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エジプトクーデター、ダブル基準で偽善だらけの欧米

 エジプト軍

 エジプト軍の弾圧:民主主義と偽善  英エコノミスト誌 翻訳JBPress

 カイロで起きた非武装のイスラム教徒に対する銃撃を欧米が非難しなかったことは、臆病であり、短絡的だった。

 この6月にトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が自国民に対して催涙ガスや放水銃を使用したことで受けた激しい非難を覚えておいでだろうか? 
 ウラジーミル・プーチン氏がロシア軍にモスクワの路上のデモ隊に実弾を発砲するよう命じたら、どんな憤激を招くか想像してみてほしい。

 だが、7月最後の週末、エジプト軍が大勢のデモ隊を殺害し始めた時、欧米はしかめ面をして見せ、暴力を自制するようすべての当事者に訴えるだけだった。
 そうした控えめな対応は、道徳的な勇気の欠如だけでなく、エジプトの、そして欧米の真の利益がどこにあるか分かっていないことを露呈している。

 銃撃事件が起きたのは7月27日早朝、30年前にアンワル・サダト大統領が暗殺された練兵場の近くだった。
 7月初めに軍事クーデターで追放されたムハンマド・モルシ氏の支持者らは、軍に対してモルシ氏の大統領職復帰を要求するためにデモ行進していた。
 そこへ武装警官(および民間の軍支持者)が発砲した。
 モルシ氏が所属するムスリム同胞団のメンバー80人以上が死亡し、それを上回る負傷者が出た。

 殺害の後、バラク・オバマ米大統領は自身の考えを明らかにしなかった。
 意見を述べる役目はジョン・ケリー国務長官に任され、ケリー氏は単にエジプトの指導者たちに「崖っぷちから一歩下がるよう」求めただけだった。
 同様に、英国ではデビッド・キャメロン首相がウィリアム・ヘイグ外相にエジプトの将官たちに警告する仕事を委ねた。

  西側諸国のダブルスタンダード

 モルシ氏の追放に対する米国の抗議は、エジプトに対するF16戦闘機の供与を遅らせることだった。
 しかし、その控えめなジェスチャーも、銃撃事件の直前に台無しになった。
 エジプトでクーデターがあったことを認めると、エジプトに対する援助が自動的に打ち切られる可能性があったために、オバマ政権はエジプトでクーデターがあったと言うことを拒み、賢明でない前例を作ってしまったのだ。

 ムスリム同胞団、そして中東全域のイスラム教徒たちは一連の経緯から、欧米は世俗主義者が攻撃を受けている時にはある基準を適用し、イスラム教徒が攻撃されている時は別の基準を適用するという結論を下すだろう。
 彼らとしては、民主主義は普遍的な政体ではなく、世俗派を権力の座に就かせるためのトリックだと考える。

 欧米が、ムスリム同胞団がエジプトの政治プロセスに復帰するのを思いとどまらせたいのであれば、これ以上良い方法はなかなか思いつかない。

 いずれにせよ、たとえムスリム同胞団が政界復帰を望んでいると仮定しても、軍がそれを許すかどうかは分からない。将官たちは今、欧米が自分たちに多かれ少なかれフリーハンドを与えてくれたことが分かっている
 アブデル・ファタフ・アル・シシ国防相は、7月26日のデモ行進によって「潜在的なテロ」と戦う「権限」が与えられたと主張している。
 新政府は既に、ホスニ・ムバラク政権において嫌われていた治安機関を復活させている。

 モルシ氏を追放するために軍に協力したリベラルなエジプト人は、その熱意を悔やむことになるだろう。
 確かにムスリム同胞団による統治はひどかった。同胞団は自分たちの権力基盤を固めることに着手し、経済を無視した。彼らは無秩序で党派に偏っていた。
 だが、イスラム主義者はエジプトの人口の大半を占めている。彼らを政治から排除する方法は唯一、治安部隊が大半の権限を握ることだ。それが実現すると、エジプトは自由な国として機能しない

  利口過ぎて嫌われる

 欧米は民主主義の普及に関心がある。しかも、それはエジプトに限ったことではない。
 民主化のプロセスは容易でもなければ、不可避でもない。
 現実政治を学ぶ賢い人たちが、エジプトでは軍が権限を掌握しているのだから将官たちと良い関係を保つべきだとオバマ、キャメロン両氏に助言したに違いない。

 しかし、まずクーデターに対して、そして今度は非武装の民間人への銃撃に対して非難することを露骨に避けることで、欧米は随所にいる民主主義の敵の見解を裏付けてしまった
 すなわち、欧米の説教は偽善だらけだということだ。

 オバマ氏が次に権威主義者に対して公民権を尊重するよう迫る時、その分だけ正当性を主張することが難しくなったと感じるだろう。
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終戦からの米国依存と昭和天皇

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  社説 歴史は沖縄から変わる 終戦の日に考える  2010/8/15 中日新聞、東京新聞 時事放論 岳道茶房から

 鳩山由紀夫前首相を退陣させた普天間基地問題は、沖縄の戦後がなお終わっていないことを告げる事件でした。歴史は沖縄から変えねばなりません。

 「米国に依存しつづける安全保障、これから五十年、百年続けていいとは思わない」。前首相の辞任演説。同感なのですが、いったいこの米国依存の体質はどこからきたのでしょうか。

 その疑問に答えてくれたのが岩波現代文庫の「昭和天皇・マッカーサー会見」に収められた豊下楢彦関西学院大学法学部教授の論考で、意外なことに「昭和天皇」というのが回答でした。

  ■昭和天皇の至上課題

 昭和天皇研究は平成になって飛躍的に発展したとされます。「昭和天皇独白録」や元宮内庁長官の「富田メモ」など重要資料の発見が相次いだからです。
 膨大な未解明資料を解読した豊下教授の研究は従来の昭和天皇像、戦後史観を根底から覆します。

 敗戦で昭和天皇が直面したのは言うまでもなく戦犯としての訴追と憲法改正による天皇制消滅の危機でした。
 マッカーサー元帥の協力で極東軍事裁判を切り抜け、新憲法で象徴となった天皇が直面した次なる危機が共産主義の脅威。
 昭和天皇にとり日本を守ることと天皇制を守ることは同義でした。

 非武装が日本の最大の安全保障とする理想主義のマッカーサーに対して昭和天皇はリアリストでした。
 憲法九条や機能不全の国際連合では日本を守れず、米軍依拠の天皇制防衛の結論に至ったといいます。

 かくして、「米軍駐留の安全保障体制の構築」が昭和天皇の至上課題となり、象徴天皇になって以降も、なりふり構わぬ「天皇外交」が展開されたというのが豊下説の核心部です。

 例えば一九四七年九月、宮内省御用掛寺崎英成を通じてマッカーサーの政治顧問シーボルトに伝えられた有名な天皇の沖縄メッセージは「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」「米国による沖縄占領は共産主義の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」などの内容。沖縄の戦後の運命が決定付けられてしまったかもしれません。

  ■安保下の新たな国体

 五一年締結の安保条約については、吉田茂首相が米国務省顧問のダレスの再軍備要求を断固拒否、軽武装・経済第一の戦後路線を敷いたというのが通説ですが、ダレスの要求は米軍の基地自由使用権だった。
 その要請は天皇によって満たされたといいます。

 豊下教授は、もう一つの戦後史・安保体制という新たな「国体」を描き出しますが、独立国をめざす気概が存在した当時の外務省、もし天皇外交がなければ日本外交は選択肢の幅を広げ、より柔軟なダイナミズムを発揮し得たと想像します。
 安保の呪縛(じゅばく)は戦後の日本外交から矜持(きょうじ)も気概も奪いました。

 沖縄返還は七二年五月でした。ここでも基地負担軽減の県民の悲願は達成されませんでした。

 佐藤栄作首相の密約を交わしてまでもの核抜き・本土並みの返還要求でしたが、米側はしたたか。核をカードに狙いは基地の自由使用。
 懸念された通り基地の固定化になってしまいました。
 誠実、誠意が手玉に取られた格好でした。

 佐藤首相の密使として奔走した国際政治学者若泉敬氏は「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の著書を残して九六年七月、自殺しています。
 「鋭利な刃で五体を剔(えぐ)られるよう」な自責と結果責任からとされます。
 無念は引き継がれなければなりません

 挫折したとはいえ鳩山前首相の普天間基地問題への取り組みと挑戦は未来につながったかもしれません。

 火が付いた沖縄県民の「県外・国外移設」の要求が消えるとは思えません。
 冷戦構造が残る東アジアで沖縄の戦略的価値が高いとはいえ、海兵隊の移転が抑止力や日米安保崩壊に至るとも思えないからです。
 この点について本土の理解も深まっています。

 ベルリンの壁崩壊と時を同じくした平成も二十二年。世界は多極化し、対決から共生の時代へ大きく流れを変えようとしています。
 ゆっくりでも歴史の進歩を信じたいものです。

  ■沖縄のこころ世界に

 沖縄南部の激戦地、糸満市の摩文仁の丘の平和祈念公園内に九五年に建立された慰霊碑「平和の礎(いしじ)」には二十余万人の犠牲者の名前が刻まれます。

 沖縄県内と県外、日本人ばかりでなく米国、英国、台湾、韓国、北朝鮮の人々の名も。
 敵も味方もなく等しく犠牲者だという共生の思想。
 紺碧(こんぺき)に盛り上がる太平洋、沖縄の「平和のこころ」は世界に伝わっていくでしょう。
 深い哀(かな)しみを知る者たちこそ、深い共感を広げられるでしょうから。
 ーーーーーーーーーーーーーー
※ 天皇メッセージ  沖縄県公文書館

  米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20年3月25日)

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】

内容は概ね以下の通りです。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。

メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。

1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。
 天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
≫PDF画像(2頁)(226KB)
 ーーーーーーーーーーーーー
 ※ 「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。
 昭和天皇への戦争資金を国際金融資本が調達していたわけだが、金額も、返済にいかなる方法をとったのかも不明である。
 私的資本と私人間なので公文書とは異なり、永遠の闇となるだろう。
 
 方面軍の指示にに逆らい、南京大虐殺を引き起こしたのは軍団長などの「武断派」が「上(天皇)の意志に従う」として作戦を強行したため。「武断派」は南京強行突入を天皇の直接指示として方面軍の指示を無視した。

 まさに、他にも会議参加者の日記など重要資料の発見が相次いだために飛躍的に発展したのが昭和天皇の研究である。
 神格化されていたために、戦前戦中の公式記録はほとんど天皇の指示、指揮には触れない。
 少なくとも「第二次世界大戦で日本の天皇は実質的に軍と官僚を指揮しておらず、名目的な君主制だった。」
 というのは天皇制を防衛するために、米国が主導してきた大宣伝であることが明らかになってきている。

 マッカーサーにとって、天皇の戦争責任、天皇制の扱いをどうするかは戦争中期からの懸案だったはず。
 末期になり先行した欧州戦線の処理から、戦後の米英とソ連の対立が必至となるに従い、天皇制の温存に傾いていったことだろう。
 米軍の国土自由使用と天皇制の防衛が、利害の一致を見たためである。
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