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もうすぐ北風が強くなる

チェリノブイリの子ども:エレーナ・メリニチェンコ

  母のもとに6人残った エレーナ・メリニチェンコ(17) 「チェリノブイリの子どもたち」氏から

 私の人生は、幼いあの日以来、悲しくて不幸なものとなった。あのとき、私は小学2年生だった。それ以来、人々の苦悩や悲しみを、否応なくこの目で見てきた。そして私自身も、家族と共にそれに耐えてきた。

 私のうちは大家族で、事故がおこったときは私たちはボゴンノエ村に住んでいた。

 今、4月のあの日の朝を思い出す。天気がよく、とても暖かくおだやかな日だった。大人たちは仕事に、子どもたちは学校にでかけた。外の空気は新鮮で、緑はあざやかに萌え、鳥たちも楽しそうにさえずっていた。木々には若葉が芽を出し始め、太陽はしだいに日差しを強めていた。

 学校に行ってまもなくすると、机に座っているのがたまらなくなってきた。他の子どもたちも、目がまわるとか、目に激痛がはしるとか、体がだるいとか、眠気がするとか訴えるようになった。何がおこったのか分からなかったが、とにかく普通ではなかった。

 村全体をおびやかす恐ろしいことが起こっていることを、誰も推測できなかった。そして数日すると、避難することになった。それは今思い出しても胸が痛む光景であった。子どもは泣き叫び、心に深い傷を負ったお年寄りは、自分の家、ふるさとを置いたまま別れ、知らないところに行ってしまうのがとてもつらく、なかなか動けなかった。

 数日分の必要なものをもって避難するようにと言われた。ある人はもっていき、ある人はなにも持たずに出て行ってしまい、またある人はただたたずむだけだった。なぜなら、そんなことは経験したこともない出来事だったからだ。

 そこには狼狽と絶望だけがあった。どれだけの涙が流されたことか。

 私たちはゴメリに連れて行かれ、放射能の測定をされた。服と靴の汚染の値が大きかったので、それらは焼却のために全部脱ぎ捨てなければならなかった。また、検査のために病院にも入れられた。
 検査のあと、母と4年生になる兄のビョートル、まだ11カ月の小さい弟と私はミンスクトラクター工場のサナトリウム(※)に送られた。年上の兄や姉たちがどこに送られたかは分からなかった。

※サナトリウム
 療養のための施設

 母はそのことで非常に心配したが、親切な医者のおかげで、ビチェブ州シュミリノにある労働休暇キャンプにいることがわかった。
 父はミンスク郊外のペトコビッチ村で組立工の職に就くことができ、そこの寮に住むことになった。
 しばらくして上の兄と姉たちから手紙が送られてきたが、その手紙には、親元から離れて生活するのはつらく、環境も非衛生的だと書いてあった。
 そこで父は兄たちを引き取るためにキャンプにでかけ、一緒に住むようになったのだが、3人に1つのベッドしかない父の寮には長くは住めなかった。
 私たちのサナトリウムも修理で閉鎖されることになり、父はアパートを見つけ、私たちを引き取った。みんな元の家に戻りたいと気はせくばかりだった。
 けれども、そのとき初めて聞いたのだが、私たちの村は有刺鉄線で囲まれ、もう誰もそこには住んでいなかった。村の人々はちりぢりになってしまったのだ。

 数日後、ジェルジンスクにまた引っ越した。そこのアパートの部屋は2つに分かれており、そこに2家族で住んだ。
 私たちは9人家族、となりは4人家族だった。私たちは中学校に通い始めた。生活は大変で、秋になっても暖房も入らず、その上、ふとんも毛布もないまま、床に寝るしかなかった。

 町の人たちみんなが私たちの悲しみや痛みを理解してくれたとは言えない。彼らは用心深く私たちに接し、私たちをよそ者として扱った。大人も子どもも同じだった。

 1987年3月、ここジェルジンスク地区のペトコビッチ村の一戸建ての家が提供され、私たちは大喜びした。その美しい大きい家に引っ越し、そこから村の学校に通った。
 しかし、その喜びも長続きはしなかった。私たち兄弟はつぎつぎ病気になり、授業にも出られなくなった。兄弟全員が放射線医学診療所に検査のため行くことになった。それから私たちは毎年検査に通っている。

 あるとき検査で父の血液分析の結果がよくなかった。その3カ月後に父は死んだ。1988年6月のことだった。

 悲しみと痛みは私たちを襲い続けた。同じ年に祖母と伯母が亡くなった。強く恐ろしい衝撃だった。そして、母のもとに私たち6人の子どもが残った。母は一人で家族を支えなくてはいけなくなった。

 その悲しい出来事のあと、母はよく病気をするようになったが、不幸や困難を克服しようと、私たちをあたたかさと、そのやさしい愛で包んでくれた。そして、私たちは母の涙と苦しみが少しでも減るように、母を理解するようつとめた。

 何年かが過ぎ去った。生活も少しだけ変わってきた。私たちの心の痛みや悲しみも少しはおさまってきている。

 私たちは今もペトコビッチ村に住んでいる。数年のあいだに、二人の姉と上の兄が結婚した。二番目の兄は軍隊に入り、私は専門学校で勉強している。一番下の弟は3年生になった。
 ふるさとの村の大部分の人たちは、ジロービン地区に住んでいて、兄は今、そのジロービンで仕事をしている。私は彼のところに行って、もとの村の人たちに会ってみたかった。
 私は母といっしょにジロービン地区のキーロボ村にいき、同級生に会った。彼女とは、いっしょに遊び、学び、とても仲良しだったのだ。でも8年たった今、顔を合わせても、お互いにわからなかった。お互いに成長し、変わったのだから仕方がないけれど、新たに知り合いになったという感じだった。
 私の心には、喜びと腹立たしさの感情が同時にわいてきた。同級生や友だちに会えたという喜びと、いまいましいチェルノブイリのせいで一緒にいられたものが長い間会うことができなかった腹立たしさと痛みだ。
 私はその村から帰りたくなかった。

 私は帰りながら、多くの悲しみや不幸を自分の肩に背負わざるをえなかった母のことを考えた。そしてチェルノブイリによって、破壊され、不幸にされた多くの人々の運命について考えた。
 とくに罪のない子どもたちが、いまでも苦しんでいる。しかも彼らは、自分たちの幸せと健康を奪い去ったものが何者かさえ知らないでいるのだ。

 これから先何年たっても、この悲劇は、社会生活、多くの人々の運命、すべての世代の記憶に消し去ることのできない痕跡を残すだろう。

 おぼえておいて みなさん
 原子力(※)のある限り 平和も秩序も守れない
 地球から汚れを一掃しよう
 核の狂宴のあとを 残さないようにしよう
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チェリノブイリの子ども:ジアナ・バルイコ

  私にふるさとをかえして ジアナ・バルイコ(15) 「子どもたちのチェリノブイリ」氏から

 覆いはぎとられたこの世の神経は
 あの世の苦しみを知っている
  V・ビソッキー

 遠くで誰か家族の声がする。
「息が苦しいよ。ラドーチカ」
 私は夢の中でつぶやく。
 「おばあちゃんなのね、行かないで、お願いだから。
  私はおばあちゃんが好きなのよ。
  もっともっといろんな話がしたいのよ」

 「大地の揺れる声が聞こえるかい。ラドーチカ」

 「いえ、聞こえないし、何も感じないわ。私は今病院の7階に寝てるの。
  ここの窓からは、煙があがっている工場の煙突と、屋根がのこぎりの歯のように、連なった新築住宅が地平線まで続いているのが見えるわ。」

 「生きているものにはわからないのかい」

 おばあちゃんは苦しそうに寝返りをうち、うめき泣きながら、そう叫んだ。

 「おばあちゃん、生きていたの?
 2年前にブラーギンの墓地におばあちゃんは埋葬されたんじゃなかったの?」
 沈黙があった。

 「おばあちゃんどこなの?」

 だが返ってきたのは、静けさだった。
 私は虚脱感におそわれ、はっとして目がさめた。
 恐ろしかった。
 ドアのガラスのむこうの、長い暗い廊下のつきあたりではぼんやりとした明かりがぽつんとひかっていた。
 町の上には灰色の朝の光があがってきた。

 われにかえったように、私はおばあちゃんを抱きしめようと、手を伸ばした。

 しかし、手にふれたものは、ガラスの壁だった。
 空気に突き当たったかのように感じた。
 あの世のおばあちゃんと、この世の私とをわけるガラスの壁だ。

 「忘れないようにしてね、何もかも。覚えていてよ・・・・」

 1986年4月の終わりのころ、大好きな猫がいなくなってしまった。
 その時のことを、私は今でもよく覚えている。
 5月のある日、私が家の外の椅子に座っていると、突然、白っぽく
 毛がボロボロになったものが、にゃーとものかなしげに鳴いて私の
 ひざにドスンと倒れた。
 
 「うちのルイジューハじゃないのかい。」
 おばあちゃんが叫んだ。
 「どうして。どうして、赤い色だったのに、白くなっちゃったの」
 私は聞いた。

 「白髪になってしまったんだよ。なにか、恐ろしい、取り返しの
つかないことが起こったんだよ」

 私は猫を胸に抱いた。
 なつかしい匂いがした。
 
 「ごめんね」

 聞こえるか聞こえない程度の声でささやいた。

 「私しゃもうすぐ死ぬ気がするよ。
 あそこにいたんだもの。おなかがものすごく痛いんだよ。
 あそこにいた人は、生きていけないのさ。」

 そのときには、おばあちゃんが何故そういうことをいうのか、私もわからなかったが、この世の裂け目のふちにたっている様な気がした。
 私はその4月にすべてが始まったことを、事故が起き世界が崩れていることを、何故今まで知らなかったのだろう。

 92年2月、私はブラーギンからゴメリの病院に送られた。
 病室の4人は全員同じ白血病患者だった。
 うち2人はいまわしい死をやがて迎え、私とオーリャの二人が残った。

 ある日、おしゃべりをしていたときだった。
 オーリャが突然顔を曇らせて、私に質問してきた。

 「あなた、生きていたい?ラーダ」
 私の両手は音もなくひざに落ち、目から涙がこぼれた。

 「泣かないで、お願いだから。ごめんね、悲しませて。」
 オーリャは静かに言った。

 「でも、私はあなたに何もしてやれないのよ。
 私はもうすぐ死ぬわ。
 どう思う?死ぬってこわいかしら。死っていろいろあるわね。
  楽な死もあるし、苦しい死もあるし。
 私を待っているのは恐ろしい死ね。」

 「そんなふうに言わないで」

 「あなたは死なないわよ。聞いているの、オーリャ」

 私は叫ばんばかりだった。
 真夜中、夢の中で、恐ろしい叫び声と医者の声がしたが目を覚ますことができなかった。
 朝になると、ベットがひとつ空になっており、私の中で何かが崩れた。
 私は何もたずねなかった。
 即座にすべてがわかった。私は泣かなかったし、叫びもしなかった。

 うつろな目で天井の黒い割れ目をながめた。
 それは一夜のうちに、以前より広がったように見えた、

 心配そうに、医者が私のところに2回もきた。
 看護婦さんが何度もきた。
 私にはかれらの話は何も聞こえなかった。
 私は虚脱感におそわれていた。

 夜、突然ふるえがはじまった。
 冷や汗にぬれ、頭をまくらにうずめていると、おし殺したおばあちゃんの
声が聞こえた。
「泣いてごらん。楽になるよ。」
 
 私は子供のころのように奇跡を期待した。
 私の身に起こったすべてのこと、チェルノブイリの事故も、白髪になった
猫も、いとしい人たちの死も夢であり、すべてが昔のままであってほしいと
思った。
 
 明日、15歳になる。
 今日、医者がなぜか暗い顔で私の退院を告げ、そして母は泣き出した。

 ブラーギンの家に帰った。
 母が、自分n妹に男の子が生まれたので、行って支えてあげなければならな
いと言っていたが、私にはさっぱりわからなかった。
 「支える」とはどういうことなのか。

 赤ちゃんの誕生は、喜びであり、幸せなのに。

 そのうえ、おばさんのところは長いこと赤ちゃんを待っていたのに。
 赤ちゃんが生まれて一ヶ月半たった今、それがどういうことかはじめて
知った。

 「ガーリャ。ガーロチカ」
 母はおばさんを抱きしめた。
 突然はげしく赤ちゃんが泣き出し、おばさんはゆりかごから赤ちゃんを取り出して、抱いた。

 私はぞっとした。
 赤ちゃんの頭は開き、脈をうっているのが見えるのだ。

 私は外に飛び出し暗闇の庭を走りぬけた。
 私はもう少しのところで気を失いそうになった。
 私たちに何がおこっているのだろうか。

 どこの、どんな裂け目にころがっていくのだろうか。
 どうしてこの世の終わりに近づいているのだろうか。
 家の中では赤ちゃんがひっきりなしに泣いていた。
 この世に生まれたことを嘆いているように。
 
 私はそこから、町から逃げ出した。私にも何かが起こるのではないか
という不安で気がおかしくなりそうだった。
 私は野原にかけこみ、そこの冷たい湿った土の上に倒れこんだ。

 大地が悔しさで叫び、泣いているのが感じられた。
 苦い涙が私の目から流れた。
 5月の苦い放射能も、私といっしょに泣いた。
 私は暗いむなしさで叫んだ。

 「私にふるさとをかえして」

 「はだしで草原を歩きたいわ」

 「湖の水を飲みたいわ」

 「きれいな土の上に横たわりたいの」

 「暖かい春の雨で顔を洗いたいの」
 
  神様。私の言っていることが聞こえますか。
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チェリノブイリの子ども:マリア・ゴルフビッチ

 チェリノブイリ原発事故で被曝被災したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」チェルノブイリ支援運動九州 梓書店 から同名のブログに引用されています。
 いくつかを紹介していこうと思います。
 
  暗い夜になる前に マリア・ゴルフビッチ(13) 「子どもたちのチェリノブイリ」氏から

 チェルノブイリが私の小さな村を荒らしたとき、私はたったの5歳だった。
不幸は私の家も避けはしなかった。
 兄のミーシャは、今もなお無慈悲に人々をなぎたおし続けている恐ろしい病気ガンで死んだ。

 医者は放射能のせいだと言った。

 ミーシャは、20回目の春を迎える一週間前に死んだのだ

 今では、ガンがチェルノブイリ事故の影響であることを疑う人はいない。
 なぜ、私の兄に恐ろしい白羽の矢がたったのか。
 なぜ、今死んでいく何千人もの人々に白羽の矢がたったのか。

 兄は死ぬ前に、もう歩けなかった。
 兄は私にこう頼んだ。

 「僕のそばに座って、マーシェンカ、美男子になるように髪をすいてくれないか
」と。私は黙ってうなずいた。

 兄は暗い、生気のない目でただ私を見つめるだけだった。

 そして、私は一人祈りつづけた。

 命の灯りを
 消さないで 瞳さん
 暗い夜になるまえに

 家族みんなつらかった。
 私と母はミーシャをがっかりさせないように、こっそり泣いた。
 こうやってチェルノブイリはわが家に侵入し、壁にかかる遺影として永久に
住み着いてしまった。
 
 時は進む。人々は以前人生の出来事を思い出すとき「戦争前、戦争後」と言っていたが、今では「チェルノブイリの前、チェルノブイリの後」と言っている。
 それは悲しい歴史の区切り目となってしまったのである。

 チェルノブイリの悲劇は、私たち皆に慈悲、思いやり、良心を要求している。

 なぜなら、それがないところには不幸が住みついてしまうからである。
でも今わがやには不幸がいすわっている。それは出ていこうとはしない。

 何年たっても何世紀たっても
 この痛みは私たちから去らない
 それはあまりに大きく果てしなく
 どうしても鎮められない
 それは負の遺産として
 何世紀も 私たちの子々孫々に残るだろう
 そして彼らの心に居すわって
 永遠に平静を奪うだろう
 地球上の一人ひとりが
 このおそろしい年
 おそろしい日を覚えていますように 
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