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百人百話:安竜昌弘さん

  百人百話:安竜昌弘さん   書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

 安竜昌弘といいます。福島県いわき市に生まれまして、地元の高校まで行きまして大学時代は4年間東京に行きまして、戻ってきて地元の日刊の夕刊紙に勤めました。それで25年くらい勤めまして、それで地域紙のあり方っていうのに対して非常に疑問を持って、それで自分で今『日々の新聞』という新聞を立ち上げましてスタッフ3人で作っています。週三回の新聞なんですけれど。

 家はいわき市の海岸線にあります。江名っていうところなんですけども、今回津波にあってかなり被害を受けたところなんですけども、そこで生まれ育って、今もその家に住んでいます。
 58歳です。

 江名っていうところは港町でして、江名地区というところがあって、そこには中作とか折戸とかっていう地名があるんですけど、私が生まれ育ったところは折戸というところで、そこで本当に海がすぐ近い、私の家からだと・・・50mもないくらいのところなんですね。そこで生まれ育ちました。

 けっこう町並みが綺麗なんで、映画のロケなんかにもよく使われてまして、有名なところでは黒木和雄監督の『原子力戦争』っていう映画があるんですけれども、そこの中心的なロケ地になったところです。フランキー堺の『地方記者』なんていう映画でもロケ地になったところです。
 そこで地元の子供たちと一緒に海遊びなど過ごしたという感じですね。

 うちは、雑貨屋をやってまして、ほとんど江名地区っていうのは漁師っていうか、漁業者が多いんですけど、あと船主ですね。うちは雑貨屋だったけど商業者っていう感じですね。昔だとサケ・マス・サンマ漁っていうのが非常に盛んだったので、サケ・マスが出港するころなんかは、仕込みといいまして、船に乗せるんですね。酒とか食料品なんかを。そんな商売をやってた店ですね。

父親と母親と私の兄弟は妹がいます。現在は妻、あと子供が3人女の子がいるんですけど、全員東京・横浜のほうに行ってます。だから今父親と母親と妻と私の4人暮らしです。
 父は江名で、母親は平(たいら)といういわき市の中でも一番大きい町の出身です。親戚もすべていわきですね。いわきから外に出ていった人はいますけれども、代々いわきの生まれ育ちです。えーっと、何代とかいうのはよくわからないですけれども、過去帳を見たことが無いので。ただその言い伝えだと南北朝時代に吉野の方から船でこちらのほうに来た時に北茨城の沖あたりで船が難破して住みついたという話が伝わってますけれども。

 いわきというところは、まず気候がいいですね。それから、漁業と炭鉱の町なんですね。だから、よく漁業者がいますけれども手間がいらないというか魚を獲ってきてそれを売って、????食べて暮らしていけるということですよね。
 だから、漁業と炭鉱ということはよくわかると思うんですけれども、手間いらずというか、要するに自然のものを獲って生活していけるということだと思うんですけどもね。
 代々住んでいるということは、過ごしやすいということだと思うんですね。過ごしていけたということだと思うんですけれども。

 子供の頃は海が近いということで、よく磯があって磯が引くと大体海に入って、小さな魚を獲ったり貝を採ったりしながらですね。あとは近くに海水浴場があるんで、そこにみんなで遊びに行ったり、そんなような生活をしてましたね。子供の頃はやっぱり楽しかったと思いますね。どちらかというとあんまり活発ではなかったので、うちに居ることも多かったんですけれども、やっぱりコミュニティというのが非常に深かったと思いますね。

 時代ということもあるんですが、コミュニティが深いというのは、結局地域で活動するっていうことですかね。だから、世代間の交流っていうのが深かったし、やっぱり小学校の時だったら2年3年くらい上の人たちがリーダーになって後輩の面倒を見たり、あとは大人も地域で子供たちを育てるというような、そんなような地域だったような気がします。

 子供のころから新聞を読むのが結構好きでして、小学校の時は新聞部だったですね。小学6年くらいですかね、非常に競馬が好きになりましてね、家で報知新聞をとってたんですけども、そのころっていうのは寺山修司とふれやま??のコラムっていうのが報知新聞に載ってまして、それで非常に寺山修司といえば競馬ロマン派的な子供ですね。

 それはずっと続いてましたね。やっぱり本、マンガ少年だったですね。28年生まれなんで、テレビと同じ世代なんですけども、やっぱテレビが家に来たっていうのは、何年か後ですから、マンガをよく読んでました。読んでた漫画はそうですね、少年とか冒険王とかマンガ王とかでしたね。あと、そのうち週刊誌が出るようになりましたからね。少年サンデーとかマガジンとかっていう、要するに漫画の歴史とともに育ってきたような少年時代でした。
 子供の頃、活字・映像少年ですかね。やっぱりテレビが生まれた時の歳なので、やっぱ活字・映像少年だと思います。

 中学校の時は私はバスケット部に所属していて、そんなに運動神経は普通なんですけどもバスケット。高校の時は、応援団の練習をしなきゃなんないんですね。1年生の時に。それがすごい嫌でして、部活に入ると応援団の練習をしなくていいということで楽そうな軟式テニス部に入ったんです。それでですね、半年くらいで辞めまして、応援団の練習も終わったので、その後映画同好会っていうのを立ち上げて、自分たちで映画の研究ではないですけど映画のことをみんなで話し合ったり。文化祭の時は映画かけたり、そんなような活動をしてました。

【大学時代】

 その頃国際商科大で今は東京国際大っていう埼玉県の川越にある大学なんですけども、そこに進みまして、実はなんで商科なのか?と今でもあれなんですけど、他は全部大学に落ちてしまって、勉強も全然しない子だったので、そこに行って4年間ほとんど何もしないっていうか、映画を見て暮らしたような、大学にほとんど行かないような生活でした。

 私の大学時代の生活っていうのは、1年生の時だけ大学の近くの川越にいました。2年になって妹が東京に出てきたので、妹が小田急線沿い多摩川だったので、「一緒に暮らせ」と親に言われて、高田馬場大滝橋っていうところにアパートを借りて二人で生活してました。

 大学時代の生活なんですけれども、まず朝起きて大滝橋から10分くらい歩いて高田馬場に行くんですけれども、大学に行きたくないんですね。それで、駅まで行く途中の左側に高田馬場パール座っていうのがあったんですね。駅を少し通り越して右側に早稲田松竹っていう映画館があったんです。それで大学が東上線に乗るので池袋に文芸座っていうのがあったんですね。
 辺をエリアにしまして、そこでいいのが無いときには、報知新聞、相変わらず寺山修司のファンだったのでとってたんで、その頃っていうのは映画がどこでやってるかはスポーツ新聞に載ってたので、それで見たい映画があるとおそこまでではっていって、飯田橋笠倉とかさまざまなとこの映画を見まくりましたね。?????とか行きました。

Q.どんな映画を見ていましたか?

 私の大学の頃はサブカルチャーが非常に盛んだったですね。それで、日活ロマンポルノなんかも非常に盛んだったですね。だから、日本映画が多かったですね。やっぱり一番印象深かったのは、『祭りの準備』っていう黒木和雄の映画があって、原田芳雄が主演だったんですけども、それの初日の舞台挨拶を見に行きまして、原田芳雄を見ましたね。
 やっぱり当時はオールナイトで特集の映画なんかやってたんで、本当に????とか原田芳雄、黒木和雄の特集とか、????とか藤田敏八の特集とかそういうような時代だったからフォーク系サブカルチャー。マンガで言うと永島慎二のような時代でしたね。

【学生運動】

 私たちの世代っていうのは28年生まれなんで、団塊の世代の後の例えば三無主義とか新人類って言われた世代なんですね。非常にノンポリというか、多分私の想うには、熱い時代の残り火というか残りかすというか、非常に退廃的な時代だったと思うんですね。
 ただ、地方出身なんで高校に遅れて学生運動が来て、高校時代は結構盛んだったんですね。ハンストが行われたり私が出た高校じゃないんですけれども、いわき高校というところで退学になってしまったり、???闘争に行った生徒が退学になってしまったりということがあったんですね。
 例えば学帽、帽子をだんだん長髪の時代になってきたんで帽子が邪魔になって「なんで帽子をかぶらなきゃいけないんだ?」とかっていうような高校生レベルの非常にかわいらしい学校に対する反発みたいな感じで。

 それはあったんですけど、東京に行ってからは特に学生運動に対して興味を持ったり、大学生時代もノンポリだったですね。国際商科大っていう大学そのものが。それで非常に面白いことがあって、新宿辺りでヘルメットをかぶってそれなりの格好をして、要するに叫んでる学生たちがいるんですけど、非常に滑稽というか目で笑ってるみたいな、そんなような時代だったですね。
 遅れてきた青年たちがちょっと粋がって活動してるような、そんなような感じです。切迫感とか緊張感とかは無かったですね。

 学生運動に関していえば、結構世代感っていうのを感じるってか考えるんですけども、団塊の世代の後の世代で、団塊の世代をリーダーにしてその後をついてきたっていうのは2番手的な役割が多かったと思うんですね。昭和26年から29年、30年生まれの人たちっていうのは。

 やっぱり本を読んで、学生運動にももちろん興味持ちましたし、その時代60年代に対するあこがれみたいのはありましたね。だから、それが一番東京に行っててそういうものを肌で感じて、新宿なんかで遊んで歩いて、いろんな人と知り合って、そういう話を聞かされて、そういうものっていうのは徐々に体の中で発酵してくるみたいなところはあったと思いますね。

 寺山修司とか唐十郎とかすごく好きで、特にあのころは浅川マキの音楽がすごい好きでレコードとかも持ってて、坂道っていう曲があるんです。ちょうど住んでたアパートが坂の途中のアパートだったもので、それがぴったりで。新宿のさそり座なんかに浅川マキのコンサート聞きに行ったり、やっぱりプロのイメージっていうんですかね。
 社会そのものが非常に明るくないというか、退廃的な時代だった。それは多分60年代のすごい活発な時代っていうか、体制を倒してやるっていう勢いに敗れて、非常に若者が落ち込んでたっていうか、ここの興味っていうのが内面に向かった時代に学生時代を過ごしてたので、そういうものに対してはすごい興味がありましたね。

【新聞記者に】

 私、その商学部に図らずもっていうか全然希望しない商学部に入って、全く不得意な簿記とかやってたんですけれども、近代経済学とか勉強してたんですけど、全く興味が無いんでほとんど大学に行かなかったんですよね。
 それで、ただ、ゼミだけは唯一社会学的なゼミがあったんでそこに行ってたんですね。それで、できれば私の希望としては競馬関係の記者になりたいという思いがあったんですね。
 だから、競馬関係の記者だと東京に残らなければならないですね。それで、専門紙かスポーツ紙の記者になりたいっていう思いがあったんですが、たまたまその頃、私の祖母が亡くなったんですね。その時に、
「お前は長男だからいわきに戻ってこい」
と言われたんですね。そんなこと気にしなければいいんですけれども、ちょっと残りますって。それで、いわきに戻ることにしたんですね。

 親なんかもいわきだと就職が無いんで、
「公務員になれ」
ということだったんです。一応勉強もほとんどしてなかったんですけど、一応公務員の試験受けたんです。そして、落ちました。普通に。

 それで、就職もしないで4月頃、うちでぶらぶらしてたんです。店やってるんで手伝えばいいんですけども、手伝いたくもない。それで部屋にこもってたんです。そしたらですね、ちょうどいわき民報っていう夕刊紙に記者募集の広告が載ったんですね。それで、その時に
「あ、そうだ!俺新聞記者になりたかったんだ」
と思いまして、それで辛かったんですね。何もやんないでいい男が家の手伝いもしないで部屋にこもってるっていうのが非常につらかったんで、とりあえず受けてみようと思って履歴書を出したんです。それで、新聞社を受けた。それで入ったということです。

 私、中学校の時に「あなたに向いている職業は何ですか?」っていうアンケート調査みたいなのがあって、ただちょうど「記者」っていうのが出たんですよ。子供のころから新聞部に入ってたりして新聞作ってたりしたんで、新聞記者になりたいっていうのが漠然とあったんですね。
 それからノンフィクション系の本を読むのがやたら好きで、かたっぱしから読んでたんですね。

 私が就職した会社は、いわき民報という、いわきをエリアとする夕刊紙、日刊だったんですね。入った時に実は、報道部員と広告部員を募集してたんです。それで、社長面接になりまして、
「二人とる。安竜くんは大学も商学部だ。それでマーケティングとか勉強してるようだ。広告の方が向いてると思うんだけれどもどうだろうか?」
という打診があったんですね。そこで
「申し訳ないですけれども、新聞記者になりたくてここを希望したので、もし広告でとられるときには他の人に譲ってください」
って言ったんです。

 もう一人の人はやっぱり報道の記者を希望してたんですけれども、2回目だったらしいんですね、受験が。そう言われたときに、
「私は記者でも広告でもいいです」
って言ってしまったらしいんです。それで、採用になったときに私が報道部、彼が広告部ということになった、人生の転機になったわけなんですね。

 いわき民報というのは、いわき市をエリアとしている新聞で、発行部数は当時で1万部くらいですかね。それで、記者は10人くらいなんですけど社員が80人くらいで、その当時は昭和52年入社ですから、今のようにパソコンっていうか、新聞製作システムっていうのが無い時代だったんですね。
 だから、原稿用紙も三行の原稿用紙に4Bの鉛筆で原稿を書いて、それを構成が見てタイプのおばさんたちがそれを打って、新聞に作るときは台紙に貼りつけてフィルムを作って、それで発行するというような新聞だったですね。
 土日と祝日が休みの新聞社だったです。

 いわき民報の内容というのは、なぜいわき民報を市民がとるのかということなんですけれども、まず今ではもうほとんどなくなってしまったんですが、黒枠といってお葬式の広告ですね。
 それで切り貼りっていうのを失礼が無いようにする、その情報をとるということと、予告記事が非常に多いということですね。いわき市内でどんなことをやるのかということをこまめに拾うということ。
 あとは、連載記事ですね。私が入った頃にはあんまり連載はなかったんですけども、ある一つの事象を深く掘り下げるもの。
 その三つが市民に指示された新聞だと思うんですけれども。

 いわき民報っていうのは、要するに県紙と呼ばれる福島県のエリアの新聞よりさらに小さい新聞なんで地域紙といわれるものだと思うんですけれども、いわき市役所にはりついて、市役所の情報をとるという新聞ですね。
 だから、経済なんかは非常に弱いですよね。それで、中心になるものは事業っていうか、要するに催し物を取材して原稿を書くということですね。
 それから、あと、市役所でいえば予算の時期になったら「いわき市の予算はこういうことで」とか人事の時期になったら「こういう人事がありました」とかっていうような、そういう内容の新聞です。

【新聞記者の生活】

 新聞記者としては、最初はほんとに先輩たちの鉛筆削りから始まって、あと一番最初に書く記事っていうのが「ジャミ記事」っていって、三行くらいの、例えば妊婦健診とか、それは穴埋めの記事なんですけどね、結局。
 あとは天気予報ですね。その頃は小名浜測候所っていうのがあったので、測候所に電話して明日の天気を聞くということから始まります。ほとんど3か月くらい中にやらせられて、新聞を丹念に読むという作業。あとは雑用ですね。

 そのうち、だんだんジリジリしてきて「自分は何のために入ったんだ?」っていうふうになるんですね。その頃になると、部長から
「安竜くん、ちょっと」
って言われて、3か月くらいたったら名刺ができて、カメラを預けられて、それで催し物から取材するように言われて。
 最初の担当は普通だと警察担当なんですけれども、たまたま2か月前に警察担当が入ってたので、スポーツ担当になりました。それで、スポーツとか福祉を担当しながら、だんだんに市役所担当ということになっていくっていう感じです。

 スポーツ担当やってて、やっぱり好きになったのはラグビーとか陸上の魅力っていうのが結構ありましたね。野球は中心です。高校野球なんかが中心です。
 アマチュアスポーツが中心です。プロ野球の球団もないですし、たまに来るんですけども、それはあくまで巨人中日戦をやったくらいの記事ですからね。結局は、市民の興味というのも高校野球ということになりますね。
 少年サッカーとか少年野球とか、中学校の中体連の成績とかを載せると、結構新聞拡張に役に立つようですね。

 いわき民報では25年近く、24年くらいですね。最初記者をやって、そのうちにいわき民報の中でも支社っていうのがあって、小名浜とか勿来とか支社勤務をやって、そのあと報道部の次長になって、報道部長になって、そして組織の改編があって政治文化部っていうのができて政治文化部長になって、編集員っていうのもやりましたね。一時期。
 もっと深く取材したいということでお願いして、報道部長をやめて編集員にさせてくれということで編集員をやって、最後は小名浜支社長っていう営業と支社の総務管理みたいなことをやって、日々の新聞を立ち上げたという感じ。

 いわき民報という会社の一番いいところは、好きなことをやらせてくれるところだったんですね。だから、給料は安いけれどもそれぞれの記者がやりたいと思うことをやるという会社だと思うんです、私は。

 ところがある時期から様々な縛りというのが出てきて、例えばいわき食紀行っていう連載をもってたんですけど、例えば食べ物に対するこだわりというのを連載してて、絶対自信があるもの、要するに扱うのに自信があるものっていうのをピックアップしてそれを取材して原稿に書くという仕事だったんですけども、「なんでスポンサーを扱わないのか」という話になってきまして、「スポンサーが紹介できるところがあればいいです」という、よく言われる営業と報道のせめぎ合いで、結果的にその時の社長が営業よりだったりすると非常に報道がやりにくくなるという、よくあるパターンですね。
 そういうことが段々多くなってきたんですね。

 それから、新聞の部数を多くするために「細かい記事を書きましょう」「より多くの人の名前を載せましょう」っていうことが多くなってきたんですね。
 「細かい記事を書く」というのは、例えば小学校の運動会あります。普通の記者の感覚からいうと、大体集中して日曜日に運動会があるので、目玉になるプログラムとかニュース性のあるものを選んで代表的なものを扱います。
 ところが、地域紙になりますと「うちの運動会を扱ってほしい」という読者が多いので、できる限り同じ内容の記事を学校名だけが違うような記事が載るような感じになるんです。
 私、それはちょっと許せないというか、紙面をそういうもので使うっていうのが許せなかったっていうのがありますね。自分の考え、自分が思う地域紙とか新聞のあり方と、会社の考えっていうのがやっぱりずれてきたっていうのはあると思いますね。

【地域紙のあり方】

 地域としてのイメージが変わったっていうか違うっていうのは、人それぞれ考え方はあると思うんですけれども、私が思うには会議なんかでもよく言ったんですが、結局地域紙っていうのは併読紙です。
 主たる新聞をとっていて、それを補完する立場の新聞だと思うんですね。それの考え方だと思うんです。

 だから、より細かいものを拾うっていうのも一つの考えではあると思うんですけど、私が思ったのはやっぱりそういうものではなくて、全国紙とか県紙には扱えない、要するに地元にいるからこそ、地元のものをきめ細かく取材して地域の本質を伝えるような、そういうものっていうのができないかなと思ったんですね。
 かつてのいわき民報っていうのはそういうものが複合されてて、やりたいことっていうのはやらせてくれたと思ったんですが、それが非常に平面的になって来たって言う感じはありましたよね。

【地域の変化】

 いわきの町の変化っていうものですが、要するに炭鉱の町と漁業の町といいましたけれども、炭鉱っていうのはもう記者になった時点でかなり下火だったんですね。
 いわき市というのは、昭和41年に14市町村っていうのが合併して。だから合併の先進地なんですね、言ってみれば。それで、それが非常にいわきという町を形作ってていわきの悩みにもなってたということだと思うんです。
 無理に一つのイメージを作らなければならないといういわきの悩みですね。

 一体感っていうのを醸成するために、もともと平、湯本、小名浜、勿来とかっていう全国的に知られた地名っていうのが、言ってみれば北九州みたいなもんですね。
 小倉とか八幡とかっていうのは北九州にあるのと同じで、ひとつひとつも町がいわきになって、いわきの印象、知名度っていうのが低かったわけですから、それを無理に一つのイメージにするために様々なことをやってきたということですね。

 さまざまなことっていうのは、いわき踊りっていうのをつくって、無理に歴史的な、文化的な背景も無い中で無理に一つのものを作ってイベント化して、それでなんとかいわきの一体化っていうのを醸成しようとしたということが多かったですね。

 新産業都市構想っていうのは、結局炭鉱が廃れてしまって、非常に町が疲弊しますね。そうした中で炭鉱に代わるものっていうのを誘致して、国が炭鉱に代わるものを助成して新しい産業立地をするということなんですけれども、いわきの場合は郡山といわきをいっしょくたにした新産業都市構想っていうのができて、それでお金が落ちて、企業の誘致というのを推進した、促進されたっていう感じですね。

 新産業都市構想っていうのは、そもそも無理があるんですね。それはなんでかというと、郡山といわきっていうのは、文化も歴史も違うし、間に阿武隈高地というのがあります。つまり隔絶された町なんです。
 それが要するに炭鉱っていうのがだめになって、石炭産業がだめになって、国が無理無理・・・阿武隈高地を山脈じゃないので????という独特の解釈をしてくっつけちゃったんですね。
 だから現実的には、新産業都市構想のための郡山・いわきっていうことだったんですけど、非常に無理がある話だと思います。

 いわきには小名浜港がありますよね。小名浜港の背後地に工業団地を作って、郡山にも企業誘致を図って、小名浜港を一つの物流拠点にして、荷物を出す、そして入ってきたものを郡山に出す。そういうような狙いだったと思います。
 石炭が駄目になって、常磐炭鉱っていう大きい会社があったわけですけれども、そこの常磐炭鉱は石炭に代わるものということを考えたんですね。
 それで、石炭の会社っていうのは、要するにいわゆる一座一家っていって非常にコミュニティっていうか、自分たちの家族のような感覚があるので、当時の社長が社員をできるだけ首にしないで、そえで何か新しい事業を起こそうということを考えて、それが常磐ハワイアンセンターで、その目玉になったのがフラガールだったということですね。

 ハワイアンセンターの試みっていうのは非常に成功したと思いますね。観光事業としても非常に成功したし、結局いわきの観光の核になったっていうことだと思うんですね。
 それで、炭鉱で本来出ていかなければならない、随分な人が出ていったんですけれども、ある程度首にしないでやめさせないで観光事業の方で救えたということもあったとは思うんですね。

【原発への意識】

  正直なところ、原発っていうのはいわきにとっては他人事なんです。要するにまず立地町村じゃないということと、いわき市民もほとんど原発を意識しないで過ごしてきたっていうのが事実だと思うんですね。
 実際に原発関連の本っていうのが朝日新聞のいわき局で出した『原発の現場』っていうのがちょうど新聞記者になったあとで、そのころ一緒に取材してた人たちが、たまたまその時の支局長がいわきと双葉郡エリアが朝日新聞のいわき市局のエリアだったんですね。
 それで、「こんなに良い材料がいわきにはあるじゃないか」と着目した支局長がいて、原発の取材をして。それで福島版で連載したっていうことがあったんですけども、その連載があったのは昭和55年くらいだとおもうんですけどね。55、6年だと思います。

Q.ご自身はいくつでした?

 私は20代ですね。

Q.どのような内容でした?

 はっきり記憶にないんですよ。読んだような、そういう連載をやったという記憶にはあるんですけど、結局関心も無かったということですね。「他人事」すぎでってことだと思うんです。

 なんで原発がいわき市民にとって他人事なのかっていうと、取材しててわかったんですけれども、いわき市役所に原発担当・・・何だったか忘れたんですけど、原発のことを取材しなきゃなんなくなっていったら、企画課の中の担当してたのが個人・・・原発担当主幹っていう人がいまして、その人の仕事の中の一つとして原発の仕事があったくらいだったんで、それも地域振興という切り口で担当のもち方だったんですね。
 だから、そのくらい他人事っていうか、なにか原発であったっていっても、「いわきは関係ない」っていう、「いわき市は関係ないよ」っていう感じでしたね。市民もそうだったと思います。

 東海村のすぐ近くに村松虚空蔵尊っていうところがあるんですね。十三参りっていって13になったときに虚空蔵尊にお参りに行くという風習があるんです。
 その時に会津の柳津か倒壊の村松虚空蔵尊に行くんですけど、その時に原発の近くなので原発を意識する、個人的にはそのくらいだったですね。

【新聞社を退社 新たな新聞の発刊】

 「日々の新聞」を発行しようと思ったのは、まず一番大きかったのはいわき民報の中で取材記者としての仕事をしなくなったというか、できなくなったということが大きかったと思いますね。
 自分が取材して原稿を書くということ、新聞を作るという作業から外れて、だんだん管理職になってくるとそういうことっていうのはあるんですけど、いち記者として居たかったという思いもあるし、新聞作りに関わりたかったっていうのもある。それから、いわき民報っていう新聞そのものが変わってきたっていうのもある。
 自分の中で自分だけの新聞を作りたかったという思いっていうのがあったっていうのが大きいですかね。

 まず日刊っていうのは無理ですし、新聞っていうものをできるかどうかもよく判んなかったんですけど、イメージとしては週刊で1週間の出来事っていうのをコンパクトに知らせられて、しかもそれに対して論評を加えられるような新聞という感じですね。
 一番影響として大きかったのは、ワシントンポストの中にオンブズマンがいて、そのオンブズマンがニューヨークタイムズの記者上がりの人だという、立花隆さんかなんかが書いたアメリカジャーナリズム報告かなにかで読んだんですけど、その中にワシントンポストのキャサリンブレアムのスキャンダルがあって、それでワシントンポストはそのキャサリンブレアムのスキャンダルに対してさほど報道しなかったっていうか、報道しなかったんです。

その中で、ニューヨークタイムズのオンブズマンが
「ワシントンポストはキャサリンブレアムの土地に絡む様々な疑問に対してきちっと書くべきだ」
というようなことを読んで、そういう新聞をつくりたいなと思いました。
 新聞の中にきちっと第三者的な目を常にいれられるような、そこは常に不可侵の欄であるような、そういうような新聞を作りたいと思いましたね。
 もと東京新聞の記者の安井さんという方がいらっしゃるんですけど、今はこの人がオンブズマン。月2回発行なので、3か月間2人の方に書いてもらうんですね。それがずーっと214回、1回も欠くことなく続いてるということです。

 いわき民報時代に交通死亡記事があったんです。
 それで、私の同僚が記事を書いてデスクに出した。その日の新聞が発行になった。その記事が載らない。その書いた記者はなんか手違いがあったと思ったんです。書いてデスクのところにいって校正に回って校正からタイプのところに行く間に原稿が無くなっちゃったと思ったんです。それで、その原稿を探したんだけど無いので、もう一回書いて出したんです。
 そしたら、帰り際にデスクが
「この原稿は載らないんだよ。」
と言われた。事故を起こした人が大スポンサーの社長だったんですね。

 例えばいわき民報に載らなくても福島民報・民友には載るわけですから、それを載せないで済ましてしまった新聞に対する怒りっていうのが、その時報道部の中で非常に、何て言っていいかわからないくらいの怒りっていうのが。
 ただ、「この程度の新聞なんだな」っていう思いはありましたけども、そういうこととは何回かありましたね。
 だから、『新聞を名乗る以上はそれだけはすまい』っていう思いはあります。

 なぜ「日々の新聞」かということなんですけれども、いわき市立美術館で日比野克彦展が行われたときに、美術館からの提案で日比野さんの新聞をつくりませんか?ということだったんです。
 それはなぜかというと、日比野さんという方は岐阜出身で、岐阜新聞が日比野勝彦の新聞っていうのを作ったことがあるんですね。
 それで、そんなことを学芸員の人の頭にあって、日比野さんという人はワークショップなんか非常に好きなんで、その日比野展のときに「日比野克彦の新聞を作りませんか?」という話があって、
「じゃあ面白そうだし私もファンだから作りましょう」
ということになって作ることになったんです。

 その時にできたのがこの新聞なんですけれども、それが非常に日比野展を見に来た人の中からも仲間を募って、みんなで記事を書いたりして作ったんですね。その経験っていうのが非常に楽しかったということで。
 もうその頃いわき民報に対して、「もうこのままじゃいかんな」という思いが非常にあって、いわき民報をやめて、新聞を作るときにこの「日々の新聞」っていう名前をそのまま貰って、人々の日々を伝えたいという思いもあって、「日々の新聞」というというのを作ったということです。

 内容は違うんですけれども、実はその当時の日比野克彦展っていうのは全国を回る巡回展だったんですね。最初はいわき市立美術館で、それでワンコイン100円で会場で売ったんですね。そのうちにこのバージョンがなくなりまして、いよいよ東京の目黒の美術館でやるということで、これが売れたんで少し目黒なんでちょっと増刷して、商売しようかと思ったんですね。
 それで、日比野スペシャルという日比野さんの事務所があるんですけど、そこで内容もちょっと変えてデザインも日比野スペシャルにお願いして、日比野さんも「じゃあデザインやろう」ということになって、新しいバージョンを作った。それで目黒から新しいバージョンになったということですね。

 日比野さんの新聞を作って、それで「日々の新聞」という題字も使わせてほしいということになって、快く「あぁ、いいよ、やりな」っていうことになって新聞を旗揚げしたということなんですけれども。
 理想の新聞、こういう新聞にしたいという思いはあったんですけど、実際的に新聞を作ってみたら、なかなか自分たちが作りたい新聞っていうのは何だったのか?っていうのが立ち上がってくるんですね。わからない・・・。一応毎号、毎号積み上げてはいくんですけども、何が理想の新聞なのかっていうのがよく判らない。
 だんだんスタッフと話をしながら浮かんできたものっていうのは、それはもう何年か経ってからのことなんですけども、他の新聞に載らない記事を載せるっていうこと。
 それから一次情報を旨とするということです。現場至上主義みたいに。それから、いわきから見えるものを扱うということで、決して無理はしないんですけれども地域紙っていうのが何かということを突きつけられたっていうことだと思うんですね。

 要するにいわきに生まれて育って、いわきで死んでいくものたちが、新聞というメディアを通して何をしていくのかということ。それは新聞の無いようにも関わってくるものだと思うんですね。
 それで、そんなことを右往左往しながら試行錯誤しながらやってるうちに、今までにないような形の新聞っていうのが徐々にできてきたっていうのが本音ですかね。日々の新聞でオンブズマンを毎回載せてるんですけれども、その中で一つオンブズマンとの戦いっていうのがあったんですね。それは何かというと、客観報道っていうものに対する見解の違いということなんです。
 確かに客観報道って綺麗だけれども、私は客観報道っていうのは原則的には有り得ないと思ってるんですね。
 それはなんでかというと、世の中に様々なことが起こってる中で、何を基準にするかというのを選ぶのは記者だし、その取材した者の中から何を取り出すかというのも記者だし、それは読者と記者の間の信頼関係でしかありえないと思ってるわけですね。

 だから、客観報道、客観報道って非常に呪文のように唱えられても、私は
「日々の新聞は究極的な主観報道です
というようなことを言ったんですが、そこがなかなか判りあえなくて、客観報道のバックボーンとなるものというのをきちっと編集者に言ってもらわないと、「我々は信頼できない」というようなことを言われたりして、そこで1回で降りられてしまったことがあるんです。
 オンブズマンになっていただいた人に3回書いていただくはずだったんですが1回で降りられてしまったということがあったんですね。

 そういうことを繰り返しながら、我々が報道するものっていうのは、まずスポンサーがらみのスポンサーだから報道するというようなことはしない。 
 絶対に一次情報を大事にして、絶対に勧められますっていう料理とか店とか、事象っていうもの以外は報道しない。
 それから、今これは大事なんじゃないかっていうものっていうのを自分たちで考えて、それは主観的なことなんですけれども、それで報道することによって読者にも知ってもらうっていうこと。

 それを続けているうちにわずかな読者なんですけども、650人くらいの。その650人の読者の行動パターンっていうのがありまして、新聞が出て読むと、必ず何人かの人が日々の新聞に載ったところへ行く。
 「日々の新聞で読みました」。そういうことの積み重ねが非常に信頼関係というか、「日々の新聞に載ってるなら間違いないね」ということに繋がってきたということはありますね。
 それがいってみれば、やってきたことがそんなに間違いではなかったんだなという思いというのはあります。

 あと、一次日々の新聞のバブルみたいなのがあって、非常に大手スポンサーがついて、非常に月々のお金っていうのが楽だった時期があったんですね。
 今から4,5年前頃にとても大きいスポンサーがついて、そこの別新聞を作ったりということになったんですけれども、その大手スポンサーがつくことによる弊害っていうのを非常に感じまして、やっぱり細かいスポンサー、あと新聞を楽しみにして呼んでくれる人っていうのがいかに増えるかっていうことが新聞の中立性っていうのを保てるかっていうこと、そう実感したということと、大手スポンサーがつくと、やっぱり楽してしまうというか、動かなくなってしまうというか、営業的にも地理的にも。
 っていう経験をしましたね。
 だから、背伸びはしないということを胸にしてます。

 大手スポンサーがついた時期っていうのは、今考えると仕事も大変だったです。いろんな別々の新聞を作んなきゃなんないとか、広告の打ち合わせで度々行かなければいけないとか、それが非常にスポンサーの仕事の関係もあって、広告が出なくなって、経営自体も大変だったっていう状態ですね。
 いわゆるインターネットによってそのスポンサーが作ってるものが非常に人気が出て、それで短期間で非常に発展したっていう状態だったんですね。
 食品関係の会社だったんですけれども、急成長したために事業を大きくして、結局楽天なんかであるじゃないですか、ランキング1位になりましたとか、そういうような手法ですごい急成長したんだけれども、一次よりどんどん下がったんで、身の丈に合ったような会社経営に戻ったというような感じですね。

Q.経営は?

 立て直ってるかどうかわかんないです。あの苦しい状態っていうのが続いてるっていうか、要するに人件費なんかで我慢してもらってる。
 最初に会社を立ち上げるときに、ある人に相談したんですね。そしたらもう、
「自分でお金をとるって思わないように。要するに自分の好きなことっていうか志を立てたわけだから、どれだけ我慢できるかっていうのをよく考えてやるように」
ということを言われたので、そこのところは我慢してもらってるんですけども、苦しい状態は続いてるという感じです。
 だから、一号一号積み上げてる、要するに質のいいというか納得のできる新聞を一号一号積み上げるということが一つの目標という感じですね。

 日々の新聞を始めるときに、一番どうしようと思ったのが、配達の仕方と集金の仕方なんですね。新聞社でしか経験してないんで、そうすると宅配制度で配達する人が集金して回るということだったんですね。
 ところが、自分たちは3人でスタートなんでそんなのできるはずない。どうしようかっていうことで悩んだんですよ。
 そしたら、ちょうどクロネコヤマトのメール便っていうのができまして、その当時はお金も無かったんで。メール便で全国どこでも80円っていう制度が始まって、しかも取りに来てくれる。シールとソフトも別に提供してくれるということだったんで、パソコンにソフトを入れて宛名を印刷して、ナイロンの袋に入れて発送するわけなんですけれども。そのシステムでできた。

 それから、「雑誌方式にしたらいいんじゃないか?」と。要するに前金制度ですね。購読を申し込んだ人からは前金で3か月、半年、1年という料金をいただくということで、じゃあそれにしましょうということになったり、それでスタート。
 120部くらいからスタートして、2003年にまずホームページを立ち上げて、それから新聞の準備も。それで創刊号になっていくわけですけど、その日々の新聞のホームページが蓄積していくうちに検索で引っ掛かるようになったんですね。たとえば、箱根の柏原竜二が高校3年の時に福島県の第一走者で都道府県駅伝で1番できたことがあったんです。その時に取材したんですね。
 高校3年の時。柏原が箱根で鮮烈なデビューをしたときに、みんな柏原のことを調べようと思ったらしいんです。そしたらトップに日々の新聞の高校3年の時のインタビューが出てきたりして、そういうことが重なったりして読者が全国から集まるようになったんですね。
 今は北海道から沖縄まで読者がいるという感じです。

 柏原選手っていうのは、いわきの内郷っていうところの出身なんです。いわき総合高校出身なんで、それでいわきの選手なんで取材したということなんです。
 柏原のヒットっていうのは、柏原が1年の箱根駅伝でごぼう抜きをしてトップで返ってきたときからですね。その時も日々の新聞のホームページのヒット数っていうのが過去最高だったらしいです。

Q.新聞の価格は?

 新聞購読を全国の人たちがしてくれて、まずきっかけはネットだと思うんですね。そのうちにネットでアップしてるのが一部なんで、全部の新聞を見たいということになって、購読したいという人が増えてるという感じです。一部400円なんです。月800円です。月2回なんです。

【妻子について】

 結婚したのは昭和55年です。28歳だったと思うんですけどね。
 妻は三つ下なんですけれども、いわき民報時代に同じ会社に勤めてて、デザインの仕事をしていたんです。
 なれ初めは、結局同じ会社に居たので、その新聞を作るときにカットとかお願いに行ってて、それで知り合ったという感じですね。どっちかというと私が好きになって、それで声をかけて付き合い始めたという感じだったような気がします。
 付き合いは穏やかだったと思いますね。ただそんなに長く付き合わないで、知り合って1年くらいで結婚したと思うんですけど。

 私もデザインなんかが好きだった、絵を描くことも結構好きだったりするので、そういう共通点というのがあると思いますね。やっぱ芸術家が好きなんでしょうね。(妻は)美大出身なので、芸術関係が好き。私が芸術関係のものが好きだということはあると思います。
 長く居るとギャップというか、違った部分とか出てくるんですけど、付き合い始めたころはやっぱり芸術関係の話題とかそういうのが多かったと思いますね。

 妻の実家は農家でして、ずっといわきに生まれ育った家ですね。だからもういわきに根付いてる家です。いわき同士なので、説明しなくとも判ることというのは多いと思うんですね。だからそういう面では楽なんじゃないでしょうか。
 「説明しなくていい」というのは、地名とか・・・結局同じ土地で生まれ育ってるということっていうのは、空気感が一緒だということだと思うんですけど。

 生活習慣は違うかもしれないですね。大学時代の友達なんかと話したりなんかしても、土地によって違うなと思うことはありました。ただ、いわきって結構広いんで、高校に行ったときにいろんな地区から来ますよね。その時もやっぱいわきはいわきの中でも土地によっては違うことがあるのかなという思いはありましたね。
 子供は3人で全部娘なんですけれども、今みんな首都圏にいます。それで長女に子供が生まれたんですけれども、普通だと里帰りさせるんですけれども、やっぱり放射能の関係で東京で産んで、東京で育ててるという感じです。

 私の仕事が忙しかったので、記者やってたので、だからあんまり家には居なかったですね。だけれども、私たちの世代っていうのは、父親の世代みたいに仕事一辺倒ではないと思うんですよ。
 子供が小さいときにはそれなりに遊んだりいろんなところに連れていったりしながら、普通の家庭生活を送ったと思いますけれども。

【2011年3月11日震災当日】

 3.11の時には、金曜日だったんで、仕事してたんですね。それで、平市内のギャラリーに居て、それでギャラリーで揺れて、その時飾ってたものがほとんど落ちてしまったという状態でした。
 ギャラリーに少しいて、それでやっぱ会社のことが心配になって、会社に戻ってきたんですね。そしたら本棚が全部落ちてるような状態で、その時二人が居たので片づけてるような状態だったんです。
 それで、うちのことが気になって、うちに電話したんですね。1回だけ奇跡的に通じたんです。地震のすぐ後だったんですけど、「大丈夫だ」ということで安心して切ったんです。

 今思えば、なんでそうだったのかよくわかんないんですけど、まず地震そのものっていうのはそんな深刻に考えなかったんです。
 未だかつてないような地震だったんです。間違いなく。それでとりあえず落ち着いて会社に戻ってきたら、会社の中が滅茶苦茶になってて、二人で片付けてたような状態です。
 それで1人が休みだったので、そのことも心配になって家に電話したんです。結局通じない状態だったんです。そうしてるうちにテレビも壊れてしまったんですね。地震で。
 テレビをつけることもなく、ラジオつければよかったんですけど、なんかぼーっとしてたんですね。そうしてるうちに、休んでた一人から電話が入ったんですね。奇跡的につながったんですね、電話がね。

 それで「海の方が大変なようだから帰ったらいいんじゃないですか」という話だったんです。津波が起こってることもわかんなかったんですね。それで、その日は6時から講演会の取材があったんです。行く気でいたんです。
「あ、これじゃあ取材にもなんないか」
と。後で思えば、その講師の人だって東京から来れるはずがなかったんですけれども、
「じゃあ行かないで帰ろうか」
という話になって、
「いや、帰ったほうがいいですよ」
という話になって、帰ったんです。

【津波の被害】

 戻ってみたら、まず道路が、道路のところに家が流れてきてて、道路が通れない状態です。それで、知ってる顔が居たんで消防担当の人だったんですけど、うちはどうなってるという話を聞いたんです。
「よくわかんないけれども、その近くは大丈夫だって話を聞いたから、大丈夫なんじゃないですか。」
という話だったんです。それでそのまま真っ直ぐ家には行けないので、裏の道を通って車を置いて、歩いて家に向かったんです。そしたら家があったんです。
 周りが波とか海から流れてきた残骸とかで滅茶苦茶な状態の中で家があって、全員の無事を確認したという感じ。

 私の家っていうのは古くからある家なんで、多分昔津波があったときも大丈夫なところにできてた家みたいなんですね。
 それで、今回被害にあったところというのは、昭和年代に埋め立てをしたところがほとんどやられてしまったんです。それで大丈夫だったみたいなんです。あと、家の前に新しく出来た建物というのがあって、それがカバーしてくれたっていうこと。
 床下は浸水したんですけど。あと車が海の近くに二台置いてたんでそれが流されたという感じです。

 一番酷い被害を受けたところっていうのが、久ノ浜っていうところと豊間、薄磯っていうところなんですけど。トータルで300人くらいいわきでは亡くなったということなんですけど。まだ行方不明、身元が判ってない人が30人くらい。
 復興に関しては、まだ取り壊しが終わってない状態ですね。それでこれからどうするかということをきちっと話し合っていくということで、だからとても復興の状態にはなってないですね。

 被害が大きかったところは基本的にはそこに住まないで、松林やなんかにして。土地区画整理事業の一環で高台に移転するという、原則的にはそうなってます。
 それで積極的にそれを話し合って進めてる地区もあります。高台移転を自分たちの地区はやりたいっていってるところもあります。

Q.地区ごとの対応?

 基本的には市の計画っていうことで市が取りまとめて、それで各地区の計画を決めて、あとは地区との話し合いっていう、そんな段取りですね。

Q.県と国の対応は?

 この津波・地震があってそうなんですけど、これだけの大きな災害があったというにも関わらず、「これは県の仕事」、「これは市の仕事」、「これは国の仕事」というのがきちっと縦割りで決まっていて、それが要するに崩せないっていうのが現実ですね。
 だから、移転に関してもその国の仕事、県の仕事、市の仕事というのは、前と変わってないです。それぞれの役割分担の中でやってるという感じです。
 それぞれの役割・・・連携という意味では前よりはとれてると思うんですけど、基本的にはそれぞれの役割分担の中じゃないと仕事ができないというほうが正しいかもしんないですね。

【原発事故発生】

 原発の事故に関しては、そもそも原発が他人事だったということで全く関心もなかったし、地震が起こった後も原発についての頭ってのは回らなかったというか、原発がどうなんだろうっていうことは考え付かなかったんですね。
 それは、個人差があると思うんです。原発のことを気にしてる人は原発のことに思いが至ったと思うんですけど、私の場合は原発に対する関心というのがなかったし、原発の意識っていうのもすごい薄かったので思いつかなかったんですね。

 11日に地震・津波があって、12日、13日が休みだったんですけれども、12日にうちはテレビも、テレビが見れないような状態だったんで、ネットを主に見てたりしたんですけれども、それで休み明けのことが心配だったんで仲間に電話をして。そしたら原発の話になって、それで「じゃあとりあえず14日月曜日に集まりましょう」ということになったんですね。

 14日に市役所に行ったんです。そこで脱原発福島ネットワークの世話人をやってる佐藤かずよしという市会議員が居るんですけれども、そこに行こうということになって行ったんですね。そしたら、
「若い女性は逃げなきゃダメだ」
という話をして。
「俺は市会議員やってるから逃げないけど」
ということを言ったんですね。非常に切迫感というか、原発に詳しい、しかも放射能のことをよく知ってる本人から直接その話を聞いて、その時にヨウ素剤の話になったんですね。
「爆発してる以上はヨウ素剤を配らなきゃ。」
「なんで配らないんだろう」
という話になって、その市会議員が
「市長には言ったんだ。すぐヨウ素剤を配れって言ったんだけど、まだ配られてない」
という話になって、それで一緒に行った記者が、
「市長のところに行ってヨウ素剤を配るように言いましょう」
という話になって、市長探しをその日したということです。

 まず秘書課に行ったんです。
「市長いませんか?」
 その当時は消防本部が災害対策本部になっていて、「災害対策本部にいます」ということだったんです。それでそちらに二人で行ったんです。そしたら、呼んでもらったんですけども居ないんですね。市長がいない。それで、
「ひょっとしたらまた秘書課に戻ったかもしれません」
ということなんで、また本庁に戻ってきたんですけど、
「いや、こっちには戻ってきてませんよ」
ということで、その日はつかまらず、結局ヨウ素剤を配った方がいいですよということも言えなかったんですね。
 実はJCOの事故があったときに、いわき市はヨウ素剤を買って、それから更新してる。ずっと買い続けてるという市なんで、ヨウ素剤はあるはずだということで、そういうことをやりましたね。

【配られないヨウ素剤】

 ヨウ素剤があるのに配れない、そしてその理由というのが、
『国からの支持が無い』
っていうことだったんですね。やっぱその時の想いっていうのは、その時思ったかその後に思ったかちょっと定かではないんですけども、今回の原発事故で中央集権的な国・県が言ったことを後追いでやってる、末端行政というか基礎自治体の行政の在り方が変わるんじゃないかと思ったんです。
 やっぱり住民の命というのを大事にするならば、やっぱりここはリスクを背負っても配るべきだということを思ったんですけれども、なかなか「これは厳しいな」というのが実感でしたね・・・。
 あぁ、非常時の時にリーダーの資質が問われるっていうか、そんな思いしましたね。

 今回の震災と原発事故を経験して、一番機能したっていうのが地元の消防団と自衛隊だったと思うんですね。要するに被災者の立場からいうと。
 それで、行政は事故の実態さえおさえられない状態だったですから。それで取材もできない状態です。普通だといわき市としてのくくりということで、いわきでどのくらい被害を受けて、水道はどのくらい止まっててっていうのが、災害対策本部とか広報課に行けば大体取材できるんですけど、全く取材できない状態です。
 停電がどのくらいあるのかもわからない状態で、判ったことを県にFAXで送るだけの状態だったんですね。

 市役所が把握できなかった、機能できなかった、全く機能してなかったっていうことですね。さまざまなやることが多すぎたし、度肝を抜かれて何をするべきかが判らなかったというのが実態でしょうね。
 あと、市民からの要請というか、断水になって水はどうするのかとか、水道局はどうするのか。その情報さえ12日、13日で思うように流せなかったという感じだったですね。
 正直なところ、12日、13日っていう時の状況っていうのが、本当に12日に飲み会をやる予定だったんですよ。それで、大阪からいわき民報時代の先輩が朝日にその後移ったんですけど来る予定だったんです。ところが全く連絡が取れない。「あぁこれはダメだな」と12日はそのくらいで終わりました。
 13日になって水が全く出ない状態になって、水を買いに行きました。それで水が出てる地区があったんで、遠野という地区なんですけど、そこに行って水をもらったりして帰ってきました。

 原発の放射能に関してはネット情報などを探して、結局外に出ないようにということとか、マスクをするようにとか、本当の初歩的な知識っていうのを得ながら、家族にも言ったりっていうような感じだったと思いますね。
 そのうちにいわき市、要するに30㎞圏内が屋内退避という報道が流れたので、家にいようということになったんです。
 あの時も、屋内退避の区域っていうのがいわき市と南相馬・・・要するのその一部であるにも関わらず全域が屋内退避のような報道だったんですね。
 それで、ちょっと錯覚したというか、いわき市民っていうのが全員家にいなきゃなんないという状況だと思ったというところと、放射能に敏感とか原発に対しての知識が非常に先行してる人たちは、「すぐにでも避難」っていう感じだったですね。
 我が家ではちょっと様子見という感じだったですね。様子を見ながらという感じ。
 東電関係との付き合いというのもほとんどないですし、その原発関係の情報というのは、私の周りの中ではほとんど過疎的な状態だったですね。
 だから、2回目の爆発、最大の決断というのは2回目の爆発でどうするかということですね。

 14日の爆発が起こった時に、家族をどうするかということだったですね。
 2回目の爆発が起こった時に、まずまだいわきにいた娘が一人いて、2番目の26歳の娘がいるんですけれども、ちょうど3.11の前に結婚して、それで4月からはその旦那の仕事の関係で横浜に移ることになってたんですね。
 それで3.11っていうのは非常に中途半端な時期で実家である我が家に暮らしてたわけなんですよね。
 それで、娘の車は流されたけども津波は大丈夫だった。それで、原発事故が起こったということで、2回目の爆発、14日が起こった時には、すぐにでも逃がしたいと思ったんですね。
 そしたらその夫が車で横浜に行くということになって、夫の家族と一緒に。それで、一緒に横浜に。
 14日だと思うんですけどね。14日の夜だったと思うんですけど、横浜に娘は避難したという感じでした。

 娘が避難するときに、妻も一緒に行ったらいいんじゃないかと。私は留まるつもりでいたんです。
 仕事っていうか、いわきの現状っていうのを見たいというのと、父と母がいますから。それで妻も一緒に行かせたかったんですけど、本人が1日様子を見たんですね。それで、そのまま居たという感じです。
 父・母は、避難するっていう意識も無かったですね。身体が弱いというか非常に高齢なので、出ることに対するリスクっていうのを本人が感じてたというのはあったと思いますよね。
 東京にいる娘たちが妻に対して、私たちに対して、
「いわきにいちゃダメだから、すぐにでも東京に来るように」
という話になって、それで盛んに電話がかかってきたんですね。
 なんとか行かせたいと思って、ちょうどその頃那須塩原と東京間だけが電車が通じてるということになったので、那須塩原まで車で送っていければ行きたいと思ったんです。

 15日に本当は出たいと思ったんです。ところが、ガソリンがない。それで、15日にガソリンが入れられれば出発できたんですが、並んだんですけれどもガソリンが入れられなかったんですね。それで家に戻ってきたんです。
 もう1台軽ワゴンみたいな車があったんで、それが満タンだったので、16日の朝、とりあえず妻を乗せて那須塩原に向けて出発したんですね。
 ところが、ガソリンの減りが非常に激しくて、私は降ろして(電車に)乗せてから戻ってくるつもりだったんですね。
「・・・ちょっと厳しい、これガソリンが無くなってそのまま立ち往生しちゃうと大変だ」
と思ったので、年に1回行っている矢祭っていう町があるんですね。根本町長という人が合併しない宣言とかで有名なところなんですけど。そこにゆーぱるっていう宿泊施設があって・・・

Q.矢祭町っていうのはどの辺にあるんですか?

 茨城県との県境で福島県の中で中通り地方の南の方に県南地方っていうところにあたるんですけれども、いわきからそうですね、2時間半くらいかかるところなんですけども、そこに車で行って、とりあえずゆーぱるっていう施設を予約して、そこに落ち着いたんですね。
 東京の娘たちが車で迎えに来るという話だったんですけれども、迎えに来るにもやっぱり2日くらいかかるという話になって、じゃあとりあえず一泊して、一か八か矢祭といわきではちょっと状況というか、矢祭の方が随分のんびりしてたんで、途中でガソリンを入れて那須塩原まで向かおうということになって、それで那須塩原まで向かったんですね、1泊して次の日に。
 それで、そしたらタイミングよく少し並んだんですけどガソリンが入れられたんで、那須塩原まで行って妻を新幹線に乗せて、そしていわきに戻ってきたというのが17日に戻ってきた。だからいわきを留守にしたのは16日、矢祭に1泊しただけということです。

Q.大変でしたね。
Q.どのように情報を得たのか?

 まず自宅の周りが津波でやられたということで、最初のうちは自宅の周りをとにかく写真を撮りまくっていましたね。
 それで、妻を那須塩原から東京に行かせてからは、まず家に行って、会社に来て、会社のスタッフはみんなそれぞれということにしてたんで、役所にいったり病院に行ったりしながら、現状っていうのを見たっていうか、自分の眼で見たという感じでしたね。

 でも実際的には、記者・・・ほかの記者たちもいわきにいない状態。要するに社内内規で要するに「離れろ」ということで、福島に引き上げていたというような状態だったですね。
 それで、いわき市にも広報体制っていうのがほとんどできてない状態だったんで、何をしてたかっていうのが定かじゃないというか、会社には来てたんですけど<苦笑>、会社に来たり・・・。
 要するに・・・電話でスタッフとやりとりをしながらどうするかっていうのを決めてたっていう感じだったですかね。

【被災者であり取材者である】

 今になって思うんですけど、結局、被災者であって記者っていう微妙な立場っていうのがボディーブローのように聞いてくるっていうか、無理して動いてるんですけども足が動かないっていうか、ギアがトップに入らないというか、それがずっと延々と続いたような状態ですね。
 それで、連絡を取り合ってて、「じゃあ集まりますか」ということになって、その前に14日にできるはずの新聞ができるっていう連絡が印刷所から入って、それを送ろうと思っても東北6県は送れない状態なんですよ。
 それで、受け付けもしてないということで、関東っていうことで茨城県の一番北の高萩まで行って、そこに置いて東北6県以外の読者、震災前に編集した新聞、フラガール特集だったんですけど、フラガールの一騎生たちを追った新聞だったんですけども、それを送ったりしながらバタバタと過ごしたという感じですね。 「新聞を渡さなきゃなんない」という思いと、ギアが入らないっていう感じと、それでみんなが集まって海岸線を取材したり原発のことを取材始めたりしても、なかなか普通の状態に戻らないというような状態が続きましたね。

Q.どのように記事を発信するか?

 最初に日々の新聞をやろうと思った時は、あくまで活字にこだわりたいっていう思いが強かったんですね。それはなんでかというと、一覧性とデザインというか。
 例えば本が好きな人だとわかると思うんですけれども、活字メディアというか、要するに活字もの、活字の良さ。あと何とも言えないそのデザインの良さというものが総合的に自分のセンスの中で表現できるというものだったんですが、震災になって印刷所はやってない。
 それで日々の新聞は3人なんですけど、取材記者が二人、オペレータっていってデザインをしてデータを作ってくれる人が一人。そのオペレータも居ない状態の中で、もう現実的に新聞発行は無理ですよね。

 そんな中で伝える方法っていうのは、もう本当にインターネットしかない。しかも携帯基地局が駄目で、家に居るときには携帯も繋がらないような状態だったんですね。
 だから、ネットでのメールとかツイッターが一番の手段だったわけなんですね。だから、その中でブログをやろうと思いましたね。
 新聞はみんなが揃って、それでみんなで話し合って、それからやればいいかなと思いました。
 ツイッターは結局、こちらの安否っていうのを気遣う親戚とか知り合いがどんどんツイッターに加盟して、違う方から
「ツイッターで安竜さんの安否を確認してる書き込みがかなりありますよ」
ということを伝えられて、「じゃあやんなきゃ」ということで始めたんですね。
 ブログに関しても、双方向っていうか、読んだ方のコメント、それから連絡っていうのがかなり反応が早くきましたね。そういう面での有効性っていうのはすごい感じました。
 正直言ってブログが新聞拡張に繋がったっていうケースが3.11以降かなり多かったので、だからそういう面ではかなり新聞というのをフォローしてくれる存在だったということですね。

 ネットメディアに対する違和感っていうのはそんなには無かったんですね、もともとね。それで、ただ、すぐ伝えられる手段ということで、かなり有効だというのは実感しましたね。
 あとやっぱり役割分担というか、ネットメディアと紙媒体との要するに役割分担というのもすごく感じましたかね。

 新聞作ってて、前の旧態依然とした新聞というか・・・例えば講演会ありますよね。普通の県紙とか地域紙では、『誰々が来て講演会を開いた』ということが主なんですね。 
 それで、私はそれにすごい抵抗感を感じていて、講演会に行けない人のために端的にその講演の内容を伝えるということが主だと思ってきたので、そういう面では日々の新聞というのは、結構講演会の中身というのをかなり詳しく伝えるという作業をしてきたんですね。
 だけどもここにきて、ネットメディアの普及で、ネットメディアはもろに講演会をリアルタイムで伝えられるということですよね。
 そうすると、取材して判りやすく骨っていうか、主旨っていうのを伝えるっていう作業は、けっこう新聞媒体に求められてるんじゃないかという思いがあります。

 それから情報速報性というものが、非常にメットメディアで優れてるんだけれども、例えばレビューっていうか、論説的なものとかその裏側にあるものっていうものを活字で伝えるっていうこと。
 あと、例えば50分の講演会をリアルタイムで見るっていうことと、50分のものっていうのはある程度照合性として伝えた時に、読む作業っていうのは10分くらい、5分か10分くらいで済むというところがあるので、その辺の違いというのがあるので、震災以降自分も報道してて感じることっていうのはありますよね。

【「日々の新聞」原発事故を伝える】

  もう本当に3.11以降は極端なんですね。放射能と原発っていうことなんです。それはなぜかというと、自分の原発に対する無関心、あと無知さに対する罪の意識っていうのがまず強いです。
 それで、市民と一緒に勉強するという意識が強かったです。3月下旬のことなんですけれども、全く安全キャンペーンで頭が洗脳されてしまって、市の広報マンが駄目なんですね。
 それで、我々取材してても放射能に対する恐れっていうのは市民の間ですごい切迫感があるし、その頃今の放射能っていうのはどのくらいで、それは有害なのか無害なのか全くわからない状態だったんですね。
 例えば何マイクロシーベルトっていう数値は判るけれども、それがどの程度のものなのかっていうのは全く判らない状態だったんですね。
 特にいわき市はそんなに高いかどうかも判らないっていうか、飯舘とか深刻な状況ではなかったので判らない。その中で安全だという話が出た。

 それで、各団体がそれに詳しい人たちを呼び始めたんです。それで、一番最初に来たのが崎山さん。その夜に安斎育郎さんの講演会があったんです。社民系と共産党系が呼んだんですけども。
 うちの新聞のモットーとしては、「思想信条にこだわらず、読者に有益なものは全て伝える」というのが信条なんですね。 
 「新聞の常識にとらわれない」っていうのは、例えば、朝日の主催行事は読売では絶対に扱わないとか、それが非常に読者にとって必要な情報な時には、全くこだわらないで扱うということを主題としてるので、二人の取材をしたんですね。
 それで、その時に崎山さんの講演会だったんですけども、質問タイムになって「これがいわきか?」と思うほどの質問が出たんですね。ほんっとに必死なんです。

 「これがいわきか?」っていうのは、講演会があってもみんなシャイなので、質問っていうのはほとんど出ないんです。やらせの質問、主催者の中でサクラが行って質問するっていうのがほとんどだったんです。ところが、崎山さんの講演が終わった時に、
「マスクは有効なのか?」
「洗濯物は本当に外に干せるのか?」
「放射能とはどういうものか」
というようなことを次から次へ、ほとんど女性だったですけど質問したんですね。
 それで、そこから始まったんです。放射能っていうのはどういうものかというものを我々も勉強しながら伝えて、読者も勉強するということ・・・ですね。

 日々の新聞を作りながら、自分も放射能について勉強して、とにかく一番最初の号だったと思うんですけれども、脱原発ネットワークの世話人をやってる佐藤かずよし議員に「今回の事故についてどう思いますか?」っていうインタビューをしたんですね。
 その時に、原発の構造などを言うんですけれども、まったく知識が無いんで何が何だかわからない状態。
 でもなんとか記事にしたんですけど、それでも間違ったところがあったりして怒られたりしたんですけど、そういうような状態だったですからね。

 ただ、4月5日だったと思うんですけど佐藤かずよし議員が、原子力資料情報室に呼ばれて東京で講演したことがあったんですね。
 その時にネットで行けなかったんで見たんですけど、その時の講演っていうのはやっぱり自分の中ではすごい入ったっていうか、まず最初に「原発でこういう事故を起こさせてしまったことに対する自分たちの活動の甘さ、責任」っていうのをまず詫びたんです。出席者に詫びたんです。
 それで、こういう状況になったしまったということです。それから、
「今福島は被曝後の世界になってるんです。」
ていうことを言ったんです。
「被爆前じゃなくて、もう被曝後の世界になってしまったんで、被爆前の世界には戻れないんです。それを実感して、放射能と向き合って生きていくしかないんです。」
ということを言ったんです。
 そこで初めて、『被曝』っていう二文字が全く遠い存在・・・「原爆でも落ちなければ被曝なんてありえない」と思っていたのが放射能が空気中に舞って飛散して、みんな放射能を受けたっていうことが『被曝』なんだな。
 それは要するに身近でも起こることなんだということ、これは大変なことが起こったんだということを実感として判ったということですね。

 いわき民報にいたときも、いわきをエリアとする新聞なんで、いわき以外のものは扱ってはならんという編集方針だったんですね。
 だから、全く範疇外だったので、そういう面では非常に原発に対して無知だったということを反省して、それでやっぱり佐藤かずよし議員の取材をして、東京でネットで語った話を聞いて、いわき市民、読者のことを考えた。
 それは自らのことも考えるということなんですね。

 それからは、普通の新聞で扱わない記事です。山下教授、安全キャンペーンじゃないものというのを積極的に市民に対して知らせていくということの繰り返しだったんですね。
 広瀬隆さんがきて、広河さんがきて、矢ケ崎さんがきて、菅谷さんがきたり、児玉さんがきたりという、いわゆるみんなが知りたい学者の話を包み隠さず報道していくということの繰り返し。
 それで勉強していくということだったんですね。

 小出さんが福島に来るといったら、やっぱり福島までではっていって、小出さんの話を聞いて。
 あとやっぱり、今までは地元の記者しか居なかったのが、さまざまな記者が集まって、要するに取材っていうのが非常に中央的になったというか、記事の材料が豊富になったということなんでしょうね。
 福島にいろんなタイプの記者が入ってくる、取材のために海外とかっていうことですね。あと、原稿を依頼されたり、日々の新聞を訪ねてくるカメラマンとか記者たちも増えたっていうのはあります。

 正直なところ、いわきの線量っていうのは15日と21日っていうのが極端に高いんですね。
 21日がなぜ高いかというのをよく判ってるっていうのは、雨が降ってたんですね。終日雨だったんです。その時に???から原稿頼まれて締め切りの日で3月21日家に籠って原稿うってたんですね。
 だから、それがすごい記憶にあるんで、後で21日が非常に線量が高いということが判って、1日雨降ってて犬の散歩も行かないで、うちに入ってたなっていうのがすごい記憶にあったんで、そのようなことが多かったですね。
 原稿頼まれたり被害者の身分でいろんなこと聞かれたりとかかなり多くなりました。

【地域メディアの役割】

 基本的に、なんで地域メディアにこだわるのかということなんですけれども、取材できる範囲っていうのは限られてる。逆説的にいうとですね。
 例えばホームドクターみたいにある患者を診る場合に、お父さん、お爺さんのことまで判ってるからその患者が判るっていうように、地域できちっと取材できる範囲っていうのは限られてる。
 しかも、地域で起こってることは必ず中央にもつながるという思いっていうのがあるんですね。だけれども、日々の新聞を始めてからはいわきにこだわるということは特にはしてないんですね。
 いわきと少しでもへその緒があったり、繋がってたり、あと、いわきの課題っていうのがほかの土地と共通性があって、そこの事例を取材することでいわきの問題解決の糸口が掴めるという場合には積極的に行くようにしてるんですね。

 例えば、福島県の南部にある矢祭町っていう町は、住基ネットにもつながない、合併もしない。それはなぜなのか。根本っていう非常にリーダーシップのある町長がいるからなのか、それともなんか矢祭にそういうような土地の中に素地があるのか、っていうのを考えて、毎年1年に1回くらい矢祭に行って根本町長とお話して、その根本町長が引退するっていうことになって、代わりの町長になったんですけど、そしたら全く矢祭は普通の町になってしまったんですね。
 そういうようなことっていうのもあるので、あくまで地域メディアっていうか日々の新聞のスタンスというのは、自分たちの取材できる範囲っていうのをより深く掘るっていうことというのがベースなんですけれども。

 だけれども、今度の原発問題で、やっぱり一番大きかったのは、放射能っていうのは人間が作った境っていうのを平気で越えるということだと思うんですね。
 それを聞いた後思うんです。この前もちょっと話したんですけれども、これは福島だけの問題ではないということをまず言いたいし、フクシマ、カタカナの『フクシマ』でくくってしまう報道の在り方っていうのは、僕は非常に違和感がある。っていうのと、やっぱり温度差ですね。
 いわきと福島をちょっと離れただけで、非常に温度差を感じるということに、すごい「これでいいんだろうか」というか、「放射能はそんなに甘いものじゃないんだよ」というような思いはありますね。

 まず津波に関していえば、取材しやすかったなと思うのは、同じ目に遭ってるっていうことだと思うんですね。笑ってしまうんですよ。不思議な感覚なんですけど、話をしていて思い出しながら、
「いやー、波に足をさらわれて、水の中に沈み込んで、車が上を通っていったんだ。そんな状況の中で助かったんだ。その時に、奥さんの位牌が流れ着いてきたんだ。それを握ったんだ。そうしてるうちに必死になって何かにしがみついて立って、波が引いて助かったんだ。これ、おっかあが俺を守ってくれたんだ」
って言うんですよ。それで二人で笑ってしまうんですけれども、その後泣いちゃうんです。

 そういう・・・なんていうんですかね、被災者であって記者っていうの、要するに自分の立場になれるということっていうのはすごい感じたというか、なんか笑っちゃうっていうこと。
 笑えるって・・・これ他の地区から来て取材してても、笑うとちょっと不謹慎っていうことになっちゃうと思うんですけど、なんか寄り添えるんでしょうね。それで笑っちゃうということが非常にあったなっていうのと。

 あと、木村真三さんっていう人がたまたまETV特集で時の人になったすぐなんですけど、今中さんの代わりにいわきに来たんですね。
 市民団体から依頼されて、市内をグルグル回って線量を測るということになって、2日間一緒に測ったんですけど、それをこと細かに記録して、各地域の線量っていうのを。
 あと『木村真三の動き』っていうのを取材して報道したっていうのは、結構市民には役に立ったんじゃないかなと思います。

 とにかくそのころは何が何だかわからない状態だったんですよ。どこの放射能が高いのか低いのかもわからないし、信じられないことなんですけど風評被害を打破するためにその辺の農家のおばちゃんたちが作った野菜を、駅前で物産展を開いて売ったりしてたんですからね。
 もう本当に3月くらいだと思うんですけど。
 とにかく『がんばろう』『安全だ』っていう、その雰囲気っていうのがすごい強かった中で、できるだえけそういう報道は止めようと。それは貫いてましたよね。

【原発報道 警鐘を鳴らす】

 基本的には、去年、おととしに福島県がプルサーマルを始めるときに、「なんで今?」っていうことを取材してたんですね。その前に広瀬隆さんが来て、プルサーマルの危険性っていうのを散々話していったんですよ。
 例えば、原発に興味が無くても長崎と広島がウラニウムとプルトニウムっていうのはわかるし、核に対する違和感っていうのはある。そうした中でこういう事故が起こって、一番は「心配し過ぎてあとで何もなかった」っていうことがいいんじゃないかって思ったんですね。
 当然安全キャンペーンに対する胡散臭さっていうのはすごい感じましたし、意図っていうのも感じましたし、取材してるうちに正直言って、あるスポンサーから医師会関係が非常に変だっていう想いっていうのが、取材すればするほど、嫌に医師会関係が突っかかってくるなっていう思いはあったんですね。

 日々の新聞がグイッと放射能関係とか原発関係の報道に舵を切った時に、それは一番は普通の新聞がそういう報道をしないというのが一番大きいんですけど、一般の読者とか市民がそういうことを知りたくても、ネットくらいしか無いということで、自分たちも知りたいということで報道を始めたんですけれども。

 ある時お医者さんから電話が掛かってきて、
「もっと明るく行こうよ。安竜さんの気持ちは判る。より詳しく知らせたいんだね。それで危険性も知らせたい。だけども、うちの子供、みんなマスクして外にも出られないような学校生活っていうのをどう思いますか?」
って来たんですよ。
 何回も経験してるんで、これは平行線なのは判るんで、
「いろんな考えあるけれども、日々の新聞としてはこのままの路線でいきます。不確かなことが多すぎる」
 ということを言ったんです。そのうちに、いわきの医師会と福島県と県の医師会が主催して、山下さんの講演会がいわきであったんです。

 我々としては、山下さんの話もきちっと聞いて、どういうことなのかっていうのを知らせたいと思ったんですね。偏っちゃいけないんで。それで行ったんです。
 医療従事者だけだっていうことだったんですけど、知らんぷりして座ったんです。そしたら、医師会長が来て、
「取材はちょっと出来ないんです」
という話になったんです。それで、
「公的な機関が主催したものをなんでメディアが取材できないんですか?随分閉ざされた組織ですね」
という話をしたんです。

 多分、山下さん、かなり中手君たちにやられてたんで、もう公のところでメディアが入ったり普通の人が入ってつるし上げられるのがすごい嫌で、県が多分庇ったっていうか、防御網を張ったんだと思うんですけども。
 それで、みんなお客さんいっぱい入ってるし医療従事者もいっぱい来てるんで、そこでもめるのも何なんですけども・・・。
「それはおかしいですよ?普通いわき市の医師会の研修会だって平気で取材してましたよ。それを載せるか載せないかは、こっち側の判断であって、オープンにするのが普通ですよ」
って話をして。
「県が駄目だって言ってるから」
 ここで揉めたんじゃ困るんで、
「じゃあ帰ります」
って帰ったんですけど、もう帰りの車でちょっとむかっ腹が立って、それをブログで何回か書いたんですけど。
 一応確かめようと思って、県の医師会と県に電話をしたんですね。でも、はっきりした返事はない。
 自分がかかってる病院にいっても、『いわきは安心して暮らしていけます』っていう学者のコピーが張ってある。
 ほとんどの医者と話しても、「100mSv、安全だ」ということで、そういうところですごい違和感感じましたね。
 大事にしてるものが違うっていうことですね。

 南相馬の桜井市長にインタビューしたときに言ってたんですけど、
「市民の生命財産を守るっていうのが首長の役割ですけども、生命を守ることを優先すると、私の判断になるんだ。財産を守ることのほうを優先しちゃうと風評被害の問題とか様々なこと。」
 要するに今の自分の立場っていうのを守ったり、既得権益を守ろうとするとそういうことになるんだろうなっていう思いは、すごい強く感じましたね。

 観光が駄目になるっていうんだけれども、一回ダメになって、そこからどうするのかっていうの、要するに今、放射能問題っていうのを解決しなければ何も始まらないんじゃないかっていう思いは強かったですね。
 なんでいわき市っていうのはそうできないのかという思いっていうのが常にありましたね。

【人々の意識と葛藤】

 さっき『温度差』っていいましたけど、脱原発会議を二日間取材したり自分でも話したりして、やっぱり感じたっていうのは、放射能まみれだって言われてる人たちの切迫感であり、常に放射能を意識してるっていう生活感なんですね。
 それ以外の人たちと徹底的な差になって立ち上がってくるっていうことなんですけれども、福島に限っていえば、要するにいわきに限っていえば、基本的に放射能に対する恐れっていうのは変わってはいないと思うんです。
 ただ、「わずらわしい」とか「面倒くさい」っていう想いっていうのはあると思うんですね。
 そこでどう折り合いを付けていくかっていうことだと思うんですけども、その結果二極化するっていうことだと思うんですが、ベースにある放射能を常に意識してるっていうか、喉元にとげが刺さったような感じっていうのは無くならないと思うんですね。
 それを持ちながらも考えないようにしようとしてるっていうのが実態だと思うんですね。

 市内の書店に日々の新聞を置いてもらってるんですけども、せいぜい3.11以前っていうのは、5部おいて2部、ちょっと市民が興味があるものっていうのは5部売れるっていうくらいだったんです。
 それが3.11以降は、とても5部では足りなくなって、10部にする、20部にするというような感じになったんですね。
 それでも足りない時はまた補充するというような売れ方をしたんですが、放射能に関する記述が多い新聞っていうのは、売れ方が減らないですね。
 未だに結構続いてるという状態なんで、放射能関連に対する情報っていうのに信頼を持たれてるということプラス、更にどういう状況で今どんなことが起こっていて、何が問題なのかっていうことをつねに知りたいっていう思いって言うのが強いんだと思うんですね。

 だから、よく表だって放射能の心配が出来ないという人がいたりして、そういう人が日々の新聞に訪ねてきて泣いてしまったりして、
「こうやって清々と話しできることっていうのはないんだ」
というような話をしたりするんですけれども、潜在的にそういう想いを持ってる人っていうのがかなりいるっていうか、ほとんど・・・なんじゃないかなと思いますね。
 いろんなリスクっていうのがありますからね。ここで暮らしていく上ではっていうのは。だけれども出ていけないということなんでしょうね。

 毎日犬を散歩に連れていくんですよ。そうすると読者の人で議論を吹っかけてくる人がいるんですよ。
「また放射能だったな」って結構年配の人なんですけど。
「おれ、放射能のこと読みたくて日々の新聞とってるわけじゃないんだ」
って言われるんですよ。それで、
「逃げた方がいいのか?それなら逃げろって書け」
って言われるんですよ。その時に言うのは、
「判断するのは読者ひとりひとりなんです。どう判断するかっていう情報っていうのを流してるだけなんだ」
という話をするんですよね。それで、もちろんその人たちがネットを見れるかというとネットは見れないんですよ。
 そうするとそういう近所のおじさんおばさんたちネットを見れない人たちが、どうやって例えばテレビが言ってることを正しいと思ってるんですよ。
 自分がとってる新聞が書いてることが正しいって思ってるんですね。それで
「毎日新聞ではこう書いてあったぞ。おめえが書いてることとは全く正反対のことなんだ」
っていうのを言われるんですよね。
 いや、それはそれなりの事情があって様々なことがあるんだけど、ここで話するともうかなりの時間になっちゃうし、ちょっと判りあえるとも思わないので、
「とりあえず日々の新聞が流す情報は間違ってない」
っていうことを認識してもらって、あとは普通に自分でとってる新聞と日々の新聞を読んで判断してほしいということを言うんですね。
 それで、私なんかもネットでずーっと情報を調べたりするんですけど、今原発に対して心配してる人たちっていうのは、ほとんどがネット情報で、本当にこれでもかっていうくらい知ってますよね。
 海外の情報まできちっと探ってやってる。だから、そういう中で日々の新聞を出してる意味っていうのは、数は少ないかもしれないけれども、そういうネットを使えない人とか活字じゃないとダメだっていう人に対して、少しでも「ひょっとして今とってる新聞が言ってることっていうのは、全て正しいんじゃないんじゃない?」って信じないとは思うんですけど・・・っていうことを少しでも気づかせるっていうための紙媒体っていうか、そんな面もあるのかなと思いますね。

 3.11以降舵を切ったんですけれども、そのきっかけっていうのは、日々の新聞を発行していく中で様々なことがあったんですね。
 読者に、例えば読者っていろんなタイプの人が居て、社会部ネタを異常に求める人と、文化的なネタを好む人とか。
 文化的なものを報道するととっても喜ぶ。あと「今回は読むところが無かったね」っていう人もいる。そうしたら編集室で話し合ったのは、
『自分たちが伝えたいと思ったことをブレずに伝えよう。読者からはいろんな声があるかもしれないけど、ブレずに伝えよう』
っていうことだったんですね。その延長線上で、3月11日以降っていうのは、原発問題とか放射能の問題を絶対避けては通れないというか、例えばそれが一色になってしまっても、これを解決しないといわき市民の生活っていうのは有り得ないんだっていう想いっていうのを深めたっていうことではあるんですね。

 だから、そういう中での報道だったんですけれども・・・。多分、日々の新聞って捨てないんですね。読者がみんな取っておくんですよ。1号からとってる人たちも
「たまたま誰かにあげちゃったので、欠番ができちゃったから残ってる新聞くれませんか?」
って言われることが多いんですね。
 それで野球なんかもそうなんですけど、野球のゲームを見たあとに、新聞でそのゲームをどういうふうな見方をしたかっていうことを期になったりする。
 だから、活字媒体って確認作業っていうか、そういう役割っていうのがあって、形としてあるものっていうことで活字として確認していくという作業というのがあるんじゃないかなと思うんですね。
 だから、確認して残しておくっていう存在になれたんじゃないかなと思うんです。

 日々の新聞始めた時に、新聞を立ち上げるっていうことというのがほとんど不可能だと思われてたんですね。
 その中で、京都経済新聞っていうのを立ち上げた築地さんという人が居て、日経に勤めてて、自分で京都エリアの経済の新聞を日刊で立ち上げたんですよ。輪転機も買って。
 その人にどうしても会いたいと思って、コンタクトをとったんですね。そしたら「山の上ホテルで会いましょう」となって、山之上ホテルであって、レストランでご飯食べたんですけど、その時の別れ際に、
「安竜さん、いつか地域紙の全国の集まりっていうのを、志を同じくした人たちの集まりっていうのをやりたいですね」
っていう話をして別れたんですよね。

 ところが築地さんの新聞は日刊から週間に変わり、結局廃刊してしまったんですね。それがすごい残念だったんですけれども・・・。

 群れるのは嫌いだけれども、何かジャーナリズムとして志が共有できる人たちのネットワークっていうのは、欲しいような気はしますね。

 いろんな人と知り合って、日々の新聞にとって一番重要なのは、毎号毎号積みかさねるということなんですね。
 それで、最初は週刊でいきたいと思ったんですけれども、週刊ではなかなか今のスタッフでは大変で、これ部数が伸びて会社の経営っていうのがうまく回り始めて、もう8年何ですけれども、最低でも二人記者がプラスされれば、二人が組んで二週間動いて週刊として出せるっていうシステムはできると思うんですけど、それができてないっていうことがやっぱり一番大きいですかね。
 だから、まだ足元が固まってないっていうのがあるんですけど、でも、何か日々の新聞を出した時に社会の一ページをめくりたいっていう思いがあったんですよ。
 それはどういうことかというと、社会の中心に居る人たちっていうのは、果たして真っ当な考えをきちっともって社会を動かしていけるのかな?と。なんか社会そのものに諦めてしまって声を出さない人たちっていうのがこのベールの下にたくさんいて、その人たちがガッと外に向かって何かを訴えるような社会にならないと、このページはめくれないと思ったんです。
 それで、その少しでも何か明かりになれればと思って、そんなような思いがあったんですね。 

 だから、今回の震災で果たしてそれが維新的になるんじゃないかなと思ったんですけど、なかなかそうはいかないというのがちょっと残念ではあるんですけれども、でもやることは変わりないです。
 少しでも同じような志のものとか、要するに声を発する人たちが増えて、今の状況っていうのを変えていってもらえればという思いはありますね。

 人の心にずかずかと入っていく以上は、自分もさらけ出さないといけないというのがあって、ひとつ言えるのは、なんかね、泣き虫になっちゃったんですよ。
 3月11日以降からなんですけど、自分の生い立ちとか興味っていう話もしたんですけれども、実は新聞記者になったあとに川本三郎さんの『マイバックページ』というのを読みまして、遂に川本三郎もあそこまで自分を晒したかと思ったんですね。
 それで、実は去年、『マイバックページ』が映画化されたのを機に1960年代後半から70年代のあの時代っていうのを取材して、川本さんにも話を聞いて、それであの時代の全共闘時代のこととか、場合によっては菊井良治も探し出して、インタビューしたいなっていう思いがあったんですね。
 ところが3.11ですべてが崩れてしまって、取材もできないような状態になって。

 でもどうしても『マイバックページ』は映画で見たいなと思ったんですよ。
 それで、いわきではやらないというので、ひたちなかまで行って映画を見たんですね。原作に思い入れが強いんで映画はあんまり期待していかなかったんですけれども、ラストシーンで妻夫木が泣く場面があるんですね。川本さんも書いてたし言ってたりもしたんですけど、なんか震災で心配して、実は川本三郎さんに創刊号で原稿をお願いしてそれ以来手紙のやり取りとか電話のやり取りとかしてて知ってるんですけども、なんか突然涙が襲ってくるというようなことを書いてたのはみたんですけど、ほんっとになんか、信じられないくらい泣いちゃって、泣いたっていってもダーッと涙がこぼれてきただけなんですけど、
「あぁ、これは様々な3月11日からの想いっていうのが溜まってて、それが川本三郎さんのあの事件に巻き込まれた朝日新聞をやめざるをえなくなって、その後の生活っていう苦しい想いと共鳴したんだろうな」
っていうことがありましたね。
 それで、被災者に寄り添うとか自分の心に寄り添うっていうのはこういうことなんだなということは感じました。

 だから、何回も『温度差』っていう言葉を言うんですけども、結局福島の人たちっていうのは、もう『覚悟』と『決断』なんだと思うんですよ。

 テレビでは「故郷に戻りたい」っていうんですけど、取材でそりゃ望郷の念はあるけれども、早く決めてほしいっていうのが実際の気持ちですね。

 さきほど取材して・・・っていう話あったんですけど、浪江町で大堀相馬焼を焼いてた人がいわきに移り住んで、家を借りて今も大堀相馬焼を焼いてるんですけども、その人を取材した時に、
「良い環境の中で暮らせてて、今も焼き物をやってるけども、所詮借り物なんだ」
っていう話をしてました。
「ここは借りてる場所。借り暮らしなんだ。だから、それは浪江には帰りたいよ。自分が生まれ育ったんだから。だけど実際的に、現実的に帰るのは無理でしょう?だからとりあえず帰れないってことを決めてもらって、新しい人生に向かって区切りをつけたい」

 それは要するに『覚悟』と『決断』なんですね。それが行政っていうのができてないっていうのが、やっぱり大きい、生殺しにしてるんじゃないかって思いは強いですね。

 それを普通のメディアのようにきれいごとじゃなくて、本音っていうものを伝えていきたいという思いはあります。
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