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チェリノブイリの子ども:ナターリア・カシャック

  チェリノブイリ原発事故で被曝被災したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」チェルノブイリ支援運動九州 梓書店 から同名のブログに引用されています。
 2/11から、そのうちのいくつかを紹介しています。
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   みんな春の雨を喜んだ ナターリア・カシャック 「チェリノブイリの子どもたち」から

 そのころはチェルノブイリについて知っている人は少なかった。今では、チェルノブイリは世界的に有名になった。この言葉を聞くと、心が痛む。
 それは私たちにとっては、不吉な悪のシンボルなのである。

 1986年の4月。ちょうど、この月に私の家族はへんぴなベレジョク村から、カルボビッチに引っ越してきたところだった。
 私はこの引っ越しを誰よりも喜んだ。というのは前に住んでいたところには、友だちがいなかったし、引っ越しは多くの楽しいことを約束していたからだ。
 私は生活がより楽しく、幸せなものになると夢見、期待した。

 だが、母の顔が不安げだったのを私は見た。隣の家の人と、なにか「放射能」といったようなことを、心配そうに話していた。
 あとで母は、「ここはチェルノブイリから遠くにあるから心配ない」と、私を安心させた。
 そのとき、私はまだやっと1年生を終えるところで、私たち子どもにはまったくわからない、すこしもこわいとは感じなかった。
 そして、非常に残念なことではあるが、すべての人々が、チェルノブイリの危険性を充分理解しているというわけではなかったのだ。

 私たちは、よい天気を喜び、春の雨を喜んだ。
 雨のあと、空気は新鮮な生気に満ちた香りでいっぱいになる。
 私たちは水たまりを走り回り、水しぶきがあたたかくやわらかい羽のようにふりかかると陽気に笑いころげた。虹の色を数えるのも好きだった。
 遊びに夢中になっていた私たちは「大人の社会」で何が起こっているのか知りようもなかった。

 そのすぐあと、放射能測定器をもった人が村にやって来た。(その仕事をみるのが面白かった。)村の道が急きょアスファルト舗装され始め、ごみは土に埋められ、学校の庭の表土ははがされた。
 村の店には、今まで聞いたことのない食料品が運ばれてきたので皆喜んだ。
 どのような珍味が店の棚に並んでも、放射能は減りはしないことを、今では理解できるのだが……。
 その「特別」の食料品ももう長いこと目にしていない。

 ここカルボビッチには健康な子どもはほとんどいない。
 だが、汚染地図では、この村は「かつては汚染地区に入っていたが、現在では除染され、きれいになった」とされている。
 このことで気は休まるどころか、逆に腹立たしくさえなってくる。
 子どものほとんどに甲状腺肥大が見られるからだ。
 「アンチストルミン」やその他の薬はあまり効かない。
 貧血の子どもも多い。私の妹のアリョンカ(エレーナリガの愛称)もよく病気をする。

 ソチや、ヤルタや、ベラルーシのラドシュコビッチのちかくのサナトリウム「ソユーズ」への療養はかなり効果があった。
 この療養のあとでは、元気になり生気がよみがえる気分になり、体の鈍痛は消え、頭痛はしなくなり、病気をあまりしなくなった。
 そこでは、多くの友だちができ、おもしろい出会いがあった。療養地の美しい景色や歴史的な場所は、長く私の心に残るに違いない。

 私は外国に行く機会がなかった。
 もちろん行ってみたいと思うが、私より重い病気にかかっている子どもがいることを知っている。
 あまりに病気の重い子は外国に行けない。この子たちにとってサナトリウムは最後の機会だ。
 外国へ行った子どもたちは、学校に大きな問題を持ち込んでくる。この子たちは他の子に対して、同情しないのだ。
 またある時、私は子どもにたいする教師の不可解な態度に驚いたことがある。

 しかし、すばらしい外国も、南の砂浜浴場も、私の祖国ベラルーシにかわるものはない。
 私には林のなかに好きな場所がある。その場所は私の秘密を何でも知っている。悲しいとき苦しいときには、そこへ行く。
 白樺が私との出合いを待っていてくれ、私が落ちつくのを助けてくれ、助言を与えてくれる。
 私の美しい場所が私の人生からなくなってしまうこと、貪欲なチェルノブイリが子どもの命を奪い、大人の健康を吸い尽くすように、それをも奪ってしまうことを考えると恐ろしい。

 ポレーシェの祖父のところへ行くのをやめた。
 親は、ここの放射能だけで充分だと言っている。
 あそこはよかった。なんとたくさんのイチゴが生えていただろう! 
 だが今は……これらの地から人々は離れ、思い出のいっぱいつまったわが家を後にしている。

 ソチで、ベラルーシの子どもたちが「チェルノブイリのはげ頭」とよばれ、避けられることがあったと聞いたときには、不愉快だった。
 私たちはチェルノブイリの罪人なのか。
 チェルノブイリは毎日、私の心を痛め付けている。
 私たちがカルボビッチに引っ越してきたばかりの4月16日以前の幸せな時に、全世界の時計の針を戻せないだろうか。
 どこに優しい魔法使いはいるのだろうか。どうして急いで助けにこないのだろうか。

 私たちは希望を捨てない。私たちは生きる。
 私たちは、ベラルーシ、そう、ベラルーシ人なのだから。
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チェリノブイリの子ども:エフゲーニー・ダビードコ

  森にカッコウが鳴いていた エフゲーニー・ダビードコ(16) 「チェリノブイリの子どもたち」から

 今日はわが家のお祝いだ。
 母が40歳になった。客が、当時一つの大国だったソ連のあちこちから来た。キエフ、レニングラード、ツェリノグラード、ソリゴルスクから来た。
 山のようなプレゼントを母だけでなく、10歳だったぼくにももってきてくれた。

 なんてすばらしい時だったろう! 大人も子どもも心から楽しんだ。
 だがお祝いはちょっと悲しいものになった。
 みんなが中庭でダンスを始めようとするとき、どこからか、突然、嵐がおこり、強い風が吹いてきて、ほこりのかたまりがくるくるまわり始めた。
 だが誰もそれが悪い兆候だとは思わなかった。
 そのあと、家の屋根の上にヘリコプターが飛んできて、ピンクや青の紙切れを大量にまいたことをおぼえている。
 災難を警告したのだと思いますか。ちがうのです。これは、メーデーのお祝いのものだったのです。
 ぼくたちは喜んで外に出て、ちらしを拾った。放射能の空気を胸いっぱいに吸いながら。
 指導部以外、だれもこのことを知らなかった。しかし指導部は黙りつづけた。

 やっと事故のことが話されるようになったのは、5月4日だった。
 村からの強制移住が始まった。バプチン、チェルニボ、ピルキの村々は空っぽになった。
 移動の車の行列はサピッチ村まで続いた。
 おそろしい光景だった。家畜は悲痛なうめき声をあげ、女たちは泣き叫んだ。
 サビッチには、祖母と祖父が住んでいた。夏休みになると、ぼくはそこへ行き、湖で魚を釣り、泳ぎ、森ではキノコやイチゴを集めたものだ。
 彼らはぼくたちのところに来るのをことわった。彼らはミンスク郊外のソスノビ・ボール村に住居が与えられた。

 夏休みがはじまった。生徒にとって最も楽しく、愉快な時期だ。
 だが、ぼくはもうサビッチ村には行けない。そこには人もいないし、生命もないからだ。

 「ドブルーシで夏休みを過ごすのもわるくない」と思った。
 家の近くには森も川もある。
 泳ぎに行こうとしたが、父は放射能で汚染されているから行ってはいけないといった。
 ぼくには何も分からず、長いこと川面を見つめて、汚染の目にみえる兆候を探したが、疑わしいものは何もみつけることはできなかった。
 水は透明できれいで、ぼくに手招きしているようだった。子どもたちは土手に座っていたが、泳ぐものはいなかった。
 みんな暗い顔をしていた。ぼくは泳がずに家に帰った。
 6月7日、療養のためにキャンプに送られた。チェルノブイリの子どもたちは当時、広大な祖国ソ連の各地に送られた。

 ある子どもたちはウラルに、ある子どもたちはイングーシに、ぼくはカザン郊外に送られた。
 ぼくたちは、大事な客のように、パンと塩で迎えられた。
 キャンプではみんな、すぐ何かの道具で頭から足の先まで測られた。
 このあと何人かは、いろんなものをもっていかれた。ある子どもは、シャツを、ある子どもはジャンパーを、ぼくはサンダルをもっていかれた。
 後で知ったことだが、それは放射能で汚染されていたのだった。
 それらのものは森の中で深い穴の中に埋められ、かわりに新しいものが与えられた。

 休暇は楽しかった。
 ボルガ川で泳ぎ、カザン市にもいった。
 ある日、カザン市でカフェに入り、アイスクリームを買った。
 ぼくたちがアイスクリームを食べている間、空いている席はたくさんあったのに、そのカフェには他の客は誰も入れされてもらえなかった。
 理由はひとつ「今ここはチェルノブイリの子どもたちがいる」。
 人々は当時チェルノブイリについてほんの少ししか知らず、彼らはぼくたちを伝染病患者と思って、こわがっていたのだ。

 8月の終わりに、ドブルーシに帰った。
 新学年が始まった。授業、ディスコや友だちとの遊びなどで時間は飛ぶように去っていった。悲しむひまなどなかった。
 春、ぼくたちのところに祖母がやって来た。ここに来る前に、以前住んでいたサビッチに行って来たそうである。そこに行ったときのことを、おいおいと泣きながら話した。

 「私がねえ、家に入ろうとすると、コウノトリの家族が屋根の上から、私を非難しているように、見つめていたよ。
 チェルノブイリの災難はコウノトリをこわがらせなかったんだね。なのに人間は家を捨ててしまったの。もう、いいの。
 ミンスクでは、どうしても心が休まらないよ。サビッチに帰らなければ」

 ぼくは、また祖母のところに遊びにいけると思い、とても喜んだ。

 一年がたち、夏休みがやってきた。
 ぼくは母といっしょに、サビッチ村の祖母のところにでかけた。
 朝、祖母は絞りたての牛乳を壺にいれてもってきた。ぼくが飲もうとして飛びついたが、祖母はくれなかった。
 「だめだよ。牛乳には毒が入っているから」といった。ぼくはくやしくてたまらず、外に出た。
 そこは静かで、誰もいなかった。子どもの声も聞こえない。

 村をでるとき、おもしろいことが起こった。
 皆バスから降りるように言われた。バスは長い時間、ホースで洗浄された、内も外も。放射能を洗い落とすためだそうだ。

 3年後にようやく、チェルノブイリのことについて、大声で話されるようになった。
 遅ればせながら故郷に、真実、警告、苦痛の言葉がとどくようになった。
 西側もふくめ多くの国が、ゴメリ州やモキリョフ州の、放射能に汚染された土地の犠牲者たちのたえがたい告白に応えるようになった。
 ぼくも療養のために、ドイツに行くことができた。ぼくたちはベルリン郊外のキャンプに入った。
 食事もよく、新鮮な空気の中で散歩し、外国の果物も食べた。
 生まれて初めて、バナナとパイナップルを見た。そして食べた。
 ベルリンに行って、国会議事堂を見学した。この建物をどきどきしながら見た。
 1945年にぼくの祖父がここに来たことがある。祖父は勝利者として来たが、ぼくはチェルノブイリの犠牲者としてここに来た。

 ぼくはふるさとの大地での生活に対する異常なまでの不安に襲われた。
 以前、きれいな空気を吸い、森のなかを歩き、カッコウの鳴き声を聞き、キノコやイチゴをあつめたあの家に帰りたい。

 去年、何度も森にいってみた。
 一回もカッコウの鳴き声を聞かなかった。
 これはいいことかもしれない。でないとカッコウが、ぼくがあとどれくらい生きられるか計算してしまうかもしれない。知らないならその方がいい。
 それと、害をおよぼさない、かわいいスズメもいなくなったことに気づいた。
 家の窓の下に植えてあったミザクラの木にどんなにたくさんのスズメがせかせか動きまわっていたことか。

 ぼくの気分は悪くない。ただ目が悪くなった。
 放射能がその原因だろう。
 ぼくは楽観主義者だ。
 学校を卒業したら、農業大学に入る。農学者になりたいと思っている。

  いきあたりばったり 生きることはしまい
  生きなければいけないように生きる
  いつも愛する
  友も、生命も、空も愛し続ける
  ふるさとを
  それはベラルーシという
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