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もうすぐ北風が強くなる

チェリノブイリの子ども:ミハイル・ピンニック

  死のゾーンはいらない ミハイル・ピンニック(14) 「チェリノブイリの子どもたち」から

 僕の両親はベラルーシをあちこち旅行するのが好きだ。僕もついて回って、いろんな所へ行った。僕が旅行で一番印象に残り、感動するものがある。それは戦争の史跡、われわれの未来のために戦った解放軍兵士(※)やパルチザン(※)の記念碑である。
 その全ての史跡には、全ての戦争の悲劇がある。そして、今また、新たな悲劇の記念碑が加わった。チェルノブイリの悲劇の史跡である。

※解放軍兵士
 ソ連軍のこと。

※パルチザン
 ナチスに抵抗して闘った遊撃隊。

 ポロシエの大地にミチノ墓地がある。これは、ミチノ村の外側に広がっている大きな死人の町だ。まだ「若い」墓地である。墓地の中央をつらぬく並木通りには、26の同じ形をした白い墓標と、小さな大理石で作られた石碑の墓が並んでいる。
 ここにはチェルノブイリ事故処理に参加して死んだ人を葬ってある。彼らの死は人々を動揺させた。

  あの森ではカッコウは鳴けない
  不毛の森ではないのだが、もっとおそろしいことに
  沈黙の森なのだ
  おお 人間たちよ
  気がついたのが遅かった
  チェルノブイリは核戦争なんだよ

 僕は、僕の同い年の人たち同様に汚染地区に住んでいなくてよかった。しかし、僕は自分の故郷のことで心が痛む。それぞれが自らの人生の総括をするだけではなく、祖国の運命、国民の歴史について考え、国民全体の問題の中での個人の貢献を、評価するときがくるだろう。
 このような考えにおいて、精神的なきっかけを与えるのは、たいていドラマチックな事件である。僕は、国中がその名を知っている人々のことについて書いてみたい。

 それは暖かい4月のライラックや桜の香りがする夜だった。突如、チェルノブイリ原発第4号炉が爆発した。23歳のウラジミール・プラビイク中尉は危険な中に突進した。その時点で、40か所以上にものぼっていた火の手との戦いを始めた。どこが一番危険なのか。決定を下すのに猶予はなかった。

 消防士は28人で、三つの消防隊から来ていた。火を消せないにしても、拡大するのはくい止めなければならなかった。ワシーリ・イグナチェンコ中尉は70メートルのハシゴをかけ登っていった。ウラジミール・チシチューラは機械棟の屋根に飛び込んでいった。
 現場に、消防隊長のウラジミール・チェリャートニコフ少佐が到着した。彼がみたものは恐ろしい光景だった。原子炉は燃えさかり、地獄の炎の光の中、相当な高さのところで人影がゆらめいていた。そこが最も危険な場所だった。チェリャートニコフ少佐は、ビクトル・キベソク、ウラジミール・プラービック、ビターリー・イグナチェンコ、ニコライ・バシチューク、ウラジミール・チシチューラ、ニコライ・チチェノークが絶体絶命の状況におかれていることを理解した。
 機械棟は火事から守られた。消防士たちは、十分に職務を果たした。なぜなら彼ら一人ひとりは、逃げてはいけない。自分たちには、子どもや父や母、年寄りがおり、故郷があるのだということを理解していたからだ。彼らは、自らの命をかえりみず、崇高な献身的精神で、炎との戦いでお互いに先を争って挑もうとしていた。

 レオニード・チェリャーニコフは380レントゲン(※)の放射線量を受けた。2か月の間、医者は彼の命のために闘った。奇跡が起こった。この勇敢な将校は生き延びたのだ。

※レントゲン
 放射線の照射線量の単位。

 240人がこのとき25から100レムの放射線を浴びた。大胆さと勇気と自己犠牲の精神である。どうしたらこのような精神が身につけられるのであろう。僕はこの地獄の試練を受けた人々の英雄的行為に頭が下がる思いがする。彼らの功績は、大祖国戦争(※)の時の解放軍兵士たちの功績にひけをとらないものである。

※大祖国戦争
 第二次世界大戦の独ソ戦の呼称。

 チェルノブイリ。チェルノブイリの悲劇。この苦しい時期、人々はそれぞれ異なった行動をした。ある人たちは、パニックにおちいり、ある人たちは、脱走してしまった。しかし、ほとんどの人々は英雄的にがんばったのである。不幸は、レントゲンのように、一人ひとりの心を透かしてみせる。

 時がたっても、多くの人がチェルノブイリの悲劇のなかの勇敢な戦士の名を忘れないだろうと、僕は信じる。チェルノブイリによる苦痛は、子どもたちの夢のような療養のための外国旅行によっても静められないし、政府の住民への追加補償の約束によっても消し去ることはできないし、医者の楽観的な診断によってもやわらげることもできない。
 これらには全て嘘の印が押してある。 

 チェルノブイリ事故は大地を揺り動かし、われわれの生活を変えてしまった。日常会話が「放射能」「レム」「キュリー」などの用語でいっぱいになった。
 われわれの全ての生活がチェルノブイリを考慮にいれてつくられている。

 有刺鉄線、重苦しい通達、居住禁止区域。これは戦争の記録映画ではないのだ。今、ここベラルーシで起こっていることなのだ。
 チェルノブイリゾーンは、穀物を栽培してはいけない、水も飲んではいけない、空気を吸うのも危険で、父祖の家も永久に住めないところなのだ。
 チェルノブイリで汚染された土地には、僕たちの子も孫も帰れない。
 それでも、セシウムやストロンチウムに冒された畑や森や草原が治った後、いつの日にか、子孫たちが帰れるようになるだろう。大地は、太古から住み続けた主人の子孫をわかるだろう。大地は、必ず誰だかわかり、許すことだろう。僕は心からこのことを信じる。

 現在、われわれの生活には多くの困難と問題がある。われわれがどれくらい生存できるか、多くのことを成し遂げることができるかどうかは、誰にもわからない。
われわれが残す足跡は、いいものでなくてはいけない。のちの人たちが思い出してくれるように。
 この国でこれ以上、死のゾーンや居住禁止区域ができないようにしたい。そして、チェルノブイリで破壊された地域に早く白樺の林が輝き、豊かな庭が現れ、リンゴの木にはみずみずしいリンゴがなるようにしたい。
 空気が自由に吸え、水が飲め、土地には種をまけるようにしたい。

  空気はきれいに
  空は青く
  畑には種がまかれ
  黄金色の小麦が
  実るように
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チェリノブイリの子ども:エレーナ・ドロッジャ

 チェリノブイリ原発事故で被曝被災したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」チェルノブイリ支援運動九州 梓書店 から同名のブログに引用されています。
 2/11から、そのいくつかを紹介しています。

  チェルノブイリの黄色い砂 エレーナ・ドロッジャ(16) 「チェリノブイリの子どもたち」から

 暗黒の言葉が まるで黒い太陽のように
 冷酷に ベラルーシの大空に のぼった。
 それは あたかも黒い日食のごとくに
 ものみなを黒く汚しつくした。
 緑の草も 澄んだ水も 青い空も。
   ヤンカ・シパコフ

 私は16歳です。チェルノブイリの悲劇のなかを生き続けるすべての人と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまったようです。1986年4月26日以前、そしてそのあとに。

 私たちはチェルノブイリからそう遠くない所に住んでいました。母はよく原発の町からおいしいものを買ってきては、私たちに、電気を供給してくれる原発の話をしてくれました。

 ある日、村に発電所で爆発があったといううわさが広まりました。この村からチェルノブイリ原発に働きに行っている人の口からです。でも、誰もそれが大変なこととは思いませんでした。

 次の日、ソホーズ(※)の競技場で、地区対抗サッカー大会が開かれました。私は両親と兄と一緒に、一日のほとんどをそこで過ごしました。
 突然雨が降り出しました。私たちはその雨を手のひらで受けながらはしゃぎ回っていたのです。その生暖かい雨が何を含んだものなのかを全く知らずに。
 そして待ちに待ったメーデーの祝日がやってきました。競技場は音楽や歌が流れ、大変なにぎわいでした。人々は、メーデーを祝い、緑あふれる季節を楽しんでいました。

※ソホーズ
 国営農場。コルホーズは集団農場。

 けれどついに不安が村を襲ったのです。母はとても心配そうに、昼間ちょっとだけ家に寄り、私たちに外に出ないようにと告げました。プリピチャに向かう国道を、何日も何日もいろいろな車の列が延々と続いていました。

 5月6日になり、親戚の人が来て、兄と私たちを連れて帰りました。それまでは、私は親と離れて暮らしたことが一度もなかったので、二日もたつと、もう帰りたくてたまらなくなりました。「ストレリチェボに帰ってはいけない、両親は今とても忙しいんだから。でも心配することは何もないよ」と説明されました。
 私はその時はまだ、何か月も家に帰れなくなったり、ボロブリャニの病院に入院しなければならなくなるなんて、そしてボリソフ地区のピオネールキャンプ(※)に行くことになるなんて、想像もできませんでした。

※ピオネール
 少年・少女の組織

 それでも私は、8月の終わりに自分の村に戻ることができました。本当に嬉しかった。でもここで一体何が起こったのか、不思議でたまりませんでした。景色は去年と全く変わらず、とても美しかった。ただ、菜園ではなぜか花が刈りとられていました。学校の周りもすっかり居心地が悪くなっていました。
 植え込みや花壇はもう元の姿はなく、黄色い砂に覆われていました。
 まもなく私たちは、毎日12時間学校にいなければならなくなりました。道路や競技場や森は危険地帯とわかったからです。私たちが放射能に被ばくしないようにと、政府が出した命令だったのです。

 そしてまた、旅が始まりました。私たち低学年の子どもは、アナパに療養に行くことになったのです。私たちのために南部の方から知らない先生がきました。とても親切で優しい女の先生たちで、黒海の話や、私たちがこれから行くサナトリウムが、とても美しくて素敵な所ということを教えてくれました。
 でも私たちはそれどころではなかったのです。両親と離れ、心の中は心配や不安でいっぱいでした。今すぐに引き返したいと、心いっぱい願っていました。

 黒海の海岸で過ごし、勉強したり遠足に出かけたりしました。でも心の中は故郷のことが心配で、毎日寂しくてたまりませんでした。
 そんなある日、母が訪ねてきてくれたのです。母を見つけ駆け出した時の喜びは、一生涯忘れることはないでしょう。私だけではなく、私たちの学校の生徒もみんな駆けてきました。みんな、親戚や知人のことを聞きたかったのです。
 母はみんなにキャンディを配りました。みんな自分のお母さんからもらったみたいに喜んでいました。私は最高に幸せでした。

 でも母は、すぐ村に戻らなければなりませんでした。たいへんな仕事が待っているからです。母は村のコルホーズの責任者をしていました。母は微笑みながら、私に元気を出すようにと言いました。でもその母自身も、私以上につらそうに見えました。

 1989年、兄がひどい病気になりました。両親は引っ越すことを考え始めました。両親が私たちに引っ越しを告げた時のことは、決して忘れられません。
 兄は何度も何度も両親に頼みました。「ママ、パパ、どこにも行かないで。僕はすぐ良くなるんだから。もしみんなが引っ越しても、僕ここでおじいちゃんといっしょに暮らす」と。
 私たちは引っ越しをやめました。兄はずっと病気で、何度も入院を繰り返しました。両親も病気がちになりました。

 ストレリチェボでは、石造り二階建ての、新しい街の建設が続いていました。でも誰がそこに住むのでしょうか。
 以前母は、「ここは安全だ」と言っていた政府の幹部や科学者を無条件に信用していましたが、今それに疑問を抱きはじめ、絶望と不安の表情で、「チェルノブイリゾーン(※)で暮らすのは危険だ」と訴える人の声に耳を傾けるようになりました。

※チェルノブイリゾーン
 チェルノブイリ原発事故によって、半径30キロの住民13万5千人が避難した。ゾーンから一歩外に出ると、そこは安全といわれたが、3百キロ離れたところでもひどい汚染地帯が見られる。30キロゾーン。

 「ゴメリスカヤ・プラウダ」や「家族」などの新聞に、母の論文が載りました。そして、ミンスクで開かれた子ども基金の総会で母が行った「チェルノブイリの子どもたち」と題する演説がラジオで流されました。
 それは、自分の子どもだけでなく、チェルノブイリの放射能によって命と健康が冒されている全ての子どもたちのことを心配する、母親の魂の叫びでした。

 1990年4月の頃、3か月にわたって、私の学校の生徒は全員、ゲレンジックに連れてこられていました。そこで私は、チェルノブイリの悲劇をテーマにしたテレマラソン(※)のテレビ番組に出演していた母を見て、とても誇りに思いました。
 母はそこでもソトレリチェボの学校の生徒たちが直面している、困難で危険な状況を語りました。放射能の値が15から40キュリー(※)以上もあるのです。チェルノブイリの事故は、戦争に匹敵するほどの大惨事なのです。私は長い時間この番組を一生懸命見ました。

※テレマラソン
 長時間のチャリティー番組

※キュリー
 放射性物質の量(放射能の強さ)を表す単位。1秒間に370億個の原子核が崩壊して放射線を出す放射能の強さが1キュリー。新しい国際単位ではベクレルを用いる。

 私がゲレンジックから帰った先は、故郷の村ではなくて、新しい土地、ソトルフシチナでした。私たちの新しい家は、村のはずれの、森のそばにありました。周りのもの全てが知らないものばかりで、なじめませんでした。

 気づかないうちに、夏が終わっていました。9月1日に新学年が始まります。7年生になった私は、新しい学校で泣きじゃくりました。先生やクラスメートたちは、私をなぐさめようと努力してくれました。彼らは、私が故郷の学校や友だちから離れ、とても寂しく泣いていることを理解できたからです。

 でも時がたち、私たちは少しずつ、新しい生活に慣れてきました。両親はここの名前を、間違えて前の地名で言うこともなくなりました。私はここで新しい友だちができました。

 私たちが苦しかったとき、優しいことばや思いやりで私たちを助けてくれ、今も、苦しいときも楽しいときも一緒にいてくれる、この村の人たちに感謝しています。両親も、一緒に働いている人たちが、とても親切にしてくれるといいます。
 でも、夢の中に出てくるのは、アターレジではなく、ソトレリチェボです。故郷は、なにものにも替えがたいものなのです。

 今これを書きながら、私の目には涙があふれています。70になる私のおばあちゃんが紙切れに書いた言葉を思い出します。「本当のことを言うと、家に帰りたい」と。

 誰がおばあちゃんを救ってくれるのでしょうか。誰が、ゆがめられた運命を背負わされた何千もの人々を救うのでしょうか。誰が、数百年も元にもどることのない放射能汚染という病におかされたこの大地を救うのでしょうか。

 母は小さいころから私たち兄弟に、正直な人になるようにと教えてきました。
 ベラルーシの国民が国家の重要ポストに選び、私たちの運命を託してきた人たちは、親からどんな教育を受けたのでしょうか。誰が彼らを選んだのでしょうか。
 誰が彼らに、嘘をつき真実を隠す権利を与えたのでしょうか。私は彼らの名前を知らないから、ここに挙げることはできません。
 でも、高い地位はないけれど善良な心を持っていて、困難な現実のなかで自分の意志で義務を果たしている科学者や医者や文学者の名前を挙げることはできます。

 私たちの学校にきた、作家のウラジーミル・リープスキーさんとワシーリ・ヤコベンコさんに感謝します。私たちは彼らと会って、自分の運命が、とても大切な意味を持っていることを知りました。
 そして彼らの論文を新聞で読み、子どもながらに、彼らがあれほど情熱的に書くのは、私たちの運命が彼らをふるい立たせたからだと感じました。

 悲劇のホイニキの大地が、ボリス・サチェンコ、ミコラ・メトリッツキーを育てたのです。現在の彼らの作品には、故郷の苦痛が描かれています。放射能は、イワン・シャミャーキンの故郷もよけては通りませんでした。彼は、ポレーシェ(※)の人々の性格や習慣、こまごまとしたことまでよく知りつくしているので、チェルノブイリの悲劇を書かずにはおれなかったのです。
 小説「不吉な星」を家族全員で読みました。父は「すべて本当のことだ。フィクションではなくて、ドキュメンタリー作品だ。まるで私が、不幸の始まりの日々のできごとを彼に話したみたいだ」と言いました。

※ポレーシェ
 プリピャチ川流域の広大な湿地帯。

 今私たちに書く順番が回ってきました。
 忘れてはならないことを書きましょう。
 将来のベラルーシのために、ベラルーシ国民の繁栄のために。
 そしていつかまた大きな災難が国民をおそったとき、誰も「なんでもなかった」とか「放射能では死なないし、病気にもならない」などと言えないように。

 忘れてはならないのです。
 こんなことは、もう二度とくりかえされてはならないのです。
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小出2/9ラジオフォーラム原発の輸出、核兵器

  2月9日/ラジオフォーラム「小出裕章ジャーナル」文字起こし 「小出裕章非公式まとめ」から

【主なお話】
「原発の輸出計画について、原発立地やウラン鉱山周辺での放射能による健康被害などその問題性、また密接に関連するという核兵器と原発の関係について」

【パーソナリティー】
西谷文和(ジャーナリスト)

【電話出演】
小出裕章(京都大学原子炉実験所助教)

▼ラジオフォーラム
http://www.rafjp.org

▼文字起こしは以下。

◆西谷
はい、それでは今日も小出さんと電話がつながっております。
さっそく呼んでみたいと思います。
もしもし〜、小出さ〜ん。

◆小出
もしもし、小出です。

◆西谷
西谷で〜す。
はい、今日もよろしくお願い致しま〜す。

◆小出
こちらこそ。

◆西谷
え〜、先生、今日はですね、あの〜、テーマが原発の輸出について。

◆小出
はい。

◆西谷
お聞きしたいと思うんですけど〜。

◆小出
はい。

◆西谷
日本の原子力ムラは懲りてませんよね〜。

◆小出
まったく懲りていないです。

◆西谷
生き残りをかけてですね〜。

◆小出
はい。

◆西谷
ベトナム、トルコ、ヨルダン、リトアニア、こういったところに必死になって売り込みをかけているんですが。

◆小出
はい。

◆西谷
まず、この原発輸出について、先生ご意見はどんな風に思ってるんですかね〜。

◆小出
え〜、もちろん私はやるべきでないと。

◆西谷
やるべきでない、はい。

◆小出
思いますが、え〜、今、西谷さんおっしゃった通り、日本の原子力産業は生き残りをそれにかけざるを得ない状況に追い込まれていますので、え〜、これからも輸出ということを狙って、さまざまな動きがあると思います。

◆西谷
やはり、あのもう日本ではね。

◆小出
はい。

◆西谷
ああいう大きな事故を起こして。

◆小出
はい。

◆西谷
もう日本ではもう建設はおそらくできないであろうから、ベトナムとかに売り込みをかけていると。

◆小出
そうです。

◆西谷
小出先生、これね。

◆小出
はい。

◆西谷
もう爆発して危険なものをですよ〜。

◆小出
はい。

◆西谷
よその国やからいいんだとこういうわけにはいきませんよね〜。

◆小出
もちろんですね。
あの自分の国でもう引き受けることができない危険を抱えているということが分かっているわけですから。

◆西谷
はぁ〜。

◆小出
それを外国に押し付けるということは、やってはいけないことだと思います。

◆西谷
あの〜、ベトナムの予定地はですね〜。

◆小出
はい。

◆西谷
漁師さんがね。

◆小出
はい。

◆西谷
あの〜、自然と共存しながらね、細々と生きておられる、そんなきれいな海なんですけど〜。

◆小出
そうですね。

◆西谷
結局、ベトナムという国は、枯葉剤で汚染されてですよ。

◆小出
はい。

◆西谷
また、放射能でということになりますよね。

◆小出
なりますね。
え〜、原子力というのはどこでも〜、原子力発電所だけではなくて、ウラン鉱山もそうですし、え〜、これからまた核のゴミ捨て場を探す、ということになるわけですし、さまざまな形で、え〜、原子力から恩恵をまったく受けない人々に犠牲を強いることになると思います。

◆西谷
やはりあの〜、1基造ればものすごい儲かるんですかね、利権があるんですよね〜。

◆小出
もちろん利権だらけなわけでして、地域住民にまあどれだけお金が行くかということは、それぞれの地域で違うと思いますけれども、もともと狙われる地域というのは。

◆西谷
はい〜。

◆小出
自然に寄り添うように生きていて、え〜、いわゆるお金とは無縁のところを狙っていくわけですから、え〜、そういう人たちから見ると、一度その金を掴んでしまうと逃げられなくなると、いうことになると思います。

◆西谷
まさにねえ〜、あの福井県や福島県で町が二分されてですよ〜。

◆小出
はい。

◆西谷
賛成派と反対派がねえ、本当にもう親戚同士で争ったりするわけですから〜。

◆小出
そうです。
人の繋がりがズタズタにされてしまいます。

◆西谷
そうですよね。

◆小出
はい。

◆西谷
それが、ベトナム人やトルコ人がこれをせなあかんということになりますよね。

◆小出
そうですね。

◆西谷
あ〜い、ぜひ、これは計画の段階で、あの止めたいわけですが。

◆小出
はい。

◆西谷
逆にですね、このベトナムやトルコ、ヨルダン、サウジ、リトアニア、インド、こういった国がですね、なぜそしたら、原発を欲しがるのか、ということですが。

◆小出
はい。

◆西谷
あの〜日本の場合は、利権とかそういうのある、売るほうはね。

◆小出
はい。

◆西谷
でも、輸入するほうは、やはり背後にですね、核兵器持ちたいという野望があるんでしょうかね。

◆小出
もちろんあります。
あの日本もそうだったのです。

◆西谷
んあ〜。

◆小出
何か日本の人は、日本の原子力は平和利用だと。

◆西谷
う〜ん。

◆小出
言われて、何か思い込んでいるようですけれども。

◆西谷
はい。

◆小出
日本が原子力を導入したというのも。

◆西谷
はい。

◆小出
もともとは核兵器が欲しかったから、なのです。

◆西谷
え〜、やっぱそうなんですか。

◆小出
そうです。
はい。
あの原子力と核という言葉が、日本では使い分けられていて、原子力は平和利用、核は軍事利用というように、皆さん思い込んでいるわけですけれども。

◆西谷
はい〜。

◆小出
技術に軍事も平和もなくて、いつでも使いたいように、使い、使えるということなのです。
え〜、日本というこの国でも、原子力の平和利用を標榜しながら、核兵器を作る能力を手に入れたいということで、原子力が始まりました

◆西谷
ということは、表向き、ベトナムとかトルコとか〜、え〜サウジなどは〜、電気が足らないとか言いながら、裏ではやはり、その、例えばイスラエルに対抗するためには核兵器持たなあかんとか、こういうこと思っているんでしょうね。

◆小出
え〜と、非常に残念なことではありますけれど、現在の世界というのは、力が支配しているのです。

◆西谷
はい。

◆小出
国連という組織があって、ユナイテッドネイションズですけれども。

◆西谷
はい。

◆小出
正しく訳すなら連合国なのですね。

◆西谷
はい。

◆小出
え〜、先の戦争で勝った国々が、今、世界を支配しているわけですが、その中でも、常任理事国というのが5カ国あります。

◆西谷
はい。

◆小出
米英仏露中ですけれども。

◆西谷
そうですね、はい。

◆小出
なぜその5カ国だけが、連合国というたくさんの国の中で、え〜、常任理事国になれたかと言えば、その5カ国が核兵器を持っているから、なのです。

◆西谷
あぁ〜。

◆小出
ですから、現在の世界で、力を持つためには、どうしても核兵器が要ると、まぁ、考える人は居ることは当たり前なわけですし、え〜、世界の国々の指導者の多くが、その考えにとらわれてしまっていて、核兵器を持ちたいと願っているのだと思います。

◆西谷
恐ろしい世界ですがね。

◆小出
はい。

◆西谷
先生、ちょっと、もうちょっと具体的にいきますと、そしたら、その原発を持つということと。

◆小出
はい。

◆西谷
核兵器を作るということは、ほぼ二アリーイコールですか。

◆小出
あのぉ〜、イコールです。

◆西谷
イコール、二ア、ニアもないんですか、イコールですか。

◆小出
例えば、ニアを付けてもいいですけれども、要するに核兵器を持ちたいという思惑で始まっちゃっているわけですから、え〜、イコールだと思ったほうがいいと思います。

◆西谷
あ〜、ということは、原子力の平和利用というのは、まったくのごまかしであると。

◆小出
もちろんそうです。

◆西谷
はい。

◆小出
はい。

◆西谷
あの、そもそもですね、軽水炉という原子炉が開発された経緯というのは、これは核兵器を作るためなんですか。

◆小出
え〜と、軽水炉そのものはですね、原子力潜水艦という、まあこれは画期的な技術だったのですけれども、軍事的に。
それを作りたいということで始まっています。
え〜、更には、その〜核兵器を作るための施設が米国の中でとにかく余り過ぎてしまってですね。

◆西谷
はい。

◆小出
え〜、それをまあ平和という形を標榜しながら。

◆西谷
はい。

◆小出
転用することで、軍事産業の生き残りを図ったということです。

◆西谷
あ〜、そうか。
軽水炉というのは、あの原子力潜水艦のために開発されたものなんですか。

◆小出
そうです。
もともとあの潜水艦というのはですね。

◆西谷
はい。

◆小出
なんか海に潜ると皆さん思ってられるかもしれませんけれども。

◆西谷
はい。

◆小出
水の下に潜ることも出来る船という程度のことであって。

◆西谷
はぁ。

◆小出
すぐに酸素は無くなってしまうので、え〜、すぐにまた海面に出て来なければいけないものだったし、今でもそうなのです。
しかし、原子炉で動かすことが出来る潜水艦が作れれば、例えばノーチラス号というのが、北極海の氷の下を潜水したままくぐるとかですね、そのようなことが可能になったわけで、え〜、潜水艦というのは、原子力潜水艦が出来て始めて意味のあるものになったという、それほどのものなのです。
え〜、それをどうしても作りたかったがために出来た、ものです。

◆西谷
軍産複合体がね。

◆小出
そうです。

◆西谷
あの、先生ね。
そしたらですよ、横須賀とかにいるじゃないですか。

◆小出
今。

◆西谷
アメリカの原子力潜水艦が。

◆小出
はい。

◆西谷
ということは、あれがもし事故したら、横須賀の人たちは被ばくするということですよね。

◆小出
そうですね。
今、横須賀は、原子力潜水艦だけではなくて、ジョージワシントンという原子力空母の、え〜、基地にもなってしまっていまして。

◆西谷
そうでしたね。

◆小出
はい、東京湾の入口に巨大な原子炉が動いているという、そういう状態になっています。

◆西谷
かなり都会と近いから〜。

◆小出
圧倒的に近いですね。

◆西谷
あれが事故したらえらいことになりますね。

◆小出
はい。
ですからまあ日本では、原子力安全委員会というものがあって、すべての原子炉は安全審査をしないと認めないということにしていたわけですが、え〜、ジョージワシントンの原子炉、あるいは米軍の原子力潜水艦の原子炉などは、一切の安全審査を受けないままあるわけです。

◆西谷
一切の安全審査を受けてなくて。

◆小出
はい。

◆西谷
アメリカの技術を頼るだけですか。

◆小出
え〜、米国が安全だと言っているから安全だということになっているのです。

◆西谷
もう先生、それは安全神話の最たるものですね。

◆小出
むふふ、そうですね。

◆西谷
本当にそれ盲点ですよね、そういう危険なものがぁ。

◆小出
はい。

◆西谷
都会の近所にあるっていうのはねぇ。

◆小出
はい、横須賀の人たちは長い間そのことを、あの〜、問題だと言って声をあげ続けてきてくださっているのですが、日本のマスコミも取り上げませんし、ほとんどの方は知らないままだと思います。

◆西谷
やはりあの先生、今日はあの貴重な盲点をあの〜明らかになってよかったです。

◆小出
はい。

◆西谷
今日は、原発輸出について、え〜、小出先生にお聞きいたしました。
え〜、小出さん、どうもありがとうございました。

◆小出
はい、ありがとうございました。

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こんにちは。
いろんな旅を続けています。
ゆきさきを決めてないなら、しばらく一緒に歩きましょうか。

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