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もうすぐ北風が強くなる

原発から600km、4度の手術27年後に息子は亡くなった

 「甲状腺がんの転移で息子を亡くしたウクライナの父」原発から600km年間1ミリシーベルトを超えるか超えないかの地域 OurPlanetTV   文字起こし「kiikochan.blog」から  

動画「甲状腺がんの転移で息子を亡くしたウクライナの父」

白石:
7月20日と21日の二日間、「原発を問う民衆法廷」の東京最終法廷が開催されました。
今日のコンタクトはその民衆法廷に参加するために初来日した
ウクライナ­のシテフォルク・バレンティンさんにお話を伺います。
よろしくお願いいたします。
バレンティンさんは、現在57歳という事で、
30歳の時にチェルノブイリ原発事故が起きたのですけれども、
その時の状況を教えていただけますか?

バレンティン:
チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日に起きました。
私はドネツクで、妻と息子と9階建ての集合住宅に住んでいました。
私は炭鉱で働いていました。

白石:
いま場所だけ確認したいと思うんですけど、今お話しいただいたドネツクという場所は、
チェルノブイリ原子力発電所から、大体600kmぐらい離れた場所にあって、
ウクライナ

今この地図で見ると1986年5月10日。
事故から2週間ぐらい後のセシウム137の蓄積量ですね。
ドネツクというのは大体平方mあたり4万ベクレルぐらいというような濃度で、
「年間1ミリシーベルトをちょっと超えるか超えないかぐらいの濃さなのかな」
というふうに思っているんですけれども、
みなさんはなにかそういう、自分たちがどの位のところにいるのかとか、
そういう事とは知らずに特に防護とかしなかったのか、
そこら辺のところを教えていただけますか?

バレンティン:
ドネツクでは、対策について誰も教えてくれませんでした。
薬を服用したり、マスクを着けることはありませんでした。
テレビでプリピャチの様子を見ました。
事故処理作業員や運転手、警官たちがマスクを着けて、汚染地域を閉鎖していました。
車がひっきりなしに出入りし、放射能汚染がひどいため除染も行われました。
しかしドネツクでは、特別な対策はとられませんでした。

白石:
当時4歳だった息子さんが、その後甲状腺がんを発症したという事でお聞きしているんですけれども、
いつ、どういうふうに見つかったのか、そのあたりを教えていただけますか?

バレンティン:
息子は1981年生まれで、5歳を迎える年に原発事故が起こりました。
甲状腺がんが見つかったのは13歳の時でした。
息子が13歳の夏休みの事です。
海から帰って来た時、首の膨らみが肉眼で分かるほどになっていました。
腫瘍であることは明らかでした。

白石:
見つかった1995年というと、まだ国際的には
甲状腺がんと被ばくとの因果関係というのが認められていない時点だったと思うんですけれども、
お父さんとお母さんとお二人は、息子さんの闘病で大変だったと思うんですけれども、

バレンティン:
ドネツクの小児科の病院で1回目の手術を受けました。
良性の腫瘍だと診断され、何も心配ないと言われました。
手術のあとは小さくて、3センチ程切っただけでした。
しかし、翌年にまた腫瘍が見つかりました。
今度は大きな手術になり、残された傷跡も大きく、ここで初めて甲状腺がんであると宣告されました。

3回目の手術はキエフの内分泌研究所で行いました。
ここで甲状腺を取り除きました。
妻がキエフまで付き添っていきました。
3回目の手術後に医師の証明書が出ました。
息子はチェルノブイリ原発事故の第2級障害者と認定されました。

白石:
3回目のあと、さらに海外のフランスで手術を受けたというふうにも聞いているんですけど、
さらに海外でも手術を受ける必要があったんですか?

バレンティン:
3回目の手術は腫瘍を全部摘出することができませんでした。
手術は成功しなかった。
・・・・また腫瘍が見つかってしまった。
腫瘍が完全に摘出されなかったのでもう一度手術を受ける必要があるという話になりました。

その後、チェルノブイリこども基金の代表をしていた広川隆一さんと出会い、
手術の経過を伝えました。
広河さんはチェルノブイリ子ども基金内で話合い、支援を決めてくれたのです。
そこで、ドイツかフランスで手術のできる良い病院を探してもらいました。

白石:その後、いったん日常生活は送れたけれども、再び再発してしまったと。

バレンティン:
フランスの手術後、息子も私たち家族も幸せでした。
息子は健康でしたし、私も妻も元気に働いていました。
手術後は甲状腺を切除したので、毎日薬を服用していました。
それでもフランス語を勉強し、大学も無事に卒業しました。
そして銀行に就職し、立派に働いていた
のです。

息子の背は私より大きく、身体もがっしりとしていました。
ハンサムだったので女性にモテました。

しかし、障害再認定の検査の際に癌の再発が見つかりました。
息子が無くなる最後の3年間はとても辛い日々でした。
私も妻もキエフの病院で息子に付き添いました。
常に息子の病状を心配しながらドネツクとキエフを行き来する日々でした。

妻は心労に耐え切れず、2年前の11月に亡くなりました。
そして息子は去年の7月19日に亡くなりました。
強い息子でした。

白石:
本当に1年前という事で、
私たち、チェルノブイリの情報はいろいろ聞いているんですけれども、
甲状腺がんはわりと予後が良いというか、治るというふうに聞いていて、
亡くなっている人もほとんど僅かというふうに聞いていたんですけど、

そういうふうに、ある一定の期間をおいてから再発されて、
そういう残念な結果になってしまう事を始めて知ったんですけれども、
いま、もしこの日本の社会とか、あるいは日本の人達に、
27年の御自身の経験をなにか言える事があるとしたら何を一番伝えたいというふうに思いますか?

バレンティン:
ドネツクはチェルノブイリ原発から遠い場所にありますし、
風向きはドネツクの方角に向いていませんでした

具体的な防護策や危険性について誰も教えてくれませんでした。
残念なことに、もう私には家族がいません。
とても苦しい思いをしています。

日本は領土の小さな国です。
再び事故が起きれば大変です。
このような事故を2度と繰り返さないように、
福島の事故処理が一刻も早く終わり、安全になるように祈っています。
みなさんが平和で健康でより良い生活が送れるよう
に祈っています。

白石:ありがとうございました。

ウクライナ­のシテフォルク・バレンティンさん57歳。
7月に東京で開催された「原発を問う民衆法廷」で証言するために初来日。
バレンティンさんは、チェルノブイリ原発事故時、30歳。
原発から600キロ離れたド­ネツクで炭鉱夫をしていた。
事故当時4歳の息子が13歳の時、甲状腺がんを発症。
息子­さんは、10代で4度の手術を行い、甲状腺を摘出

他の臓器へ転移しており、昨年31­歳で亡くなった。
 ーーーーーーーーーーーーーーー
※(北風) 「600kmもの距離があり、年間1ミリシーベルトをちょっと超えるか超えないくらい」とは言っても、それはセシウム137のこと。
 最初のヨウ素の流れは風向きにもよる。チェリノブイリは爆発で高空に吹上げられた軽いヨウ素がどのように流れたかはわかっていない。
 セシウム137で年間1ミリシーベルトをちょっと超えるか超えないくらい、の場所の居住でも危険な可能性は十分にある。

 もとより、二百数十種の各種の中で測定しやすいセシウムを目安にしているのである。
 あくまで「目安」なのだ。
 年間1ミリシーベルト以上を基準とする「放射線管理区域」は法定であり、この基準が守られなければならない。

 またセシウム137のみを取り上げても、チェリノブイリ事故でさえ未だ「半滅期」に至っていないということも重要で決して忘れてはならないことだ。
 「今も未来も続く欧州の食品汚染

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