バーレーンからサウジへの道
2011-02-22

写真は記事との関係はありません。バーレーンとサウジの間は橋でつながっています。写真は私の勝手なイメージです。
いざとなると、アラビアのロレンス以来の矛盾が吹出す。
旧オスマン帝国だった中東は帝国の解体後に英米仏が闇取引で国境線を引き、かいらいの部族長を「首長」とした「人造国家」である。
名家らしいのはヨルダン王家のみで、ほかは何処の馬の骨か解らない程度の「王家」である。歴史的な権力の正当性を持っていないので、第二次大戦後は次々と青年将校団のクーデタにより倒された。各国将校団はほぼ、アラブ復興社会主義を大義として民衆の支持を勝ちとったのである。
ただし、その後60年を経て旧ソ連の崩壊とアメリカの一極支配、新自由主義の圧力などで、親米・新シオニズムに転換したり、民意なき独裁になったりしたのである。
バーレーン、ドバイ、カタール、オマーン等これらの国家は国際石油資本とアメリカが戦略的に作り上げてきた、後発の人造国家である。
権力の正当性なぞまるで無い、石油と金融の利益権力であり、最も弱い政権と言って良いだろう。
民族でも、部族の象徴でもなく、国民の多数派を抑圧してきた。銭まみれ政権である。
賢明に立ち回っているのはカタールくらいのようである。
現にある宗派を差別させず、抗争させずに、統一イスラムとして乗りきれるか。
これらの国の闘う大衆にとっては重大な課題である。同時に国家にとってもまた重い課題だが。
バーレーンの混乱、サウジアラビアの危機
2011年2月21日 田中 宇
バーレーンは、ペルシャ湾の西岸、サウジアラビアの沖合にある小さな島国だ。サウジと海上の橋でつながっている。面積はアラブ諸国の中で最小だ。イスラム教の勃興以前、ペルシャ湾の東西の沿岸はペルシャ帝国(イラン)の海上交易路で、バーレーンは交易用の港の一つだった。イスラム以前、この地域にはネストリウス派(景教)のキリスト教徒が多かった。景教の信者網は、交易路を経由して中国にまで広がっていた。 (Bahrain From Wikipedia)
イスラム教の席巻とともに、バーレーン島の人々は、ペルシャやメソポタミア(イラク)南部の人々と同様、シーア派に分類される信仰を持つようになった。私の分析では、シーア派はイスラム以前の信仰形態をイスラム教が飲み込んだ結果、イスラムの要素のみで構成されるスンニ派(正統派)と異なる宗派になった。 (イラク日記:シーア派の聖地)
バーレーン島は、16世紀にアフリカ回りの航路を開拓して世界帝国を築いたポルトガルが80年間支配し、その後の200年は再びイランの支配下に入ったが、アラビア半島のスンニ派勢力であるハリファ家がカタールから移ってきて、当時衰退したゼンド朝イランの勢力を1783年に追い出し、バーレーンを統治し始めた。これが、現在まで続くバーレーンの王家である。バーレーンは現在、80万人の国民のうち2割しかいないスンニ派が国王を頂点とする支配層で、国民の7割を占めるシーア派が貧困層を含む庶民を形成している。
ハリファ家は19世紀、世界帝国を築いてペルシャ湾にも進出した英国の保護下に入ったが、第二次大戦後、財政破綻した英国は1968年にスエズ運河以東の覇権をすべて手放して米国に譲渡することを決め、植民地制度を好まない米国はすべての英国領の独立を求めたため、バーレーンは71年、同様に英国の植民地だった近隣のカタールやアラブ首長国連邦(UAE)と同じ年に独立した。 (英国のスエズ以東撤退とイスラエル)
(独立後も30年間、バーレーン王政の治安維持責任者は英国人のイアン・ヘンダーソンだった。99年の国王代替わりを機にヘンダーソンは辞任したが、その後も国王の治安担当顧問をしている) (Britons blamed for Bahrain crackdown)
その後、石油危機が起こり、バーレーンのすぐ隣にある世界最大の産油国サウジアラビアは大金持ちになったが、バーレーンには小さな油田しかないため豊かにならなかった。その代わりバーレーンは、サウジの巨額資金などを運用する国際金融センターとして機能するようになった。
▼イスラム革命をバーレーンに輸出したいイラン
1979年にペルシャ湾対岸のイランでイスラム革命が起こった。イスラム主義政権となったイランは、中東全域にイスラム革命を輸出する戦略を立て、聖職者を通じて対岸のバーレーンのシーア派を扇動し、81年以降、王政の転覆を画策した。イランにとって、18世紀にハリファ家に奪われたバーレーンを取り戻す歴史的な復讐でもあった。
80-90年代を通じ、シーア派のイスラム主義勢力が何度か政権転覆を試み、バーレーンの政情は不安定になったが、99年に国王が代替わりするとともに、新国王(現在のハマド国王)は議会制度と普通選挙制を導入し、民主化を少し進めることによって政治の安定化を図った。06年に初の議会選挙が行われた。 (Bahrain's Long Revolution)
議会制度は作られたものの、依然として権力は国王に集中していた。バーレーン議会は40議席ずつの上下院からなる2院制だが、普通選挙をやるのは下院だけで、上院議員は国王が任命する。下院が国王の意に反することを決議しても上院で覆され、実現しない体制になっている。
王家を筆頭とするスンニ派の支配層は、バーレーン国民に占めるスンニ派の割合を増やそうと、パキスタンやヨルダン、シリアなどから来るスンニ派の移民を王室傘下の治安維持部隊(軍隊)の兵士などとして雇い入れ、5万人のスンニ派に国籍を与えた。彼らの中にはアラビア語を話せない者も多いのに、バーレーン国籍をとったスンニ派の移民は、政府から仕事を保障され、住宅も与えられて厚遇される。半面、昔から住んでいるシーア派国民は、軍人など主要な公務員職に就けない差別を受け、貧しい生活のままだった。シーア派の不満が高まった。 (Bahrain security forces accused of deliberately recruiting foreign nationals)
昨年10月に行われた最新の下院選挙では、シーア派イスラム主義のウェファク党が18議席をとって第一党の座を守った。ウェファク党はシーア派の地位向上を求めてきたが、その主張は上院で阻まれ、なかなか通らない(ウェファク党の議員は、今回の反政府運動の中で、全員が議会の無効を宣言し、議員を辞任した)。 (Bahraini parliamentary election, 2010)
ウェファク党は、シーア派イスラム聖職者が重要事項の決定権を握るという、イランのイスラム共和制と同じ体制を持っており、イランの傘下にある政党と考えられる(高位のシーア派聖職者はイランの聖地コムで学ぶことが必修だ)。バーレーンのシーア派市民の間では、イランの最高位の聖職者であるハメネイ師に対する支持が強い(イランはペルシャ語を話すペルシャ人だが、バーレーンはアラビア語を話すアラブ人なので、イラン人のハメネイだけでなく、同じアラブ人のイラクの最高位聖職者であるシステニ師に対する支持も強い)。 (Bahrain; All about Pearl roundabout)
79年のイラン革命以来、バーレーンの王室は政権転覆を画策するイランを極度に嫌っている。イラン敵視の姿勢は、イスラエルの影響下にある米国の政界と同じだ。バーレーンは、米政府と米軍にとって、イランの対岸にあってイランににらみを利かせられる要衝の地であり、米海軍は第5艦隊本拠地をバーレーンに置いている。バーレーンを真に民主化したら、イラン傘下のウェファク党が政権をとり、第5艦隊など米国の影響力を追い出しにかかる確率が高いので、米政府はこれまで、バーレーン王家による似非民主体制を良いものと認めてきた。
▼イラク侵攻でバーレーン王政は安泰に見えたが・・・
03年の米軍のイラク侵攻は、ペルシャ湾岸地域における米軍の存在感の急拡大であり、イラクの次はイランが米軍に政権転覆されるとバーレーンのスンニ派支配層は期待した。だがその後、米軍のイラク占領は泥沼化して失敗し、イラクではシーア派イスラム主義勢力が台頭し、米軍撤退後のイラクが親イランのシーア派主導の国になることが確定した。
イランは、シリアやレバノンのヒズボラ、パレスチナのハマスなどにも影響力を拡大して中東全域で台頭し、バーレーンでの政権転覆の画策も再開した。イランの影響下にあるウェファク党は、08年後半から、王政に対する権利請求運動を強め、国王はシーア派の政治犯を釈放するなど、譲歩せざるを得なくなった。バーレーン政府は「我が国のシーア派イスラム主義勢力はイランに支援されている。イラン傘下のレバノンのヒズボラに訓練されている」と非難した。 (Bahrain King Pardons Shi'ite Political Prisoners)
だがウィキリークスが暴露した機密電文によると、米当局の側は、イランがバーレーンのシーア派を支援していると考えられる根拠がないとして、バーレーン王室の言い分を認めなかった。米当局は、イランの核開発に関しては、イスラエルの圧力を受け、次々と根拠をでっち上げて「イランは核兵器開発している」と主張し続けたのに、バーレーンに関しては、ウェファク党とイランとの人的つながりを無視して、イラン黒幕説は根拠がないと言い続けた。 (WikiLeaks cables show no evidence of Iran's hand in Bahrain unrest)
これはエジプト革命の前後、米当局系の分析者の中に、イスラム同胞団がエジプトをイスラム主義の政体に転換していく恐れは低いと甘く見つもっているのと同質の、あたかも中東のイスラム主義化を黙認したいかのような、米中枢の奇妙な傾向である。私自身は、ヒズボラやイスラム同胞団やハマスについて、地域の民衆に広く支持された「正義の味方」だと感じる。その一方で、彼ら(特にシーア派)の運動の戦術の中に、イスラム教で「タキヤ」と呼ばれる、異教徒との戦いで自分たちの本心を隠す(ウソをつく)戦術をとって良いという教義がある。 (Taqiyya From Wikipedia)
その関係なのか、エジプトの同胞団はリベラル(欧米主義)であるかのような印象をふりまいているし、バーレーンのウェファク党もイランとの関係性を見えなくしている。そして、米中枢の「専門家」たちは、いとも簡単に「同胞団は大したことない」「ウェファク党はイランの影響下にない」と軽信してしまう。米中枢が同胞団やウェファク党の力を弱く見積もっていることは、外交専門家の集団として過度にずさんであり、隠れ多極主義的な(中東を反米で団結させ、米英覇権から自立した新世界秩序の一つの「極」に仕立てたい)、親イスラエルのふりをした反イスラエルの意図を感じる。
▼治安部隊の襲撃が逆効果に
08年のリーマンショックによる世界的な金融崩壊と金融不況がバーレーンにも波及し、大規模な不動産開発が破綻したドバイと同様、バーレーンでも不動産価値の下落や失業の増加が起こった。さらに昨年からは、米当局のドル過剰発行の反動としての食料投機などによって食料の国際価格が高騰し、バーレーンでも下層のシーア派市民の生活が悪化して、政府に対する市民の不満が高まった。そんなところに起きたのが、最近のエジプト革命だった。
今回のバーレーンの反政府運動は、2月11日にエジプトのムバラク大統領が辞任した直後、エジプト革命に触発されて激化した。反政府運動はシーア派が主導で、王政がシーア派を抑圧し、仕事や住宅を与えず貧困を放置している状態の改善が要求の中心だったが、彼らは「シーア派の運動」と見られることをいやがり、スンニ派の野党(サウジと同じ厳格なワッハーブ派のイスラム主義者が中心)やリベラル派とも連携する姿勢を強調する「タキヤ」的な戦術をとった。「シーア派の運動」と見られると、イランを敵視する米政府や、スンニが多数派であるアラブ諸国の人々の支持を受けにくいからだった。
米政府は、このウェファク党の戦略の「カモ」に喜んでなり、バーレーンの反政府運動を「民主化運動」と見なし、王政に対し、民主化運動を弾圧するなと求めた。バーレーンが真に民主化されたら、国民の70%を占めるシーア派が権力をとり、親米の王政を転覆して親イランの政権を作り、米海軍の第5艦隊も追い出され、ペルシャ湾は「イランの海」になる可能性が高いが、米政府にとっては、それより「民主化の理想」の方が大事であるかのようだった。
反政府運動は2月14日から、バーレーンの繁華街にある「真珠広場」を占拠し、そこを運動の中心地にした。これはエジプトの反政府運動がカイロのタハリル広場を占拠して運動の中心地に仕立て、世界のマスコミの注目をそこに集めた戦略を真似たものだった(真珠はバーレーン近海の昔の特産物だった)。2月17日にかけて、世界の目が真珠広場に集まり始めた。 (Bahrain square becomes new center for Arab anger)
バーレーン王室の中枢は、ハマド国王とサルマン皇太子が、民主化に割と積極的な開明派と米欧から見なされる半面、国王のおじで治安担当相を兼務するハリファ首相は腐敗して残虐な人物だと米欧は見ている。ハリファ首相は、パキスタンやシリア、ヨルダン、イラク(旧バース党員)などからスンニ派移民を雇って作った治安部隊を率いている。
治安部隊は17日未明、真珠広場を襲撃し、反政府運動の市民を広場から排除しようとした。彼らは、事前に警告を発しないで襲撃を開始したため、深夜のため広場で寝ていた多くの市民が逃げる間もなく殴打され、3人が死亡した。この襲撃は、弾圧によって反政府運動を黙らせる作戦だったと考えられるが、それは裏目に出た。反政府派は翌日、襲撃で死亡した市民の葬儀に集まって王政に対する強い怒りを表明し、そこにまた治安部隊が発砲して死者が出て、反政府運動はさらに激化した。 (Bahrain Turmoil Poses Fresh Test for White House)
米政府は、バーレーン王室内の誰が部隊に発砲を命じたのかを問題にした。米政府は、民主化に前向きな国王や皇太子と、後ろ向きな首相とを分けて考え、首相が傘下の治安部隊に発砲させたという筋書きに落ち着かせ、首相に責任をとらせることで国王と皇太子を生かし、親米のバーレーン王政を延命させる戦略だったようだ。 (U.S.'s Bahrain Efforts Threatened By Royal Rift, Saudi Distraction)
2月19日、サルマン皇太子が王政の前面に登場し、17日の襲撃で死者が出たことについて、テレビ演説で謝罪した。皇太子は、治安部隊を真珠広場から撤退させ、反政府運動が広場を再び占拠することを認め、反政府運動との話し合いをしていく方針も発表した。エジプトの革命と同様、バーレーンの権力者も、国民の反政府運動に対して前代未聞の譲歩を開始した。 (Protesters in Bahrain retake Pearl Roundabout)
しかし、これでバーレーンの反政府運動がおさまるわけではなさそうだ。ウェファク党は、治安部隊が街頭から完全に撤退するまで、王政から提案された話し合いに参加しないと言っている。エジプトでは、反政府運動に譲歩したムバラクは、結局失脚に至っている。 (Bahrain Opposition Rejects Calls for Government Dialogue)
▼サウジアラビアが分解する?
ムバラクの失脚も、現実になる2週間前まで、分析者や外交官など関係者のほぼ全員にとって「あり得ないこと」とみなされていたが、ムバラクはあっけなく辞めている。バーレーンでも、王政が転覆されるか、もしくは下院に実権が移り、国王は権力を奪われて象徴的存在に成り下がり「真の民主化」が行われる可能性が増している。その場合、国民の70%を占めるシーア派に立脚し、統率がとれているウェファク党が与党になる。 (The Battle of Bahrain King Hamad - the Mubarak of the Gulf by Justin Raimondo)
ウェファク党はイランの影響下にあると考えられるが、同じシーア派といっても、バーレーンはアラビア語を話すアラブ人で、イランはペルシャ語を話すペルシャ人だ。シーア派の自覚よりアラブ人の自覚が優先するという説もある。しかし、一足先にシーア派主導の国になったイラクは、アラブ人だが、イランとの関係が非常に良い。レバノンのヒズボラも、アラブ人だがシーア派なのでイランとの関係が良い。
シーア派は、長くスンニ派に異端性を疑われてきただけに、自分たちがやりたい政治を、外部に気づかれないように、タキヤ的な目くらましをばらまきながら隠然と進めるのがうまい。だから米国などでは「新生イラクは、イランと仲が悪い」「アラブ人とペルシャ人は相容れない」という分析もまかり通る。アラブとペルシャで利害が対立する局面もあるが、それを超えて、シーア派どうしで隠然と結束する力学の方が強い。真に民主化したら、バーレーンはイラク同様、隠然かつ強力に親イランの国になる。第5艦隊は出て行くだろう。
この新事態は、世界に巨大な影響を与える。バーレーンがシーア派の政権になったら、ほぼ確実に、バーレーンと海上の橋でつながっているサウジアラビアの東部州で、シーア派の決起が強まるからだ。サウジの石油の90%は東部州に埋蔵されている。サウジ国民2千5百万人のうちシーア派は3百万人程度だが、そのほとんどは東部州に住んでいる。東部州の人口は350万人なので、その過半数がシーア派だろう(サウジ政府は政治的理由から、この手の数字を全く発表しない)。
サウジは厳格なスンニ派であるワッハーブ派が主導する国で、歴史的な経緯で異教的(密教的)な要素が混じっているシーア派は、異端として弾圧される傾向が強い。シーア派はサウジ政府に採用されにくく、サウジの原油の9割が東部州で採れるのに、東部州がサウジ王政から受ける恩恵は、それよりはるかに低い。東部州のシーア派は王政に根強い反感を持っている。ここ数年、米軍占領下のイラクでシーア派が政治台頭し、隣国サウジのシーア派は大いに触発され、政治覚醒したが、反政府運動の活動家の多くが投獄されている。
今回、そこにバーレーンでの革命が起こった。サウジ東部のシーア派はますます政治覚醒しているはずだ。サウジは宗教的に厳格で、飲酒その他の娯楽が禁じられているが、バーレーンは放任度が高い。サウジ東部州の人々は週末(木曜日の夜から土曜日まで)にバーレーンに行き、羽目を外す。サウジ東部州とバーレーンの間は、人々の行き来が激しいわけで、バーレーンの政治興奮は、すでに十分サウジに伝わっている。サウジ東部州では2月20日、シーア派の勢力が、以前から続けてきた当局に対する政治犯の釈放要求を改めて発した。 (MOBS TARGET SAUDI ARABIA)
バーレーンの王政が国民の民主化要求に対して譲歩するほど、サウジのシーア派も、自国の王政に、政治的・経済的な民主化を要求するようになるだろう。石油で儲けた分け前をもっとよこせと王室に要求し、拒否するなら東部州でサウジからの分離独立を問う住民投票をするぞ、とか言い出すかもしれない。東部州住民の過半を占めるシーア派は、分離独立に賛成だろう。
サウジ東部州で「真の民主化」が実現すると、サウジの原油の9割は、サウド王家でなくシーア派のものになる。サウジのシーア派はアラブ人だが、イラクやバーレーンのシーア派と同様、親イランの傾向をとるだろう。サウジ、イラク、イランという中東の3大油田地帯のすべてが、反米反イスラエルのイランの傘下に入ってしまう。間に挟まっているクウェートも政権転覆のおそれがある。クウェートでは、無国籍扱いされているベドウィン(遊牧民)が権利要求運動を開始している。OPECはイランの傀儡となり、イランを敵視する国は石油を止められ、原油価格は高騰する。イランは米欧に敵視されている分、中国やロシアと親しいから、米欧の覇権喪失が加速する。 (Seven wounded in Kuwait clashes)
サウジ王政は、こうした悪夢の実現を何とか防ごうと、バーレーン王政を延命させるための派兵を、クウェートなど他の湾岸産油諸国(GCC)とともに検討している。サウジは以前からバーレーンの王政をテコ入れするための資金援助をしている。すでにサウジの治安部隊がバーレーンに入り、バーレーンの治安部隊の中に混じって反政府運動の弾圧に荷担しているという目撃証言もある。サウジは90年代にバーレーンでシーア派の反政府運動がさかんになった時にも、治安部隊をバーレーンに派遣している。 (Gulf may use military force in support of Bahrain's regime) (U.S.'s Bahrain Efforts Threatened By Royal Rift, Saudi Distraction)
サウジの周辺では、東のバーレーンのほか、南のイエメン、西のヨルダンでも反政府運動が強まっている。すでに政権が転覆したエジプトも加え、政権が転覆すると、反米的なイスラム主義勢力が台頭しそうだ。親米のサウジは、革命の四面楚歌になっている。 (Unrest Encircles Saudis, Stoking Sense of Unease)
民主化要求に対して譲歩すれば王政は延命できるという見方も米欧にあるが、それは怪しい。譲歩したバーレーン王政が延命できるか疑問だからだ。譲歩してもしなくても、バーレーンやサウジ、クウェートの王政は、転覆される懸念が強まっている。 (A threat to Saudi Arabia?)
米国のネオコンは、イラク侵攻半年前の02年9月、米軍をイラクに侵攻させてサダム・フセイン政権を倒した後、サウジアラビア東部州のシーア派を煽動してサウジの油田地帯を分離独立させ、アルカイダを支援していたサウド王家を凋落させるという「テロ戦争」のシナリオを描いていた。彼らのシナリオは、その後10年近くを経て、今回のエジプト革命によって実現しつつある。だがネオコンのシナリオには語られていない裏がある。それは、サウド家から分離独立したサウジ東部州の大油田地帯が、その後必然的にイランのものになることだった。サダムを倒した後のイラクもイランのものになってしまったし、イラク戦争実現の立役者の一人だったネオコンのアハマド・チャラビはイランのスパイだった。 (Playing skittles with Saddam)
イスラエルは以前、イランを強化して米軍を中東に恒久的に引っ張り込んで無償でイスラエルの衛兵をさせる隠れた戦略を持ち、それがネオコンがイランやその他のイスラム主義勢力を強化した理由だったと考えることもできる。しかし、今やイスラエルは明らかに、中東でこれ以上戦争を起こしたくない。戦争するほど米イスラエルが不利になり、米国が恒久的に中東から撤退していき、イスラエルが滅亡に至る流れを加速するからだ。ネオコンは、イスラエルが望む限度をはるかに越えて、イランやイスラム主義勢力を過剰に強化している。オバマ政権の中途半端な民主化容認策が、その傾向に拍車をかけている。ネオコンを隠れ多極主義者と見立てると、彼らの戦略は大成功している。
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小沢一郎氏2/22党倫理委説明
2011-02-22
民主党の小沢一郎元代表が22日の党倫理委員会(委員長・渡部恒三最高顧問)で読み上げた弁明の全文は次のとおり。
「倫理委員会の皆さんへ私の主張」
平成23年2月22日
衆議院議員 小沢一郎
党倫理委員会の皆様、このような機会をいただいたことに心から感謝申し上げます。
一昨年来、私の政治資金管理団体にかかわる件について、国民の皆様、同志の皆様にご心配をおかけしていることを、まずもってお詫び申し上げます。
さて2月14日の民主党役員会、15日の常任幹事会において、元秘書が逮捕・起訴された事実について、私に対し検察審査会により起訴手続きがなされたことは「倫理規範に反する行為」に該当すると判断したとのことですが、本日は倫理委員会の皆様に私の考えをお伝えし、また委員の皆さんのご所見を伺いたく参りました。どうぞよろしくお願い申し上げます。
一、検察審査会の起訴と、通常の検察による起訴との違いについて
役員会・常任幹事会は、私が、収支報告書の虚偽記載につき共謀したという容疑が事実であるか否かにかかわらず、単に起訴されたという事実をもって処分の根拠としていますが、今回の検察審査会による起訴を通常の起訴と同視することはできないと考えます。
一連の問題に関し、一年余にわたる東京地検特捜部の徹底した捜査により、多数の書類を押収され、秘書・元秘書は身柄を拘束された上で取り調べを受け、私自身も四回にわたって事情聴取に応じてきました。結果、私については不起訴処分、さらに、一回目の検察審査会の起訴相当議決後の再捜査でも再び不起訴処分となりました。
検察審査会の議決にある通り、検察審査会制度は「国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度である」とのことです。検察審査会の議決による起訴は、検察の起訴のように有罪の確信があって行うのではなく、法廷で「白黒」をつけるために行う、つまり迷ったから裁判の手続きに乗せようと、当の検察審査会自身が述べているわけです。
また今回、検察官役を担われる指定弁護士も、記者会見において「有罪だと確信したから起訴したのではない。議決があったから起訴した」「私たちの職務は必ずしも有罪だと確信したから起訴するのではなく、法令上、起訴しない条件がなかったから起訴した」と述べたと聞いており、今回の起訴の性格を指定弁護士自身の発言が物語っております。
この点について、倫理委員会の皆さんは、検察審査会による起訴手続きと、検察による通常の起訴の違いについて、どのようにお考えになっているのか、お伺いします。
二、検察審査会の起訴議決が有効であるか否かについて
役員会・常任幹事会は、今回の検察審査会の起訴議決に基づく起訴が有効であることを前提に処分の判断を行っていますが、そもそも検察審査会の起訴議決自体に手続違反があります。
東京第五検察審査会の二度目の議決には、不起訴になった事実以外も議決の対象になっております。つまり一回目の議決と二回目の議決の内容が異なっているのです。被疑事実でもないことについて審査の対象になるのであれば、いかなる無辜の民であっても審査の対象となり、いわれなき容疑によって強制的に起訴されることとなりかねません。公人中の公人であり公選による衆議院議員によっては尚更であり、到底認められません。
私は、検察審査会の議決の有効性についても行政訴訟によって争ってまいりました。この点につき、最高裁は、「刑事裁判の中で主張しうる」との判断を示しており、今後の刑事裁判の中で起訴議決の有効性自体についても争ってゆくこととなります。
さらに、起訴議決に至った最大の証拠である石川議員の供述調書についても、再捜査の取り調べの際に担当検事の誘導等があったことを示す録音が存在しており、この供述調書の任意性、信用性が否定されれば公訴取り消しも十分にあり得ます。
また検察審査会自体、議事録も公開されておらず、第一回目の議決の際と第二回目の議決の際の構成委員の平均年齢が、本来入れ替わっているはずであるにもかかわらず34・55歳と同じであって、そもそも1000万人都民の中から無作為抽出によって委員を選任した場合に、平均年齢が34・55歳となる確率はほとんどゼロであることに加え、二度の審査委員会委員の平均年齢が同じになることなど、偶然にしてもあり得るはずもないこと、
審査補助員の弁護士に支払われた旅費の日付が、報道による審査補助員就任時期以前のものまで含まれており、ルールに則った審査が行われたかどうか疑わしいこと、
議決前には担当検事による不起訴理由の説明が必要ですが、ほんとうに担当検事が議決前に検察審査会に出席したかどうか定かではないことなど、
その経過も内容もまったく公開されておらず、全て秘密のベールにつつまれております。
1000万人都民のなかから無作為で選ばれたとされる11人の検察審査会委員の素性はもちろん、審査の過程も明らかにされていないのであります。果たして検察審査会による議決が、「国民の責任」といえるだけの正当性を有しているのか、はなはだ疑問であります。
倫理委員会の皆様は、検察審査会の起訴議決の有効性について、どのように判断されているのか、お伺いします。
(産経)
「倫理委員会の皆さんへ私の主張」
平成23年2月22日
衆議院議員 小沢一郎
党倫理委員会の皆様、このような機会をいただいたことに心から感謝申し上げます。
一昨年来、私の政治資金管理団体にかかわる件について、国民の皆様、同志の皆様にご心配をおかけしていることを、まずもってお詫び申し上げます。
さて2月14日の民主党役員会、15日の常任幹事会において、元秘書が逮捕・起訴された事実について、私に対し検察審査会により起訴手続きがなされたことは「倫理規範に反する行為」に該当すると判断したとのことですが、本日は倫理委員会の皆様に私の考えをお伝えし、また委員の皆さんのご所見を伺いたく参りました。どうぞよろしくお願い申し上げます。
一、検察審査会の起訴と、通常の検察による起訴との違いについて
役員会・常任幹事会は、私が、収支報告書の虚偽記載につき共謀したという容疑が事実であるか否かにかかわらず、単に起訴されたという事実をもって処分の根拠としていますが、今回の検察審査会による起訴を通常の起訴と同視することはできないと考えます。
一連の問題に関し、一年余にわたる東京地検特捜部の徹底した捜査により、多数の書類を押収され、秘書・元秘書は身柄を拘束された上で取り調べを受け、私自身も四回にわたって事情聴取に応じてきました。結果、私については不起訴処分、さらに、一回目の検察審査会の起訴相当議決後の再捜査でも再び不起訴処分となりました。
検察審査会の議決にある通り、検察審査会制度は「国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度である」とのことです。検察審査会の議決による起訴は、検察の起訴のように有罪の確信があって行うのではなく、法廷で「白黒」をつけるために行う、つまり迷ったから裁判の手続きに乗せようと、当の検察審査会自身が述べているわけです。
また今回、検察官役を担われる指定弁護士も、記者会見において「有罪だと確信したから起訴したのではない。議決があったから起訴した」「私たちの職務は必ずしも有罪だと確信したから起訴するのではなく、法令上、起訴しない条件がなかったから起訴した」と述べたと聞いており、今回の起訴の性格を指定弁護士自身の発言が物語っております。
この点について、倫理委員会の皆さんは、検察審査会による起訴手続きと、検察による通常の起訴の違いについて、どのようにお考えになっているのか、お伺いします。
二、検察審査会の起訴議決が有効であるか否かについて
役員会・常任幹事会は、今回の検察審査会の起訴議決に基づく起訴が有効であることを前提に処分の判断を行っていますが、そもそも検察審査会の起訴議決自体に手続違反があります。
東京第五検察審査会の二度目の議決には、不起訴になった事実以外も議決の対象になっております。つまり一回目の議決と二回目の議決の内容が異なっているのです。被疑事実でもないことについて審査の対象になるのであれば、いかなる無辜の民であっても審査の対象となり、いわれなき容疑によって強制的に起訴されることとなりかねません。公人中の公人であり公選による衆議院議員によっては尚更であり、到底認められません。
私は、検察審査会の議決の有効性についても行政訴訟によって争ってまいりました。この点につき、最高裁は、「刑事裁判の中で主張しうる」との判断を示しており、今後の刑事裁判の中で起訴議決の有効性自体についても争ってゆくこととなります。
さらに、起訴議決に至った最大の証拠である石川議員の供述調書についても、再捜査の取り調べの際に担当検事の誘導等があったことを示す録音が存在しており、この供述調書の任意性、信用性が否定されれば公訴取り消しも十分にあり得ます。
また検察審査会自体、議事録も公開されておらず、第一回目の議決の際と第二回目の議決の際の構成委員の平均年齢が、本来入れ替わっているはずであるにもかかわらず34・55歳と同じであって、そもそも1000万人都民の中から無作為抽出によって委員を選任した場合に、平均年齢が34・55歳となる確率はほとんどゼロであることに加え、二度の審査委員会委員の平均年齢が同じになることなど、偶然にしてもあり得るはずもないこと、
審査補助員の弁護士に支払われた旅費の日付が、報道による審査補助員就任時期以前のものまで含まれており、ルールに則った審査が行われたかどうか疑わしいこと、
議決前には担当検事による不起訴理由の説明が必要ですが、ほんとうに担当検事が議決前に検察審査会に出席したかどうか定かではないことなど、
その経過も内容もまったく公開されておらず、全て秘密のベールにつつまれております。
1000万人都民のなかから無作為で選ばれたとされる11人の検察審査会委員の素性はもちろん、審査の過程も明らかにされていないのであります。果たして検察審査会による議決が、「国民の責任」といえるだけの正当性を有しているのか、はなはだ疑問であります。
倫理委員会の皆様は、検察審査会の起訴議決の有効性について、どのように判断されているのか、お伺いします。
(産経)
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R・フィスク批判:民衆か宗派かではない、闘う思想の重要性
2011-02-22

民衆の反乱ではなく、宗派間の抗争だ、等と言うつもりではない。
経済的な困窮が民衆の反乱に結びつくことは正しい。ただそのことをもって宗派間の抗争ではない。という発想はポイントがズレているのである。
一体、誰が宗派間の抗争だなどと言っているのだろうか。
中東で始まった大衆的な反政府闘争で宗派間の抗争がありそうなのは、唯一バーレーンだけである。
これは、イランのイスラム革命を抑えこみたいアメリカと、多数のシーア派を少数のスンニー派で抑えこむ政権の利害一致でシーア派を抑えこんできたために、シーア派大衆が貧困に放置されてきたためである。
この場合は反政府運動が宗派間抗争に流れなように注意しなければならないだろう。
だが、これはバーレーンの個別な状況である。
中東全体では宗派間抗争に流れこまされそうな国は他にはない。
アルジェリアは独裁に変質したアラブ社会主義と民衆の闘いであり、他は殆どが、親米・新イスラエル政権と反米・反シオニズムの貧困大衆という構図があらわになってきつつある。
貧困と反米・反シオニズムに宗派間の抗争など入り込む余地は無いのである。
それより問題は、逆に、大衆の貧困のみで独裁を打倒し、さらに旧特権利益層を追放出来るのか。
平和的なデモで政権が妥協譲歩する余地は普通は非常に限定的である。
トカゲの尻尾切りと同じことで、独裁者と取り巻きの数人を追放して、一応民主的は選挙を実施して、旧特権利益構造はそのままというのが普通だろう。
こうした構造までを変えるには民衆側が強制力を持たなければ不可能である。
「民衆の反乱」のみではそうした強制力は何処からも発生しない。
無血革命であろうが、暴力革命であろうが、およそ「革命的な変革」とは、旧体制の特権利益階層との激しい闘争を作り出す。何故なら、彼らも当然ながら「はい、そうですか。貧困大衆に従います」とはなるわけもないので、必死の反動攻撃を行うからである。
だからこそ、逆に言うならば、そうした旧特権利益層による必死の攻撃を呼び起こすほどの闘いを、「革命」と規定しているのである。
私たちは歴史に学ぶことが出来る。
旧制度の特権利益層に手をつけずに、表面的な選挙制度の改善で終わる程度の改革というものは、現実にはその社会の貧困、暴力、特権を解消できない。
民主的で公正な選挙制度は、無いよりもある方がはるかに望ましい。だが、特権利益階層はマスコミ、武力などあらゆる手段を行使して、自らを守りぬく。北欧の労働党政権は改良主義でさえ確立するのに50年以上も費やしている。
民衆の意思をとおすには、民衆の側に何らかの武力が必要なことは現実である。
フランス、アメリカの義勇兵、近くはフィリピンのマルコス打倒の場合の参謀長派と治安警察軍。ベネズエラの空挺部隊。
中東の反政府闘争も、アメリカの口先支援で勝てるとは思われない。
今、エジプトは軍が穏健改革に進もうとしている。またアルジェリアは軍将公団が民衆側へ動き出したようだ。
だが、これらの武力が、実際に旧特権利益階層対決し、武力行使を辞さないとの構えで、あるいは実際に行使して「見せることが、情勢の展開を引き起こすのである。
いかなる形の武力であれ、民衆側に立って、旧支配層に武力行使すると、あるいは出来るというのは、武力の内部に非常に過酷な緊張をもたらすことは疑いないのである。
旧来の支配思想を脱皮して、新しい社会的な軍事行動を起こす為には、もちろん新しい社会思想への交代が不可欠になる。
ロバート・フィスク氏は、旧支配層がともすれば社会思想的に、最初から誤解する傾向があると指摘している。
私はこれは、誤解というより旧支配層の臆病さと過敏さの表れであり、旧支配の思想がホゴにされる危機感と考える。
フィスク氏の言う北アイルランドの場合も、武装したIRAが百年間も戦えたのは、彼らなりのカトリックを社会思想として団結し統制してきたからに他ならないのである。
フィリピンのマルコス打倒はカトリックが介入し、民衆側武力に支持を与えるた。
貧困は階級闘争の原因である。それは事実である。
しかし、その闘いはマルコス打倒程度でも、何らかの実体的な武力を必要とする。
そして、その武力は見せかけでなく、事実行使できるなら、社会思想が不可欠である。
独裁に利用されたアラブ復興社会主義は、既に色冷めてしまった。
中東は民衆の社会思想を、イスラムが担い始めている。
旧支配階層は誤解しているのではない。
大衆の側、兵士の側も気付き始めている。
ロバート・フィスク氏はバーレーンのシーア派に注意が集中しすぎているようだ。
良心的なジャーナリストとは言え、西側にとって宗派抗争に落としたい勢力が強いからかも知れない。
反米・反シオニズムでは世界のイスラムが団結できるのだが。
追記
要は歴史が展開するときのダイナミズムなのだろう。
書いていたら、意外と長くなってしまったので、別ページにしました。
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