チェリノブイリの子ども:キリル・クリボーノス
2013-02-13
僕の血の中のチェルノブイリ キリル・クリボーノス(15) 「チェリノブイリの子どもたち」から
物理の授業の時だった。授業のテーマは「放射能照射の生物学的影響について」だ。
「放射能」「線量(※)」「アイソトープ(※)」「キュリー」「セシウム」「ストロンチウム」「チェルノブイリ」などの用語が響きわたる。
「生きた細胞は複雑なメカニズムであり、一部の小さな損傷によってもその活動を維持できない。また、ごく小さな変化でさえも細胞に深刻な損傷を与え、重大な病気を引き起こす可能性がある。
放射能が高度に集中すると生きた組織は破壊される。致死量の線量でさえいかなる痛みも感じないという点が、放射能照射の危険性をさらに大きくしている」
※線量
放射線の量
※アイソトープ
同位体。同位元素。同じ原子であっても、中性子の数が違うため質量が違う原子をいう。また放射線を出す同位体の事を放射性同位元素という。
ふと気がつけば、これらすべての用語を僕はずっと以前から知っている。
そうだ、ずいぶん前なのだ。それは僕がまだ幼い頃に、するりと僕の意識に入り込み、僕の心のすみずみにまで浸透したのである。
放射能は、目には見えないが人を殺すことができるほどの危険な悪魔の力を持っている。そしてそれは、親戚や知人の命、ふるさとの命を一気に抹殺できる力を持っているということも、僕にはよくわかっている。
そして今、物理の授業で、それが正にその通りであるということをもう一度確認した。
しかし、1986年6月当時は、僕には多くのことがわからなかった。7歳だったから理解できるわけもなかった。 だが、僕には多くのことが永遠に忘れられないものになってしまった。
当時僕は、母の故郷であるクラスノポリシーナのクリベリツク村に祖母や祖父と一緒に住んでいた。そこはソシ川のそばのすばらしいところだった。
集落は大きな森に囲まれていた。そこには整然と並んだ背の高い松や、とうひの木があった。白樺もあった。
僕はとくに松が好きだった。それは滑らかで、高く伸び、その幹は赤銅色の光沢をもっている。それ以前にはそのような木は、有名な画家の作品でしか見たことがなかった。
森は数キロにわたって広がっている。その森のはずれには草がびっしり生え、花の香りがいっぱいの広大な緑の牧草地がある。
そして、そのまた向こうに銀色に輝く川の帯が見える。
僕は祖父と一緒に馬に乗ってそこへ行き、干し草を蓄えておいたり魚釣りをしたりした。祖父は岸のそばで水遊びをさせてくれたものだった。
クリベリツク村は大きい。
村の中心をつらぬく通りは1キロ半にもおよぶ。その通りにそって、きれいな新しい家が建ち並んでいる。
その反対側には小さな公園があり、その隣には巨大なネコヤナギの木がある。
祖母と祖父の家は大きくて明るい農家である。
中庭もよく手入れされている。家の前には広い庭もあってそこにはリンゴ、ナシ、スモモ、スグリ、グズベリーの木がある。
家の窓の下にはいろんな色がぬってあり、祖母のお気に入りだった。
少し向こうにはイチゴの畝がある。そこは僕にとってどこよりも魅力的な場所だった。
しかし、その年には祖父は僕をそこに行かせてくれなかった。イチゴには放射能があるから食べてはいけないと言う。
僕は注意深く、赤く輝くみずみずしいイチゴを窓から見て、放射能を見つけようと努力した。でも、恐ろしいものなど何も見えなかった。
祖母が家事に忙しいとき、僕はこっそりと畝に忍び寄った。わずかに熟れたイチゴを次々につみとって、大満足で口にほうり込んだ。
祖母は僕を見つけて菜園から追い出し、いろんなことをののしった。どこかの誰かの発明を。原子力のことを。
その日、僕は早く祖母に伝えたくて、友だちのところから急いで走って帰った。
サーシャの家に知らないおじさんたちが大鎌を持ってやってきて、イチゴの畝を全部刈り取って行ってしまったのだ。
彼らをうちの菜園に入れないように、祖母に頼んだ。しかし、おじさんたちはうちにやってきて、イチゴを根こそぎ大鎌で刈り集め、車に積んで行ってしまった。
僕は泣いた。僕と一緒に祖母も泣いた。
間もなく両親が僕を迎えに来て、家に連れ帰った。夏休みが始まったばかりだというのに、なぜ村を離れなければならないのかわからなかった。
僕はもう3年も村に行っていない。
祖父が僕の家に来て、村のことを話してくれた。馬のセーリイと牛のゾリカはもういない。
家のそばの畝もなくなった。そこは2回除染され、表土が取り去られた。
その後しばらくして、祖父と祖母は僕たちと一緒に住むことを決めた。クリベリツク村から最後の住人が出ていく日がきてしまったのだ。
最低限必要なものだけが持ち出しを許可され、すでに集められていた。
祖父の家には親戚が集まった。彼らはモギリョフ州ドリービン地区に引っ越すのだ。親戚の人々の目には苦悩と悲しみの色が濃かった。
みんな泣いた。祖父は打ち捨てられる家の周りを歩いては涙を流し、祖父はしょんぼりと中庭をぶらついている。大祖国戦争のことを思い浮かべ、勇士に与えられた勲章を持ちながら。
彼にとっても、敵がどこにいてなぜ逃げなければならないのか、理解できない様子だった。
「どうしてここから逃げなきゃいけないんだ」と、祖父は誰にともなくぼう然とたずねた。
魂が抜けたようになった祖母を車に乗せ、家や、まだそこに残る親戚、知人たちに別れを告げた。
目の前の道には永遠に人の住まない故郷の村に通じている。平坦なアスファルト道を走ったが、一台の車にも出合わなかった。
大きなノポリエニ村にさしかかった。人々が見捨てた家々が、空っぽの窓で私たちを見下ろしている。
以前は、学校、マーケット、病院、薬局だった建物もある。だがどこにも人の姿はない。恐ろしさを感じた。
捨てられた村の通りにはヨモギギク、いらくさ、ヨモギがびっしり生えていた。
放射能に汚染された土地にはこれらの植物しか生えることができないようだ。
地区の中心にあるチャウサにたどりついた。牧草地や牧場には、家畜が一匹も見当たらない。人はどこにもいず、気味の悪い静けさだけが支配している。
鳥の鳴き声もしない。多分、鳥たちもどこかに移住してしまったのだろう。
もう三年も祖母と祖父は僕たちといっしょに住んでいる。
彼らの会話に最もよく出てくるのは「あそこでは」という言葉である。
年寄りにはこのような宿命となじむのは困難なことだろうと思う。
不吉なチェルノブイリの影が僕たち全員を包み込んでしまった。
モギリョフではこの不幸を負わなかったところはない。唯一、クリチェフ地区だけが比較的安全な地帯だと考えられている。
しかし、あくまで相対的な話にすぎない。この場所もすべて、放射能の「黒い斑点」の中にある。
直接的な意味でも、比喩的な意味でも、チェルノブイリは僕の血の中にあると、僕はそう思い始めている。
1991年初め、共和国保健省から派遣された医師団が僕たちの学校を訪れ、医療検診が実施された。
多くの子どもに甲状腺肥大が見られた。僕にもこの病気が発見された。クリチェフ地区病院で1クールの治療を受けた。
その年の夏、僕は「チェルノブイリの子どもたち基金」によって、黒海沿岸の保養地トゥアプセのピオネール・キャンプ「オルレーノック」に行くことができた。
40日間、ベラルーシの様々なところから来た男の子、女の子たちとそこで休養した。そこで気分は良くなった。
しかし、チェルノブイリによる故郷の不幸や災難で苦しんでいる人のことを思うと、痛みで胸が締めつけられる。
僕の心の中から抗議と絶望の叫びが聞こえてくる。
ついに,この地で生命がつきてしまわぬように、そして、今は死んでいる町や村が再び命を取り戻すように、あらゆる事をしなければならない……。
まさにこれこそ、僕が物理の授業で考えたことだった。
物理の授業の時だった。授業のテーマは「放射能照射の生物学的影響について」だ。
「放射能」「線量(※)」「アイソトープ(※)」「キュリー」「セシウム」「ストロンチウム」「チェルノブイリ」などの用語が響きわたる。
「生きた細胞は複雑なメカニズムであり、一部の小さな損傷によってもその活動を維持できない。また、ごく小さな変化でさえも細胞に深刻な損傷を与え、重大な病気を引き起こす可能性がある。
放射能が高度に集中すると生きた組織は破壊される。致死量の線量でさえいかなる痛みも感じないという点が、放射能照射の危険性をさらに大きくしている」
※線量
放射線の量
※アイソトープ
同位体。同位元素。同じ原子であっても、中性子の数が違うため質量が違う原子をいう。また放射線を出す同位体の事を放射性同位元素という。
ふと気がつけば、これらすべての用語を僕はずっと以前から知っている。
そうだ、ずいぶん前なのだ。それは僕がまだ幼い頃に、するりと僕の意識に入り込み、僕の心のすみずみにまで浸透したのである。
放射能は、目には見えないが人を殺すことができるほどの危険な悪魔の力を持っている。そしてそれは、親戚や知人の命、ふるさとの命を一気に抹殺できる力を持っているということも、僕にはよくわかっている。
そして今、物理の授業で、それが正にその通りであるということをもう一度確認した。
しかし、1986年6月当時は、僕には多くのことがわからなかった。7歳だったから理解できるわけもなかった。 だが、僕には多くのことが永遠に忘れられないものになってしまった。
当時僕は、母の故郷であるクラスノポリシーナのクリベリツク村に祖母や祖父と一緒に住んでいた。そこはソシ川のそばのすばらしいところだった。
集落は大きな森に囲まれていた。そこには整然と並んだ背の高い松や、とうひの木があった。白樺もあった。
僕はとくに松が好きだった。それは滑らかで、高く伸び、その幹は赤銅色の光沢をもっている。それ以前にはそのような木は、有名な画家の作品でしか見たことがなかった。
森は数キロにわたって広がっている。その森のはずれには草がびっしり生え、花の香りがいっぱいの広大な緑の牧草地がある。
そして、そのまた向こうに銀色に輝く川の帯が見える。
僕は祖父と一緒に馬に乗ってそこへ行き、干し草を蓄えておいたり魚釣りをしたりした。祖父は岸のそばで水遊びをさせてくれたものだった。
クリベリツク村は大きい。
村の中心をつらぬく通りは1キロ半にもおよぶ。その通りにそって、きれいな新しい家が建ち並んでいる。
その反対側には小さな公園があり、その隣には巨大なネコヤナギの木がある。
祖母と祖父の家は大きくて明るい農家である。
中庭もよく手入れされている。家の前には広い庭もあってそこにはリンゴ、ナシ、スモモ、スグリ、グズベリーの木がある。
家の窓の下にはいろんな色がぬってあり、祖母のお気に入りだった。
少し向こうにはイチゴの畝がある。そこは僕にとってどこよりも魅力的な場所だった。
しかし、その年には祖父は僕をそこに行かせてくれなかった。イチゴには放射能があるから食べてはいけないと言う。
僕は注意深く、赤く輝くみずみずしいイチゴを窓から見て、放射能を見つけようと努力した。でも、恐ろしいものなど何も見えなかった。
祖母が家事に忙しいとき、僕はこっそりと畝に忍び寄った。わずかに熟れたイチゴを次々につみとって、大満足で口にほうり込んだ。
祖母は僕を見つけて菜園から追い出し、いろんなことをののしった。どこかの誰かの発明を。原子力のことを。
その日、僕は早く祖母に伝えたくて、友だちのところから急いで走って帰った。
サーシャの家に知らないおじさんたちが大鎌を持ってやってきて、イチゴの畝を全部刈り取って行ってしまったのだ。
彼らをうちの菜園に入れないように、祖母に頼んだ。しかし、おじさんたちはうちにやってきて、イチゴを根こそぎ大鎌で刈り集め、車に積んで行ってしまった。
僕は泣いた。僕と一緒に祖母も泣いた。
間もなく両親が僕を迎えに来て、家に連れ帰った。夏休みが始まったばかりだというのに、なぜ村を離れなければならないのかわからなかった。
僕はもう3年も村に行っていない。
祖父が僕の家に来て、村のことを話してくれた。馬のセーリイと牛のゾリカはもういない。
家のそばの畝もなくなった。そこは2回除染され、表土が取り去られた。
その後しばらくして、祖父と祖母は僕たちと一緒に住むことを決めた。クリベリツク村から最後の住人が出ていく日がきてしまったのだ。
最低限必要なものだけが持ち出しを許可され、すでに集められていた。
祖父の家には親戚が集まった。彼らはモギリョフ州ドリービン地区に引っ越すのだ。親戚の人々の目には苦悩と悲しみの色が濃かった。
みんな泣いた。祖父は打ち捨てられる家の周りを歩いては涙を流し、祖父はしょんぼりと中庭をぶらついている。大祖国戦争のことを思い浮かべ、勇士に与えられた勲章を持ちながら。
彼にとっても、敵がどこにいてなぜ逃げなければならないのか、理解できない様子だった。
「どうしてここから逃げなきゃいけないんだ」と、祖父は誰にともなくぼう然とたずねた。
魂が抜けたようになった祖母を車に乗せ、家や、まだそこに残る親戚、知人たちに別れを告げた。
目の前の道には永遠に人の住まない故郷の村に通じている。平坦なアスファルト道を走ったが、一台の車にも出合わなかった。
大きなノポリエニ村にさしかかった。人々が見捨てた家々が、空っぽの窓で私たちを見下ろしている。
以前は、学校、マーケット、病院、薬局だった建物もある。だがどこにも人の姿はない。恐ろしさを感じた。
捨てられた村の通りにはヨモギギク、いらくさ、ヨモギがびっしり生えていた。
放射能に汚染された土地にはこれらの植物しか生えることができないようだ。
地区の中心にあるチャウサにたどりついた。牧草地や牧場には、家畜が一匹も見当たらない。人はどこにもいず、気味の悪い静けさだけが支配している。
鳥の鳴き声もしない。多分、鳥たちもどこかに移住してしまったのだろう。
もう三年も祖母と祖父は僕たちといっしょに住んでいる。
彼らの会話に最もよく出てくるのは「あそこでは」という言葉である。
年寄りにはこのような宿命となじむのは困難なことだろうと思う。
不吉なチェルノブイリの影が僕たち全員を包み込んでしまった。
モギリョフではこの不幸を負わなかったところはない。唯一、クリチェフ地区だけが比較的安全な地帯だと考えられている。
しかし、あくまで相対的な話にすぎない。この場所もすべて、放射能の「黒い斑点」の中にある。
直接的な意味でも、比喩的な意味でも、チェルノブイリは僕の血の中にあると、僕はそう思い始めている。
1991年初め、共和国保健省から派遣された医師団が僕たちの学校を訪れ、医療検診が実施された。
多くの子どもに甲状腺肥大が見られた。僕にもこの病気が発見された。クリチェフ地区病院で1クールの治療を受けた。
その年の夏、僕は「チェルノブイリの子どもたち基金」によって、黒海沿岸の保養地トゥアプセのピオネール・キャンプ「オルレーノック」に行くことができた。
40日間、ベラルーシの様々なところから来た男の子、女の子たちとそこで休養した。そこで気分は良くなった。
しかし、チェルノブイリによる故郷の不幸や災難で苦しんでいる人のことを思うと、痛みで胸が締めつけられる。
僕の心の中から抗議と絶望の叫びが聞こえてくる。
ついに,この地で生命がつきてしまわぬように、そして、今は死んでいる町や村が再び命を取り戻すように、あらゆる事をしなければならない……。
まさにこれこそ、僕が物理の授業で考えたことだった。
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簡素な睡眠者、ハエや虫もぐうぐう眠るらしい
2013-02-13
眠りの話。
哺乳類や鳥類に限らず、虫だって眠っているらしい。
ーーーーーーーーーーー
☆☆ 何時間寝ますか 2/12 リー湘南クリニックから
REM睡眠(Rapid Eye Movement: 目がピクピク動いている状態)の発見により、様々な動物が夢を見ることがわかった。
哺乳類で一番長く夢を見るのが「カモノハシ」、最も短いのが「イルカやクジラ」(半脳ずつ眠るらしい)、人間はその中間。
今もって夢の機能は不明である。
最近のサイエンス誌によると、何とハエや線虫もグーグー眠ることが明らかになり、それを司る遺伝子が発見された。
捕食者に狙われやすいのに、なぜ眠るのだろうか。あまりにも面白い記事で、読み切るのがもったいなく、チビチビやっていましたが、解説記事を全訳しました。
長いですから、一番最後の行だけでも楽しんでくださいな。
原論文もかなり面白く、ペロペロと全訳しました。よほどお暇なかたはどうぞ。「ハマトンの見切り」ならぬ「ハマトンの煮切り?」
(解説記事の全訳)
☆ 簡素な睡眠者
「睡眠促進因子、SLEEPLESSタンパクの同定」という論文に対する編集者の解説記事です。≪≫内は僕の解説。≪遺伝子名は小文字斜体で、その遺伝子からこさえられたタンパク質は大文字で記す≫
クラシック≪英語では、古めかしいという意味より、伝統的に確立されたという意味をもつ≫な遺伝的実験モデル(ハエ、ゼブラフィッシュ、線虫)は睡眠の研究ではポピュラーな新座者であるが、これらがヒトの睡眠とどれくらい関係があるのか論争がある。
睡眠学者 Hendricks、彼女は飼育していたハエを殺してしまったと思った。
彼女は赤色灯の下で何時間も、ハエの入ったボトルを虫たちが眠らないようトントンたたき続けた。遂に虫たちは引っくり返った:ボトルをたたいてもハエは起き上がらなかった。
しかし数時間後ハエは起き上がった。「ハエたちは、とても眠かっただけなの」。
それは、1990年代のできごとだった。彼女らのハエの睡眠に関する論文は 2000年に発表された。次のグループが同様の発見を数ヵ月後に報告し、眠たい虫達は睡眠の研究を新たな分子時代へと導いた。
科学者たちは何世紀もの間、人々を当惑した疑問、なぜ眠る?:睡眠を剥奪されたヒトはひどい気分で能率が下がる:ラットでは、2週間以上睡眠を剥奪すると死亡する:に答をもたらす。
今や、ほとんどの動物は人間と同様、睡眠をとることが分かり、睡眠研究者は、ハエ、ゼブラフィシュ、そして線虫を喜々とし、研究室に持ち込む。
すでに、研究しやすいゲノムと単純な神経系を持つこれら創造物達は、睡眠はいかに脳と代謝を維持するのか新しい証拠をもたらした。
彼らは、このサイエンス誌に掲載された、睡眠をコントロールするsleeplessと呼ばれるハエの遺伝子を明らかにした。
すべての科学者が、ハエ、魚、そして線虫の睡眠がヒトの睡眠に、あるいは動物界に共通の機能、睡眠にスポットライトを当てると考えているわけではない、
しかし幾つかの共通点は、この道は王道であると確信させる。Cirelliはハエが睡眠することを発見した Hendricksと同様に「間違いない」と言う。「虫達を観察すればするほど、哺乳類にますます似ているようだわ」。
ヒト睡眠研究者たちでさえ、彼女の楽観論に同意する。
脳画像を用い睡眠障害を研究している Nofzingerは、単純な動物のみが提供しえる遺伝的洞察を渇望する。「多くの確実性と可能性がある」。
疲れ果てたハエ
ハエや線虫といった単純な動物が長い間、睡眠研究者たちの関心を引かなかったのには訳がある。
鳥や哺乳類が睡眠するとき、脳は深い睡眠と浅い睡眠≪REM睡眠;REMは「Rapid Eye Movement」、高速眼球運動のことで特徴的な脳波パターンを発する≫を繰り返す。
1953年にこの現象が発見されて以来、脳波計でヒト脳を測定し、脳波パターンを睡眠の定義に組み入れてきた。
しかし、ハエ、線虫の単純な脳、そして爬虫類でさえ、そのような脳波パターンを示さず、これら動物が睡眠するとは信じられなかった。
1990年代中期、ハエや線虫で分子・遺伝的技術が開拓され、記憶の形成から胚の発達まで、すべてを明らかにされたとき、睡眠学者たちは、猫、ラットやイヌにへばりついていた。
しかし、Packのような少数の研究者は、ハエはうたた寝すると疑い、ハエの研究は、同じように睡眠と睡眠障害の遺伝子を浮かびあがせると期待した。
ハエのうたた寝を確かめるため、Hendericksを含む Packらは、脳波に取って代わられていた古めかしい行動的基準 ― 睡眠中の動物は動かず起きにくい ― を復活させた。
それは習慣的姿勢あるいは防御的姿勢と考えられる。
彼女は、最も大事なのは、睡眠を妨害されたヒトと同じようにそれを補おうとすると言う。このことは、睡眠は単なる時間の浪費ではなく、必要なものであることを意味する。
彼女は「睡眠は、空腹と同様に規制されている」と言う。「もし長いこと食べていないと沢山食べる。長い時間寝ていないと蓄積し、長時間睡眠をとる」。
それで、彼女に睡眠を妨害されたハエが登場する:一晩中瓶をとんとん叩かれたハエは、剥奪された睡眠を必死になって埋め合わせる必要があった。
ハエたちは、他の睡眠基準にも合致した。ハエたちは主に夜間に、いつも餌から数㎜のところでうたた寝し、起こすには、警戒しているハエより、瓶を大きくたたく必要があった。
Henderickらは 2000年に Nature誌≪Science誌にならぶ、世界最高峰の科学雑誌≫に報告した。偶然に、Shawらは同様の論文を数カ月遅れで、Science誌に報告した≪歴史的な発見は数か月違いで報告されることが多い≫。
睡眠の土台となる分子が保存されているかを調べるため、カフェインと一緒に餌を置いた。
最も濃いカフェインを摂取したハエは、カフェインなしコントロールに比べ、うたた寝時間は半分になり、死んでしまったハエもいた。
ヒトの睡眠に影響を与える他の薬剤も同じようにハエに影響を与えた:アンフェタミンは覚醒させ続け、抗ヒスタミン剤は眠りこませた。
おおよそ寿命 2か月のハエの生涯の睡眠パターンは、ヒトのそれを彷彿させる:若いハエは最も長く眠り、年寄ハエの睡眠時間は短かった。
この 2つの「ハエ-うたた寝」論文は、流行の火つけ役となった。
研究者たちは、眠りこけるゼブラフィシュを 2002年に、そして線虫≪959個の細胞からなり(ヒトは100兆個)、うち神経細胞は 302個(ヒトは一兆個)≫を 2008年に報告した。
ハエと同様、魚と線虫は優れた遺伝子研究の道具で、睡眠と神経系構造と維持の関係を研究するのに適している。
しかしながら、線虫の眠りは風変わりである。
孵化してから数日で成虫になる。ハエや他の動物のように毎日寝るのではなく、成長期の虫は、それぞれ 4つの成長期に 7~12時間毎に 2時間ほど昼寝する(lethargusとよばれる)。
昼寝している間、線虫は新しいキューティクルを作り、ボディーパーツを再構成し、性的に成熟する。
少なくとも研究室では、線虫は再び寝ることはない。
線虫の眠りを研究している神経学者 Raizenは哺乳動物の睡眠と比較するのは名案だという:Lethargusは他の睡眠と異なるので、共通部分は多分睡眠の普遍的機能に重要である。
「秘訣は、共通性を研究することだ」。
約束される共通性
異なる種で睡眠と覚醒をつかさどる細胞-信号伝達系の相同関係が明らかになり始めた。
約 10年前、神経生物学者 Sehgal率いる、Hendrickのチームは、CREBとよばれる転写要因からの過剰信号をもつ変異ハエは、正常ハエよりも最大 50%も長く眠ることを発見した。
CREB系に障害があるハエの睡眠時間は半分以下で、睡眠剥奪後異常に長くリバウンド睡眠をとる。
2年後、Packを含む研究グループは CREB系を欠損したマウスの睡眠時間も短いことを発見した。
EGF(上皮成長因子)信号伝達系でも同様の発見があり、それは線虫、ハエ、ウサギ、そしてハムスターの睡眠を助長する。
Packは CREBや EGFといった分子は、記憶保存から発生中細胞運命を決定するといった「多くの生物的過程に関わる」と指摘する。
彼は、これらは特定の目的のための睡眠機序を表しているのではないと主張する。
そうではなく、これら信号伝達系の脳内神経回路への複合的作用から睡眠がもたらされると言う。
Packは、ハエ、線虫、そして魚は、睡眠を誘発する脳領域を明らかにすると予想する。
彼は、神経伝達物質ドーパミンは、ハエと哺乳類の特定のニューロンに作用し、覚醒を促すことを引用する。
同様にこれら動物では、GABAは睡眠を促す。
更に、これら単純な動物で使える遺伝子的手法は、どの脳領域が特異的睡眠規制分子に反応するのかという研究を可能にする。
ハエでは、CREBが学習と記憶関係する脳内のマッシュルーム体に作用し、覚醒を促す。
そして、EGF信号伝達系は、ハエの 2つの脳領域、そして線虫の一つのニューロンを通して睡眠に影響を及ぼす。
しかし、そのような知見がヒトとどう関係するかは不明である。
犬でナルコレプシー研究のパイオニアである Mignotは「脳神経化学と構造は基本的に異なる」と警告を発する。
彼は、ドーパミンと GABAと異なり、哺乳類では睡眠に関わるいくつかの重要な神経伝達物質は、ハエと線虫では完全に欠如していると指摘する。
例えば、hypocretinは、マウス、イヌ、そしてヒトでナルコレプシーに関わるが、ハエと線虫は作ることすらできない。
そのような違いを前にして、ハエと線虫が全脳レベルで哺乳類の睡眠を明らかにするとは期待できないと Mignotは言う。
これら動物は、個々の細胞における睡眠の機能と機序を明らかにするのではないかと彼は言う。
機能の発見
細胞レベルでの睡眠の目的を解明する一つの方法は、睡眠中あるいは覚醒中どの遺伝子とタンパク質が活性化しているか比較することである。
マウス、ラット、sparrows ≪検索したが意味不明、文脈から“線虫”でしょう≫、そしてハエでは、非常に多くのタンパク質合成に関わる遺伝子とコレステロール代謝が、主に睡眠中に活性化されている。
Packらは、2007年に睡眠の重要な機能は、覚醒中に使われるエネルギーや身体のパーツ分子を再構築することであると提唱した。
線虫のうたた寝サイクルはこの仮説に合致すると Raizenは言う。
線虫は lethargusの間、新しい皮膚・キューティクルを合成し、細胞自体は分裂していないのに消化管内の細胞核を 2倍にする。
「これらは、2つの重要な生合成過程である」と彼は言う。
疲れ果てた昆虫は、神経系は何かの理由で睡眠を必要とすることを示唆する。
ラットとハエの覚醒中に活性化し、睡眠中にオフになる遺伝子を比較すると、いくつかの遺伝子は、学習の結果脳内の神経同士の結合、シナプスの構築と強化に関与することに Cirelliと Tononiは気づいた。
もしすべての新しいシナプスが毎日毎日蓄積されたら、脳はすぐにスペースとエネルギーを使い果たすと Cirelliは言う。(ヒトでは、脳は 1/5の代謝を担う)。
彼女は、睡眠中シナプスは最も強固な結合が残るようにトリムされると示唆する。「記憶を無くさないが、…より痩せた脳で覚醒する」と彼女は言う。
その仮説の検証が済んでいないが、神経系はメインテナンスのため回路をオフラインにするというのは理にかなっている。
睡眠を剥奪されたヒトとラットは、大学での試験から迷路まで成績が劣る ― ハエも丁度同じようである。
Shawらは、まだ論文になっていないが、睡眠を剥奪したハエは、学習テストで 50%以上ミスが多いことを発見した。
この先
睡眠科学の社会で多くは、Sehagalのようにこれまで見過ごされていた睡眠機能について、とてつもないアイデアがあると考える。
「私たちは、基本的な進歩を望んでいる」と彼女は言う。そのような新しい概念を発見する近道は、DNAが無作為に変異したハエ、線虫、そして魚の異常睡眠をスクリーニングすることと言う。
そのようなスクリーニングは、睡眠とは何かという予想された概念を回避できる。
「それら変異に関わる遺伝子を同定するだけでよい」、「それら遺伝子では、恐らく機能が欠落している」と彼女は断定する。
2005年、Cirelliのチームは、この無作為遺伝子スクリーンを Nature誌に発表した。
彼女らは、睡眠異常を示す、9,000種の変異ハエを観察した。
最も極端なハエは一日の睡眠時間が、たった 4~5時間で(正常は、9~15時間)、睡眠剥奪後も覚醒し続けた。
これら、眠らないハエは、早死にする傾向があり、細胞膜内外で Kイオン流入を調整するタンパク質をエンコードする Shakerと呼ばれる遺伝子に変異がある。
機能的 Shakerチャンネルは、ニューロン発火後 [膜電位を]基線まで戻すのを助ける;この異常はニューロンの興奮性を高め、以前は睡眠ではなく、てんかん発作と関係すると考えられていた。
ハエと異なり、マウスは 1ダース以上の Shaker様遺伝子をもつ。
Cirelliのチームは賽を振り、一つを取り出し、変異を組み入れた。変異マウスは 21%長く覚醒し、結果を 2007年、BMC biology誌に報告した。
新しい Science誌の論文で、Sehgalのチームは途方もなく睡眠時間の短いハエを報告し、睡眠における Shakerチャンネルと神経興奮性の重要性を強調した。
遺伝子スクリーニング手法で、これらハエは以前に知られていない遺伝子が変異していることが分かり、一日の睡眠時間は 1時間以内だった。
彼女らは、第二のハエ種で、同じ遺伝子内に他の変異を発見した。
これらハエの睡眠時間は正常だったが、睡眠剥奪後、ほとんど眠らなかった。
Sehgalのチームは、新しい遺伝子を sleeplessと命名し、脳内 Shakerチャンネル表現を規制する小分子タンパクをコードすることを明らかにした:sleepless変異個体では、Shakerチャンネル・タンパクは、ほとんど検出されない。
Mignotは、Shakerと sleepless変異は、以前には考えられなかった、睡眠におけるニューロン興奮性の重要性を示すと言う。
「(これら変異ハエ)から出てきた考えだ」と彼は言う。自然の睡眠サイクルでニューロン興奮性がさまざま理由は、まだ分かっていない。
「それは覚醒をもたらす病的経路なのか…少々途惑っている」と彼は言う。
脊椎動物の睡眠に関しては、Mignotらと Schierのチームはゼブラフィシュを用い無作為化遺伝子スクリーニング研究を、Schierらはさらに、数千の薬剤の睡眠への影響を研究し始めた。
Mignotは、ハエのような急速な進歩、そして魚は新しい遺伝子を明らかにし、ヒトとの関連を明らかにすると確信する。
「次の 5年、雪崩をうったように知見を得るだろう」と彼は言う。
他はまだ確かでない。哺乳類で REM睡眠を研究している Siegelは、同僚たちが種をこえて睡眠の類似性に結論を急ぐことに憂慮する。
「哺乳類でさえ、種の多様性に感謝すべきだ」と彼は言う。
実際、シマウマは数時間しか眠らないし、ある種のコウモリは 20時間も眠る。そして、イルカは常に脳の半分だけ休む。
「脳機能を睡眠だけに向けると、辻褄が合わない」と Siegelは言う。むしろ、睡眠は単にエネルギーを倹約し準備が完了したらトラブルを避ける手段と考える。
Mignotはそれには同意せず、機能はまだ解明されてないとしても睡眠が回復する機能をもつのは、大方の同意であると主張する。
いずれにしろ、ハエ、線虫そして魚の研究者達は、永遠の謎を解くことを夢見る。
ELSA YOUNGSTEADT Simple Sleepers Science 321:334 2008

哺乳類や鳥類に限らず、虫だって眠っているらしい。
ーーーーーーーーーーー
☆☆ 何時間寝ますか 2/12 リー湘南クリニックから
REM睡眠(Rapid Eye Movement: 目がピクピク動いている状態)の発見により、様々な動物が夢を見ることがわかった。
哺乳類で一番長く夢を見るのが「カモノハシ」、最も短いのが「イルカやクジラ」(半脳ずつ眠るらしい)、人間はその中間。
今もって夢の機能は不明である。
最近のサイエンス誌によると、何とハエや線虫もグーグー眠ることが明らかになり、それを司る遺伝子が発見された。
捕食者に狙われやすいのに、なぜ眠るのだろうか。あまりにも面白い記事で、読み切るのがもったいなく、チビチビやっていましたが、解説記事を全訳しました。
長いですから、一番最後の行だけでも楽しんでくださいな。
原論文もかなり面白く、ペロペロと全訳しました。よほどお暇なかたはどうぞ。「ハマトンの見切り」ならぬ「ハマトンの煮切り?」
(解説記事の全訳)
☆ 簡素な睡眠者
「睡眠促進因子、SLEEPLESSタンパクの同定」という論文に対する編集者の解説記事です。≪≫内は僕の解説。≪遺伝子名は小文字斜体で、その遺伝子からこさえられたタンパク質は大文字で記す≫
クラシック≪英語では、古めかしいという意味より、伝統的に確立されたという意味をもつ≫な遺伝的実験モデル(ハエ、ゼブラフィッシュ、線虫)は睡眠の研究ではポピュラーな新座者であるが、これらがヒトの睡眠とどれくらい関係があるのか論争がある。
睡眠学者 Hendricks、彼女は飼育していたハエを殺してしまったと思った。
彼女は赤色灯の下で何時間も、ハエの入ったボトルを虫たちが眠らないようトントンたたき続けた。遂に虫たちは引っくり返った:ボトルをたたいてもハエは起き上がらなかった。
しかし数時間後ハエは起き上がった。「ハエたちは、とても眠かっただけなの」。
それは、1990年代のできごとだった。彼女らのハエの睡眠に関する論文は 2000年に発表された。次のグループが同様の発見を数ヵ月後に報告し、眠たい虫達は睡眠の研究を新たな分子時代へと導いた。
科学者たちは何世紀もの間、人々を当惑した疑問、なぜ眠る?:睡眠を剥奪されたヒトはひどい気分で能率が下がる:ラットでは、2週間以上睡眠を剥奪すると死亡する:に答をもたらす。
今や、ほとんどの動物は人間と同様、睡眠をとることが分かり、睡眠研究者は、ハエ、ゼブラフィシュ、そして線虫を喜々とし、研究室に持ち込む。
すでに、研究しやすいゲノムと単純な神経系を持つこれら創造物達は、睡眠はいかに脳と代謝を維持するのか新しい証拠をもたらした。
彼らは、このサイエンス誌に掲載された、睡眠をコントロールするsleeplessと呼ばれるハエの遺伝子を明らかにした。
すべての科学者が、ハエ、魚、そして線虫の睡眠がヒトの睡眠に、あるいは動物界に共通の機能、睡眠にスポットライトを当てると考えているわけではない、
しかし幾つかの共通点は、この道は王道であると確信させる。Cirelliはハエが睡眠することを発見した Hendricksと同様に「間違いない」と言う。「虫達を観察すればするほど、哺乳類にますます似ているようだわ」。
ヒト睡眠研究者たちでさえ、彼女の楽観論に同意する。
脳画像を用い睡眠障害を研究している Nofzingerは、単純な動物のみが提供しえる遺伝的洞察を渇望する。「多くの確実性と可能性がある」。
疲れ果てたハエ
ハエや線虫といった単純な動物が長い間、睡眠研究者たちの関心を引かなかったのには訳がある。
鳥や哺乳類が睡眠するとき、脳は深い睡眠と浅い睡眠≪REM睡眠;REMは「Rapid Eye Movement」、高速眼球運動のことで特徴的な脳波パターンを発する≫を繰り返す。
1953年にこの現象が発見されて以来、脳波計でヒト脳を測定し、脳波パターンを睡眠の定義に組み入れてきた。
しかし、ハエ、線虫の単純な脳、そして爬虫類でさえ、そのような脳波パターンを示さず、これら動物が睡眠するとは信じられなかった。
1990年代中期、ハエや線虫で分子・遺伝的技術が開拓され、記憶の形成から胚の発達まで、すべてを明らかにされたとき、睡眠学者たちは、猫、ラットやイヌにへばりついていた。
しかし、Packのような少数の研究者は、ハエはうたた寝すると疑い、ハエの研究は、同じように睡眠と睡眠障害の遺伝子を浮かびあがせると期待した。
ハエのうたた寝を確かめるため、Hendericksを含む Packらは、脳波に取って代わられていた古めかしい行動的基準 ― 睡眠中の動物は動かず起きにくい ― を復活させた。
それは習慣的姿勢あるいは防御的姿勢と考えられる。
彼女は、最も大事なのは、睡眠を妨害されたヒトと同じようにそれを補おうとすると言う。このことは、睡眠は単なる時間の浪費ではなく、必要なものであることを意味する。
彼女は「睡眠は、空腹と同様に規制されている」と言う。「もし長いこと食べていないと沢山食べる。長い時間寝ていないと蓄積し、長時間睡眠をとる」。
それで、彼女に睡眠を妨害されたハエが登場する:一晩中瓶をとんとん叩かれたハエは、剥奪された睡眠を必死になって埋め合わせる必要があった。
ハエたちは、他の睡眠基準にも合致した。ハエたちは主に夜間に、いつも餌から数㎜のところでうたた寝し、起こすには、警戒しているハエより、瓶を大きくたたく必要があった。
Henderickらは 2000年に Nature誌≪Science誌にならぶ、世界最高峰の科学雑誌≫に報告した。偶然に、Shawらは同様の論文を数カ月遅れで、Science誌に報告した≪歴史的な発見は数か月違いで報告されることが多い≫。
睡眠の土台となる分子が保存されているかを調べるため、カフェインと一緒に餌を置いた。
最も濃いカフェインを摂取したハエは、カフェインなしコントロールに比べ、うたた寝時間は半分になり、死んでしまったハエもいた。
ヒトの睡眠に影響を与える他の薬剤も同じようにハエに影響を与えた:アンフェタミンは覚醒させ続け、抗ヒスタミン剤は眠りこませた。
おおよそ寿命 2か月のハエの生涯の睡眠パターンは、ヒトのそれを彷彿させる:若いハエは最も長く眠り、年寄ハエの睡眠時間は短かった。
この 2つの「ハエ-うたた寝」論文は、流行の火つけ役となった。
研究者たちは、眠りこけるゼブラフィシュを 2002年に、そして線虫≪959個の細胞からなり(ヒトは100兆個)、うち神経細胞は 302個(ヒトは一兆個)≫を 2008年に報告した。
ハエと同様、魚と線虫は優れた遺伝子研究の道具で、睡眠と神経系構造と維持の関係を研究するのに適している。
しかしながら、線虫の眠りは風変わりである。
孵化してから数日で成虫になる。ハエや他の動物のように毎日寝るのではなく、成長期の虫は、それぞれ 4つの成長期に 7~12時間毎に 2時間ほど昼寝する(lethargusとよばれる)。
昼寝している間、線虫は新しいキューティクルを作り、ボディーパーツを再構成し、性的に成熟する。
少なくとも研究室では、線虫は再び寝ることはない。
線虫の眠りを研究している神経学者 Raizenは哺乳動物の睡眠と比較するのは名案だという:Lethargusは他の睡眠と異なるので、共通部分は多分睡眠の普遍的機能に重要である。
「秘訣は、共通性を研究することだ」。
約束される共通性
異なる種で睡眠と覚醒をつかさどる細胞-信号伝達系の相同関係が明らかになり始めた。
約 10年前、神経生物学者 Sehgal率いる、Hendrickのチームは、CREBとよばれる転写要因からの過剰信号をもつ変異ハエは、正常ハエよりも最大 50%も長く眠ることを発見した。
CREB系に障害があるハエの睡眠時間は半分以下で、睡眠剥奪後異常に長くリバウンド睡眠をとる。
2年後、Packを含む研究グループは CREB系を欠損したマウスの睡眠時間も短いことを発見した。
EGF(上皮成長因子)信号伝達系でも同様の発見があり、それは線虫、ハエ、ウサギ、そしてハムスターの睡眠を助長する。
Packは CREBや EGFといった分子は、記憶保存から発生中細胞運命を決定するといった「多くの生物的過程に関わる」と指摘する。
彼は、これらは特定の目的のための睡眠機序を表しているのではないと主張する。
そうではなく、これら信号伝達系の脳内神経回路への複合的作用から睡眠がもたらされると言う。
Packは、ハエ、線虫、そして魚は、睡眠を誘発する脳領域を明らかにすると予想する。
彼は、神経伝達物質ドーパミンは、ハエと哺乳類の特定のニューロンに作用し、覚醒を促すことを引用する。
同様にこれら動物では、GABAは睡眠を促す。
更に、これら単純な動物で使える遺伝子的手法は、どの脳領域が特異的睡眠規制分子に反応するのかという研究を可能にする。
ハエでは、CREBが学習と記憶関係する脳内のマッシュルーム体に作用し、覚醒を促す。
そして、EGF信号伝達系は、ハエの 2つの脳領域、そして線虫の一つのニューロンを通して睡眠に影響を及ぼす。
しかし、そのような知見がヒトとどう関係するかは不明である。
犬でナルコレプシー研究のパイオニアである Mignotは「脳神経化学と構造は基本的に異なる」と警告を発する。
彼は、ドーパミンと GABAと異なり、哺乳類では睡眠に関わるいくつかの重要な神経伝達物質は、ハエと線虫では完全に欠如していると指摘する。
例えば、hypocretinは、マウス、イヌ、そしてヒトでナルコレプシーに関わるが、ハエと線虫は作ることすらできない。
そのような違いを前にして、ハエと線虫が全脳レベルで哺乳類の睡眠を明らかにするとは期待できないと Mignotは言う。
これら動物は、個々の細胞における睡眠の機能と機序を明らかにするのではないかと彼は言う。
機能の発見
細胞レベルでの睡眠の目的を解明する一つの方法は、睡眠中あるいは覚醒中どの遺伝子とタンパク質が活性化しているか比較することである。
マウス、ラット、sparrows ≪検索したが意味不明、文脈から“線虫”でしょう≫、そしてハエでは、非常に多くのタンパク質合成に関わる遺伝子とコレステロール代謝が、主に睡眠中に活性化されている。
Packらは、2007年に睡眠の重要な機能は、覚醒中に使われるエネルギーや身体のパーツ分子を再構築することであると提唱した。
線虫のうたた寝サイクルはこの仮説に合致すると Raizenは言う。
線虫は lethargusの間、新しい皮膚・キューティクルを合成し、細胞自体は分裂していないのに消化管内の細胞核を 2倍にする。
「これらは、2つの重要な生合成過程である」と彼は言う。
疲れ果てた昆虫は、神経系は何かの理由で睡眠を必要とすることを示唆する。
ラットとハエの覚醒中に活性化し、睡眠中にオフになる遺伝子を比較すると、いくつかの遺伝子は、学習の結果脳内の神経同士の結合、シナプスの構築と強化に関与することに Cirelliと Tononiは気づいた。
もしすべての新しいシナプスが毎日毎日蓄積されたら、脳はすぐにスペースとエネルギーを使い果たすと Cirelliは言う。(ヒトでは、脳は 1/5の代謝を担う)。
彼女は、睡眠中シナプスは最も強固な結合が残るようにトリムされると示唆する。「記憶を無くさないが、…より痩せた脳で覚醒する」と彼女は言う。
その仮説の検証が済んでいないが、神経系はメインテナンスのため回路をオフラインにするというのは理にかなっている。
睡眠を剥奪されたヒトとラットは、大学での試験から迷路まで成績が劣る ― ハエも丁度同じようである。
Shawらは、まだ論文になっていないが、睡眠を剥奪したハエは、学習テストで 50%以上ミスが多いことを発見した。
この先
睡眠科学の社会で多くは、Sehagalのようにこれまで見過ごされていた睡眠機能について、とてつもないアイデアがあると考える。
「私たちは、基本的な進歩を望んでいる」と彼女は言う。そのような新しい概念を発見する近道は、DNAが無作為に変異したハエ、線虫、そして魚の異常睡眠をスクリーニングすることと言う。
そのようなスクリーニングは、睡眠とは何かという予想された概念を回避できる。
「それら変異に関わる遺伝子を同定するだけでよい」、「それら遺伝子では、恐らく機能が欠落している」と彼女は断定する。
2005年、Cirelliのチームは、この無作為遺伝子スクリーンを Nature誌に発表した。
彼女らは、睡眠異常を示す、9,000種の変異ハエを観察した。
最も極端なハエは一日の睡眠時間が、たった 4~5時間で(正常は、9~15時間)、睡眠剥奪後も覚醒し続けた。
これら、眠らないハエは、早死にする傾向があり、細胞膜内外で Kイオン流入を調整するタンパク質をエンコードする Shakerと呼ばれる遺伝子に変異がある。
機能的 Shakerチャンネルは、ニューロン発火後 [膜電位を]基線まで戻すのを助ける;この異常はニューロンの興奮性を高め、以前は睡眠ではなく、てんかん発作と関係すると考えられていた。
ハエと異なり、マウスは 1ダース以上の Shaker様遺伝子をもつ。
Cirelliのチームは賽を振り、一つを取り出し、変異を組み入れた。変異マウスは 21%長く覚醒し、結果を 2007年、BMC biology誌に報告した。
新しい Science誌の論文で、Sehgalのチームは途方もなく睡眠時間の短いハエを報告し、睡眠における Shakerチャンネルと神経興奮性の重要性を強調した。
遺伝子スクリーニング手法で、これらハエは以前に知られていない遺伝子が変異していることが分かり、一日の睡眠時間は 1時間以内だった。
彼女らは、第二のハエ種で、同じ遺伝子内に他の変異を発見した。
これらハエの睡眠時間は正常だったが、睡眠剥奪後、ほとんど眠らなかった。
Sehgalのチームは、新しい遺伝子を sleeplessと命名し、脳内 Shakerチャンネル表現を規制する小分子タンパクをコードすることを明らかにした:sleepless変異個体では、Shakerチャンネル・タンパクは、ほとんど検出されない。
Mignotは、Shakerと sleepless変異は、以前には考えられなかった、睡眠におけるニューロン興奮性の重要性を示すと言う。
「(これら変異ハエ)から出てきた考えだ」と彼は言う。自然の睡眠サイクルでニューロン興奮性がさまざま理由は、まだ分かっていない。
「それは覚醒をもたらす病的経路なのか…少々途惑っている」と彼は言う。
脊椎動物の睡眠に関しては、Mignotらと Schierのチームはゼブラフィシュを用い無作為化遺伝子スクリーニング研究を、Schierらはさらに、数千の薬剤の睡眠への影響を研究し始めた。
Mignotは、ハエのような急速な進歩、そして魚は新しい遺伝子を明らかにし、ヒトとの関連を明らかにすると確信する。
「次の 5年、雪崩をうったように知見を得るだろう」と彼は言う。
他はまだ確かでない。哺乳類で REM睡眠を研究している Siegelは、同僚たちが種をこえて睡眠の類似性に結論を急ぐことに憂慮する。
「哺乳類でさえ、種の多様性に感謝すべきだ」と彼は言う。
実際、シマウマは数時間しか眠らないし、ある種のコウモリは 20時間も眠る。そして、イルカは常に脳の半分だけ休む。
「脳機能を睡眠だけに向けると、辻褄が合わない」と Siegelは言う。むしろ、睡眠は単にエネルギーを倹約し準備が完了したらトラブルを避ける手段と考える。
Mignotはそれには同意せず、機能はまだ解明されてないとしても睡眠が回復する機能をもつのは、大方の同意であると主張する。
いずれにしろ、ハエ、線虫そして魚の研究者達は、永遠の謎を解くことを夢見る。
ELSA YOUNGSTEADT Simple Sleepers Science 321:334 2008

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チェリノブイリの子ども:リュドミラ・ラプツェビッチ
2013-02-13
ドミトリーおじさんのゾーンでの話 リュードミラ・ラプツェービッチ(16) 「チェリノブイリの子どもたち」から
ベラルーシの人々と他の国の人々は、重い試練を受けることになった。
それはわたしたちが自らの運命を身をもって知ることになった原子力発電所の事故による、深刻な被害のためです。
チェルノブイリの灼熱に倒れた人々に対して、弔意を表したいと思う。
私たちが生活し、働いているすぐそばにリクビダートル(※)と言われる人々がいる。私はおじさんのドミトリー・ゴロフコフのことについて話をする。
※リクビダートル
事故の後、消火作業やあとかなづけなどに動員された軍人や労働者のこと。60万人を超える人々が動員された。
おじさんは、最初のミンスク警察部隊の一員として、1986年6月に、チェルノブイリ30キロゾーンに入っていった。
部隊は軍曹70人、将校50人で構成されており、事故処理には、ロシア、リトアニア、ラトビア、その他の旧ソ連の共和国の人々が参加していた。彼らの言葉や車のナンバーから、どこから来たか分かったそうだ。
時には救急車や警察、軍隊などの車両2千台が縦隊列を組んで進んだこともあったという。
半径30キロに住む人々は、避難する際に家畜も連れて行ったが、犬や猫は連れていくこともできず、そのまま放置された。
それらはやがて野生化し、危険になったため、駆除のための作業が行われることになった。
人々がいなくなった村には長年にわたって少しずつためられた家財道具がおかれたまま、住む人もなく、ひっそりと家が建っていた。
不幸な運命によって、人々はふるさとから追い出されてしまったのだ。
1986年の夏は、天気がよく、暑く、南風が吹いた。しかし、広大な土地、広大な畑は、もはや誰をも喜ばせなかった。
チェルノブイリの事故のずっと以前、年寄りたちが語ったことがある。
『すべての物が豊富になるときが必ず来る。しかし、そのとき、それを食べることもできないし、使うこともできない』と。
誰もこの予言を信じるものはいなかった。
しかし、今まさにこの恐ろしい予言のときが来た。すばらしい天気と、人々の勤勉な労働によって、畑や菜園には食糧が満ちあふれた。
人々は放射能のことを知りながらも、その危険性については分かっていなかった。汚染は目に見えない敵だったのだ。
新聞、雑誌、本などでは、リクビダートルたちが、災害を克服するために働き闘うのがいかに大変だったか、ということをよく目にする。
しかし彼らの日常生活や食料などの条件がどうだったのか、ということについては紹介されることはない。
最初のミンスクの部隊では、25歳から40歳の男性が働いていた。
昼食には、328グラムの肉の缶詰が二人に1個の配給しかなく、これではとても足りなかった。
そのために、彼らは打ち捨てられた菜園で、汚染された果物をちぎり、それを井戸水で洗い、防護シートでふき、食料にしたのだ。
空腹がそうさせたのだ。危険だ! 恐ろしいことだ! しかしこれは事実なのだ。
ドミトリーおじさんの話では、警察の部隊の服装は、病院の白衣のようなものを着ただけのもので、ほかの作業員との違いといえば制帽だけ。
夜の勤務の時は、ゴム製の軍隊の防寒服が与えられた。
昼間は暖かいが、この勇敢で、忍耐強い、しかし半分飢えていた人々にとって、夕方や夜の勤務の時の寒さは、防寒着を着ていても凍りついてしまいそうだったという。
たき火は禁止されていた。空気中に放射能が舞い上がるからだ。
家を捨てていったある農民が彼らのために、納屋の鍵をあずけていった。
おかげで寒い夜の時など、彼らは干し草やワラの中で暖まることができた。
最初の部隊が撤収する3、4日前に、食料の基準をそれまでより4倍にしなさいという、厳しい命令が出された。この命令により、交替した次の部隊からは最初の部隊のような衣服や食料の困難さはなくなった。
30キロゾーンでの秩序維持と財産の保護のために働いた人々には、警察に限らず、武器が必要だった。
しかし、最初のリクビダートルたちは、任務を遂行する際、それらの武器をもっていなかった。次に交替した部隊からは状況が少し緩和されることになった。
着任後、おじさんが所属していた部隊の仕事は、まず自分たちの基地をつくることだった。
その後、警察部隊は農民の財産を泥棒から守る任務についたが、警備が手薄な家は泥棒に荒らされた。
よそから来た悪者が、何とかゾーンに忍び込み、ベラルーシの町の市場で売りさばこうと、菜園から作物を盗むのだ。
ゾーン内の主要な道路は民間警察によって閉鎖されていたが、小さな田舎道や森の中の小道がたくさんあったため、侵入者が後を絶たなかった。
そのためリクビダートルたちは木を切り倒して杭にし、それでワイヤーを張った防護柵を設けたりもした。
その地区の役所が、住民が中に入り自分の持ち物を持ち出すのを許可することがあった。その際にも、リクビダートルたちはその運搬の手伝いをした。
また、ゾーン内には移住をしたがらない老人が何人か住んでいて、その老人たちにパンを運ぶのも彼らの仕事だった。
それ以外にも、たくさんの苦難が待ち受けていた。
泥炭の火事がたびたび起こったので、消防士は苦しみながらも、手を休めるひまもなく消化に従事した。
また散水車や消防車は、放射能のほこりを固めるための洗浄水溶液を絶えず道に散水し、土地の除染(※)につとめたのだ。
※除染
放射能を取り除く作業。水で洗ったり、砂をまいたり、アスファルトで固めたりした。
このようなつらく危険な条件の中にもかかわらず、リクビダートルたちは週に一回、壁新聞を作っていた。おじさんはこの編集にたずさわっていた。
ちなみに任務解除後の1986年6月22日付警察新聞「10月の警備」紙で、厳しかった任務のことについて書いたおじさんの詩が、コンクールに入選していることが報道された。
リクビダートルたちの日々の疲れをいやしたのはサッカーのワールドカップの試合だった。夕方や夜に働いたリクビダートルたちは、朝、再放送を見ることができた。
これは悲しみを取り除き、力とエネルギーと気分を高揚させるものとなったそうだ。
おじさんは30キロゾーンから移住してきた人々の苦しみについては書いていない。これはまた別の違ったテーマだからだ。
一つだけ紹介しよう。
非常に危険な汚染地区(ホイニキ地区ストレチボ、ベリーキー・ボル)からの移住者のために、争い事もなく、家や学校が建てられた。
しかし、1991年には、そこも居住不可能であると宣告されてしまった。
チェルノブイリの被害を分析するのは困難である。それを計測するのは不可能に近い。
しかし、不幸は現実であり、誰の目にも明らかである。
被っている損害は長い将来にわたって続く。
ベラルーシの人々と他の国の人々は、重い試練を受けることになった。
それはわたしたちが自らの運命を身をもって知ることになった原子力発電所の事故による、深刻な被害のためです。
チェルノブイリの灼熱に倒れた人々に対して、弔意を表したいと思う。
私たちが生活し、働いているすぐそばにリクビダートル(※)と言われる人々がいる。私はおじさんのドミトリー・ゴロフコフのことについて話をする。
※リクビダートル
事故の後、消火作業やあとかなづけなどに動員された軍人や労働者のこと。60万人を超える人々が動員された。
おじさんは、最初のミンスク警察部隊の一員として、1986年6月に、チェルノブイリ30キロゾーンに入っていった。
部隊は軍曹70人、将校50人で構成されており、事故処理には、ロシア、リトアニア、ラトビア、その他の旧ソ連の共和国の人々が参加していた。彼らの言葉や車のナンバーから、どこから来たか分かったそうだ。
時には救急車や警察、軍隊などの車両2千台が縦隊列を組んで進んだこともあったという。
半径30キロに住む人々は、避難する際に家畜も連れて行ったが、犬や猫は連れていくこともできず、そのまま放置された。
それらはやがて野生化し、危険になったため、駆除のための作業が行われることになった。
人々がいなくなった村には長年にわたって少しずつためられた家財道具がおかれたまま、住む人もなく、ひっそりと家が建っていた。
不幸な運命によって、人々はふるさとから追い出されてしまったのだ。
1986年の夏は、天気がよく、暑く、南風が吹いた。しかし、広大な土地、広大な畑は、もはや誰をも喜ばせなかった。
チェルノブイリの事故のずっと以前、年寄りたちが語ったことがある。
『すべての物が豊富になるときが必ず来る。しかし、そのとき、それを食べることもできないし、使うこともできない』と。
誰もこの予言を信じるものはいなかった。
しかし、今まさにこの恐ろしい予言のときが来た。すばらしい天気と、人々の勤勉な労働によって、畑や菜園には食糧が満ちあふれた。
人々は放射能のことを知りながらも、その危険性については分かっていなかった。汚染は目に見えない敵だったのだ。
新聞、雑誌、本などでは、リクビダートルたちが、災害を克服するために働き闘うのがいかに大変だったか、ということをよく目にする。
しかし彼らの日常生活や食料などの条件がどうだったのか、ということについては紹介されることはない。
最初のミンスクの部隊では、25歳から40歳の男性が働いていた。
昼食には、328グラムの肉の缶詰が二人に1個の配給しかなく、これではとても足りなかった。
そのために、彼らは打ち捨てられた菜園で、汚染された果物をちぎり、それを井戸水で洗い、防護シートでふき、食料にしたのだ。
空腹がそうさせたのだ。危険だ! 恐ろしいことだ! しかしこれは事実なのだ。
ドミトリーおじさんの話では、警察の部隊の服装は、病院の白衣のようなものを着ただけのもので、ほかの作業員との違いといえば制帽だけ。
夜の勤務の時は、ゴム製の軍隊の防寒服が与えられた。
昼間は暖かいが、この勇敢で、忍耐強い、しかし半分飢えていた人々にとって、夕方や夜の勤務の時の寒さは、防寒着を着ていても凍りついてしまいそうだったという。
たき火は禁止されていた。空気中に放射能が舞い上がるからだ。
家を捨てていったある農民が彼らのために、納屋の鍵をあずけていった。
おかげで寒い夜の時など、彼らは干し草やワラの中で暖まることができた。
最初の部隊が撤収する3、4日前に、食料の基準をそれまでより4倍にしなさいという、厳しい命令が出された。この命令により、交替した次の部隊からは最初の部隊のような衣服や食料の困難さはなくなった。
30キロゾーンでの秩序維持と財産の保護のために働いた人々には、警察に限らず、武器が必要だった。
しかし、最初のリクビダートルたちは、任務を遂行する際、それらの武器をもっていなかった。次に交替した部隊からは状況が少し緩和されることになった。
着任後、おじさんが所属していた部隊の仕事は、まず自分たちの基地をつくることだった。
その後、警察部隊は農民の財産を泥棒から守る任務についたが、警備が手薄な家は泥棒に荒らされた。
よそから来た悪者が、何とかゾーンに忍び込み、ベラルーシの町の市場で売りさばこうと、菜園から作物を盗むのだ。
ゾーン内の主要な道路は民間警察によって閉鎖されていたが、小さな田舎道や森の中の小道がたくさんあったため、侵入者が後を絶たなかった。
そのためリクビダートルたちは木を切り倒して杭にし、それでワイヤーを張った防護柵を設けたりもした。
その地区の役所が、住民が中に入り自分の持ち物を持ち出すのを許可することがあった。その際にも、リクビダートルたちはその運搬の手伝いをした。
また、ゾーン内には移住をしたがらない老人が何人か住んでいて、その老人たちにパンを運ぶのも彼らの仕事だった。
それ以外にも、たくさんの苦難が待ち受けていた。
泥炭の火事がたびたび起こったので、消防士は苦しみながらも、手を休めるひまもなく消化に従事した。
また散水車や消防車は、放射能のほこりを固めるための洗浄水溶液を絶えず道に散水し、土地の除染(※)につとめたのだ。
※除染
放射能を取り除く作業。水で洗ったり、砂をまいたり、アスファルトで固めたりした。
このようなつらく危険な条件の中にもかかわらず、リクビダートルたちは週に一回、壁新聞を作っていた。おじさんはこの編集にたずさわっていた。
ちなみに任務解除後の1986年6月22日付警察新聞「10月の警備」紙で、厳しかった任務のことについて書いたおじさんの詩が、コンクールに入選していることが報道された。
リクビダートルたちの日々の疲れをいやしたのはサッカーのワールドカップの試合だった。夕方や夜に働いたリクビダートルたちは、朝、再放送を見ることができた。
これは悲しみを取り除き、力とエネルギーと気分を高揚させるものとなったそうだ。
おじさんは30キロゾーンから移住してきた人々の苦しみについては書いていない。これはまた別の違ったテーマだからだ。
一つだけ紹介しよう。
非常に危険な汚染地区(ホイニキ地区ストレチボ、ベリーキー・ボル)からの移住者のために、争い事もなく、家や学校が建てられた。
しかし、1991年には、そこも居住不可能であると宣告されてしまった。
チェルノブイリの被害を分析するのは困難である。それを計測するのは不可能に近い。
しかし、不幸は現実であり、誰の目にも明らかである。
被っている損害は長い将来にわたって続く。
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