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もうすぐ北風が強くなる

広瀬隆12/14郡山講演(1)原子力マフィア

  原子力マフィアによる被ばく強制の歴史  12/14 広瀬隆 郡山講演 書き起し「kiikochan.blog」から

IAEAとICRP 国際原子力マフィアによる被ばく強制の歴史と福島県内の深刻な被ばくの現実
2012年12月14日 郡山市労働福祉会館
 20121217広瀬

今、郡山からタクシーに乗ってここに来る途中、
運転手さんが「労働福祉会館はなにかあるのか?」って言うから
説明してあげました。
IAEAというとんでもない奴が乗り込んでくるから、みんなで集まってやる。
「あなたたちボーッとしてちゃダメだよ」と言ったら、
「そうだよ」って、ちょうどホテルの前を通る時に「ここらしいな」って言ってましたけど、
「だけどこんなのを招くなんて福島県がおかしいんじゃないですか?」って僕が言ったんですね。
「そうだよ、あいつらはどうしようもない奴らだ」ってタクシーの運転手さんが言っていました。

良いですか、こういう事はすごく大事なんですね、
普通の、こういう会場に来られない人たちがそういう思いを持っているという事は、
すごく私の中で心強く思いました。
ですからそういう、今日この会場に来られない人の思いも込めてお話しさせていただきます。


みなさん、今までの放射能被曝の知識を一回全部捨てて下さい。
これからの話しは私も今まで講演会でほとんどしたことがありません。
だけれども、これが基礎になったこういう時代が出来てきたという事でですね、
なんとしても皆さんに知っていただきたい。

まず、東京新聞でこういう記事が出まして、なにをするんだろう?と
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「原子力安全に関する福島閣僚会議」なんでしょう?
放射能が安全だと、こういう事をやろうとしている訳です。

で、彼らの言葉を聞いていると、どうも汚染地帯に人間を戻したがっている。
こういう事がハッキリ書かれているわけです。

放射能汚染された地域での避難住民の早期帰還を目指す。
汚染地帯に人間を戻すって?
チェルノブイリ原発事故時の調査や復興に関わったベラルーシやウクライナ、
ロシアの研究者らによるチームをIAEAが結成し、福島に派遣するって?
一体こいつら頭のおかしなIAEAとは何者なのか・・・


この連中がなにをしたかというと、ご存じの26年前のソ連で起こりました、
チェルノブイリ原発事故の調査とか、そういう事と書いてありますが、そうじゃないですね。
要するに被爆地帯に人間を放置してきた。
そういう人間たちが、皆さんご存じの山下俊一とかですね、高村昇とか神谷研二という人間たちが、
皆さんのお子さんの命を預かっているという事です。

本当にこの集団、寒気がします。
今、悪魔という言葉を使っても皆さんはピンと来ないかもしれませんが、
この事をですね、お話しします。
それと、もうひとつはIAEAだけじゃなくてですね、WHOも連動しています。
国連がですよ。
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人類の健康を預かる組織なんですけれど、これがまた先月こういうね、
がんリスク 福島原発事故の影響 明らかな増加見えず
なんていうことを、いまもね、こういうことを、
要するにIAEAと連動してこういう事を出しています。
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こういう事についてこれからお話します。
みなさんに今までの事を忘れていただきたいというのはですね、
私は69歳ですから歴史を長い間見てきましたので、その事を知っていただきたい。
歴史を知っていただきたい。
ちょっと長い話ですが、

  放射線・放射能の危険性が明らかになった歴史

1895年12月28日
ドイツの物理学者ヴィルヘム・レントゲンが
実験装置から目に見えない光が放射されている事に気付いて、
それが多くの物体を通過する能力を持った放射線である事を発見して「X線」と名付けた。
そしてX線を使って、人体の骨を撮影できることを明らかにした。


ちょうど100年ちょっと前になりますが、レントゲンが
未知の放射線があるという事を発見しまして、それで未知なのでX線という名前を付けまして、
それでこうやって今我々が行っているレントゲンというものを使うようになった。
この写真の日付は1896年ですが、ちょうどその年ですが当時発明王のエジソンがいまして、
X線の画像でひと儲けしようと言う事でスタートしたんですが、
かれは、助手のダリーという男を使ってX線を使っては、助手にX線を浴びせて、

発明王エジソンは、1986年にX線画像を見る事が出来るX線透視装置を発明したが、
その実験台に助手のダリーを使った。
ダリーは実験のために両手、両足に何度もX線を浴びた結果、
皮膚がんに侵され、手術で両手両足を切断後癌が原因で死亡した。
エジソンはX線の危険性に気付いて、一切のX線の研究を止めた。


ところがこのダリーはかわいそうに、何度もX線を浴びたその結果皮膚がんになり、
そして手術で両手両足を切断して、そして最後にはがんで死亡しました。
で、エジソンがこの時に偉かったのは、これが危険なものだという事に気がついて、
一切の研究を止めました。

ところがその後ですね、ラジウムを精製して、
それが放射能の発生源であるという事を突き止めたキュリー夫人。
ご存じノーベル賞を受けた彼女。
彼女は1934年7月4日にそのラジウムの放射線の被ばくによる白血病で亡くなりました。

こういう歴史がありましたが、
みなさんはご存じないかもしれませんが、我々が子どもの時にこういう昔の目覚まし時計がありました。
夜になるとこういうふうに緑色になって綺麗に光るんですね、夜光塗料が塗ってあって。
我々はクリスマスに貰うと本当にうれしかったんです。
これは一体何か?
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これは今緑色に見えるところは夜光塗料、ラジウムを使っている。
そのキュリー夫人を殺したラジウムです。

なんでラジウムが危険か?というと、
アルファ線とガンマ線の両方を出します。放射線です。
夜光塗料をですね時計に塗布する女工さん達がですね、それを筆で書くんですね。
筆で綺麗に拭こうとする、その時にラジウムをペロペロなめてやっていたわけです。
で、この人達はですね、女工さん達が貧血になる、あるいは白血球が減って免疫力がなくなってくる。
そして感染症を起こし、そしてついに癌になる。
数千人の人達がですね、被害に遭うという大変なことが起こったわけです。
今、この女工さん達の事を知っている人達は世界中でほとんどいません。

同じように今福島第一原発で働いてらっしゃる作業員さんの方達の事を思いやる、
本当に思いやる人達は日本にほとんどいないと思います。

口では言っても、それと同じなんです。
当時もこの1920年代という、大変な事なんですよ、被害者が数千人も出ています。
結局社会というのは忘れていくんですね、今の福島のみなさんの状況と同じなんです。
忘れていくんです。
あいつらは関係ない、俺たちの身を守ろう。
そう思うのが人間なんですね。

ただし、これが危険だという事はもう分かっていました

そうして社会問題になってきたので、1928年に
放射線医学の専門家を中心にして、X線が危ない、ラジウムも危ないという事で、
国際X線およびラジウム防護委員会
防護というのは人間を防護する、ね、そういう委員会が出来ました。

そしてですね、この時に委員に就任したのが、有名なロルフ・マキシミリアン・シーベルト。
みなさんがカウンターで測る時にシーベルトって使いますね、
このシーベルトが委員なんです。
そして、キュリー夫人が1934年に死んだ年にですね、
この年に初めて、この委員会が許容線量の値を発表しました。
どれぐらいになると危ないなのか…ということで、
ザーッとここへ歴史を書きますけれど、
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この国際X線およびラジウム防護委員会が、ずっとこういういろいろな過程を経て、
今からお話しますが、現在のICRPがここですね。
1950年からICRPに変遷を遂げてきました。
この背後にですね、大変な原発の開発の歴史が絡んでくるんです。
この事が分かっていないと、皆さんがどういう人間を相手にしているのか?という事が分かりません。

  IAEAはどの世に誕生し…現代社会を蝕んでいるか

IAEAはこのような歴史の中でどのようにして誕生したかという事をお話します。

1938年12月、
ドイツの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンがウランに中性子を照射した時、
ウランよりも原子量の小さいバリウムを発見してウランの核分裂を発見。
この事実は、大西洋をわたってアメリカのブリンストン大学教授ニールス・ボーアに伝えられ、
コロンビア大学教授のイシドール・ラビとウィリス・ラムの二人がエンリコ・フェルミに伝えた。


ウランに中性子をあてるとウランよりも原子量の小さいものが出来る、
という事はウランに核分裂が起こる事を発見して、これが伝えられていきまして、

そして1941年第二次世界大戦、ナチスの侵略がはじまるわけですが、
第二次世界大戦が始まる直前ですけど、

1941年2月23日、アメリカの化学者グレン・T・シーボーグ博士らが、
バークレーの60インチサイクロトロンを使ってウランに重水素を衝突させる方法により、
世界で最初にプルトニウムを合成・分離した。


重水素というものをぶつけるとですね、ウランがプルトニウムに変わるという事を発見しまして、
それでちょうど第二次世界大戦に突入して言ったんですが、
アメリカがこの時中心になって、極秘裡に皆さんご存じの原子爆弾を製造しようという事で、
マンハッタン計画がスタート(1943年)して、
そしてこの原爆を製造するマンハッタン計画の科学者たちはこういうふうに考えました。

当時の彼らの漫画を見るとこういう漫画が書いてあります。
マッチ棒をこのように並べておくと、1本目に火を付けるとどうなるでしょう?
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こうして次々に火が広がって行くと。これが何か?というとですね、
今言った原爆の原理なんです。

ウラン235というものに中性子をぶつけると核分裂をして、
その時に二個以上の中性子が飛び出す事を発見しました。
そうして近くにあるウランがまた核分裂をする、
そうしてこうして次々に雪崩のように核分裂が進むんだ。
これが原子爆弾の発想の原理でした。
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これ、一瞬にですね、ダーーーッ!と雪崩のように連鎖反応が起こって巨大なエネルギーが出る。

で、原子力発電はですね、
この核分裂するウラン235の濃縮度をとにかく低くしている。
そうするとぶつかって同じように中性子が二個出てくるけれど、
濃縮度が低いので、235だけじゃなく、核分裂をしないものも、これは核分裂をしない(ウラン238)
こういう状態になると一定の比率で核分裂を取得できる。
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こうすれば原子力の燃焼を爆弾としてではなく、電気に使えるんではないか、ということで、
原子力発電の原理が生まれるわけです。
これは、後になってです。

しかしですね42年には
1942年12月2日
イタリアの物理学者エンリコ・フェルミと、ハンガリーの物理学者レオ・シラードが、
シカゴ大学で世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成して臨界に達し、
史上初めて原子核分裂の連鎖反応を維持することに成功します。

そして1945年7月16日、
アメリカで人類最初の原子爆弾の実験が行われました。
これはプルトニウムを使ったものでした。
これがですね、その時の記録の写真ですが、
0.016秒後
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我々にはカウントできない短時間のうちにボンッ!と爆発が起こって、
そして次々と巨大な炎になって行く。
この事がついに明らかになって、
そして日本は当時アメリカと太平洋戦争をしていました。
それで彼ら自身が「地獄の日」と呼んだ原爆がですね広島に8月6日に投下されました。

そして、爆心地の温度は100万度というですね、想像を絶する、我々には理解できないものとなって、
爆風とそれから強烈な放射線が人間の身体を射抜いて、
そして生き残った人達も当時降ってきた雨、黒い雨と呼ばれる、そういうみなさんが浴びたものと同じ、
当時我々は死の灰と呼んでいましたが、死の灰を浴びまして、
それで今も沢山の人が後遺症に悩んだわけです。

当時の広島がこうですね、
14万人が一瞬で殺されていく。
まだ日本が戦争を止めないので、続いて長崎に原爆が投下されました。
この街の写真をよーく見て下さい。
街にまだ家がありますね、原爆投下前です。
で、原爆がここに投下されました。
そうしてどういう事が起こったかというと、
見て下さい、なんにも無くなっていますね。
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こうして一瞬に長崎で7万人の人達が焼き殺されるという、こういう悲惨な事が起こりました。
簡単に原理だけ申し上げます
ウラン235、ここに火薬で火を付けて火薬が爆発しますと、これがくっつきます。
くっつくと、さっき言った臨界を超えるんですね、そうするとこれが爆発を起こす、一瞬で。
100万分の1秒単位で。
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こうして広島がやられる。
そして長崎のプルトニウムの場合は外側に同じように爆薬を点火して、
そして真ん中に集まる、集まった時に臨界を超える。そして爆発をする。
こうして殺されたんですが、そうして日本が敗戦を迎える。

  日本敗戦、そして東西冷戦の時代へ

この後大変なことが起こります。それは東西冷戦時代です。
それはどういう事かというと、
1946年、ですから日本が敗戦した翌年ですが、

敗戦翌年の1946年3月5日 鉄のカーテン。
イギリスのチャーチル前首相が、アメリカ大統領トールマンに招かれ、
ミズーリ州フルトンの大学で行った演説の中で、
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで
ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンiron curtain が降ろされた。
中部ヨーロッパと東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある」と、鉄のカーテン演説。
これに対して13日に、ソ連のスターリンがプラウダ汽車に「チャーチルは戦争挑発者」と批判して、
東西冷戦の時代に突入。


チャーチルがアメリカで演説をしまして、
ソ連は鉄のカーテンの向こう側にあるという演説をいたしまして、
直ちにソ連側は反論しました。という事で東西冷戦時代、民主主義と共産主義の世界的な冷戦。
直接火花は散らさないがお互いに対立していくという、そういう時代に入りました。

それでアメリカはすぐに、
1946年6月30日
南太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で最初の原爆実験が行われ、
恐怖の大気中核実験の時代が幕を切って落とした。


そしてこれは私が小学校の頃なんですが、こうして核実験が、
皆さん若い方には想像もできない事ですが、こうして最初の原爆実験が行われまして、
見て下さい、これ、これは最初の海中原爆実験なんですが、
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これ、ここにあるのが船ですよ。
とてつもない原爆実験ですが、こんなことを始めた訳です。

  核兵器

じゃあ、核兵器と我々が呼んでいるものはなにかと言いますと、
私たちが子どもの頃は核兵器という言葉は使いませんでした。
原爆、水爆あるいは原水爆といっていました。

核兵器というのは、殺す側の言葉です。
殺される側は原爆水爆と言います。被害者の方はね。
だから、私はどうも核という言葉は好きじゃありません。これは殺す側の言葉です。
核兵器、それがいつの間にか使われるようになりましたが、

1946年7月23日にビキニで2発目の核実験(最初の海中核実験)が実施され、
予期せぬプルトニウム汚染を起こしたことから、被ばく研究の必要性を感じたアメリカは、
11月26日にトールマン大統領が海軍省覚書(Shields Warren博士作成)に署名し、
原爆傷害調査委員会(ABCC-Atomic Bomb Casualty commission)を設立して、
広島と長崎の原爆被爆生存者に関する放射線の医学的・生物学的影響を調査し始めた。


海柱の中にプルトニウム汚染が起きたんです、アメリカ人が自分でやりながらですね、
それで被爆汚染の調査をしました。
実際に自分たちで実験をやっていながら、自分たちも被ばくするんだという事で、
それでABCCというのをつくりました。
これは悪名高いものです。
これは広島長崎の原爆で生存した人達を調べて、そうすればわかるだろうという事で、
放射線の医学的生物学的影響を調べ始めました。

このABCCは、長期的影響について、
生存者ばかりでなく子どもに対する遺伝的な影響も含めて、調査を行った。
だが、被爆者の治療を一切行わず、被爆者を人体実験の被験者として調べた。
なぜか?
ABCC創設を提唱した男シールズ・ウィーレンは→
1947~52年原子力委員会(AEC)生物医学班のボス→
1952~58年AEC医学顧問→
1955~63年原爆の放射線影響科学委員会の国連代表となる。


子どもに対する調査も大量に行って、そしてそれを全部持ち帰って、日本人には知らせない。
そして被爆者の治療を一切行わないんですね。
ともかく実際に人体実験という形で広島長崎の被爆者をずーーっと調べ上げている。
じゃあ、誰がやったのか?という事はどこにも書かれていないんですが、

私は調べてみました。
シールズ・ウィーレンという人物がいたことがわかりまして、
これがのちにアメリカの原子力委員会の生物医学班のボスになって、
ここが大事なんですが、原爆の放射線影響科学委員会の国連代表、
いま、我々が大事にしている国連という組織がですね、
このころからやっている、それもトップになっている。

これがなんでわかったか?と言いますと、私は調べる方法を知っていまして、
Who was Who Americaという本があります。
それをずっと調べていけばよくて、この人間を調べますとこういう記録が出てきます。
シールズ・ウィーレンというのがね。

アメリカは全部調べられるようになっています。
そしてずっと読んでいくとABCCや国連でやっていた事が分かりますが、
大事なことは、
日本の原爆の医学的な影響を調べる、その事で彼は非常に評価されている」と書かれています。
この言葉を覚えておいてほしいんですが、
「遺伝の影響を調べる」という事で、これは私がいま一番心配している現象ですね。
身体の中に起こっているそういう事を調べていた
という事ですね。

広島と長崎の生き残って生存した被爆者を調べたとここにも書いてある。
治療はしていません、ただ調べただけです

こうしてですね、こういう連中がトップになったわけですが、
ここからがおそらくほとんどの方がご存じないでしょう。
大変なことがこの背後に進行していたんです、
 ーーーーーーーーーーーーーー
 広瀬隆12/14郡山講演(2)へ続く
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広瀬隆12/14郡山講演(2)核実験と人体実験

 広瀬隆12/14郡山講演(1)からの続きです。
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この背後に信じられない恐怖の出来事がひそかに進行していた…
ニューメキシコ州で最初の原爆実験を成功させた“原爆の父”ロバート・オッペンハイマーは、
最初の核分裂連鎖反応を成功させたエリンコ・フェルミに対して、
マンハッタン計画中の1943年5月25日付けで、
放射性毒物兵器による「50万人殺戮計画」の書簡を送っていた


この二人は核開発の中では偉大な二人にされていますが、
このオッペンハイマーはエンリコ・フェルミに対してとんでもない計画を戦争中に進めていたんです。
それは、「放射性毒物兵器」というもの。
いいですか、放射能で人間を殺せるんだ。
50万人殺戮計画という、書簡を送っていた。
本当でしょう。
実際に機密に処理されていて暴露された
エリンコ・フェルミ様とオッペンハイマーが書いた文書があります。

ここにSECRETと書いてある上にCANCELEDと、上に押してある。
これがですね、実をいうとアメリカのピューリッツァー賞を受賞したアメリカの

「プルトニウム人体実験」
 プルト実験

これを全部暴露した。
私はこの本の翻訳を頼まれましたので、この事をちょっと引用します。
どういう事を書いてあるのか。

エリンコ・フェルミ様
放射能で食品を汚染させる問題について報告します。
私はすでにいくつかの作業を進めています。
……50万人を殺すのに食べ物を充分に汚染できない場合には、計画を試みるべきではないと考えます。
というのは、均一に分布させる事が出来ないため実際に被害を受ける人間がこれよりはるかに少なくなる事は間違いないからです。……ロバート・オッペンハイマー


50万人を殺すのに食べ物を均等に汚染させられないからどうするかという事をですね、
具体的に考えています。
こういう恐ろしい人間たちが原発開発の裏にいまして、
彼らがいったいどういう世界から出てきたか?というと、
マンハッタン計画の首謀者達がですね、
全米でなんと人間にプルトニウムを注射して人体実験をしようということで、
人体実験をやっていたというのが先程のアメリカの達が考えていた事実で、

これはもう寒気がするようなことですが、
アメリカ人も人体実験をさせられていまして、
それがマンハッタン計画の首謀者たちと、みんな関係がある病院を使って行われました。
で、どういうことか?
マンハッタン計画というのは原爆開発班だけが有名なんですけれども、
その背後に医学班というものも存在しました。

マンハッタン計画には有名な「原爆開発班」だけではなく、
第二の部門として「医学班」が存在していた。
彼らが放射能の危険性を研究した部隊である。
その最高責任者。医療班の主任がスタッフォード・ウォーレンであり、
彼自身がプルトニウム生体実験を認可した当人であった。


医学班、つまり放射能の危険性を研究するという連中がいまして、
さっきは、シールズ・ウォーレンでした。
名前がちょっと違いますが、医療班の方はスタッフォード・ウォーレンで、
もうひとりのウォーレンでして、これがプルトニウム人体実験を認可した当人なんですが、
こうしてですね、スタッフォード・ウォーレンがどこででてきたか?というと、

スタッフォード・ウォーレンはニューメキシコ州での最初の原爆実験で放射性物質の効果を観測し、
多くのものがかなり大量に被曝したことから、
「3.2キロメートル以内の被ばく者には、死亡者または重傷者が出る恐れがある。
放射性降下物によって極めて重大な潜在的危険性が残されている」と報告した。
そのウォーレンが原爆投下後の広島と長崎に姿を現し、後のABCCと共同で被爆者を観察した。


最初の原爆実験をやった時に彼は全部観察をしていてですね、
「・・・・潜在的危険性が残されている」こういう事がすでに分かっていました。
そういう事から、ま、実際にですよ、マンハッタン計画に従事した人間も大量に被ばくをしました。
しかしそれを表にすると大変な事ですから、
全部こういう事は極秘に進めて言ったんですね。
そのスタッフォード・ウォーレンが、さっきのシールズ・ウォーレンの作ったABCCと共同でですね、
被ばく者を観察しています。
つまり、彼の、スタッフォード・ウォーレンの記録を読むと、
彼は、広島、長崎に来ているんです。
原爆が投下されてしばらくしてからですね、来ています。

ということで、今度はソ連がですね、ついに最初の原爆実験を成功させまして、

1949年8月29日
ソ連がシベリアのカザフ共和国セミパラチンスク核実験場に於いて
最初の核実験(アメリカのFat Manのコピーとして製造されたプルトニウム型原子爆弾)に成功。
セミパラチンスクでは、1949年~1989年までに470回の核実験が行われ、
うち100回以上は大気中であった。


アメリカにも負けていないで、こういうですね最初のソ連の原爆です。

1949年、ソ連最初の原爆RDS-1の模型。
写真の人物はイーゴリ・クルチャトフとともに核開発就任となったユーリー・ハリトン。


こうして、東西冷戦というものがいわゆる核兵器の対立になって行ったわけです。

その翌年の1950年
国際X線及びラジウム防護委員会が
名称をICRP(国際放射線防護委員会ーInternational Commission on Radiological Protection )
に変更し、許容線量の値を改定した。
この時…放射線医学、放射線遺伝学の専門家以外に
原子力(核兵器)関係の専門家も委員に加わるようになり、
放射線被ばくを正当化しようとする勢力が介入して、
委員会は「放射能の危険性を隠蔽する組織」へと変質し始めた。
このICRPが、現在の全世界の放射線安全基準の作成者である。


許容線量を改定したんですが、この時に、こういう時代だからなにが必要か、
まず、核兵器をつくることが重要なんです、彼らは。
被ばく者がどんなに出てもしょうがない。
減らせるものなら減らしたい、しかし、その人間たちがどれ位の被ばくをするかは、
調べながら、同時にですね、
彼らは被ばく者をモルモットにしながら、
このICRPが現在の全世界の放射線の安全基準を作成するという事からはじまりました。

この時に核兵器の専門家が専門委員会の中に介入し始めた訳です。
戦争のために介入し始めたんですね。

そしてですね、この時から、

ICRPに改組されてから、核実験や原子力利用を遂行するにあたり、
一般人に対する基準が設けられ、
1954年には暫定線量限度、1958年には線量限度を勧告した。
一般人に対する基準が新たに設定された事に対して、
アルベルト・シュバイツァー博士は、
誰が彼らに許容することを許したのか」と憤った。


一般人に対する基準。
だって大気中核実験をやるんですからね、
世界中の人間が被ばくする訳ですから、
それなら基準を設けなければいけないという事で、
基準を設けてそれから線量限度を勧告するようになって行ったんです。

そしてこの基準というものがどこから出てきたかと言いますと、

そのひとり恐るべき主導者がジョゼフ・ハミルトン。
プルトニウム人体実験で中心的な役割を果たした医師。
カリフォルニア大学の放射線医学の権威として、
1936年おそらく世界で最初に放射性物質を人体に注射した人物として知られる。
マンハッタン計画の研究プロジェクトの主任を務め、
のちに、核実験を主導した原子力委員会と、
国際放射線防護委員会(ICRP)の放射能許容値データの大半を作成して大きな役割を果たした。


ジョゼフ・ハミルトンは人体実験をした中心的な医師。
医者なんですよ。
マンハッタン計画の主任を務め、そしてこの核実験の主導者原子力委員会、
そしてICRPの許容値データの大半を作成している。
こういう事で、我々の被ばく量が決められている、とんでもないですね。


現在チェルノブイリ事故と福島原発事故の被ばく者をはじめ、
国際的に問題となっている原子力発電の放射能被曝量は、
国際法さ線防護委員会(ICRP)が定めた安全基準、
いわゆる閾値と呼ばれるがんなどの発生限界を基に危険性が議論されている。
その基準となったデータは、
広島・長崎で分析された被ばく量が大きな算定基準になったと言われてきたが…


これがいま、ICRPのインチキと言われる安全基準は、
広島・長崎の被爆者のデータを基にしたと言われています。
今でもそれしか語られませんが、そうじゃないんです。

先程のアメリカのハミルトンが、ぞっとするんですが、

実は恐るべきことに、この人体実験医ハミルトンの指導のもとに
カリフォルニア大学バークレー校クロッカ―研究所から大半のデータが供出されていた。
今人類は、その殺人医師のデータに子どもたちの生命を賭けているのである。


この人体実験をやった人間たちがですね、大半のデータを供出して
今それを我々が、安全基準だという事で、
新聞記者たちが「分かりやすい放射能の話し」なんていうのを新聞に書いている。
そういう物の根拠がこういう所にある
わけです。

皆さんそんなもの信じますか?
殺されますよ、本当に。


その連中は殺人鬼ですから、ハッキリ言っておきますけれども。

それからもう少し詳しいお話をしますけれども、
アメリカ人がソ連と対立するためにもっと核実験を大々的にやらなければならない。
核兵器をどんどん大型にして強力にする計画ですね。

1951年1月27日
アメリカネバダ州で最初の原爆実験Ableが実施された。
朝鮮戦争の勃発とともにネバダ州での大気中核実験が大規模に開始され、
ABCC創設者のシールズ・ウォーレンがその・・・・


そしてついには自分の、アメリカ政府があそこは砂漠だから大丈夫だろうというんで、
そこで原爆実験を始めました。
そしてその時にABCCを設立したシールズ・ウォーレンがですね、
その放射能関係の最高責任者を務めて、
そして死の灰について安全量の世界一の権威者になっていきます。

そして、沢山のがん患者が風下地帯に生み出されました。
全世界、5カ国の合計で525回の大気中核実験です。
我々の子どもの時代です。
見て下さい、これアメリカの兵士ですよ。
 広瀬15

この、ドーン!といってキノコ雲が上がっているところへ鉄砲を持って突っ込んでいくんですよ、
信じられますか?
こうやって見ているんですよ、目の前で。
やりたいですか?みなさん。

これは全部当時の記録が残っています。
全部記録映画が残っているんです。
そしてキノコ雲に向かって突っ込んでいく。これでなにも起こらないんですか?
30万人を超えるアトミックスが、いろんな癌やなんかになっていって、
80年代から90年代に掛けて全米で訴訟が起こされているんです。
「我々はアメリカ国民なのに国に騙された」」
と言ってみんなが立ちあがったんですね。

それ以後、
ここのところがネバダ州なんですが、隣のユタ州で風下。
わかるでしょ?これ。
 広瀬16

なんで死の灰がこっちへばっかり流れているか?っていうと、
こっちに流れている時だけ核実験をやったんです。
こっち側のカリフォルニア州は何にも落ちていないでしょ?
だからそっちには行かないようにしたわけです。
という事で全米にこうして大量の放射性物質をばらまいたんですが、
とくにこのユタ州の町等は町中が癌になって倒れていく。

という事で大変な被害を受けました。

しかしですね、
ネバダ州で行われた大気中の原爆実験100発に比べて、
福島第一原発から放出された放射性物質は遥かに多い。


ネバダ州の核実験100発で出た放射能は福島に比べてはるかに少ないです。
福島の方がはるかに多いです。
それから距離から言いまして、この風下になった町は200kmぐらい離れているんですよ、爆心地から。

という事は、福島第一から私の家東京は230kmぐらいですか。
だからそれぐらい離れているんです。

ところがそれぐらい離れたところで、大量の被ばく者が出まして、
そして次々と死んでいく
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当時のアメリカ政府はご存じのように
原爆実験には危険の可能性はある、しかしそれは人間が死ぬという可能性ではない。
医学的に絶対安全とされている量よりも、
わずかに上回る放射線を浴びるかもしれないという危険にすぎない。


ということです。
そしてですね、

被害住民は
汚れた雲が通った後、子どもたちが次々と白血病にかかっている。
目の無い赤ちゃんが生まれた。
流産が増えている。
子どもたちの甲状腺異常が増えている。
癌が増えている。
風下地帯のユタ州では白血病のは成立が370%にも達した。
女性の甲状腺がんが300%近くになった。

アメリカ政府は
あのような微量の放射能で人が死ぬはずありません。


政府は言い続けました。
そしてこの言葉をよーく読んで下さい。

放射線被ばくで大量のがん患者を出した町民に対してアメリカ原子力委員会が語った言葉。
全く危険はありません。
放射能について心配しない事こそ、あなたにとって最善の行動なのです。
一番汚染された町の年間の被ばく量は最高で500ミリレム(5ミリシーベルト)でした。
これらは、私たちが自然界から受ける放射線100ミリレム(1ミリシーベルト)とくらべて、
殆ど変わらない安全な量です。
高い山に登ると240ミリレムの放射線を受ける場所が沢山あります。
人間の体内にも、もともと放射線を出す物質があります


福島県民がどこかで聞いた言葉ではないか?

みなさんもこの事と同じ事を聞いたでしょ?
同じなんです昔から、手法が全く変わっていません。
だから被害が出るんです。
いいですか、
恐ろしい人たちがいう言葉はこの1950年代の原発実験の記録を見ると全部わかります。

山下俊一たちが言っている言葉と一語一句変わりません。
何も変わりませんよ。

私は12年前にこの核実験場へ行きました。
今も立ち入り禁止の立て札があります。
ラスベガスから、ずーーっと砂漠の中を車で行くと、120kmも行くとあります。
 広瀬18

まだ若いでしょ、私。12年前です。
最終処分場の候補地ヤッカ・マウンテンやユッカ・マウンテンといわれるところです。
今最終処分場、福島県内で言えば皆さんは中間貯蔵施設でですね、永久になるかもしれない、
あの貯蔵施設と同じなんです。
あれはね、絶対に中間貯蔵じゃないですから。
福島県内の汚染物質を集めた場所、それは永久貯蔵施設になります。

  戦後7年目 南太平洋の空が燃え上がり

もう一回1950年代の大変な時代に戻りますと、
戦後7年目、新たな時代を迎えます。
南太平洋の空が燃え上がります。それはなにかというと、
これです。
 広瀬19

こんどは桁違いの事を始める。
人類最初の水素爆弾
今までは原爆なんですが、これからは水爆の時代が1952年はじまりました。
だから、1000倍規模の話。100倍~1000倍のものですね。
ところが翌年ソ連がやはり水爆実験に成功します。
そういう状況の中で、アメリカは何とかしなければいけない。ということで、

翌1953年8月12日
ソ連がシベリアで初の水爆実験に成功。
これを受けて1953年12月8日
アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会演説で、原子力の平和利用(Atoms-for-Peace)を宣言し、
国際機関の創設を提唱した。→原子力発電の時代へ


ここから原子力発電の時代に入っていく訳ですが、
要するにこれはどうしてこんなことが行われるのか、今の流れを見ていけば皆様もお分かりのとおり、
原子力の軍事利用を隠すために生まれたのが「原子力の平和利用」演説であった。
これから人類が騙されていく

2発目の水爆
1954年3月1日 
マーシャル諸島ビキニ環礁でBravoの水爆実験


これですね、凄まじいんですけれど、
 広瀬20

これは我々はちょっと想像が出来ない。
これ、キノコ雲が100kmという直径ですからね。
さっきの原爆とはケタが違います。
きのこ雲の直径が100kmですよ、東京駅から富士山ぐらいまで。

その時ですね、ちょうど

現地ロンゲラップ島の住民が大量に被爆・被曝した。
巨大なキノコ雲が空に立ちのぼった時、
静岡県焼津漁港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」が南太平洋に遠洋出漁中で、
マーシャル諸島ビキニ環礁東方130キロメートルの海上の近い距離にあって被爆・被曝。


大量の被ばくです。
広島・長崎と同じように直接の閃光もあったし、それから死の灰も浴びました。
この時に日本人が巻き込まれるという事件が起こった。
マグロ漁船の第五福竜丸がそのすぐ近くで、被ばくをしました。

第五福竜丸の位置を地図で書いて見ますとこういう事になります。
 広瀬21

これぐらいの距離ですからね、
この第五福竜丸の船員たちは、直接の被ばくも受け、そして彼らの言った言葉によりますと、
「太陽が二つあった」というようなそういう閃光を浴びながら、
そして同時に大量の死の灰を浴びたと。

広島原爆1000倍の爆発力ですから、ここで水爆が爆発
これぐらいの範囲ですね、死の灰が。
この範囲が日本列島と比べると、このぐらいの距離です。
 広瀬22 広瀬23

こうしてですね、この大事件が起こったんですが、しばらくして分かったんですね。
それは3月1日に実験が行われましたから、

1954年3月16日
読売新聞が第五福竜丸の水爆放射能被災ニュースをスクープ。
この日、東京築地の魚河岸で、
第五福竜丸から水揚げされたマグロから郷土の放射能を検出し、破棄された。
以後、東京と大阪の中央魚市場で多数の魚から放射能汚染が発見され、水爆マグロの恐怖が広がる。
広大な範囲が「漁業危険海域」に指定され、
そこに出漁した漁船の水揚げ魚が検査され、
実際に汚染が発見された漁船は683隻、廃棄された魚は457トンに達した。


私はこの事件を記憶しているんです。幼いながらもですね、
いわゆる放射能マグロという事件が起こりまして、
そして、水爆マグロの恐怖が日本全土に広がりまして、
当時、この第五福竜丸だけではなく、

水爆実験当時、ビキニ環礁周辺の海域で操業していた船だけで800隻以上あり、
のち、この汚染船の数はさらに増え、900隻前後であるとされる。
魚の小差分析からは、内臓の汚染が顕著であることが判明。
日本人の主なタンパク源である水産物全体に対して恐怖心を呼んだ。
食卓が警戒心と拒否反応を起こし、
魚価が半値以下に暴落して、水産業だけでなく、飲食店に大損害を与えた。
その影響は長期間に及び、マグロ漁業は壊滅的とも言える被害を受けた。


900隻もその時海洋に出ていた訳で、それがどんどん陸揚げされる。
測るとどんどんカウンターがワーッと上がる。
そして日本人全体が魚を買わなくなるというそういう時代でした。
じゃあ、この時日本人全体がどういう状態であったかというと、
日本にも放射線のいろいろな研究組織が誕生してくるんですが、
この頃はまだ日本人の意識はですね「被爆国」
「広島長崎でアメリカにやられた」という意識が非常に強かったものですから、

ICRPと並行して日本にも各種の放射線研究組織が誕生した。
戦後のの本は被爆国であったため、
1951年5月1日、
九電力体制発足と同じ日に、日本放射性同位体元素協会が設立され、
のち“原水爆実験反対運動”の先駆者として活躍し、全世界に先駆けて放射能の危険性を告発した。


この人達は非常に優れていまして、日本人を守ろうという事で放射能の研究に立ちあがるんですね。
で、ちょうど福島と杉並の太郎さん達が連携しているのと同じような形で、

1945年5月9日
東京都杉並区の主婦が中心となって原水爆禁止のための杉並協議会を結成し、
原水爆反対の巨大な署名運動が始める。
特に、福島県原町(現・南相馬市)生まれの亀井文夫監督が、
1957年にドキュメンタリー映画「世界は恐怖する 死の灰の正体」を製作し、
そこに日本の良心的な科学者が続々と登場した。


この映画の中にさきほどの日本放射性同位体元素協会の良心的な科学者が次々と登場して、
我々に教えてくれたんです。
放射能がどんなに怖いものであるか」という事を語ってくれました。

ところがそういう時代の中でですね、ソ連が今度は原子力を発電に使うという事でスタートしまして、

1954年6月27日
ソ連が世界最初の原子力発電をおぷ人すく原子力発電所で開始した(電気出力5000kw)。
東西の軍需産業が冷戦を利用して原子力発電によるウラン・カルテルの世界的な巨大利権が動きだし、
膨大な国家予算を平和利用名目で使って暗躍を始める


この時ですね、表向きは東西は対立しているんですが、
実際はウラン・カルテル、要するに、
「ウランを掘り出して儲けよう」という、利権では同じ目的を持っていまして、
莫大な国家予算を、アメリカはアメリカで、ソ連はソ連で、
それぞれの国で巨大な利権が動きだしまして、
それが平和利用目的でどんどん暗躍をし始める時代に入りました。

そして、そういう中で第五福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなるんですね。

1954年9月23日
被ばくした第五福竜丸無線長の久保山愛吉さんが肝不全により40歳の若さで死亡。
「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」との遺言を残し、
重大事件の波紋が日本全土から世界に広がって、
12月16日には、原水爆禁止署名運動全国協議会が、
「原水爆禁止署名者が2008万1232人に達した」と発表した。
当時の人口は8800万人余りなので驚異的な人数であった。


女優の音羽信子さん達が今いる病床を訪れる中で亡くなっていきまして、
そして「被ばく者は私を最後にして欲しい」と言って、
その言葉が、日本中の人を震え上がらせまして、
たちまちのうちに原水爆禁止署名が当時の人口8800万人のうちのなんと2000万人。
こんなことは日本の歴史の、未曽有の事です。
現在で言えば3000万人規模、それだけの署名が集まって、
驚異的な原水爆禁止の運動が全世界で広まりました。

なぜか?それはですね、言うまでもありません。
我々子どもの世代が、当時癌になる死亡率が…
 広瀬24

だって、大気中の核実験って言ったら、直接の閃光は浴びているわけじゃない。
みんな地球全体が死の灰が包んで、
日本だけで子どもたちが癌で亡くなるのが6倍も増えたんですよ。
500回を数えた原水爆の大気中の核実験で。

こういう事は忘れられていますが、私も20数年前に運動を始めたひとりですから、
昔の資料を頂きましたが、
子どもたちの歯の中のストロンチウム90とかが、ダーッ!とグラフが上がっているんです。
恐ろしい事に。
だから我々の世代はですね、おそらくですね、私たちの親の世代よりも多分早く死ぬ
と思います。
この世代はですね、子ども時代にみんな、大なり小なり被ばくしていますから。
我々の親の世代よりは長い気はしないだろうと私は思っていますけれども、

さて、こういうことでですね、
今 全体的な流れで大事なことは
アメリカは核兵器で世界を制覇したいという野望を抱いていましたし、
実際にそういう軍事力を持っていました。
そういう所でですね、全世界で原水爆禁止運動が広まって行ったわけですね。
当時は全世界は、こんな、今みたいにのんびりしていませんでした。
我々の時代は非常に、今言ったようにひどい時代なんですが、
反骨精神が非常に強かったです。

私は今の日本人を見ていても、
日本人だけじゃなくて全世界を見ても、つまらないんです。
「なにを考えているんだお前たちはいったい!」と言いたくなるんです。
すべての政治家に、全ての国の政治家に。
そういう思いを感じています。

当時は反骨精神を持った政治家が世界中に出てきました、いろいろな形で。
そういう人間がいま全世界を見ても誰もいないです、我々から見てね。
「世界を動かしていく」という人たちが。
だから情熱を感じないんですが、我々はそんな事で黙っちゃいられませんよ、こんな…
こんな時代をね、変えていかないと。

だからみなさんに今歴史をお話ししているんですけど、
アメリカはこういうふうに凄まじい恐ろしい事をはじめ、
ソ連も同じ事をやって、
そしてアメリカにとっては原水爆禁止運動、それからソ連の原子力発電、こういうのを見てですね、
何とか全体的にうまくコントロールしなければいけない。

かくして日本から全世界に広がる原水爆反対運動と、
ソ連の原子力発電スタート、という二つの強敵を前にして、それらを世界的にコントロールするため、
1957年10月26日、アメリカ主導のもと
国際原子力機関(International Atomic Energy Agency IAEA)が国連の自治機関として、
原子力の平和利用を推進し、軍事転用を防止する国際機関」という名目で設立された。


そこで生まれたのが国際原子力機関。
いまこの郡山に乗り込んできたIAEAなんです!


この組織が国連の中にできまして、彼らはもちろんそれをこういういい方をする。
「原子力の平和利用を推進して、軍事転用を防止する」

「軍事転用」とはどういう事か?
これは難しい話しになりますが、要するに、
「核兵器を持っている国が増えないように」という意図です。

IAEAは、国連の軍事的な安全保障理事会に従属する組織であった。
つまり事実上、第二次世界大戦の戦勝国が(東西を問わず)
核兵器開発を独占するための国際シンジケート組織
であった。
対立する米ソにとって共通項となる仮面が「原子力の平和利用」という文言だった。


国連の安全保障理事会というのは
どこかの国を非難するというとすぐに出てくるあの理事会。
これに従属する組織だったんです。
完全に独立したものじゃないんです。
アメリカ、ソ連、中国、イギリス、フランス、
みんなその安全保障理事会の軍事的な組織の従属機関なんです。

つまりこれはどういう事かと、言い換えればすぐにわかると思います。
第二次世界大戦の戦勝国なんですね、国連というのは。そもそもは。
その国連というものが東西を問わずにですね、核兵器開発を独占する。
そういう国際シンジケートとして生まれた。
だからこの世界の中では、アメリカもソビエトも共産主義も資本主義もないんです。
だからそれが一番わかりやすい、人を騙しやすい「原子力の平和利用」という文言になって行ったわけです。

そしてこの組織はね、黙っていません、ただ作ったんじゃない。

そして2年後の1959年、
全世界の健康を守る機関であるWHO(世界保健機関)が、新組織IAEAと協定を結んだ。
この協定によって、IAEAが独占的な権威と位置づけられ、
WHOは原子力の分野で独立して医学調査を実施することが禁じられた。
この時から、放射能の危険性に関して、原子力の推進機関であるIAEAが全ての実権を掌握した。



何の協定か?というとWHOというのは人類の健康を守るための組織なんですが、
そのWHOが、この原子力、「放射能に関しては口を出しちゃいけない
とんでもない事ですけど、そういう事で医学調査を実施することを禁じるという、

それにWHOは乗ったんです!
要するに魂を売ったわけです、WHOは。


そうして原子力の推進機関のIAEAは全ての国連の中での実権を掌握して今日に至っている訳です。

IAEAの創設を主導したルイス・シュトラウスは、
マンハッタン計画の残党が集結した原子力委員会でアイゼンハワー政権時代の委員長として、
ネバダ州の待機中核実験を強行して大量の被爆者・被曝者を生みだしながら、
原子力平和利用の大宣伝に奔走した


で、これを創設主導したルイス・シュトラウスという男は
先ほど大量に被ばく者を生みだしながら、その核実験をやったトップであって、
同時に原子力の平和利用という言葉を、二枚舌を使い分けていた男です。
この有名な男はね。

そうしてですね、今の事を観点に歴史を見ますとこういう事です。
 広瀬25

アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国と。
1960年代までにこの5カ国はですね、現在の核保有国。
公式の、公式のですよ。
他にもありますけれど、公式の保有国として全世界に権勢を誇るという事になった。
今の時代
です。

この年にですね、アメリカで映画が製作されました。

1964年 中国が初の原爆実験に成功した年、
スタンリー・キューブリック監督が
「博士の異常な愛情または私はいかにして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」を公開。


「博士の異常な愛情」のラストシーンだけみなさんに見ていただきます。

わかりました?
これ本当の全部記録ですよ、今出てきたのはね。
原爆の、原水爆の。
この歌詞がね、すばらしい曲でね、私は好きなんです。
このラストシーンね、
要するに全世界のキチガイ集団らが核戦争をやって
「地球が終わる」という、それを暗示している最後のラストシーンなんですが、
あの歌があまりにもきれいでね、「再び会いましょう」というあの歌詞があまりにも素晴らしくてね、
我々の涙が出まして最後のシーンを見たものです。
 広瀬26

こうして、今の時代になるんですが、

もう一回戻りますと、先程の大変恐ろしい恐ろしい人体実験、プルトニウムなんかを注射した連中が、
放射能の安全基準を定めるICRPの幹部になっていくんです、この時代にね。

ハミルトンとともに1936年に白血病患者に放射性物質を静脈注射した医師ロバート・ストーンが、
放射能の安全基準を定めるICRPの幹部となり、
国連の世界保健機関(WHO)で放射能被曝問題の最高顧問となった。
さらにこれらと連動する形で、国際放射線影響委員会(UNSCEAR)が、
チェルノブイリ原発事故から現在まで、世界的な被ばく容認の組織として機能する母体となってきた


それで、WHOでも放射能被曝の最高顧問となって、
どんどん、どんどん全世界を牛耳っていく、他にしゃべらせない。
まともな人間がいるとみんな抹殺していく。

で、国連に放射線影響委員会というのがあります。
これが、現在まで放射線の被ばくを容認する組織として機能する母体となってきました。
いろいろな組織をどんどん彼らは作ってきた。

そうしてですね、IAEAから金が出る
これが非常に重要なんです。
要するに学者を全部買い取っていくんですね、魂を。
これ簡単な事です、学者なんてね、簡単に金で買えますから。

こうしてICRPに対する助成金は国際原子力機関(IAEA)から投入され、
さらに経済協力開発機構(OCDE)原子力機関をはじめ、
世界保健機関WHO、国際放射線防護委員会(IRPA)などの放射線学会、
イギリス、アメリカ、ヨーロッパ共同体、スウェーデン、日本、アルゼンチン、カナダなどの
各国内にある機関が拠出して、主に西側諸国が金銭的に支配し、
被ばくの安全論を普及する広告塔として機能してきた。


そして、OCDEやWHOが全部協力していく。
そしてその中に、日本も当然入ってくる訳ですが、
各国の機関が金を出してですね、そして被ばくの安全論を普及する。
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 広瀬隆12/14郡山講演(3)へ続きます。
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広瀬隆12/14郡山講演(3)原爆と原発

 広瀬隆12/14郡山講演(2)からの続きです
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  原子力産業とは核兵器産業である

さて、これでお分かりのとおり原子力産業というのは核兵器産業として、こうして生まれました。
これが我々の時代にどうなのか?と言いますと、
1986年のソ連のチェルノブイリの事故が起こってからですね、
彼らの正体が改めて暴露されていきます。
それはですね、当時ドイツは東西に分裂していました。
西である日交通事故が起こった、
それで警察がそのトラックを調べてみるとですね、
なんとそこに核物質、ウランやプルトニウムが積まれていた


軍事組織IAEAの正体が露骨に表面化したのは、チェルノブイリ原発事故の時からであった。
1987~88に掛けて、西ドイツの交通事故から奇妙な事件が発覚した。
核物質を輸送していたトラックが横転し、警察が積み荷を調べたところ、
輸送許可されていない核物質が国境を越えて運ばれていた事が発覚した。


「いったいなんだ?」ということで、大変な核スキャンダルが起こります。
 広瀬27

これはどういう事件か?と言いますとね、
西ドイツの核物質、つまり原子力の平和産業、電力会社達と組んでそれを原子力の平和産業の中で出てくる、
ちょうど日本で言えば、青森県の六ヶ所村の様なそういう組織ですけれど、
化学会社ヌーケムという所がありまして、そこがですよ、
西側がテロ国家だと言っている3カ国に
自分たちで原爆材料ののウランやプルトニウムを密輸していた
んです。

さらに関係者を追及すると、西ドイツの核物質を扱う化学会社ヌーケムが、
西側がテロ国家と非難するパキスタン、スーダン、リビアの3カ国に
原爆材料のウランやプルトニウムを密輸し、
週百万マルクの大金が動いていたという悪事が明るみに出た。
1マルク=80円として、数億円にのぼる核物質の密売であった


分かるでしょ?意味。
今の北朝鮮と同じなんですよ。
北朝鮮と安倍晋三が組んでいるのと同じなんです。
死の商人というのはそういうものなんです。
両方でけんかしていたら両方とも儲かる、軍部が儲かる、そういう構造です。
今、全く同じです。
なんでこんな選挙がね、日本で、韓国でも選挙がおこなわれているのに。
北朝鮮がどうしてあんなものを打ち上げなきゃいけないんですか?
お互いに得をする
んです。
安倍晋三も、北朝鮮の軍部も。
そういう呼吸がある。そういうのを昔から死の商人というんです。
右も左もないんです。
「殺す」その目的のために大砲をつくる、それはどっちにも潤う。
両方が潤わないと戦争はできませんから。
そういう事をやっている。
こういう事をやってきたのがバレたんですね。
それの主人公がIAEAだった
んです。

信じられないでしょうが、これはドイツのシュテロンが素晴らしい解析を全部やりました。
わかるでしょ?
ここの男の手と手の間にドイツの紙幣マルクが渡されています。
後ろに原爆の核爆発の写真があるでしょ?
この写真のこの表紙はよくできているんです。
良いですか?今右下にIAEAの組織のマークが入っているでしょ?
よく見て下さい、これが原子力の平和利用のマークです。
 広瀬28

このカフスボタンがちゃんと平和利用になっています。
わかるでしょ?
こういう事をやるのがジャーナリストなんです。
今の日本にジャーナリストなんていませんよ!

マスメディアしかない。
メディアというのは、ただ政府や電力会社の言う事を書けば、それはメディアね。
印刷媒体でしか意味がないんです。
ここにいらっしゃるIWJやアワープラネットTV、この人達はジャーナリズム。
ね、わかります?
この違いを我々は分からない。
この会場の外にいる人達はみんな分からない。
どこか変なところに投票しようとしたりするからおかしくなる。

こういうジャーナリズムがあると、国はどんどん変わっていくんです。
だからドイツ人はどんどん変われる。
日本は変わり様がない、この恐ろしい国は
ね。
だから我々は必死になって叫ぶわけです、こうやって。
わかるでしょ?
これを原子力の平和利用をやっていた連中がやってたんですよ。
電力会社中心の企業ですよ。

その中で、大変な…
当時の写真が私の家の中のどこかにあるんですが、今ちょっと出てこないんですが、
ちょうど暴露された時、ルドルフ・ロメッチという男が出てくるんですが、
自家用車でプルトニウムを運んでいたんですよね。
自家用車ですよ、それでプルトニウムを積んでいて、
ドイツで捕まって大スキャンダルになるんですけれど、

この輸送事件に関与したスイス人のルドルフ・ロメッチは、
自家用車でプルトニウムを運んでいたことが暴露され、
ドイツで大スキャンダルとなった。
ロメッチは、核拡散を防止する国際原子力機関(IAEA)の幹部であり、
チェルノブイリ事故直後にその原因を議論したIAEA総会で議長を務めて、
被ばくを隠蔽し、我が国の科学技術庁とも親しく、来日して講演した人物であった。


この男がIAEAの最高幹部で、チェルノブイリの原発事故を調査した
IAEA総会の議長をつとめているんです。
信じられないでしょ?
ところがその直後この男は日本にやってきまして、
我々が当時の科学技術庁とけんかしている中で、科学技術庁の後援会でしゃべってましたよ。
私が「あいつだ、あいつ!」って言っても誰も信じないんですよ。
「こいつなんだよ!」って言っても誰も分かんない。
日本にはもう、本当のジャーナリズムはいませんでしたからね。


そうしてこのチェルノブイリ事故のIAEA総会が「原発事故は終わった」という結論を出して、
国際的な宣言セレモニーになった。
チェルノブイリ事故直後のIAEA総会が、
事実上の「原発事故の被害は終わった」という国際的な宣言セレモニーとなった


しかしね、それだけじゃ終わりません。
ベラルーシで非常に勇気のあるバンダジェフスキーという人がですね、
被爆者をダーーッと調べまして、
この人がセシウム心筋症。
つまり、今日本で議論されている「放射能の被害の一番怖いのは癌や白血病だけである」
そういう考えが皆さん頭の中に刷り込まれていますが、
そうじゃなくて、このバンダジェフスキーという人が明らかにしたのは、
「セシウム心筋症」で、
心筋症というのは心臓の筋肉、そこがおかしくなる。こういうことを明らかにしたんですけれど、
それは何が大事か?って言うとですね、
セシウム137、あれは身体に入って、そして筋肉に入るんです。
皆さん今そこにずーっと座っていらっしゃっても、必ず呼吸をしています。
そして心臓が動いています。
心臓が動いていなければ死んじゃいます。
寝ててもですね、肺は呼吸しています。心臓は血液をずーーっと送っています


という事は、心臓は肺というのは筋肉の塊なんです。
ずーっと運動している。
そこにセシウムは濃縮していくんです。

その事をバンダジェフスキーは、非常に大事なことを明らかにしましたので、
それからですね、バンダジェフスキーはすぐに汚職容疑で逮捕されまして、
そして2001年、物的証拠が一切ないのに、8年の強制労働の刑を言い渡される。

その後もIAEAは、
チェルノブイリ原発事故による健康被害は極めて限られているという結論を振りまいた。
そして、
ベラルーシ・ゴメリ医科大学初代学長の病理解剖学者ユーリ・バンダジェフスキーが明らかにした
「突然死と放射性物質の体内摂取の因果関係(セシウム心筋症)」という
明白な医学的事実を発表した直後、
バンダジェフスキーを汚職容疑で逮捕し、
2001年に物的証拠が一切無しで8年の強制労働の刑を言い渡した。
さらに国際的な連携で行ったデータ捏造によって、彼の科学的事実を闇に葬った。


それをヨーロッパの科学者たち、心ある人たち、あるいはロシアの心ある学者たちが、
何とか救出しようという事で、救出活動を展開して、今もやっている、そういう状況です。

そして、彼らに対して、バンダジェフスキーに対して、
IAEAの幹部たちは猛烈な攻撃を加えて、
そして彼の明らかにした科学的事実を闇に葬った
。そういうことです。

さて、先程の西ドイツの大スキャンダルで明らかになったあの会社から、
プルトニウムを輸入してきた。
それがですね、おととしの忘れもしない8月1日だったと思いますが、
いわき市でプルサーマル反対の講演会をやりました。
それがこれなんです。

しかもこの核物質の密売を行っていたヨーロッパの核燃料製造会社から、
プルトニウム(爆発した福島第一原発3号機プルサーマル用のMOX燃料)を輸入してきたのが、
東京電力・関西電旅行などの日本の電力会社だった。


福島第一3号機で、プルトニウムをね、プルサーマル用のMOX燃料、
それをつくっていたのが同じ会社なんです。
そこから買いこんできたのが東京電力や関西電力なんです。
日本の電力会社。
こういう構造
なんです。

ですから、福島第二原発のある楢葉町、あそこから去年、モリタさんという方と去年お会いした時、
モリタさんと夜講演会の後に飲んだどきに、モリタさんがふとこんなことを言ったんです。
「福島第一のあの爆発した建物を見ると、私は広島のあの原爆ドームを思い出すんだよ」って。
私はその時ドキッとしましてね、
「モリタさんはなんて鋭いんだろう」と思いました。
 広瀬29

その意味はわかるでしょ?これね。
これは原爆と同じ臨界前の原爆と同じ形でぶっ飛んだ。
それがね、福島第一の3号機の爆発。
14日に起こった出来事なんです。

まさにそうなんです。
というのは、こういう原子力というのは暴走をする、実験をアメリカでもやってきましたけれど、
その時の記録写真をちょっと追っていきます。
 広瀬30

これが起こったのが福島第一3号機、原子炉をおおう。
それが使用済みの核燃料プールで起こった。
これが福島の凄まじい原爆の再来になっているということです。

  原爆と原発は双子の悪魔だった

お分かりになっていると思いますが、原爆と原発は原理的にもそうですが、
双子の悪魔、こういう状況。
これがいままで私たちを騙してきた問題なんです。
ほんとうはいろんな、IAEAが持っておりダブルスタンドという問題をお話したいのですが、
ちょっと時間の関係でね、
簡単に、チョットだけ言ってもみなさんお分かりと思いますが

新聞やなんかに出てくるIAEAが必ず批判するのは、
イランでしょ、それから北朝鮮でしょ、
それ以外は非難しないでしょ?おかしいと思いませんか?

日本の青森県六ケ所村、これ何にも非難しないでしょ?
おかしいでしょ?
イランに対するイスラエルが原爆を持っている、大量に持っているという事は、
国際的には誰でもが知っているのに非難された事は一度もないでしょ?

要するにダブルスタンダードであって、
自分たちの仲間だけは核兵器を持っていいんだと。
原爆を持っていいんです。
その相手側のちょっと嫌いな奴には、そいつらには絶対に兵器を持たせない。
ところが火を付ける。
じゃあ、プルサーマルともんじゅと六ヶ所再処理工場はどんな関係にあるのか?
簡単に言います。時間が無いのでね。

プルサーマル計画
高速増殖炉もんじゅ
六ヶ所再処理工場
不可解な三角プロジェクトの謎


ようするに今の原子力発電に使われている中性子でですね、中性子をぶつけて、
こうやって核分裂を行わせるんですけれど、

ただし軽水炉では水が中性子を吸収するので、
核分裂の効果を高めて臨界状態を維持できるようにするには、
ウラン235の濃度を数パーセントまで濃縮した燃料を使う必要がある。


さてそこに高速増殖炉というものがあって、
今度は水を使わない、液体ナトリウムというのを使ってですね、
高速のままウラン238を核分裂をしないものにぶつける。
そうするとどうなるか?というと、
核分裂をしない、これが1個中性子を吸収するので238が239になる。
 広瀬31

つまりプルトニウムが生まれる
これがまた核分裂をするわけです。
だからもんじゅの中はこういう構造をしていまして、
プルトニウムをある程度含んだMOX燃料。
福島第一3号機とまったく同じMOX燃料を入れてですね、
ここに使用済み核燃料から取り出した、
60%の核分裂性プルトニウムにウランを混合した燃料。こういう構造を持ってて、
そのまわりにですね、核分裂をしないブランケットというもので、要するに外側を包んで、
こういう反応を起こさないとここのウラン238が中性子を吸収して、
大量にですね、核分裂性のプルトニウムが出来る
 広瀬32

だから構造的に言いますと、239,271ね、
これが高速増殖炉なんです、炉心と外側のブランケット
 広瀬33

見て下さい62%が98%になる。
核分裂性のものがですよ、プルトニウムが。
核兵器が93%で良いんですから、98%のものが出来る。

これが欲しいのがいまの安倍晋三たちなんです。
だから、どうしてもあの連中は原子力を続けていきたい。
日本で高速増殖炉もんじゅを続けていきたい。
そのために六ヶ所村の再処理工場と、
全国で日本中の人間を騙すためのプルサーマルというのをやっていきたい。


こうして全国の原子炉で生まれた使用済み核燃料が、六ヶ所再処理工場に送られ、
純度60%のプルトニウム239が抽出される。
次にこれが高速増殖炉もんじゅにMOX燃料として装備され、
ブランケットで純度98%のプルトニウム239が生まれる。


つまり、高速増殖炉は文字通り原爆用プルトニウム増殖炉である。

というのがいまの日本の現状です。
この話は少し長くなるので、ここまでにしておきますが、

  日本における被ばく隠しの黒幕

さぁ、皆さんの命を握っている人間たちの正体を暴いていかなくてはいけないんですが、
同じ今のIAEA、ICRPの仲間が福島県に入って、
放射線リスク関係アドバイザー、長たらしいわけの分からない名前をもらった連中が徘徊していますが、

放射線医学総合研究所(放医研)
日本アイソトープ協会
日本財団(笹川財団)
放射線影響研究所(放影研)
文部科学省
とは何者か?


先程の放射線医学総合研究所、放医研、それから日本アイソトープ協会、日本財団、旧笹川財団、
それから放射線影響研究所、これは千葉にありますが、それから文部科学省。
こういう連中がどうも怪しいという事はみなさんうすうすお感じになっているでしょうが、

そもそもはさっき言ったように日本放射性同位体元素協会、非常に優れていた核実験反対のためにですね、
亀井文夫監督たちと組んでいた人たちだったんですが、
1957年にですね、さっきのような時代に、
放射線医学研究所が同時に設立されます。

1957年7月
放射線の人体への影響、放射線による人体の障害の予防、診断と治療、
放射線の医学的利用に関する研究開発などの業務を総合的に行い、
放射線医学に関する科学的技術の水準の向上を図るとの名目で
放射線医学総合研究所(放医研)設立


で、武谷三男さんって皆さんご存じだと思います。
本当はノーベル賞を受けるほどの物理学者で、
かつては原子力平和利用を信じていた人ですが、「原水爆実験」とか「安全性の考え方」
それから「原子力発電」とかこういう本を書かれまして、

かつて原子力の平和利用を主張していた物理学者・武谷三男が
「原水爆実験」(1957年)、「安全性の考え方」(1967年)等を出版して、
アメリカの核実験による放射能汚染放置を批判し、
「原子力発電」(1976年)で原発の危険性を論破した。


私たちが市民運動を始めた時に、武谷さんをお呼びしてですね、講演会を何度も開きました。
武谷さんはその時、最初私が武谷さんに電話して
「武谷さん、講演会を開きたいんですが来て下さいますか?」って言ったら、
「君はどこの住民だ」っていうから、
「杉並区です」って言ったら、
ちょうど杉並区ってゴミ戦争というのがありまして、
我々杉並区民から出た大量のゴミを江東区やなんかのいわゆる下町に
どんどん送り込んで平気な顔をしている、そういう時代でしたので、
武谷さんはそういう物事の倫理というものを理解していない所には行きたくないんですね。
だから私はちょうど自分の思っている事を言いました。
「いま、むこうが、下町がゴミをみんな拒否してくれたんで、街中にゴミが散乱してみんな困っています。
私は『ざまぁみろ』と思っています」って言ったら、
「行きます」って、
それで飛んで来てくれて、私をずっと指導してくれました。
その武谷さん達と原発の危険性をどんどん論破しておりました。

しかしですね、先程のような流れの中で、

しかしすでに1954年の原子力予算さんからスタートした
政界・産業界・学界が連携した日本の原発運転再開計画は軌道に乗り、
1966年7月25日に
わが国最初の商業原子炉・東海発電所(ガス冷却式の16.1万kw)が運転を開始。
続いて1970年3月14日に、大阪万博の開会日に合わせて、
原電の敦賀原発1号機が大々的に営業運転を開始した。


もう、ついに1960年代に入りまして、茨城県東海村で1号機が運転を開始する。
そして70年にはちょうど大気汚染の時代、大阪万博が開かれたその日に合わせて、
日本原電の敦賀原発1号機が大々的に運転を開始しました。

今我々がみているニュース
 広瀬34

真下に活断層がある。
これが1970年に動き出したんです。
まさにこれ、この原子炉は40年間ずーっと運転していて、平気だった。
このニュースを今、今月見ているわけです。

ね、分かるでしょ?どれほど狂った国か。

だけどその狂ったのはそれだけじゃない。

同年1970年11月28日に
電力会社の原子炉として最初の関西電力美浜原発1号機が運転開始。
続いて1971年3月26日に東京電力の福島第一原発1号機が運転開始。


ちょうどその年、今度は電力会社として関電の美浜1号が動き出して、
翌年この東電の福島第一原発1号機が運転を開始した。
そういう時代でした。

そしてですね、その時に、
日本放射性同位元素協会が日本アイソトープ協会というアルファベット名に代わりまして、
これから、豹変していきます。

その年、1971年8月1日に日本放射性同位元素協会が日本アイソトープ協会と改称して、
良心的な科学者を追放(パージ)して、
「放射線の有効利用」を看板に、原発推進組織に豹変し始めた。
その中心人物は東京大学総長の茅誠司ら、原子力発電推進者であった。
また放射線医学総合研究所(放医研)も原発推進組織の正体を見せ始めた。


まさに、原子力の時代をリードしていかなければいけない。
それは、先程のアメリカのAEC原子力委員会と同じ発想で、
要するに、放射能の安全論を広めって行かなければならない
そのために放射性同位元素をどんどんどんどんいろんなところに普及させる、使わせる。
そういう事をやっていけばみんな慣れてくる

そういう形で東大総長の茅誠司らがですね、原発推進学者達が動き、
そして、このアイソトープ協会が完全な原子力推進組織に豹変して、
そして良心的な科学者は全部パージしました。
そうして、放医研も原発推進組織に豹変しはじめた。
これがちょうど福島の原発が動きだした時と全く同じです。

そして放射線の有効利用キャンペーンがどんどん広がっていく訳です。
日本は世界で飛び抜けたX線CTスキャンの検査回数を誇る異常国家です。

「放射線の有効利用」キャンペーンのため、
日本は世界で飛び抜けたX線CTスキャン(コンピューター断層撮影Comruted Tomography)の
検査回数を誇る異常国家となった。
これは、日本の医療界の病院収入を検査日が支える構図を生みだし、
医療界・医学界がほとんど、放射線・放射能の危険性を主張しなくなった。


これはお分かりと思います。
医療関係の方ならば特にわかると思うんですが、
ともかく医療界の病院収入を支えるのは、今、検査費とそれから薬代なんですね。
ここに依存するようになってきた、それがどんどんどんどん広がっていく。

これを見て下さい。
CTスキャナーの保有台数。
 広瀬35

日本だけ異常に多いでしょ?
こういう形でみなさん、どんどん被曝させられてきている。
こういう国が日本。

だから今、これだけの福島で大変な事故が起こっているのに、
私が一番腹が立つのは医学界なんですよ。
日本の医学界が立ちあがらないでしょ?
こんな危険な状態を放置して、声明一つ出さないでしょ?


ここが外地との違いなんです。
ドイツの場合再処理工場を閉鎖させるために、先頭になって動いた人たちはお医者さん達なんです。
それで国民がどんどんどんどん変わって行った
んです。
「本当に危険なものだ」その事を教える人たちがいないんです。

だから恐ろしいんです、私はこの日本という国が。

そして先ほどの広島長崎の被爆者をモルモットにしていた、あの恐るべきABCCが、
1975年から日本に受け継がれて放射線影響研究所・放影研と名を変えます。

一方で、1946年から広島・長崎の被爆者をモルモットにして観察してきた
アメリカの原爆傷害調査委員会(ABCC)が、
1975年に日本に受け継がれて改組され、
放射線影響研究所(放影研)となった。


この時なんですが、この受け皿になったのが、厚生省の国立予防衛生研究所、予研と呼ばれる組織です。
これは歴史を調べた事のある人なら、すぐにピーンッ!とくるでしょう。

このとき、ABCCの受け皿となったのが
1948年からABCCの調査プログラムに正式に参加していた
厚生省国立予防衛生研究所(予研)であり、
予研にはなぜか、戦時中の細菌・化学戦研究のために生体解剖などをおこなった
大日本帝国陸軍“七三一部隊”の残党が大量に流れ込んでいた。
このおぞましい殺人部隊の犯罪を、細菌戦資料の提供を交換条件に、東京裁判で免責にしたのは、
戦後の米軍であった


戦時中ですね、恐ろしい。
中国人たちを丸太と呼んでですね、人体実験をやった、
あの生物化学兵器の人体実験をやった
恐るべき組織“七三一部隊”の残党がこの予研に大量に流れ込んでいる。

そして戦後東京裁判で、この“七三一部隊”が何故裁かれないのか?といいますと、
アメリカが乗り込んできた時、“七三一部隊”の殺人の、要するに実験データを「全部よこせ」と、
「そうすればお前たちは免責してやる」ということで、
たった一人もですね、今日まで裁かれていないんです。
あの恐るべき部隊がですね。

そういう構造の中でABCCが、この日本に受け継がれてきました。

また、戦後からすぐ、広島・長崎の医学者と医者のかなりの人間が、
ABCCの調査に協力して、被爆・被曝の被害隠しに努めた。
それらの人間の後継者が、「放射線はこわくない」と言い続け、長崎大学の教授になって行った。


ですから広島・長崎の良学者と医者の良心的な人と、
一方ではですね、このABCCの調査に協力して、被害隠しに努めた人間が沢山いて、
それがですね「放射線は怖くない」と言い続け、長崎大学の教授に次々となっているという、
こういう構造です。
 ーーーーーーーーーーー
 広瀬隆12/14郡山講演(4)へ続きます。
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