報道しないマスコミ、山梨県が陸の孤島となっている、消防、救急、食料がない!
2014-02-16

観測史上最大の大雪となった山梨県は、全域が陸の孤島となっている。
人も物も移動できず、消防、救急も動けない非常事態が続いている。
運良く店にたどり着けても棚は空っぽだ。
なにより、今回の大雪について、こうした交通障害や非常事態になっていることを、マスコミがほとんど報道していないことが異様である。
Netなどの現地からの声は、どうしてこの大変な事態がニュースになっていないのか、疑問が多数出ている。
そして救出を願っている。
まさに原発と放射能の報道タブーを連想させる。
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山梨県がヤバい!ほぼ全ての道路が雪で閉鎖!電車などもストップし、陸の孤島状態に!ホテルなどで数百人が孤立! 2/16 「真実を探すブログ」から
先日に降った大雪の影響で、山梨県が孤立無援の状態になっています。
主要な道路は大半が雪で使用不可能になっており、陸路はほぼ全てが使い物になりません。
また、電車なども有名所は殆どが止まっているため、こちらもまともに使うことはできない状況です。
そのため、各地で物流が途絶え、備蓄が少なかった場所では食料不足などが発生し、かなり切羽詰まった状態になっています。
高速道路で孤立した女性が車を捨てて、徒歩で家に帰ろうとした所、そのまま雪に巻き込まれて凍死。
富士河口湖町のホテルでは数百人の宿泊客が孤立無援になっているとのことです。
このホテルは電気、ガス、水道など全てのライフラインが完全にストップ。
残されたのは一日分の食料だけで、政府の救援部隊も暴風などに阻まれて、今も近づけていません。
山梨県の積雪量は甲府市で100センチを観測し、多い場所では160センチを超えています。雪は2月16日時点でも溶けずに残っているため、来週に気温が上昇するまでは、孤立無援の状態が継続しそうです。

☆山梨県富士河口湖町のホテルで宿泊客100名以上が孤立 ライフラインがストップ 雪崩発生 救援求める
URL http://bylines.news.yahoo.co.jp/horijun/20140216-00032683/
引用:
深刻な雪害に見舞われた山梨県。
富士河口湖町のホテル「精進レイクホテル」では、15日午前6時頃から電気、ガス、水道など全てのライフラインがストップ。
ホテルの従業員や宿泊客として滞在中の慶応大学の学生82名が孤立している。
また、周辺のホテルでも40名程の宿泊客がおり、同じく孤立している。
ホテルに続く国道が雪や道路に乗り捨てられた車によって、通行ができないため、自衛隊などの救援が現地に入る見通しは立っていない。
責任者の小林さんによると、ホテルに面した山の斜面では1メートル50センチ程の積雪がアリ、15日午前4時頃、雪崩が発生。ホテル1階のガラス窓を突き破って建物の中にも雪が入ってきた。幸い、ケガ人は出なかったが、現場では引き続き雪崩への警戒が続いている。
ホテルでは15日午前、地元の富士河口湖町役場に災害派遣を要請。
役場が自衛隊と協議した結果、ヘリコプターを派遣して、食料などの物資を空から落とす予定だった。
しかし、その後役場から「天候や道路の状況から空路、陸路とも現地には入れないと連絡があった。
:引用終了

☆山梨県内のニュース
URL http://www.sannichi.co.jp/local/news/2014/02/15/11.html
引用:
甲府地方気象台は15日午前、山梨県全域に出ていた大雪警報を解除した。最大積雪量は甲府114センチ、河口湖143センチでいずれも観測史上最大。
各地で車が立ち往生したり、家屋が倒壊するなど深刻な影響が出ており、山梨県は15日、陸上自衛隊第1師団に災害派遣を要請した。
甲府地方気象台によると、15日夜の県内は雲が広がり、雨や小雪が降るところもある見込み。16日は日中は晴れ、風が強まりそう。16日朝の予想最低気温は甲府0度、河口湖は氷点下1度。雪崩や落雪、路面凍結などに注意が必要。
帰宅途中の女性が凍死か 富士河口湖
富士河口湖町大石の県道で15日午前7時40分ごろ、「女性が雪の中に倒れている」と通行人から119番があった。
倒れていたのは笛吹市の店員女性(56)で、搬送先の病院で死亡が確認された。
現場は若彦トンネル近く。県警によると、死因は凍死とみられる。
大雪で車が動かなくなったため、女性が勤務先の同町内のコンビニエンスストアから歩いて帰宅する途中で死亡したとみている。
北杜で立ち往生の車は27台 富士河口湖ではバス乗客をヘリで救助
北杜市小淵沢町の県道・北杜富士見線で14日夜、多数の車が立ち往生した。県によると動けなくなった車は乗用車、トラック計57台。
県には当初「車百数十台が立ち往生している」との情報が寄せられていた。ドライバーなど73人が北杜市小淵沢支所に一時避難し、食料などの提供を受けている。
富士河口湖町の西湖付近で観光バスが積雪で立ち往生していた事故で、陸上自衛隊は15日夕、救助作業を始めた。
ヘリで乗客ら19人を順次救助し、忍野村保健福祉センターに搬送している。
甲府の雪崩、残りの2人を救助
県警豪雪対策警備本部によると、甲府市古関町の芦川大橋付近の県道で発生した雪崩で、巻き込まれた車4台の運転者計4人のうち、残っていた2人は15日午後1時ごろ救助され、横浜市消防局のヘリで甲府市内の病院に搬送された。先の2人は14日午後8時すぎに自力で脱出した。
人身事故は36件、雪崩16カ所
県警のまとめによると、大雪の影響で14日午前0時~15日午後6時に県内では36件の人身交通事故が起き、49人がけがをした。いずれも軽傷。物損事故は267件だった。
また、「雪崩が発生した」という通報は道路沿いなど16か所であった。
:引用終了

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工藤函館市長、大間原発の建設差し止め訴訟を正式表明
2014-02-16

ブログに載せるのが遅れましたが、函館市が大間原発の建設差し止め訴訟を正式表明しました。
前例のない訴訟なので、当事者資格からの裁判所との闘いになると思われますが、この原発問題に光をあてる正しい行動と思います。
工藤市長の勇気と行動力、住民の健康と命を守る責任を果たすその決意を讃えます。
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大間原発差し止め正式表明 北海道・函館市長、来月にも提訴 2/13 北海道新聞
【函館】青森県大間町で建設中の大間原発をめぐり、函館市の工藤寿樹市長は12日の記者会見で、国と事業主体の電源開発(東京)を相手取り建設差し止めなどを求める訴訟を3月にも東京地裁に起こすことを正式に表明した。
市は27日開会予定の定例市議会に訴訟の関連議案を提出する。最終日の3月26日に議案は可決される見通しで、工藤市長は「その後、速やかに提訴する」としている。
訴状案の概要などによると、函館市は大間原発から最短23キロの距離にあり、「事故が起きれば壊滅的な被害を受ける」と強調。人に生命や身体などの安全が保障される「人格権」があるのと同様、自治体にも崩壊を回避し、存続を図る権利があると主張した上で、電源開発に対し原発の建設と運転の差し止めを求め、国には電源開発に建設停止を命ずることと原子炉設置許可の無効確認を求めている。
原発をめぐり自治体が国と事業者を相手に起こす全国初の訴訟となる。
東京電力福島第1原発の事故後、国は事故を想定した避難計画策定など防災対策を重点的に行う地域(緊急防護措置区域=UPZ)を原発から30キロ圏内と定めた。
工藤市長は会見で「UPZ圏内にある函館市に対し、説明会が一度も開かれていない。こんなやり方は受け入れられない」と、訴訟に踏み切る理由を説明した。
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中国の日本兵と銃後の日本人、闇と光
2014-02-16
私が子供のころに、また職場の先輩から直接聞いた話。
「満州に行って先に入っていた友人と同行して人力車に乗った。到着して人力車を降りた。車夫はお金をもらうために手を出した。友人は車夫の顔に往復ビンタを張って、近くの警察に引き渡した(日本の警察は街中にいっぱいいた)。車夫がどうなったかはわからない。」
「どん底の貧しさになった満州の村にチブス、ペストが発見される。石井部隊の指令で村は焼き払われる。住民は寒さのなかで死んでいったと思う(伝染病菌を石井部隊が散布し、その始末として軍警に村を焼き払わせていた)。」
「自分の父が戦争で中国に行った時の話だ。小屋の穴に隠れていた娘さんを、皆で剣付き鉄砲で突いてひきづり出した、そして中尉殿に献上した。と聞いた。」
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中国で見た日本の軍人 2/15 小澤俊夫 リベラル21
ぼくは小学校入学の一年前、1936年(昭和11年)、父の仕事の都合で瀋陽(当時の奉天)から北京に移住し、翌年、北京の日本人小学校に入学した。
その頃、北京在住の日本人は約700人といわれていた。
ところが1937年(昭和12年)7月に、いわゆる盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発して、日本軍が北京周辺を制圧すると、日本の軍人、民間人が瞬く間に増えていった。ぼくが一年生の時には1クラスだったが、二年生の時には2クラスになっていた。
日本軍が制圧した北京市だから、日本人は威張っていた。
あるとき、ぼくの目の前で洋車(ヤンチョウ。人力車)がとまり、日本の兵隊が降りてきた、と思ったらそのまま歩いて行ってしまった。料金を払っていないのである。
あれっ、と思って見ていると、洋車引きが追いかけていって、手を出した。
すると、兵隊は腰のサーベルを半分くらいさっと抜いて洋車引きをにらみつけた。洋車引きはあとずさりして、何か叫びながら逃げてきた。
兵隊はサーベルを鞘に収めると、そのまま行ってしまった。
ぼくは子どもながらに、これはおかしいと思った。
料金を踏み倒して、サーベルを抜いて脅かすとは何事か、とぼくは腹を立てた。日本の兵隊のいやな面を見てしまった思いで、今でも忘れられないでいる。
北京には日本軍の野戦病院が開かれた。それは中国で最も権威有る大学とされていた清華大学だった。
清華大学は現在でも中国の中心的な大学である。それを占領して野戦病院にしたのであった。
日本で言えば、東京大学を占領して野戦病院にしたようなものである。
中国の文化人たちは、「なんと野蛮なことだ」と思ったことだろう。
小学三年と四年の頃、ぼくはよく、クラスの友だちと、あるいは母に連れられて、傷病兵の慰問に行った。
地雷で片脚を失った兵隊、目をつぶされた兵隊、片腕をもぎ取られた兵隊など、胸がふさがるような病室だった。
兵隊たちはぼくら子どもが慰問にいくと、とても喜んで、ぼくらの周りを取り囲んでいろいろな話をしてくれた。
ほとんどは戦場での手柄話だった。
進軍していって、途中の畑で人が働いていると、それが老婆であれ、子どもであれ、必ず射殺したものだ、何故なら、その老婆が、われわれのことを通報する可能性があるからだ、という兵隊もいた。
敵に自分たちの行動を知られたくないためだという。
その兵隊は、手柄話として得意になって話したのだが、ぼくは、子どもながらに、おばあさんや子どもまで射殺するとは、ひどいことだと思った。
でも兵隊にしてみれば、スパイを働く人間としか見えないのだろう。
もっとすごいことを、得意になって話す兵隊がいた。
抵抗分子が潜んでいるとみて、ある村に進軍した。
ところが撃ってこない。どこかに潜んでいるに違いないが、村を捜索してもそれらしき男はいない。
そこで、村人全員に食料を配給するという知らせを回した。
そして、集まってきた村人を一軒の農家に入れて、農家に火をつけた。農民は大混乱におちいったが、外へ脱出した者は機関銃で皆殺しにした。
この話は怖かった。
でも、兵隊は手柄なのだから、得意になって話した。周りの兵隊たちも満足そうに聞いていた。
ぼくはこどもだったけれど、後で思った。これは人殺しじゃないか。
戦争でなかったら明らかに犯罪だ、と戦争への疑問が生まれた経験だった。
南京攻略の時のことを話してくれた兵隊がいた。南京城をめぐる攻防は激しく、なかなか埓があかなかった。そこで最後には毒ガス攻撃をしたと、得意げに話した。
毒ガスは国際的に使用禁止になっていることは知っていたので、ぼくは驚いた。
だが兵隊たちは、当たり前のように話していた。
また、しまいには膨大な数の投降兵がでたので、奴らに溝を掘らせ、その前に一列に並ばせておいて、機関銃で1遍に片付けたもんだ、と言った兵隊もいた。
これは具体的に場面を想像してみると、すさまじい場面である。後に、南京大虐殺として国際的に糾弾された事件だったのだと思う。
こういう話を、みんな手柄話として、得意満面で話して聞かせるのであった。
ぼくらはこわごわ聞いた。
それでも、後から、「これは普通の時ならば犯罪じゃないか。戦争だからいいのかなあ?」という疑問はいつも抱いていた。
(※ もうすぐ北風:当時日本軍の方面軍指令は、南京突入による混戦虐殺などの事態を考慮して、中国軍が城市を離れるまで軍は近郊にとどまれ。と言う指令であった。
ところが皇族の「朝香宮」は「お上(総和天皇)の声だ、生きてるものは皆殺せ!」と南京突入を指令し、大虐殺を実行した。
この「朝香宮」は軍規違反に問われず、国際法違反も問われず、東京裁判にも問われなかった。昭和天皇と同じなことは言うまでもない。)
1941年(昭和16年)5月、ぼくたち家族は日本へ引き揚げ、東京府の立川市にすむことになった。
その頃、戦地に対して国内のことを「銃後」と呼んでいた。明らかに軍国主義国家の生んだ呼び方である。
戦地から銃後に移住してくると、男たちが次々に召集されていく場面をたびたび見ることになった。
父が、夫が、息子が赤紙で召集されていった。
家庭では、赤い召集令状が来ると、涙をこらえて別れをし、国防婦人会のたすきを掛けた婦人たちに見送られて入隊していった。
近所の住民たちは、弾丸除けの千人針を作って召集兵に贈り、武運長久を祈った。立川駅では町会や隣組の人たちが万歳三唱して召集兵を見送った。
「軍国の母は泣かない」と常日頃いいきかせられているので、母や妻たちは涙を見せず、立派に見送っていた。
残された家庭では、慰問袋を作って、戦地にいる父、夫、息子に送った。
そこには心を込めた品々が入れられた。皆、戦場の父は、夫は、息子は皇軍兵士として立派に行動しているものと信じていたのである。
ところがぼくは、戦地での日本兵を知っていたので、そこに大きな差があることに気がついた。
銃後では愛する父であり、夫であり、息子である者が、戦地では老婆でも子どもでも無差別に射殺する鬼のような日本兵になる事実。
村人たちを一軒の農家に閉じ込め、火をつけて皆殺しにする日本兵になる事実。
多数の捕虜を並ばせておいて、機関銃でなぎ倒す日本兵になる事実。
この大いなる乖離は、銃後にいる人は全く知らない。
愛する、優しい父、夫、息子が立派な殊勲を立てて帰国する日を、ひたすら待ちわびているのである。
一人一人の人間の、この大きな分裂を銃後の人は知らない。戦地から来る知らせは、せいぜい父が、夫が、息子が戦死したという悲しい知らせである。
敗戦後の日本人は忘れてしまっている。
無事帰還した兵隊は、家族には何も話さなかった。
そのことは、多くの婦人たちが証言している。
帰還した元日本兵にしてみれば、平和になった故郷で、家族に話せるような体験ではなかったのだ。
逆に、外国、特に直接の被害を受けたアジアの人は、、優しい父、夫、息子という日本人は知らない。
彼らにとって日本人は、残虐行為をした人間そのものなのである。
その認識に基づいて、日本人の犯罪行為の追及が行われる。
ところが、日本人にとっての日本兵は、やさしい父、夫、息子なのである。
われわれ日本人は、あの戦争のことを考えるとき、目線の方向によって日本人像がまったく異なることを忘れてはならない。
つまり、銃後の、そして戦後の日本国内での日本人像を描きながら戦争を論じたら、世界的には全く通じないのである。
あの戦争は、動機はいろいろあったにせよ、アジアへの侵略戦争であった。そしてその中で残虐行為があった。
無関係な女性を引っ張り回して慰安婦とした事実もあった。
銃後の人は知らなくとも、アジアの人は知っていた。そして、日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたのである。
つまり全体主義をやめ、民主主義国家の仲間に入れてもらうことを約束したのである。
だから、全体主義時代に犯した罪を償うのは当然のことである。
それをちゃんとしてこないで、なんとなく賠償して、これですんだ、としてしまっても、外国は了承してくれない。
今日本はそういう状態に陥ってしまっている。
一言で言えば、政治家たちは歴史から学ばず、銃後の目で見ているだけなのである。
そして、敗戦は終戦になっているから、全体主義は継続して生きているのである。
その「日本を取り戻す」ためには官僚機構が強くならなければならない。
そこで「特定秘密保護法」が必要なのである。
戦争中の「銃後」の世界と戦地での日本兵の世界の乖離を、遅まきながら、しっかり把握して政治を行わなければ、日本は国際社会から置いてきぼりにされてしまうのである。(2014/01/28)
「満州に行って先に入っていた友人と同行して人力車に乗った。到着して人力車を降りた。車夫はお金をもらうために手を出した。友人は車夫の顔に往復ビンタを張って、近くの警察に引き渡した(日本の警察は街中にいっぱいいた)。車夫がどうなったかはわからない。」
「どん底の貧しさになった満州の村にチブス、ペストが発見される。石井部隊の指令で村は焼き払われる。住民は寒さのなかで死んでいったと思う(伝染病菌を石井部隊が散布し、その始末として軍警に村を焼き払わせていた)。」
「自分の父が戦争で中国に行った時の話だ。小屋の穴に隠れていた娘さんを、皆で剣付き鉄砲で突いてひきづり出した、そして中尉殿に献上した。と聞いた。」
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中国で見た日本の軍人 2/15 小澤俊夫 リベラル21
ぼくは小学校入学の一年前、1936年(昭和11年)、父の仕事の都合で瀋陽(当時の奉天)から北京に移住し、翌年、北京の日本人小学校に入学した。
その頃、北京在住の日本人は約700人といわれていた。
ところが1937年(昭和12年)7月に、いわゆる盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発して、日本軍が北京周辺を制圧すると、日本の軍人、民間人が瞬く間に増えていった。ぼくが一年生の時には1クラスだったが、二年生の時には2クラスになっていた。
日本軍が制圧した北京市だから、日本人は威張っていた。
あるとき、ぼくの目の前で洋車(ヤンチョウ。人力車)がとまり、日本の兵隊が降りてきた、と思ったらそのまま歩いて行ってしまった。料金を払っていないのである。
あれっ、と思って見ていると、洋車引きが追いかけていって、手を出した。
すると、兵隊は腰のサーベルを半分くらいさっと抜いて洋車引きをにらみつけた。洋車引きはあとずさりして、何か叫びながら逃げてきた。
兵隊はサーベルを鞘に収めると、そのまま行ってしまった。
ぼくは子どもながらに、これはおかしいと思った。
料金を踏み倒して、サーベルを抜いて脅かすとは何事か、とぼくは腹を立てた。日本の兵隊のいやな面を見てしまった思いで、今でも忘れられないでいる。
北京には日本軍の野戦病院が開かれた。それは中国で最も権威有る大学とされていた清華大学だった。
清華大学は現在でも中国の中心的な大学である。それを占領して野戦病院にしたのであった。
日本で言えば、東京大学を占領して野戦病院にしたようなものである。
中国の文化人たちは、「なんと野蛮なことだ」と思ったことだろう。
小学三年と四年の頃、ぼくはよく、クラスの友だちと、あるいは母に連れられて、傷病兵の慰問に行った。
地雷で片脚を失った兵隊、目をつぶされた兵隊、片腕をもぎ取られた兵隊など、胸がふさがるような病室だった。
兵隊たちはぼくら子どもが慰問にいくと、とても喜んで、ぼくらの周りを取り囲んでいろいろな話をしてくれた。
ほとんどは戦場での手柄話だった。
進軍していって、途中の畑で人が働いていると、それが老婆であれ、子どもであれ、必ず射殺したものだ、何故なら、その老婆が、われわれのことを通報する可能性があるからだ、という兵隊もいた。
敵に自分たちの行動を知られたくないためだという。
その兵隊は、手柄話として得意になって話したのだが、ぼくは、子どもながらに、おばあさんや子どもまで射殺するとは、ひどいことだと思った。
でも兵隊にしてみれば、スパイを働く人間としか見えないのだろう。
もっとすごいことを、得意になって話す兵隊がいた。
抵抗分子が潜んでいるとみて、ある村に進軍した。
ところが撃ってこない。どこかに潜んでいるに違いないが、村を捜索してもそれらしき男はいない。
そこで、村人全員に食料を配給するという知らせを回した。
そして、集まってきた村人を一軒の農家に入れて、農家に火をつけた。農民は大混乱におちいったが、外へ脱出した者は機関銃で皆殺しにした。
この話は怖かった。
でも、兵隊は手柄なのだから、得意になって話した。周りの兵隊たちも満足そうに聞いていた。
ぼくはこどもだったけれど、後で思った。これは人殺しじゃないか。
戦争でなかったら明らかに犯罪だ、と戦争への疑問が生まれた経験だった。
南京攻略の時のことを話してくれた兵隊がいた。南京城をめぐる攻防は激しく、なかなか埓があかなかった。そこで最後には毒ガス攻撃をしたと、得意げに話した。
毒ガスは国際的に使用禁止になっていることは知っていたので、ぼくは驚いた。
だが兵隊たちは、当たり前のように話していた。
また、しまいには膨大な数の投降兵がでたので、奴らに溝を掘らせ、その前に一列に並ばせておいて、機関銃で1遍に片付けたもんだ、と言った兵隊もいた。
これは具体的に場面を想像してみると、すさまじい場面である。後に、南京大虐殺として国際的に糾弾された事件だったのだと思う。
こういう話を、みんな手柄話として、得意満面で話して聞かせるのであった。
ぼくらはこわごわ聞いた。
それでも、後から、「これは普通の時ならば犯罪じゃないか。戦争だからいいのかなあ?」という疑問はいつも抱いていた。
(※ もうすぐ北風:当時日本軍の方面軍指令は、南京突入による混戦虐殺などの事態を考慮して、中国軍が城市を離れるまで軍は近郊にとどまれ。と言う指令であった。
ところが皇族の「朝香宮」は「お上(総和天皇)の声だ、生きてるものは皆殺せ!」と南京突入を指令し、大虐殺を実行した。
この「朝香宮」は軍規違反に問われず、国際法違反も問われず、東京裁判にも問われなかった。昭和天皇と同じなことは言うまでもない。)
1941年(昭和16年)5月、ぼくたち家族は日本へ引き揚げ、東京府の立川市にすむことになった。
その頃、戦地に対して国内のことを「銃後」と呼んでいた。明らかに軍国主義国家の生んだ呼び方である。
戦地から銃後に移住してくると、男たちが次々に召集されていく場面をたびたび見ることになった。
父が、夫が、息子が赤紙で召集されていった。
家庭では、赤い召集令状が来ると、涙をこらえて別れをし、国防婦人会のたすきを掛けた婦人たちに見送られて入隊していった。
近所の住民たちは、弾丸除けの千人針を作って召集兵に贈り、武運長久を祈った。立川駅では町会や隣組の人たちが万歳三唱して召集兵を見送った。
「軍国の母は泣かない」と常日頃いいきかせられているので、母や妻たちは涙を見せず、立派に見送っていた。
残された家庭では、慰問袋を作って、戦地にいる父、夫、息子に送った。
そこには心を込めた品々が入れられた。皆、戦場の父は、夫は、息子は皇軍兵士として立派に行動しているものと信じていたのである。
ところがぼくは、戦地での日本兵を知っていたので、そこに大きな差があることに気がついた。
銃後では愛する父であり、夫であり、息子である者が、戦地では老婆でも子どもでも無差別に射殺する鬼のような日本兵になる事実。
村人たちを一軒の農家に閉じ込め、火をつけて皆殺しにする日本兵になる事実。
多数の捕虜を並ばせておいて、機関銃でなぎ倒す日本兵になる事実。
この大いなる乖離は、銃後にいる人は全く知らない。
愛する、優しい父、夫、息子が立派な殊勲を立てて帰国する日を、ひたすら待ちわびているのである。
一人一人の人間の、この大きな分裂を銃後の人は知らない。戦地から来る知らせは、せいぜい父が、夫が、息子が戦死したという悲しい知らせである。
敗戦後の日本人は忘れてしまっている。
無事帰還した兵隊は、家族には何も話さなかった。
そのことは、多くの婦人たちが証言している。
帰還した元日本兵にしてみれば、平和になった故郷で、家族に話せるような体験ではなかったのだ。
逆に、外国、特に直接の被害を受けたアジアの人は、、優しい父、夫、息子という日本人は知らない。
彼らにとって日本人は、残虐行為をした人間そのものなのである。
その認識に基づいて、日本人の犯罪行為の追及が行われる。
ところが、日本人にとっての日本兵は、やさしい父、夫、息子なのである。
われわれ日本人は、あの戦争のことを考えるとき、目線の方向によって日本人像がまったく異なることを忘れてはならない。
つまり、銃後の、そして戦後の日本国内での日本人像を描きながら戦争を論じたら、世界的には全く通じないのである。
あの戦争は、動機はいろいろあったにせよ、アジアへの侵略戦争であった。そしてその中で残虐行為があった。
無関係な女性を引っ張り回して慰安婦とした事実もあった。
銃後の人は知らなくとも、アジアの人は知っていた。そして、日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたのである。
つまり全体主義をやめ、民主主義国家の仲間に入れてもらうことを約束したのである。
だから、全体主義時代に犯した罪を償うのは当然のことである。
それをちゃんとしてこないで、なんとなく賠償して、これですんだ、としてしまっても、外国は了承してくれない。
今日本はそういう状態に陥ってしまっている。
一言で言えば、政治家たちは歴史から学ばず、銃後の目で見ているだけなのである。
そして、敗戦は終戦になっているから、全体主義は継続して生きているのである。
その「日本を取り戻す」ためには官僚機構が強くならなければならない。
そこで「特定秘密保護法」が必要なのである。
戦争中の「銃後」の世界と戦地での日本兵の世界の乖離を、遅まきながら、しっかり把握して政治を行わなければ、日本は国際社会から置いてきぼりにされてしまうのである。(2014/01/28)
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