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もうすぐ北風が強くなる

百人百話:高村美春さん

  百人百話:高村美春さん   書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

Q.自己紹介をお願いします。

 高村美晴と申します。
 3月26日震災当時に43になりました。
 出身は福島県南相馬市原町区、生まれも育ちも原町区。当時は原町市でしたけど。
 今は、高平地区といって、北側の奥の方に住んでおります。
 今月からは、山形市のほうに借り上げ住宅を借りて、週末避難を繰り返している今です。
 4人家族です。私は母子家庭で、私が母として男の子3人で一緒に住んでおりました。というのは、高校3年生になりました息子が3月の震災後になんとか脱出をさせて、千葉の方に就職をいたしましたので、今現在は長男と三男と私で三人家族です。

Q.現在はどこで生活をしているのですか?

 山形市のほうに今は借り上げ住宅という形で避難をしています。
 ただ、仕事というか、10月から始まる仕事がありますので、そちらが3月31日までの契約社員なものですから、全部の避難はできません。
 なので、理想は月曜から金曜までは南相馬にいて、金曜の夜からは山形市に移動して、月曜の朝には南相馬に戻っているという生活を今行っています。
 山形にはとりあえず避難をする家、南相馬は仕事をして、三男が来月で5歳になりますけども、
「保育園のお友達とは離れたくない、保育園の先生とは離れたくない」
という意向がありますので、できるだけ南相馬において、南相馬のお友達と遊べるような生活を平日して、週末は今は外で遊べませんから、自転車に乗りたくても乗れませんから、山形には遊びにいくような感覚で、外で遊べるようなお家っていう形で行ってます。

Q.小さいお子さんが線量の高い南相馬市にいることに不安はありませんか?

 南相馬の線量というのを考えると、多分他の人たちは、例えば中通りに福島市や郡山市に比べれば低いですよねっていう考える方もいらっしゃいます。
 福島市の場合は、やはりそれも程度があります。例えば、渡利地区や大波地区のように2.0マイクロシーベルト以上で避難勧奨地区にならない場所もあります。そして、駅前だとだいたい1.0というように聞き及んでおります。場所によっても違います。
 南相馬ですと、海沿いの方に行くと、0.1。とても低いです。それは、水をかぶったおかげっていうふうに聞いていますし、海側には落ちなかったっていうふうにも聞いてます。
 でも、私の家の周りは、1.0マイクロシーベルトの家にたっていて、ただ私の家は市営の団地なので、鉄筋コンクリートの3階建てなんですね。3階にありますから、多分建物の立地というものもあって、部屋の中は0.15。閉め切った部屋ですと0.1。多分それは通常の数字くらいかもしれません。
 ですから、正直言うと、線量の高い・低いでは南相馬市というのは、もしかしたら低い場所に当てはまるかもしれません。
 ですが、あくまでも原発からは近いというところというふうには、私は認識しています。

Q.原発からの距離はどのくらいですか?

 原発からは、私のところは25㎞の地点に家があります。25㎞というのは、正直、私にとっては遠かったです。
 というのは、震災前、私は大熊の仕事も行ってましたので、約40分くらいかかるんですね。それは道をまっすぐいけないので、大体35㎞くらいの距離を走ってたんですね。私の中では「35㎞くらいあるから遠いんだな」と思ってたんです。ところが、震災があって原発の事故があって、「ここが直線距離25㎞ですよ」って言われたときに、
「25㎞しかなかったのか!?」
っていう驚きですよね。そんな普段から、ここは原発から何キロっていうふうに考えたことが無かったものですから。
 それを考えると、「ここはなんてそんなに危ない場所だったんだろう」と今は思っています。

Q.ご実家はどちらですか?

 あの、私の実家はもともとは高平という地区のほうにありまして、南相馬市は今現在は合併をいたしまして、私が幼いころ住んでおりましたのは、その南相馬市の中の小高区、原町区、鹿島区、今合併して南相馬市ですけど、私はその原町区、もともとは原町市というところで生まれ育ちまして、ただ残念なことに、父と母がガンで他界をしましたので、もう実家がありません。
 合併前の南相馬市というのは、相馬郡小高町、そして原町市、相馬郡鹿島町という三つに分かれていました。私の父の出身はとなりの相馬郡小高町の出身でしたので、今その父と母のお墓は隣の警戒区域になっております、小高区の方にあります。
 そして、私が生まれ育った高平地区というのは、南相馬市原町地区、昔は原町市と申しました、高平地区ですね。大体、農村地区の、昔は高平村といったところで、広い広い農村があった場所ですので、土地柄というか、その土地に根付いてきた父と母のルーツ、その先祖、私のおじいちゃん・おばあちゃん、会ったことはないけど、そのまたおじいちゃん・おばあちゃんたちは、みんなここに住んで生きて、死んで、今お墓の中にいて、そして、そのお墓も今は小高区という警戒区域ですね。20㎞圏内のところにそのお墓があって、私は今お墓参りすらできない。私の家は原発から25㎞ですから、緊急時避難準備区域解除になった場所にあって、自由に行き来できるけれども、居なくなってしまった父や母や、おじいちゃんやおばあちゃんたちのお墓にお花を手向けてお線香と立てることは、今はできない。

Q.ふるさとはどんなところでしたか?

 自分の生まれ育ったこの場所の四季をじゃあどうだったんだというふうに振り返ると、今からだと小さいころは太平洋高気圧なんていう言葉は知りませんでした。冬になると空っ風がたくさん吹いて、でもお天気は良くて、外に行くと田植えが終わった後の田んぼの中をおもちゃの凧を、昔はそれほど電信柱があったとは思ってないので、夏、その凧をずっと持って田んぼの中を走り回って、多分あの当時は寒かったので、本当にまっちゃ色の田んぼだったんですよね。稲が終わった後の。その藁の中をワーッと走り回ったり、寝っ転がったり、とにかく走り回ってた。
 そして、段々空っ風が吹いて来て、雪が。この辺はそれほど雪が降らないんですけれども、でもやっぱり12月、1月になると雪がちらつくようになって、雪がちらつくと、ここから見える阿武隈高地、柳沢峠というところですね。その辺が段々真っ白になってくるんですよ。そうすると、
「あ、山が雪だ。じゃあこっちも降るのかな?」
と思うと風花と呼ばれる、風と一緒に雪が飛んでくるようなところで、でも積りもしない。そうですね、今思えば、本当に美しい、多分日本の原型っていう、まぁ日本なのか、それとも田舎なのか、南相馬なのかはわかりませんけれども、私の中で美しい風景でしたね。
 だから、今年は屋内退避ということで、お花見もできませんでしたし、お花見をするよな雰囲気でもないですし、またその桜の花が今度散っていく、散っていくときに、今度は八重桜というものが咲いていて、季節が巡っていっても、あの当時は5月になったら、山吹が咲いて、桜が咲いて、八重桜が咲いて、子供が大好きなミモザの花が咲いて。要するに咲く花の順を追っていった覚えがあるのに、今年は花が咲いたのかどうかさえ覚えていない。気がついたらもう夏になっていて。だから、夏になると小さいころは、遊ぶところはここは何もないので、海に行くか川に行くかくらいなんですね。側に行くと滝つぼに飛び込んで遊んで、海に行けば父親が隣で磯釣りをしながら、私はその脇で海に飛び込んであそんだり。
 だから本当に自然が友達のように相手にして遊んできた、そんな・・・何も無かったけど、何もなかったのが美しい田舎だったのかなというふうに思います。

Q.3.11震災当日はどこにいましたか?

 3月11日は、私、当時は、特老といいまして老人ホームの会合のパートをしてたんですね。福寿苑というところで。その日たまたま休みだったものですから、ちょうどお友達の家にお茶を飲みに行って、「じゃあそろそろ家に帰るね」といって自宅に帰った時に地震が起きました。
 その時はもう高校生は卒業式が終わって家におりましたし、長男も家におりましたので、3人で家の中で長い長ーい地震を体験して、あの時長男は、
「地震だから早く逃げて!」
 でも、二男は一生懸命食器が飛び出す棚を押さえてるんですよ。でもあまりにも揺れがひどくなったので、
「押さえなくていいから!早く逃げなさい!」
って言って、3人で靴も履かずに飛び出したのを覚えてます。
 靴を履こうと思うと、玄関が揺れるんですよ。靴が履けないんですよ。
 それで
「もう仕方がない、とにかく出るだけ出よう。もしこの建物が倒れてしまったら、靴なんてかまってられない」
 靴も履かずに飛び出したんですね。
 階段もやっと壁にぶつかりながら下りてきましたから、3階でしたから。
 それで出た瞬間に、近くのお母さんがお子さんを抱きかかえて泣き叫んでるんですよ。
「どうしたらいい?どうしたらいい?」
 私は、だからその時に、なんでしょうか、とっさの判断だったんでしょうかね。揺れがまた来るだろうと。すぐ子供たちに
「携帯を持ってきた?携帯ですぐ情報をとりなさい」
っていうふうに指図をして、
「あなたたちはここに居なさい。お母さんは部屋に戻るから。車のカギと貴重品だけ持ってくるから、そこに居なさい」
って言って、私はぐちゃぐちゃに食器が割れた部屋に入って、車のカギと貴重品だけ持って、靴を持って、すぐ近所のお母さんには、
「お母さん、すぐ余震がくると思うから、建物の外に居ないで、多分上のお子さんを迎えに行かなきゃダメだよ」
って言って、私はそのまますぐ保育園の3番目の保育園に迎えに行きました。
 保育園では、園庭にお昼寝からびっくりして飛び起きた子供たちが百人近く園庭の真ん中に先生が前になって、裸足のままみんな出ていて、先生が
「ママー!ママー!!」
って皆が泣き叫んでいて、でもまだ揺れは収まらず<涙されています>、四葉保育園のところはその時にまだ隣に新しい乳児園を作っていたものですから、その工事関係者の方がたくさん居たんですね。でも、その方たちは、もう空を仰ぎ見るだけで何もしないんですよ。
 もうどうしていいかわからない。
 ただ、ああいう時っていうのは、茫然として、ただ空を仰ぐだけしかできないのかな。
 空を仰いで、仰ぎながら電信柱が揺れているのを見て、
「あ、危険だ」
って思うくらいしかできなかったのかなっていうふうに思います。
 でも、子供を迎えに行って、あの時は寒いですから、ジャンバーも園に置きっぱなしで、とにかく先生に
「私はこの子を無事に連れて行きます。先生方も頑張ってください」
というふうに言って、先生方も
「わかりました!」
って言って、でも先生方は一人二人連れて行くと、安心しますよね。お母さんたちが迎えに来てくれると。
 私は3人乗せて
「さぁ、どこに行こう」
 でも、まだ電信柱は揺れている。
 家の中もぐちゃぐちゃ。
 じゃあ、どうしよう・・・どうしよう・・・。
 でも、車とラジオはナビのテレビは
『津波が来ます。3m、4mの津波が来ます。逃げてください。』
 その時に、その園の先生とも話してて、
「先生、津波が来ます。」
「でもここまでは来ないでしょう」
「海から8㎞のところにありますから、来るわけない」
「そうですよね。」
「そうであってほしいです」
という会話をして、
「じゃあ戻ります」
ということを言って、じゃあ小学校に避難場所に行こうと思ったんですけど、それよりももっと情報がとれるところに行こうと思って、原町区の大木戸にありますじゃスモールっていうイオンがあるんですね。イオンの駐車場に車を止めたんですよ。そこは電信柱はもちろんありませんし、何かあったときにはそのホームセンターがありますから、買い物もすぐ出来ますし、情報もすぐとれるだろうと思って、そこにずっと居たんですけれども。
 でも出てくる情報がすごいですよ。
 だんだん津波が4mから6m、9mっていうふうに、もう10mの津波って私にはわかりませんから。
「どうしよう。どうしよう」
 そのうちジャスモールの人たちがいっぱい出てくるんですよ。
「あぁ、じゃあ買い物もできない。じゃあどうしよう。ともかく津波が怖いから、津波から逃れよう」
ということで、馬事公苑というここよりももうちょっと高いところがあるんですけど、そこに行こうと思ったときに、海の方を見たら、水しぶきのようなものが、水蒸気のようなものが舞ってたんですね。
 私のところは8㎞なんですけど、それでも水蒸気のようなものがバーッと見えたんですね。
 もうどうなるかわからない。
 とにかく怖い。
 余震も怖い。
 だから、遠くへ高くということで、山の上に上がりました。でも、車は目の前に地割れが入ってるんですよ。山道ですから、崖くずれがあって、それをくぐりながら上がっていって。

Q.津波はどのような状態でしたか?

 実際に津波が来たのは、3㎞から4㎞くらいのところっていうふうに一致してますけど、私があの時見たのは、雲だったかもしれないし、水蒸気だったのかもしれないし、判らない。
 ともかく振り向いた時に、子供たちも言ってました。
 パーッと水しぶきが上がっているような、なんていうんですか・・・、入道雲のようなものがワーッとその海の方に湧き上がったのを覚えてます。だから子供たちも、
「お母さん、早く早く!ここから離れようよ!」
って言ったのは、耳に響いています。
 何かの映画のワンシーンでありますよね。津波っていうのは見えませんので、気がついたらもうそこに来ていて飲まれてしまったっていうのを、映画のワンシーンで思いだしていたので、とにかく逃げよう、逃げようしかあの日は無く、山の上に上がっていて、そしたらやはり似たような方たちが居て、結構何十台も車が止まってたんですよ。
 私は、そのがけっぷちのほうに行って、様子を見ようと思ったら、そこからは隣の小高区の町が遠くに見えるんですね。
 ・・・津波が来てました。
 遠かったので、それほど鮮明には見えませんけど、それでも車のようなものがグルグルおもちゃのようになって、そして、その小高駅というところに水がワーッという動きを上から見ていました。
 怖かったですね。
 だから、もう下には下りられない。
 これからどんな大きな波が来るんだろう。
 こらから満潮になるから、津波は満潮に合わせて、また大きくなるかもしれないから。
 ともかく満潮が来る8時まで、ここの高いところにいて様子を見よう。
 それが、だから3月11日の8時過ぎるまで車の中でずーっと家族4人でテレビとラジオとネットでずっと情報だけを拾ってた。
 3月11日に満潮が過ぎて、寒くなって、
「じゃあそろそろ家に帰ろうか。」
 家に帰って、電気・水道・ガスが使えるかどうか確認しよう、ネットが使えるか確認しようと思って、だけど、メールがその時はもう途切れ途切れで、電話も通じなくて、友人たちみんなが大丈夫かどうかの情報もなくて、とりあえず家に戻り、ぐちゃぐちゃになった家に靴を履いたまま上がって、片づけて。
 子供たちには家の中でも靴を履かせて、防寒着を着せて。
 小さいちびは、テーブルの下に寝かせて、いつでも大きい余震が来たら、逃げられるように食べるものと、そういったものも全て用意して、あれくらいの地震でも大丈夫でしたので、テレビやそういったネットで情報をとろうと思いましたけど、一番先に怖いと思ったのは、原発で働いていた友人のそのまた友人からきたメールが、
『原発危ないみたい。だから、逃げた方が良いよ』
っていうメールが来たんですね。

Q.その原発の情報について、詳しくお聞かせください。

 普段仲良くしている友人が、
「原発で働いている人からもらったんだけど、なんか危ないみたいなこと言ってるよ」
 それで私はすぐ東京電力に働いている友人にメールをしました。
 東京電力で働いている友人は、富岡第二で働いていましたので、でも、連絡が取れなかったんです。
 その友人は東京電力の社員です。
 3月12日になって爆発すると・・・。でも爆発をしたから、正直に言うとどうなるんだろうと。
 核爆弾のようなああいうことが私たちにも起きるの?
 どうすればいいの?
 多分あの時は、いろんな学者が出てきて
「大丈夫です。安全です。パニックにならないでください。すぐ収まります。」
 家族会議をしたんですね。うちは。
「一番大事なのは何?
 ・・・命だよね。
 じゃあ家族の中で一番大事なのは?
 ・・・ちびだよね。
 就職も決まってこれから行くっていう地なんだよね。じゃあ、みんなでこれから何かあったときには、この二人を守っていこうね」
って聞いたんですね。
 だけどその間、原発の正しい情報だったりとか、ただ
『外出を控えてください。マスクはしてください。口に何かものをあてて外出してください』
 何が起こったかわからないんですよ。
 だけど、皆は避難していく。
 じゃあ大事なものを考えるときに、皆逃げているから、とりあえず一回出ていこうということで、また3月12日に家族を車に乗せて、ここから川俣町は何キロかな?ここから。30㎞、40㎞のところの川俣町という道の駅、多分直線距離ではそれほどないんですけど、山道でいくので3,40㎞行くんですが、川俣道の駅まで着いたんですね。
 というのは、車にガソリンが半分しか入ってなかったものですから、戻るのであればこの地点。福島市に行くまでだったらこの地点。そこでもう一度冷静に考えようということで、川俣の道の駅で車中泊をしたんです。
 300とか500とか、そういった数字が・・・。
 そんなところまで子供を連れて走りたいなとは思わなかったと思います。
 でもあの当時はあの道しかなかったんです。
 もちろん南には行けませんでした。原発がありますから。
 北は津波で道路が壊滅。
 私たちに残されているのは柳沢から飯舘に向かう道。
 途中・・・、飯舘のセブンイレブンがあるんですけど、あそこに何回か、公衆電話があるということで止まったのを覚えています。当時すごく高かったというのも後から聞きましたし、だけど、その12日の朝、車中泊をして4歳の子供がイスで不自然な格好で寝てるんですよね。なんかそれを見た時に、
「家に帰れば布団もあるし、電気もガスも水道もあって、普通に生活できるのに、なぜ私はこの子をこんな目に遭わせてるんだろう」
 よくわからなくなってしまって・・・。

Q.その時点で原発、放射能についての知識はどのくらいありましたか?

 3月11日の原発事故が起きるまで、原子力発電所というところの成り立ちは知っていました。
『クリーンなエネルギーである。』
 それで何回か見学に行ってましたし、私も仕事がらみで原子炉の立ってるそばの事務所に何回か行ってましたし、だけど、その普通に原子炉の建屋のすぐそばの事業所まで行ってますから、ここにどのくらいの放射能があって、放射能というものが自分の身体をどういうふうに影響を及ぼすのかっていうのは、考えたことはあまりありませんでした。
 ただ、テレビでよくチェルノブイリ、スリーマイル、そして放射性物質の危険性っていうのは時折はやってましたけど、でもそれが自分に降り注ぐものだっていう認識はあまりなかったと思います。
 放射能物質というものも、例えば原子力発電というものにも広島の原爆を『はだしのゲン』とかそういう漫画の本の、その自分とはちょっと違う、一枚壁を隔てたところの世界の話っていうふうに見てました。

Q.何かほかに生の情報は入ってきましたか?

 情報というよりも、妹が浪江町でしたから、津島方面に逃げた。津島というのは町の西手の山なんですけど、今はとても線量が高い場所なんですが。津島に逃げた。でも、
「津島はダメだ」
「遠くに行け、小高に行け、小高町に行け、小高区に行け」
「小高区もダメだ、相馬に行け」
 でも、その様子を見ていた弟が、
「おかしい。おかしいと思う。」
 弟の家はすこし壁が崩れてしまったのもありましたし、状況も状況だし、子供もいるから、ちょっと遠くに行くということで「一緒に行こう」って言われたんですね。ガソリンも足りなかったですけど。
「でも、ちょっと考えたい。そんな簡単にじゃあ他人様の家に行けないから、ちょっと考えたい。」
 そこでちょっと弟と別れて、弟は確かガソリンが足りなかったんですけど、那須のあたりでやっとやってるガソリンスタンドを見つけて、運転して埼玉に走ったっていうのは聞いてます。
 隣の飯舘村というのは、相馬郡飯舘村っていうんですね。相馬郡っていうことは隣接してるっていうことですよね。原町がありまして、原町の西手には柳沢峠と言われている山道を上がっていくと飯舘村があるんですね。
 飯舘村、震災の津波がありましたので、津波があった東には絶対に行けないんですよ。そして、津波のあった被害っていうのは、テレビは逐一流しましたから、例えば新地町というところの線路は流出してない。南の鹿島区の6号線まで津波は来て、車は流されて通行止めになっている。
 そうすると、私たちが逃げなきゃと思っても使える道というのが、西に行く、福島市に抜けていくための飯舘村というところを通らなければいけない。そして、『飯舘村であれば原発から遠いであろう』という気持ちもあって、私の知り合いも飯舘村に避難してました。
 本当に避難するのであれば、荷物も全てまとめて出ていこうと・・・。
 そこで何回かメールをもらっていたその埼玉に居る、前の主人ですね、ちびの父親がメールと電話をよこしてたんですね。
 でも、もちろんつながりません。メールも時間差で、1時間も2時間もずれます。来たメールは、
『迎えに行くから、ガソリンが無いんだったら迎えに行くから、皆で埼玉に来てくれ』
 悩みました。
 だけど、4人全員行くのは、それはやっぱりいかがなものかと。
 それで家族会議は、ちびと次男が最優先である。もちろん就職が決まっている千葉さえ、あの子がいければ、これから大丈夫。ちびもお父さんのところに行くんだから、2年近くあってないお父さんだけども、お父さんだからなんとかなるかもしれない。
 もしも私に何かあったとしても、面倒を見るのは父親であろうと。
 だからやっぱり申し出を受けることにしたんです。
 車が2台あったので、片方にまだ半分くらいガソリン残ってましたから、ガソリンを持ってきてくれということをお願いをして、途中で待ち合わせをして、子供を渡すってことになったんです。
 それが13日です。
 もしかすると、そうですね・・・。
 子供が『お父さんがいい』ってもし言ったときに、『じゃあお父さんのところに居てもいいよ』っていうことも考えなきゃいけないし、もしかするとこれから何かもっと悪いことが起きた時に、やっぱり子供を手放さなければいけないのかもしれない。
 私もあの時避難に私の保険証券とか実印とか、そういったもの全て持たせましたので、
「これからどうなるかわからないから、あなたが持っていなさい」
っていうふうに預けましたので、そういった気持ちもあの時にはありました。
 だから、13日に帰ってきてから、「じゃあどうしましょう、ああしましょう」っていうことはなく、多分ずーっと泣いてたような気がします。
 ともかくあの子たちだけでも、無事なところに行ってくれればという想いだったと思います。
 なので、14日は仕事に行きましたので、仕事に行った先、まあ老人ホームですので、でも・・・あの日は爆発音も聞こえましたし、6号線沿いの老人ホームのすぐ裏の、すぐ裏ではないですけど、原町火発が爆発したという誤報が流れて、でも黒煙は上がっていて、その時に津波で全壊したヨッシーランドのおじいちゃん、おばあちゃんも老人ホームへはたくさん来てましたので、てんやわんやの、なんか、ショートステイの私は、ショートステイというのは、1泊2泊3泊だったり、短い預けられるおじいちゃん、おばあちゃんたちの部署にいましたけども、震災当時預けられていたおじいちゃん、おばあちゃんのお家は流されてしまって、ご家族は行方不明の方もいらっしゃったり、自ら津波のシーンを見せられていたおばあちゃんが、ボケが進んでしまって、もう何を言ってもまともな受け答えができなくて、
「震災前はあんなにしっかりしていたのに、人ってこんなふうに変わっちゃうんだ」・・・

Q.14日に爆発音が聞こえたということですが?

 14かその、放射能が飛び交ってるよっていうのは、スタッフの間で話をしたんですね。だから「窓締めようね」とか。だけど、外に出ないわけにいかないので、たまたま外に居たんだと思います。
「じゃあ何時何分に爆発があったの?」
って言われると、私も定かではないんですけど、言われると
「あれ?じゃああの音だったの?」
っていう。
 あの時余震もドーンと来たんですけど、ドーンみたいな、こう、なんか鈍い音が聞こえたんですね。だから、
「いったいどこでタイヤパンク・・・?いや、タイヤパンクじゃない。何か変な音がした。」
 なんか、それも友人たちと話してました。
「何か変な音がしたよね。」
 そしたら、海の方で遺体捜索をしている人たちが、キノコ雲が上がったのを見てた・・・。3号機の爆発だと知ったのは、後からです。
 そして、その前後に、車、走る??何かが原町火発で検討をして、車の炎上で黒煙が上がったというのを後から聞いたんですが、管内放送で所長が
『原町火力が今爆発しました。火事になっています。詳細はお知らせします』
というアナウンスが流れたんですね。
 あの時、正直『火発もだめ、原発もだめ』目の前にはおじいちゃん、おばあちゃんがたくさん居て、「このまま死ぬのかな。ここで。」
 余震も来ます。
 震度4、震度5という余震がたくさんきます。
 その都度、動けないおじいちゃん、おばあちゃんとベットごと動かすのは、もう皆体力が無かったので、シーツにくるんだおじいちゃん、おばあちゃんを引っ張って、避難先の広い食道ホールに連れて行くんですけど・・・、今でも覚えてます。帰るときに、大きいごみの袋があるんですけど、上の人が
「高村さん、駐車場の車いくまで、ちょっと心配だからこの袋かぶって帰りなよ」
って言われて、袋をバーッとかぶって駐車場まで行ったの覚えてます。
「なんでこんなの被るんですか?」
「いや、あの、放射能っていうのがいっぱいあちこちあるから、危険らしいよ?」
「まぁそりゃそうですけど、こんなんで大丈夫なの?」
みたいな。そんなふざけた感じで。
「一応かぶって、車に行って、じゃあこの袋をどう処分すればいいのよ。」
「うーん、まぁ誰も多分そんなことわかんないで、いいや、ご普通にゴミで捨てよう」
とか。
 そして家に戻るんですけれど、そしたら強い余震が。電話を寄こして、
「ダメだよ」
 普段仲のいい・・・、あの、3月11日もお茶を飲んでいた主婦の友達なんですけど、その子のお兄さんっていうのが、そういった原発の方の下請けだったりとか、原発で働いてる友人が多いので、そういった方の情報をお兄さんから友人のところに来て、同じ母子家庭なので、普段から
「母子家庭だと大変だよね」
なんて話をしていた、すごく仲のいい友人だったんですね。
 またその友人が、
「ダメだってみんな言ってる。逃げろって言ってる。」
 またその友人の家には、小高区から逃げてきた親戚が居たんですよ。小高区から逃げてきたから、いろんな情報を持ってるんですよね。
 私は知らなかったんですね。
 その処理済みプールだとか、えーっと・・・MOX燃料の3号機がMOX使ってるとか、知らないですよね。
「もうね、あそこはMOX燃料だからね、駄目なんだって。だから、もうね、本当に核爆発してるからね、ダメだって言ってるよ?」
「えー!何それ!?」
 多分それは友人の姉の兄の友人だったんですよね。原発で働いてる人たちが、言ってる。
『核爆発してるから』
 普通私たちの中で核爆発、広島とか長崎のイメージしかないので、
「じゃあもうダメじゃん。どんなに逃げたって無理じゃん。」
「それでもまだ広島の原爆とかそういうのとは違うから、ともかくここから逃げろって言ってるから逃げようよ。」
「だって行くとこもない。」
 そしたら、その友人がまたちょっとおもしろい友人で、
「じゃあさ、避難と思うと辛いからさ、温泉かどっか行こうよ。」
 それでその友人と土湯温泉方面に逃げることになったんですけど、ところがそこでまたメールと電話がつながらなくなってしまって、ちょっと友達とは離れてしまって、私は14日の8時くらいに飯舘村のセブンイレブンがあったところでずーっと友人を待ってたんですね。
 でも待てど暮らせど、友人は来ないわけですよ。多分友人もほかの車、一緒に行った親戚とかと一緒にいったので、多分行ってしまったと思うんですね。でも、私は判らないので、連絡がとれる公衆電話があるところで待っていようと思って、ずーっと4時間くらい飯舘の後から知った高線量のところで、外にずーっとマスクもしないで、あの時雪が降ってましたので立ってたんですね。
 その時のたくさんの車とたくさんのバスが数珠つなぎのように走って、みんな福島方面に逃げてるんですよ。
「あぁ、私は多分このまま置いていかれてどうなるんだろう?映画のワンシーンのようなたくさんのバスに乗れない私たちは、どこにこれから行くんだろう・・・?そして、やっぱりここは危険なところだから、だからああやって、たくさんの人たちはどこかにいくんだな。」
 それが3月14日の夜ですね。飯舘村で待ってました。

その時、トイレに行きたくなってセブンイレブンの上に避難所があったんですよ。そこまでトイレを借りに行きました。状況がわからないので、避難所の係の方に聞きました。そしたら、
「ここは、全く情報が入ってこないんです。テレビも無いです。今どうなってるんですか?」
って、飯舘の避難所の方が、逆に私たちに聞いてくるんです。
「爆発したのは、知ってますよね?」
「それも知ってるんだけど、でもこの後どうしたらいいか、私たちは指示が無いからわからない」

Q.そのバスには誰でも乗れたんですか?

 多分たくさんのバスは多分、警戒区域から逃げてきた方たちの避難所から避難所へのバスだと思います。
 みたことのないバス会社の名前だったりしてましたので、決して震災後南相馬市のほうでバスを用意して「避難をしてください」というバスではなかったと思います。
 友人とは会えましたので、そこで2泊すごして、またそこから避難生活が始まりましたけど。

Q.どこに避難したんですか?

 3日泊まったんですけど、
「どう考えてもこれはもうダメだろう。3日経って。避難しなきゃいけないだろう。
 でも避難するにしたってどこに行くんだ?
 っていうか、その前にガソリンが入っていない。
 じゃあガソリンを入れなきゃいけない。」
 それで、私と息子は雪の20㎝降り積もっていたところを、ノーマルで山道を降りまして、命がけですよね。車中泊をして、車の中でガソリンスタンド開くところを探して、なんとか20リットル入れることができて、息子は5リットルの缶を二つもってまして、10リットル、缶をもって何とか入れることが出来て。
 そうするとならなかったはずの電話がなるんですね。
 また別の幼馴染の友人からです。
「あんた、どこに居るの?」
「福島市だよ」
「じゃあ、私今須賀川の叔母のところにいるから、叔母の家広くて部屋残ってるから」
って言ってくれて、須賀川市というところは、建物被害がとてもひどくて、全壊のうちやビルがたくさんあって、マンホールは飛び出しているし、道路は陥没、地割れ、車は走れるところではなく、そして水は水道が止まったまま、私がずーっとその家にお邪魔をしながら、水を汲みに何度か歩きました。
 そして、そのお世話になったお家というのが、これまた不思議なご縁で、須賀川市の災害本部、対策本部長の実家で、
「暇だったらじゃあボランティアでもしない?」
と言われて、須賀川市の体育館で、自衛隊の方たちとおにぎりや炊き出しをずっとやってたんですね。
 須賀川でずっとそんな避難生活をして、テレビでやっと情報が入ってくるようになりました。その20日くらいですね。
 あれ?線量っていうものが、こちらの方が高くない?須賀川市っていうのは高いんですよね。水も出ないんですよね。でも南相馬に戻ると、水も出るし電気も通ってるし、何もないんですよ。
 だけど、須賀川市も線量高いんですよね。南相馬市も線量が高いんですよね。
 私、なぜここでおにぎりを結んでるんだろう?
 2回くらいちょっと用事があって南相馬に戻ることがあったものですから、様子を見てるんですね。でも出ていく人もたくさんいる。出ていく人もたくさんいるけれども、その中で困ってる人もたくさんいる。
「私、南相馬に帰るね」
って、友人に言ったのは27日です。
 放射能について詳しく考え出したって言ったほうが正確かもしれませんが、3月28日からボランティアセンターに入ってボランティアをしておりましたので、そのボランティアの内容というのが、300人ほどの名簿を持って、避難できなかった方たちの安否確認に行く仕事だったんですね。
 それはもちろん今は警戒区域で入れない区の方達だったり、原町区だったり・・・。その名簿を持って1軒1軒回って、
「大丈夫ですか?お怪我はありませんでしたか?食料品はありますか?」
っていうふうに歩くんですよ。
 だけど一人では危ないので、二人一組なって歩くんですね。それは地元の方が居ないからです。皆さん県外のボランティアさんです。県外のボランティアさん、地図の漢字が読めないんですよ。
「この漢字なんて読むの?」
 そこから地図を探して、道を探していくので、皆さん道を間違えちゃって、
「今日はなんか奥までいっちゃった」
とか、
「浪江町に入っちゃった」
とか、全くあの当時放射能に対して、怖さというものが無かったんですね。だから平気でマスクやそういったものをしないで、東電の原発の門まで行ってしまった人もいます。
 私はとりあえずお宅回りをよく行ってましたので、ただその日にボランティアで京大で
「今ぼくは原子工学を習っています」
という学生さんも来ました。
「ただ、僕は原子力というものは勉強しているけど、そういった放射能を体に取り込まないようにするにはどうしればいいか、僕もわからない。だけど、今こうやって原子工学をやっている限りは、今皆さんのことをやっぱり僕は見たいと思ってきました。」
「でも、『見たい』と思ってきたと言っても、何かしら知識を持って来いよ」
というのは言いましたけど<笑>そうですね、手ぶらでは来るなと。
「知識かモノを何か持って来いよ。お前だけ来てもダメなんだよ。そんな京大とか言っても、それじゃ小出先生を連れてこいよ」
くらいの話であって、だからそういう話をしながらボランティアしようよって言ってましたけど、あの当時はそれどころの話では。もう生きるだけで精一杯で。
 だから、救援物資を配るときに、皆さん2時間、3時間すごい待つんですね。800人くらい並ぶんですよ。
「屋内退避と言われていても、マスクもしないで2時間も3時間も並ばせる行政は何をやってるんだ!?」
と。
 それはだから、怒りがそういったところにいっていて、放射能に対してどうのこうのっていうのではなかったと記憶しています。

Q.放射能の情報が個人的に流れてくることは多かったのですか?

 だから、私自身も原発に関係あって動いてたりとか、友人もそうですし、関わってない人は多分居ないと思うんですよね。
 この辺りというか、南相馬はとても遠いように思いますけど、南相馬自体があまり仕事が無いと、やはり大熊とか富岡とか、原子力関係の企業に仕事行こうと考える方が、多分多かったと思うんですね。
 あの当時、多分情報が欲しいと思ったら、
「あの人は多分原発で働いてるから、わかってるだろう」
っていって、こちらから聞きに行くこともできたと思いますし、或いは、やっぱり今でもそういう方いらっしゃいますけど、『原発に入ってるからこうこうだよ』って教えてくれる方もいらっしゃいましたし、私が3月14日の夜に飯舘のセブンイレブンのところに立っていたら、話しかけてきたおじさんは、
「自分の義理の弟が原発の下請けの所長をやっている。だけど、そいつは逃げてない。でも俺は逃げるんだ」
「え?どうして?だってあなたの弟さんは逃げてませんよね。大丈夫だって言ってますよね」
「でも、俺は怖いと思うよ」
 そんな話をセブンイレブンで集まった9人くらいでしてたんですよね。そしたら、その方が、
「じゃあ俺今から弟に電話する。」
っていうんですよ。公衆電話だから通じますから、そしたら、
「大丈夫だよ、だって東京電力の人間だっているもん。大丈夫だよ。そんなお兄さん逃げないでくださいよ」
っていうのが聞こえてくるんですよ。電話越しに。
 だけど、電話を切った後に、弟さんもそっと
「俺、やっぱり逃げる」
って言うんですよ。
「ちょっと、だって今弟さん大丈夫だって言ってましたよ?」
「うーん。ダメだ。」
って言うんですよ<笑>
 14日のその夜、先ほども言いましたけど、9人くらい集まった時に、やっぱりある女性の方が、
「そういえば、うちの近所の東京電力の方が居ないわ」
って言うんですね。
 それはこっち側の男の人も言うんです。
「あれ?そういえば、あそこに家も電気ついてなかった」
って言うんですよ。
 それで、多分いろんな考えがあって、たまたまそこの飯舘村のところに集まった10人くらいでしゃべってたんですけど、誰かに言われて気が付いたから、
「あ!そういえば・・・!」
「あ!そういえば・・・!」
 でも、私はその時に東京電力の友人は家に居るので、富岡で働いていた友人が居るので、『屋内退避と言われてるから、屋内退避で大丈夫だよ』というふうに言われて、
「でも、それはあなたは農家で食料品いっぱいあるからね。大丈夫でしょ」
っていう考えもあったので。
 だから、実際に私のまた別の友人は、それは旦那様は知らないけど奥様は東京電力で働いてる方の奥様で、私は知っていて、でも、その彼女が子供も同じくらいの年代でいるんですけど、まだ地元に残って仕事してますよ。奥様は。
 だから、多分、東京電力の中の人間でもいろんな人がいると思うんですよ。危険だと思って家族だけ出した人もいるし、だけど、いろんなことを考えて残ってる人もいるし、だけどやっぱり私たち今、皆で話してるのは、
『次の爆発があったりとか、次何かリアクションを起こす時は、東京電力の家族見張ってようね』っていうのがあるんです。
『あの人たちが逃げたら絶対だから』
っていうのはあります。

Q.『籠城』とか『兵糧攻め』というのはどういうことですか?

 南相馬市という相馬市というのは、流山からくんで、相馬の馬追というのが神事として有名なところです。
 相馬市というところは、もともとお城があり、そこに相馬藩と国主が居て、そして原町区、原町市というところは、雲雀が原という野原だったところで、馬を追って何かあった時にはお国のためにという場所でした。
 その流れが今もありまして、お殿様は東の相馬市、そしてここはもともとは原ノ町という駅があるように、原っぱの中に町ができた宿なんですね。宿場町です。宿場町というところは、よそから人が来て、また流れていくというところですから、相馬市から見れば、ここは下なんですよね。位というか見方が。
 そうすると、ここが新しい街である。そして、三つ合併して南相馬市という名前を付けた時から、相馬の方は気に入らない。
「なんで南という名前を付けて、相馬という名前をつけるんだ?」
 それは実際、私がボランティアセンターに居た時に相馬市の方から電話をもらってます。
「市役所にかけても電話がつながらないから、お前のところにかけてるんだ。南相馬なんていう名前をつけたから、お前のところは天罰なんだ。ふざけんな!」
っていう電話を私は何回も受けています。
 すごく根深いものがあるんでしょうね。
 私は申し訳ないですけど、そういった想いを全く知らないので、電話をとるまで知りませんでした。実際にだけど、相馬市の避難所に行った方々は、相馬市の避難所で差別を受けてます。それは、相馬市民の方がお弁当だと、南相馬の人間はおにぎりなんですよ。言った言葉は、
「相馬市の人は税金を払ってるけど、ここに居る南相馬の人間は、相馬に税金はらってないでしょ。」
って言われたと。
 そういう悔しい思いをして帰ってきてる人がたくさんいるんですね。
 だから一概に相馬市がいけないとか、南相馬市がいいとかそういうことは言ってません。ただ、そういったことの流れがあって、桜井市長は
「籠城』という言葉を使い、私たち市民は物資・・・」

Q.『籠城』というのはどういう意味ですか?

 籠城ですね。例えば戦の考えですね。お城に立てこもり、出さない。でもその籠城の場合は備蓄がきちっとあって、例えば1か月、2か月、下々のものに食べさせるものンも燃料も必ずある。それは、相馬市というところは、正直これは政治的な話になるかもしれませんけども、自民党である自民党のパイプが強い。そして道が福島市と相馬市というのは、通ってましたので、そこからパイプが入ってくるんですね。
 30㎞圏内という南相馬市というのは、ある意味桜井市長が出していることは、危険な場所なんだという認知もあります。だが相馬市は危険ではない。名前が出ていないことによって、『あそこは入れるだろう』というのがあって、物資が来てるんです。それは確かです。
 私ボランティアセンターに行ったときに、相馬に山ほど物資が来ていて、相馬市に私はもらいに行きました。相馬市にわざわざ。
 多分『籠城』の意味は、人を避難させない。放射能というものは、相馬市には来ていない。出ていくのはならん。それは今も変わりないです。
 相馬市でモニタリング???を作ろうとすると、『作るな』と言われます。『線量も出すな』と言われます。食品測定器でモノを測ると、『測ったものを発表するな』と言われます。
 南相馬と相馬市は、今全く、ちょっと別な線のところになっていて、『籠城』というのは多分そういう形だと、私は認識しています。
 その兵糧攻めの方の説明をしておくと、桜井さんがYOUTUBEで言ったようにガソリンも来ない、食料品も来ない。それはみんな、私、須賀川市に行ったときに、須賀川市にはたくさんの物資が来るんですよ。物資の倉庫にいたときに、ドライバーさんが言ってました。
「怖いから、ここでもう帰りたいから降ろしていく」
って。須賀川というのは、県内の端っこで、白河、須賀川、郡山です。
「ここまでは来るけれども、もうここに荷物を降ろして、僕たちは帰りたいから」
って帰っていくんです。
 じゃあその荷物、南相馬に誰が持っていく?誰も持っていきません。ということは、薬も底をつく、食料品も底をつく。私自身もボランティアセンターにいて、安否確認をしながら、胃瘻のおじいちゃん、おばあちゃんがもう無くなるんですよ。そういった食料品が無くなって、食品名出していいかわからないですけど、エンショアという缶が1本、それは本来は1本で1食なのに、たった1缶を1日分に3回に分けるんですよ。胃瘻ですから、普通の朝食のモノを削っておかゆを食べさせて、そういう問題じゃないんですね。もう高濃度の高カロリーのそういったものが今度は入ってこない。
「それはどこで作ってるんですか?どこにあるんですか?」
と聞くと、
「白河の工場で作ってたけども、今回その工場が震災で、今は作ってないので、ものが無いです。」
「じゃあそれをどこに誰からもらえばいいんですか?」
「入ってこないです。」
 だから、多分兵糧攻め・・・。
 誰も助けてくれない・・・。
 私自身は餓死したっていう情報があって、私はその方達にはお会いしたことはないですが、安否確認をして歩いてる時に、具合が悪くなった方は確かに居ました。
 でも、そういう方たちは、長野県とか長崎から来た方たちのドクターに引き合わせてなんとかお願いしますってしたのは、何回かあります。
 当時は本当に、阿鼻叫喚・・・でしたね。
 助けを求めても誰も来ない・・・。
 求めたとしても、『そこには行けません』
 気がついたら報道も誰も居なくなってましたし。
 その安否確認で回るときに、何度か食料品は来るんですよ。だけど、300という軒数をまわる物資は無くて、市は必ず言うのが、
『公平であるように、平等であるように』
ですね。
 あの状況で『公平だ、平等だ』なんてできないです。
 そうすると、ボランティアセンターで救援物資の倉庫をやってましたけど、できることは大根一本もらって、それを三つに切って、それで切った3分の1に人参半分切って、ジャガイモ入れて、袋に入れて、安否確認の家に持っていくということをしてましたね。
 おじいちゃん、おばあちゃんのお宅に大根1本持っていっても使いきれないだろうというのもありましたし、その大根1本さえ持っていけないんですよ。1回で入ってくるのが大根10本とか20本くらいしかなかったりすると、20本では20軒しか回れないということですよね。公平でも平等でもないわけですから・・・。

Q.除染についてはどう思いますか?

 さきほど言った三男ですね。
 5月のGWに戻そうと決めました。
 それは30㎞圏外に今まで通っていた保育園が、仮設としてできるようになったというのもあって、じゃあ、その保育園に預けることができる。そしてやっと2か月、もらうメールで笑ってない子供を迎えにいくことができる。じゃあ今度、それまでは正直、大人だけでしたので、放射能に関しては、気にはしていたけどそれほど気にしていない。
 だけど、今度4歳の子供を迎えに行って生活をするとなったときに、ここは本当に4歳の子供が居られるのか改めて考えた時に、無理だと思って。
 ただ救いなのは、一番高い時期に居なかったので、落ち着いてきた時期なので、その時私は、ある人の紹介で鎌田実先生といって、長野の諏訪中央病院の鎌田先生を紹介してもらって、日本チェルノブイリ連帯基金というところからですね、ガラスバッチをいただくことができたんですよ。それで私は5月の真ん中くらいからガラスバッジを私と子供がつけることによって、積算量っていうものが見えるようになったんです。
 ガラスバッジをつけるようになって、改めて母として放射能の勉強をしなければいけないんだ。それからですね、児玉先生だったり小出先生だったり武田先生だったり、ともかく有名であろう人たちのYOUTUBEだったり本だったり、資料を読み漁って、勉強するようになりました。
 正直眠くなります。
 あの、ベクレル、シーベルトどうの、全く知らない世界ですから。だけど、勉強しないとわからないことばっかりで、子供のことは守れない。外部被曝、内部被曝、聞いたことない言葉だけど、やらなければいけない。そういう生活を今もしています。
 私は今回、先々月から九州行ったり、沖縄行ったり、長野県に行ったり、一時避難を繰り返してきて、それは子供の健康でもありますけど、もしかするとここではない違うところで、これから生活をするかもしれないということを念頭に置いて、移住場所っていうのも探して歩いていたんだと思います。
 私自身、ここに子供を置いて生活をしていかなければ、要するに残らざるをえない親子になっています。ですけど、先ほどもいいましたように1mSvを超えていて、除染されていない場所で遊ばせるわけにはいかないので、今月から山形市に借り上げ住宅を借りて、週末だけは子供を自由に遊ばせたい。そして、私もストレスのない、ストレスフリーの食生活をしたいので、遠くに出てご飯を食べたい。
 じゃあ南相馬の復興をどう思うんだ?前は月曜から金曜、ここで仕事をして、南相馬の復興を考えるのか、じゃあ除染をしなきゃいけないのか。
 夕べですね、うちの子供が通ってる保育園、保育園で父母の会、連絡会が原町保連というのがあるんですけど、それで年1回行政とのかかわりがある。今年はその父母の会として市長と懇談会をして、『子供たちのこれからを行政がどう思ってるのかを車座になって話をしましょう』というのを夕べ行ったんです。
 市長始め、幼児教育課、すぐやる課、除染対策室、健康つくり課とかそういった関連の方が6名いらっしゃって、私たちが事前に用意した質問に答えるという時間を2時間、もらいました。
 除染については議論になりました。
 除染対策室は、
「避難勧奨地区のところから面的にやっていく、そして仮置き場も3カ所作ることになっている。そこから始めていきます。だから安心してください。帰ってきてください。」
という言葉を聞きました。
「では、今現在線量が高い乳幼児や妊婦さんがいるお家はやっていただけないんですか?」
というふうに質問しました。答えは、
「高線量のところからやっていく。面的なことしかやっていません。やらない」
というふうに言われました。
 面的に放射線量自体がなっていくのも私もずっと思ってました。それは当然だ。上から下へ。高いところから低いところへやっていくのは当然である。
 ですが、今現在高い線量のところに住んでいる人がいるんです。ミニホットスポットとかそういう問題ではなく、一番大人の放射能の3倍、5倍受けやすいという赤ちゃんや子供が居る家、妊婦さんの家、それは私は点的にやってもいいと思うんですね。それは実際にもうここに住んでいて、何ミリシーベルト受けるかもわからず、今現在も影響を受けているわけですから、それを少しでも減らす必要だと思うんですよ。ですから、面的にやっていく、且つ、それは面であり、だけど、そういった方達、希望した『やってほしい』という希望の声は拾ってほしい。
 だけど、昨日の答えは、
「検討はします。持って帰ります」
ということだけで終わりました。
 そして、保育園の副園長やボランティアさんたちは、そういうお家にはボランティアでやってくれてます。市長は
「僕、そういうの行かせてるよね」
っていうふうに言いました。でも、それはボランティアです。自分で実費を払ってガソリン代とかそういったものを払ってやってるんです。
 そして言われました。
「じゃあ、業者に頼んだら?東電に請求してくれ」
と。
 そこですかね。
「じゃあなぜ市が東電に請求しないんですか?」
「いや、市はそこまでは・・・。」
 私は正直つっこみたかったんです。
「市長の下に副市長は誰ですか?厚生省からの天下りですよね。何人東電の社員が、お宅の市役所に居るんですか?」
 私は対策本部室何回も行って、東電からの出向社員を何人も見てます。
「じゃあ、そういう人たち、パイプ役はあるでしょ。東電からお金がおりてくるとかおりてこないとか、それはわかるでしょ?じゃあなぜそこで東電に個人が請求しろっていうんですか?」
 でも出てくる答えは、いつもの行政的なお答えで、ここで議論しても仕方がないから、
「じゃあ結構です」
というふうに話は終わりました。
 だから、私は一番最初の答えで、桜井市長に言いました。
「私はこれ以上外部被曝を与えられないから、出ていくことを決めました。だけど仕事があるから通ってます。だけど、完璧に除染はできるんですか?」
って聞きました。答えはお答えになってませんでした。
「こういうふうな計画があるから、こういうふうにやっていきますから」
「そういうことを聞きたいんじゃない。完璧に震災前の綺麗な場所に戻すことができるかどうかを聞いてるんです」
って聞きたかったです。だけど、答えになってない答えを聞いた時に、
「あ、ダメだ。」
 私はそういう答えを聞きたいわけじゃない。できるかできないかを聞いているだけだから、じゃあそうなると、除染は必要だと思いますけれども、除染だけではないと、そして除染をするのであれば、その線量を受けてしまった子供たちも一時的でもいいから、保養という形でもいいから、外に出して、それで面的なことをやっていくんだったらいい。
 だけど、そこに子供を置いて、人間を置いて、除染をするのはいかがなものか。
 だから、どうしても除染ありきで行く行政には、私は不信感しかないです。
 もともと信頼関係なんかないです。
 SPEEDIの公開というものが無かったときから、私は国や行政を信じてませんから。信頼関係というものを失ってるのに、さらにまた???嘘のようなことばかり言われていれば、期待はしてないです。
 だけどやってもらわなきゃいけないんで、それは期待ではないです。
 当然の義務ですから。
 義務は果たしてもらう。
 そこで住む人間としては、自分の自己防衛ですね。子供たちを守るためには動きますけれども、復興のため、復旧のため、私も言われました。
『除染ボランティアやりなさい』
 私は「しません」って言いました。
「私は内部被曝が怖いから、やりたくありません。私は母子家庭だから、私にもしものことがあったら、子供を誰が見るんですか。私がこれ以上内部被曝をしたくありません」
って言いました。そしたら他の人に
「卑怯だ」
と言われました。
「自分の子供を抱えてる保育園も除染ボランティアできないなんて、お前卑怯だろ。だったら、子供を保育園に預けるなよ」
と言われました。
 どうして、同じ住民同士がそれでケンカしなきゃなんないんですか?
 おかしいですよね。
 そういったことも、私は離れたいと思って、一時的でもいいから、山形市に避難した。でも、帰ってはきています。それは、やっぱりここが無くなってしまうかもしれないと思ったときに、大っ嫌いだったけど、でも本当は大好きだったんだって気づいたから離れたくないから。
 でも、子供のためには離れなきゃいけないと思って、でも離れたくないと思っている。そういった複雑な思いで、今、今日、居る・・・んですね。

Q.大機代だと言っていた田舎を大好きだと気付いたのは?

 大っ嫌いだと思っていたふるさとを大変好きだと思った時、『I love you ふくしま』っていう歌があって、猪苗代湖ズが歌っていて、私はあれを歌えなかったんです。そんな『I love you ふくしま』なんか歌えるか。そんな好きじゃねぇよってはっきりいって思ってたんですけど・・・

Q.誰が歌ってるんですか?

 猪苗代湖ズっていうところが歌って、箭内さんとかサンボマスターの方達が歌ってて、だけど、その・・・ここを離れなきゃいけないと思って、離れようと思った時、後ろ髪をひかれるっていう想いが、本当にあったわけですよね。
 私も若いときに都会に出た時に、それはふるさとというものが必ずあって、帰って来れる場所があるから、出ていけるんですよ。人というのは。家があるから出ていけるんですよね。
 何か自分が傷ついたりとか悲しんだりとか、嬉しかったりするときに、誰かにその想いを伝えたいとか、駆け込みたいとか思う場所がある。だけど、もうここの場所を出てしまった時に、ここが無くなると思ったときに、そういった場所を無くした時に、
「私が生きてきたものとか、そういった軌跡っていうものが無くなるのかな」
 だから、ふるさとって考えた時に、
「あぁ、こんなにふるさとが好きだ」
というふうに・・・私はこんなにふるさとのことを恋しい。好きとか愛してるとかじゃなくて、『恋しい』と思ってたんだな。
 だから、根無し草になりたくないと思ったんですよね。
 やっぱり人はどこかで根っこを張って生きている。その根っこがふるさとであって、私はいつかは戻ってきたいと思う。だから、戻ってきたい場所を自分の手で作っていきたいな。だから、
「大っ嫌いだったけど、本当は好きだったんだな」
としみじみと。
 だから、震災後は辛く苦しかったけど、そういうことを気づかせてもらった部分というのはたくさんあって、大っ嫌いだった田舎だったけど、町を歩けばみんな知り合いでと思ったけど、でも、その山形に行って、誰も知り合いもいないところからまた戻ってくると、町を歩いて知っている人の顔を見ると、ホッとするんですよ。あんなに束縛されて、誰かに見られて嫌だと思ったのに、だけど、知ってる顔が居て、ホッとして、
「なんて自分勝手なんだろう」
と思いながらも、
「やっぱりいいな。やっぱりあったかいな、ここは。」
 そういう暖かい場所を本当なら私の子供たちに残してあげたいなというふうに思っています。
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