アベノミクスで、失業率は低下していない:中原
2015-03-03
アベノミクスで、失業率は低下していない 日本経済の構造変化を無視する「リフレ派」 3/2 中原圭介 東洋経済オンライン
今回は、リフレ政策を支持する人々が強弁する「アベノミクスによって失業率が低下した」という見解が、いかに間違った見解であるのかを説明したいと思います。
リフレ派は日本経済や社会の構造変化を故意に無視
リフレを支持する経済識者たちが、「アベノミクスの効果」としてこのようなことを言い出した当初、私は「アベノミクスの失敗を覆い隠すために、故意にそのような風説を言っているのだろう。
まさか本気でそのようなことを言っているわけがない」と思っていました。
そう思ったくらい滑稽な見解であったので、信じる人々も少ないだろうと考えていたのです。
ところが、リフレを支持する経済識者たちがメディアを通してこういった認識を広めた結果、それを信じている人々が少なからずいるということには、非常に驚いているところです。
初めてこの連載で皮肉を言わせていただくと、まさに「風説を言ってでも、人々を信じさせたい」というリフレを支持する経済識者たちの「期待」が、まったく違う次元で半ばながら達成されたわけです。
彼らが「自説の誤り」を認めたくないために、確信的にそう言っているだけなら害は少ないのですが、それを信じる人々が少なからずいるという現状に至っては、日本の未来にとって笑って済ませられないことになってしまいます。
国の経済政策が間違った方向に突き進んで行っても、一向に修正されなくなる可能性が高まってしまうからです。
「アベノミクスによって失業率が低下した」というデタラメな意見が言えるのは、日本経済や日本社会の基本的な構造変化を故意に無視しているからに他なりません。
経済識者としては、それくらい矜持がない意見を言っているのです。
なぜなら、失業率の低下や有効求人倍率の上昇の背景には、少子高齢化に伴う労働力人口の減少という、誰もが知っている事実がはっきりと横たわっているからです。
日本の労働力人口は減少、人手不足は当たり前
日本の生産年齢人口(15~64歳)は、1995年の8726万人をピークに少しずつ減少してきましたが、2014年の段階ではそれが7784万人にまで減少しています。
特に2012年から2014年の3年間は団塊世代が65歳に達するようになり、その減少幅が大幅に拡大しているのです。

生産年齢人口は1995年の8276万人をピークに2014年には7784万人まで減少
2012年の労働力人口が17万人の減少であるのに対して、2013年と2014年は117万人も減少し、2015年も同じくらい減少する見通しにあるわけです。
2013年の労働力人口が前年比で1.45%、2014年が1.48%減少しているのですから、人手不足になるのは当然のことと言えるでしょう。
もともと日本の人口構造の推移からして、2012年以降は失業率が徐々に低下し、有効求人倍率が上昇するのはわかっていたわけです。
日本の基本的な構造変化に目を向ければ、「経済が好調ゆえに有効求人倍率が高くなった」というのは、間違った見解であるということが、簡単に判明してしまうのです。
一般の人々のなかにも「アベノミクスによって失業率が低下した」と信じてしまう人がいるのは、やはり、日本の経済構造の変化を無視するとともに、経済の権威を後ろ盾にした思考の停止が起こっていると考えられます。
幅広い資料やデータを深く検証することなく、「クルーグマン(米プリンストン大学教授)が提唱するリフレの考え方は正しいに違いない」と信じ込んでしまっているのです。
要するに、物事を俯瞰的に見ることをせずに、「景気が良くなる=失業率が低下する」というステレオタイプな見方しかできなくなっているわけです。
日本のリフレを支持する経済学者にとって、クルーグマンやバーナンキ(前FRB議長)は「絶対的な権威」であることは間違いありません。
こうした経済学者が権威を信奉するあまり、議論の際の説明で「クルーグマンは……といっている」「バーナンキによれば……である」「世界標準では……である」といった言い回しを多用するからです。
これは決して印象論ではなく、私自身が経験していることを言っているにすぎません。
たとえば、前回の記事で述べたような事例について、「それでもインフレ目標は正しいのでしょうか?」と質問すると、答えに窮して「僕が薫陶を受けたポール・クルーグマンはそう言っていた」と言い出す始末なのです。
クルーグマンの言っていることが、現実に起こっていることと照らし合わせて、本当に正しいか否かについての議論を避けようとするわけです。
おそらく、彼らの著書や寄稿のなかでも、「クルーグマン(あるいはバーナンキ)はこう言っている → だから、自分の言うことも正しい」という論法が使われているのではないでしょうか。
もはや、それが正しいかどうかはもはや重要ではなく、クルーグマン(あるいはバーナンキ)が言っているということが、一番重要だということなのでしょう。
ここ1~2年でリフレを支持する対談相手のなかで、「クルーグマンは……といっている」「バーナンキによれば……である」「世界標準では……である」といった言い回しを使わなかった識者は、私の記憶が正しければ第一生命経済研究所の主席研究員である永濱利廣さんくらいでしょう。
永濱さんは「アベノミクスのすべてが正しいとは思わない。円安の悪影響が及ぶ弱者に対して再分配が必要である」としたうえで、「適正なドル円相場は102円である」とおっしゃっていました。
著名なリフレの支持者のなかでは珍しく、現実をしっかりと認識しているエコノミストであると思った次第です。
今の日本経済に適正な為替は1ドル90円台半ば
2月16日のコラム「なぜインフレよりもデフレがいいのか」でも触れましたように、私がこれまで一貫して主張してきたのは、日本の経済構造の変化に合わせて、行き過ぎた円高や、行き過ぎた円安の水準は変わるはずであるということです。
「21世紀型インフレ」が始まる前の2000年代初めであれば、私は適正なドル円相場は120円くらいだと言っていたかもしれませんが、いまや日本経済の構造変化に伴って、行き過ぎた円安は弱者に悪影響が偏る性格を持ってしまっています。
そのように考えると、国民全体にとっても、企業全体にとっても、国家財政にとっても、「三方一両損」ではないですが、ドル円相場は90円台半ばくらいが適正ではないかと思っています。
そして、そういったことを考慮に入れながら、経済政策や金融政策は決めていかなければならないと強く願っているわけです。
今回は、リフレ政策を支持する人々が強弁する「アベノミクスによって失業率が低下した」という見解が、いかに間違った見解であるのかを説明したいと思います。
リフレ派は日本経済や社会の構造変化を故意に無視
リフレを支持する経済識者たちが、「アベノミクスの効果」としてこのようなことを言い出した当初、私は「アベノミクスの失敗を覆い隠すために、故意にそのような風説を言っているのだろう。
まさか本気でそのようなことを言っているわけがない」と思っていました。
そう思ったくらい滑稽な見解であったので、信じる人々も少ないだろうと考えていたのです。
ところが、リフレを支持する経済識者たちがメディアを通してこういった認識を広めた結果、それを信じている人々が少なからずいるということには、非常に驚いているところです。
初めてこの連載で皮肉を言わせていただくと、まさに「風説を言ってでも、人々を信じさせたい」というリフレを支持する経済識者たちの「期待」が、まったく違う次元で半ばながら達成されたわけです。
彼らが「自説の誤り」を認めたくないために、確信的にそう言っているだけなら害は少ないのですが、それを信じる人々が少なからずいるという現状に至っては、日本の未来にとって笑って済ませられないことになってしまいます。
国の経済政策が間違った方向に突き進んで行っても、一向に修正されなくなる可能性が高まってしまうからです。
「アベノミクスによって失業率が低下した」というデタラメな意見が言えるのは、日本経済や日本社会の基本的な構造変化を故意に無視しているからに他なりません。
経済識者としては、それくらい矜持がない意見を言っているのです。
なぜなら、失業率の低下や有効求人倍率の上昇の背景には、少子高齢化に伴う労働力人口の減少という、誰もが知っている事実がはっきりと横たわっているからです。
日本の労働力人口は減少、人手不足は当たり前
日本の生産年齢人口(15~64歳)は、1995年の8726万人をピークに少しずつ減少してきましたが、2014年の段階ではそれが7784万人にまで減少しています。
特に2012年から2014年の3年間は団塊世代が65歳に達するようになり、その減少幅が大幅に拡大しているのです。

生産年齢人口は1995年の8276万人をピークに2014年には7784万人まで減少
2012年の労働力人口が17万人の減少であるのに対して、2013年と2014年は117万人も減少し、2015年も同じくらい減少する見通しにあるわけです。
2013年の労働力人口が前年比で1.45%、2014年が1.48%減少しているのですから、人手不足になるのは当然のことと言えるでしょう。
もともと日本の人口構造の推移からして、2012年以降は失業率が徐々に低下し、有効求人倍率が上昇するのはわかっていたわけです。
日本の基本的な構造変化に目を向ければ、「経済が好調ゆえに有効求人倍率が高くなった」というのは、間違った見解であるということが、簡単に判明してしまうのです。
一般の人々のなかにも「アベノミクスによって失業率が低下した」と信じてしまう人がいるのは、やはり、日本の経済構造の変化を無視するとともに、経済の権威を後ろ盾にした思考の停止が起こっていると考えられます。
幅広い資料やデータを深く検証することなく、「クルーグマン(米プリンストン大学教授)が提唱するリフレの考え方は正しいに違いない」と信じ込んでしまっているのです。
要するに、物事を俯瞰的に見ることをせずに、「景気が良くなる=失業率が低下する」というステレオタイプな見方しかできなくなっているわけです。
日本のリフレを支持する経済学者にとって、クルーグマンやバーナンキ(前FRB議長)は「絶対的な権威」であることは間違いありません。
こうした経済学者が権威を信奉するあまり、議論の際の説明で「クルーグマンは……といっている」「バーナンキによれば……である」「世界標準では……である」といった言い回しを多用するからです。
これは決して印象論ではなく、私自身が経験していることを言っているにすぎません。
たとえば、前回の記事で述べたような事例について、「それでもインフレ目標は正しいのでしょうか?」と質問すると、答えに窮して「僕が薫陶を受けたポール・クルーグマンはそう言っていた」と言い出す始末なのです。
クルーグマンの言っていることが、現実に起こっていることと照らし合わせて、本当に正しいか否かについての議論を避けようとするわけです。
おそらく、彼らの著書や寄稿のなかでも、「クルーグマン(あるいはバーナンキ)はこう言っている → だから、自分の言うことも正しい」という論法が使われているのではないでしょうか。
もはや、それが正しいかどうかはもはや重要ではなく、クルーグマン(あるいはバーナンキ)が言っているということが、一番重要だということなのでしょう。
ここ1~2年でリフレを支持する対談相手のなかで、「クルーグマンは……といっている」「バーナンキによれば……である」「世界標準では……である」といった言い回しを使わなかった識者は、私の記憶が正しければ第一生命経済研究所の主席研究員である永濱利廣さんくらいでしょう。
永濱さんは「アベノミクスのすべてが正しいとは思わない。円安の悪影響が及ぶ弱者に対して再分配が必要である」としたうえで、「適正なドル円相場は102円である」とおっしゃっていました。
著名なリフレの支持者のなかでは珍しく、現実をしっかりと認識しているエコノミストであると思った次第です。
今の日本経済に適正な為替は1ドル90円台半ば
2月16日のコラム「なぜインフレよりもデフレがいいのか」でも触れましたように、私がこれまで一貫して主張してきたのは、日本の経済構造の変化に合わせて、行き過ぎた円高や、行き過ぎた円安の水準は変わるはずであるということです。
「21世紀型インフレ」が始まる前の2000年代初めであれば、私は適正なドル円相場は120円くらいだと言っていたかもしれませんが、いまや日本経済の構造変化に伴って、行き過ぎた円安は弱者に悪影響が偏る性格を持ってしまっています。
そのように考えると、国民全体にとっても、企業全体にとっても、国家財政にとっても、「三方一両損」ではないですが、ドル円相場は90円台半ばくらいが適正ではないかと思っています。
そして、そういったことを考慮に入れながら、経済政策や金融政策は決めていかなければならないと強く願っているわけです。
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裁判所はいまや権力の番人:瀬木
2015-03-03

元最高裁の瀬木比呂志氏が暴露「裁判所はいまや権力の番人だ」 3/2 日刊ゲンダイ
時の政権が最高裁と組んで言論弾圧
安倍政権になってからというもの、メディアが政権に遠慮し「物言えぬ空気」が広がっているのは、あちこちで識者が指摘している通りだ。
そこにはさまざまな理由が絡み合うのだが、そのひとつに見過ごせないものがある。
時の政権が最高裁判所と組み、名誉毀損裁判における損害額を引き上げようとするなど、言論弾圧のような政治介入をしていたという事実である。
驚愕の真相を著書「ニッポンの裁判」(講談社)でえぐり出した元最高裁勤務のエリート裁判官、明治大法科大学院教授の瀬木比呂志氏に聞く。
――瀬木さんは東大法学部在学中に司法試験に合格、1979年から長きにわたって裁判官として勤務された。つまり、司法の現場を知り尽くしています。
私たちは、日本は三権分立ですから、司法は独立して行政の暴走をチェックする。そういうものだと思っていましたが、違うんですか?
裁判所は憲法の番人といわれますよね。だから、国家が変なことをすると、「そういうことをしちゃいけませんよ」と釘を刺す。それが憲法の番人の意味するところでしょうが、違います。
今は権力の番人といってもいいんじゃないですか?
裁判官は独立しているというのは誤解で、上や多数派は、法衣を着た役人です。
だから、支配と統治の根幹に関わる部分では、権力側の意向を忖度するんです。
――それを示した例は本当にたくさんあるんですね。木で鼻をくくったように門前払いされる行政訴訟とか国策捜査による冤罪事件とか。行政側がいつも勝つ。
でも、まずは名誉毀損裁判です。最近は名誉毀損による損害額が高騰し、メディア側が丁寧な取材をしても大体、負けているんですね。
その裏に政治介入があったと?
2001年くらいから状況が一変しているんです。
それまでは損害賠償請求の認容額は100万円以下だったのに、一気に高額化し、また裁判所も被告(メディア側)に対して、非常に厳しくなり、その抗弁を容易に認めなくなりました。
その背景にあった事実として、01年3月から5月にかけて、衆参の法務委員会等で自公の議員や大臣が「賠償額が低すぎる」「マスコミの名誉毀損で泣き寝入りしている人がいる」などと言い、最高裁民事局長が「そういう意見は承知しており、司法研修所で適切な算定も検討します」と回答しているんですね。
これに呼応するように、裁判官が読む法律判例雑誌である「判例タイムズ」(5月15日号)に「損害賠償は500万円程度が相当」という論文が出て、司法研修所で「損害賠償実務研究会」が開かれた。
同じ雑誌の11月15日号には、その報告が出ていて、慰謝料額の定型化のための算定基準表なんかがついている。
さらに、直近の、損害賠償額が高額だった判例もついていました。これはおかしいなと思いましたね。
――政治家の発言と研究会が開かれたタイミングを見ると、完全に連携しているように見えますね。
判例タイムズの5月号に論文を掲載するには3、4カ月前から執筆依頼をしなければならない。つまり、国会質問が出る前に、最高裁からこういうのをやったらどうか、という働きかけがあったのでしょう。
その前には政治家からの突き上げがあったと思う。
当時、森政権や創価学会は、ものすごくメディアに叩かれていましたからね。
――政治家がメディアを牽制するために「損害賠償の額を引き上げろ」と言って、最高裁が「はい、わかりました」と言うものなんですか?
わかりません。水面下のことですから。でも、何も注文がないのに、裁判所がこんなふうに急に動くことはありえないと思います。
――その損害賠償額の算定基準表にも驚かされました。被害者の職業によって、社会的地位がランク分けされていて、タレントが10、国会議員が8、その他が5と書いてある。
なぜ、一般の人がタレントの半分で、国会議員より低いのか。どう考えても異常ですが、理由を考えて思い当たった。
タレントを高くしたのは、週刊誌を萎縮させるためでしょう。
国会議員が8なのは、タレントの下に潜り込ませて目立たないようにするためだと思います。
本来、国会議員は公人中の公人です。常に正当な批判にはさらされて当然なのに、おかしなことです。
しかし、もっと問題なのは、これをきっかけにメディア側が立証すべき真実性、あるいは真実だと信じるに足る根拠、真実相当性ですね。このメディア側の抗弁が容易に認められなくなったんですよ。
もちろん、学者や裁判官が議論して、下から判例を積み上げていくのはいい。しかし、こういうふうに上から統制すべきことじゃないでしょう。
――こういうことがボディーブローになって、今の安倍政権への遠慮、萎縮があるように感じます。
メディアは報道責任を果たせなくなったと思います。
その理由は両方です。権力側の規制、メディアコントロールと、メディア側の自粛です。
04年に市民運動家が自衛隊の官舎に反戦のビラをまいて、住居侵入で捕まった事件がありました。
表現の自由に重きを置く欧米だったら、不当逮捕だということで、大騒ぎになったと思います。
ところが、1審は無罪だったのに高裁、最高裁は「表現の自由も重要だが公共の福祉によって制限を受ける。従って、本件ポスティングは住居侵入罪」としてまともな憲法論議をほとんど行わずに決着させた。
日本は本当に近代民主主義国家なのかと思いましたが、こうした大きな問題をマスコミもほとんど取り上げないんですね。だから、既成事実として積み上がっていってしまう。
社会がどんどん窮屈になる。日本は大丈夫なんですかね。
テレビを見ていると、やれ、中国が悪い、韓国がケシカランとやっていて、それが悪いとは言いませんが、自分の国の自由主義と民主主義の基盤が危なくなってきているのだから、そのことをまず報道すべきではないでしょうか?
――そもそも、権力と司法は、昔から癒着していたのでしょうか? それとも、森政権以降、露骨になってきたのでしょうか?
1960年代は最高裁も比較的リベラルな時代でした。
それに危機感を抱いた自民党が、右翼的な考え方の持ち主である石田和外氏を5代目最高裁長官に据えて、いわゆる左翼系裁判官を一掃するブルーパージ人事をやった。
戦後の裁判所の自由主義の潮流は、ここで事実上、息の根を止められ、以後、裁判所、裁判官全体に権力追随の事なかれ主義が蔓延するようになったと思います。
まあ、それでも、そのあと4人くらいの長官は極端な支配統制はしなかった。でも、
それから最高裁事務総局系の長官が出てくるようになり、2000年代以降に裁判所は、精神的「収容所群島」化してしまったと思いますね。
■勇気ある裁判官は5~10%
――名誉毀損裁判の件も一例でしょうが、裁判官の独立よりも上からの統制。逆らえなくなったという意味ですよね。そうした圧力に屈しないというか、まともな裁判官はいないんですか?
5%、多くて10%くらいかなあ。勇気があるのは。でも、そういう人は間違いなく出世しない、あるいは辞めていってしまう。
――行政訴訟の原告側の勝訴率が8・4%(2012年)ということにも驚かされます。
裁判所は実は「株式会社ジャスティス」なんです。
軸になるのは最高裁事務総局で、ここが権力の意向を見る。
裁判所は独立が確保された特別な場所ではありません。
元判事補で今、学者になった人は在籍当時、最高裁秘書課等から論文の削除訂正を求められた経験をネットで書いていました。
これは検閲で憲法21条に反する。
他にも裁判員制度の広報活動で、契約書を交わさないまま事業を行わせていたことなど、たくさんある。
裁判所が法を犯しているのですから信頼されるわけがないです。
――そんな司法と政治が結託すれば、何でもできてしまう。
以前の自民党は、それでも権力者としてのたしなみがありましたね。これだけはやっちゃいけないみたいな。それが今は、なくなっている。
――とりわけ安倍首相には、たしなみのなさを感じます。
自由主義、民主主義を掲げているわけですから、その根幹を崩すようなことだけは、どの世界の人もやめていただきたい。
大きな権力を持っている人こそ、自制してほしいと思います。
▽せぎ・ひろし 1954年生まれ。東大法学部在学中に司法試験合格。東京地裁裁判官、最高裁調査官を経て、2012年明治大法科大学院専任教授。「絶望の裁判所」「ニッポンの裁判」(ともに講談社現代新書)が話題。
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