつつ、放課後はあちこちに学習会があるとか、そういう脱原発の市民活動のニュースを発送するといったら、そういう作業に加わる。自分ができることは何でもする。街頭署名にも参加する。なんでもやって、中高生たちで中高生の原発いらないっていう署名を集めるというグループも横浜でできていて、それにも一緒にやったときもありました。

Q.その後の活動について

 そうしているうちに、89年の1月に福島の第二原発3号が大きな事故が起きまして、ちょうど昭和が終わる前の日が大きなトラブルで緊急停止をしたんですけれども、東京に住んでいてはごく小さな報道があるっていうような形なんですが、福島の、福島の人たちとネットワークがあって、入ってくる情報では、数週間単位の中でどんどん情報が小出しにされて、実は大きなトラブルだったという原発の心臓部のこんな1mもある大きなポンプが大破損するっていう大きな事故だったということが判って、東海村や福島や柏崎っていうのが、本当に東京電力が脱原発していないために負担をかけて原発が運転し続けているということで、そこを変えようという運動をしてたので、「これは大変だ」ってなりました。

 第二原発3号の事故で、大量の、のべ30㎏にもなったんですけども、金属片が原子炉にまで入っていたということで、福島の地元に対しては、東京電力がかなり平謝りとか、金属片もある時には、「100%回収しなければ運転再開しません」という発言があったほどのことでして、私たちは
「これは、この第二原発3号をこの機会に廃炉にしてもらう」
っていうことで、まず一つは「廃炉にする、できるじゃないか!」ということで力を入れてきました。
 福島の市民グループの人たちと一緒に、福島で集会が開かれることもありましたけども、そのうち地元の町が運転再開に同意かどうかが焦点になってきて、直接地元の町の議員さんや町民の方々にお話に、お願いに行く、お話に行くということも始まりました。

 それは、「第二原発3号機は危ないから同意しないでください」とかっていうものではなくて、東電とともに脱原発を目指すっていう、それが私の姿勢だというふうにはっきりしていたので、
「私たちが東京で電気を使っていて、原発が建てられて、今回はこんな大きなトラブルで迷惑が掛かっていて、そして危険性があって心配なんだ」
 或いは、
「そもそも原発を地元の方どうかんがえてますか?東京で電気を使っていて、まずは心配できたんですけれども、どう考えてますか?」
というふうに話を聞かせてもらうところから始めたいっていう感じで、1軒1軒訪ねていきました。

Q.高校卒業後の進路について(12:15)

 できれば受験勉強もして農学部かどこか進みたいかなと思ってましたが、本当に第二原発3号の再開されてしまうかどうかが、もうものすごく大ごとだと思っていて、実際確かに大ごとなんですけど、福島に一番たびたび私も出かけてた時、高校3年だったんですけど、
「受験勉強より私はこっちが大事」っていうことは勝手に決めてやっていました。

 90年の10月には第二原発の地元の富岡町、楢葉町で運転再開を問う住民投票が議会で否決された直後に、もう市民で『自主住民投票』をするということも皆で実施しまして、市民の自主的なものなんですけど、そして郵便局の私書箱で溜めて開票するという形なんですけれども、そうそう。選挙管理委員会に行って、選挙人名簿を手書きで一つずつ書き留めて、それを封書に作って各家庭に有権者の分の投票用紙をお送りしてやったところが、投票率が完全に過半数になって、投票した中の過半数・・・何割だったかな。5割とかいってたと思うんですけど、過半数の多くの方が
「運転再開に同意しない」という結果が・・・結果を示すことができて、それは投票するところに自由にご意見をお書きくださいということもして、そうしたらば「運転再開に同意する」ってしてるんだけれども、いろいろと東電に対しての不信とか不満とか不安とかいろんなことも書かれていたり。

 いろいろな、或いは投票を計画した私たちへの意見があったり、さまざまな「今のように電気一杯使ってるくらしでなくてもいいのに」みたいなことを書いてる方もあったし、いろんな声がありましたね。有権者がどのくらいいたかな・・・。
 その自主住民投票に郵便で投票してくださった方の半分近いでしょうかね。2000人くらいの方はなにかしらご意見を書いてくださったので、それをまたその後全部書き出して冊子にまとめて、『2000人の声』という冊子を作って、もうそれが手作りのものなんですけど地元の書店さんに置いてもらったり、私たちはまた東京で活動をしてる時にもみんなにどんどん知ってもらいたいというふうに渡していったりしました。
 それが私個人的には、ちょうど高校で同級生は受験の追い込み時期というようなころで、90年の11月に第二原発3号は、福島県内では相当大きな議論が巻き起こったみたいな、町議会や県議会やあちこちでされた末ですけど再開されてしまって。

 それは・・・「止められなかった」っていう、「できなかった」っていう・・・かなり私自身はショックでした。
 「止められなかった」っていうので、ちょっと虚脱っていう感じもあり、もちろんそういうこともあるわけだから、その時は受験勉強に戻るだろうかと思っていたんですけれども、全然そんな気持ちになれなくて、脱原発運動の中で都会のサラリーマンをやめて・・・田舎にIターンして農業を始める、電気や石油に頼らなければいけない暮らしから少しずつ離れていくっていう知り合いが次々と居ましたので、そういう・・・福島でもまさにIターンして原発のある隣の山の村に暮らしてる人と親しくなって遊びにいったりして、そういうこともあって・・・「今そういう気持ちになれないなら、受験勉強して大学に行く意味は自分にはないんじゃないか」と思って、とりあえずは私の家が「高校を出たら必ず、なるべく自分でやりなさい」という家庭だったので、知り合いの東京の自然食品店で仕事を始めました。

 仕事は有機農産物を東京で供給する仕事っていうやりがいのあるいい仕事だと思ってましたけど、1,2年くらいで
「いや、やっぱりどうも息苦しい」
というか、若くて不器用な、今思えばためなんでもあるんですけど、
「これは私はもう何かもっよく考えてからとか、資金を集めてから田舎に行って農業をやるとかではなくて、もうやはり今行きたいな」
と思って<笑>、なんかそう思ったら、もうやっぱり都会にいるのが嫌で、都会の暮らしに息苦しさを感じて、伝手を頼って地方の農場で短期に研修させてもらったり、六ケ所村で産直の会をしている友人の手伝いに行って、新巻鮭の手作りの格好を数カ月手伝ったり。

 どこで田舎暮らしをしたいかっていうことになったときに、何カ所か縁があって短い期間伺ったところもあったんですけど、どうも東北がいい、福島原発や六ケ所村でなじみのある東北、それもやはり双葉郡が本当に自分の田舎のような感じで、そこに帰りたい、行きたいという感じがすごくして、ただそういう気持ちに従って。
 何より福島にもはや友達がたくさんできてましたから、そういう友達がいて心強いしということで、いわきで有機農業をやってる友人が「じゃあ研修受け入れてあげる」ということで、本格的にそこに移り住みました。

Q.福島での生活について(22:20)

 夏すずしく冬あったかいって皆言うんですけど、ほんと東北にしてはそういうところで、私すごく熱いのが苦手だっていうのもありましたし、海があって低い丘が常磐線なんかで進んでいけば、低い丘が登ったり下ったりというふうに連なっていて、ちょっとその様子が私の最初の故郷だった東京の郊外の武蔵野の丘陵とかそういうところにもちょっと似てる感じもあって、東京で少し違っても、そこで自分が農業をやるなんてことは不可能なので、そういう重ねあわせてる感じもあったりして。

 いわきの友人のところにお世話になった次の年には、たまたま入れるアパートがあったためなんですけど、大熊に住み始めたものですから、ほんとその土地に馴染んでいきたいという気持ちでいました。
 何しろまともな準備っていうのはほとんど無しに、完全に徒手空拳で行ってるので、すぐアルバイトは見つけて、アルバイトをしなきゃやっていけないために山の村の友人がいる傍ではなくて、すぐそばには友人はいないけど平地のほうの大熊に住んだということもありまして、農地を貸してもらえる畑があって、アルバイトとその畑で栽培を始めるという、そういう生活でした。

Q.福島に移ってからの脱原発活動

 私が大熊に住み始めた頃、毎日のようにみんなで頑張る、活発な取り組みがあったわけではなかったんですけども、でももちろん運転し続け、みんなが少しずつ被曝していき、毎日どんどん廃棄物が溜まり続け、っていうことをもちろん・・・止めていきたい。それは原発の地元の地域社会で・・・とても難しいと判っていても、なんらか私は、言いたいことは言うとか、何かできることはしなきゃいけないということはずっと持ち続けていました。

Q.大熊町の人たちの反応は?(26:10)

 大熊の小さな町で、小さな町・・・。もう40年も原発城下町という特殊な状態にある町で「あぁ、あの原発反対の人ね」って私が全然知らない人にもいきなり言われたこともありますね。まれに言われるっていうことは、実は陰ではいっぱい言われてるっていうのが田舎の社会なので・・・。
 そうそう、アルバイトの面接行くときは、私、最初からカミングアウトして、
「ある程度私はそういう活動にも参加していますけれど、それは誰かと敵対するためにやってるわけではなくて、そういうことを言うっていうのも必要なことだと思ってやってるんですけど、もちろん仕事には影響しませんけれども、それでも納得していただけるならば雇ってください」
というふうに面接で言ってましたね。それで落ちたところもありましたけど、「判った」って雇ってくれる人もあるわけで、そんなにうんと落ちたとかそういう経験は全然ないですね。具体的には1回だけ落ちたことがあったけど。

 原発城下町で自分の立場っていうのが結構微妙なものだということはあるんですけれども、でも農業がしたくて来て、「どこそこで畑を借りてやってるんです」っていう私に対しては、快く親切に付き合ってくださる方との出会いもいろいろあって、それを頼りに頑張っているっていう感じでしたね。
「若いのに頑張ってるねぇ」
とか言われて。
「若いのにそんな汚い格好して自転車乗って歩いてー」
なんていう感じでやっていました。
 一緒にお茶飲み話とか、時には田んぼの作業を共同作業に混ぜてもらったり、そういうこともあったりすると、意外にふいに原発の話っていうのが出るときもあって、いわゆるタテマエ、おおっぴらには原発の話はタブーじゃないかっていうくらいの感じ名ですけど、意外に不意に出てきたりとかして、多分気の置けない人のところなんかだと、人によって個性や立場によって違うんですけど、
「近所のどこそこの誰々が白血病で死んだんだって」
「あぁ。被曝のせいだっぺ」
「んだな」
みたいな。しかもそれをいわゆる「原発の反対のあの人」とか言われる私のいるところで、別に気にするでもなく普通にそういう話も出てきたり、微妙な立場ではありましたけど、別に村八分だったわけでもないし。

「原発の近くで魚釣りすると、こんな背骨の曲がったのとか獲れるんだよ」
とかそんなのは、地元に馴染んでいっていろんな話に混ざってるとちょろちょろ聞こえてきたりとか。
 だから、でもそういう話をする人が、だから何か行動するとか、だから何か言うとか、声になるんではなくて、それらほとんどは声なき声。
 原発のトラブルのニュースとか、ちょっと不安だなとか、次々トラブル隠しとかの不祥事とか起きますけど、なんかそういうものに対しては、何だろうね・・・「しょうがない」っていうか・・・不信感っていうものもじわじわと度重なってそういうトラブルとか不祥事が続けば当然あるんですけど、いや、でも・・・「この町は原発で生活してる人、東電で生活してる人が多いからな」っていうことでね。

 だから直接そういう関係が無い人が多分そういうふうに小声で言えるっていうか、直接関係してる人ならもちろん言えない。直接関係してる人が本当に隣の人とか幼馴染とか、親戚とか、田舎の親戚って本当に広いということが住んでいたら本当に判って、都会育ちだから本当にびっくりしたんですけど、そういう広い親戚の中とかにはいっぱい居るわけで、どうも面と向かって何の不安も不満も言えないという感じでね。

Q.大熊町での住居について(32:30)

 私が結婚して夫は勤めて、私は相変わらず半農半アルバイトという形で自分の稼ぎでどこか大熊の外れの方に農家を構えるというほどの稼ぎにもできず、その辺は悩んだりもしてたんですけども、ちょっと化学物質過敏症という症状がちょっと強くなった時期なんかもあったもので、これは躊躇したりしてはいられないので、もとはといえば夫の稼ぎなんですけど、どこか近くでより空気が良くて、そしてものうちもあって安心して暮らせるようなところがいいっていうことで探しました。

 それで、大熊の町の中心から3,4㎞くらいのところに古い家を貸していただける話があって、2008年からそこに住んでいました。もうそこに住んだ時点で、もうだいぶ大熊に住んで十何年という感じですし、もう割とそこの地区の人たちと違和感なく私としては馴染んで行けて。親切にご近所づきあい混ぜていただいて暮らしてました。
 その家がちょっと傷みが酷かったので買い取らせてもらって建て替えたいということで、2010年にそういう話になって、建築関係の友人なんかに手伝ってもらって、解体して取れる材料は再利用できるように取って、そして建築士をやってる友人に、なるべく化学物質も少ない、自然に近く暮らせるような家というのを考えてもらって。

Q.その建築のお友達について(35:30)

 大塚愛ちゃんとしょうかんさんの夫婦で、今は避難して岡山と会津で遠く離れてるんで、本当に涙が出てしまうほど・・・離れていて<涙されています>、なんかずっと前のようなことの気がして辛いですね。
 愛ちゃんの家は山の中で本当に自然の中なので、私はときどき訪ねてゆっくりさせてもらう、それで愛ちゃんちの子供たちとも遊んでという感じでしたね。

 私の家は、2010年の秋に建てはじめて、お風呂にはソーラーの太陽熱温水器のお湯を使って、太陽光発電のパネルも置いて。そうですね。本当に設計の時から光と風、そういうものも配慮して省エネで暮らせるようなふうにしてもらったので、本当に楽しみで。2011年3月1日に完成しましたけど、建築中もそうやって出入りして、毎日見上げてたんですけど、もう完成してからはぼちぼち引っ越し準備をしながら毎日、冬でね、畑はほとんど農閑期ですから、家に行ってあちこち見まわって、これからのことを思い描いてるっていう毎日でした。

 実は、2010年家を建築して家族では忙しくしてる時期に、脱原発福島ネットワークの仲間たちとは『ハイロアクション福島原発40年』という企画を立ち上げてまして、ちょうど2011年3月26日が第一原発1号機40周年の日だということで、もともと地元の人も知ってる原発建てられた当時は寿命40年ですと言われてた、延長するためにこういうふうに報告してとかいろんな動きもあったんですけど、でもいずれは永久にではなくていずれは廃炉にしていかなきゃいけないのだから、廃炉の時代は原発が好きでも嫌いでも、賛成でも反対でも、どんな立場の人でも廃炉の時代になるということは厳然たる事実なので、なかなかそういう認識も無いところで共に考えていきましょうという発信の仕方でやっていきたいというふうに、新たな取り組みという感じで始まってました。

 そして、その相談をしてた時には、事務局をどこにおいて誰が受付をやるかという時に、「私がやったらどうだ」という話になって。というのは、ハイロアクション福島原発40周年実行委員会っていう名前だったんですけど、委員長としても30代の若い人を立てようということで、「脱原発運動でも世代で継承していきたいよね」という話になって、そういうふうにみんなで一致して話した時に、
「じゃあ私、その事務局やりましょう」
ということで。

 ただ、おおっぴらに住所や名前とか出るっていうことは、非常に慎重にしていたので、ほとんど初めておおっぴらにそうなるということで、「大丈夫かい」なんて気遣う人もいたわけで、そこはでも決心をして。またある意味では借家ではないので、自分の家なので少々の・・・少々というか、何も実害が無い、そういうことで。
 実際ハイロアクションっていう私たちの新たな取り組みとしてやってるということでは、何か言われたら、
「これは反対のものじゃないので、関心おありなら一緒に考えませんか?って返せばいいよね」
っていうふうに、
「いや、そんなこと言ったって反対だっぺ?とか言われるんでねーの?」
とかそんなこと言いながら、本当にいろんなことが新しいっていう時期だったんです。

 そして、我が家は3月中旬に新しい家に入居する、そして3月25、26日にはハイロアクションの大きなシンポジウム、オープニングイベントをする。
「新しい家で・・・暮らして・・・農業をやって、時々脱原発運動も続けていって、少将は立場が微妙なんだけれども東電とかお役人と向き合うのも嫌になるときもあるんだけれども、できればここで子供も産み育てるかもしれないし、そうやっておばあさんになっていくんだな、この家で」
っていうふうに、場所があるっていうことですごくはっきりそう思って、そう思う家の東側の窓の向こうには、ちょうど山の影で見えませんけど原発がね、あるっていう。7.5㎞くらいのとこですね。

Q.3.11はどちらにいましたか?(43:30頃)

 仮住まいのアパートに夫と二人で引っ越し準備をまさにしていました。東京に住んで東海原発、福島原発を心配していたころから、ずっと私は地震にはすごく敏感で怖くて、
「今この瞬間原発のところではどれくらい揺れてるんだろう。大丈夫だろうか」
っていつも思ってたんですけど、まさに大地震が来てしまったっていう、すごい恐怖でした。

 もうアパートから5㎞くらいですけど、そこの第一原発っていうより「女川原発が心配だ」ってその時揺れてしがみつきながら思ってましたね。
 もちろん第一原発も心配なんだけど、やっぱり完全になんていうか・・・得てる情報で何か刷り込みになっちゃっていて、ここがこれくらいの揺れで、絶対宮城のほうがすごい地震で、宮城県沖が絶対100%くるのがありましたから、「ありましたから」っていうかとっさにそう思っちゃってましたね。あとはアパートでものがガラガラと落ちている音も地鳴りがしてあらゆるものが音を立てて、ちいさな社宅が右に左に1mくらい畳の上を動いてるのとかっていうところで、直接的に今このアパートが崩れて下敷きになるかもしれないって直接的な恐怖もあって、もう両方でものすごく怖さでした。

 まずは原発で少しでも異変があるという情報が入ったらば、近所の人、周りの人、特に子供が居る人に、その情報を元に私がマスクとかカッパとか具体的な防備とかをおすすめして、「役場が言ってるなんかよりも早めに遠くに避難したほうがいいと思いますよ、そうしましょう」っていうことを言わなきゃいけないって、それは常に思ってたことなので。
 ただ、揺れただけで何の根拠もなくは言えないので、ちょっとでも情報を得なきゃいけない。だから情報を得るということが第一で。
 ・・・ところがまぁ多分そうなるとは思いましたけど、携帯全く不通でメールも全く不通で、もしも原発で何かあった時はそういうふうにしなきゃいけない、自分ができることは少しでもしなきゃいけない。それで人にも分けられるように常に車の中に非常用具の箱が入ってて、救急箱とかマスクが何十枚も入っていたり、カッパは何着か、子供用のカッパなんかも何着かあって、ほんと何着かですけど、でも誰か身近な人に何かはできるかもしれないとしてたんですけど、地震と同時だったらどういうふうにしようかとか、こんな細かいシミュレーションはしてないので、地震から1時間半後くらいにラジオで
『原発はすべて緊急停止しました』
っていって、
「あ、一応公式発表で停止したんだ」
っていうことで、ちょっとだけほんのちょっと、安心というかその点は良いニュースというか・・・あって、私も夫もラジオから聞こえて、
「これ、あとちゃんと冷やせるかどうかが問題なんだよ。私まえから言ってたでしょ」
っていう感じで。

 それで、アパートの中が完全に滅茶苦茶になって、戸も何も閉まらないという状態だったので、原発が何もなければという大前提の上で、その場合は新しい家のほうだったらばまず井戸水がある、そして薪ストーブがある、薪があるっていうことで、なんらか生きていけるからとりあえず行けるならば新しい家に行ってみようということで、夫の車に積み込んで出発しました。
 その新しい家の方に移動した5時前後、5時過ぎですかね、PHSも持ってたのでPHSの方が繋がって、一緒にハイロアクションで活動してる福島市の友人から電話が繋がって、
「非常用ディーゼルが全部止まっちゃった。たいへん!」
っていうことを言われました。
 ところが私、そのとき
「え?全部ってほんと!?」
っていうのが私の反応で、「いくつかじゃなくて全部なの?え!?」っていう感じで「それは確かな情報なの?」っていうことを彼女に聞き返したんですよね。でもなんか相当混乱してるような感じで、
「いや、何々さんも何々さんも大変なことのようだから、避難したほうがいいって言ってくれてるよ」
というような、すごく慌てた感じでそんな答えになっちゃって、もうちょっと情報を聞こうとしたら切れちゃったんですね。

 これまた本当に子供がいたら、そんなこと聞いた時点ですぐさま避難行動するんですけど・・・、何にしろ近所の人に必要がある、伝えられる瞬間になったら伝えて一緒に避難したいっていうのがすごく大きかったので、
「非常用ディーゼルが全部止まった・・・それでは何も伝えられない」
と。非常用ディーゼルが全部止まったらどういうふうに危ないかって、事故のメカニズムを説明して納得してもらって、「じゃあ誰も逃げろって言ってないけどうちは逃げましょう」って近所の方に決断してもらうなんてことは到底できないと思ったので、なんかもうちょっと情報が、もうちょっとあったら、もうちょっと詳しいもの、何か情報があったら、それで早く近所の方に。

 ちょうど2軒隣には2歳、まだ学校行ってないお子さんが二人居てね、私たちがアパートのほうから車で来て「みなさん、どうですか?」とかって声をかけて、「あんたたちの新しい家はどうだった?」っていう会話をしたときなんかにも、その小さい子たちは震えていてね。その様子もほんっとに胸にあって。
 またこのPHSが繋がるかもしれないから、何か情報を得てうまく伝えて一緒に避難しなきゃいけないって、それを思って。ところが繋がらないんですね・・・。

 繋がらないってただ足踏みしてもしょうがないんで、まずは井戸水汲んで。近所の井戸水はモーターなので、停電したら水が汲めないので、我が家が井戸水モーターでもあげてるけども、コンクリートのふたを退ければ手で汲み上げられるので、その近所の人たちと汲み上げて、ほんっと情報を待ちながらその井戸水濁っちゃってるんですよ。それを沸かしてポットに詰めたり。

 そのうち携帯の方なんかは、もう発信してつながらないではなくて、何も音がしない状態になってしまって、これは携帯のアンテナ局もバッテリーが切れたのかもしれないなということもあって、ここは電波ももともと悪かったし、ちょっと移動してどこかで情報があったら戻ってきて、近所の人と一緒に避難したほうがいいんじゃないかと考えて、そして進んでいたらば、電源車と一回すれ違いました・・・。あぁ・・・本当に、もちろん「一つも動いてない」がデマだったとは思ってなかったんですけど、証拠がここにあった、本当に・・・電源車が・・・。しかも私が5時くらいに聞いてから3,4時間も経ってるのに電源車とすれ違ったって、全然間に合ってないなと思って<涙されています>・・・、まだゆっくり進んでいたらば9時過ぎになってラジオで、
『3㎞圏避難勧告、10㎞圏屋内退避』
っていうのが判りました。

 それで、もう道のりがそこまであまりにも大変で恐怖だった、大変だったので、上下線ともある程度車が流れてるんですね。
 流れてるって言っても、段差がある度つっかえて、10台くらい行列してゆっくり乗り越えてっていう感じで、今避難のこういう情報が出たところで、引き返してしまったら・・・混雑で、しかもいつパンクして道を塞ぐ蚊もわからないようなところ、一台余計に増やすことを避けたほうがマシなんじゃないかってちょっとその時思ってしまって、私と夫でなんかそこは一致してしまって。
 北の方は宮城の方で地震が酷い方向だからダメだろう、
 西の方は山だから峠などが落石で通れないんじゃないか。

 もう南に行くしかないと思って、普段から電波もそういう方角の方がいいし、南に進んでましたので、そのまま南へ向かって、普段であれば1時間くらいで着くようないわき市のほうに2時間以上かけて辿りつきました。それで、友人の家に夜中に駆け込んで・・・っていうことになりました。

 電気が通じてたので、いろんな情報が入っていてテレビがついていて、大変な状態だっていうことがわかりました。
 いわきの友人の家に着いてからは、もう常にテレビやラジオで情報を入れながら、ずっと気を揉んで、どうか屋内退避っていっても用心して早く逃げてもらえるよう・・・
 かなり事故の状況はよくない、
 早く避難地域を広げてくれないか、
 やっと朝5時過ぎ10㎞圏に避難が拡大された、
 ベントするなんて言ってる、
 もう早くベントする前に避難が進まないだろうか、
 どうなってるんだろうか、
 どうしてテレビもラジオもどこから何人の人が避難が辿りついたんだ、みんないわきにたどり着いたってどうして何もやらないんだろう、
 そのうちにベントを10時ころでしたか、「ベントをもうしました」っていう発表があって、朝5時から避難開始して・・・何万人もの双葉郡の人たちの避難が終わらないっていうことは、私たちは防災計画とかマニュアルで想定できてたので、そのニュースの時は友達の奥さんが
「うそつき!」
って言って。
「みんなが避難してからベントするって言ってたのに!やっぱりうそつき!」
って言って<涙されてます>、もう泣きながら、余震に震えながら過ごしていたんですが、いわきが断水をしていたので、そこのお宅に私たち夫婦がいるということは、二人分水も減るっていうことで、これはもうここにじっとしていてどんどん水や食料が減るより、二人で栃木の親戚のところに移動するしかないんじゃないかというふうに言って、12日の午後早くに出発しました。

 栃木に移動してる途中で1号機爆発のニュースがありまして、本当に・・・。11日、12日の行動なんかせっぱつまってて、後からそうやって正しいかどうか、パニックですかね、非常に慌てていたということとかもありますし、近所の人、町の人、みんなより・・・半日早く出てきてしまった、家族だけで半日早く結果的には出てきてしまったということが、しばらくはすごくつらかったですね。

 でも、とにかくガソリンももう栃木の避難先でも全然無くなってしまったから、駆けつけて何か手伝う訳にもいかない、もちろん駆けつけたって物資を自分の分食べて飲んで減らしてしまうだけですし、3.11から1週間くらいはどんどん爆発もしますし、どんどん事態が悪化していく。
 私が読み聞きしていた事故の可能性っていうような、自分が想定しうるようなものをあっさりと超えてどんどん悪化してしまって。

 ただはっきりした放射線量とか汚染のデータというものはそんなにきちんと公開されないので、2,3週間目くらいですかね。栃木の親戚のところから東京にとりあえず避難先を移動してたんですけど、東京の知人に
「2度と戻れない」
と、そういうことをチラッと言われたときに、
「いや、まだ2度とかどうかわかんない。10年か20年かしらと思うようにしてる」
とかっていうふうに、何の根拠もなく言ってましたね。

 夫の職場で5月からの転勤希望っていうものを被災者、避難者にはとられたので、私が大熊町役場があって大熊町の人がたくさん避難している会津若松がいいと思うっていうふうに言いまして、夫は先に4月末に、私は5月中旬に会津若松の大熊町の2次避難所の空いた部屋に入れてもらいました。

Q.放射能安全キャンペーンについて(01:02:30頃)

 双葉郡の避難した住民たちには、放射能安全キャンペーンってほとんど来てないんですよ、私の知る限り。
 っていうのは、やっぱ原発近くて、もともと・・・
ある程度うすうす危険性をなんか知ってる、あとはあまりにも前と真逆すぎるから信頼されないからとか、もう既に避難してるから「避難しないでいいんですよ、通常でやっていいんですよ」って言ったって、通常じゃないんだから既に避難して、ありえない避難所暮らしをしてるんだから、むしろ怒りに火に油を注ぐかもしれないような変なキャンペーンというものはほとんど来なかったですね。

 安全キャンペーンについてどうかは判らないんですけど、南相馬とかいわきっていう双葉郡と隣接してる地域でも、やっぱりそれより遠くの地域とは違うみんなの認識っていうのは、どうもいろんな人の話を合わせるとあるみたいで、爆発したって聞いたらば、どんどんと市民が逃げ出して人口の半数くらいは逃げたとか、そういうのもやっぱり
いろんな人間関係とか話の伝わりとか、いろんなものがあって、やや近いからちょっと心配だなとかそういう意識があって、ということのためなんですよね。

Q.家に戻れない状況について

 非常に早く、3月の時点である新聞記事でチェルノブイリの事故のために避難した、完全に故郷を離れた方の証言というのを読んだ時に・・・<涙されています>
『置いてきたものを思い出してはいけません』
っていう言葉があって・・・、
それはちょっとまだ数週間の私にとっては、ものすごく辛くて・・・どの瞬間何をしても・・・
常に思い出すし。普段完全に住み慣れたところだと何気なく日常生活ってあると思うんですけど、ちょっと個人的に我が家の場合だと、家を建てて今度どういうふうに暮らそうと毎日思い描いて計画を立ててっていう1年、2年を暮していた時だったので、馴染んでる日常ではなくて毎日思い描いてる日常が、頭の中でそれがもう、もう失ったもので思い出してるものっていうふうになってしまって、すごく辛かったですよね・・・。

 そんなこと言ったってここに居るここだって、次爆発したら居られないかもしれないんだからっていうふうに何かでそういうもの想いを断ち切るわけですよね。
 尚且つ私の場合は電話もかかってくる、「どこどこ行って一緒に行動しましょう」とか「避難してきた話をしてください」ということもあったりするもんだから、忙しくて。
 忙しいから思いだして落ち込まないでいられるっていう面もあったりという生活をずーっと続けて、ある意味今でもそういう状態だったりもしますね。

 家族と一緒にいる、東京で実家にいましたので、実家の家族もよく事情を分かっていて、「まるまる住宅ローンかかえちゃって住めなくて、帰れなくて・・・大変だよね」って、「うちの夫が一番大変だよね」とかっていうような感じに家族で気遣ってくれたりして・・・。
 もう避難の途中から、ただ嘆いても、もうどんどん悪化する状態とか避難が進まない状態とか、もう嘆き悲しむことなんて絶え間ないので、冗談でもたまには言わなくちゃというような感じで、
「これでもうあの住宅ローンの何倍かを東電から賠償してもらったら優雅に暮らそうか」
とかってありもしない冗談を言って、
「いや、これで作り笑いでもすれば、少し免疫力もあがるんだから。落ち込んで泣いてて病気になんか。ただでさえ大損害受けてるのに、更に具合悪くしてなんかいられない」
って言って、結構家族で笑えない冗談を言い合って、毎日笑うようにして。

 私は電話で母乳調査母子支援ネットワークの電話っていうのもうちに問い合わせが一部掛かってくるような状態だったので、それこそパニック、大変な心配をしてるお母さんになんかは、しばらくお話した最後に
「実は私、原発のすぐそばの大熊から避難してお電話を受けてるんですよ」
って言って、
「でも意外と私、いろいろ明るくこういうふうに免疫力上げてとかって言ってるでしょ?これ以上落ち込んで、常に落ち込んでだけいて、それで身体の具合まで悪くしてられないから、落ち込むときもあるけど作り笑いでもするように頑張ってるんですよ」
とかいって、そうすると相手の方も少し「うふふ」とかっていう感じに
「あら、そうですね、明るい方だと思ってました」
とかって言われたりして。

Q.今後について

 私自身、今後避難生活どうしていくかっていうことをあまりにも忙しくて考えられない中なんですけども、できればそこで一生過ごすくらいで農業して安心して暮らせるところであればいいなと。
 ただそれにはどれくらいの汚染状態で許容するかというところで農業をして、土の上で子供を育てたいっていう夢をまだ完全に諦めてないっていう中では、多分大熊町の多く残したコミュニティーが行くところとかっていうところは、少し汚染があって安心して農業をして、それを人に供給したり自分も食べたり子供に食べさせたりできるところではないのかもしれないなと思ってます。

 正直言って。けど、まだそれがわからないから、そして今避難所やここで借り上げ住宅に入ってからの大熊町内の人とちょっとずついろんな助け合える、そしてほんと、そういう同じ立場同士で励まし合えるようなこともいろいろあって、今のところはそこにいる、いろいろなその人の考えで決断して新しいスタートを切ってる人っていうのは、決断力もあったりするんだなというような、もうそれって、原発の知識とか放射能の知識とか、全然そういう問題でもなくて、あと立場だけでもなくて、こういう非常時のそういう人間の判断とか道っていろいろなんだなっていうふうに。私はけっこうぐずぐずとしてるなと。

 今でもやっぱり思いだして泣くときとかありますね。うちの夫がそうやって私が愚痴をこぼしたり泣いたりするのも否定しない、止めない、一緒にいてくれる人なのでありがたいなと思って。

Q.大賀さんにとってふるさととは?

 そうですね、「ふるさととは?」っていうことを聞かれて、とても返事に困ってしまう、あまりにも生々しく毎日を過ごしているという自分がいるんですけれども、別の土地で暮らして、例えば子供を育てたりするときに、毎日毎日大熊のことを思い出して、「本当はここに居たくないのに、本当に居たいのはあそこなのに」って思いながらでは子供を育てちゃいけないだろうなとかっていうふうに思い悩むみたいな・・・
ことも繰り返してるんですけど、ちょっと今で10か月くらい過ぎて、あ、そこまで毎日喪失感と怒りとか、そういう中にいるんじゃない心も持ちようでいられるかもしれないなぁという感じがちょっとしてきて、もちろんきちんと責任を取るべき人が取るべきだとか、そういういろんなことはありつつ、そういうものを置いた自分の生活とかっていう時に、今よりもう少し時間が過ぎれば、今よりもっと前向きに暮らせるようにもなるかなとかって、ちょっと思い始めてるところです。

 我が家では、私がそういうわけでまだ出産したいかもしれない、決断できないっていうことを重視して、一時帰宅しないんです。
 夫だけが3回チャンスがあったうち、1回だけ夫が行ってきました。我が家の場合は、建築士、設計してくれた友人がたくさん写真を撮って保管していてくれて、それが警戒区域の外だったものですから、たくさんそれを見て、また人にそれをお見せするっていうチャンスもいっぱいあるので、そうしたいうちはそうやって「こんな家だった」って自慢していてもいいかなと思っていて。

 ほんと最初は思いだすのも辛かったけど、それもだんだんそうやって移り変わっていくし、そういう感覚というものが全く封印するよりは、私にとっては良かったかなと思って。
 そうそう、建築で思いだしたんですけど、これ、木材が我が家の隣の杉林のものもですけど、それで足りない部分っていうのは、隣町の田村市の森林組合のものを使っていて、当時福島県の県庁の事業で、県産木材で福島県産の木材を使った家で見学会とか、ある程度PR活動をしてくれる家庭には補助を少し出しますというものに、我が家は見事抽選の結果当選していたということがありまして、実はそれも2011年度の事業だったので執行していただいていて、
変な話ですけど被災してからも十分PRして外国産じゃなくて、そうやって環境に負荷が少ない地元も木材でそうやってコストも切り詰めて、こういう家ができてたんですよって、どんどん話すようなことになってます。

 今でも大熊町を愛してる。ずっとですね、これからも。
 っていうのが私には切り離せないものです。
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