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チェリノブイリの子ども:マクシム・パシコフ

  チェリノブイリ原発事故で被曝被災したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」チェルノブイリ支援運動九州 梓書店 から同名のブログに引用されています。
 2/11から、そのうちのいくつかを紹介しています。
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  ぼくの町へ帰りたい マクシム・パシコフ(14) 「チェリノブイリの子どもたち」から

 ヤッター! 僕の弟が生まれた。
 1986年4月26日、よく晴れた明るい日だった。暑かった。そのとき僕は5歳だった。
 僕はこの日のくるのを、どんなに待ち望んでいたことか。父と母と僕と三人で、指折り数えた日々、赤ちゃんの名前まで考えたほどだった。なぜか知らないが、みんな男の子が産まれることを知っていた。

 この日、僕は初めての体験に興奮しきっていた。喜びのあまり、病院の窓のところで片足でぴょんぴょんはねていた。
 みんなは弟がすりかえられないか心配していた。生まれたての赤ちゃんはみんなそっくりだったから。
 僕は弟の名前をブドゥライエムにしたかった。というのは、その頃、テレビ劇で「ジプシー」というのをやっていて、僕はこの名前をとても気に入っていたのだ。なのに、どうして父や母はブドゥライにしなかったのだろうか。

 まる一週間、母は病院に入院していた。その間、僕は毎日病院に走って通ったものだった。
 弟の顔を見たくてたまらなかったのだ。だから母がやっとアルトゥーシャ(こう名づけられた)を家に連れて帰ってきた日、僕はとてもうれしかった。
 だが、突然に悲劇は始まった。

 その頃の僕はどうしても大人を理解することができなかった。
 大人たちは顔つきが暗くなり、みんないつまでも同じことばかり話していた。
 僕は、たびたび、美しい、歌うような言葉を耳にするようになった(僕にはそう聞こえた)。「ラジアーツィア(放射能)」である。
 みんなそれを恐れた。しかし誰もそれを僕に見せることはできなかった。

 のちにもうひとつ記憶に刻みこまれた言葉がある。それは「エバクアーツィア(避難)」である。この言葉は気に入らなかった。
 第一にそれはかえるの鳴き声にそっくりだったし、第二に、どこかに行ってしまうことだと聞かされたからだ。
 僕はどこにも行ってしまいたくなかった。
 しかし、この放射能からの避難は現実になった。友だちはまったくいなくなってしまった。
 外には誰もいなくなり、町はすっかり寂しくなってしまった。

 母は砂遊びを禁止した。ラジアーツィアだ。
 一日に何回も手を洗った。ラジアーツィアだ。花にも草にも触ってはいけない。ここにもラジアーツィア。壁と床からじゅうたんがはぎとられた。
 ここにもラジアーツィア。
 床は洗浄の水が乾ききることはなかった。知らないおじさんが何か器具をもってよく家に来た。
 おじさんは何かを測っているようだったが、僕にはまだその意味が理解できなかった。
 僕はおじさんのあとについてまわるのが楽しみだった。
 でも、おじさんが帰ったあと、母の顔はとても悲しげになった。

 ある日、アルチョムが病気になってしまった。
 医者は診察したあと、小さい声で、多分恐怖からだろうが、「ラジアーツィア」と言い、母は母乳をやるのを禁止された。
 そのかわり、レニングラードから粉ミルクが送られてきた。
 町では牛乳をしぼることが禁止されていた。牛も、人と同じく、呪いのラジアーツィアに苦しんでいたのだ。

 太陽は暑く輝いている。木々の葉は風に音を立て、花は咲き乱れている。だが、チェリコフの町の通りには人もなく、静かだった。けれども僕たちはまだそこに住んでいた。

 母の具合も悪くなった。
 ちょうどその頃、父はゴールキの農業アカデミーの講座に参加することになった。父は行くのを渋ったが、母は送り出してしまった。
 僕についていえば僕のきらいな「避難」という言葉に直面しそうな予感がしていた。
 町に残っている子ども全員が郊外のレチェツァ村の幼稚園に集められた。採血するためである。
 僕は非常にこわかった。子どもたちはみんな泣いていた。
 痛さからよりこわさから泣いたのだ。母親たちも泣き叫んだ。
 僕は、生まれてからたったの3週間しかたっていないアルトゥーシャに大きい注射器をささないようにたのんだ。今でも、この時の光景が目に焼きついている。

 分析の結果がわかると、母はクリモビッチのおばさんの家に行くよう僕を説得した。
 放射能はそこまで飛んできてはいないという。僕は絶対に行きたくなかった。母や弟と離れたくなかった。
 でも母が泣いて僕に頼むので、僕はとうとういうことをきいた。
 何日かして、おばさんが僕を迎えに来た。僕はおばさんのところから幼稚園に通った。
 おばさんはいい人だし、大好きだ。でも僕は、家が恋しくてしかたがなかった。
 しばらくして、クリモビッチも放射能に汚染されていることがわかった。
 瞬く間に時は流れた。母がどこかに出かけて行った。後から知ったことだが、母は移住先を探しに行っていたのだ。
 だが、なかなか決まらなかった。
 僕たち家族は、3年後に、ようやくオシポビッチに引っ越すことができた。
 アパートの部屋も、家具も、そしてもっとも大切な僕の友だちもチェリコフの町に残して。

 現在、僕の家族は、アパートに住んでいる。
 弟は2年生になった。
 新しい友だちもできた。
 しかし、僕は幼い頃過ごした僕の大好きな町が恋しくてならない。
 夢に友だちがよく出てくる。
 イリューシャ、隣のユーラ、リューダ、ワーリャ。
 放射能が早く去ってしまい、僕の町、僕が住んでいたロコソフスキー通りに帰りたい。
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チェリノブイリの子ども:キーラ・クツォーバ

  私のかわいいチューリップ キーラ・クツォーバ(15) 「チェリノブイリの子どもたち」から

 私は今、15歳だ。作文を書きながら「運命」のことを考えている。

 1986年のあのいまわしい事故は、多くの人たちの運命をはるかに苦いものに変えた。
 しかし一部の狡猾な大人たちは自分の運命を機敏に転換させることができた。
 彼らは人の不幸を利用し、それで自分の腹を太らせたのである。

 子どもたちはどうだったのだろう。1986年12月に生まれた、私のいとこのマーシャは、一歳になっても立つことができなかった。
 股関節に骨がなかったからだ。このことをピンスクの医者は認めようとはしなかった。親の思い過ごしとされた。
 おばさんだけがマーシャの不幸をわかっていて、医者の指示を完全に実行し、辛抱強く回復を待った。神様、ありがとう。マーシャは普通になった。
 マーシャはこのことを覚えていないけど、チェルノブイリが始まった年、彼女が生まれた年に、彼女の運命がこの様にして始まったことを彼女は知っている。

 1986年の夏、カザフスタンの学校で働いている母は、夏休みに私を連れておばあちゃんが住むベラルーシのビチェプスク州に遊びに行った。
 そのときはまだ、チェルノブイリの被害は明らかにされておらず、ビチェプスクの町の人たちは、放射能はここまでこなかったようだと話していた。 
 町は静かで穏やかだった。私たちはイチゴやリンゴや野菜を疑うこともなく食べ、当時は誰も病気になる人もいなかった。

 事故についても「ベラルーシ人」の不幸として、話すことを嫌がっていたようだ。
 チェルノブイリはここから遠いし、ウクライナのどこかにあるという程度だった。
 でもその不幸はすぐそばまで忍び寄ってきていたのだ。
 母も親戚もみんなが心の底では不安と恐怖を抱いていたものの、何も知らされないままでいたのだ。

 私の住んでいたカザフスタンのプリオゼルスク市は、90年代まで閉鎖軍事都市(※)で、町の周りには様々な地下・地上発射ミサイルが配備してあった。
 このプリオゼルスクの大人たちは放射能の人体への影響を、その当時でも良く知っていたのだ。
 ここに勤務する軍関係者は早めに年金をもらい始めるなど様々な特権を持っている。
 チェルノブイリのリクビダートルとは全く違っている。母は当時、母の弟のことを心配していた。
 はウクライナのスラプチチ町の建設に派遣されたが、原発事故直後その町はウクライナ避難民のための町だったのである。

※閉鎖軍事基地
 ソ連時代、地図にもない秘密軍事都市があった。

 こうして、私たちのチェルノブイリの日々が始まった。
 遠く離れたカザフスタンでベラルーシからのニュースに耳をそばだてた。
 母はベラルーシからの報道、被災者への助言を期待した。
 だが、ミンスクは沈黙し、モスクワも沈黙し、何の助言も得ることはなかった。

 86年以降、母と私は2回ベラルーシに行った。おばあちゃんは急速に老け、おじさんはスラプチチの建設から戻ると咳をするようになっていた。

 マーシャは今でもいろんな病を「花束」のように抱えて成長している。

 ささいなことかもしれない、でも私には多くのことが変わってきているように思えてならない。
 人々は寂しげになったり、目つきが厳しくなったり、粗野になってきているようだし、子どもも同じだ。
 療養と名付けた外国旅行で手に入れた中古の品物を自慢しあったりしている。
 私にはこんな機会は決して巡ってこないだろう。
 でも私の「運命」は私に様々な体験を運んでくるのである。

 ソ連邦崩壊に伴いプリオゼルスクが解放され、父が軍隊を退役した。
 その後父は何度も仕事を変えたが、どれも長くは続かなかった。

 母は教師を続けたが、よく病気をするようになった。
 人々は大量に町から出ていくようになり、学校の生徒の数も減った。
 カザフスタン政府は事実上モスクワの直轄都市であったプリオゼルスク市はいらないと言った。
 ロシア政府も私たちの生活の援助はあまりせず、状況はどっちつかずのものになっていった。

 町の大きな近代的な建物からは、板の一枚まで持ち去られ、街並みは窓を板で十字に釘付けした家が増えていった。

 チェルノブイリのゾーンから脱出する人たちが、私たちと同じように自分たちの家の窓を釘付けにしている写真が、地元の新聞で報道されていた。
 いろんなことで疲れきった両親は町を出ることにした。でも、どこへいくか引っ越しの結論が出ないままに学年が終わり、母は休暇をもらった。
 母と私はベラルーシにこのまま長く留まるのではないかという予感がしていたが、やはりそうなってしまった。
 失業中の父が遅れて私たちに合流し、新しい場所での生活の責任がすべて母の肩にかかってきたのである。

 でもここベラルーシでもうまくいかなかった。
 母は新しい職場をみつけ、なんとか住居も手にはいった。しかし父の仕事の問題は未解決だった。ここで職を得るのがおおよそ不可能であろうことは分かっていた。

 父はピンスクのおばさんのところに行った。
 今、私はピンスク地区のそう大きくない村ホノイに住んでいる。
 予測もつかない放射能汚染の不安にかられながら、ここにたどり着いてしまったような気がする。
 両親は悲しみながらも、ホノイでの居住権をとり、「棺桶代(※)」をもらうようになった。それは私にも支払われる。
 保証金は定期的に支給されるが、お金をもらい忘れると、商店のそばの塀に長いリストが張り出される。
 このリストで、まだ保証金を受け取っていない人たちを知るのだが、戦死者の名前を並べた「記念名板」を思い起こすので、私は足早にそこを通りぬけることにしている。

※棺桶代
 汚染地区住民の補償金のことを人々はこう呼ぶ。

 他にも村民への補償として、私たち生徒に朝と昼2回の食事が与えられる。
 内容は良かったり悪かったりであるが、これは多くの人にとって大きな恩恵だと思っている。

 半年に2回健康診断をうけたが、結果が悪く、両親にとっては驚きであった。
 私はこの数値がどれほどひどい値であるのかを本当には理解できていない。しかし私が正常ではないということがはっきりしたのである。
 去年の11月の検査は異常なかったものの、3月の検査結果は悲しいものであった。ホノイに住んで1か月たつごとに検査結果が1ポイントずつ悪くなる。
 父は恐ろしい速さだと言った。そのうち、ここに生まれ育った人に追いつき、追い越すことになってしまいそうだ。
 私のことを心配して、母の方が病気になるのではないかと心配している。

 初めてホノイの村に着いたとき、私は驚いた。家のそばにはただ雑草がはえ、花壇にも雑草は伸び放題、道はゴミの山だった。庭には赤茶けた枯れ木が立っていた。
 隣のテクリヤおばさんが話してくれたけど、この家は避難民がつぎつぎに入れ替わりに住み、長く居つづけることはなく、3年以上住んだ人はないそうである。

 春、私たちは花壇の手入れを始めた。私の好きなチューリップ、スイセン、グラジオラス、アスターの花が咲くのを楽しみに……。

 父はスタプロポーリエからトマト、キューリの種を買ってきて植えた。じゃがいもをコルホーズに売るのだとはりきった。私たちは生きられるのだ。庭は一新した。

 しかし本当のところ、状態は悪くなる一方で、学校でチェルノブイリの子どもたちを見ても希望など感じられない。
 現在すでに警告されているように、将来どうなるかはまったくわからない。信じたくないが……。

 チェルノブイリ事故のあとの暮らしは、格言にある「昔のことは、昔のまた昔。そんなことは忘れてしまった」とはいかないだろう。
 黒い放射能は、単純には過去のことになってしまわないのだ。

 私と母は最近、家のそばの草を引き抜いた。引き抜き、掘り返し、放り投げ、そして一カ所に集めた。
 疲れは感じなかった、むしろチェルノブイリを精算した気分だった。

 母とケンカしたとき、母は「おまえの運命は泣いている猫と同じようなものだ」と言った。ママ、あなたが正しいかもしれない。
 だが私は生き延びてきた、これからも……。私の過去はチェルノブイリの事故そのものの体験だ。

 窓の外に目をやれば、明るい太陽が青空に輝いている。
 私の花壇には赤いチューリップが咲いている。
 太陽の光に暖められ、とうとう開いたチューリップの季節。黒い翼がおおうホノイの村で咲いた初めての花チュウリップ。
 お前に誠意があるなら、いつまでも咲き続けておくれ、自由に、楽しく、美しい空の下で。
 幼い日、カザフの草原に咲き乱れていた輝く花を、私は忘れはしない。
 「神様、私たちに健康をさずけてください」と、心の中で叫ぶ、そして祈る。
 私の美しいチューリップよ。いつまでも生きておくれ、そして人々に喜びを与えておくれ……と。

 P・S この作文は先生に見せていません。
 地区にも送りませんでした。私が自分一人で決めました。
 と言うのは、この作文は私が個人的に体験したことを書いた私的なものだからです。

 尊敬する選考委員のみなさま、直接ミンスクに送ります。
 今、私にはどんな希望もなぐさめもありません。
 私と同世代の数千の子どもたちの運命をチェルノブイリが暗くしているからです。
 彼らの中の何百人かが、このコンクールで考えを整理して意見を述べることでしょう。
 彼らの成功と健康を祈ります。
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