小沢氏3/10富山「あの時の初心を思い起こそう」
2013-03-14

3/10小沢一郎代表 富山婦中下吉川公民館演説 「日々坦」々から
(以下、書き起こし)
皆様には昨年末の総選挙、大変ご苦労をおかけし、ご迷惑をお掛けし、ご心配をお掛けいたしました。
結果的に厳しい国民皆さんの審判になったわけでありますけれども、今、広野議員からお話がありましたように、私ども自由党として、我々の主張をどこまでも貫いていきたいと…。
そういう思いで自由党を結成したわけだったんですけれども、ただ、本当に政権を取るためには、やはり広く皆さんの意見を受け止める受け皿が必要である、
そういう思いで民主党と合併したわけであります。
その当時、この政党が政権とるなんて、たぶん、国民にみなさん誰も思わなかったろうと思います。
しかし、みんなで頑張り、私も民主党の代表として、また、最終的に選挙の責任者として、ほんとに47都道府県、全部歩いて国民皆様に政権交代の必要性を訴えて参りました。
そういう立場からいたしますと、その後の民主党政権が本当に、あのときも国民みなさんの熱い支持が、期待外れに変わってしまったと、そして昨年末の選挙で遂に惨敗を喫し、政権を離れてしまったと・・・。
私にとりましても本当に残念無念であります。
そういう意味におきましても、政権交代というのは、小選挙区制にしたときから、政権交代をしやすくしようということで選挙制度を変えたわけですから、
そのこと自体はいいですけれども、折角、国民みなさんの圧倒的な期待でもってできあがった民主党政権。それが期待外れに終わってしまったと。
大変、私も責任を痛感いたしております。
ただ、私自身は検察の妨害工作によりまして政治活動を制約されてしまいました。
本当に、これまた残念無念で思いでおりましたけれども、ようやく冤罪に、皆さんのお力のお陰で晴れまして、
これからという時に総選挙ということにぶつかってしまいました。
本当に残念ですが、しかし、だからといって負けちゃって残念だ、しかたがない、と言ってたんでは、政治家としての責任を果たすことにはならない。
私は、だからあの時の初心を思い起こそう。原点に帰れ、と…。
そうすれば必ず、国民の皆さんがもう一度、支持してくれるはずだ、と。
私はそう確信しております。
選挙の結果、また自民党政権に戻りました。
しかし、みなさんに考えていただきたいことは、今の安部政権は、結局はかつての自民党政権の同じような手法、考え方でやっているだけであります。
長い長期政権の間に、特に小泉政権の時に、市場原理、競争原理、競争して強い者が生き残ればいいんだ、生産性の低い産業はもういらない、世界で戦える大きな産業、企業があればいいんだ、と…。
そしてそれを大きく大きくして、そうすれば結果的に国民みなさんにも所得の配分が成されるんだと、まあ、こういう話でした。
しかし、現実にはどうでしょうか。
小泉政権以来、ずぅーっと国民みなさんの所得は下がりっ放しです。
そして大企業では今260兆円と言われる、いわゆる内部留保、貯金を企業は持っている。
その意味において、まさに大企業は、非常に懐具合もよくなりました。経営者の所得は現実に高くなっております。
しかし、一方では今言った通り、一般の皆さんは所得はずっと低く、去年もまた国民所得は減りました。
そういう中で、所得の格差、それから地域の格差。
私も皆さんよりも、さらにさらに北国の岩手県の出身であります。
同じような、私自身は全く米作地帯のど真ん中で生まれ育っておりまして、今、なお田んぼで多少作っております。
そういう地域の問題意識としては、皆さんと同じような問題を抱えていると思います。
このままの、また元に戻った、国と政府を継続するならば、所得の格差、地域間の格差、これはドンドン広がる結果になり、その中で大都市集中、地方は、我々の故郷は、高齢化、過疎化にドンドンなっていって、ほんとに寂れてしまう。
こういう国政を繰り返しちゃいかん。
我々の失敗でまた元に戻してしまったけど、もう一度、国民生活が第一、国民の暮らしに目を向けた政権を是非とも打ち立てたい。
それが私どもの今の願いであり、また次の総選挙に向けての決意でございます。
まあ、ただその前に7月、参議院の選挙がございます。広野さんの選挙であります。
その選挙戦でですね、どうしても、我々次の総選挙を目指した基盤を作り上げてかなくちゃならない。
年末の選挙もですね、自民党の票が増えたわけじゃないんです。3年半前の選挙よりも減っております。しかし、それでも三分の二以上の議席をとったんですね。
なぜか。
それは私たちが、自民党にあらざる、非自民の政党が力を合わせることができなかったためでございます。
まあ、それ全部足せばですね、自民党よりも多いんですけれども、そこが私も責任を痛感するところでございます。
いずれにしても、また元の自民党政治に戻し、そして今言ったような結果になっていったのでは、
我々、何のために今まで苦労してきたのか。
私自身で言えば、このまんま負けっ放しでは死んでも死にきれない、という思いでございます。
そういうことで次の参議院選挙は、我々の党単独で戦わざるを得ないと思います。
ーーーーーーーーーーーーー
小沢一郎代表全国行脚第2弾~富山県~(2013年3月10日) 生活の党
3月10日、小沢一郎代表が全国行脚第2弾として、広野ただし参議院議員の地元である富山県を訪れました。富山県連発足記念大会には約300人、雨天のため、街頭ではなく2か所の公民館で行われた演説会には、それぞれ100人を超える支援者の方々が応援に駆け付けてくれました。最後に行われた記者会見の要旨は以下の通りです。
富山市願海寺野々上公民館で行われた演説会の動画はこちら(外部サイト)
富山市婦中町下吉川公民館で行われた演説会の動画はこちら(外部サイト)
記者会見の動画はこちら(外部サイト)
【内容】
参議院議員選挙について
選挙制度について
民主党について
参議院議員選挙について
Q. 野党連携について改めて今の考えを。
A. 野党が連携して力を合わせれば、今からでもやりようはあるのだが、去年の衆議院議員選挙の経過を見ても分かる通り、なかなか一本にまとまって戦うという機が熟していない気がする。
そうするとそれぞれが単独で戦うということになるだろうから、うまく協力体制ができればそれでいいのだけれども、私どもも単独で戦うという前提で、選挙戦をやっていかなくてはいけないと思っている。
今のところ選挙区で3人の現職、比例区でやはり3人の現職、そして比例区で新人2人ということだが、これから特に選挙区でいい候補者を見出して戦いたいと思っている。
1人区で自民党と戦って勝つということは、非常に難しい、限られたところでしかないのだが、
複数区では勝機があると思うので、首都圏など3人以上のところでは、ぜひいい候補者を見出したいと思って、今鋭意努力しているところだ。
Q. どのような対立軸で非自民がまとまっていくのか。
A. 野党の方に対立軸はない。基本的には少なくともそれぞれの党の建前はそれほど違っているとは思えない。
だからその意味では連携することは可能なはずだが、結果として去年もできなかった。
やはりそれぞれの事情を言い出したらできっこない。明治維新で西郷(隆盛)さんがおっしゃった通り、大事を為すには己を捨てなくてはいけない。
そうしないと大事は成就しない。みんなが早くそういう気持ちになってもらえたらいい。
衆議院選挙は参議院選挙が終わってみないとわからないが、ばらばらだとまた自民党が勝つ。
そういう現実を見てどう認識して、どう戦うかということになってくると思うから、参議院を経過してみないと、どういう形で、どういう風な連携ができるのかまだわからない。
Q. 1人区である富山での生活の党の対応は。
A. 1人区でもいい立候補者がいれば立てたい。
あとは富山県の場合は広野(ただし)さんに聞いてもらう以外ないが、1人区というのは一般論として、我々の今の勢力で自民党と戦っても、(勝てる)可能性としては少なくなるから、
これも一般論として3人区以上のところではどうしてもいい人を見つけたいと思っている。1人区はその(選挙区の)状況次第である。
A. (広野ただし副代表)
この間前回(平成19年)は個別名詞を出して申し訳ないが、森田(高)さんのために非常に力を合わせることができて、この自民党王国の中で、自公に39年ぶりに勝ったわけである。
だから富山県で勝つためには、野党が力を合わせないとできない。
やはり民主党が野党の第1党を占めているから、そこが主導権を発揮して、われわれもいろんな政策が合えば協力するのにやぶさかではないと思っている。
選挙制度について
Q. 小選挙区制だと風頼みでなかなか大政治家が育たないという指摘がなされ、中選挙区制の方がよかったという意見が出ているが、今回の結果も踏まえ、小選挙区制の生みの親としてどう見ているか。
A. 中選挙区制の方が(大政治家が)育たない。
イギリスを見てごらんなさい。サッチャーだってチャーチルだって、人口10万人の小選挙区である。日本の3分の1か4分の1である。それでもちゃんと大政治家が育っている。
だからそういう問題ではない。
小選挙区か中選挙区かというと、中選挙区がぬるま湯的な日本に合う。小選挙区は政権交代ができやすいようにといって始めた。
かつて社会党や野党は、小選挙区になると政権交代ができないと言ってヒステリーになっていた。
ところがそうではないことがわかった。政権なんか取れると思わなかった民主党が政権を取った。
今度は、自民党はもうだめだと思ったのに政権を取った。
だから去年の暮れに政権交代が起きたこと自体は別にいい。僕が狙った通りである。政権交代が起きやすくするために小選挙区制にしたのだから。
ただ残念なのは、はなはだ思い通りの政治ができないままに政権がなくなってしまったということだけである。
Q. 小選挙区制は二大政党制、自民党に代わりうる政党を打ち出すという趣旨で始まったはずだが、昨年の選挙の結果を見ると、比例代表並立制があったがゆえに第3党以下の小政党が、小選挙区で比例票を上げようとして乱立したために自民党に有利に働いたという指摘もある。その意味で二大政党制を作り上げることと、比例代表並立制を続けることの関係をどう考えているか。
A. 最初の案は500人全部小選挙区制だった。
自民党があの時にいろんなことを言って、それで3:2になった。
中選挙区制というのは比例代表制である。
イタリアをごらんなさい。全部比例代表制で、たまたま安定しやすいように第1党に過半数を与えるというおかしな仕組みだが、比例選の結果を人為的に補おうとしてやっているわけである。
中選挙区制は比例代表制だからなかなか政権交代が起きない。
1度政権を取って既得権、権力を持った政党、だから戦後の自民党はずっと取っていた。
小選挙区になったから政権が変わる。だからまた次も変わる。変わりやすいように小選挙区にしたのだから。
だから並立制をなくしたらなおさら変わる。並立制というか比例制をなくしたらもっと大きく変わる。
カナダは政権党が2人か3人になってしまった。だからそういうような劇的な変化もあるから、多少比例制を並立することによって緩和しているというところはある。
しかし自分の比例票を伸ばしたいがために少数党が乱立したということではない。少数党が乱立しているからそういうことになった。結果は逆である。
連携すればいいものを1つ1つになっているから、それぞれの自分の利害でもって立てたからだめなので、比例制の事ではない。
民主党について
Q. もう一度政権交代を目指すに当たり、前回(2009年)の総選挙で民主党は自民党に代わりうる政治体制を柱に打ち立てて戦ったが、この3年3か月で、統治能力(ガバナンス)の問題という部分で国民の失墜を招いたと思うが、その辺についてどうリカバリーすべきと思うか。
A. これは民主党自身も、民主党に所属している人たちも、多分、少なくとも良心ある人たちは、その失敗を痛切に感じていると思う。
なぜこんなことになってしまったかと。
ですからこの次の機会があるとすれば、そういう意味での鍛錬を経てくるということになるから、僕はそういう面での心配はあまりしていない。ただそこまでの認識と決断をそれぞれができるかどうかである。
小首傾げて泥沼へ、のような言葉もあるけれども、何もせずにただ座して死を待つ、という類の感覚では何もできない。
僕は今度やるときにはそれぞれ意識を新たにして(民主党は)やれるのではないかと思う。
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チェリノブイリの労働者:福島は同じ轍を踏まぬよう
2013-03-14
【核心】「フクシマ 同じ轍踏むな」チェルノブイリ元作業員訴え」 3/09 東京新聞 書き起こし「大友涼介」氏のブログから
<書き起こし開始→
一九八六年四月に旧ソ連ウクライナで起きた史上最悪のチェルノブイリ原発事故で、事故後の除染作業に携わった元作業員らが「低線量被ばく」と関連する可能性のある白血病などに苦しみ、将来への不安や国の対応への不満を募らせている。
今月十一日に発生から二年となる東京電力福島第一原発事故でも、除染作業の問題点などが指摘されるなか、ウクライナの医療関係者や元作業員は、福島がチェルノブイリと同じ轍(てつ)を踏まぬよう警告している。(キエフで、原誠司記者)
※チェルノブイリ原発事故 1986年4月26日未明、4号機の運転試験中に炉心溶解と爆発が起き、大量の放射性物質が空中へ放出された。当時のソ連政府は死者数を33人と発表したが実態は不明。原発から半径30キロ圏内では約13万5000人が避難した。同年5月から原子炉などを覆う「石棺」が造られたが老朽化。これをさらに覆う巨大アーチ型シェルターが2015年完成を目指して建設中だ。
◇打ち切り
ウクライナの首都キエフに住むマクシメンコさん(68)は、白血病はじめ血液や心臓に十八の病気を抱える。痛みが消えない背中を押さえ、時折咳き込みながら、「いつ命が終わるか不安だ」とつぶやいた。
チェルノブイリ事故後の三年間、リクビダートル(後始末の作業員)として原発敷地内や二キロ以内の除染作業に加わり、放射能に汚染された瓦礫や土をコンテナに詰め込んだ。
積算被曝線量は約二五〇ミリシーベルト。年間二〇〇ミリシーベルト以下の「低線量」の被曝者だ。
ただ、日本の原発作業員に適用される被曝限度(年間五〇ミリシーベルトかつ五年間で一〇〇ミリシーベルト)より相当高い。
「私は軍から支給された重装備の防護服とマスクを着用していた。周りにはマスクを着けずに作業をした仲間も大勢いたが、既に死んでしまった」とマクシメンコさん。
リクビダートルは六十万~八十万人に上るとされる。うち低線量の被曝者を約20%とするロシアの専門家の調査もあるが、詳細は不明だ。
ウクライナでは一九八九年頃、一部を除いて土壌の除染作業が打ち切られた。作業による二次被曝で命を落とす人がいる一方、除染の効果が上がらないと判断したためという。
◇追跡調査
米国癌研究所などの研究チームは昨年十一月、リクビダートル十一万人の追跡調査の結果、低線量被曝でも白血病の発症リスクが高まることを証明したと発表した。
チェルノブイリ事故の被災者だけが利用できるキエフの専門病院「放射能防御市民センター」のベカエワ癌部長(52)は「低線量被曝による典型的な病気は、事故後十~十五年で発症すると考えられる。センターでは二〇〇〇年前後がピークだった」と説明。
除染作業が本格化している福島第一原発や周辺地域でも「低線量被曝への適切な対策が徹底されなければ、今後、病気の発症者が相次ぐ恐れがある」と指摘する。
◇生活苦境
元リクビダートルたちは、闘病に苦しむだけでなく厳しい生活環境に直面している。
六年間の除染作業で計二五〇ミリシーベルトの低線量被曝をしたクラシンさん(72)の年金は月に約九万五千円。一般市民の平均月収のほぼ二・四倍だが、しばしば貧血で倒れ救急車で病院に運ばれる。
受診は無料とはいえ「高額な薬代は自己負担。年金の一割しか生活費が残らない」と嘆く。
規定の積算被曝線量を超え、本来就業できないチェルノブイリ原発で、今も働く元同僚もいるという。生活のため「検査官に賄賂を渡して積算線量をごまかしてもらうんだ」とクラシンさん。
被曝した元リクビダートルでつくる「障害者の会」のコプチク代表(75)は「国のために働いた我々は、今や国にとって医療費の掛かり過ぎる厄介者だ」とうなだれる。
発症までに年単位の時間が経過する低線量被曝者の中には、発症の因果関係が特定できないとして国から保障を受けられない例もあると指摘。
「国は科学的な情報を国民にしっかりと伝え(治療や支援への)経済的な備えが必要だ。我々の例から学んで、日本で同じ問題が起きないことを願っている」と話す。
←書き起こし終了>
「『あとは私が消えるだけ』チェルノブイリ汚染地域」 03/9 東京新聞
<引用開始→
福島第一原発事故から十一日で二年となるのを前に、一九八六年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で汚染された周辺地域を取材した。除染されていない家に住み続ける人。
いったん移住したものの新たなすみかで「低線量被ばく」におびえる人。住民の不安と苦悩を聞いた。 (ウクライナ北部レジキフカで、原誠司記者)
「復興? あり得ない」。自宅の庭で牛一頭を飼いながら一人暮らしをするレジキフカ村のマサコベツさん(74)が言い放った。
村は、強制避難対象となったチェルノブイリ原発から半径三十キロ圏の外側にある「第三ゾーン」の中。このゾーンは、国家補償による移住を認められた移住権利地域と呼ばれるが「半ば強制的に移住が進められている」と地元の人々は言う。
旧ソ連が始めた土壌除染作業は事故後三年ほどで打ち切られ、レジキフカでは行われなかった。
事故前に暮らしていた約二百世帯のほとんどが被ばくを恐れて移住。現在は六世帯十四人が住むだけの「放置された村」となった。
幹線道路沿いに点在する住宅の多くは雪の重みで屋根が崩落。玄関には木片がXの形に打ち付けられている。伸び放題の庭木が廃屋を覆い、不気味な姿をさらしていた。
マサコベツさんの自宅庭の井戸に簡易線量計を向けると一時間当たり〇・五マイクロシーベルトを示した。日本政府の基準では安全とされる範囲内だ。
しかし「長年、牛乳や井戸水を飲み続けてきた」からか、数年前から心筋梗塞や白血病を患う。
「除染しない国の無策に抗議したこともあった」というが役人は移住を勧めるだけ。「誰も帰らないこの村で、あとは私が消えていくだけだ」と無念そうに語った。
村から東へ十キロほどのスラブチチに足を延ばした。壊滅的な放射能被害を受けて居住禁止区域となった原発城下町プリピャチの代替都市だ。
事故から二年後に原発職員や家族の移住が終わった。
第三ゾーンの中だが、街は整備され、近代的な集合住宅が立ち並ぶ。人口約二万五千人。子育て世代の若者の姿が多い印象を受けた。
街の見かけのよさとは裏腹に、住民は低線量被ばくの恐怖におびえている。
中心部の公園で生後十カ月の孫をベビーカーに乗せて散策していたゲーナさん(58)は「息子夫婦が原発職員だから仕方なく暮らしているだけ。
多くの友人が死に、私もがん手術を二回受けた。本当は行き先があれば逃げ出したい」と漏らした。
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<書き起こし開始→
一九八六年四月に旧ソ連ウクライナで起きた史上最悪のチェルノブイリ原発事故で、事故後の除染作業に携わった元作業員らが「低線量被ばく」と関連する可能性のある白血病などに苦しみ、将来への不安や国の対応への不満を募らせている。
今月十一日に発生から二年となる東京電力福島第一原発事故でも、除染作業の問題点などが指摘されるなか、ウクライナの医療関係者や元作業員は、福島がチェルノブイリと同じ轍(てつ)を踏まぬよう警告している。(キエフで、原誠司記者)
※チェルノブイリ原発事故 1986年4月26日未明、4号機の運転試験中に炉心溶解と爆発が起き、大量の放射性物質が空中へ放出された。当時のソ連政府は死者数を33人と発表したが実態は不明。原発から半径30キロ圏内では約13万5000人が避難した。同年5月から原子炉などを覆う「石棺」が造られたが老朽化。これをさらに覆う巨大アーチ型シェルターが2015年完成を目指して建設中だ。
◇打ち切り
ウクライナの首都キエフに住むマクシメンコさん(68)は、白血病はじめ血液や心臓に十八の病気を抱える。痛みが消えない背中を押さえ、時折咳き込みながら、「いつ命が終わるか不安だ」とつぶやいた。
チェルノブイリ事故後の三年間、リクビダートル(後始末の作業員)として原発敷地内や二キロ以内の除染作業に加わり、放射能に汚染された瓦礫や土をコンテナに詰め込んだ。
積算被曝線量は約二五〇ミリシーベルト。年間二〇〇ミリシーベルト以下の「低線量」の被曝者だ。
ただ、日本の原発作業員に適用される被曝限度(年間五〇ミリシーベルトかつ五年間で一〇〇ミリシーベルト)より相当高い。
「私は軍から支給された重装備の防護服とマスクを着用していた。周りにはマスクを着けずに作業をした仲間も大勢いたが、既に死んでしまった」とマクシメンコさん。
リクビダートルは六十万~八十万人に上るとされる。うち低線量の被曝者を約20%とするロシアの専門家の調査もあるが、詳細は不明だ。
ウクライナでは一九八九年頃、一部を除いて土壌の除染作業が打ち切られた。作業による二次被曝で命を落とす人がいる一方、除染の効果が上がらないと判断したためという。
◇追跡調査
米国癌研究所などの研究チームは昨年十一月、リクビダートル十一万人の追跡調査の結果、低線量被曝でも白血病の発症リスクが高まることを証明したと発表した。
チェルノブイリ事故の被災者だけが利用できるキエフの専門病院「放射能防御市民センター」のベカエワ癌部長(52)は「低線量被曝による典型的な病気は、事故後十~十五年で発症すると考えられる。センターでは二〇〇〇年前後がピークだった」と説明。
除染作業が本格化している福島第一原発や周辺地域でも「低線量被曝への適切な対策が徹底されなければ、今後、病気の発症者が相次ぐ恐れがある」と指摘する。
◇生活苦境
元リクビダートルたちは、闘病に苦しむだけでなく厳しい生活環境に直面している。
六年間の除染作業で計二五〇ミリシーベルトの低線量被曝をしたクラシンさん(72)の年金は月に約九万五千円。一般市民の平均月収のほぼ二・四倍だが、しばしば貧血で倒れ救急車で病院に運ばれる。
受診は無料とはいえ「高額な薬代は自己負担。年金の一割しか生活費が残らない」と嘆く。
規定の積算被曝線量を超え、本来就業できないチェルノブイリ原発で、今も働く元同僚もいるという。生活のため「検査官に賄賂を渡して積算線量をごまかしてもらうんだ」とクラシンさん。
被曝した元リクビダートルでつくる「障害者の会」のコプチク代表(75)は「国のために働いた我々は、今や国にとって医療費の掛かり過ぎる厄介者だ」とうなだれる。
発症までに年単位の時間が経過する低線量被曝者の中には、発症の因果関係が特定できないとして国から保障を受けられない例もあると指摘。
「国は科学的な情報を国民にしっかりと伝え(治療や支援への)経済的な備えが必要だ。我々の例から学んで、日本で同じ問題が起きないことを願っている」と話す。
←書き起こし終了>
「『あとは私が消えるだけ』チェルノブイリ汚染地域」 03/9 東京新聞
<引用開始→
福島第一原発事故から十一日で二年となるのを前に、一九八六年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で汚染された周辺地域を取材した。除染されていない家に住み続ける人。
いったん移住したものの新たなすみかで「低線量被ばく」におびえる人。住民の不安と苦悩を聞いた。 (ウクライナ北部レジキフカで、原誠司記者)
「復興? あり得ない」。自宅の庭で牛一頭を飼いながら一人暮らしをするレジキフカ村のマサコベツさん(74)が言い放った。
村は、強制避難対象となったチェルノブイリ原発から半径三十キロ圏の外側にある「第三ゾーン」の中。このゾーンは、国家補償による移住を認められた移住権利地域と呼ばれるが「半ば強制的に移住が進められている」と地元の人々は言う。
旧ソ連が始めた土壌除染作業は事故後三年ほどで打ち切られ、レジキフカでは行われなかった。
事故前に暮らしていた約二百世帯のほとんどが被ばくを恐れて移住。現在は六世帯十四人が住むだけの「放置された村」となった。
幹線道路沿いに点在する住宅の多くは雪の重みで屋根が崩落。玄関には木片がXの形に打ち付けられている。伸び放題の庭木が廃屋を覆い、不気味な姿をさらしていた。
マサコベツさんの自宅庭の井戸に簡易線量計を向けると一時間当たり〇・五マイクロシーベルトを示した。日本政府の基準では安全とされる範囲内だ。
しかし「長年、牛乳や井戸水を飲み続けてきた」からか、数年前から心筋梗塞や白血病を患う。
「除染しない国の無策に抗議したこともあった」というが役人は移住を勧めるだけ。「誰も帰らないこの村で、あとは私が消えていくだけだ」と無念そうに語った。
村から東へ十キロほどのスラブチチに足を延ばした。壊滅的な放射能被害を受けて居住禁止区域となった原発城下町プリピャチの代替都市だ。
事故から二年後に原発職員や家族の移住が終わった。
第三ゾーンの中だが、街は整備され、近代的な集合住宅が立ち並ぶ。人口約二万五千人。子育て世代の若者の姿が多い印象を受けた。
街の見かけのよさとは裏腹に、住民は低線量被ばくの恐怖におびえている。
中心部の公園で生後十カ月の孫をベビーカーに乗せて散策していたゲーナさん(58)は「息子夫婦が原発職員だから仕方なく暮らしているだけ。
多くの友人が死に、私もがん手術を二回受けた。本当は行き先があれば逃げ出したい」と漏らした。
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