百人百話:中田麻意さん
2012-04-10
百人百話:中田麻意さん 書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から
Q.自己紹介をお願いします。
福島県須賀川市在住、中田麻意、29歳。
3月11日が誕生日です。
子供は9歳で小学3年生。シングルマザーです。男の子です。
来年の3月を目標に、福島県から出て秋田県の仙北市田沢湖というところに、もう住居も決まってまして、それにむけてボランティア活動とかいろいろ頑張ってます。
須賀川市生まれ、須賀川在住です。
私が住んでいる福島県須賀川市は、中通りにありまして郡山の隣。郡山へはうちからだと車で5分くらいの距離にあります。須賀川で一番有名なのが、ウルトラマン。ウルトラマンの円谷さんの生まれ故郷、円谷英二。マラソン選手とか、あとは牡丹園があったり、あとは松明あかし、あと釈迦堂川の花火大会などがあって、けっこう観光名所でもあります。
開けてるところは開けてるんですけど、合併を数年前にして、開けてるとこと田舎の地区が両極端に真っ二つに分かれてるような市です。
結婚したのが、18歳のときで、19歳の時子供を産んで、21歳のときにいろいろあって離婚して、離婚して8年目になります。
家は両親とも働いていて、普通のサラリーマン。二人姉妹です。妹が一人、3歳離れている妹がいて、妹の子供が二人いて、上の子が3歳で下の子が今月1歳になります。
高校に行かなかったのは、ただ学校で勉強するより社会に出て勉強したほうがいいなって自分で勝手に思って、高校行かないでいろんなことをしてました。
放浪の旅・・・<笑>してました。
いろんな県に行って、いろんな人と会っていろんな仕事をしてました。
10年前の私が感じていた住みづらさは、うーん・・・大人が叱ってくれない。ちゃんと向き合ってくれない。愛情の無さ・・・ですかね。
私は、今の大人たちが自分たちで精一杯で、心にゆとりが無いので、子供たちにかける愛情、昔の愛情は、近所のおじさんとかが悪いことをすれば当たり前のように怒ってくれるのが愛情だって私は思うんですけど、今その怒り方もなんかちょっと違うんじゃないかなっていうのが、すごい私の中であります。
私がカウンセリングの資格を取ろうって思ったのが、子供たちとお母さんたちの話をただただ頷いてたくさんの人たちに会って聞いてあげたいなって思ったのがきっかけと、比較的知り合いとかもちょっと多い方なので、いろんな人たちの話を聞いたりしていると、孤独感っていうか「聞いてくれる人が居ないんだな」っていう人がすごく多くて、このままではちょっといけないなと思って、自分に何かできることをって言ったら、私もいろいろ経験は今までしてきたので、痛みとかそういうところをちょっと判ってあげられるかなって思ったのが一番のきっかけで、それでカウンセリングの資格を取りました。
2年前なので、27歳の時です。
別れた後は養育費ももらってないし、父子手当のほうも今もらってません。なので、私一人の収入になっちゃうので、本当に厳しいんですけど、離婚して8年で本当にたくさんの人に助けてもらって、今もなんですけど。離婚してやっていた職種は、さっき言ったトステムとかの工場とか介護職、中古車販売の・・・これは震災後今年です。仮設の人とか旅館とかに泊まってる人たちが津波で車が流されちゃったので、それで4月5月6月くらいまでは本当に忙しかったんですね。それで知り合いが車屋さんをやってたので、「ちょっと手伝ってくれないか」って言われて3か月間、中古車販売の手伝いとか、あとは選挙のウグイス嬢とか、本当にみんながあまり経験しないような職種をいろいろやってきました。
Q.3.11震災当日
3月11日の震災の日は私の誕生日だったので、須賀川市のカラオケ店で友達たちにお祝いをしてもらってる最中で、それでプレゼントをもらって「ありがとう」とすごい感動していたときに、
「あれ?なんかおかしいぞ?ちょっと揺れ方がおかしい」
と思って、友達に
「ちょっと地震がおかしいから外に出よう」
って言って、それで外に出たらあの震災。大地震が来て、カラオケ店の外で震災を経験しました。
もう建物の揺れ方とか、全てが
「これは尋常じゃない」
と思って、その日はちょうど須賀川市の高校生たちの卒業式だったんですね。卒業生、高校生たちもカラオケ店に結構来ていて、高校生たちは外で泣いてて、私の友達もすごい怯えてて、地震が収まりました。まず始めに思ったのは、
「あ、子供を迎えにいかなくちゃ」
と思って、私と一緒にいた友達も子供がいて、その友達もみんなシングルマザーで子供が居たので、
「これは早く子供を迎えにいかなくちゃ」
ってなって、すぐまっすぐに小学校の方に迎えに行きました。
それで、小学校に着く前に小学校の横の家の瓦も落ちてるし、ブロック塀もすごい倒れて道路に散乱してるのをみて、
「あ、これは酷い。」
ってまた我に返ったじゃないですけど、
「これは尋常じゃない」
と思って急いで学校に向かって、校庭に走っていったら、ちょうど子供たちが校舎から校庭に走って避難する時で、私も一緒に子供たちと走って、校庭の中央に避難して・・・そしたら、なんか変な雪、雪が降ってきたんですね。空も一気に暗くなってきて、雪もふぶいてるし
「何なんだろう。あぁもうこれ、日本終わっちゃうのかな・・・」
ってすごい思って。
しばらく校庭で先生たちの指示を待ってたんですけど、校長先生がスピーカーで
「体育館の方にみんなで避難しましょう」
と。私はそれを聞いて、
「なんで体育館に避難するんだろう?」
ってすごい思ったんですよ。校庭の方が安全じゃないのかってすごい頭に来て、でも一緒に体育館の方に避難したんですけど、やっぱり思ってたとおり、あの地震の後にも大きな余震がいっぱいあって、体育館の上のバスケットゴールがいつ落っこちてきてもおかしくないんじゃないかっていう状況だし、体育館の上の電球なんて、本当に大きいのがグラグラ揺れてて、子供たちの頭の上にいつ落ちてくるんだろうっていうのがすごい心配で、
「あ、これは体育館に居たら死んじゃう」
ってすごい思って、でも知り合いの子供たちだけでも、あの時2時46分震災で、私が校庭に着いたのが多分10分後くらい。3時くらいなので、普通の仕事をしているお母さんたちとかお父さんたちは、すぐに来られる状況じゃなかったと思うし、父兄の人たちもすごい少なかったんですね。3時くらいは。迎えに来てるお母さん、お父さんは少なかったので、
「これは体育館に残すより、知り合いの子供達だけでも自分ちに連れて帰ったほうがいいのかな」
っていう考えもあったんですけど、その時なんせ携帯も通じなかったので、変に子供達連れて帰っちゃったら、余計お父さんたち、お母さんたちも混乱しちゃうかなと思って、すごい後ろ髪引かれる思いで、すごい子供たちは泣いてたんですけど、自分の子供を連れていくことしかできなくて、子供だけ連れて、とりあえず自宅に帰って、やっぱ福島県須賀川市は震災で1番ダメージが大きかった市らしいんですね。数か月後にわかったんですけど。
それで、家の自宅はかわら屋根が落ちてるくらいで、本当に軽傷っていうか、そんな大きな被害もなかったので、家に帰って、それで大きな余震が続いてたので、家にいるのもちょっと怖くて、とりあえず外の自分の車の中に居ようと思って、広い道路のところに出て、子供と二人で車の中で数時間過ごしてました。
その後は、まずうちの母親が職場から帰ってきて、お母さんがお父さんと連絡は取れないことをすごい混乱していて、それで会社のほうも・・・火事が出たとかそういう大きな話も周りが騒いでなかったから、お父さんは絶対大丈夫だと思って、
でもまず地震の心配の後に思ったのが、やっぱり原発で、正直、福島に29年も住んでいて、原発があんなに福島の中にあったのは判ってはいたんですけど、原発自体がどういう仕組みなのかもわからないし、地震でもしも原発が何かあったらどうなるかっていうのもわからなかったし、チェルノブイリの話とか、今、野呂さん、一生懸命頑張ってくれている野呂さんの存在とかも、全部何も判らない状態だったので、
まず始めにしなくちゃいけないことは、うちの近所にコンビニがあるんですけど、コンビニで水だけでも買っておかなくちゃと思って、それで子供と一緒にコンビニに行って、水を少し買いだめして、あといつ停電になるかもわからないと思ったので、インスタント類を買いだめして、おにぎりとかも買いだめして、それで自宅の方に戻って、数時間後うちの父親も無事戻ってきて。
その日は、うちから2㎞くらい離れたところに妹夫婦が住んでいるんですけど、妹夫婦と姪っ子と甥っ子も実家の方に避難してきて、その日は実家で朝を迎えました。
地震が起きて、本当に何の知識も無かったんですけど、自分でもなんで原発ってなったのかも私も判らないんですけど、未だに。でも、これは原発だって直感的に思う部分があって、その日は誕生日だったので、すごいムシャクシャしてて
「なんで誕生日にこんなことが起こっちゃんだ?」
って思ってて。その日はむしゃくしゃしながら寝て、原発は心配だけど、明日調べようと思ってその日は寝ました。
12日の朝・・・余震も酷かったので、数日間は本当に寝れない日が多くて、寝れるときに寝ておこうみたいな感じで、次の日12日の朝を迎えて、まず調べたのがチェルノブイリと福島第一原発はどういう状況になってるのかっていうのを調べて、うちも停電にもならずにネット回線も大丈夫だったので、アメーバピグでいろんな知り合いとかから情報を得ていたら、
「あ、これは原発が爆発するんだ」
っていう情報を仕入れて、
「あ、これは本当にヤバい状況だ」
って思ったんですね。
でも、うちの親に原発のことを話しても、
「バカなことを言ってるな!」
と罵られ。これはうちの親もネットをしてないから、私が言っても、テレビも原発でそんな大変なことを流してないし、判るわけがないと思って、その時は親を説得するのを諦めました。
まず、その次にしたのが、ミクシィで県外とかに本当に仲がいい友達が一杯いたので、皆に
『とりあえず原発が爆発するかもしれないので、玄関先でもいいから泊めてください』
っていう日記を書いたんですね。
Q.どこに向かって?どの辺の人に?
私と子供のことを玄関先でもいいので泊めてください。全国に日記で、お願いの日記を書いたら、60人くらいの人が
「うちに来なよ」
って言ってくれて、でも、その時は北海道の札幌に住んでる友達は、
「飛行機とかも全部とってあげる。札幌空港まで迎えに行くから、今すぐおいで」
って言ってくれる友達とか、
「何か月でもいいから家に泊まってなよ」
っていう友達とか、本当にいろんな人が一生懸命私の子供のことを考えて動いてくれてて。それで北海道に行く勇気がその時はまだ無かったんですね。あまりにもちょっと遠いなっていう感覚があって、原発は爆発するかもしれないけど、とりあえず東京くらいまでなら大丈夫じゃないかなって思って、東京の知り合いが
「じゃあうちに来なよ」
って、今は静岡県に住んでるんですけど。
Q.男性?女性?
男性です。
昔から知ってる子で、その子が「うちに今すぐ来な」ってことを言ってくれて、それで行く決心はすごい固まってはいたんですよ。
それで14日の夜に家を出ようって考えてて、14日の夜にうちの母親に
「明日東京に行くから」
っていうことを言ったら、うちの母親がすごい切れだしちゃって、
「何を言ってるんだ!?」
っていうふうになっちゃって、うちのお父さんが2階で寝てた寝室に行って、
「麻意がすごいバカなこと言ってる。お父さん止めて」
って言って、私はそれどころじゃないんで、部屋に戻ってまたパソコンで原発の状況を調べてたんですよ。
そしたらうちの父親も切れだして、うちの母親と父親が私の部屋に来て、父親がパソコンの回線を全部引っこ抜いて・・・。パソコンを投げて、
「こんなのやってるからお前の頭がおかしくなるんだ」
みたいなこと言われて、それで、もう何を言ってもダメだって私もそれを言われて頭に来ちゃったんで、
「あんたらの頭がおかしい!」
って言っちゃったんですけど、それを言ったらもううちの母親は、
「あんたには失望した」
みたいなこと言われて、
「親を捨てる気でいるんだ」
みたいなこと言われて、
「いや、それは違う。捨てるんじゃなくて、あなたたちの孫を助けるのに、東京に行くんだ」
って言っても判ってくれなくて、パソコンの配線を全て引っこ抜かれたときは、
「もう何してくれてんの!?」
と思って頭に来て、すごい言い合いになったんですけど、私があまりにもすごいことを言ってたので、親に対して。うちのお父さんも言葉では勝てないと思ったらしくて、思いっきり殴られて。
でも殴られても全然痛くなくて、頭に来すぎちゃってて。
でも、泣くより怒るよりも、悲しくて仕方がなくて。
両親と一悶着あって、心が折れたままでテレビをつけて爆発の映像を見た時は、本当に・・・もう、気絶するんじゃないかっていうくらいショックで」、
「あぁ、やっぱり行っといたほうが良かった」
ってすごい後悔しました。
でも、もう起こってしまったことは起こってしまったことなので、これは福島に居る以上、完全に引きこもって子供を守らなくちゃって思って。
でもその爆発の映像を見て、気持ちが良い方に切り替わりました。なんだろう・・・生きてかなくちゃじゃないけど、絶対死なない!子供は絶対守るっていう良い方向に気持ちが切り替わりました。
お父さんとお母さんの判断基準は、やっぱりテレビ。
でも、その頃、3月の頃は、テレビで言ってることも信じられないって感じだったんだと思うんです。
「こんなことが福島県内で起こってるはずがない」
みたいな、そんな感覚だったんじゃないかな。じゃないと、あんなに私には言えなかったと思うし、うちのお母さんはもう板挟み状態です。
私がすごい怖いことを言うので、
「もう聞きたくない」
みたいな感じと、お父さんが
「マスクは意味ねぇ。自然界にはこんなに放射線が舞ってるんだ」
とか散々聞き飽きたこと言ってたんで、それをうちのお母さんは板挟みで、どっちを信じていいのかわかんない状態。お父さんもすごくお母さんのことを説得してたので、「安全だ、安全だ」って言って。
本当にパソコンを壊されたときに、9か月経ってるので、テレビに対する怒りっていうのは、本当に蓄積されてきてて、毎日福島県にいると、朝起きてまず新聞を見ると、新聞も嘘ばっかりの報道が並べられてるし、テレビをつけると知りたい情報があんまりやってなくて、どうでもいい情報ばっかりで。
あと、外に出てもそうだし、全てが真実と違った報道っていうか、してるので、テレビに対する怒りはすごい溜まってます。
一番今頼りになってるのが、最初はアメブロっていうところのアメーバピグで、いろんな人にあっていろんな話を聞いてたんですけど、結局そこではちゃんとした情報っていうのが・・・あったんですけど、そこではなんか多くは得られないなと思って、それで数か月前くらいにツイッターを本格的にやりだして、今ツイッターやってるおかげですごい助かってます。いろんな情報ももらえるし。
IWJは知り合いに教えてもらってそれで知りました。それが・・・うーん、8月とかです。
「すごい、こんな情報を流してくれるところがあるんだ」
ってすごい驚いたし、ありがたいなって思いました。
岩上さんの活動を知って、それで知り合いのほうからチェルノブイリハートの試写会があるっていう情報を貰って、これは絶対いかなくちゃと思って、郡山市に行きました。
参加してみて、うーん。・・・衝撃は受けませんでした。いろいろ調べてたので、
「あ、やっぱりこうなるんだ」
っていうのが一番の感想でした。
でも、その後に岩上さんと福島から集まってきた危機感が強い人たちの話し合いの場で、私が住んでる須賀川市に居ると、須賀川市が線量自体が低いので、郡山市とか福島市と比べちゃうと。なので、私みたく騒ぐ人が居ないんですね、あんまり。なので、あの話し合いの場で発言させてもらったりして、
「あ、こんなに居るんだ」
ってすごい安心しました。
3月11日の震災後からは、知り合っていく知り合いの・・・なんていうんだろう・・・質っていうか、ガラッと変わりました。なんだろう。『戦友』じゃないけど、一緒に子供たちを守る活動をして戦ってくれている人たちとのつながりがすごい増えました。友達とか知り合いとかっていう名前じゃなくて、本当に『戦友』です。
私の今してることとかの、一番、一番・・・胸に引っ掛かって動けないようにしてるのが、家の父親の存在です。
それを理解して、自分の孫だけでも一生懸命守ってくれようっていう動きになれば、胸のつかえも取れて、もっといっぱい動けるんですけど、今それがまだそこまでいってないので難しい状態。
やっぱ一番ひどいのが、パソコンの線を引っこ抜かれたやつなんですけど、あとは・・・あ!食べ物です。食べ物で私の部屋が道路沿いなんですよ。それで、何月くらいだろう・・・?9月くらいに、家の隣に畑があって、そこでいろんな野菜とかを作ってる近所の人がいるんですよ。その人が道路沿いでうちの父親としゃべってる声が聞こえてきたんですね。それで野菜を作ってる農家さんは、
「うちの娘たちが、俺が作った野菜を使ってくれないんだ」
っていう話をしてたんですよ。一生懸命、その農家さんは自分の娘と孫の行動を理解しようと思って、うちのお父さんに話してるんですけど、うちのお父さんは、
「そんなん気にしてたら、食べるもん無ぐなっちまう。娘さんの頭、おかしいんじゃねぇのか」
みたいなことを言っていて、それが聞こえたんで、私は農家さんが一生懸命娘さんと孫さんを守ろうと理解してくれてるのに、うちの父親はなんてこと言ってんだ!と思って、頭に来ちゃって、外に出てまた喧嘩が言い合いが始まって。
「あんたの頭のほうがおかしいんだから、人んちのことに首突っ込まないで!」
って言ったんですよ。そしたらうちの父親も怒っちゃって、
「頭のおかしいお前に言われたくない!」
ってなって、もうお互いに頭がオカシイ者同士みたいな喧嘩になっちゃって、そしたらその農家さんもびっくりしちゃって、
「止めてください」
みたいな感じになって、でも私はその近所のおじさんに謝ることしかできなくて、うちの父親は、数か月間内部被曝をいかにさせないようにするかっていうのを私は皆に広めたくてやってたのに、それを阻止してきたんですね<苦笑>
「マスクはダメだ。
食べ物なんて気にしなくてバクバク食っていい。
福島の野菜とかコメとかも大丈夫だ。
牛乳も大丈夫だ」
未だにうちの冷蔵庫には、福島県内の有名な牛乳が何本もあるんですけど、うちの子供が牛乳で育ったような子で、牛乳大好きで。でも、小学校の給食は、早めに牛乳は止めさせたんです。須賀川市も二本松の牛乳を未だに使ってるので。
それでもうちの父親は、
「なんで牛乳飲まないんだ?」
ってうちの子供に進めてるので、毎日内戦じゃないけど、それどこじゃないのに何で家の中でこんな無駄な戦いが起こってるんだ?って思って。
最近は「あ、また言ってる」って感じで喧嘩にもならなくなってきてるんですけど、可哀そうっていう人もいるんですけど、私はそれ可哀そうだと思わなくて、子供がちゃんと、2歳とか3歳とか4歳くらいの子に一生懸命教えるのは違うと思うんですけど、9歳くらいになればある程度話せば理解してくれるので、全部教えてて、だからうちの子供も、うちの父親に逆に教えてあげてます。今は<笑>
まず最初に徹底してたのが、外に出るとき以外は必ずマスク。うちの父親が連れ出したりしてたときは、マスクしてないんで、その時はもうやっぱ子供のことを怒っちゃってたこともあって、マスクさせないで外でマラソンとかやらせてた時もあったし、うちの父親が。
「もうふざけんなよ」
と思って。・・・そんなんばっかりだったんで、マスクかけさせるのも徹底して、あとは牛乳は絶対飲まない。あと水たまりには入らない。風が強い日は外にはあまり出ないとか、最低限難しいことじゃなくて、出来る範囲のことをしょっちゅう言ってたら、最近は自分から、私がマスク忘れて外に出ようとすると、
「ママ、マスク忘れてるよ」
とか、反対に教えてくれたりするようになってきたんで。
ちょっと今、クラスで担任がわけわかんないことをしてる担任がいて、私も震災後教育委員会に電話したりして、担任とも何回かやりあってるんですけど、うちの子供が一人でクラスで戦ってたみたいな部分があって、
「今日は誰々君が理科の時間で、外に出て葉っぱ触ってて可哀そう」
とか、
「二本松の牛乳なのに、休んだ子の牛乳を貰って何本も飲んでる子がいるから、可哀そうで見てらんない」
とか、そういうのがすごいあって。
それで、もう子供一人で9か月経ってもクラスの中の子供たちの考えも、やっぱり親次第なんで変わらないし、子供だけに押し付けてるのがちょっと悪いなっていうか、申し訳ないって思えてきちゃって、昨日からうちの子供を早めに冬休みに入らせてもらっています。学校なんて行かなくてもいいと思って。
給食のことについても、学校に電話しました。それで、教頭先生が出て、郡山市の方の給食だと、知り合いのママさんとかに聞くと、産地もちゃんと書いてるらしいんですね。ちゃんと徹底してる学校は。それで、福島市に親友がいるんですけど、福島市の飯坂のほうの小学校だと毎日プリントで『どこどこの野菜を食べさせました』っていう報告のプリントが回ってくるらしいんですよ。
でも、須賀川はそういうのが全然全く未だに無くて。教頭先生の方に電話をかけて、
「どこの産地を使ってるのか聞きたい」
と言ったら、うーん、
「業者に大量に頼んでるので、産地をどこっていうことができません」
っていう訳のわからない回答を貰ったんですよ。それで、
「学校側が判らないんだったら、業者の電話番号教えてください」
っていうふうに言ったら、急に焦りだして、
「どういったご用件ですか?」
っていうふうになって、
「どういったご用件って説明しなくちゃわからないんですか?」
って聞いても、
「いや、判りません」
って言って、
「暫定基準値とかそういうのは知ってますか?」
って聞いたら、
「いや、判りません」
って言うんですね。教頭先生が。それにもびっくりしちゃって、
「あ、じゃあそんなことも判らない教頭先生だったら、うちはもう給食は止めてお弁当にします」
ってうちの子供クラスで一人だけなんですけど、お弁当にして牛乳も飲ませないで、学校にもそういう掛け合いはしたんですけど、教頭先生もそんな感じだし。
私、この前個人面談してきたんですよ。息子の。担任のほうに給食のことについてちょっと聞いたんですね。そしたら、担任が、
「いろんな意見がありすぎて、まとめられないです。私たちは公務員なのでできません」
っていうことを言うんですよ。『公務員だからできない』ってそんなこと先生が言っていいのかなって、それでもまた頭に来て、それでその一件も1か月前くらいかな、2週間くらい前に個別面談で、またその担任の訳の分からない言葉をいっぱい聞かされて、
「あーもうこれは、義務教育だけど、福島県の学校なんて行かせる必要ないな」
ってその時強く思って。
それで昨日かな、おととい・・・うちの子供が急に泣き出したんですよ。
「もうクラスで一生懸命みんなに危険だって言ってるのに、誰も聞いてくれない。でもみんなが死んじゃうのも見たくない」
って言って泣き出しちゃって、
「あぁ、もうこれは学校に行かせられない」
と思って。
なので、来年の3月くらいには秋田県に移住を考えてるんですけど、もしかしたらっていうか、もう3月まで家で私が勉強を教えて、学校になんて行かせなくてもいいかなって。家より学校の方が線量も高いんですね。なので、家より線量が高い学校に行かせるのもおかしなことだとすごい思うし、守ってくれる教育現場なのに、なんか子供たちにちゃんと今教えていかなくちゃいけない命の授業だったり、放射線の問題だったり、そういうのをあやふやにして、保護者の顔色とか上の教育委員会から圧かけられるのが怖いとか、そういうのばっかり気にしちゃってて、本来しなくちゃいけないことをしていない学校に、子供を預ける必要ないなって、今思ってきたんで、もう来年から行かせないかもしれないです。福島の学校には。
来年の3月に秋田に行くっていうのは、結局やっぱり、さっきまでしゃべった父親ですけど、やっぱり父親なんで、私の。やっぱりちょっと心配なんですよね。7月28日から2週間、福島の子供たちを連れてスタッフとして疎開したんですよ。北海道の余市高校の合宿所に1週間居て、それでその後に美瑛町の大雪(たいせつ)っていうところに1週間いたんですけど、私としては北海道に移住を決めてたんですよ。夏くらいには。スタッフとして北海道に行って、自分の眼で見てどこに住もうか決めてこようと思ってたんですけど、帰ってきてもうちの父親も母親もそんな感じだし、うちの妹も全然危機感がなくて、うちの妹の旦那はもっと危機感が無くて、
「子供たちを外で遊ばせないほうがかわいそうだ」
って言われたんですね。
「外でのびのび公園とかで遊ばせた方が俺は子供たちにとっていいと思う」
と言われて、それも説明したんですけど、
「公園とか線量が高いよ」
とか、
「外で内部被曝しちゃうと、あとあと体に何か自分の子供に出てきちゃうかもしれないよ」
って説明しても、やっぱりうちの妹も、妹の旦那もネットをしてない夫婦なので、全く情報が無いので、私がそういうことを言っても全然理解できなくて。
なので、もう妹と妹の旦那と、うちの母親と父親と姪っ子と甥っ子は、そんな感じで全然危機感が無いので、北海道に移住しちゃうってなると、今9か月経ってもこんな状態なのに、北海道には絶対来ないと思うんですよ。呼んでも。距離・・・遠くて。
秋田くらいだったら、秋田も同じ東北なんで、ちょっと心配なとこもあるんですけど、とりあえず秋田くらいまで行っちゃえば、もしまた何かあった時に、秋田には来られるんじゃないかなと思って。妹夫婦とかうちの父親と母親とかも。
秋田に疎開を決めたのが、宮城県の大学の教授さんなんですけど、自分の息子さんが小学校1年生の子を4月、5月かな?5月くらいから子供さんだけ京都に避難させてた里親支援で、疎開させてた人がいるんですよ。
今一緒に子供さんを引き取って、やっと一緒に生活されてるんですけど、でも、その方と知り合って、それで私もやっぱり疎開するにあたって、お金を貯めなくちゃいけないという思いがすごく強かったので、結局いろんな人たちが「命があればお金なんかなくても、すぐ行ける」みたいなこと言いますけど、でもそんな甘くないと思うんですね。
移住しても仕事が無ければ生活もできないし、やっと被曝っていうか線量が低いところに行ったのに、またそっちで線量の心配じゃなくて、今度生活の心配して生きていくのも絶対嫌なんですね。だから、とりあえずお金を貯めなくちゃって思ったときに、その宮城の方と知り合って、本当は私も里親支援にうちの子供を出そうとしてたんですよ。
京都のほうに最初は子供だけ出そうって思ってたんですけど、でも、その宮城の方のつながりで秋田にもいるっていう話をふられて、
「京都だったら秋田の方が近いから、だから親もまだ反対はしないかな」
って思って、それで秋田の疎開のコーディネートをしてくれてる方と知り合って、その方といろいろしゃべってたんですけど、やっぱり子供だけ疎開させるっていうのが、受け入れる側もすごい心配だし、いろいろな問題が起きると思うって言われて、それで・・・なんか難しいなって日に日に子供だけ出すことのむずかしさを感じてきて、やっぱりこれは人に預けるんじゃなくて、母親が一緒に行かなくちゃダメだって思ったんで、その時はもう諦めたんですね。里親支援の話は。
でも、その秋田県の宮城から子供三人連れて疎開されてる方が、すごい一生懸命動いてくれて、私はどうせ移住するんだったら、何もないとこが良かったんですよ。子供をのびのびと育てるのに自然がすごい豊かなところが良いと思ってたので、それで11月に物件を見に行ったんです。
そしたら、平屋建て3DKで隣に大家さんが住んでるんですよ。大家さんも平屋に住んでて、平屋の横に小川が流れてて、本当にとなりのトトロじゃないけどあんな感じで、大家さんもすごい良い人で、子供が居ないんですね。大家さんちが。なので、もう私たち来るのが大歓迎みたいな感じで、それであっちに移住したら、野菜とかいろんなものを自給自足で作ろうって思ってたんですよ。そしたら、大家さんが私が住む平屋の横に土地が余ってるんですけど、それを
「耕していい、畑でも何でも使って」
って言ってくれて、
「これ理想と合致した!いい流れになってきた!」
って思って、12月の頭にまた秋田に行ってきたんですよ。それは赤十字の家電受け取りの立ち合いで行ってきたんですけど、その時大家さんの奥さんと初めて会って、大家さんちの裏側に広大な土地があるんですよ。
「それも使っていいよ」
って言ってくれて、
「あぁもうここに決めた!良いところだ」
と思って、温泉街なんですね。結構有名な温泉郷っていうのがあって、それで温泉の人の話とか聞くと、やっぱり震災後風評被害で東北は放射線量が高いんじゃないかみたいな感じで、震災前から売り上げが3分の1くらいに減っちゃってるみたいで、人もそんなに居ないし、栄えてるっていう感じの観光名所ではなくなってきちゃってるんで・・・でも、みんな温かいです。すごい。
市民の人たちが一生懸命になって、行政とかとも連携は組んでるんですけど、でも行政より本当に市民の人たちの方が動きが早くて、今は疎開情報とかにしても。なので、市民の方が一生懸命やってくれています。グループとかじゃないです。本当に一人の市民が動いてる感じ。
Q.どこの人?
宮城県です。
でも、やっぱり賠償問題とかで、借り上げ金もそうだし、福島県の人たちはいろんな支援とか受けてるんで、今はまだいいと思うんですよ。でも、宮城の人たちは本当に自力でアパートだのなんだのを自分で探して借り上げとかしてるので、宮城の方も限界感じてきてて、
「これからは福島県の人が疎開して、その疎開した一人の人が支援の輪を広げていかないと無理だ」
っていうことは言ってて、それは本当だなと思ってそれを聞いていて。私も含めて、疎開情報とかそういうのをすごい広めていきたいんですね。いろんな福島県内で除染だのいろんな活動をしてる人たちが一杯いるんですけど、私は震災後から一点に絞ってて、『子供を福島から出す支援』それしか考えてないんですよ。
いろんなのやっちゃうとわけがわからなくなっちゃって、自分もダメになっちゃうんで、それでは支援していく意味がなくなっちゃうんで、だから子供たちをいかにして一人でも多く福島から県外、安全な場所に避難させること。でも、それってネットを使ってない人に広めるのってホント大変なことなんですよね。9か月、いろんな自分なりに活動をしてきたんですけど、ほんっとに難しくて。
うちの地元の須賀川市でこれだけ皆に情報とか回したりしてるのに、動いてる知り合いも居ないし、半分諦めちゃってる人たちも多いし、自分で調べようって思う人が少なくて、本当に個人ではちょっと限界があるなって、すごい今思ってます。
3月に秋田に行くって決めてるのが、うちの自宅のほうが0.1マイクロシーベルトで比較的低いんですね。家の外も0.1。家の中も0.1。ほかの高線量地帯に比べると低いんで、年間で換算しても3月とかで受けた被曝量ははかなり大きいと思うんですけど、だけど3月までだったら、この線量だったら食べ物さえ注意してればなんとかなるかなと思って、子供の新学期に合わせて転校したほうが、あっちの学校の子供たちもちょっと受け入れてくれるかな。
子供だからそんな心配することはないと思うんですけど、すんなり入っちゃうと思うんですけど、でもとりあえず、1年間で私もできることを福島県でちょっと活動して、心のもやもやがまだいっぱいあるんですね。
まずやっぱり・・・知り合いたちの子供は、すごい助けたい思いもあるし、いかにテレビに騙されてるか、それをみんなに知ってる情報を拡散していきたいし、地元の人たちに、やっぱり自分で歩いて、皆に口で言って声を出して伝えないと、地道な作業ですけど、でも何も変わらないんじゃないかなと思うんですね。9か月経ってもこんな感じなんで。
ネットやってる人たちだけ危機管理が上がっていってもしょうがないんで、ネットをやってない人たちに危機管理を教えていかないと、これから何も変わらないんで、それを地道に3月まで秋田に行くまでにやっていきたいなと思ってるんで。
それだけです。もやもやは。
カウンセリングの仕事なんですけど、震災前まではクライアントさん、お客さんを数人持ってました。なんですけど、震災後に新しくクライアントさんを受け入れちゃいけないって、すごい思ったんですね。それは、もう3月の震災時点で原発があんなになるっていうのも判ってたし、それで私もやっぱり子供が居るので、子供を県外に安全なところに避難させなくちゃいけないという思いがあって。そうすると、新たにクライアントさんを持っても、途中で丸投げみたいな形で自分たちだけ逃げるみたいな感じになっちゃうのがすごい嫌だったんで、これは仕事としてはできないと思って、それは止めたんですよ。震災があって。
それで、震災後いろいろやっぱり家に引きこもって考えてて・・・思い立ったらすぐ行動派なんで、家に居てじっと悩んでるのがすごい嫌だったんで、何かしなくちゃって思って、それでまず自分の眼で見なくちゃダメだと思って。それで3月の終わりに郡山市のビックパレット、大熊とか~2000人近くかな、それくらい避難してたところなんですけど、そこにまず行ってどういう状況なのか。行ったんですけど、あの時の光景は一生忘れないと思うんですけど、戦争・・・戦後、焼け野原じゃないけど、状況が殺然としてて、
「こんなとこに住んでるんだ・・・。段ボールの仕切りにこんなに人がごった返しに居て、これ、なんか戦争みたい」
って思っちゃって、子供たちもすごい一杯いて、一通り歩いて2階に上がって、帰り際に小学校3年生か4年生くらいの男の子らの集団があって、話しかけたんですよ。
「何か欲しいのある?」
って聞いたら、
「おもちゃが欲しい!」
って言われて、
「あ、おもちゃ判った。明日じゃあ持ってくるよ」
って約束をして、それでふとした約束が、これはやっぱり大人たちの支援じゃなくて、子供たちが喜ぶのはやっぱりおもちゃだって思って、それから一人で勝手にネットとか日記とかいろんな情報に『おもちゃ大作戦』っていうのを掲げて、使ってないおもちゃとかがあったら、うちに送ってって全国の知り合いとか仲間たちに知らせて、そしたらもうすごい数が集まったんですよ。家に。自宅がおもちゃ倉庫みたくなっちゃって。
それでオーディーンっていうリサイクルショップが郡山にあるんですけど、郡山のオーディーンさんも私の話を聞いて「協力します」って言ってくれて、それでトラックにいっぱいおもちゃとかを詰めて、ビックパレットの仮設住宅に運んでくれたり、本当にいろんな人がいっぱい協力してくれて、私も容量が悪いので人に頼むことがあまりできないんですよ。「だったら自分でやっちゃったほうが早い」って考えなんで。
家に大量に運ばれてきたおもちゃたちを「全部配りきらなくちゃいけない」と思って、とりあえず郡山市のビックパレットといわき市、南相馬市、相馬市、福島市のア会津じゃなくて、福島市の名前をちょっと忘れちゃったんですけど大きい仮設住宅とか、二本松とかいろんなところに仮設に行って、子供たちにおもちゃを渡す支援してて、それでおもちゃを渡すのと一緒に子供たちの話をいろいろ聞いたりして。
子供たちがやっぱり話してると、最初は緊張してたり警戒したりしてるんですけど、笑ってくれるのがすごい嬉しくて。
Q.これからのこと
カウンセリングの仕事は続けては行きたいです。仕事としてじゃなくて、困ってる子供達、お母さん達と子供達だけでも、続けていきたいなって。長い問題なんで、精神状態も今だってみんなキツキツなのに、これから先のことなんて想像するだけで私も正直どうなるか判らないんですよ。なんで、臨床心理士の資格とかはないんですけど、でも、資格がある・ないじゃなくて、話をただ聞いてあげる人がたくさん増えればいいなって思ってます。
これから先は、うーん・・・。秋田に行ったら、きれいごとなんて言ってられないし、本当に大変な生活が待ってると思うんですよ。でも震災後にすごい変わったことがあって、物に対する価値観がすごい変わりました。
今までは、震災前までは何でも欲しかったんですね。服もそうだし、子供のおもちゃにしても、なんであんなに馬鹿みたいに買ってたんだろう?ってすごい思えるようになって、震災経験して、なんかモノに対する価値、価値っていうか欲。欲っていうのが全く無くなってきて、秋田に行ったら、私の住むところは全然何も無いんですね。
お店屋さんとかも、須賀川市も田舎ですけど、さほど困る生活ではないので。それ以上に何もない田沢湖で、みんなそれを心配してるんですけど、私はもう震災後からモノに対する欲が無くなったので、本当に秋田県田沢湖に行ったら、子供がのびのび遊んでられる自然と、ある程度の仕事と、子供の健康。
この三つがあれば、何も望んでいるものは無くて・・・。
だから、今まで震災前までが母子家庭だったけど、母子家庭でもなんであんなに生活がきついのに、無駄なものばかり買ってたんだろうっていうのは、すごい感じたっていうか、教えられたので、今まで震災前にあれだけ無駄遣いしてたのが今、これだけ欲が無く、ありきたりなっていうか子供が普通に学校に行けて、普通に素朴な生活ができればいいって思ってるんで、さほどこの価値観なら大変じゃないのかなって思ってきてます。
Q.自己紹介をお願いします。
福島県須賀川市在住、中田麻意、29歳。
3月11日が誕生日です。
子供は9歳で小学3年生。シングルマザーです。男の子です。
来年の3月を目標に、福島県から出て秋田県の仙北市田沢湖というところに、もう住居も決まってまして、それにむけてボランティア活動とかいろいろ頑張ってます。
須賀川市生まれ、須賀川在住です。
私が住んでいる福島県須賀川市は、中通りにありまして郡山の隣。郡山へはうちからだと車で5分くらいの距離にあります。須賀川で一番有名なのが、ウルトラマン。ウルトラマンの円谷さんの生まれ故郷、円谷英二。マラソン選手とか、あとは牡丹園があったり、あとは松明あかし、あと釈迦堂川の花火大会などがあって、けっこう観光名所でもあります。
開けてるところは開けてるんですけど、合併を数年前にして、開けてるとこと田舎の地区が両極端に真っ二つに分かれてるような市です。
結婚したのが、18歳のときで、19歳の時子供を産んで、21歳のときにいろいろあって離婚して、離婚して8年目になります。
家は両親とも働いていて、普通のサラリーマン。二人姉妹です。妹が一人、3歳離れている妹がいて、妹の子供が二人いて、上の子が3歳で下の子が今月1歳になります。
高校に行かなかったのは、ただ学校で勉強するより社会に出て勉強したほうがいいなって自分で勝手に思って、高校行かないでいろんなことをしてました。
放浪の旅・・・<笑>してました。
いろんな県に行って、いろんな人と会っていろんな仕事をしてました。
10年前の私が感じていた住みづらさは、うーん・・・大人が叱ってくれない。ちゃんと向き合ってくれない。愛情の無さ・・・ですかね。
私は、今の大人たちが自分たちで精一杯で、心にゆとりが無いので、子供たちにかける愛情、昔の愛情は、近所のおじさんとかが悪いことをすれば当たり前のように怒ってくれるのが愛情だって私は思うんですけど、今その怒り方もなんかちょっと違うんじゃないかなっていうのが、すごい私の中であります。
私がカウンセリングの資格を取ろうって思ったのが、子供たちとお母さんたちの話をただただ頷いてたくさんの人たちに会って聞いてあげたいなって思ったのがきっかけと、比較的知り合いとかもちょっと多い方なので、いろんな人たちの話を聞いたりしていると、孤独感っていうか「聞いてくれる人が居ないんだな」っていう人がすごく多くて、このままではちょっといけないなと思って、自分に何かできることをって言ったら、私もいろいろ経験は今までしてきたので、痛みとかそういうところをちょっと判ってあげられるかなって思ったのが一番のきっかけで、それでカウンセリングの資格を取りました。
2年前なので、27歳の時です。
別れた後は養育費ももらってないし、父子手当のほうも今もらってません。なので、私一人の収入になっちゃうので、本当に厳しいんですけど、離婚して8年で本当にたくさんの人に助けてもらって、今もなんですけど。離婚してやっていた職種は、さっき言ったトステムとかの工場とか介護職、中古車販売の・・・これは震災後今年です。仮設の人とか旅館とかに泊まってる人たちが津波で車が流されちゃったので、それで4月5月6月くらいまでは本当に忙しかったんですね。それで知り合いが車屋さんをやってたので、「ちょっと手伝ってくれないか」って言われて3か月間、中古車販売の手伝いとか、あとは選挙のウグイス嬢とか、本当にみんながあまり経験しないような職種をいろいろやってきました。
Q.3.11震災当日
3月11日の震災の日は私の誕生日だったので、須賀川市のカラオケ店で友達たちにお祝いをしてもらってる最中で、それでプレゼントをもらって「ありがとう」とすごい感動していたときに、
「あれ?なんかおかしいぞ?ちょっと揺れ方がおかしい」
と思って、友達に
「ちょっと地震がおかしいから外に出よう」
って言って、それで外に出たらあの震災。大地震が来て、カラオケ店の外で震災を経験しました。
もう建物の揺れ方とか、全てが
「これは尋常じゃない」
と思って、その日はちょうど須賀川市の高校生たちの卒業式だったんですね。卒業生、高校生たちもカラオケ店に結構来ていて、高校生たちは外で泣いてて、私の友達もすごい怯えてて、地震が収まりました。まず始めに思ったのは、
「あ、子供を迎えにいかなくちゃ」
と思って、私と一緒にいた友達も子供がいて、その友達もみんなシングルマザーで子供が居たので、
「これは早く子供を迎えにいかなくちゃ」
ってなって、すぐまっすぐに小学校の方に迎えに行きました。
それで、小学校に着く前に小学校の横の家の瓦も落ちてるし、ブロック塀もすごい倒れて道路に散乱してるのをみて、
「あ、これは酷い。」
ってまた我に返ったじゃないですけど、
「これは尋常じゃない」
と思って急いで学校に向かって、校庭に走っていったら、ちょうど子供たちが校舎から校庭に走って避難する時で、私も一緒に子供たちと走って、校庭の中央に避難して・・・そしたら、なんか変な雪、雪が降ってきたんですね。空も一気に暗くなってきて、雪もふぶいてるし
「何なんだろう。あぁもうこれ、日本終わっちゃうのかな・・・」
ってすごい思って。
しばらく校庭で先生たちの指示を待ってたんですけど、校長先生がスピーカーで
「体育館の方にみんなで避難しましょう」
と。私はそれを聞いて、
「なんで体育館に避難するんだろう?」
ってすごい思ったんですよ。校庭の方が安全じゃないのかってすごい頭に来て、でも一緒に体育館の方に避難したんですけど、やっぱり思ってたとおり、あの地震の後にも大きな余震がいっぱいあって、体育館の上のバスケットゴールがいつ落っこちてきてもおかしくないんじゃないかっていう状況だし、体育館の上の電球なんて、本当に大きいのがグラグラ揺れてて、子供たちの頭の上にいつ落ちてくるんだろうっていうのがすごい心配で、
「あ、これは体育館に居たら死んじゃう」
ってすごい思って、でも知り合いの子供たちだけでも、あの時2時46分震災で、私が校庭に着いたのが多分10分後くらい。3時くらいなので、普通の仕事をしているお母さんたちとかお父さんたちは、すぐに来られる状況じゃなかったと思うし、父兄の人たちもすごい少なかったんですね。3時くらいは。迎えに来てるお母さん、お父さんは少なかったので、
「これは体育館に残すより、知り合いの子供達だけでも自分ちに連れて帰ったほうがいいのかな」
っていう考えもあったんですけど、その時なんせ携帯も通じなかったので、変に子供達連れて帰っちゃったら、余計お父さんたち、お母さんたちも混乱しちゃうかなと思って、すごい後ろ髪引かれる思いで、すごい子供たちは泣いてたんですけど、自分の子供を連れていくことしかできなくて、子供だけ連れて、とりあえず自宅に帰って、やっぱ福島県須賀川市は震災で1番ダメージが大きかった市らしいんですね。数か月後にわかったんですけど。
それで、家の自宅はかわら屋根が落ちてるくらいで、本当に軽傷っていうか、そんな大きな被害もなかったので、家に帰って、それで大きな余震が続いてたので、家にいるのもちょっと怖くて、とりあえず外の自分の車の中に居ようと思って、広い道路のところに出て、子供と二人で車の中で数時間過ごしてました。
その後は、まずうちの母親が職場から帰ってきて、お母さんがお父さんと連絡は取れないことをすごい混乱していて、それで会社のほうも・・・火事が出たとかそういう大きな話も周りが騒いでなかったから、お父さんは絶対大丈夫だと思って、
でもまず地震の心配の後に思ったのが、やっぱり原発で、正直、福島に29年も住んでいて、原発があんなに福島の中にあったのは判ってはいたんですけど、原発自体がどういう仕組みなのかもわからないし、地震でもしも原発が何かあったらどうなるかっていうのもわからなかったし、チェルノブイリの話とか、今、野呂さん、一生懸命頑張ってくれている野呂さんの存在とかも、全部何も判らない状態だったので、
まず始めにしなくちゃいけないことは、うちの近所にコンビニがあるんですけど、コンビニで水だけでも買っておかなくちゃと思って、それで子供と一緒にコンビニに行って、水を少し買いだめして、あといつ停電になるかもわからないと思ったので、インスタント類を買いだめして、おにぎりとかも買いだめして、それで自宅の方に戻って、数時間後うちの父親も無事戻ってきて。
その日は、うちから2㎞くらい離れたところに妹夫婦が住んでいるんですけど、妹夫婦と姪っ子と甥っ子も実家の方に避難してきて、その日は実家で朝を迎えました。
地震が起きて、本当に何の知識も無かったんですけど、自分でもなんで原発ってなったのかも私も判らないんですけど、未だに。でも、これは原発だって直感的に思う部分があって、その日は誕生日だったので、すごいムシャクシャしてて
「なんで誕生日にこんなことが起こっちゃんだ?」
って思ってて。その日はむしゃくしゃしながら寝て、原発は心配だけど、明日調べようと思ってその日は寝ました。
12日の朝・・・余震も酷かったので、数日間は本当に寝れない日が多くて、寝れるときに寝ておこうみたいな感じで、次の日12日の朝を迎えて、まず調べたのがチェルノブイリと福島第一原発はどういう状況になってるのかっていうのを調べて、うちも停電にもならずにネット回線も大丈夫だったので、アメーバピグでいろんな知り合いとかから情報を得ていたら、
「あ、これは原発が爆発するんだ」
っていう情報を仕入れて、
「あ、これは本当にヤバい状況だ」
って思ったんですね。
でも、うちの親に原発のことを話しても、
「バカなことを言ってるな!」
と罵られ。これはうちの親もネットをしてないから、私が言っても、テレビも原発でそんな大変なことを流してないし、判るわけがないと思って、その時は親を説得するのを諦めました。
まず、その次にしたのが、ミクシィで県外とかに本当に仲がいい友達が一杯いたので、皆に
『とりあえず原発が爆発するかもしれないので、玄関先でもいいから泊めてください』
っていう日記を書いたんですね。
Q.どこに向かって?どの辺の人に?
私と子供のことを玄関先でもいいので泊めてください。全国に日記で、お願いの日記を書いたら、60人くらいの人が
「うちに来なよ」
って言ってくれて、でも、その時は北海道の札幌に住んでる友達は、
「飛行機とかも全部とってあげる。札幌空港まで迎えに行くから、今すぐおいで」
って言ってくれる友達とか、
「何か月でもいいから家に泊まってなよ」
っていう友達とか、本当にいろんな人が一生懸命私の子供のことを考えて動いてくれてて。それで北海道に行く勇気がその時はまだ無かったんですね。あまりにもちょっと遠いなっていう感覚があって、原発は爆発するかもしれないけど、とりあえず東京くらいまでなら大丈夫じゃないかなって思って、東京の知り合いが
「じゃあうちに来なよ」
って、今は静岡県に住んでるんですけど。
Q.男性?女性?
男性です。
昔から知ってる子で、その子が「うちに今すぐ来な」ってことを言ってくれて、それで行く決心はすごい固まってはいたんですよ。
それで14日の夜に家を出ようって考えてて、14日の夜にうちの母親に
「明日東京に行くから」
っていうことを言ったら、うちの母親がすごい切れだしちゃって、
「何を言ってるんだ!?」
っていうふうになっちゃって、うちのお父さんが2階で寝てた寝室に行って、
「麻意がすごいバカなこと言ってる。お父さん止めて」
って言って、私はそれどころじゃないんで、部屋に戻ってまたパソコンで原発の状況を調べてたんですよ。
そしたらうちの父親も切れだして、うちの母親と父親が私の部屋に来て、父親がパソコンの回線を全部引っこ抜いて・・・。パソコンを投げて、
「こんなのやってるからお前の頭がおかしくなるんだ」
みたいなこと言われて、それで、もう何を言ってもダメだって私もそれを言われて頭に来ちゃったんで、
「あんたらの頭がおかしい!」
って言っちゃったんですけど、それを言ったらもううちの母親は、
「あんたには失望した」
みたいなこと言われて、
「親を捨てる気でいるんだ」
みたいなこと言われて、
「いや、それは違う。捨てるんじゃなくて、あなたたちの孫を助けるのに、東京に行くんだ」
って言っても判ってくれなくて、パソコンの配線を全て引っこ抜かれたときは、
「もう何してくれてんの!?」
と思って頭に来て、すごい言い合いになったんですけど、私があまりにもすごいことを言ってたので、親に対して。うちのお父さんも言葉では勝てないと思ったらしくて、思いっきり殴られて。
でも殴られても全然痛くなくて、頭に来すぎちゃってて。
でも、泣くより怒るよりも、悲しくて仕方がなくて。
両親と一悶着あって、心が折れたままでテレビをつけて爆発の映像を見た時は、本当に・・・もう、気絶するんじゃないかっていうくらいショックで」、
「あぁ、やっぱり行っといたほうが良かった」
ってすごい後悔しました。
でも、もう起こってしまったことは起こってしまったことなので、これは福島に居る以上、完全に引きこもって子供を守らなくちゃって思って。
でもその爆発の映像を見て、気持ちが良い方に切り替わりました。なんだろう・・・生きてかなくちゃじゃないけど、絶対死なない!子供は絶対守るっていう良い方向に気持ちが切り替わりました。
お父さんとお母さんの判断基準は、やっぱりテレビ。
でも、その頃、3月の頃は、テレビで言ってることも信じられないって感じだったんだと思うんです。
「こんなことが福島県内で起こってるはずがない」
みたいな、そんな感覚だったんじゃないかな。じゃないと、あんなに私には言えなかったと思うし、うちのお母さんはもう板挟み状態です。
私がすごい怖いことを言うので、
「もう聞きたくない」
みたいな感じと、お父さんが
「マスクは意味ねぇ。自然界にはこんなに放射線が舞ってるんだ」
とか散々聞き飽きたこと言ってたんで、それをうちのお母さんは板挟みで、どっちを信じていいのかわかんない状態。お父さんもすごくお母さんのことを説得してたので、「安全だ、安全だ」って言って。
本当にパソコンを壊されたときに、9か月経ってるので、テレビに対する怒りっていうのは、本当に蓄積されてきてて、毎日福島県にいると、朝起きてまず新聞を見ると、新聞も嘘ばっかりの報道が並べられてるし、テレビをつけると知りたい情報があんまりやってなくて、どうでもいい情報ばっかりで。
あと、外に出てもそうだし、全てが真実と違った報道っていうか、してるので、テレビに対する怒りはすごい溜まってます。
一番今頼りになってるのが、最初はアメブロっていうところのアメーバピグで、いろんな人にあっていろんな話を聞いてたんですけど、結局そこではちゃんとした情報っていうのが・・・あったんですけど、そこではなんか多くは得られないなと思って、それで数か月前くらいにツイッターを本格的にやりだして、今ツイッターやってるおかげですごい助かってます。いろんな情報ももらえるし。
IWJは知り合いに教えてもらってそれで知りました。それが・・・うーん、8月とかです。
「すごい、こんな情報を流してくれるところがあるんだ」
ってすごい驚いたし、ありがたいなって思いました。
岩上さんの活動を知って、それで知り合いのほうからチェルノブイリハートの試写会があるっていう情報を貰って、これは絶対いかなくちゃと思って、郡山市に行きました。
参加してみて、うーん。・・・衝撃は受けませんでした。いろいろ調べてたので、
「あ、やっぱりこうなるんだ」
っていうのが一番の感想でした。
でも、その後に岩上さんと福島から集まってきた危機感が強い人たちの話し合いの場で、私が住んでる須賀川市に居ると、須賀川市が線量自体が低いので、郡山市とか福島市と比べちゃうと。なので、私みたく騒ぐ人が居ないんですね、あんまり。なので、あの話し合いの場で発言させてもらったりして、
「あ、こんなに居るんだ」
ってすごい安心しました。
3月11日の震災後からは、知り合っていく知り合いの・・・なんていうんだろう・・・質っていうか、ガラッと変わりました。なんだろう。『戦友』じゃないけど、一緒に子供たちを守る活動をして戦ってくれている人たちとのつながりがすごい増えました。友達とか知り合いとかっていう名前じゃなくて、本当に『戦友』です。
私の今してることとかの、一番、一番・・・胸に引っ掛かって動けないようにしてるのが、家の父親の存在です。
それを理解して、自分の孫だけでも一生懸命守ってくれようっていう動きになれば、胸のつかえも取れて、もっといっぱい動けるんですけど、今それがまだそこまでいってないので難しい状態。
やっぱ一番ひどいのが、パソコンの線を引っこ抜かれたやつなんですけど、あとは・・・あ!食べ物です。食べ物で私の部屋が道路沿いなんですよ。それで、何月くらいだろう・・・?9月くらいに、家の隣に畑があって、そこでいろんな野菜とかを作ってる近所の人がいるんですよ。その人が道路沿いでうちの父親としゃべってる声が聞こえてきたんですね。それで野菜を作ってる農家さんは、
「うちの娘たちが、俺が作った野菜を使ってくれないんだ」
っていう話をしてたんですよ。一生懸命、その農家さんは自分の娘と孫の行動を理解しようと思って、うちのお父さんに話してるんですけど、うちのお父さんは、
「そんなん気にしてたら、食べるもん無ぐなっちまう。娘さんの頭、おかしいんじゃねぇのか」
みたいなことを言っていて、それが聞こえたんで、私は農家さんが一生懸命娘さんと孫さんを守ろうと理解してくれてるのに、うちの父親はなんてこと言ってんだ!と思って、頭に来ちゃって、外に出てまた喧嘩が言い合いが始まって。
「あんたの頭のほうがおかしいんだから、人んちのことに首突っ込まないで!」
って言ったんですよ。そしたらうちの父親も怒っちゃって、
「頭のおかしいお前に言われたくない!」
ってなって、もうお互いに頭がオカシイ者同士みたいな喧嘩になっちゃって、そしたらその農家さんもびっくりしちゃって、
「止めてください」
みたいな感じになって、でも私はその近所のおじさんに謝ることしかできなくて、うちの父親は、数か月間内部被曝をいかにさせないようにするかっていうのを私は皆に広めたくてやってたのに、それを阻止してきたんですね<苦笑>
「マスクはダメだ。
食べ物なんて気にしなくてバクバク食っていい。
福島の野菜とかコメとかも大丈夫だ。
牛乳も大丈夫だ」
未だにうちの冷蔵庫には、福島県内の有名な牛乳が何本もあるんですけど、うちの子供が牛乳で育ったような子で、牛乳大好きで。でも、小学校の給食は、早めに牛乳は止めさせたんです。須賀川市も二本松の牛乳を未だに使ってるので。
それでもうちの父親は、
「なんで牛乳飲まないんだ?」
ってうちの子供に進めてるので、毎日内戦じゃないけど、それどこじゃないのに何で家の中でこんな無駄な戦いが起こってるんだ?って思って。
最近は「あ、また言ってる」って感じで喧嘩にもならなくなってきてるんですけど、可哀そうっていう人もいるんですけど、私はそれ可哀そうだと思わなくて、子供がちゃんと、2歳とか3歳とか4歳くらいの子に一生懸命教えるのは違うと思うんですけど、9歳くらいになればある程度話せば理解してくれるので、全部教えてて、だからうちの子供も、うちの父親に逆に教えてあげてます。今は<笑>
まず最初に徹底してたのが、外に出るとき以外は必ずマスク。うちの父親が連れ出したりしてたときは、マスクしてないんで、その時はもうやっぱ子供のことを怒っちゃってたこともあって、マスクさせないで外でマラソンとかやらせてた時もあったし、うちの父親が。
「もうふざけんなよ」
と思って。・・・そんなんばっかりだったんで、マスクかけさせるのも徹底して、あとは牛乳は絶対飲まない。あと水たまりには入らない。風が強い日は外にはあまり出ないとか、最低限難しいことじゃなくて、出来る範囲のことをしょっちゅう言ってたら、最近は自分から、私がマスク忘れて外に出ようとすると、
「ママ、マスク忘れてるよ」
とか、反対に教えてくれたりするようになってきたんで。
ちょっと今、クラスで担任がわけわかんないことをしてる担任がいて、私も震災後教育委員会に電話したりして、担任とも何回かやりあってるんですけど、うちの子供が一人でクラスで戦ってたみたいな部分があって、
「今日は誰々君が理科の時間で、外に出て葉っぱ触ってて可哀そう」
とか、
「二本松の牛乳なのに、休んだ子の牛乳を貰って何本も飲んでる子がいるから、可哀そうで見てらんない」
とか、そういうのがすごいあって。
それで、もう子供一人で9か月経ってもクラスの中の子供たちの考えも、やっぱり親次第なんで変わらないし、子供だけに押し付けてるのがちょっと悪いなっていうか、申し訳ないって思えてきちゃって、昨日からうちの子供を早めに冬休みに入らせてもらっています。学校なんて行かなくてもいいと思って。
給食のことについても、学校に電話しました。それで、教頭先生が出て、郡山市の方の給食だと、知り合いのママさんとかに聞くと、産地もちゃんと書いてるらしいんですね。ちゃんと徹底してる学校は。それで、福島市に親友がいるんですけど、福島市の飯坂のほうの小学校だと毎日プリントで『どこどこの野菜を食べさせました』っていう報告のプリントが回ってくるらしいんですよ。
でも、須賀川はそういうのが全然全く未だに無くて。教頭先生の方に電話をかけて、
「どこの産地を使ってるのか聞きたい」
と言ったら、うーん、
「業者に大量に頼んでるので、産地をどこっていうことができません」
っていう訳のわからない回答を貰ったんですよ。それで、
「学校側が判らないんだったら、業者の電話番号教えてください」
っていうふうに言ったら、急に焦りだして、
「どういったご用件ですか?」
っていうふうになって、
「どういったご用件って説明しなくちゃわからないんですか?」
って聞いても、
「いや、判りません」
って言って、
「暫定基準値とかそういうのは知ってますか?」
って聞いたら、
「いや、判りません」
って言うんですね。教頭先生が。それにもびっくりしちゃって、
「あ、じゃあそんなことも判らない教頭先生だったら、うちはもう給食は止めてお弁当にします」
ってうちの子供クラスで一人だけなんですけど、お弁当にして牛乳も飲ませないで、学校にもそういう掛け合いはしたんですけど、教頭先生もそんな感じだし。
私、この前個人面談してきたんですよ。息子の。担任のほうに給食のことについてちょっと聞いたんですね。そしたら、担任が、
「いろんな意見がありすぎて、まとめられないです。私たちは公務員なのでできません」
っていうことを言うんですよ。『公務員だからできない』ってそんなこと先生が言っていいのかなって、それでもまた頭に来て、それでその一件も1か月前くらいかな、2週間くらい前に個別面談で、またその担任の訳の分からない言葉をいっぱい聞かされて、
「あーもうこれは、義務教育だけど、福島県の学校なんて行かせる必要ないな」
ってその時強く思って。
それで昨日かな、おととい・・・うちの子供が急に泣き出したんですよ。
「もうクラスで一生懸命みんなに危険だって言ってるのに、誰も聞いてくれない。でもみんなが死んじゃうのも見たくない」
って言って泣き出しちゃって、
「あぁ、もうこれは学校に行かせられない」
と思って。
なので、来年の3月くらいには秋田県に移住を考えてるんですけど、もしかしたらっていうか、もう3月まで家で私が勉強を教えて、学校になんて行かせなくてもいいかなって。家より学校の方が線量も高いんですね。なので、家より線量が高い学校に行かせるのもおかしなことだとすごい思うし、守ってくれる教育現場なのに、なんか子供たちにちゃんと今教えていかなくちゃいけない命の授業だったり、放射線の問題だったり、そういうのをあやふやにして、保護者の顔色とか上の教育委員会から圧かけられるのが怖いとか、そういうのばっかり気にしちゃってて、本来しなくちゃいけないことをしていない学校に、子供を預ける必要ないなって、今思ってきたんで、もう来年から行かせないかもしれないです。福島の学校には。
来年の3月に秋田に行くっていうのは、結局やっぱり、さっきまでしゃべった父親ですけど、やっぱり父親なんで、私の。やっぱりちょっと心配なんですよね。7月28日から2週間、福島の子供たちを連れてスタッフとして疎開したんですよ。北海道の余市高校の合宿所に1週間居て、それでその後に美瑛町の大雪(たいせつ)っていうところに1週間いたんですけど、私としては北海道に移住を決めてたんですよ。夏くらいには。スタッフとして北海道に行って、自分の眼で見てどこに住もうか決めてこようと思ってたんですけど、帰ってきてもうちの父親も母親もそんな感じだし、うちの妹も全然危機感がなくて、うちの妹の旦那はもっと危機感が無くて、
「子供たちを外で遊ばせないほうがかわいそうだ」
って言われたんですね。
「外でのびのび公園とかで遊ばせた方が俺は子供たちにとっていいと思う」
と言われて、それも説明したんですけど、
「公園とか線量が高いよ」
とか、
「外で内部被曝しちゃうと、あとあと体に何か自分の子供に出てきちゃうかもしれないよ」
って説明しても、やっぱりうちの妹も、妹の旦那もネットをしてない夫婦なので、全く情報が無いので、私がそういうことを言っても全然理解できなくて。
なので、もう妹と妹の旦那と、うちの母親と父親と姪っ子と甥っ子は、そんな感じで全然危機感が無いので、北海道に移住しちゃうってなると、今9か月経ってもこんな状態なのに、北海道には絶対来ないと思うんですよ。呼んでも。距離・・・遠くて。
秋田くらいだったら、秋田も同じ東北なんで、ちょっと心配なとこもあるんですけど、とりあえず秋田くらいまで行っちゃえば、もしまた何かあった時に、秋田には来られるんじゃないかなと思って。妹夫婦とかうちの父親と母親とかも。
秋田に疎開を決めたのが、宮城県の大学の教授さんなんですけど、自分の息子さんが小学校1年生の子を4月、5月かな?5月くらいから子供さんだけ京都に避難させてた里親支援で、疎開させてた人がいるんですよ。
今一緒に子供さんを引き取って、やっと一緒に生活されてるんですけど、でも、その方と知り合って、それで私もやっぱり疎開するにあたって、お金を貯めなくちゃいけないという思いがすごく強かったので、結局いろんな人たちが「命があればお金なんかなくても、すぐ行ける」みたいなこと言いますけど、でもそんな甘くないと思うんですね。
移住しても仕事が無ければ生活もできないし、やっと被曝っていうか線量が低いところに行ったのに、またそっちで線量の心配じゃなくて、今度生活の心配して生きていくのも絶対嫌なんですね。だから、とりあえずお金を貯めなくちゃって思ったときに、その宮城の方と知り合って、本当は私も里親支援にうちの子供を出そうとしてたんですよ。
京都のほうに最初は子供だけ出そうって思ってたんですけど、でも、その宮城の方のつながりで秋田にもいるっていう話をふられて、
「京都だったら秋田の方が近いから、だから親もまだ反対はしないかな」
って思って、それで秋田の疎開のコーディネートをしてくれてる方と知り合って、その方といろいろしゃべってたんですけど、やっぱり子供だけ疎開させるっていうのが、受け入れる側もすごい心配だし、いろいろな問題が起きると思うって言われて、それで・・・なんか難しいなって日に日に子供だけ出すことのむずかしさを感じてきて、やっぱりこれは人に預けるんじゃなくて、母親が一緒に行かなくちゃダメだって思ったんで、その時はもう諦めたんですね。里親支援の話は。
でも、その秋田県の宮城から子供三人連れて疎開されてる方が、すごい一生懸命動いてくれて、私はどうせ移住するんだったら、何もないとこが良かったんですよ。子供をのびのびと育てるのに自然がすごい豊かなところが良いと思ってたので、それで11月に物件を見に行ったんです。
そしたら、平屋建て3DKで隣に大家さんが住んでるんですよ。大家さんも平屋に住んでて、平屋の横に小川が流れてて、本当にとなりのトトロじゃないけどあんな感じで、大家さんもすごい良い人で、子供が居ないんですね。大家さんちが。なので、もう私たち来るのが大歓迎みたいな感じで、それであっちに移住したら、野菜とかいろんなものを自給自足で作ろうって思ってたんですよ。そしたら、大家さんが私が住む平屋の横に土地が余ってるんですけど、それを
「耕していい、畑でも何でも使って」
って言ってくれて、
「これ理想と合致した!いい流れになってきた!」
って思って、12月の頭にまた秋田に行ってきたんですよ。それは赤十字の家電受け取りの立ち合いで行ってきたんですけど、その時大家さんの奥さんと初めて会って、大家さんちの裏側に広大な土地があるんですよ。
「それも使っていいよ」
って言ってくれて、
「あぁもうここに決めた!良いところだ」
と思って、温泉街なんですね。結構有名な温泉郷っていうのがあって、それで温泉の人の話とか聞くと、やっぱり震災後風評被害で東北は放射線量が高いんじゃないかみたいな感じで、震災前から売り上げが3分の1くらいに減っちゃってるみたいで、人もそんなに居ないし、栄えてるっていう感じの観光名所ではなくなってきちゃってるんで・・・でも、みんな温かいです。すごい。
市民の人たちが一生懸命になって、行政とかとも連携は組んでるんですけど、でも行政より本当に市民の人たちの方が動きが早くて、今は疎開情報とかにしても。なので、市民の方が一生懸命やってくれています。グループとかじゃないです。本当に一人の市民が動いてる感じ。
Q.どこの人?
宮城県です。
でも、やっぱり賠償問題とかで、借り上げ金もそうだし、福島県の人たちはいろんな支援とか受けてるんで、今はまだいいと思うんですよ。でも、宮城の人たちは本当に自力でアパートだのなんだのを自分で探して借り上げとかしてるので、宮城の方も限界感じてきてて、
「これからは福島県の人が疎開して、その疎開した一人の人が支援の輪を広げていかないと無理だ」
っていうことは言ってて、それは本当だなと思ってそれを聞いていて。私も含めて、疎開情報とかそういうのをすごい広めていきたいんですね。いろんな福島県内で除染だのいろんな活動をしてる人たちが一杯いるんですけど、私は震災後から一点に絞ってて、『子供を福島から出す支援』それしか考えてないんですよ。
いろんなのやっちゃうとわけがわからなくなっちゃって、自分もダメになっちゃうんで、それでは支援していく意味がなくなっちゃうんで、だから子供たちをいかにして一人でも多く福島から県外、安全な場所に避難させること。でも、それってネットを使ってない人に広めるのってホント大変なことなんですよね。9か月、いろんな自分なりに活動をしてきたんですけど、ほんっとに難しくて。
うちの地元の須賀川市でこれだけ皆に情報とか回したりしてるのに、動いてる知り合いも居ないし、半分諦めちゃってる人たちも多いし、自分で調べようって思う人が少なくて、本当に個人ではちょっと限界があるなって、すごい今思ってます。
3月に秋田に行くって決めてるのが、うちの自宅のほうが0.1マイクロシーベルトで比較的低いんですね。家の外も0.1。家の中も0.1。ほかの高線量地帯に比べると低いんで、年間で換算しても3月とかで受けた被曝量ははかなり大きいと思うんですけど、だけど3月までだったら、この線量だったら食べ物さえ注意してればなんとかなるかなと思って、子供の新学期に合わせて転校したほうが、あっちの学校の子供たちもちょっと受け入れてくれるかな。
子供だからそんな心配することはないと思うんですけど、すんなり入っちゃうと思うんですけど、でもとりあえず、1年間で私もできることを福島県でちょっと活動して、心のもやもやがまだいっぱいあるんですね。
まずやっぱり・・・知り合いたちの子供は、すごい助けたい思いもあるし、いかにテレビに騙されてるか、それをみんなに知ってる情報を拡散していきたいし、地元の人たちに、やっぱり自分で歩いて、皆に口で言って声を出して伝えないと、地道な作業ですけど、でも何も変わらないんじゃないかなと思うんですね。9か月経ってもこんな感じなんで。
ネットやってる人たちだけ危機管理が上がっていってもしょうがないんで、ネットをやってない人たちに危機管理を教えていかないと、これから何も変わらないんで、それを地道に3月まで秋田に行くまでにやっていきたいなと思ってるんで。
それだけです。もやもやは。
カウンセリングの仕事なんですけど、震災前まではクライアントさん、お客さんを数人持ってました。なんですけど、震災後に新しくクライアントさんを受け入れちゃいけないって、すごい思ったんですね。それは、もう3月の震災時点で原発があんなになるっていうのも判ってたし、それで私もやっぱり子供が居るので、子供を県外に安全なところに避難させなくちゃいけないという思いがあって。そうすると、新たにクライアントさんを持っても、途中で丸投げみたいな形で自分たちだけ逃げるみたいな感じになっちゃうのがすごい嫌だったんで、これは仕事としてはできないと思って、それは止めたんですよ。震災があって。
それで、震災後いろいろやっぱり家に引きこもって考えてて・・・思い立ったらすぐ行動派なんで、家に居てじっと悩んでるのがすごい嫌だったんで、何かしなくちゃって思って、それでまず自分の眼で見なくちゃダメだと思って。それで3月の終わりに郡山市のビックパレット、大熊とか~2000人近くかな、それくらい避難してたところなんですけど、そこにまず行ってどういう状況なのか。行ったんですけど、あの時の光景は一生忘れないと思うんですけど、戦争・・・戦後、焼け野原じゃないけど、状況が殺然としてて、
「こんなとこに住んでるんだ・・・。段ボールの仕切りにこんなに人がごった返しに居て、これ、なんか戦争みたい」
って思っちゃって、子供たちもすごい一杯いて、一通り歩いて2階に上がって、帰り際に小学校3年生か4年生くらいの男の子らの集団があって、話しかけたんですよ。
「何か欲しいのある?」
って聞いたら、
「おもちゃが欲しい!」
って言われて、
「あ、おもちゃ判った。明日じゃあ持ってくるよ」
って約束をして、それでふとした約束が、これはやっぱり大人たちの支援じゃなくて、子供たちが喜ぶのはやっぱりおもちゃだって思って、それから一人で勝手にネットとか日記とかいろんな情報に『おもちゃ大作戦』っていうのを掲げて、使ってないおもちゃとかがあったら、うちに送ってって全国の知り合いとか仲間たちに知らせて、そしたらもうすごい数が集まったんですよ。家に。自宅がおもちゃ倉庫みたくなっちゃって。
それでオーディーンっていうリサイクルショップが郡山にあるんですけど、郡山のオーディーンさんも私の話を聞いて「協力します」って言ってくれて、それでトラックにいっぱいおもちゃとかを詰めて、ビックパレットの仮設住宅に運んでくれたり、本当にいろんな人がいっぱい協力してくれて、私も容量が悪いので人に頼むことがあまりできないんですよ。「だったら自分でやっちゃったほうが早い」って考えなんで。
家に大量に運ばれてきたおもちゃたちを「全部配りきらなくちゃいけない」と思って、とりあえず郡山市のビックパレットといわき市、南相馬市、相馬市、福島市のア会津じゃなくて、福島市の名前をちょっと忘れちゃったんですけど大きい仮設住宅とか、二本松とかいろんなところに仮設に行って、子供たちにおもちゃを渡す支援してて、それでおもちゃを渡すのと一緒に子供たちの話をいろいろ聞いたりして。
子供たちがやっぱり話してると、最初は緊張してたり警戒したりしてるんですけど、笑ってくれるのがすごい嬉しくて。
Q.これからのこと
カウンセリングの仕事は続けては行きたいです。仕事としてじゃなくて、困ってる子供達、お母さん達と子供達だけでも、続けていきたいなって。長い問題なんで、精神状態も今だってみんなキツキツなのに、これから先のことなんて想像するだけで私も正直どうなるか判らないんですよ。なんで、臨床心理士の資格とかはないんですけど、でも、資格がある・ないじゃなくて、話をただ聞いてあげる人がたくさん増えればいいなって思ってます。
これから先は、うーん・・・。秋田に行ったら、きれいごとなんて言ってられないし、本当に大変な生活が待ってると思うんですよ。でも震災後にすごい変わったことがあって、物に対する価値観がすごい変わりました。
今までは、震災前までは何でも欲しかったんですね。服もそうだし、子供のおもちゃにしても、なんであんなに馬鹿みたいに買ってたんだろう?ってすごい思えるようになって、震災経験して、なんかモノに対する価値、価値っていうか欲。欲っていうのが全く無くなってきて、秋田に行ったら、私の住むところは全然何も無いんですね。
お店屋さんとかも、須賀川市も田舎ですけど、さほど困る生活ではないので。それ以上に何もない田沢湖で、みんなそれを心配してるんですけど、私はもう震災後からモノに対する欲が無くなったので、本当に秋田県田沢湖に行ったら、子供がのびのび遊んでられる自然と、ある程度の仕事と、子供の健康。
この三つがあれば、何も望んでいるものは無くて・・・。
だから、今まで震災前までが母子家庭だったけど、母子家庭でもなんであんなに生活がきついのに、無駄なものばかり買ってたんだろうっていうのは、すごい感じたっていうか、教えられたので、今まで震災前にあれだけ無駄遣いしてたのが今、これだけ欲が無く、ありきたりなっていうか子供が普通に学校に行けて、普通に素朴な生活ができればいいって思ってるんで、さほどこの価値観なら大変じゃないのかなって思ってきてます。
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