葬式よりも静かな国会:小沢
2015-05-13

私の四十年前から今を見る 小沢一郎氏「あの頃は国会も自民党もエネルギーがあった」 5/13 日刊ゲンダイ
当時のことで印象に残っているのは、ベトナム戦争の終結(1975年4月)と田中内閣の崩壊(74年12月)だね。
国会議員の若いので一緒にベトナムに行ったんです。
大使館は嫌がったけど、ベトコンの激しいところまで行って、そうしたら前を走っていた米軍の軍用車が爆破された。
その途端に銃撃戦が始まって。機関銃って「ダダダダ」なんて音はしない。「カタカタ」って乾いた音だった。大使館員は青くなっていたけれどね。
あの時、もうアメリカは勝てないと思った。
田中先生が(首相を)辞めた時はショックだった。
なんで辞める必要があったのか、今もってわからないけれど。田中先生はああ見えて、実はものすごく神経がこまやかなんです。
文芸春秋で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」という文章が出て、あんなのなんてことないのに、先生は「血圧が上がって、血糖値が300くらいになった。大変だ」って言って結局、辞めてしまった。
それでいったら、僕なんて犯罪人扱いされたんだから、血糖値1000ぐらいになってたっていいくらい(笑い)。
とにかく辞めたのは残念だった。
あの頃は国会も自民党もエネルギーがあった。
日中国交正常化の時なんて自民党の総務会が荒れて荒れて。1年生の時、佐藤栄作首相の施政方針演説を集団で欠席したりもした。
国会は55年体制で中身は自社談合なんだけれど、表ではワンワンやった。議場の入り口に座り込んだ社会党議員を、突き飛ばして、どかしたり。
当時は自民党議員の方が若くて、社会党は年寄りが多かったから、すぐやっつけちゃった。
今は自民党も野党も喧嘩しない。おとなしい。
だから官邸はいい気になって何でもやる。
安保法制だって、委員会で机を突き飛ばしてでも反対する、っていう騒ぎになったら、そう簡単にいかない。
マスコミも報道するし、国民の関心も高まる。
驚くねえ。国会が静かで葬式みたい。お経の声さえ聞こえてこないよ。
75年といえば、12月に三木内閣で科学技術庁の政務次官になった。同期で一番最後。若かったからね。
誰もやりたがらなかったのが科技庁だったけど、後になってみれば、やってよかった。
ちょうどその頃、原発の商業化のための研究がなされていて、原子力というのは安全で安上がりで準国産エネルギーだって官僚から教えられた。
その時、いま問題になっている高レベルの廃棄物について「どうするんだ」と聞いたら、「ガラス固化技術ができておりまして、大丈夫です」という説明だった。
でも、日本みたいな断層が入り乱れているところは、(地震によって)地下でガラスが壊れる可能性があるから全然安全じゃない。
その当時は私も疑問を挟むほどの知識がなかったけれど、40年後のいまでも同じ技術しかない。結局全然、進歩していない。
高レベル廃棄物の処理方法は見つかっていないんです。
社会も人間も、40年じゃ変わらないんだよね。
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