ファシズム(1)
2010-10-23
阿修羅の掲示板で影の闇氏が、近代史の国際関係と国内関係を踏まえて、ファシズムの歴史規定と言うべき論考を書かれています。
現状を如何に見るかという視点の問題ですが、一般にファシズムなる概念が幅広で使われるために、議論が混乱する原因となっているのは実感されている方も多いと考えます。
氏は今回、両大戦前後と現在の国際政治関係の変遷を踏まえての、かなり厳格な規定を見出したように思います。
独裁と開発独裁-ファシズムといわゆる民主主義-暴力装置とボナパルチズム-メディアとボナパルチズム。これらを考慮することによって、現状の国際政治と国内政治に非常に力のある、解明を下していると考えます。
なにより、飯の種的評論と異なり、氏の実践的な解明の意識性が感じられます。
氏はブログ、HP等はなく、投稿のみとのことなので、保存版とします。
(1)から(5)まであるので、一つずつ記載します。
以下引用です。
ファシズム考1 「独裁者」とは
投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:28:01: HiXvZf/FmwPNU
小沢一郎という意味
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/262.html
仁王像なる愚者 -小沢捜査は国策捜査 又小沢氏は「ファシスト」でもなければ「国家主義者」でもない
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/264.html
ファシズムについての論考
http://www.asyura2.com/09/dispute29/msg/593.html
http://www.asyura2.com/09/dispute29/msg/597.html
http://www.asyura2.com/09/dispute29/msg/603.html
近代政治史とは<統治>官僚と<代表>政治家の対立史
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/103.html
南部大統領と薩長政権 その4
http://www.asyura2.com/09/idletalk37/msg/190.html
以下の一連の論考は、私がこれまで阿修羅で投稿してきた上の小沢氏やファシズムに関しての考察と一部重複或いは底流で関連しております。
これを期に、併せて読んで頂ければより解かり易くなるかと思い、載せておきます。
「独裁者」という物言いは、大戦直後よりも、むしろ80年代以降極めて喧しくなって来ますが、これには理由が在ります。 70年代の韓国や台湾及びシンガポール、80年代のイラク等、所謂「開発独裁型」と呼ばれる政治経済体制が成功を収め、近代化=産業社会化に有効なシステムと認められるようになって来たからです。
これがアメリカにとって如何に由々しき問題であった のか、それは、アメリカのモデルケースとされ、50年代初頭には日本よりもGNPは上回っていたフィリピンが”アジアの病人”と言われる程零落したこと、しかも「開発独裁型」のモデルは他ならぬ日本であったことを考え合わせれば、その意味するところが明らかになるはずです。
近代modernとは<moedlモデル(模型)>がその優劣や侵犯力を競い、その結果如何が死命を宣する時代でもあります。 冷戦とは、畢竟、アメリカモデルとソ連モデルの優劣乃至は適格性を競うものであり、戦争に負けたわけでもないのに、ソ連が敗北したとされ、国家崩壊にまで立ち至るのも、このソ連モデルが劣ってる若しくは不適格であると見做されたからに他なりません。
モダニズムの元祖であるからこそ、「対日貿易摩擦」が深刻さを増していた80年代当時のアメリカに置いて観れば、
「開発独裁型」の成功の意味するもの、行き着く先が解ったはずです。 如何に軍事力が強大で、圧倒的であったとしても、<モデル>の適・不適の問題は、早晩、アメリカの指導力や影響力、即ちヘゲモニーの喪失に繋がりかねない(その後のソ連圏解体で、見事にそれは証明されました)!
所謂「フィリピン革命」(86年)は、そうしたアメリカ支配層の危機の産物と見るべきです。
国際政治には殆ど影響の無い、アメリカの旧植民地のこの国が、当時、注目を浴び続けたのは宗主国アメリカの世界戦略が働いていた、と。 アメリカの動向に敏感な韓国や台湾がその後(87年、88年)相次いで「民主化宣言」したのも、その意図を察知したからだと言えます。
当時、これを「マッカーサーが帰ってきた」とし、「対米3連敗の緩慢な過程に入った」と指摘した人※が居ましたが、慧眼というしかないー今にして思えば、事態の本質を見抜いた発言だったと言えます。
そうして、このスペクタクル「独裁者の追放劇」の本当の狙いが現れ出たのが、その後直ぐ、冷戦の終焉と踵を接して起こった「湾岸戦争」でした。 未だに「湾岸戦争」を「石油の為」と思い込んでる人が多いようですが、それは行きがけの駄賃程度であって、本当の狙いは、当時、イラクがアラブ世界でずば抜けた工業力を持つ産業国家として立ち上がってきたところに在るー従って、中東に「日本」を創らせないことにあったーのです。
それは、”イラクを石器時代に戻す”という米国務省高官の発言通り、その後の様々な口実を設けての、10年に渡る「制裁」で、軍事力と共に産業インフラを徹底的に弱体化させたところにも表れておりますし、逆にアメリカにとっての「日本」(恒久的軍事基地)を作るという目的で行われた「イラク戦争」の後に頻発したテロの 内容を観れば、宗派間や部族間の対立を煽り、内戦状態を作り出すという意図とは別に、大半の知識人や技術者が難民となって国外に逃れたことに表れてるように、そのターゲットが人的インフラ(知識人や技術者)に移ったことを示すものでした。
そしてその結果、120万人の殺傷と国内外に400万人の難民を出し、近代国家としては最早永久に再建出来ないとされるまでになっている。 一方、最近のオバマ発言に表れてる通り、これからも引き続き、5万人規模(在日米軍と同じ!)の米駐留軍が居 座り続けるのです。
見られる通り、「イラク戦争は失敗」と言われておりますが、この限りでは寧ろ成功しているのです!
ところで、この「石器時代に戻す」というセリフの初発は対日戦時のもの、事実敗戦時点で、工業都市56中52都市が焼け野原になり、工業インフラは徹底的に破壊されて、今後100年は復興は不可能と言われたものです。 また「財閥解体」等、GHQの当初の狙いも、「工業国家」として、2度と立ち上がって来れないようにすることでした。
周知の様に、この状況を一変させたのは共産中国の誕生と朝鮮戦争。 もし内戦で毛沢東が勝利していなかったら、又金日成が「南侵」しなかったら、日本の戦後復興は極めて困難なものとなったでしょう。
多くの者が「アメリカのお蔭」と思い込んでるようですが、もし蒋介石が勝っていたら、多くの工業資材が「賠償」の名目で中国に渡されただろうし、アメリカの関心の多くは中国に移ってたはずだから、日本はそのまま捨て置かれた可能性の方が高いーとすれば、戦後復興を寿ぐ者は毛沢東や金日成に足を向けて寝れないはずなのですがね。
とまれ、「湾岸戦争」の時点で、そのような米国の意図を読んでいたのが他ならぬ小沢一郎氏でした。 これはヤルタ体制(米ソ支配体制)の修整①(米単独支配)であり、又世界に向けては②「開発独裁型」による発展は許さない(その隠れた標的は日本である)ということである、と。 ①を逆に言うと、その修整の機会だからこそ、ヤルタ体制の負け組みの地位から脱却するチャンスでもある。 この時唱えた「国連中心主義」やその後の「国連待機軍構想」も又、同じ動機に基いています。
それは、国連を盾に、事実上、米軍事戦略の根幹(対中・露)を封ずるものであり、在日米軍基地或いは米軍駐留の意味を無化するものだからです。 そして②への対応が(アメリカ)モデルチェンジへの宣言。
当時も今も、私はこれには批判的ではありますが、政治指導者の立場として考えてみると、「日本封じ込め」が欧米で勢いを増してる中、しかもソ連に代わって欧米の主敵となることさえ予想されるとなると、半世紀前と同様負け戦的に受け入れるよりも、自ら積極的に選択した方が良いとするのは、強ち否定されるべきではないかも知れない、とは思います。 実際の経過も、やはり、負け戦的に受け入れることになったのですから。
最近の小沢氏を見て、宗旨替えをしたように感じてる人も多い様ですが、アメリカモデルの破綻や中国等の台頭によって、本来の(社会民主主義的な)立ち位置に戻ったと理解すべきでしょう。 これまで見たことで分かる通り、また”凶暴な熊には抱きつけばよい”との発言にある様に、<敵>を前にした戦術的な擬装と受け取るのが自然だからです。
さて、このように見てくると、「独裁者」という言葉が何故今更の様に登場し、声高に叫ばれるようになったか?そして何故「親米派」による小沢氏へのレッテルとなっているのか?解って来るのではないでしょうか。
丁度、戦時日本で相手を「非国民」と名指し=断罪することが自ら「帝国臣民」を模する行為であったように、かってのソ連や中国で、「反革命」と名指すことが相手の断罪=抹殺を意味したように、それは、戦後の支配体制(アメリカの帝国的支配)への忠誠(幻想の帝国臣民)を模すると同時に、その支配を揺るがす(と見做す)者への非難・罵倒であるーP.ニザン風に言えば”番犬”の所業ということです。
それを裏返しにすれば、帝国的支配への不服従のシンボルということに他ならない。
※平岡正明『マッカーサーが帰ってきた日 ーテレビはアメリカ占領軍が埋めた地雷か』
現状を如何に見るかという視点の問題ですが、一般にファシズムなる概念が幅広で使われるために、議論が混乱する原因となっているのは実感されている方も多いと考えます。
氏は今回、両大戦前後と現在の国際政治関係の変遷を踏まえての、かなり厳格な規定を見出したように思います。
独裁と開発独裁-ファシズムといわゆる民主主義-暴力装置とボナパルチズム-メディアとボナパルチズム。これらを考慮することによって、現状の国際政治と国内政治に非常に力のある、解明を下していると考えます。
なにより、飯の種的評論と異なり、氏の実践的な解明の意識性が感じられます。
氏はブログ、HP等はなく、投稿のみとのことなので、保存版とします。
(1)から(5)まであるので、一つずつ記載します。
以下引用です。
ファシズム考1 「独裁者」とは
投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:28:01: HiXvZf/FmwPNU
小沢一郎という意味
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/262.html
仁王像なる愚者 -小沢捜査は国策捜査 又小沢氏は「ファシスト」でもなければ「国家主義者」でもない
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/264.html
ファシズムについての論考
http://www.asyura2.com/09/dispute29/msg/593.html
http://www.asyura2.com/09/dispute29/msg/597.html
http://www.asyura2.com/09/dispute29/msg/603.html
近代政治史とは<統治>官僚と<代表>政治家の対立史
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/103.html
南部大統領と薩長政権 その4
http://www.asyura2.com/09/idletalk37/msg/190.html
以下の一連の論考は、私がこれまで阿修羅で投稿してきた上の小沢氏やファシズムに関しての考察と一部重複或いは底流で関連しております。
これを期に、併せて読んで頂ければより解かり易くなるかと思い、載せておきます。
「独裁者」という物言いは、大戦直後よりも、むしろ80年代以降極めて喧しくなって来ますが、これには理由が在ります。 70年代の韓国や台湾及びシンガポール、80年代のイラク等、所謂「開発独裁型」と呼ばれる政治経済体制が成功を収め、近代化=産業社会化に有効なシステムと認められるようになって来たからです。
これがアメリカにとって如何に由々しき問題であった のか、それは、アメリカのモデルケースとされ、50年代初頭には日本よりもGNPは上回っていたフィリピンが”アジアの病人”と言われる程零落したこと、しかも「開発独裁型」のモデルは他ならぬ日本であったことを考え合わせれば、その意味するところが明らかになるはずです。
近代modernとは<moedlモデル(模型)>がその優劣や侵犯力を競い、その結果如何が死命を宣する時代でもあります。 冷戦とは、畢竟、アメリカモデルとソ連モデルの優劣乃至は適格性を競うものであり、戦争に負けたわけでもないのに、ソ連が敗北したとされ、国家崩壊にまで立ち至るのも、このソ連モデルが劣ってる若しくは不適格であると見做されたからに他なりません。
モダニズムの元祖であるからこそ、「対日貿易摩擦」が深刻さを増していた80年代当時のアメリカに置いて観れば、
「開発独裁型」の成功の意味するもの、行き着く先が解ったはずです。 如何に軍事力が強大で、圧倒的であったとしても、<モデル>の適・不適の問題は、早晩、アメリカの指導力や影響力、即ちヘゲモニーの喪失に繋がりかねない(その後のソ連圏解体で、見事にそれは証明されました)!
所謂「フィリピン革命」(86年)は、そうしたアメリカ支配層の危機の産物と見るべきです。
国際政治には殆ど影響の無い、アメリカの旧植民地のこの国が、当時、注目を浴び続けたのは宗主国アメリカの世界戦略が働いていた、と。 アメリカの動向に敏感な韓国や台湾がその後(87年、88年)相次いで「民主化宣言」したのも、その意図を察知したからだと言えます。
当時、これを「マッカーサーが帰ってきた」とし、「対米3連敗の緩慢な過程に入った」と指摘した人※が居ましたが、慧眼というしかないー今にして思えば、事態の本質を見抜いた発言だったと言えます。
そうして、このスペクタクル「独裁者の追放劇」の本当の狙いが現れ出たのが、その後直ぐ、冷戦の終焉と踵を接して起こった「湾岸戦争」でした。 未だに「湾岸戦争」を「石油の為」と思い込んでる人が多いようですが、それは行きがけの駄賃程度であって、本当の狙いは、当時、イラクがアラブ世界でずば抜けた工業力を持つ産業国家として立ち上がってきたところに在るー従って、中東に「日本」を創らせないことにあったーのです。
それは、”イラクを石器時代に戻す”という米国務省高官の発言通り、その後の様々な口実を設けての、10年に渡る「制裁」で、軍事力と共に産業インフラを徹底的に弱体化させたところにも表れておりますし、逆にアメリカにとっての「日本」(恒久的軍事基地)を作るという目的で行われた「イラク戦争」の後に頻発したテロの 内容を観れば、宗派間や部族間の対立を煽り、内戦状態を作り出すという意図とは別に、大半の知識人や技術者が難民となって国外に逃れたことに表れてるように、そのターゲットが人的インフラ(知識人や技術者)に移ったことを示すものでした。
そしてその結果、120万人の殺傷と国内外に400万人の難民を出し、近代国家としては最早永久に再建出来ないとされるまでになっている。 一方、最近のオバマ発言に表れてる通り、これからも引き続き、5万人規模(在日米軍と同じ!)の米駐留軍が居 座り続けるのです。
見られる通り、「イラク戦争は失敗」と言われておりますが、この限りでは寧ろ成功しているのです!
ところで、この「石器時代に戻す」というセリフの初発は対日戦時のもの、事実敗戦時点で、工業都市56中52都市が焼け野原になり、工業インフラは徹底的に破壊されて、今後100年は復興は不可能と言われたものです。 また「財閥解体」等、GHQの当初の狙いも、「工業国家」として、2度と立ち上がって来れないようにすることでした。
周知の様に、この状況を一変させたのは共産中国の誕生と朝鮮戦争。 もし内戦で毛沢東が勝利していなかったら、又金日成が「南侵」しなかったら、日本の戦後復興は極めて困難なものとなったでしょう。
多くの者が「アメリカのお蔭」と思い込んでるようですが、もし蒋介石が勝っていたら、多くの工業資材が「賠償」の名目で中国に渡されただろうし、アメリカの関心の多くは中国に移ってたはずだから、日本はそのまま捨て置かれた可能性の方が高いーとすれば、戦後復興を寿ぐ者は毛沢東や金日成に足を向けて寝れないはずなのですがね。
とまれ、「湾岸戦争」の時点で、そのような米国の意図を読んでいたのが他ならぬ小沢一郎氏でした。 これはヤルタ体制(米ソ支配体制)の修整①(米単独支配)であり、又世界に向けては②「開発独裁型」による発展は許さない(その隠れた標的は日本である)ということである、と。 ①を逆に言うと、その修整の機会だからこそ、ヤルタ体制の負け組みの地位から脱却するチャンスでもある。 この時唱えた「国連中心主義」やその後の「国連待機軍構想」も又、同じ動機に基いています。
それは、国連を盾に、事実上、米軍事戦略の根幹(対中・露)を封ずるものであり、在日米軍基地或いは米軍駐留の意味を無化するものだからです。 そして②への対応が(アメリカ)モデルチェンジへの宣言。
当時も今も、私はこれには批判的ではありますが、政治指導者の立場として考えてみると、「日本封じ込め」が欧米で勢いを増してる中、しかもソ連に代わって欧米の主敵となることさえ予想されるとなると、半世紀前と同様負け戦的に受け入れるよりも、自ら積極的に選択した方が良いとするのは、強ち否定されるべきではないかも知れない、とは思います。 実際の経過も、やはり、負け戦的に受け入れることになったのですから。
最近の小沢氏を見て、宗旨替えをしたように感じてる人も多い様ですが、アメリカモデルの破綻や中国等の台頭によって、本来の(社会民主主義的な)立ち位置に戻ったと理解すべきでしょう。 これまで見たことで分かる通り、また”凶暴な熊には抱きつけばよい”との発言にある様に、<敵>を前にした戦術的な擬装と受け取るのが自然だからです。
さて、このように見てくると、「独裁者」という言葉が何故今更の様に登場し、声高に叫ばれるようになったか?そして何故「親米派」による小沢氏へのレッテルとなっているのか?解って来るのではないでしょうか。
丁度、戦時日本で相手を「非国民」と名指し=断罪することが自ら「帝国臣民」を模する行為であったように、かってのソ連や中国で、「反革命」と名指すことが相手の断罪=抹殺を意味したように、それは、戦後の支配体制(アメリカの帝国的支配)への忠誠(幻想の帝国臣民)を模すると同時に、その支配を揺るがす(と見做す)者への非難・罵倒であるーP.ニザン風に言えば”番犬”の所業ということです。
それを裏返しにすれば、帝国的支配への不服従のシンボルということに他ならない。
※平岡正明『マッカーサーが帰ってきた日 ーテレビはアメリカ占領軍が埋めた地雷か』
ファシズム(2)
2010-10-23
ファシズム考2 ーファシズムとは何だったのか?
投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:21:27
ファシズムが何だったのか?という理解の為には第一次大戦前後の状況乃びファシズム登場前夜の状況への理解が欠かせませんが、事柄の性質上、詳細な論証なり検証は省いておきます。
ただ第一次大戦(事柄の本質から言えば欧州大戦)が、欧州諸国における国民国家を基本とする国際関係の極大化として、19世紀後半より始まった「帝国主義のゲーム」の破綻であったことは概ね同意されると思います。
そして大戦の前後に現われた新たな状況ーロシア革命やドイツ革命(失敗)、そしてアメリカの参戦、これは何れも戦争の勝敗なりその帰趨を決定的にすると同時に、次代の新たな相貌を告知することとなりました。
即ち、ロシアやドイツが、大衆の反乱によって、戦争遂行が不可能になったのみならず、国家が転覆する事態となり、又その参戦が大戦の局面を決定的に変え、その後の戦後の国際秩序を主導するというように、アメリカが国際的なリーダーシップを握る地位に登場してくるーその後急速に国際政治の影の主役となっていったソ連を含めて考えると、国民国家を基本とするナショナリズムのゲームが成り立たなくなったこととインター・ナショナリズムを掲げた米ソの世界の舞台への登場は表裏の現象と捉えられますー。
そうして、これら一連の出来事が、無関係に起きてることではなく、底流では繋がってると見る思想や書物が現れて来る。
レーニンの思想及びその『帝国主義論』などは代表的なものでしょうが、今回の論旨に即して言えば次の二つが重要です。
『西洋の没落』『大衆の反逆』 『西洋の没落』については、その題名から分かるように、大戦を没落に至るプロセスと捉え、ヨーロッパが衰退に入ったことを論じるものです。 非西欧の我々から観れば米ソの登場は西洋の拡張にも見えるわけですが、当の西欧にとっては自分達の地位の低下と感じ取っているということが重要です。
言うまでも無く、西欧から見れば、米国やロシアは1ランクも2ランクも下の存在とそれまで見做してきたのですから。
そしてその意味を<大衆>という概念で鮮やかに描出してみせたのがオルテガ『大衆の反逆』です。 上でも言った様に、言うなれば戦争という最高の国策遂行を頓挫させたばかりか、国家体制の崩壊まで招き寄せる、他方その大衆の<自由>(米)<平等>(ソ連)を旗印にした国家が国際政治に大きな影響力を及ぼし始めて来る。
つまり、大衆の動向が決定的なカギを握る時代ー紛うことなき<大衆の時代>がやって来た、という事です。
従って、<大衆の時代>に合わせて国家や社会を創り変えていくことが必須の課題として求められて来る。
そうしてその際、大衆社会を、一挙に、暴力的に創り出して行く方法としてのボルシェヴィズムが圧倒的な影響力を持って来る。
-このように見て来ると、ファシズムとは何だったのか、解って来るのではないでしょうか?
殊に敗戦国だったドイツの場合は決定的ですが、旧来の支配層とその方法が信頼を喪う中で、新たに<大衆>印が刻印された<権力>及び社会を創出していく役割を担って登場したのがこれらの政党であり、その方法はボルシェヴィズムに強く影響されていた、ということです。
従って、この事から分かる通り、ファシズムとは、ソ連共産主義と同位の現象であると共に、アメリカの世界への登極に対応する現象だった、と言えます。
これを近代というやや巨視的な視点で観ると、アメリカ独立や産業革命等、海からの衝撃に対する陸の応答がフランス革命であり、そのヘゲモニーが西欧という地域の枠組みを越えたことを示すのがイギリスからアメリカへの覇権交代だったとするなら、それに対する陸の応答がロシア革命だった、ということになります。
つまり、フランス革命を大衆印に焼き直し、世界的にしたものがロシア革命だったという訳です。
従って、この角度から見れば、”ジャコバン独裁”と”ボルシェヴィキ独裁”は元より、19世紀の英仏対立と(間に英独対立を挟んで)20世紀の米ソ対立、”大陸封鎖”と”鉄のカーテン”がー<海>対<陸>の対立としてー類比的に捉えることが出来るでしょうし、所謂「赤軍大粛清」は、ソ連赤軍の中から「ナポレオン」が登場することへのスターリンの恐怖が真因※という説も肯けるでしょう。
他方、これを「アメリカの登極」という視点から観れば、アメリカが出て来なかったら「共産主義」もファシズムも出て来なかった!ーと言えるのです。
※これを、スターリンの妄想とか猜疑心といった様な、個人(資質)の問題に帰すことは誤りでしょう。 何故ならこれは、中国において、「人民解放軍」が何故「党の軍隊」であって「国家の軍隊」ではないのか?
所謂「林彪問題」とは何だったのか?を解く鍵である一方、ナポレオン中尉からチャベス中佐まで、多くの国において、軍人が政治の中心舞台に登場して来る必然性にも係って来る問題でもあるのですから。
投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:21:27
ファシズムが何だったのか?という理解の為には第一次大戦前後の状況乃びファシズム登場前夜の状況への理解が欠かせませんが、事柄の性質上、詳細な論証なり検証は省いておきます。
ただ第一次大戦(事柄の本質から言えば欧州大戦)が、欧州諸国における国民国家を基本とする国際関係の極大化として、19世紀後半より始まった「帝国主義のゲーム」の破綻であったことは概ね同意されると思います。
そして大戦の前後に現われた新たな状況ーロシア革命やドイツ革命(失敗)、そしてアメリカの参戦、これは何れも戦争の勝敗なりその帰趨を決定的にすると同時に、次代の新たな相貌を告知することとなりました。
即ち、ロシアやドイツが、大衆の反乱によって、戦争遂行が不可能になったのみならず、国家が転覆する事態となり、又その参戦が大戦の局面を決定的に変え、その後の戦後の国際秩序を主導するというように、アメリカが国際的なリーダーシップを握る地位に登場してくるーその後急速に国際政治の影の主役となっていったソ連を含めて考えると、国民国家を基本とするナショナリズムのゲームが成り立たなくなったこととインター・ナショナリズムを掲げた米ソの世界の舞台への登場は表裏の現象と捉えられますー。
そうして、これら一連の出来事が、無関係に起きてることではなく、底流では繋がってると見る思想や書物が現れて来る。
レーニンの思想及びその『帝国主義論』などは代表的なものでしょうが、今回の論旨に即して言えば次の二つが重要です。
『西洋の没落』『大衆の反逆』 『西洋の没落』については、その題名から分かるように、大戦を没落に至るプロセスと捉え、ヨーロッパが衰退に入ったことを論じるものです。 非西欧の我々から観れば米ソの登場は西洋の拡張にも見えるわけですが、当の西欧にとっては自分達の地位の低下と感じ取っているということが重要です。
言うまでも無く、西欧から見れば、米国やロシアは1ランクも2ランクも下の存在とそれまで見做してきたのですから。
そしてその意味を<大衆>という概念で鮮やかに描出してみせたのがオルテガ『大衆の反逆』です。 上でも言った様に、言うなれば戦争という最高の国策遂行を頓挫させたばかりか、国家体制の崩壊まで招き寄せる、他方その大衆の<自由>(米)<平等>(ソ連)を旗印にした国家が国際政治に大きな影響力を及ぼし始めて来る。
つまり、大衆の動向が決定的なカギを握る時代ー紛うことなき<大衆の時代>がやって来た、という事です。
従って、<大衆の時代>に合わせて国家や社会を創り変えていくことが必須の課題として求められて来る。
そうしてその際、大衆社会を、一挙に、暴力的に創り出して行く方法としてのボルシェヴィズムが圧倒的な影響力を持って来る。
-このように見て来ると、ファシズムとは何だったのか、解って来るのではないでしょうか?
殊に敗戦国だったドイツの場合は決定的ですが、旧来の支配層とその方法が信頼を喪う中で、新たに<大衆>印が刻印された<権力>及び社会を創出していく役割を担って登場したのがこれらの政党であり、その方法はボルシェヴィズムに強く影響されていた、ということです。
従って、この事から分かる通り、ファシズムとは、ソ連共産主義と同位の現象であると共に、アメリカの世界への登極に対応する現象だった、と言えます。
これを近代というやや巨視的な視点で観ると、アメリカ独立や産業革命等、海からの衝撃に対する陸の応答がフランス革命であり、そのヘゲモニーが西欧という地域の枠組みを越えたことを示すのがイギリスからアメリカへの覇権交代だったとするなら、それに対する陸の応答がロシア革命だった、ということになります。
つまり、フランス革命を大衆印に焼き直し、世界的にしたものがロシア革命だったという訳です。
従って、この角度から見れば、”ジャコバン独裁”と”ボルシェヴィキ独裁”は元より、19世紀の英仏対立と(間に英独対立を挟んで)20世紀の米ソ対立、”大陸封鎖”と”鉄のカーテン”がー<海>対<陸>の対立としてー類比的に捉えることが出来るでしょうし、所謂「赤軍大粛清」は、ソ連赤軍の中から「ナポレオン」が登場することへのスターリンの恐怖が真因※という説も肯けるでしょう。
他方、これを「アメリカの登極」という視点から観れば、アメリカが出て来なかったら「共産主義」もファシズムも出て来なかった!ーと言えるのです。
※これを、スターリンの妄想とか猜疑心といった様な、個人(資質)の問題に帰すことは誤りでしょう。 何故ならこれは、中国において、「人民解放軍」が何故「党の軍隊」であって「国家の軍隊」ではないのか?
所謂「林彪問題」とは何だったのか?を解く鍵である一方、ナポレオン中尉からチャベス中佐まで、多くの国において、軍人が政治の中心舞台に登場して来る必然性にも係って来る問題でもあるのですから。
ファシズム(3)
2010-10-23
ファシズム考3 大政翼賛会ーそれは政党が官僚に屈服した姿である
投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:17:36: HiXvZf/FmwPNU
それでは日本ではこの点はどうだったのか?というと、西欧と共通する要素と共に、それとは丸で異なった様相が見えて来ます。
「大正政変」等で、明治以来の薩長中心の「藩閥政治」が権威を失墜して行く中で登場してきた「政党政治」が、まさに西欧と同じく、「旧来の支配層とその方法が信頼を喪う中で、新たに<大衆>印が刻印された<権力>を創出していく役割を担って登場した」ものであることは、その指導的政治家であった原敬が「官僚機構内部への政党の影響力拡大強化」に腐心したことでも明らかでしょう。
勿論その他にも、高等教育の拡充や地方への利益配分等、様々な施策を無見れば、大衆社会とそれに合わせた国造りを行っていったことが見て取れます。
つまり、これらから導き出せる一般的な命題は、洋の東西問わず(勿論、これには中国の国民党や共産党も入ります)、政党とは大衆社会に応じた政治スタイルであり、何れも第一次大戦前後に登場した(アメリカの)時代に見合ったものだった、ということです。
そうして、彼我の違いを分けたものこそ<革命>の有り無し、即ち<大いなる権威>の喪失とその新たな創出が必要とされたかどうか、つまりボルシェヴィズムの客観的条件が在ったかどうか。
その点から観ると、大戦の勝ち組であり、明治以来の大いなる権威(=天皇)が存した日本においてはその条件はかった、或いは熟してなかったと言えます。 日本共産党の悲喜劇は、そのことを示して余りあるものです。 しかしながら、他方、その事が却って、大正から昭和の暗転をもたらしたのではなかったか?
政党政治の進展乃至展開は、そのまま行けば、明治以来の藩閥政治(有司専制)に代わる、新たな政治主体の形成を可能ならしめたかも知れない。
しかしながら、それによって、明治以来の既得権とか秩序が壊れることを恐れた支配層が徹底した反撃に出ます。 そしてその主役となったのが平沼騏一郎率いる司法官僚であったことは、今回の「小沢捜査」の本質を理解する上でも、極めて重要であろうと思われます。
何故なら、戦後、本格的にこの「政党政治」を実現しようとしたのが田中角栄であり、それ故彼は、76年夏の、(アメリカの意思を背景にした)霞ヶ関総意の「検察クーデター」で表舞台から排除されたのです。
小沢一郎はその田中角栄の衣鉢を継ぐ政党政治家と見做されてるが故に、検察を中心とする霞ヶ関、及び支配層に繋がる右派(更に左派も!)の<敵意>を一身に浴びているーつまり、この点においては、近代日本の構図は変わっていないーバックに宮廷官僚が居るのかアメリカが居るのかの違いのみーということです。
とまれ、その中心的政治家原敬がテロで倒され、後を継いだ政治家も検察や支配層に繋がる右派によって粛清・排除され、政党政治がガタガタになっていく。 西欧や中国などと異なり、日本においては政党は暴力化せず、逆に政党が暴力によって潰されていったのです。
従って、「政党政治」が瓦解した結果として出て来た「大政翼賛会」が何であるのか、明らかでしょう。
ーそれは「大政」(明治以来の政治の在り方=官僚専制)を「翼賛」するー即ち、官僚に政党が屈服した姿なのです。
そしてこのように見て来れば、現在の我々の直面する問題の在処及びその本質も見えて来るはずです。
先ず、ファシズムとは歴史現象、つまり大衆社会を創るという歴史的条件下で登場して来たのであって、再びファシズムが起こる事は有り得ません。
従って「ファッショ化の危機」論とか「小沢=ファシスト」説は完全に誤りであり、政党や政治家に原因や責任が有るかのような「大政翼賛会化」論議も認識が逆立ちしております。
正確に問うのであれば、再び政党が官僚に屈服して仕舞うのか?-でなければならない。
柄谷行人が言う様に、所詮「議会制民主主義とは、実質的に、官僚或いはそれに類する者たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思い込むようにする、手の込んだ手続き」(『世界共和国へ』)だとしても、「官僚或いはそれに類する者」が必ずしも霞ヶ関とイクオールではないのだから。
無論、より本質的に問うのなら、政党政治の有効性(これは国内的にも国際的にも)ということで、これは国民国家及び大衆社会の行く末ー従って<アメリカの時代>がどうなるのか?ーということにも関わって来ざるを得ない問題ですから、本来はそういった視点も入れて論じられるべきでしょう。
しかしながら、少なくとも当面、政治の主体としては政党以外は考えられないとしたら、政党機能の強化や政党の官僚に対する優位性の確保の問題等は決して蔑ろに出来ないと考えます。
分けても国際政治において、日本が主体的な外交を行ったのは田中内閣の時を除いて殆ど無かったところに表れてる様に、官僚が主役である限り”数の子”的なことしか出来ないでしょうし、又米国の占領支配も安泰でしょう。
何故なら、官僚は、或る枠組みの中での事務的処理能力には長けていても、その枠組み自体を変えたり、創っていくという政治本来の権能は有していないからです。
この政治本来の権能を有する主体の形成という問題は、”大正デモクラシ-”下の原敬の蹉跌、”戦後民主主義”下の田中角栄の蹉跌を経て、現在になお引き継がれた未成の問題として※、我々の前に在ると考えねばならない。
つまり、(官僚に対する)政治の復権と(米国からの)主権回復は同位の問題として把握されなければならないのです。
他方又同時に、昭和前期の所謂「日本型ファシズム」や所謂「軍国主義」にしても、本来は、この問題を措いては考えられません。 そうして更には、先の戦争は本当は何だったのか?ということも。
※”平民宰相”原敬と”庶民宰相”田中角栄は、近代日本のエスタブリッシュメント=支配層とは外れてることでも類比的であり、
原敬(大元から言えば星亨)から犬養毅までと、(大元から言えば鳩山一郎)田中角栄から小沢一郎までは、政党政治家として、本来ひと繋がりに連なっていると見做さなければならない。
投稿者 影の闇 日時 2010 年 10 月 22 日 20:17:36: HiXvZf/FmwPNU
それでは日本ではこの点はどうだったのか?というと、西欧と共通する要素と共に、それとは丸で異なった様相が見えて来ます。
「大正政変」等で、明治以来の薩長中心の「藩閥政治」が権威を失墜して行く中で登場してきた「政党政治」が、まさに西欧と同じく、「旧来の支配層とその方法が信頼を喪う中で、新たに<大衆>印が刻印された<権力>を創出していく役割を担って登場した」ものであることは、その指導的政治家であった原敬が「官僚機構内部への政党の影響力拡大強化」に腐心したことでも明らかでしょう。
勿論その他にも、高等教育の拡充や地方への利益配分等、様々な施策を無見れば、大衆社会とそれに合わせた国造りを行っていったことが見て取れます。
つまり、これらから導き出せる一般的な命題は、洋の東西問わず(勿論、これには中国の国民党や共産党も入ります)、政党とは大衆社会に応じた政治スタイルであり、何れも第一次大戦前後に登場した(アメリカの)時代に見合ったものだった、ということです。
そうして、彼我の違いを分けたものこそ<革命>の有り無し、即ち<大いなる権威>の喪失とその新たな創出が必要とされたかどうか、つまりボルシェヴィズムの客観的条件が在ったかどうか。
その点から観ると、大戦の勝ち組であり、明治以来の大いなる権威(=天皇)が存した日本においてはその条件はかった、或いは熟してなかったと言えます。 日本共産党の悲喜劇は、そのことを示して余りあるものです。 しかしながら、他方、その事が却って、大正から昭和の暗転をもたらしたのではなかったか?
政党政治の進展乃至展開は、そのまま行けば、明治以来の藩閥政治(有司専制)に代わる、新たな政治主体の形成を可能ならしめたかも知れない。
しかしながら、それによって、明治以来の既得権とか秩序が壊れることを恐れた支配層が徹底した反撃に出ます。 そしてその主役となったのが平沼騏一郎率いる司法官僚であったことは、今回の「小沢捜査」の本質を理解する上でも、極めて重要であろうと思われます。
何故なら、戦後、本格的にこの「政党政治」を実現しようとしたのが田中角栄であり、それ故彼は、76年夏の、(アメリカの意思を背景にした)霞ヶ関総意の「検察クーデター」で表舞台から排除されたのです。
小沢一郎はその田中角栄の衣鉢を継ぐ政党政治家と見做されてるが故に、検察を中心とする霞ヶ関、及び支配層に繋がる右派(更に左派も!)の<敵意>を一身に浴びているーつまり、この点においては、近代日本の構図は変わっていないーバックに宮廷官僚が居るのかアメリカが居るのかの違いのみーということです。
とまれ、その中心的政治家原敬がテロで倒され、後を継いだ政治家も検察や支配層に繋がる右派によって粛清・排除され、政党政治がガタガタになっていく。 西欧や中国などと異なり、日本においては政党は暴力化せず、逆に政党が暴力によって潰されていったのです。
従って、「政党政治」が瓦解した結果として出て来た「大政翼賛会」が何であるのか、明らかでしょう。
ーそれは「大政」(明治以来の政治の在り方=官僚専制)を「翼賛」するー即ち、官僚に政党が屈服した姿なのです。
そしてこのように見て来れば、現在の我々の直面する問題の在処及びその本質も見えて来るはずです。
先ず、ファシズムとは歴史現象、つまり大衆社会を創るという歴史的条件下で登場して来たのであって、再びファシズムが起こる事は有り得ません。
従って「ファッショ化の危機」論とか「小沢=ファシスト」説は完全に誤りであり、政党や政治家に原因や責任が有るかのような「大政翼賛会化」論議も認識が逆立ちしております。
正確に問うのであれば、再び政党が官僚に屈服して仕舞うのか?-でなければならない。
柄谷行人が言う様に、所詮「議会制民主主義とは、実質的に、官僚或いはそれに類する者たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思い込むようにする、手の込んだ手続き」(『世界共和国へ』)だとしても、「官僚或いはそれに類する者」が必ずしも霞ヶ関とイクオールではないのだから。
無論、より本質的に問うのなら、政党政治の有効性(これは国内的にも国際的にも)ということで、これは国民国家及び大衆社会の行く末ー従って<アメリカの時代>がどうなるのか?ーということにも関わって来ざるを得ない問題ですから、本来はそういった視点も入れて論じられるべきでしょう。
しかしながら、少なくとも当面、政治の主体としては政党以外は考えられないとしたら、政党機能の強化や政党の官僚に対する優位性の確保の問題等は決して蔑ろに出来ないと考えます。
分けても国際政治において、日本が主体的な外交を行ったのは田中内閣の時を除いて殆ど無かったところに表れてる様に、官僚が主役である限り”数の子”的なことしか出来ないでしょうし、又米国の占領支配も安泰でしょう。
何故なら、官僚は、或る枠組みの中での事務的処理能力には長けていても、その枠組み自体を変えたり、創っていくという政治本来の権能は有していないからです。
この政治本来の権能を有する主体の形成という問題は、”大正デモクラシ-”下の原敬の蹉跌、”戦後民主主義”下の田中角栄の蹉跌を経て、現在になお引き継がれた未成の問題として※、我々の前に在ると考えねばならない。
つまり、(官僚に対する)政治の復権と(米国からの)主権回復は同位の問題として把握されなければならないのです。
他方又同時に、昭和前期の所謂「日本型ファシズム」や所謂「軍国主義」にしても、本来は、この問題を措いては考えられません。 そうして更には、先の戦争は本当は何だったのか?ということも。
※”平民宰相”原敬と”庶民宰相”田中角栄は、近代日本のエスタブリッシュメント=支配層とは外れてることでも類比的であり、
原敬(大元から言えば星亨)から犬養毅までと、(大元から言えば鳩山一郎)田中角栄から小沢一郎までは、政党政治家として、本来ひと繋がりに連なっていると見做さなければならない。