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もうすぐ北風が強くなる

批判的思考の重要さ

 身近な誰かが何かを言ったからと盲信する人はいないだろうが、テレビ、新聞、医師など何らかの専門家、学会の偉そうな学者などが言うとコロリと盲信する人が多い。
 とりわけマスコミは私達の眼と耳を奪い、大量の「通説」「定説」を流し込む。

 だが、「通説」「定説」もひとつの「説」にすぎないので間違いもあり、嘘もある。
 用心しないと、大量の「嘘」を吹き込まれる。
 少なくとも大事な判断が必要なこと、は自分の頭で考えて判断することが必要だ。
 どうしても解らず判断できない場合は、沈思黙考し、「感」で決めても、騙されるよりはましと言うものだ。

 「マニュアル・ロボット」とか「カモネギ」とかにならないために。
 以下の批判的思考もそのひとつである。

 関連ページ「テレビ・新聞は現実の経済社会を解らなくする」、「洗脳するマスコミ、騙される国民」、「思考停止してるから自分の意見が無い」、「まかり通っている嘘だらけ」。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  クリティカル・シンキング(批判的思考)   7/16   「CTBNL」から

 昔、科学者をしていたことは、これまで何度も述べてきた。
 科学者をしていた時代、日本を含めて、アジアからの留学生を何人も指導したが、当地の研究者と比べて、「アジアの研究者は、総じてクリティカル・シンキング(批判的思考)が苦手」という印象を受けざるを得なかった。

 「クリティカル・シンキング」と、英語で言われても、日本の読者にはピンと来ないかも知れない。
 日本語で平たく言えば、「他の人や、世間が言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考える」となろうか?

 私が指導した留学生の中で、「クリティカル・シンキングが苦手」の筆頭だったのが、アジアの某大国からやって来た研究者だった。
 実験結果についての解釈を聞いても、絶対に自分の意見を述べようとしないのである。
 彼との不毛な議論を繰り返すうちに、やがて、「彼にとって何よりも重要なのは、科学者として客観的にデータを解釈したり議論したりすることではなく、『ボスの機嫌を損じる発言をしてはならない』ということなのだ」と、気がついた。

 実験結果についての議論をする度に、彼は、私や私のボスの顔色を覗いながら、私たちが言ったことの内容に合わせて、ふらふらと自分の意見を修正するのである。
 私も、私のボスも、「一党独裁体制が何十年も続いた国ではこういう科学をしているのか」という実態を見せつけられて、恐怖感すら覚えたものだった。

 以上、科学の領域でクリティカル・シンキングができない研究者の実例を挙げたが、日本の場合、クリティカル・シンキングが苦手であるのは、科学の領域に限ったことではないようである。
 ジャーナリズムにしても、教育にしても、私には、クリティカル・シンキングとは無縁の人々が、指導的立場に立って現状を仕切っているように見えてならない。

 たとえば、ニューヨークタイムズのオンライン版(月15ドル)は「個々の記事の質・内容を考えたら安い」と喜んで金を払えるのであるが、日本の新聞のサイトから「オンラインで全部読みたかったら、月数千円払え」と要求されても、私は払う気にはなれない。
 私が記事の質について判定できるのは、米国・MLB・医療関連に限るのだが、「見当違いであったり、米国メディアの直訳・誤訳であったり・・・」と、日本のメディアの報道は、クリティカル・シンキングとは無縁の「呆れざるを得ない」ものが目につくからである。

 ところで、日本の識者の中には、「クリティカル・シンキングは、欧米の『個人主義』の社会で育ったものなので、『集団』の価値を重んじるアジアには不向き」とする人がいるようである。
 しかし、クリティカル・シンキングと個人主義とは何の関係もなく、それが証拠に、「クリティカル・シンキングの方法を説いた古典」とされているのが、釈迦の「カラマ・スッタ」である。

 「カラマ・スッタ」は、カラマ族の地を訪れた釈迦が、「これまで当地にやってきた聖者の言うことはみな違うし、中には、他の聖者の教えは間違いだという者もいる。誰の教えが正しいのか、どうやったら知ることができるのか?」と問われたことに対する回答をまとめたものである。

 釈迦は「自分の頭で考えることの重要性」を説いた上で、「判断基準にしてはいけない事項」を列挙したのだが、このリストが、そのまま「クリティカル・シンキングの方法論」となっているので、以下に記す。

<釈迦が「判断基準にしてはならない」と列挙した事柄>
*何度も聞かされてきたこと
*伝統
*噂
*教義に書かれていること
*当てずっぽう
*(誰かが決めた)公理
*見かけ上の推論
*「正しい」とされてきた考えに対するバイアス
*一見「賢そう」に見える人の意見
*師(指導者)の意見

 釈迦が科学者だったらノーベル賞を、ジャーナリストだったらピューリッツァー賞を何度も受賞していたのではないかと思えてならないほどクリティカル・シンキングの正鵠を射ているのだが、「進化論」や「相対性理論」の例を挙げるまでもなく、クリティカル・シンキングは、「既存の固定観念にとらわれず、新しい真理を発見したり、新しい領域を開拓したりするには不可欠の思考法」である。
 仏教の領域でいえば、「善人なほもて往生をとぐ いわんや悪人おや」と喝破した偉い人が、昔、日本に現れたことがあるが、この思想も、クリティカル・シンキングの典型といってよいのである。

 冒頭に、「日本から来る研究者はクリティカル・シンキングが苦手」と書いたが、そもそも、教育の場で、クリティカル・シンキングができない人が教える立場に立っていることがその原因の一つではないだろうか(少なくとも私の時代、大学の医学部には、目下の人間から診療方針についての疑義を呈されて「生意気なことを言うな」と怒る教官がいたものだった)。

 医学部に限らず、「クリティカル・シンキングは、教育にあって一番重要な部分」と私は信じているのだが、最近、米国で、「クリティカル・シンキングを教えることを禁止する」と、今年11月の選挙用公約に掲げる政党が現れた。

 公約に掲げたのは、テキサス州共和党だが、その理由は「子供がずっと信じてきたことに対する疑いを奨励し、親の権威を損なうから」というものだった。
 テキサス州では、共和党が、すでに、知事の座だけでなく、州議会も圧倒的多数を押さえているだけに、この公約が実現される可能性は極めて高い。
 「テキサスにだけは住みたくない」と、私が思う理由の一つである。
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