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もうすぐ北風が強くなる

百人百話:山下氏は政治家、外はレントゲン室の10倍

百人百話:2011年9月1日収録    書き起こし「ぼちぼちいこか」氏から

 郡山市で開業医をやっておりますタネイチヤスユキと申します。
 46歳です。
 家族は、今現在、両親と妻と子供が女の子3人ですね。
 一番上が中学生、二番目が小学校4年生、一番下が4歳です。

Q.震災当初の状況

 震災当初は、診療中でちょうど午後の診察が始まった直後くらいです。
 まず、その時はここで患者さんを診てまして、で、患者さんに注射しましょうかって促した直後だったんですね。で、患者さんをまず安全を守っていただいて、医療機械を壊れないようにっていうことで、ある程度セッティングをして、その後、ちょっと受付の方がどうなってるのかっていうのを見に行ったんですが、それまでは比較的冷静に動いてたんですけれども、そこからですね、カルテ棚がもうびっくりするくらいに揺れてるんですね。
 うちのスタッフが皆、揃ってカルテ棚を押さえてるっていう状況。
 本来震災の時に、もっともやってはいけないことをやってたんですが、正直な話、まぁ僕もそこに一緒になって押さえてたといった形ですね。
 まぁ今から思うと非常に愚かな行為だったと思うんですが。
 受付の部分からは、待合室の患者さんが見えますので、待合室の患者さんに声を掛けながら、なるべく心配させないようにというふうに話をしてたんですが、それでもあまりにも長い地震だったので、流石に・・・、心の中で「いい加減とめてくれ」と、いうふうに思ってました。
 まず、待合室のテレビを患者さんにはとりあえず診療は今日は終わりにしますというふうにお話して、帰る準備をしていただいてる間に、一緒に診察室を出て、待合室のテレビを見てたんですね。
 そしたら、まず津波が大きく襲ってきて、その直後にはコンビナートの爆発の映像が入ってきて、っていうふうな形で、「大変なことが起こってるな」というふうに感じました。
 まぁ、あの、どうしても福島県の人間っていうのは、地震保険がもっとも安かったので、この辺は。要するに「地震は来ない」と。
 今、原発のほうの話で考えても、福島原発は地震の確率ゼロって言われてたんですね。
 で、実際僕らも地震は来ないだろうと思っていたんですね。心の中で。
 あれだけ大きい地震が来てたのにもかかわらず、恐らくここにこれだけ大きいのが来てるってことは、もっと大変なところがあるに違いないって考えてたんですね。
 ところが、まぁしばらく様子を見てるうちに、東北地方全域が大変なことになってるっていうことで、自分たちが一番渦中の人間だったっていう・・・、後で気づいた。
 ただ、実際問題として、非常に大きい地震だったので、僕の仕事上やるべきことは何なのか?っていうのをその場で考えたんですが、自分の診療所の患者さんに関しては、皆安全に帰っていただいたので、それでとりあえず義務は果たした。
 まず、スタッフも家族が心配だろうと思うので、まずとりあえず一度、予約の患者さんとかには全部連絡をして、あー、でも連絡つかなかったかな、あの時は。つながらなくて・・・。
 で、とりあえず診療所を閉めて、スタッフそれぞれ家に帰って、まず自宅のことを見てくださいと。
 私は、家族とたまたま連絡がついたので、一応整形外科医という職業柄、当然一番外傷患者というものに対して対応しなきゃいけないということで、この辺の一番の救急病院に向かったんです。
 もともとそちらで僕働いてたんですけど、

Q.それは呼ばれたんですか?

 いや、呼ばれたわけではなくて、直接、自分の意思で行ったんですけど。
 家族にちょっと声かけて、
「恐らく2,3日帰ってこれない。恐らく病院で泊まり込みで手術をずっとやり続ける話になる」
っていうふうに言い残して、出かけたんですが、救急外来の先生とかも皆知り合いですから、「どうなってますか?」っていうふうに話を伺いに行ったんですが、その時に、意外にけが人がいないんですよ。意外にっていうか、ほとんど全くといっていいほど、手術が必要な患者さんというのはいらっしゃらないということで、実は、その整形外科医、そこの病院不在、半分くらいは学会で不在だったんですけれども、やはり、外傷患者もいないということで、「とりあえずここはいいよ」っていうふうに言われまして、それで結局自宅に帰ったんですね。
 じゃあ自宅に帰って何をしたかっていうと、結局、当面の食べ物とか飲み物とかを確保しなければいけないってことで、周り、お店屋さんとか見に行ったんですが、当然のことでやってない。
「ガソリンを入れなきゃな」
っていうのも、ちょっと思ったんですが、ガソリンスタンドもことごとく閉まってる。
 びっくりするような勢いでモノが無くなっていくんですね。
 翌日になったら何とか収まるだろうと思ってたんですが、翌日になると益々ひどくなっていくと・・・。
 どんどんどんどんモノが無くなっていうような中で、家も小さい子供が居ますので、なんとかうちのものだけはと思ったんですが、たまたま買い置きがたくさんあったんで、そんなに並んでまで買わなきゃいけいけないっていう状況じゃなかったんですけど。
 3.11金曜日でしたよね。
 土曜日は、一応診療所を休診という形で、日曜日、そして月曜日っていうふうに進んでいくまでの間に、12日の、あの・・・原子炉の爆発ですよね。ありまして、
「本当に大丈夫だろうか?」と。

Q.それは何で知りましたか?

 やはりテレビでしたね。
 その後、最初、
「水素爆発だから、大丈夫だ」
っていう話を聞いたので、それなりになんとなく安心してですね、月曜日にはとりあえず一度診療所に集まろうって決めてたので、月曜日に診療所でスタッフ全員集まって、
「じゃあこれからどうしようか?」
っていう話をして、
 とりあえず目の前で診療所に来てる中でも、救急な処置が必要な方、あと薬が切れては困るような方をとりあえず呼び出しかけて、それで、その後、午前中いっぱいでそういう作業を終えて、午後はまたとりあえず閉めましょうということで、その後また外傷患者とか来てるんじゃないかということで、僕はまた救急病院に向かったんですね。
 ところがやっぱりそこでも、救急患者さんとか居ないということで、とりあえず、その
「火・水と二日間休みにしましょう」
というような話をして、それまでの間にみんな体制を考えましょうっていうふうに、スタッフとも話してたので、僕はその二日間を利用して病院にこもるつもりでいたんですが、なぜかやっぱり必要とされなかったということで、
「じゃあ、何をしようか?空白の二日間」
と言ったときに、やっぱり子供を守るしかないというふうに考えた。
 14日、その月曜日の状態で、3号機が爆発して、その爆発したのをスタッフ皆で見守ってびっくりしながら、とりあえず自宅に皆わかれたんですけど、その後、
『本当にこのまま居ていいのか?』
というふうな疑問を感じまして、テレビを見ているうちに、私の先輩からも
「そろそろ避難を考えたほうがいいんじゃないか」
という連絡が入りまして、彼は
「15日の朝、新潟に出る」
というふうな話をしてたんですね。

Q.その方も福島県内の方ですか?

 はい。 福島県の人間で。
「新潟までのルートは恐らく大丈夫だ」というような情報が入った。その時に。
 僕は、実は、どっかに逃げるにしても途中で道路が駄目になってるんであれば、逃げた途中でまた地震にあって、またひどい目に遭うんじゃないかと考えてたので、動かないほうを最初選択してたんですけど、「どうやら新潟まで大丈夫だ」というような情報が入ったので、新潟まで高速は止まってたので、止まってたというより通行止めになってたので、下道で向かおうというふうに、じゃあ15日に一緒に行こうというふうな話にしてたんですね。
 ところがなんとなく胸騒ぎがしまして、テレビを見てると、夜中に向かってですね、
「空港のほうから臨時便が出ます」
と・・・。夜に向かってどんどんどんどん、何か東京方面に移動しなさいみたいなサインが出るんですよね。
 新幹線も郡山からは走ってないんですが、隣の隣の那須塩原からは東京まで出るというふうな情報が入って、
「これは、恐らく『頭のいい人間は気づいて逃げてください』っていうサインだ」
と思ったんですね。
 それで、僕は14日の夜中1時に出ようと決断しまして、親も起こして、夜中の3時に新潟に向けて出発しました。
 妻の実家が金沢だったんで、金沢方面にということで、今となって考えると、非常にいい選択だったんですけど、方向性も時期も。

 そういう形で、とりあえず一次避難という形になりました。

Q.テレビ以外の情報は入手しましたか?

 ちょうどですね。震災の直前から、私FACE BOOK始めたんですね。フェイスブック、使い方も判らない状態で、何か情報を仕入れられそうなんだけど、判らない・・・、ということで、
「じゃ、ツイッターだったらもうちょっと簡単じゃないか?」
っていうことで、実はスタッフと別れる時も
「とりあえずツイッターをやろう」
ということで、判らないかもしれないけど、
「みんなツイッターやろう。これでお互いの情報を仕入れて、お互い動きましょう。」
っていうことで、それで別れたんですよ。
 ですから、よく考えてみると、ツイッターはやってました。
 ダイレクトメッセージとかに関しては、使い方が正直なところわからなかったです。ですから、使えたか使えなかったか?っていうところも判らなかったと。
 だから、本来の個人個人の情報の伝達はメールでやってました。
 そうするとメールの場合は、下手すると2日かかって届いたりとか、いうふうな状況で、なかなかこう、うーん、うまくリアルタイムに伝わらないという状況でしたけど、なんとかそれで通信しながら。
 僕は、新潟に行くまでの精神状態っていうのは、非常にものすごい追い詰められた気持で・・・走ってて・・・。走ってる最中に、この、また、地震速報が来るわけなんですね。
「やった!これで新潟まで出たぞ」
っていう時に、津波が来ますっていうのを聞いた瞬間に、
「あぁ、もうダメだ」
って思ったんですけど・・・、うーん。
 その時のダメだと思ったのは、地震と津波ですかね・・・。はい。

 原発に関しては、「ここまで来てれば大丈夫じゃないか」というふうな、甘い感じがありましたね。新潟のあたりでは。はい。
 ただ、ちょっと走ると今度刈羽原発があるので、ここで地震が来たら、次にこっちの原発がやられるのか?っていう感じはありましたけど・・・。
 僕は直接、子供たちをおいて直ぐ帰ってくる予定で考えてたんですが、やはり子供たちの精神状態が、余震の繰り返しと、水が出ないストレスと、いろんなことがこちらに避難する直前の3日間の間に、ものすごい子供たちのストレスがあったので、「僕が帰る」って言うと、もう泣き出すんですよね。
 それで帰れない状態になってしまって、結局、私が帰ってきたのは、3月22日ですかね。連休明けです。
 石川県の金沢市なので、正直な話、全く地震も何もないわけなんで、周りの人たちも全く危機感はない。しかし物は無い。買い物に行くと・・・

Q.奥さんの実家なんですよね?

 はい。
 買い物の行くと、お店には懐中電灯は無ければ、電池も無ければ、ガスボンベも無い。
灯油缶も無い。ガソリン缶なんか当然売ってない。
 あまりにもモノが無くてびっくりしましたけど、日本中からモノが無くなってるんだってその時には気づきましたけどね。
 カップめんも売ってないですね。

Q.いつ頃から原発事故の状態がわかってきましたか?

 やはり避難先でテレビを見てる。
 結局テレビになっちゃうんですけど、テレビで次々爆発する、爆発は実は、移動中に経験してたんですけど、どんどんどんどん爆発していくので、
「早く皆逃げろ」
って一生懸命メール打ってたんですけど、それが伝わらない。
 避難中の車の中でラジオで聞いてたのが、一番、一番なんか・・・入ってきた・・・、
「もうダメなんじゃないか」
っていうふうに思ったときでしたね。
 要は、金沢に向かってた時っていうのは、14日の深夜から15日の朝にかけて、昼間にかけてなので、ちょうどその時に、次々と爆発があったんですよね。
 で、2号機の・・・、サブチャンバーでしたっけ、それが爆発したりとか、4号機が火災を起こしたとか。
 流石に
「一基だったらなんとかなるんじゃないかな」
っていう、ちょっとした気持ちはあったんですが、四基いっちゃってるっていうのを考えた時に、
「もう福島帰れないんじゃないか」
っていうふうに僕はそこで思いましたけどね。

 で、逆に残してきたスタッフたちに、「さすがに3時にお前らも出ろよ」っていうのは言えなかったんで、『ものすごい申し訳ない』っていう感じがして、
「とにかく、何とかしてこのメールが届いてくれ」
っていうふうに思いながらメール打ってた・・・覚えがありますね・・・。
 まず、一番最初に必要なものは、放射線の測定器が必要じゃないかと思って、ネットでまず、何とかして手に入んないかと思って、やってみたんですけど、やっぱり手に入んないんですよね。あの当時は。
「それはしょうがない」
ということで。
 22日に帰ってくる決断をしたのは、スタッフを残しているっていうこともありまして、あと、スタッフが
「いつ始めるんですか?」
というふうな連絡も来まして、流石にほっとくわけにはいかないと・・・、本当にそんなふうな感じで帰っていいのか、悩みましたけれども、やっぱり帰らなければいけないんじゃないかというふうに考えて、帰ってきた。
 その帰るにあたって、ガイガーカウンターをなんとかして手に入れたいと思ったんですが、やはり手に入らず。
 郡山から何キロですかね。20㎞ほど西の方にある猪苗代の、最初避難のきっかけになった先輩の診療所には、なぜか北里研究所がシンチレータ式のガイガーカウンタが届いて。
 それで、ちょうど帰りに新潟方面から帰ってくるときに寄って、ガイガーカウンターっていうものが手に入るものなんだっていうふうに見かけながら帰ってきたんですね。
 ただ、そこも箱に入ってたので、
「箱の鍵が届かないということで、ココにあるんだけど使えないんだ」
っていうふうな状態でしたけど。
<苦笑>

Q.『鍵が届かない』っていうのは、どういうことですか?

 鍵を掛けてたのを知らない、忘れて、多分送られてきたんですね。かかってないと思われてたんですね。送ってきた方は
 こちらに戻ってきて、とりあえずスタッフ集まって、
「出れるものだけ出てください」
っていうふうな形で、
「逃げたい人は逃げてください」
っていうふうな形で僕は考えてたので、7割くらいのスタッフで診療を始めたんですが、当然患者さん、来ないですよね。通常の半分以下っていうふうな状況ですね。3月再開直後は。
 来てる患者さんたちも、皆ビクビクしながら来てるわけなんですね。
 余震もありましたし、診療中もまた余震が起きてっていう状態だったので、非常に腰の据わらない状態で仕事をしてました。
 やはり、再開後は確か、ネットも結構普通に使えるようになってたんですね。地震直後はほとんど使えなかったんですけど、インターネットの中で、どんな情報が出てるのかなっていうのをいろいろ調べてきましたが、郡山市っていうのは、当初空間線量の測り方が同じ福島県内の他の市町村に比べると、他の市町村は、地上1mで測ってたんですけど、郡山市に関しては、3回測ってたんですね。
 だから全く数値が他のところと違って、妙に低いんですよね。
 それで安心してた人たちも結構居たと思うんですけど、確か、21か22か23、そのあたり、ちょうど僕が帰ってきたあたりに、地上1mで測るようになって、数値が三倍近くに跳ね上がったんですね。その時に、
「あぁ、やっぱり福島市も郡山も同じようなもんなんだ」
っていう認識をして、その時には、ちょっと皆危機感が高まったんじゃないかなと思います。
 インターネットは、武田先生のブログはよく見てましたね。
 結局、何が正しいことを言ってるのかっていうのを選んでいくと、武田先生の話が、一番信ぴょう性もあるし、それなりに安心できる話も出てくるしということで、小出先生の話は、あまりにもこう・・・、怖い話・・・なので、できればそうじゃなければいいなって思いながら見てましたね。
 それでも見てましたけど。
<苦笑>

Q.インターネット情報

 その当時、インターネットを見てたのは、そういう深刻な話を載せてるモノをなるべく見るようにしてたんですね。
 だけど、じゃあ世の中で何が行われてたかっていうと、私が帰ってきたとき、すぐ直後にですね、長崎大の教授の講演会があるということで、その時は、高村先生の方の講演会が郡山でありまして、それに一般市民も混ざって僕も聞きに行きました。
 確かに語り口も非常に柔らかくて、ものすごい攻撃的な質問に対しても非常に紳士に答えてるってことで、それなりになんとなく説得力はあるんですが、ところどころおかしいんですよね。話が・・・。

 質問されてる方たちが、現実問題として、本来・・・牛に室内の稲わら、牧草とかそういうものしか食べさせてないにも関わらず、牛が危ないっていうふうな話が出てきて、牛乳からも放射性物質が出てるというふうな話が、多分ちょうどその頃出てたと思うんですよ。
 その時に農家の方は、
「この牛は、空気と水と牧草、全部俺らと同じものを食わせてる。っていうことは、俺らもそうなんじゃないか?」
っていう質問を投げかけたんですが、長崎大の教授は、長崎の風土と思って言ってしまったんだと思うんですが、3月22日は、郡山近辺は草生えてないんですよね。
「外の草が頭だして食ったんだろう」
というようなことを言われてましたが<苦笑>
「外の草を牛舎から顔を出して、外の草を食べたんでしょう。そのために外の草とか外の土から放射性物質が入ったんでしょう。」
って答えたんですが、どう考えてもそんなに有り得ない話なんですよね。


Q.当時の郡山はどんな状態なんですか?

 当時の郡山は、時々雪が降るような、そういうふうな非常に寒い。
 それでいて、燃料も手に入らない。
 皆もう震えるような状況でいましたね。
 そこの会場も、ビックパレットっていうところなんですけど、非常に大きい体育館みたいな、あれは定時制高校の体育館でやったんですけど、非常に寒くて、
「その寒さで草が生えてないっていうのが気づかないのかな?」
って、ちょっと僕は思ったんですけど。<苦笑>
「でも、やっぱり長崎の先生だからそういうふうなことを言われたのかな。そうするとやっぱ整合性が無いな。ちょっとおかしいぞ」
っていうふうにそこでは気づいてましたけど。
 郡山市っていうのは、比較的山下先生とかの話が、講演会とかが少なかったんですね。当初。
 福島市内はかなりやってたと思うんですね。
 あと、福島県立医大周辺では。
 だから、どうしても福島と郡山との間で危機感が乖離してる事情っていうのは、その非常に危険な時期に、
「安全だ」
っていうふうな話を非常に言われてたのは、福島市周辺なんじゃないかと。
 郡山市は、少しそういう情報が後手に回ってたので、逆にちょっと心配だっていうふうな話のほうが強かったのかなっていうふうに、今では思ってますけど


Q.今もその影響は出てるなというふうにお感じになってますか?

 それは、非常にあると思います。
 やはりそういうふうな宣伝がうまくいってたのかなというふうには思います。


Q.山下教授の発言に対して

 それが、『安心でパニックを起こさない』っていうふうな意味で良いっていうふうに先生は言っておられますが、その『パニックを起こさない』っていうふうに考えるのは、『政治家の考え方』。
 『医師が話す話』じゃない。
 某テレビ局の取材のカメラの前で、
「なぜ福島市の人間を避難させないんですか?」
というようなことを聞かれて、
「じゃあこれだけの人数、どこに避難させるんですか?」
って答えていた映像が・・・、あれはYOUTUBEだったと思うんですが、そこに入ってたんです。
 それを見た瞬間に、
「あ、この人は『医者』じゃなくて『政治家』なんだ」
と、いうふうに私は感じましたね。


Q.同じ医師として思うこと

 それは、私は違ったことを考えたと思います。 
 もし同じ立場でいたら。
 しかも、知識も過去の事例から学んでる人間なわけですから、僕があの時点で同じ立場であったら、まず、ヨウ素剤を配ったと思います。
 それが第一歩だと思うんですよね。
 ヨウ素剤を配ることによって、ある程度の安全マージン、時間的なマージンが得られるわけですよね。24時間から48時間くらいは、ある程度ヨウ素を防御できる体になるわけなんで、そういう状態を作って、
「時間的な余裕は十分あるんだから、ゆっくり避難しましょう」
というふうに話をするべきだったんじゃないかなって僕は思ってます。
 それは、僕の個人の考えですけど。
 なぜかというと、やはり『医師』っていうのは、そこの患者さん、目の前の患者さんもそうですし、地域住民の健康を守るのが仕事なわけで、その健康を守ることがオーバーだろうが何だろうが、守るほうが先決だと思うんですね。
 それが『医師の役目』であって、それをやってモノが手に入らないという場合にでてくるのが、政治家の話である。
「じゃあ配分できないから、どういう人に配分しましょうか?」
そういうことを考えるのは政治家で、勝手にやってくださいと。

 だけど、我々は目の前にいる人に対して、それを与えないということ自体が・・・、僕の医師としての考え方は、「おかしいな」というふうにしか思えないですね。
 3月末の時点のことを思い出しますとね、まぁ、『安全だ』っていう話は、それは間違いだろうというふうに、講演会の直後はやはり『安全だ』と言われると、非常に安心するんですね。私もちょっと一瞬
「あ、そうなのかな」
って思いました。
 だけど、やはり「ちょっとおかしいぞ」というような気持ちがあったので、そこの部分をネットで調べていくうちに、明らかにおかしいというふうに思い始めまして、その講演会を聞いて1週間はなんとなく安心な気分でいたんですけど、その後の1週間過ぎた後は、
「明らかにこの人たちはダメなんだな」
っていうふうに、
「違う人たちなんだな」
っていうふうに気づきましたけどね。
 『安全だ』って言われて、僕が最初に見た講演会でも、みんな安心して帰っていきましたね。ほとんどの人が。
 僕は、その先生の語り口が、非常に紳士な語り口だなっていうふうにだけは感じましたけど、山下先生は、逆にインターネットで見て、
「あ、そういうことを言ってるんだな」
っていう情報だけは仕入れましたけど、当然、やはり同じ医師なんで、おかしい人だとは思いたくないので、最初やっぱり
『100mSvまで安全です』
っていう言葉は、それはやはり言い過ぎだろうと、ただ
『100mSv以下では、医学的に危険性が指摘できるエビデンスがありません』
みたいな、要するに『わかりません』っていうふうに答えるのが、本来のスタンスだったんじゃないかなと、それを『わかりません』じゃなくて、
『安心です、安全です』
っていうふうに言ってしまったっていうこと自体は、やはり「『政治家』なのかな」っていうふうには思いました。


Q.医療組織などからの影響

 うーん。
 基本的に開業医っていうものに関していうと、個人の付き合いでやってることのほうが多いので、大学病院は正直な話、あまり関係ないですね。だから、
「開業医の人間が、ある程度自由なことを言える医師なのかな?この地区では」
というふうには思います。
 病院の医師っていうのは逆に、やはり医局からの派遣っていうふうなものが非常に大事なので、大きな輪を見だすわけにはいかないわけなんですね。
 大学病院と関係ない、郡山市っていうのは大学病院ありませんので、大きい病院3つありまして、その3つとも私立の病院なんですね。そこに派遣されてる医師たちも県立医大だけじゃなくて、東京方面の大学から来てる医局も何か所かありますね。
 だけれども、病院全体として県立大が占める割合が大きいので、やはり発言にある程度制限がかかるんじゃないかなというふうには感じられますけれども。
 僕は一応チェルノブイリの時も、かなり危機感を持って学生時代を過ごしてたので、今回、正直な話、4基の原発が爆発した時点で、
「こりゃもうダメだ。もう日本終わったんじゃないか」
というふうに、子供たちの顔を見て、
「非常に申し訳ないな。我々の世代が、今世の中を動かしてると思うんですけど、我々の世代が、この日本を壊してしまったんだ」
っていうふうに、思いました。
 で、もうその時点で
「終わった」
って僕は思いました。
 こちらに帰ってくるにしても、もう家族とはもう会えないだろうというふうな気持ちで、僕は帰ってきました。


Q.相当深刻に考えてたんですね。

 でも、今、なぜか家族も帰ってきてしまってるんですけどね・・・。

Q.ご家族はいつ戻られたんですか?

 家族が帰ってきたのは、僕が某中学校の校長先生と個人的に知り合いで、その校長先生に
「福島県こういう状況なので、新学期はゴールデンウィーク明けから始めるように、なんとかなりませんか?」
というふうに、ちょっとメールを打ってみたんですが、その方非常に紳士な方で、いろんな意見を取り入れてくださる先生なんですが、その先生ですら、
「今、この段階で5月まで待つ客観的な理由がない」
というふうにあっさり返事が来まして、そうなると、その新学期に合わせて帰ってくる意外無いかということと、あと、一番上の子供は小学校6年生だったので、卒業式があったんです。
「もうどうしてもそれには出たい」
ということで、結局それに合わせて帰ってきたということで、4月の初旬、3日か4日に帰ってきましたね。
 本当は僕は帰ってきてほしくなかったんですが、そういういろいろな事情がありまして、帰ってきましたよね・・・。
 だから、僕が思ってたほどひどい状態じゃないというふうには思いましたね。
 僕は、
「世の中終わった」
というふうに、正直な話思ったんですけど、しかも日本中が地震活動期に入って、今現在でもそうだと思うんですけど、じゃあそれで金沢に避難して、安全か?っていうと、まぁすぐ近くにもんじゅがあるわけなんですね。志賀原発もあるわけなんで、そういうのを考えると、
「果たして本当にそこで避難して、それで安全なのか?」
 あんまりそういうこと言っちゃうと、そっちでもそういうことが起こる可能性が出てくるんで、僕も正直な話、言霊的に言いたくないんですけど、でもそういうところまで閑雅て、今現在家族を避難させてない理由は、実はそういうところもあるんですね。

 だから、夏休み中一次避難ということで、もう一度金沢のほうに家族を送ったんですけど、その時の私のこちらに居ての心理状態としては、非常に安心した心理状態にはありましたね。
 帰ってきた途端に、またちょっと心配にはなりましたけど。

Q.子供にあらわれた心身症状

 うちの子供たちは幸いにして、あまりないですね。
 鼻血に関しては、うちの子供も出てたんですよ。
 ただ、地震の前も出てたんですよ。だから、これは原発のせいなのか、それとももともとなのかっていうところの区別が、正直なところ、つかなかった。
 ただ、原発事故の後からの鼻血の量は、ちょっと多かったっていうふうな印象がありましたね。
 そこはもう心理的なものが働いて
「関係ないんだよ」
って、自分にふたを閉めてたところもあるかもしれないですね。
「前も出てたんだから大丈夫だ」
って思ってしまってるところもあるかもしれないですけど。
 私が震災直後から現在まで見ていて、これは放射線障害かなっていうふうに考えられた患者さんっていうのは、実は居ないんです。うちに来てる患者さんに関していうと。
 ただ、単純な事実だけ、一つ言いますと、甲状腺が腫れてきた方が二人いらっしゃいました。
 まあここで私開業してから6年目になりますが、その6年間のうち、今年2例あるんです。それは、事実ですね


Q.それまでは居ない?

 居ないですね。それまでは。

Q.お若い方なんですか?

 えー、1人は30代、1人は10代ですね。
 そうですね、首がおかしいとか、首が痛い、なんか違和感があるっていうふうな形で、整形外科にいらっしゃる方が、たまにいらっしゃるんですね。
 それで・・・、その二人はいらっしゃったのかと思いますけども。
 ま、ま、多分僕が実際に患者さん診てて、そういうふうな人たちがあまりいないというようなことで、でも、やっぱり危険性は高いんだろうと。多分危険・・・度がはっきりしてくるには時間がかかる。
 ということであれば、
『如何に危険なのかっていうことを、世の中の人に知らしめなければいけない』
というふうに、まぁそれが僕らの仕事なんじゃないかっていうふうに、今は考えてるんですね。

 そのために、ガイガーカウンターを使って、僕が帰ってきた当時も、外で子供たちが遊んでたりもしてたんですよね。公園で遊んでたりとか。
「これは、多分大丈夫じゃないだろう」
というふうには考えてたんですけど、その時には持ってなかったんですよ。
 注文して1か月半かかるということで、5月の連休くらいには来るのかな?と思ったんですけど、連休明けに届いたんです。
 そこから周りを調べてみて。
 その当時は、数字の小さいやつは手に入らず、こんな大きいやつですね。

Q.どういうタイプのものですか?

 これはシンチレーション方式で、アナログなんですけど、シーベルト単位では出ないんですけど、cpsで出るタイプです。
【参考】計数率
液体シンチレーションカウンターやガンマカウンターで得られる測定値は、計数率(cpmまたはcps)として表示されます。この計数率を計数効率(e)で割ることにより、絶対的な放射能の単位に変換することができます。
cps x 100/e = dps = Bq
cpm x 100/e = dpm
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/nuric/docs/RI3.html

Q.何製?どこ製?

 これはアメリカ製のものです。

Q.おいくらくらい?

 約30万ですかね。
 ただ、これのいいところは、持っていってその場で数字がすぐ出るということなので、一般的なデジタルタイプよりも測定速度が速いってことですね。
 それから車で走っていて、トンネルの中入ったらすぐ落ちるし、例えば公園で滑り台の下に持っていくと一気に上がっていくんですね。
 汚染度が高いのは、やっぱり公園ですね。
 公園、草がある場所。
 それでもしかも、皆さん言われるように、水が溜まるところ。
 やっぱり一番高いのは、滑り台の降りたところの降りた一番下の部分なんですね。子供たちが滑っていって手をついて立ち上がる、その手には、どれだけついてるのかっていうくらいの数字が出てくるんですね。

Q.例えばどのくらいの数字?

 すぐ近くの公園で、えーっとほかの部分が高いところで6マイクロっていうときに、滑り台の下は8マイクロでしたね。6月の時点で。
 今は測ってませんが、公園周辺を車で走るときに数値を見ると、恐らくちょっと下がってます。
 ただ、もうすぐ郡山市が454の公園、全て表土除去するというふうな計画になってるので、この表土除去したあとの結果をまた調べて歩こうかなとは思ってますけど。

Q.子供たちに注意していること

 子供たちは、やはり外に出るときは、長そで。マスク。マスクがどこまで意味があるのかっていうのは判らないですが、やらないよりはやったほうがいいだろうということで、マスク。
 食べ物に関しては、なるべく県外産をっていうふうに選んで、子供たちにも
「水たまりに入っちゃいけない、草触っちゃいけない」
 本当は一番やりたいことを「やっちゃいけない」っていうふうに言ってること自体が、『異常な世界』だなと・・・。
 僕も公園調べて、公園に子供が来ないようにした張本人の一人なんですけど、公園に子供が居ない風景というのが、こんなに気持ち悪いものなのかっていう、そういうふうな非日常的な状況が、郡山市では日常っていうふうな状況ですね。


Q.放射線管理区域について

 整形外科の医者っていうのは、非常にこう、放射線、レントゲンを扱うことが非常に多いので、整形外科の医師同士のメーリングリストっていうのがありまして、そちらのほうでレントゲン室の中は、鉛でシールをされてるので、核シェルター的な、ミニ核シェルター的な意味もあって、中は低いんじゃないかっていうふうに話されてたんですよね。
 実際に測ってみると、あの・・・、放射線管理区域の中っていうのは、レントゲンを僕らが照射することによって、放射線が1次上がるわけですけれども、そのためにこういうふうに管理区域というふうに指定されてますが、実際、室内が常に高いかっていうとそういうわけじゃないんですね。通常の室内と同じ状態なので、何もなければ、外界と通常の室内と、あまり変わりがないというふうな状況ですけど。
 今現在の郡山市では、外が、このガイガーカウンタで測ると1マイクロ弱。
 室内に入って測ると、0.3くらいですね。
 レントゲン室で測ると、逆に0.1とか、そういうふうに管理区域のほうが低いという、非常に異常な状況です。


Q.10倍?

 そうですね。
 一人の親として考えれば、うちの子供たち、全員女の子なので、どう考えても1年2年の間には、避難、恒久的な避難をさせなければいけないんじゃないかというふうには考えてますね。
 じゃぁその時に、ここをどうしようか?ってことになると、非常に悩むところですけれども、患者さんもいますし、辞めるわけにもいかないですし、スタッフの生活もありますし、私の生活もありますし。
 ということになると、家族を外に置いて、ここで働くために残るというような形が、とりあえず一つの妥協点なのかな?っていうふうには考えてます。
 いろんな意味で妥協点を見つけると、多分会津あたりが一番、いいのかなというふうなところなんですが・・・、うーん・・・。そこは非常に難しいところなんですよね。
 会津だと確かに、僕もすぐ行ける距離ではあるんですけど、ただ、まぁ・・・、あの、女親一人だけっていうふうな状況で、そういう知らない土地に行くっていうのは、やっぱり親のほうにしてもプレッシャーがあるだろうし、子供たちも不安だと思うんですよね。
 そういうのを考えると、やはり妻の実家の金沢が一番無難な線なのかな?
 ただ、先ほども話しましたが、金沢も志賀原発がありますし、原発銀座が隣にあるわけなんですよね。

Q.日本中にある原発について

 まず、原発っていうことに考えていうと、ドイツの考え方が正しいだろうと。どう考えても、もうどうしようもないものなワケですよね。手におえないものになってるわけなので、
「なんでドイツがああいう判断ができるのに、日本が出せないのか?」
っていうこと自体が、もう正直な話、『民主党が悪い、自民党が悪い』の問題じゃなくて、政治家が狂ってるとしか思えないですよね。
 あの、まぁ、自分たちの利権というようなことで考えるのであれば、利権を守ったところで、住む土地が無いという状況をどう考えるか?ってことですよね。
 そんなに守りたいものなのか?っていうところ。非常に考えるんですけど、電気なくても生活なんかできるわけですからね。
 で、原発立地の町長さんなどの批判をするのは非常に難しいところなんですが、発言的に・・・。
 立地町村の方々のお話を聞くたびに、びっくりするような話が出てきてますので。

Q.例えばどういうような話?

 具体的な名前を出したほうがいいですかね?
 それはみんな判ってると思うので出しますけど、ニュースにもなってますから、双葉町長が埼玉に避難していて、埼玉から国会に、
「7号機8号機を作ってください」
と陳情に行ってたというふうな話。
 あと、福島県知事、佐藤雄平さんが、流石に追い込まれて、
「もう原発は動かせない状況になりました。1号機、2号機、3号機、4号機は、廃炉にします。5号機、6号機は考えます。」
っていうふうな結論を出したんですけど、その時にも、その町長は
「寝耳に水だ」
というような発言をされてるわけなんですね。
 で、5号機、6号機がある大熊町長も、何かびっくりするような発言を確かしてたはずなんですよ。
「なぜ自分たちが住めない状況に追い込まれてるにも関わらず、そこまで言うのか?」
 そもそもチェルノブイリの例を考えるまでもなく、双葉・大熊なんて人が帰れる土地じゃないと思うんですね。

 菅総理が最後に言いましたけど、
『30年、しかも3㎞内』
って言いましたけど、小出先生もおっしゃってますが、どう考えてもそんな範囲で済むわけがない。
 これ以上言ってもいいですかね?<苦笑>
 今どうしてもっていうことを考えれば、やはり・・・、何が日本国中、皆さん望んでるか?っていうと、要は、東電の出したごみを捨てる場所ですね。
 もうずーっと前から思ってましたけど、最近やっとで発言できるような空気になってきたので言いますけれども、ゴミ捨て場が無い状態で進んできた原子炉が、まき散らしたごみを捨てる場所がさらにまた無い。
 でも、どう考えても、これだけ汚れてる福島県の中に作るしかないわけなんですよね。
 基地ですら、沖縄から移動させることができなかったわけなんですよね。
 それが、「じゃあうちに置いてもいいですよ」って、青森県が手を挙げるはずがないわけですね。
 そしたら、もう福島県にそういう中間貯蔵施設を作るしかない。もしくは、最終処分書にするしかないと思うんですね・・・。

 そこまで言っていいかどうかは、わかりませんが、ただ、何とかして、こうまとめなければいけないと思うんですよね。
 そうすることによって、何がいいことがあるか?っていうと、福島県の人間にとっても、例えば郡山市の人間にとっては、この辺の除染もできますし、それだけじゃなくて、福島県の人間は食べるものがクリーンなものが食べれる状況を作れるわけですよね。
 それを瓦礫処理だなんだかんだって言って、そこらじゅうにまき散らした場合に、日本中が全て汚染されてしまうわけなんですね。
 そうした時に、じゃあフレッシュな食べ物ってどこにもなくなってしまう。
 そんな状況でいいのか?と。

 今の政治を動かしてる人たちは、全員もう移住するんじゃないかな?というふうに、僕は思ってますけど。

Q.海外に?ってことですか?

 はい。

Q.日本のことを考えてないということ?

 そうですね。
 日本のこと考えれば、まず、考えることは、そうやって汚染物質をまき散らさないこと、どんなに言うこと聞かない知事だろうが、首絞めてでもそこに作るしかないだろうっていうふうに、持っていくのが本来の政治の役目だったんじゃないのかなって僕は思いますけどね。

Q.要するに原発を止めないとですよね。それが前提の話ですよね。

 そうです。
 まず、全て廃炉にするっていうのは大前提ですけど、それで出したごみはちゃんと集めるっていうことですね。
 ソ連ですらやってるわけですからね。それは。

Q.除染について

 まず、国が考えてる除染の考え方が大きく間違えてると思うんですね。
 なぜかというと、彼らは、『高度汚染地区を除染しましょう』って言ってるわけなんですね。
 そんなことできるわけがないんですね。
 できないことを敢えて言ってるということ自体が、おかしい。

 じゃあどこを除染・・・

Q.『できるわけがない』という理由をちょっと説明してください。

 『できるわけがない』っていう事情は、まぁ、いろいろ言われてると思いますが、当然、山・畑、それすべての土をこそぎ取って持ってかなければいけないわけですから、そうなると、もう丸坊主の山がそこらじゅうに出来上がる。そんなことしたら、大災害が起こることを敢えて作ってるわけですよね。
 そんなことをして除染して、何とかなるものなのか?
 正直な話、モノを持っていく場所すらないと思うんですね。
 結局、海にどんどんどんどん流れていく。
 そうなると、逆にもう汚れてるところはしょうがないと。そこから、どのくらい下がって、ここまでだったら何とかなるだろうというようなラインを引いて、比較的綺麗なところを除染するしかないと思うんですよね。

 なんでそういうふうな考え方に発想できないのか?っていうのは、僕は、すごい不思議でしょうがない。
 恐らく、今、移住させられてる人たちに対しての配慮だと思うんですが、多分移住させられてる人たちも、内心判ってると思うんですよね。
『多分、帰れない』
 だけど、誰もその印籠を渡さないで、
『帰れるんじゃないか。』
『2年後には帰る。5年後には帰る』
というふうなことを言わせてしまうのが、いけないのかなと。
 あの、帰りたいっていう気持ちを持つことは、非常に大事だと思うんですが、帰れないものに対して、『帰れますよ』っていうふうな嘘を言っちゃいけないんじゃないかというふうに、僕は思います。
 今も僕の認識では、そうですね。
 浜通りの部分から飯舘村にかけての、あの地区に関しては、もうダメなんじゃないかなって、今の除染能力ではそうなんんじゃないかと。

 自分が郡山に住んでるっていうこともあって、言わせていただきますと、できれば除染してなんとか住みたいっていうふうな希望はあります。
 ただ、やっぱりそこも現実問題に立ち返らなきゃいけないと思うですね。
 現実問題として、僕は、ずっとここの土地に住みたいかっていうと、正直なところ、あんまり住みたくはないですね。
 私自身がもともと郡山の住人じゃないっていうふうなところもあるとは思いますが、正直な話、ここに最後まで住もうっていうふうな気持ちは、無いです。
 ここが除染可能かどうか?っていうふうに言われますと、うーん・・・。
 まあ都市部だけは何とかなるんじゃないか。
 ただ、そうすると山が残るわけで、風が吹いて来れば降ってきますよっていうふうな状況。それをどこまで我慢できるか?っていう話になってくるんじゃないかと思います。
 ここに暮らしていく以上は、ある程度汚れることはやむを得ないっていうふうに割り切る以外にしょうがないと思うんですね。そこをやっぱり如何に許容していくかっていう話だと思います。
 だから、子供たちには、許容をできないんじゃないかと思って、別れて過ごす以外ないのかなっていうふうには考えてますけど。
 そういう意識を持って、この辺の地区には住まざるを得ないのかということだと思います。

Q.広域的・恒久的な除染は可能か?

 わからないですね。
 あの・・・、今現在でも、まだ原発からは飛んできてるわけですよね。
 それが止まった時に、初めてある程度評価できるんじゃないかと思うんですね。
 今現在、実際、空間線量測ってても、ちょっとずつ下がってはいるんですけど、またちょっとすると上がったりとかっていう、やっぱり変動してるんですね。
 チェルノブイリハートのあの、上映会の時は、朝と夜とは違うっていうふうに言ってた方もいましたが、朝と昼の違い、夜の違いっていうのは、僕はあまり感じないんですが、やっぱ日によって違うっていうのはあると思います。天気と関係してるんじゃないかって、前にちょっと統計とってるんですけど、今ちょっとすぐ出てこないんですけど、雨の日が逆に比較的低いっていうふうな印象はありますね。

Q.風ですか?

 そうですね。
 雨で飛んでこないっていうことで、低いのかなっていう感じはしないでもないですね。雨と風と、毎日のうちの玄関のデータはとってるんですけど。

Q.映画『チェルノブイリ・ハート』を観て

 まぁ、僕の家族構成から考えると、チェルノブイリハートっていうのは、二つの問題を出してるのかなと思うんですね。
 今現在の子供たちが甲状腺ガンに罹患して、将来罹患していくっていうことが一つ。
 もう一つは、そのもう一つ下の世代が、奇形児として生まれてくる。
 その二つの問題点が出てるのかなと。
 今現在、この郡山で生まれてきている子供たちっていうのは、まだ正常なんですよ。
 多分その次の世代ですね。
 その次の世代の、健常児が生まれてくるかどうかっていうことに関しては、まぁ・・・、危険性が高いんじゃないか?と考えると、やはりここには住めないというふうに僕は思いましたけど。

 うーん・・・。
 あの中で医師が、心臓の手術をして、
『私は普通のことをしたまでだ。だけれども、ここの人たちにとっては奇跡になってる』
というような話をしましたが、確かに僕らも手術していた時には、僕らはあくまでも治る手助けをしてるだけだっていう意識、決して奇跡を起こしてるつもりはない。
 だけれども、その現場の人間にとっては奇跡だと思ってしまう。
 医者を崇拝するというか、スーパードクターっていうようなテレビもいっぱいやってましたけど、僕はあれはおかしいと。現場の医者がスーパードクターであって、ああいうふうにもてはやされてる人たちは、決してスーパードクターじゃないんじゃないかと思っていて・・・。
 というような部分も医者としての目から見ると、あそこ(チェルノブイリハート)に出てくるドクターは非常にまともな先生だなというふうに思いましたけどね。

 それは全然、普通の人は考えない見方だとは思いますけど、普通の見方として考えれば、やっぱり、その・・・。チェルノブイリから200㎞離れたところでも、ああいうふうに悲劇が起こってるわけなんですから、あの映画を見た直後の一般的な考え方としては、少なくとも、やっぱり金沢以西に逃げたいなと感じると思います。
 ただ、金沢に逃がせない理由は原発があるからなんで、そうなると本当、今どこに行けばいいのか、沖縄に行ったところで、台湾に原発があるわけですね。台湾も地震国なわけですよね。
 どうしたもんでしょう?ってところが、非常にあるんですが。

Q.これから社会に対してどんなはたらきをしてゆくか

 非常に難しいですけどね・・・。
 私自身、ここに留まるかどうかっていうふうな葛藤を感じながら、ここに残っていますので、ここの地域に対して、私はこういうことをやっていきますっていうふうに宣言することは、ちょっとできない。

Q.この地域だけじゃなくても、もうちょっと広げても、日本のどこに行っても。

 日本に対しては、やっぱりどう考えても原発を無くさないといけないと思います。
 それは大前提で、そんなの議論の余地もないと思うんです。
 まず、無くす。
 そこから考えましょう。
っていうのが、一番大前提だと思います。

 当然、核燃料サイクルもいらなくなるわけで、国家予算も浮くわけですね。それで。
 無くしてしまって、何も損はないはずなんでね。
 企業が海外に移転するのは、円高だからなわけで、電力のせいなわけじゃないわけですよね。現に電力余ってるわけですよね。
 僕が医師としてじゃぁ、世の中に何がやっていけるか?っていう話になると、うーん。
 本当は、この原発事故が起きなかったとすれば、僕らは正直な話、農家の人と非常に近い関係にあったんですね。
 何がしたかったかっていうと、薬を使わない治療をしたかったんです。
 薬を使わないで治すっていうのは、要は食生活が一番大事なんです。
 食生活を良くするために、これは、まぁ、ちょっと話がそれちゃうかもしれないですけど、僕がここで理想としてる医療っていうのは、まず薬を使わない。使うとしても漢方薬。治すのはその人の、まずバックグラウンドから全て治していく。身体をいじって治す方法もあるんですけど、ちょっと整体のようなものもあるんですが、それだけじゃなくて、その人自身の体質をちゃんと治してあげる。
 体質を治すっていうのは、身体って何で出来てるか?っていうと、食べ物でできてるわけなんですよね。
 要するにちゃんとした食べ物を食べることによって、身体も良くなっていきますよっていうことを、福島県から広めていきたかったんです。そのためには非常に・・・。

Q.内科の先生でそういうこと言う方、いっぱいいますよね。内蔵の病気、それで治せるっていう意見。整形の先生でも食べ物なんですか?食べ物によって随分変わると?

 それは非常にあります。
 今、(岩上さん)腰痛持たれてますね?
 実は僕は、福島市で初めてお会いした時に、
「あ、腰大丈夫かな?」
って実は思ったんです。
 なぜかというと、やはり内臓のほうの臓器が問題で、内臓を一生懸命働かせてしまうと、その分内臓耐性反射といいまして、背中のほうの筋肉の緊張が高まる。それによって腰痛とか起きやすい状態を作ってしまうんですね。
 だから、まず食生活をなんとかしなくちゃいけない。
 あと、生活もなんとか変えていかなきゃいけないと思うんですけど、多分無理だと思うんですけど<苦笑>

Q.そうなんです。背中がバリバリになって、腰が痛いのは事実なんですよね。それは内臓の働きと関係あるとおっしゃる?

 だから、針治療もいいんですけど、結局対処療法なんですよね。その場その場でなんとかする。だけれども・・・。

Q.除染みたいなものですね。

 そうですね。
 それをやっぱり根本から治すには、薬なんかいらないんですね。
 その人の運動をちゃんとさせてあげること。
 食べ物をちゃんと食べさせてあげる。正しいものを食べさせる。
 そのために自然農法っていいまして、肥料をやらない、農薬もまかないっていうふうな農家の人たちと、ちょうどネットワークを作り始めたところだったんですね。
 結局僕らの目指す医療ができなくなったっていうのが、ここを放棄しようかって考える考えのうちの一つでもあるんです。
 農家の人たちの悔しさっていうのは、僕は全く同じ感情で・・・感じられますね。
 あの・・・、郡山の隣町のキャベツ農家の方が自殺されたっていうのが、一番第一歩だったと思うんですけど、多分そういうような人たち、どんどん増えてると思うんですね。
 福島県以外に少しずつ、そういうふうな自然農法に力を入れている人たちが増えてきてたんですよね。
 せっかくこれからっていう時に、予想もしなかったものが降って来たんで、もう、本当、どうしていいかわからないっていうふうな状態ですね・・・。
 本当は地産地消でやっていくのが一番いいんですけど、もう地産地消なんかできないわけなんですね。
 とんでもない土地になってしまったということで・・・。
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Inside the Meltdown:BBC

Inside the Meltdown 」BBC放送 福島第一原発事故の詳細なドキュメントです(一部内容書き出し) 3/1  kiikochan.blogから

福島第一原発事故を時系列で追いかけていくドキュメントです。
綿密な取材と、日本では放送されていないような映像もありました。
二人の作業員の方、津波でご家族を亡くされた方、
津波を海上で体験した漁師の方
事故の時に子供を身ごもっていた方、
東電職員、菅元総理、
作業に行った時に3号機が爆発した自衛隊の方
ヘリコプターで空から水を撒いた自衛隊の方
夜中に放水をした消防庁の方、

Inside the Meltdown

2011年3月11日

作業員A
比較的仕事がスムーズに進んでいた日でした。
それまで1週間、2週間と大きな地震が続いていて、
我々はそのうち、非常に大きな地震が来るんじゃないかというような冗談を言っていました。
そしてその冗談は現実になってしまいました。
壁に付けられていたパイプがずれて、
そしてそれを固定しているものから外れているのを見ました。

タカハシ:
ずーっと地震が長くなって、どんどん大きくなっていきますから
それでちょっと普通じゃないなと私は思いました。

bbc17s.jpg
ムラカミユキオ:
膝を突いたような状態で手すりにつかまっていた状態。
で、停電が始まって、

タカハシ:
私はプラントは心配していませんでした。
原子力は安全だと思っていましたから。
発電所は結果的にはそうですね、安全ではなかったですね。

pm3時15分
ここの浜は地震が来ると津波が来ると昔から言われているものですから、
港にある自分の船に行って、沖に船を出しにいきました。
我々は、まっすぐ東からきた波を3枚、通り抜けたけれど15メートル位あったなぁ
もう、こんな感じ(すごく高い)だった。
こんな感じで、それ(波)を結局3つやり過ごした。
ただ、後ろの方にも変な波があったから、
ちょっと、「何かがあったな」というのはあった。
何かが、悪さしたのかなと。

ムラカミユキオ:
ここはびちゃびちゃに壊れていて、
すごい事だなという事だけはその時点で感じ取れました。
その他、引いていった波に乗っていった車なり、物置き的な建物なり、
後は5000キロリットルの重油タンクなりが海に持っていかれて、
それが、どんどん沈んでいくのが後景に入っていました。

タカハシ:
非常用ディーゼル装置が、
発電用の装置がやられたとか、
そういったのを聞いた時には、ま「あり得ない」っていうか、ビックリしましたね。

コモリアキオ 東京電力
今までの我々が考えていた部分を、かなり超えた領域に入っていますので
対応そのものが、あるいは対策を取るという事についてはかなり限定された手段になるだろうということは
かなり直感しました。

pm5時
菅元総理
大変深刻なことになって、非常に強い危機感を、その報告を受けた時に持ちました。
地震と津波それ自体も大変な被害でしたし、
さらにそれに原発事故が重なりましたから、
そのままにしておくとですね、水が無くなってメルトダウンすると、
そういう事は分かっていましたので、非常に背筋が寒くなるような気がしました。

pm5時半
キムラノリオ:
沢山の大熊の町民が集まっていて、
とにかくそこでの第一声が3人(父と妻と娘)がいないという事だったので、
うーん、もう、寒くなるようなあれだったですね、すーっと血の気が引くっていうかね。

津波でやられているっていう気持ちにはならないというか、なれないっていうか、
それから、こんどは瓦礫の中、うちの敷地の中だけじゃなくて、部落をずーっと見て回って、

pm11時半
菅:
点いたというニュースが入った時、これで当然つながってですね、
動き出すものだと思って、ちょっと、一瞬ホッとしました。

ムラカミユキオ:
電源装置が全然、水没状態になっていたんですよ。水の中に。
誰もアクセスできないですよ。

タカハシ:
電源を復旧するにあたって、各自のマイカーですとか、公有車ですとか、
そういった車で来られる方の「バッテリーの提供をしてもらえませんか」ということを
事務所の中でもやっていました。

ムラカミユキオ:
圧力なんかどんどん、どんどん上がっていく訳ですよ。
そのころから、まわりは「やないんじゃないの?」「ヤバイんじゃない?これ」

am1時 二日目
菅:
そのまま放置すると格納容器が圧力で壊れてしまうと、
万一壊れると大量の放射能が一気に大気中に出ますから、

全員が、これはベントをやらざるを得ないと。
ベントをやりましょうという事で、「じゃぁ分かりましたやって下さい」と、こういったんです。

ムラカミユキオ:
ベント弁は基本的にモーター弁でMO弁になります。
MO弁ですので電源がなければ普通は開きません。
手動でも開くんですけれども、かなりの動力がいる弁です。

タカハシ:
(放射線の)数値が表示されていることに通常はあり得ない事なので
それもプラントの中ではなく事務所の中ですから。
もう、最悪の状態だと思いました。

ムラカミユキオ:
燃料もある程度溶け始まってきているなというのも、想定していました。
マスクなり、装備は持っていましたんで、
下から持ってきて、隠して足元に置いておいて、
いつでも逃げられる体制を作れるように、もう、しました。

am6時 二日目
bbc19s.jpg

菅:
全員がベントをやるべきだと言いながら、なぜベントが進まないのか、
理由が説明できない訳ですね。
それは東電本店が間に入っているものですから、理由が伝言ゲームで伝わってこない訳です。

ムラカミユキオ:
菅さんは怒っていたと思いますけど、
菅総理が「国が指示出しているのに、何やっているんだ東電は」
必死になって対応しようとしたけどMO弁が開かなかったっていうのが裏にあって、
簡単には開かなかった。
一生懸命やろうとしているんだけど、追いつかなかっただけなんですよね。

菅:
(吉田所長は)分かりましたと。図面を出してこう言っていました。
私としては大変重い決断でありました。
しかし、そうすべきだと思ってそうしました。

キムラノリオ:
明るくなってきて、
その間ずーっと住宅周辺と部落周辺を探して歩いて、
うちの部落の区長さんがきてくれて、
「もう原発がダメだから、離れなきゃダメだ」って説得されて、
残っている人の方が・・・・・・・うん・・・・大事だからって言われて、
そこで、もう…なんていうんですかね、気持ちが切り替わったですね。
あの、むすめ、残った娘(姉のほう)をね、守んなきゃならないっていう事で、
うん・・・・

ムラカミユキオ:
被ばくするのを覚悟で、覚悟でいった人間がいるんですよ
その環境というのは、普通の人間が作業するような環境では全く無いという事は
現場はそうです。
温度は40何度あるし、で、周りは真っ暗で、水蒸気が溜まっているような状態で、
どうせ線量も高いじゃないですか
私だったらなかなか行けないですね。
相当の勇気と覚悟で、彼らは(ベントに)行ったんだろうなというふうに想定します。
自分の命もかかっている事だし、

pm2時 二日目
bbc21s.jpg
ベント成功

タカハシ:
ホッとしましたし、早く原子炉の方が安定をして、
早く、早く出して下さいという、事だけだったですかね。

ムラカミユキオ:
ケツが30センチぐらいドンッ!て浮いたんですよ。
誰も分からなかったです。なんなんだ?地震かな?余震かな?

タカハシ:
余震のような感じでいたんですが、
地響きのような大きな音がドドドドッ!ってきたので、
ドーンッ!っていきましたから、

bbc22s.jpg

ムラカミユキオ:
吉田所長が「これって、1号機爆発したんじゃねぇか?」
で、それからみんな大慌てになって、
逃げようかって、多分思った人はいっぱい居たと思います。
ただし、逃げる手段がなかったんです、もう。
足がないし、走って逃げたら被ばくするし。

吉田:
どういう状況で爆発したのかが、この免震棟では分かりませんから
現場からいろいろと、怪我した人間が返ってくるという状況の中で、
最悪で格納器が爆発しているという事になりますと、色々と放射能が出てくるという事になって、
そこに、コントロールが不能になってという事がありまして、
これで終わりかなという感じがしました。

枝野:
爆発前からの放射性物質の外部からの出方、状況には大きな変化はない。
是非冷静に対応をしていただきたい。
格納容器自体の損傷が認められないという事でございます。
そういうことであります。

菅:
そこに至るまでに於いて、どこまでこの事故が拡大するのかという事を
考えたり、いろんな、その人に一種のシュミレーションをしてもらっていました。
で、最悪のケースはですね、200キロ、250キロという範囲で、
300キロという範囲まで逃げなければならない。
そうなると首都圏が全部機能マヒする。
という事は事実上日本がですね機能マヒしかねないと、

キムラノリオ:
自分の中には、ここにいちゃきっとまずいなという気持ちもあって、
その間に、最近ちょっと話が出ていましたけどヨウ素剤を村の方で配ってくれて、
で、娘に飲ませて、上の娘を安全なところまで運ばなければならない、
それだけだったですね、もう、その時には。
出来るだけ原発から離れたかった。

ヒグチノゾミ:
危ないって、もし仮にそれを発表してくれていたら、絶対別の方向に逃げていたと思うので、
小さい子どもを持つ親としては、やっぱり凄く怒りを感じます。
私はその当時妊娠していたので、
上の子二人ももちろんですし、お腹の子も心配だったので、
とにかく安全なところに行きたいというのが、それが一番で、もう、必死でしたね。

菅:
わたくしとか、あるいは官房長官に、保安院から
「SPEEDI によればこういう結果が出ているから、
逃げる避難の事についてはこれを参考にこうしたほうがいいです」と言うような説明は一切ありませんでした。

生まれた時は本当に感動しましたね
「おお!やったぞ」って
とりあえず手の数数えて、足の指の数も数えて
「ああ、5本5本で10本。両方10本ちゃんとあるなって」

am8時 4日目
イワクマシンジ
どうすればその仕事が早くできて、早く帰れるかという事をその時は一生懸命判断していました。
緊張はいたしました。
大変、やっぱり緊張を、我々は放射線が漏れている汚染地域に入るのは、
じつは、想定した訓練はしているんですけれども、実際に入るのは初めてです
で、まさにこれからホースを接続するために車から降りようとした時に、爆発。
bbc29s.jpg

実は、ジープの上というのはキャビンの布で出来ているので、
それを破るように大きなコンクリートの塊が落ちてきて、
bbc30s.jpg

爆風で、接合部分からは中に放射性物質が入りましたね。
警報も付けていたんですが、それはもう、ずっと鳴りっぱなしという状況でした。
少しでも早く危険なところから離れるという事で、何十重にも運が良かった事が重なりましたね。
本当にラッキーでした。
もう、ラッキー以外、何ものでもなかったと思います。

pm3時 4日目
タカハシ:
対策本部の中での、3号機が爆発した後は
社員の方でも、「もう終わりだな」というふうに、声は小さかったですけど、そう言われる方もいましたし、
「早く逃げなきゃ」とか、「終わりだな」というのはありましたし、

東電 コモリアキオ:
ブラントの状況によっては、一部保安をしっかりと守るという人を除いて退避を検討すると
そういう可能性が出てくるだろうと、
そういうことで検討するという話を国の方にはお伝えしております、

菅:
私自身は撤退はあり得ないともともと思っておりました。
つまり、撤退するという事は、6つの原子炉と7つの使用済み燃料のプールを、いわば、放棄すると。
放棄したらどうなるかというと、全部がメルトダウンしてですね、
まさにチェルノブイリの何十倍という放射性物質がまき散らされることになると、

ムラカミユキオ:
吉田所長は「これから避難を始めたいと思います」と。
で、その時点で吉田さんは覚悟を決めていた。
彼はそこで死ぬつもりだったんだろうけれども、
とりあえず250人を殺すわけにはいかないんで、
で、「帰ってくる」と。
「もう、ここまでやったんだからしょうがない」と。
「これ以上はもう、手段も何もないから」
「帰ってくれ」と。

タカハシ:
発言的にはちょっとあんまりよくないのかもしれないけれど、
私はもう、ホッとしました。
早く出たい

am5時半 5日目
吉田所長が東京に来た

菅:
大変な状況だけども、とにかくここは頑張ってくれと
とにかく放棄なんかできないんだと。
まさに日本の運命がかかっているんだと。
60歳を超えた人達をね、場合によったらそういう人たちが
先頭切ってでもね、多少危険なところにでもやるぐらいの事を作れという事を
かなり強い調子で言いました。

あり得ないと。
いわば日本がですね、見えない敵に
なんていうか、日本の領土をですね、譲り渡すみたいなもので、
もっといえば、それで、起きる影響は日本だけではなくて世界に影響を及ぼしますから。

bbc32s.jpg
ムラカミユキオ:
放射線量がべらぼうに高いですから、
さぁどうしましょうか?
無人君になっちゃう
無人君になっちゃいました。
さあ、どうしましょう。

am9時40分 7日目
ヤマオカヨシユキ
朝に、エンジンかける直前に、妻に電話して、
妻がやはり、「誰かが行かなきゃならないんだったら、一生懸命頑張ってきてくれ」と
「ご幸運を願います」ということで、妻も応援してくれました。
そのとき、妻も泣きながらで、・・・私も少し泣きそうになりましたけれども、

その時はさすがにちょっと、
「来たな―」と、
「いよいよ来たぞ」という、こう、背筋がゾーッとするような感じにはなりましたけど、
私は、線量計を持って、ずーっと飛行感はゼロだったですね。
原発につくまではほぼゼロでした。
ところが、直上に言った途端に、ワッ!っと
線量計がワッ!と反応して、ドッと上がっていったという、

絵は忘れられないです。
骨組が、建物の骨組みが見えていて、
壁があっちこっちに散らばっていて、・・・すごい・・・・
風に水が押し負けて行って、曲がっていってしまいまして、
その状態で水を撒いた。
湯気が見えましたので、「入ってくれたんだな」というのは分かりました。
「やってやったぞ」と
「やったぞ」と
はい、みんなのためにやったんだという気持ちになれました。

pm11時 8日目
カマナカオサミ:
全隊員がさんしょうしてきまして、
まず、40歳以上、放射能という事で40歳以上の、これから子どもを作るとか、
そういう予定の無いものを選びました。
私は家族とは話はしていません。
もう、何時でも、そういう時にはそういう現場に行くと、教育してありますんで。

トミオカトヨヒコ
ただしその放射線量ですか、それが高い低い、
隊員がどういう活動をするか、精神的な面とかも色々と考えましたけれども、
もう、隊員に託すしかなかったので、ですね、
もう本当に、祈るような思いで待っていました。

カマナカオサミ:
福島第一原発についた時には、すごく静かな状況で風もなく
異様な静けさでありました。
まず、目に入ってきたのが、津波で流された色々な漂流物。
それから、道路が激しく歪んで、穴が開いているところもありました。
ここで自分たちがこれから1時間以内にミッションを成功させなきゃならないという、不安もありました。

ー現在400マイクロ
ー400マイクロ問題無し
ーその真ん中より左側にマンホール、ぽっかり穴があります。
ーマンホール?左側?
ー真ん中より左側
ーストップ!ホースがこちらで束ねてあるから
ーいま70ミリシーベルトパーアワー。
ー100ミリシーベルト!

カマナカオサミ:
あ、いい水が出ているとの無線が入りまして、
「やった」と。
これで、任務は完了出来たのかと、
後はいち早くその場所から逃げ出したいと、
マイクロバスにみんな走るように。

カマナカオサミ:
(いえに)帰ってきて怒られましたけれど、
「どこに行ったの?」という話で、
「電話一本欲しかったよ」ていうような話しですね。

9日目
日本の将来を背負って、そこで戦わなくてはいけない。
つまり、日の丸を背負ってこれから先あの発電所で戦わなくてはいけないと思ったわけです。

線量計は3月の時点では付けていないですね。
どこが高いとか、そういう線量が高いという話は、東電の方からは直接話がされていないですね。

その時はやっぱり、急いでいる作業、緊急作業だったので、
全員文句は言わないで、みんな分かっているんで
その辺はしちゃいけない作業でも黙々と。

ムラカミユキオ:
割に表情もにこやかになってきたし、
怒り口調の人間がいなくなってきた。
上に立つ立場の人間は落ち着けるような言い方もしてたし。

bbc43s.jpg

菅:
それまではですね、どんどん見えない敵に押されてですね
そこからやっと体制が整って、反転が始まった。
世界中がですね、1000機、2000機、3000機という原発を持った時に、
世界にとって本当に安心な世界だと言えるだろうかと。
それ以上にならなかったのは、神のおぼしめしというのか、ということだったと。
本当に紙一重の場面が最初の1週間だったと思います。

キムラノリオさんは父と妻と下の娘を津波で亡くした。
4カ月後福島に帰ってきた。

あなたたちが突然いなくなって4カ月が過ぎ、
どうしてこんなことになったのか、色々と考えてきました。
いつかまた、ここに戻って、あなた達を奪った海を眺めながら、生活したいものです。
次が何時になるかは全く分かりませんが、必ず戻ってきます。
遺族代表きむらのりお
bbc47s.jpg
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