政府の暴圧沖縄差別、高江ヘリパッド7歳女児まで告訴、加担するマスコミ
2015-02-16

沖縄いじめどこまで…政府がオスプレイ反対運動に参加したと7歳の女児を訴えていた! 2/15 LITERA
安倍政権による“沖縄いじめ”が止まらない。2015年度予算案で沖縄振興予算が5 年ぶりに減額となった一方、普天間飛行場の辺野古移設に関する「代替 施設建設費」は倍増。今月6日、翁長雄志沖縄県知事は普天間飛行場の5年以内の運用停止と県外移設を求めた要望書を提出、官邸を訪問したが、安倍晋三首相も沖縄基地負担軽減担当相である菅義偉官房長官も面談を拒否。
知事就任から翁長知事は6度にわたって上京しているが、政府は知らんぷりを決め込んでいる。
まるで「意見が合わない人間の話は聞かない」と言わんばかりの、子どものような態度だ。
それだけではない。辺野古への基地建設に海上で抗議する市民の船に海上保安庁の職員が乗り込み転覆寸前となったり、13日には抗議中の市民が初めて公務執行妨害で逮捕されるなど、あからさまな嫌がらせが多発。
市民が心を砕いている海底ボーリング調査の再開準備で海に投入したコンクリート製のブロックがサンゴ礁を傷つけているという問題に対しても、菅官房長官は「県の許可を得て行っている。問題はない」と強気の姿勢を崩さない。
市民も環境も、国は無視──こうした沖縄へのいじめはいまにはじまった話ではないが、じつは、政府はもっと信じられない暴挙に出ている。
それは、オスプレイの着陸帯(ヘリパッド)建設に反対するため座り込み抗議を行った東村・高江の住民たちを、防衛省沖縄防衛局が「通行妨害」で訴えるという、前代未聞の事件だ。
しかも、訴えられた住民のなかには、7歳の女の子まで含まれていたのだ。
政府や大企業といった権力側が、個人を恫喝するために見せしめの裁判を起こす。
こうした訴訟を「SLLAP(スラップ)裁判」というが、高江の住民たちが国に訴えられた事件は完全にこれにあてはまる。
この信じがたい訴訟を取り上げたのが、琉球朝日放送(QAB)が2012年に放送したドキュメント『標的の村〜国に訴えられた沖縄・高江の住民達〜』だ。
この作品は、日本ジャーナリスト会議や民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など数々の賞を受賞し、91分のロングバージョンが映画として劇場でも公開。
大きな話題を呼んで現在も全国で上映活動が行われているが、その内容は本土の人間、いや沖縄の人にも知られていない現実を突きつけるものだった。
そもそも、オスプレイは事故が多発している危険な航空機だが、そのヘリパッドが建設されること以前に、高江に暮らす住民には忘れられない“ある歴史”がある。
高江には、集落を取り囲むようにしてつくられた、米軍のジャングル戦闘訓練場が存在する。
これは世界で唯一のサバイバル訓練場だ。
そこにはフェンスもなく、突然、住民の家の庭に兵士が現れることもあるのだという。
ベトナム戦争時、ここに米軍は「ベトナム村」なるものをつくっていた。
そのとき、米軍は高江の住民を連行し、乳幼児や5〜6歳の子どもを連れた女性を含む住民たちに、ゲリラ戦の演習でベトナム人の代役をやらせていた。
しかも『標的の村』では、元米兵がベトナム村近辺に枯葉剤を散布したことを明かし、いまもその後遺症に苦しんでいることを告白している。
彼はベトナムには行っていない。沖縄での枯葉剤散布による後遺症なのだ。
訓練とはいえゲリラ戦に巻きこみ、枯葉剤によって自然を汚され、ベトナム戦争が終わったいまでも、高江のジャングル訓練場の上空には昼も夜も関係なくヘリが旋回する。
そして、次はオスプレイがやってくる……。
人口160人の小さな集落である高江の住民たちは“標的”にされつづけてきたことへの怒りを込めて、唯一の抵抗手段である「座り込み」で抗議を行った。
そんな当然の行為に、国は心情を理解するどころか、訴訟というえげつない手に出たのだ。
この裁判について、『標的の村』のディレクターをつとめた三上智恵氏は、『日本の今を問う 沖縄・歴史・憲法』(七つの森書館)で、「座り込みをした横に五〇センチ空いていたか、立っていたか座っていたかといった、本当にばかばかしい内容の裁判でした」と語っている。
第一、訴えられた住民のうち、前述した7歳の女の子は抗議行動の現場に一度も行っていない。
いかにずさんな、そして無鉄砲な攻撃だったかは明白だ。
だいたい国が市民に対して脅しをかけるような訴訟を起こすこと自体が異常で非道としか言いようがないが、最高裁は14年に住民の上告を棄却している。
もっとも、沖縄がこれまで国にいかに無視されてきたかをよく知る三上氏にとっては、この判決はある意味、予想の範囲内だった。それよりも「何より打ちのめされた」と言うのは、「棄却された日に中央のマスコミはどこもニュースにしなかったということ」だった。
「結局、人びとは誰も知らないわけですよね。
国に対して文句を言い、座り込んで声を上げた一国民が、通行妨害という細微のネタで裁判所に引っ立てられる。
その嫌がらせ裁判を司法自ら──最高裁が認めたという、とんでもない国になった瞬間だったと思います。
もちろん「琉球新報」や「沖縄タイムス」は一面の扱いでしたが、ここ東京ではニュースにもならなかった」
沖縄のこの小さな集落を襲った恐るべき事態を、きっといま、この記事を読んでいる多くの人が知らなかったはずだ。知らなかったというよりも「知らされなかった」のだ。三上氏はその後、テレビ局を辞してまで沖縄のいまを伝えるべく活動を行っているが、その胸中をこう述べている。
「人権侵害だとか三権分立に違反している、スラップ裁判だなんて騒いでいるのはQABだけで、テレビ朝日も関心を示さない。それならスラップ訴訟でいやがらせをすればこの闘いは終わらせられると防衛施設庁は踏んだんだな、絶対にそうはさせるか。何年かけてでも白日のもとに晒して、こんなことが二度とないようにさせてみせると、その時に思いました」
高江住民の怒りだけではない。
オスプレイの配備は辺野古の怒り、沖縄全体の怒りでもある。
『標的の村』は、辺野古にオスプレイを配備すると国が決定した12年9月の普天間ゲート前の様子を映し出すが、それもまた、多くの人が知らない現実だ。
──座り込むことでしか抗えない住民たちは、ゲートを人力で封鎖する。
しかし機動隊の警官は住民を強制的に排除し、報道の人間も弁護士も警官数人がかりで抱えられて排除されてゆく。
自家用車に乗り込み抵抗をこころみる県民にも、県警はレッカー移動をはじめる。
その車中で、ある女性は目に涙を浮かべながら「安里屋ユンタ」を歌う。沖縄に古くから伝わる古謡で、権力への抵抗の歌だ。
国に訴えられた7歳の少女は、11歳になり、作品のなかでこう語っている。
「お父さん、お母さんも、子育てと農業とかいろんな仕事もあるのに、子どもたちの将来のためにオスプレイを反対してくれるから、今度はお父さんお母さんがもう疲れちゃって、もう嫌だなって思ったときには、わたしが代わりにやってあげたい」
このドキュメンタリー作品が伝えるのは、沖縄の悲痛な叫びだ。
しかしそれは沖縄県内だけの話ではない。
基地を沖縄に押しつけている日本全体の問題だ。
こうした議論になると必ず国防上の地理的要因を持ち出す人びとがいるが、本サイトでも以前報じたように、アメリカは沖縄に固執しているわけではない。
1995年の普天間基地返還交渉では沖縄撤退も示唆していたのだ。
それを阻止したのは、ほかでもない当時の自民党政権である。
さらに、安倍政権は沖縄に対して、いまだかつてない強攻策に出ている。
三上氏は言う。
「第一次安倍内閣の時に初めて自衛隊の掃海艇を辺野古に投入したのは安倍さんです。“治安維持のために”掃海艇を出した人は、後にも先にも安倍さんしかいません。
それに今刑特法(刑事特別法)の範囲がどんどん拡大されていて、嫌がる海上保安庁に対して、「どんどん逮捕してください」と逮捕権を押し付けている。
いまだかつてないほどの強硬かつなりふり構わない形で、辺野古の反対運動や沖縄の声を押さえつけると決めてかかっています」
だが、こうした重要な事実さえ、わたしたちはほとんど知らない。
沖縄の基地問題は日本の大きな問題であるのに、三上氏の指摘の通り、大手メディアは伝えようとしない。
国が沖縄の声を無視するのと同じように、メディアもまた無視しているのだ。
そればかりか、ネット上ではネトウヨたちが辺野古の住民による反対運動を「補償金目当ての国賊」「バカ左翼が湧いてる」などと罵る事態に陥っている。
そして、ついにはその刃は、この『標的の村』という作品にも向かっている。
今月28日に横浜市西公会堂で上映される予定だった『標的の村』を後援していた横浜市教育委員会が、「市民などから市教委の後援を疑問視する趣旨の電話やメールが約20件」あったことを理由に、「市教委がオスプレイ配備について賛成、反対の判断をしているかのように見えるのは適切ではない」として後援を取り下げたのだ。
配給元の東風が映画HPに掲載した見解によれば、横浜市教育委員会は「映画の内容そのものがどうこうというお話ではありません。まだ市教委は誰も映画本編を観ていないからです」と回答したという。
観てもいないのに苦情がきたという理由で後援から下りるというのは、言論封殺に加担したのと同等ではないか。
オスプレイ配備云々だけが問題ではなく、沖縄の現在を知る機会を奪ったのだ。
子ども同士のいじめでは、加害者だけでなく、傍観している人間もいじめの加担者だといわれる。
では、この沖縄いじめはどうか。
あきらかな加害者である政府はもちろん、基地問題や沖縄の声に触れないメディアも加担者だ。
さらには、歴史も知らず、大きい者の声になびき、人の痛みに鈍感な者たちがそこに加わっている。
座り込むという精一杯の抵抗さえ無碍にし、虐げられてきた人びとを無情にも訴え、裁判にかけるという暴力をはたらくのが、この国の実態である。
『標的の村』が伝えようとする現実を、わたしたちは知らなくてはいけないはずだ。
ーーーーーーーーーーーーー
※
「標的の村」高江住民を告訴した政府」
- 関連記事
-
- 高江ヘリパッド、村議会が全会一致で禁止決議 (2015/02/25)
- 米軍による暴行拉致監禁!警察は追従し引き渡し後、送検までした! (2015/02/24)
- 辺野古反対指導者を米軍が暴力拘束、沖縄は全基地撤去を求める! (2015/02/23)
- 琉球処分の違法性、自己決定権の回復を:琉球新報 (2015/02/19)
- 翁長知事、防衛局に辺野古のブロック設置停止を指示 (2015/02/19)
- 政府の暴圧沖縄差別、高江ヘリパッド7歳女児まで告訴、加担するマスコミ (2015/02/16)
- 暴言と侮蔑の海兵隊、沖縄から出て行け! (2015/02/14)
- 日米一体の沖縄差別だ!暴力強行の海保、暴言妄言の海兵隊、拳銃で威嚇する米兵 (2015/02/12)
- 辺野古、暴力で強行する政府権力、県民はケガ人続出 (2015/01/31)
- 沖縄を踏みにじり、暴力で辺野古を強行する政権 (2015/01/30)
- 辺野古に横行する海保の危険な暴力、今度は馬乗り制圧 (2015/01/25)
インフレで実質賃金が大きく下がるなら、デフレのほうが大いにマシだ:中原
2015-02-16

ーーーーーーーーーーー
なぜインフレよりもデフレがいいのか 安倍政権の経済政策が最悪なワケ 2/16 中原圭介 東洋経済オンライン
ピケティの理論が、日本では当てはまらない理由
三井:中原さんは「過去の著書の主張がピケティに似ていると言われたことがある」とおっしゃっていましたが、それについてお話をうかがえないでしょうか。
中原:私の本を担当してくれた編集者から、そのようなことを昨年の夏頃に言われました。
「アメリカでピケティの英訳本が売れているのですが、僕が担当した中原さんの著書と似ている点がとても多かったんですよ」と、少し興奮気味でしたね。
その時はどこが似ているのかを聞かなかったのですが、日本で最近出版された本のサマリー(要約)を見た限りでは、株主資本主義では格差が拡大し続けること、経済学で使われている数学には惑わされないようにすること、著書に哲学的な思想や歴史的な考察が入っていることなどが似ているくらいではないでしょうか。
全体としては、私とピケティの著書が似ているとは思っていません。
(※ 北風:勤労家計の可処分所得の上り下りが国民経済を左右するものであり、資本の過剰蓄積が信用恐慌につながること。つまり勤労国民の労働と生活を最も重視する経済学でなければならない。この点が中原とピケティの共通点と思う。
当然、文章表現的な展開の結末は似ていることになるが、実証的な理論結果そのものは結構差異がある。
この差異は野口悠紀雄氏、吉田繁治氏なども同様と思う。)
そもそも、米欧の世界では通用するピケティの理論は、日本ではまったく当てはまりません。
それは第2回目の「なぜ21世紀型インフレは人を不幸にするのか」でもお話したように、日本の企業は株価が下がろうとも、収益率が下がろうとも、アメリカ企業のように大量解雇や大幅賃下げを行わずに、社員全員で賃金を少しだけ下げて痛みを分かち合うことで対応してきたからです。
これが「デフレの本当の正体」であり、米欧に比べて日本で格差が拡大しない原因でもあったわけです。
(※ 「全員で賃金を少しだけ下げて分かち合う」ことは欧米では極めて困難である。
なぜなら、企業内労組ではなく、欧米の労働組織は横断職種の産別単組が圧倒的であって、企業単位での賃下げなどは許されない。
闘えない企業内労組だからこそ可能な賃下げなので、勤労者の自立した闘う組織がないという長期歴史的には権利の擁護ができないため、労働力市場の機能がなく、労働者保護の規制もザルになっており、欧州並みの労働党、社民党が発達もしない。
私としては企業内労組を評価しない。労使、政治関係、経済関係などに弊害がありすぎるからである。)
ところが、その日本の長所を捨てさせようとしているのが、政府が成長戦略で示した「企業におけるROE重視の戦略」です。
この成長戦略をやりすぎてしまうと、日本の企業はアメリカ企業のように株主にしか迎合しない存在、すなわち労働者にとっては血も涙もない存在になりかねないのです。
三井:新刊『これから日本で起こること』では、地方経済が苦しんでいる現状について多くのページを割かれていらっしゃいますが、中原さんは地方経済の実態を、どのようにご覧になりますか。
アメリカの後追いで、日本は本当に格差社会に
中原:私は仕事で地方に足を運ぶ機会も多く、地方に行くたびにその地域の景況感をいろいろな立場の方々にお伺いしているのですが、すでに2013年後半には、大企業に勤める人々は「景気は少しずつ良くなっている」と喜んでいるのに対して、その他の多くの人々は「ぜんぜん景気は良くなっていない」とあきらめてしまっていました。
とりわけ、地方では弱い立場にある中小企業や零細企業の経営は、いっこうに良くなる兆しが見えず、円安による原材料費の高騰や電気料金の値上げなど、むしろ物価高からのコスト増によって苦しくなるばかりです。
大半の中小企業の声は、「コストダウン要請が厳しい」「先行きが見えない」など、いまだに悲観的な意見が多く聞かれている始末です。
このような意見は、地方に行けば行くほど、多く聞こえて来るようになっています。
厚生労働省の毎月勤労統計によると、日本全国の実質賃金は2014年(1月~11月)の平均で2.7%減となっていますが、都道府県別の毎月勤労統計によると、大都市圏と地方の労働者の間では実質賃金に大きな開きが生じてきています。
地方のなかでは県単位で見ると、実質賃金が4%あるいは5%下がっている自治体が、少なからずあるのです。
その一方で、富裕層と呼ばれる人々は「もっとアベノミクスを続けてくれ」と言っています。東京都心の赤坂や六本木界隈で聞いてもみなさん「景気はいい」と言っていますし、ある大企業の役員会でお話した時は、みなさん「僕のまわりはみんな景気がいい」と言っていました。
最近の日本の状況を見ていて思うのは、日本が2000年代前半のアメリカに似通った状況になってきていると感じられることです。
このままでは日本が本格的な格差社会になり、アメリカのように治安が悪く、国民同士が信じ合えない、ギスギスした社会になってしまわないかと、大いに懸念しているところです。
三井:話を聞いていると、円安よりは円高のほうが、日本経済、日本国民にとっては良いということなのでしょうか。
ドル円相場は「1ドル90円台半ば」が適正
中原:私がアベノミクス以降に一貫して主張してきたことは、日本の経済構造の変化に合わせて、行き過ぎた円高や行き過ぎた円安の水準は変わるはずであるということです。
たしかに、2000年代初めであれば、私も適正なドル円相場は120円くらいだと言っていたかもしれませんが、いまや日本経済の構造変化に伴って、行き過ぎた円安は弱者にしわ寄せが偏る性格を持ってしまっています。
そう考えると、国民全体にとっても、企業全体にとっても、国家財政にとっても、三方一両損ではないですが、ドル円相場は90円台半ばくらいが適正ではないかと思っています。そして、そういったことを考慮に入れながら、経済政策や金融政策は決めていかなければならないと強く思っているわけです。
第2回目の「なぜ21世紀型インフレは人を不幸にするのか」で述べた通り、2000年以降のアメリカの事例は、通貨安・物価高よりも通貨高・物価安の組み合わせのほうが、国民の生活水準の向上に寄与するだろうという事実を見事に示しています。
本当の景気回復とは、大多数の庶民と呼ばれる人々の生活が豊かになることであり、決して一部の大企業や富裕層たちに富が集中することではないのです。
また、アメリカの事例だけでなく、円安で好景気が続いたと言われる2005年~2007年の事例からも、「GDPは順調に拡大したが、実質賃金はマイナスとなり格差が拡大した」という教訓を、私たちはしっかりと学ぶ必要があるでしょう。
くどいかもしれませんが、かつては先進国でも見ることができたような「景気の拡大=実質賃金の上昇」「企業収益の拡大=実質賃金の上昇」という相関関係は、2000年以降のグローバル経済の進展やエネルギー資源価格の高騰によって、成立しなくなってしまったのです。
日本人は自らの価値観を守るために、すなわち雇用を守るために全体で賃金を引き下げてきました。
だから日本はデフレになったわけですが、2000年以降の実質賃金の推移を見ると、リーマン・ショック前後とアベノミクス以降を除いて、ほとんど下落していなかったという事実を無視してはいけません。
今のように経済がインフレ下で実質賃金が大きく下落している状況に比べれば、デフレ期のほうが大いにマシだったと言えるわけです。
私は常々、政治家ほど庶民の暮らし向きに敏感であってほしいと願っているのですが、
仮にも一国の首相が自分の周囲のお金持ちだけを見て「景気が回復している」と考えているようでは、日本の未来は少なくともあと数年は暗いものになるだろうと考えざるを得ません。
三井:今回は久しぶりにマーケットの見通しについても触れられているそうですね。中原さんが外国人投資家の動向について書かれているので、なんか懐かしい感じがいたしました。
次のマーケットの転換は、2015年から2016年前半か
中原:大きな流れがわかっている経済の予想とは異なり、マーケットの予想は殊のほか難しいので、拙書ではできる限り相場の予想を述べないことにしています。
ですから近年の私は、『2015年までは通貨と株で資産を守れ!』(フォレスト出版・2012年3月刊)を最後に、拙書の内容にはできるだけマーケットの予想を入れないことにしてきました。
2013年~2014年の拙書を振り返ってみても、マーケットに関しては「エネルギー価格は下がる」「ドル高になる」くらいしか述べていないと思います。
ところが、今回の新刊『これから日本で起こること』を書くに当たり、出版社サイドから『2015年までは通貨と株で資産を守れ!』での円相場・株価・金相場の予想が非常に良かったので、「何としても本書にも入れてほしい」という強い要望がありました。
そこで本書にかぎって「円安はどこまで進むのか?」と「外国人はいつ日本株を売ってくるのか?」の2本立ての予想を最後に持ってくることにしたわけです。
おそらく、このような試みは、拙書にとって最後のものとなるでしょう。
やはり、マーケットの予想は不確定な要素が多すぎるので、新しい情報が入ってくるたびに適宜修正を加えていく必要があります。そういう意味では、書籍はマーケットの予想には適していないと考えています。
しかし、それでも私がマーケットの予想を新刊で書いたのは、『2015年までは通貨と株で資産を守れ!』を書いた時のように、私自身がマーケットの転換点が2015年~2016年前半にやってくると感じているからなのかもしれません。
三井:最後の質問となりますが、日本経済が回復するためには、中原さん自身はどのような経済政策を行えばよいとお考えでしょうか?
中原:私がこれまで日本が取るべき経済政策として主張してきたのは、けっして過剰な金融緩和に頼ることなく、地道に時間をかけて成長産業の育成に力を注いでいくということです。
いくつもの成長産業を育成していけば、そのうちに外部環境が自然と日本に有利なように変わってきて、日本経済は良くなっていくだろうと考えていたからです。
詳しくは過去の著書でも触れていることですが、アメリカ経済が想定通りドル高を伴って2014年~2015年に本格的な復活をすれば、日本経済も2015年以降にその恩恵を受けることができるようになると、私は考えていました。
というのも、従来の貿易統計ではなく、付加価値で計算し直した貿易統計を見ると、日本が大幅な黒字を保っているのはアメリカに対してだけであるからです。
アベノミクスで、本格的な景気回復は3年遅れに
さらには、早ければ2016年にも原油価格が50ドル割れまで下落し、家計の消費余力が拡大すると見込んでいたので、成長戦略が実を結ぶ前であっても、日本経済は明るさを取り戻すだろうと考えていたわけです。
ところが、原油価格が想定以上に早く半値以下になることによって、世界的にガソリン価格が大きく下がっているにもかかわらず、日本ではその効果の大半が円安によって相殺されてしまっているので、他の国々に比べればガソリン価格が安倍政権発足時とそれほど変わってはいないのです。
結局のところ、安倍政権は(※ 日銀の量的緩和などしないで)成長戦略だけに専念して、アメリカの景気回復と原油価格の下落に伴うデフレを待っていれば、それだけで日本の景気にはだいぶ明るい兆しが見えてきていたはずなのです。
国民の実質賃金はそれだけで上がっていくわけですから。
今となっては、なぜアベノミクスのような筋の悪い政策を実行してしまったのか、残念に思えてなりません。
現状を冷静に見てみると、日本の本格的な景気回復は、あと3年は遅れてしまうだろうと見ています。
- 関連記事
-
- 16か月連続実収入減少、10か月連続実消費減少でも「持ち直している」との発表 (2015/02/28)
- インフレ政策で貧しくなる勤労国民:中原 (2015/02/24)
- 物価目標失敗によって成長率がプラスになった皮肉:野口 (2015/02/23)
- 17年間縮み続ける日本経済、物価が上がるだけの量的緩和 (2015/02/19)
- 家計貯蓄率のマイナスが続く、円の暴落と家計崩壊の危険 (2015/02/17)
- インフレで実質賃金が大きく下がるなら、デフレのほうが大いにマシだ:中原 (2015/02/16)
- 弱肉強食政策のオンパレードと「ベイル・イン」 (2015/02/10)
- 21世紀インフレは勤労者を不幸にする:中原 (2015/02/10)
- 脱法行為の国債買い入れで窮乏化、インフレ、日本売りへ進む日銀:野口 (2015/02/09)
- 中原圭介インタビュー「これから日本で起こること」 (2015/02/04)
- 円安とは賃金の自動引き下げ:野口 (2015/01/27)