公共事業悪玉論は国家的な自殺行為:三橋
2012-03-23
国家的自殺を後押しする者たち 3/22 三橋貴明 Klugから
97年の橋本政権による緊縮財政開始以降、日本の公共投資は「日本史上空前」のペースで減らされた。特に、道路関連の建設投資が減らされに減らされ、今や日本の高速道路のサービスは、主要先進国最低であるのはもちろんのこと、韓国にさえ劣っている。
日本の公共投資は、国土的条件がまるで異なるフランスを、08年以降に対GDP比で下回るようになってしまった。フランスと日本とでは何が違うのかと言えば、ずばり「自然災害の有無」と「国土的条件」である。
フランスは南東部のアルプス山岳地帯のごくわずかな地域を除くと、地震がない。「地震が少ない」のではない。「地震がない」のだ。それに対し、日本は国土面積は世界のわずかに0.3%に過ぎないにも関わらず、マグニチュード6以上の大地震が集中して発生する。何しろ、日本列島はユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートと、四つの大陸プレートが交差する真上にある。
フランスに行かれた方は、是非、高速道路の「脚」に注目して欲しい。フランスのシャルル・ド・ゴール空港からパリ市内に向かう高速道路の橋脚は、まるで「板」のように見える。要するに、薄いのだ。それに対し、日本の高速道路の橋脚は、太い柱になっている。あれは別にわざわざコストをかけているわけではなく、あの構造にしなければ、頻発する地震に橋脚が堪えられないためなのである。ちなみに、フランスのパリ周辺では、有史以来、大地震が起きたことがない。
また、日本は国土が細長く、真ん中に脊梁山脈が走っている。さらに、一級水系(河川)が109、二級水系は2713もある。国土が山岳地帯と河川だらけになっているのだ。結果的に、高速道路一本引くにしても、トンネルや橋梁を設置しなければならない。さもなければ、日本国内の物流や人々の流れは、「自然」により分断されてしまうのである。
それに対し、フランスは国土の70%以上が平野だ。しかも、アルプスがある南部を除き、残りが「全て平野」なのである。南はトゥールーズから、ボルドー、ナント、ブレスト、ル・マン、パリ、ランスに至るまで、およそ1000Km以上の広大な地域に平野が広がっている。山がないのみならず、河川も少ない。あるにはあるのだが、フランスの河川は「少数の長大な河川」が、広大な平野をゆったりと流れていく。そのため、高速道路を建設する際のコストが、日本と比較すると安くなる。トンネルや橋梁の数が少ないわけだから、当然だ。
しかも、日本には台風が来るため、水害や土砂災害にも備えなければならない。さらに、豪雪地帯の問題もある。日本のように、新潟のような大都市が豪雪地帯に立地している国は、世界中にどこにもない。(日本より寒い地域に都市が存在するケースはあるが、豪雪地帯はない)
当たり前だが、フランスに台風は来ない。豪雪地帯もない。結果的に、フランスは高速道路を建設するに際し、「自然災害」や「地形」に妨げられることがほとんどない。
このフランスの公共投資対GDP比率を、日本が下回ってしまったのだ。これはもはや、国家的自殺としか表現のしようがない。
【図146-1 主要国一般政府公的固定資本形成対GDP比率の推移(単位:%)】

出典:「建設業ハンドブック2011」
※公営企業の公共投資、及び用地費等は含まれていない
日本の中央政府及び地方自治体(一般政府)の公的固定資本形成対GDP比率は、08年に3%という恐るべき水準にまで低下した。自然災害が多発し、山脈や河川が多い日本の場合、一般政府の公的固定資本形成対GDP比率を、せめて6%程度で維持しなければ、国民の安全を守ることはできない。ところが、今や自然災害が相対的に少ない欧米諸国と同じ水準にまで下がってしまった。
ちなみに、日本以外の主要国の一般政府が、公共投資をどのように推移させてきたか。橋本政権以降の日本と比較すると、眩暈がするような状況であることが理解できる。
図146-2の通り、イギリスやアメリカは公共投資を96年比で3倍前後にまで拡大している。カナダは2倍、フランスは1.65倍だ。ドイツは一時的に公共投資を減らしてはいたが、09年には96年と同水準に戻している。
それに対し、日本のみが延々と公共投資の削減を続け、96年比で半分にまで縮小してしまった。この「惨状」を見て、それでも、
「日本の公共投資は多すぎる!」
などと言ってのける評論家がいるのであれば、その理由を論理的に説明しなければならない。結局のところ、彼らはデータや他国の状況を見ることもなく、単純に「イメージ」あるいは「ノリ」で、日本の公共投資を批判しているだけなのではないか。すなわち、イデオロギーとしての「公共投資悪玉論」だ。
【図146-2 主要国一般政府公的固定資本形成の推移(96年=100)】

出典:同
日本の公共投資は、別に外国から指摘されて減らしてきたわけではない。国内マスコミを中心に、データではなくイデオロギーに基づき展開された公共投資悪玉論に、政府が逆らえなくなってしまった結果である。無論、最終的な責任は、公共投資の必要性について正しく説明しなかった政治家、さらに言えば彼らを当選させた国民に帰せられてしまうのだが、それにしてもマスコミの「公共投資嫌い」は異常だ。
公共投資をイデオロギー的に否定するといえば、代表的なマスコミが朝日新聞になる。
『2012年3月10日 朝日新聞「津波からの復興―もっと「なりわいの再建」を」
http://www.asahi.com/paper/editorial20120310.html
「コンクリートの復興」は進んでも、「なりわいの再建」が置き去りになっていないか。 東日本大震災から1年たち、その点が気になる。もともと高齢化と過疎化が進む地域だ。仕事がなければ、現役世代の流出は加速する。防災都市が完成したが、職のない高齢者が暮らすばかり。そんな未来にしてはならない。被災地には、いまこの時も、深刻な危機が忍び寄る。その認識を共有すべきである。
■「土建回帰」を避けよ
津波への備えは大切だ。だが、私たちは倒壊したコンクリートの構造物を目の当たりにし、それに頼り切る危うさを実感した。いま被災地では、以前より巨大な構造物を造る槌音(つちおと)が高い。岩手県の釜石湾口防波堤の復旧工事が、先月から始まった。31年の歳月と1200億円をかけた「世界最深」の防波堤は津波で破壊され、市街地は壊滅的被害を受けた。ところが政府は「津波のエネルギーを減殺した」と復旧を決定。500億円を投じる計画なのだ。
高速道路の建設もすすむ。仙台・八戸間を結ぶ三陸沿岸道路は多くの利用者が見込めないことから、政権交代後は予算が減っていた。それを地元自治体は、震災時の避難に使われた「命の道」だと建設促進を働きかけ、バッジやビデオまで作った。これらの高速は「復興道路」として、今年度当初で270億円だった予算が1200億円に補正で増額された。379キロを7年から10年でつくるという。
これには首をかしげる。増税までして集めた資金には限りがある。津波対策を進めるなら、高速道路よりも高台移転の支援を優先すべきではないのか。同じ道路なら、まずは高台へ逃げる避難路だ。 だいたい、こんな集中投資が何年続くというのか。一時だけの「土建国家」復活は、その反動のほうが心配だ。(後略)』
実際に被災地に入れば分かるが、防波堤がなかった釜石北部は街が「壊滅状態」にも関わらず、釜石中心地は比較的被害が少なかった。より具体的に書けば、現在の釜石北部が「荒野」と化しているのに対し、釜石中心部は建物や道路が残っており、普通の「生業」が営まれているのだ。
釜石湾口防波堤は確かに釜石中心部を完全には守れなかった。だが、数兆円規模の市民の財産を守ったのである。1200億円の費用をかけたが、十分にそれ以上の便益はあったのだ。
それにも関わらず、朝日新聞は「市街地は壊滅的被害を受けた」と印象操作を行っている。朝日新聞の言う「壊滅的被害」の定義は知らないが、現地に行けば、防波堤が存在しなかった釜石北部と、存在した釜石中心部では、明らかに被害状況が異なることが分かる。何しろ、釜石中心部には「街」がそのまま残っているのだ。
さらに、震災のわずか6日前に開通した三陸縦貫自動車道の「釜石市-山田町区間」、通称「釜石山田道路」は、実際に「命の道」として、大勢の釜石市民の生命を救った。釜石山田道路が開通していなかった場合、津波から避難した釜石北部の人々が孤立し、冗談抜きで衰弱死や餓死が発生しかねない状況だったのだ。
釜石北部と釜石中心部を結ぶ国道45号線は全く通れない状況になり、釜石北部の人々(小中学生を含む)は、釜石山田道路を通って釜石中心部に避難することができた(小中学生は、トラックでピストン輸送された)。
釜石山田道路が、開通していなかった場合、どうなっていたか。実際に現地に入り、釜石の人々の話を聞きさえすれば、「命の道」を否定することができる日本国民など皆無であると確信している。(朝日新聞の記者は例外かも知れないが)
朝日新聞は「過疎地の公共事業など無駄だ」というスタイルの記事を書いているが、話は真逆だ。そもそも、公共事業でインフラが整備されていない地域において、企業がビジネスを展開することは有り得ない。人口減少を押しとどめたいのであれば、なおのこと、地域の公共投資にお金を使わなければならないのである。
そもそも、投資とは「将来世代のため」あるいは「将来の利益のため」に実施される。特に、公共投資の場合は現在の世代ではなく、「将来の日本国民」を潤すという色が濃くなる。釜石湾港防波堤は、確かに建設に従事した企業や従業員の所得拡大に貢献した。
とはいえ、そもそもの目的は当時の釜石市民のみならず、「将来の釜石市民」の生命を津波から守ることだったのだ。確かに完全とは言えなかったが、釜石湾港防波堤は建設時から見れば「将来の釜石市民の生命や財産」を守った。これこそが、公共投資の本質だ。
すなわち、朝日新聞に代表される公共投資否定論者たちは、
「将来世代など、どうでもいい。自分が潤えばいい」
と言っているのも同然なのである。言葉を選ばずに書くが、おぞましい考え方だ。
おぞましいと言えば、民主党の「コンクリートから人へ」も同様だ。「コンクリート」とは公共投資であり、「人」とは社会保障支出のことである。民主党の「コンクリートから人へ」は、将来世代のための「コンクリートへの投資」を拒否し、「現在の世代のみが潤う」社会保障を増やすという考え方なのだ。確かに選挙対策としては有効なのかも知れないが、おぞましい考え方であることに変わりはない。
朝日新聞などの公共投資否定論者たちは、日本国の「国家的自殺」を後押しし、国民の生命を危険にさらしている。今回の震災や復興を機に、日本国民が「虚偽」の公共投資悪玉論から脱却することができなければ、我々は将来世代に対する責任を果たせないということになる。
果たして、本当にそれでいいのだろうか。
97年の橋本政権による緊縮財政開始以降、日本の公共投資は「日本史上空前」のペースで減らされた。特に、道路関連の建設投資が減らされに減らされ、今や日本の高速道路のサービスは、主要先進国最低であるのはもちろんのこと、韓国にさえ劣っている。
日本の公共投資は、国土的条件がまるで異なるフランスを、08年以降に対GDP比で下回るようになってしまった。フランスと日本とでは何が違うのかと言えば、ずばり「自然災害の有無」と「国土的条件」である。
フランスは南東部のアルプス山岳地帯のごくわずかな地域を除くと、地震がない。「地震が少ない」のではない。「地震がない」のだ。それに対し、日本は国土面積は世界のわずかに0.3%に過ぎないにも関わらず、マグニチュード6以上の大地震が集中して発生する。何しろ、日本列島はユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートと、四つの大陸プレートが交差する真上にある。
フランスに行かれた方は、是非、高速道路の「脚」に注目して欲しい。フランスのシャルル・ド・ゴール空港からパリ市内に向かう高速道路の橋脚は、まるで「板」のように見える。要するに、薄いのだ。それに対し、日本の高速道路の橋脚は、太い柱になっている。あれは別にわざわざコストをかけているわけではなく、あの構造にしなければ、頻発する地震に橋脚が堪えられないためなのである。ちなみに、フランスのパリ周辺では、有史以来、大地震が起きたことがない。
また、日本は国土が細長く、真ん中に脊梁山脈が走っている。さらに、一級水系(河川)が109、二級水系は2713もある。国土が山岳地帯と河川だらけになっているのだ。結果的に、高速道路一本引くにしても、トンネルや橋梁を設置しなければならない。さもなければ、日本国内の物流や人々の流れは、「自然」により分断されてしまうのである。
それに対し、フランスは国土の70%以上が平野だ。しかも、アルプスがある南部を除き、残りが「全て平野」なのである。南はトゥールーズから、ボルドー、ナント、ブレスト、ル・マン、パリ、ランスに至るまで、およそ1000Km以上の広大な地域に平野が広がっている。山がないのみならず、河川も少ない。あるにはあるのだが、フランスの河川は「少数の長大な河川」が、広大な平野をゆったりと流れていく。そのため、高速道路を建設する際のコストが、日本と比較すると安くなる。トンネルや橋梁の数が少ないわけだから、当然だ。
しかも、日本には台風が来るため、水害や土砂災害にも備えなければならない。さらに、豪雪地帯の問題もある。日本のように、新潟のような大都市が豪雪地帯に立地している国は、世界中にどこにもない。(日本より寒い地域に都市が存在するケースはあるが、豪雪地帯はない)
当たり前だが、フランスに台風は来ない。豪雪地帯もない。結果的に、フランスは高速道路を建設するに際し、「自然災害」や「地形」に妨げられることがほとんどない。
このフランスの公共投資対GDP比率を、日本が下回ってしまったのだ。これはもはや、国家的自殺としか表現のしようがない。
【図146-1 主要国一般政府公的固定資本形成対GDP比率の推移(単位:%)】

出典:「建設業ハンドブック2011」
※公営企業の公共投資、及び用地費等は含まれていない
日本の中央政府及び地方自治体(一般政府)の公的固定資本形成対GDP比率は、08年に3%という恐るべき水準にまで低下した。自然災害が多発し、山脈や河川が多い日本の場合、一般政府の公的固定資本形成対GDP比率を、せめて6%程度で維持しなければ、国民の安全を守ることはできない。ところが、今や自然災害が相対的に少ない欧米諸国と同じ水準にまで下がってしまった。
ちなみに、日本以外の主要国の一般政府が、公共投資をどのように推移させてきたか。橋本政権以降の日本と比較すると、眩暈がするような状況であることが理解できる。
図146-2の通り、イギリスやアメリカは公共投資を96年比で3倍前後にまで拡大している。カナダは2倍、フランスは1.65倍だ。ドイツは一時的に公共投資を減らしてはいたが、09年には96年と同水準に戻している。
それに対し、日本のみが延々と公共投資の削減を続け、96年比で半分にまで縮小してしまった。この「惨状」を見て、それでも、
「日本の公共投資は多すぎる!」
などと言ってのける評論家がいるのであれば、その理由を論理的に説明しなければならない。結局のところ、彼らはデータや他国の状況を見ることもなく、単純に「イメージ」あるいは「ノリ」で、日本の公共投資を批判しているだけなのではないか。すなわち、イデオロギーとしての「公共投資悪玉論」だ。
【図146-2 主要国一般政府公的固定資本形成の推移(96年=100)】

出典:同
日本の公共投資は、別に外国から指摘されて減らしてきたわけではない。国内マスコミを中心に、データではなくイデオロギーに基づき展開された公共投資悪玉論に、政府が逆らえなくなってしまった結果である。無論、最終的な責任は、公共投資の必要性について正しく説明しなかった政治家、さらに言えば彼らを当選させた国民に帰せられてしまうのだが、それにしてもマスコミの「公共投資嫌い」は異常だ。
公共投資をイデオロギー的に否定するといえば、代表的なマスコミが朝日新聞になる。
『2012年3月10日 朝日新聞「津波からの復興―もっと「なりわいの再建」を」
http://www.asahi.com/paper/editorial20120310.html
「コンクリートの復興」は進んでも、「なりわいの再建」が置き去りになっていないか。 東日本大震災から1年たち、その点が気になる。もともと高齢化と過疎化が進む地域だ。仕事がなければ、現役世代の流出は加速する。防災都市が完成したが、職のない高齢者が暮らすばかり。そんな未来にしてはならない。被災地には、いまこの時も、深刻な危機が忍び寄る。その認識を共有すべきである。
■「土建回帰」を避けよ
津波への備えは大切だ。だが、私たちは倒壊したコンクリートの構造物を目の当たりにし、それに頼り切る危うさを実感した。いま被災地では、以前より巨大な構造物を造る槌音(つちおと)が高い。岩手県の釜石湾口防波堤の復旧工事が、先月から始まった。31年の歳月と1200億円をかけた「世界最深」の防波堤は津波で破壊され、市街地は壊滅的被害を受けた。ところが政府は「津波のエネルギーを減殺した」と復旧を決定。500億円を投じる計画なのだ。
高速道路の建設もすすむ。仙台・八戸間を結ぶ三陸沿岸道路は多くの利用者が見込めないことから、政権交代後は予算が減っていた。それを地元自治体は、震災時の避難に使われた「命の道」だと建設促進を働きかけ、バッジやビデオまで作った。これらの高速は「復興道路」として、今年度当初で270億円だった予算が1200億円に補正で増額された。379キロを7年から10年でつくるという。
これには首をかしげる。増税までして集めた資金には限りがある。津波対策を進めるなら、高速道路よりも高台移転の支援を優先すべきではないのか。同じ道路なら、まずは高台へ逃げる避難路だ。 だいたい、こんな集中投資が何年続くというのか。一時だけの「土建国家」復活は、その反動のほうが心配だ。(後略)』
実際に被災地に入れば分かるが、防波堤がなかった釜石北部は街が「壊滅状態」にも関わらず、釜石中心地は比較的被害が少なかった。より具体的に書けば、現在の釜石北部が「荒野」と化しているのに対し、釜石中心部は建物や道路が残っており、普通の「生業」が営まれているのだ。
釜石湾口防波堤は確かに釜石中心部を完全には守れなかった。だが、数兆円規模の市民の財産を守ったのである。1200億円の費用をかけたが、十分にそれ以上の便益はあったのだ。
それにも関わらず、朝日新聞は「市街地は壊滅的被害を受けた」と印象操作を行っている。朝日新聞の言う「壊滅的被害」の定義は知らないが、現地に行けば、防波堤が存在しなかった釜石北部と、存在した釜石中心部では、明らかに被害状況が異なることが分かる。何しろ、釜石中心部には「街」がそのまま残っているのだ。
さらに、震災のわずか6日前に開通した三陸縦貫自動車道の「釜石市-山田町区間」、通称「釜石山田道路」は、実際に「命の道」として、大勢の釜石市民の生命を救った。釜石山田道路が開通していなかった場合、津波から避難した釜石北部の人々が孤立し、冗談抜きで衰弱死や餓死が発生しかねない状況だったのだ。
釜石北部と釜石中心部を結ぶ国道45号線は全く通れない状況になり、釜石北部の人々(小中学生を含む)は、釜石山田道路を通って釜石中心部に避難することができた(小中学生は、トラックでピストン輸送された)。
釜石山田道路が、開通していなかった場合、どうなっていたか。実際に現地に入り、釜石の人々の話を聞きさえすれば、「命の道」を否定することができる日本国民など皆無であると確信している。(朝日新聞の記者は例外かも知れないが)
朝日新聞は「過疎地の公共事業など無駄だ」というスタイルの記事を書いているが、話は真逆だ。そもそも、公共事業でインフラが整備されていない地域において、企業がビジネスを展開することは有り得ない。人口減少を押しとどめたいのであれば、なおのこと、地域の公共投資にお金を使わなければならないのである。
そもそも、投資とは「将来世代のため」あるいは「将来の利益のため」に実施される。特に、公共投資の場合は現在の世代ではなく、「将来の日本国民」を潤すという色が濃くなる。釜石湾港防波堤は、確かに建設に従事した企業や従業員の所得拡大に貢献した。
とはいえ、そもそもの目的は当時の釜石市民のみならず、「将来の釜石市民」の生命を津波から守ることだったのだ。確かに完全とは言えなかったが、釜石湾港防波堤は建設時から見れば「将来の釜石市民の生命や財産」を守った。これこそが、公共投資の本質だ。
すなわち、朝日新聞に代表される公共投資否定論者たちは、
「将来世代など、どうでもいい。自分が潤えばいい」
と言っているのも同然なのである。言葉を選ばずに書くが、おぞましい考え方だ。
おぞましいと言えば、民主党の「コンクリートから人へ」も同様だ。「コンクリート」とは公共投資であり、「人」とは社会保障支出のことである。民主党の「コンクリートから人へ」は、将来世代のための「コンクリートへの投資」を拒否し、「現在の世代のみが潤う」社会保障を増やすという考え方なのだ。確かに選挙対策としては有効なのかも知れないが、おぞましい考え方であることに変わりはない。
朝日新聞などの公共投資否定論者たちは、日本国の「国家的自殺」を後押しし、国民の生命を危険にさらしている。今回の震災や復興を機に、日本国民が「虚偽」の公共投資悪玉論から脱却することができなければ、我々は将来世代に対する責任を果たせないということになる。
果たして、本当にそれでいいのだろうか。